第3話 星空のダイイング・メッセージ
「ねぇ。皆で、スキー実習に行かない?」
木枯らしの吹き始めた、ある晩秋の日のこと。生徒会役員会議が終わった時、薫がスキー実習参加者募集と書かれたプリントを掲げながら言った。それは二年次の生徒が体育の授業の一環として選択できるもので、その単位を取得した者は翌年度の体育が三カ月間免除されるというシステムとなっていて、受験期の授業を減らしたいという学生に有難がられている。申し込み締め切りは、翌週末と記されていた。
「ああ、それか。オレはやるつもりだけど、良介と梅宮は?」
俺はもう申し込んでいる、と良介が答えると、皆の視線は自然と昌子一人に向けられる。何故か、彼女は返答に困っているようだった。
「わ、私は……その」
「何だよ、もしかしてスキーやったことねぇのか?」
隼人が尋ねると、昌子は身を縮めて小さく頷いた。
「ちょっと……怖いのよね、滑る系は……」
明後日の方向を見ながら、彼女にしては珍しく歯切れの悪い返事をする。薫は、あからさまに悲しげな表情になった。
「そっか……昌子とも一緒に行きたかったけど、怖いならしょうがないね」
眉尻を下げて残念そうに呟いた薫の顔を見て、昌子は恐怖と罪悪感の板挟みに遭った。そして数秒間の自問自答を経て、勇気を振り絞り宣言する。
「いっ……行くわよ、私も! この際、苦手を克服してやるんだから!!」
「本当!? 嬉しい、一緒に頑張ろうね!」
若干手を震わせながらも、ガッツポーズを決めた昌子。薫の顔は明るくなったが、強がっている昌子を見て不安になる良介たち。
「あの、梅宮先輩……無理しない方がいいんじゃないですか?」
「せやで、わいなんてスキーで骨折ったことあるし」
葵と達也は気遣うつもりで言ったが、負けず嫌いの昌子は、それを聞いてますます後には引けなくなった。
「大丈夫よ、ちゃんと初心者クラスに入るから! 単位が取れたら三年になってから楽できるわけだし、やってやろうじゃないの!!」
強張った表情筋で不自然な笑顔を作る昌子を見て、もう止めさせることはできない、これ以上言ったら恥を掻かせてしまうと諦めた後輩たち。良介は呆れたように溜め息を吐き、隼人は苦笑いを浮かべた。
*
スキー実習は、入学試験のある二月半ばの金曜日から日曜日にかけて行われる。会場は毎年、学長の知り合いがオーナーを勤めている長野県内のスキー場となっていた。八ヶ岳の雄大な峰々を臨むその場所は全国的にも名が知られており、上級者コースから初心者コース、クロスカントリーコース、そしてファミリー向けの雪遊びスペースまで設けられている。
また、その地域は温泉も湧き出ていて、二十四時間入浴可能な露天風呂付きの大浴場もホテルの目玉の一つとなっている。良介たちは、早朝に集合して旅行会社所有のバスに乗り込み、そのスキー場へ向かったのだった。
昼前に目的地へ到着すると、そこには期待通りの白銀の雪景色が広がっていた。多くの生徒は、寒さなど気にせず歓喜の声を上げて真っ白な道を駆け出したが、昌子だけは不安げな表情のまま、曇天の下を重い足取りで進んでいる。
ホテルの二階にある宴会場に集められた生徒たちは、クラスごとに分けられて整列した。薫と隼人は上級者クラス、良介は中級者クラス、昌子は初心者クラスの列に加わる。
「えー、鳳凰学園高校の皆さん、ようこそいらっしゃいました! 三日間という短い間ですが、どうぞよろしくお願いいたします。それでは、これから皆さんの指導に当たる、我がスキー場専属のコーチを紹介いたします」
氷(ひ)室(むろ)光(みつ)男(お)と名乗った小太りで頭頂部に髪のない控え目な口調の老人が、どうやらこのスキー場のオーナーらしい。壇上の彼はジャージ姿のコーチたちを横一列に並ばせ、マイクを渡して自己紹介をさせた。
「えー、初心者向けAクラスを担当する、狩野(かのう)瞬(しゅん)です。よろしく!」
百八十センチは優に超える長身で、耳にはイヤリング、鼻の下には少し髭を生やしたスポーツマンらしい出で立ちの青年が挨拶をすると、会場には黄色い声が湧いた。その反応を見て彼がウインクをすると、更に盛り上がる女子たち。しかし、女好きの遊び人にしか見えなかった昌子は、憂鬱な表情のまま小さく溜め息を吐く。
「中級向けKクラスを担当します、狩野美(み)雪(ゆき)です。初心者クラスの、狩野瞬の妻です。よろしくお願いします」
笑顔の瞬とは裏腹に、会場を凍てつかせるには十分なほど冷徹な顔つきの女性が、抑揚のない声で話した。同じく長身で色白の、艶やかなロングヘアが印象的な美人だったが、あまりにも不機嫌そうな様子だったので男子たちから興奮した声が上がることはなかった。
「上級向けRクラスの、氷室光(ひかる)です。そこのおじいちゃんの息子なので、童顔で若く見えると思うんですけど、もう三十代半ばで小さな子供もいます。よろしくお願いします!」
瞬よりも一回り小さく、その言葉の通り一見大学生のような容姿の可愛らしい青年が、最後にマイクを受け取った。案の定女子たちから口々に可愛いと呟かれ、嬉しいような悲しいような、という複雑な表情を見せていた。
二十人ほどのコーチ紹介が終わると、生徒たちは荷物をホテルの部屋に置いてから更衣室へ向かった。スキーウェアに着替える動作すら遅い昌子を見て、薫は申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、昌子……やっぱり、嫌だったよね?」
「あ、違うの、違うのよ! 今日、実はアレになっちゃって……」
責任感を持たせたくない一心で、慌てて彼女は嘘を吐いた。それを信じた薫は、どうやら安堵したようだった。
「そっか、でも無理しないでね」
ええ、と言って、更衣室を出ていく薫を見送る昌子。強がった挙句に嘘まで吐いた自分に嫌気がさして、溜め息がますます重くなる。
しかし、集合時間は容赦なく迫って来る。昌子は仕方なくスキーウェアと手袋、ゴーグルを身に着け、シューズを履き、スキー板とスティックをレンタル器材庫から持ち出して、Aクラスの集合場所へ急いだ。
「よし、全員揃ったな! それじゃあ、まずはスキー板の装着からやってみよう!」
気の重い昌子とは裏腹に、意気揚々と取り仕切る瞬。彼はまず自分で付け外しの手本を見せてから、五人の生徒に真似をさせた。
「ちゃんと、カチッていう音が聞こえたか確かめて……あれ、キミ、なんか暗い顔してるけど大丈夫? もしかして、女の子の日?」
瞬は昌子の顔を見て、揶揄うように言った。その発言に脳の血管が切れそうになったが、何とか怒りを堪えて答える。
「いいえ、大丈夫です」
「そう? じゃあ、ゆっくりでいいから、皆俺の後をついて来て!」
瞬が先頭に立って歩き出すと、生徒たちは親ガモの後を追う子ガモのように、恐る恐る進んでいく。昌子は、最後尾で怯える脚を必死に動かした。
平地を歩く練習を三十分ほど行ってから、休憩を挟んで初心者コースの緩やかな坂を下る練習に入った。斜面を前にして、昌子の鼓動は否応なしに速まっていく。周囲の楽しげな声は、どこか遠くから聞こえているような気がした。
「はい、じゃあ梅宮さん、行ってみようか!」
「は、はい……」
返事はしたものの、体は硬直したまま動かない。すると、徐に瞬が近づいて、スティックを雪に刺してから昌子の腰と腹、そして太腿を当然のように触ってきた。驚きと嫌悪感のあまり、言葉を失う。そんな彼女を他所に、瞬は得意気な顔で指導を始めた。
「落ち着いて、リラックスリラックス! まずは全身の力を抜いてから、腰を落として膝を曲げて、スキー板は真っ直ぐ、平行を保って滑ってみようか。逆八の字にしちゃうと、尻もちつきやすいから気をつけて」
その手はすぐに離れたが、触られた部分には生々しい感触が残り、昌子の心は恐怖と嫌悪で綯い交ぜになる。しかし、突っ立っているとまた触られそうだったので、彼女は自らを奮い立たせ、勇気を振り絞って滑り出した。だが、恐怖心に負けてすぐに尻もちをついてしまう。
「大丈夫? 立てる?」
瞬が優しげな声で手を差し出したが、昌子はそれを無視して、何とか自力で立ち上がった。
「……うん、まぁ、自分で立てるようになった方がいいけどね。よし、もう一回やってみよう!」
面白くなさそうに眉を顰めた瞬だったが、仕切り直しと言わんばかりに手を叩き、Aクラス全員に声を掛けた。
「ねぇ、隼人……やっぱり昌子、無理してるよね」
食堂と休憩所、トイレ、更衣室、レンタル器材庫のあるホテル別館の外で、休憩中の薫と隼人は、ホットコーヒーを飲みながらAクラスで奮闘している昌子の様子を見守っていた。出入口の前には、別館で休憩中の客のスティックとスキー板の置き場があった。
「私、やっぱり無理に誘わない方が良かったかな……?」
「お前は悪くねぇよ、アイツは自分で来るって決めたんだからな。それより……あのコーチ、さっきあいつの体触ったよな。どう思う、あれ」
「私だったら……やっぱり、嫌かな」
「あ、氷室さん。あの人、いつもあんな感じなんすか?」
ちょうど別館から出てきた光に声をかけると、彼は苦虫を嚙み潰したような表情で答えた。
「ああ、そうだね……いつも注意してるんだけど、全然止めてくれないんだよ。親父も、あの人はオリンピックに出られるレベルの選手だったから、って言って全然クビにしてくれないし……」
恐らくそんな瞬のことが嫌いなのだろう、光は眉間に皺を寄せて、怒りと不快感を露わにした。先ほどまで柔和だった彼からは想像できなかった様子に、少し怯える薫。
「一応、今日も注意しておくよ。教えてくれてありがとう」
生徒を怖がらせたことに気づき、すぐ笑顔に戻った光。しかし、隼人はまだ険しい目つきで瞬と昌子を見つめていた。
*
初日の練習は三時間ほどで終了し、スキーウェアから学校指定のジャージに着替えた生徒たちは再び宴会場に集まった。夕食はバイキング形式となっていて、空腹に耐え兼ねた彼らの嬉しそうな声でその空間は大いに賑わった。
テーブルはクラスごとに用意されていたので、昌子は仕方なく瞬のいる場所から最も遠い椅子に腰を下ろした。そんな彼女の心中など知る由もなく、相変わらず無遠慮に声をかける瞬。
「梅宮さん、食欲ないの? ご飯少なくない? ほうれん草のソテー、大盛りで取って来てあげようか」
卑しい笑みを浮かべながら言った瞬を睨みつけ、黙らせる昌子。しかし、彼はヒュウと口笛を吹いただけで軽くかわしてしまった。募る苛立ちをぶつけるように彼女は大口を開け、勢いよく料理を詰め込む。
食べ物の味が今一つわからないまま次々と飲み込んでいく昌子だったが、視界の隅で、複数の女子に囲まれている隼人の姿が映った。彼女たちは、可愛らしいデザインの小さな袋を、緊張の面持ちで彼に渡している。
そういえばバレンタインが近いんだった、アイツって意外とモテるんだなと思いながら、彼女はレタスとトマトを頬張った。
しかし、その様子を見ていたらなぜか苛立ってきたので、会長の方はどうだろう、と思い彼の居場所を探す。毎年大量のチョコレートを贈りつけられて辟易している彼のことだ、きっと今も同じ目に遭っているだろうという昌子の予想は大きく外れ、彼はただ静かに食事をとっていた。
理由は明白だった。そのすぐ傍で、薫が彼に話しかけていたのだ。頬をほのかに赤らめる姿はまさに恋する乙女そのもので、そんな彼女を押しのけてでもチョコレートを渡そうと勇む者はどうやら一人もいないらしい。
再び隼人の方に目を遣ると、彼は困ったような顔をして、幾つかの袋を受け取っていた。それは照れ隠しではなく、本当に途方に暮れているように見えた。
「何、梅宮さん、あのロン毛クンのコト好きなワケ?」
懲りずに話しかける瞬だったが、昌子は返事をせずに立ち上がり、食器を返却して足早に部屋へ戻っていった。
*
「あれ、昌子、どこ行くの?」
「ちょっと、飲み物買って来るわね」
緊張とストレスで疲れ切った彼女は早々に布団に潜り込んでいたが、日付が変わる前にふと目が覚めた。同じ部屋の女子たちは、そんな時間になってもまだ恋愛の話で盛り上がっている。
売店は既に閉まっているので、昌子はエレベーターホールにある自販機を目指した。財布を取り出し、小銭を入れる。その時、彼女は傍らの階段から言い争いの声が響いてくることに気づいた。耳を澄ませると、それは瞬と光のものだった。
「だから、今日も初級クラスの女の子の体を触ったでしょう!? 僕のクラスの生徒が証言してるんです、いい加減にしてください!!」
「あれはね、指導のために必要だからやったんだよ! 言い掛かりもいいところだ」
「指導のためだったらどこを触ってもいいってことですか? 腰もお腹も太腿も、触る必要なんかないし女子にとってはとてもデリケートなところです!!」
「っせぇな……親父が自分より俺のこと気に入ってて跡継ぎ任されそうだからって、八つ当たりしてくんじゃねぇよ」
「それとこれとは話が違います!!」
「まぁいい、俺を追い出したきゃ追い出せよ。その代わり、お前の親父に心底失望されるだろうけどな?」
タバコ吸って来るわ、と言って瞬は強制的に会話を打ち切り、その場から離れていったようだ。光も、それ以上言葉を発することはなかった。
「……誰かが、氷室先生に言ってくれたんだわ……」
独り言を呟いて自販機からペットボトルを取り、ふと窓の外を見ると、大きなもみの木の下で誰かが一人で立っている姿があった。そこにいたのは、隼人だった。こんな時間に一人で何してるのかしら、と思った彼女は、更衣室でスキーウェアを着て彼のもとへ足を運んだ。
「何してるの、霧崎」
「……何だ、梅宮か。驚かせんじゃねぇよ」
振り返り、白い息を吐いていたずらっぽく笑う隼人。彼は、両手をポケットに入れて空を仰いでいた。
「星見てたんだよ。冬は空気が澄んでるし、山の上は灯りが少ないからよく見えるんだぜ」
彼に言われてから、彼女はようやく空を見上げた。そこには、都会では到底拝むことのできない満天の星空があった。幾千、幾万ものダイヤモンドの粒のような小さな光と光の隙間を、一筋の閃光が矢のように駆け抜ける。
「ホントだ。キレイ……」
あまりの美しさに、思わず溜め息を零してしまう。遥かなる宇宙を思わせるその光景を前にすると、今日あった嫌な出来事など、一瞬で忘れてしまいそうだった。
「だろ? しかも、冬の大三角形も完璧に見えるぜ」
「冬の大三角形?」
オウム返しに尋ねると、隼人は天を指さした。
「オリオン座のべテルギウス、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオンを結んでできる三角形だよ……って、説明されてもわかんねぇか」
残念そうに言ったが、彼はとても楽しそうに語っていた。
「オリオン座はわかるだろ? あれはさ、ギリシャ神話の狩人、オリオンがモデルなんだよ。蠍に刺されて死んでるからさ、オリオンは星座になっても蠍から逃げ回ってんだぜ」
「……それ、どういうこと?」
「蠍座が東の地平線から昇って来ると、オリオン座が西の地平線に沈むんだよ。余程怖かったんだろうな」
隼人が笑うと、つられて昌子も頬を緩ませる。
「アンタって、星好きだったのね。何か、意外だわ」
「別にいいだろ、失礼な奴だな」
「ところで、どうしてそんなに星に詳しいの?」
隼人の横顔を見ながら聞くと、彼は少し間を置いてから答えた。
「……オレさ、宇宙飛行士になりてぇんだよ」
「う、宇宙飛行士!?」
予想だにしなかった返答を聞いて、昌子は素直に驚いた。その反応を見て、わかりやすく臍を曲げる隼人。
「んだよ、わりぃかよ」
「いや、別に悪くなんかないけど……どうして?」
「……親父がさ、アウトドア好きだからよくキャンプとかスキーに連れてってくれたんだよ。そういうとこの夜空ってさ、星が見えてめちゃくちゃキレイだろ? 思わず夢中になって眺めてるうちに、宇宙に対する興味も湧いてきちまってさ……気づいたら、宇宙飛行士になりたいって思ってたんだよ」
「へぇ、そうなの……」
知り合って数年経つのに彼の夢を初めて聞いた昌子は、照れ臭そうに語るその輝く瞳を見て、羨ましく思えた。
「いいわね、夢がある人は。私なんか、まだ何にも考えてない……」
「いいじゃねぇか、別に。これから見つければ」
「見つけられれば、ね……」
昌子が自虐するように呟くと、返答に困ったのか、隼人は口を噤んでしまった。
「……あ、そういえばアンタ、夕食の時モテモテだったわね。あんなにチョコもらうなんて、初めてだったんじゃない?」
慌てて話題を変えたが、予想に反して表情を曇らせる隼人。
「ああ、お前、見てたのか……オレいらねぇからさ、食べてくんねぇ?」
「はぁ……!?」
再び驚かされ、絶句する昌子。
「それはいいけど、いやよくはないけど……あんた、嬉しくなかったの!?」
「よく考えてみろよ、お前だってどーでもいい奴から告られても嬉しくねぇだろ?」
「それはそうだけど、男子って普通チョコもらえたら喜ぶものじゃない!?」
「うるせぇな、いいだろ別に」
わざとらしく大きな溜め息を吐き、再び星空を見上げる隼人。
「え、じゃあ……彼女欲しいとかも思わないわけ?」
昌子は恐る恐る尋ねたが、隼人は即答した。
「思わねぇな。だって、面倒臭ぇじゃん? 髪切ったとかメイク変えたとか、そういうことにいちいち気づいて褒めなくちゃなんねぇし、事あるごとに好きだの愛してるだの言わなくちゃなんねぇし」
「そ、そんなのただの偏見じゃない……」
「オレはただ、一般論を言ってるだけだぜ?」
確かに、多くの女性は自らの変化に気づいて欲しいもので、褒めて欲しいとも思っているだろう。そして、愛の言葉を度々言ってもらえないと不安になるという声も多々あることは彼女も承知している。
「それにしたって……あんた、年頃の男子らしくないわね」
余計なお世話だっつーの、と隼人は唇を尖らせたが、その言葉は何者かの発言によって掻き消された。
「ホント、モテんのに勿体ねぇよなぁ! そういうの、宝の持ち腐れって言うんだよ。ロン毛クン?」
雪を踏み締めながら現れたのは、瞬だった。その声を聞いた途端に身構え、睨みつける昌子。しかし、瞬は全く臆していないようだった。
「二人とも、今何時だと思ってんの? 明日もあるんだし、早く部屋に戻って寝なさいよ」
「……はい」
隼人も瞬のことが気に食わないのか、普段より低い声で応じる。昌子も彼に倣ってホテルに戻ろうとしたが、不意に腕を掴まれた。叫ぼうとしたが、その前に口を塞がれる。
「キミは、自分の部屋じゃなくてボクのところに来なさい。来なかったら、単位はあげないからね……?」
必死に藻掻いて抵抗する昌子の耳元で、興奮気味に囁く瞬。虫酸の走るその発言に身の危険を感じ、彼女は彼の体を後ろに押してわざと倒れ、拘束が解かれた瞬間に逃げ出した。
「おい、待てコラ!!」
瞬はすぐさま立ち上がり追いかけようとしたが、顔面に強い衝撃を食らって再び雪の中に倒れ込んだ。隼人が彼を殴ったのだ。
「いい加減にしやがれこのセクハラ野郎!! これ以上コイツに手ぇ出したらブッ殺すぞ!?」
凄まじい剣幕で叫ぶ隼人に恐れ戦いたのか、瞬は彼に逆らおうとせず、身を震わせながら走ってホテルへ戻っていった。隼人は深呼吸をしてから落ち着きを取り戻し、背後で泣き出しそうになっている昌子のもとへ駆け寄る。
「大丈夫か、梅宮! 悪かった、もっと早く気づいてやれば……」
隼人が言い終わる前に昌子は彼の胸に飛び込み、大声で泣き叫んだ。彼女の背中を擦り、優しい言葉をかけ続ける隼人。そんな彼らを見守るように、オリオン座は静かに輝き続けていた。
ロビーのソファーに腰掛けてからも、昌子はしばらく泣き続けていた。彼女が落ちつくまで、三十分ほどかかっただろうか。その間、隼人はずっと彼女の傍に居続けていた。
「……もう大丈夫か?」
隼人が聞くと、こくり、と小さく頷いた昌子。彼女は、赤くなった目を彼に向けて尋ねた。
「ねぇ。もしかして、光先生にセクハラのこと言ってくれたのも、アンタだったの……?」
「……まぁ、たまたま見かけたからな」
いつも通りの笑顔につられて、昌子も思わず破顔する。
「梅宮。明日の朝、セクハラ被害で警察に通報しようぜ。大丈夫だ、俺が証人になってやるから」
穏やかな眼差しで見つめ、昌子の肩に軽く触れる。それからすぐに、じゃあなと言って立ち上がった。
「あっ……ねぇ、待って、霧崎!!」
無意識のうちに、彼女は叫んでいた。驚いて、振り返る隼人。
「どうした? あんま大きな声出すなよ」
「あ、えっと……」
頬を赤らめ、目を逸らす昌子。
私、今、何て言おうとした?
「……さっきは、ありがとう」
「おう……」
不思議そうな顔をして、廊下の角を曲がる隼人。昌子は、しばらくその場で立ち尽くしていた。
行かないで、傍にいて。ついそう言ってしまいそうになったのは、なぜ――?
「……どうしちゃったのかしら、私……」
独り言を零してから、部屋へ戻ろうとする昌子。しかし、彼女はすぐにそれを躊躇った。もしかしたら、まだ誰か起きているかもしれない。特に、薫にだけはこの顔を見られたくなかった。
どうしよう、としばらく悩んでいたが、ふと大浴場が二十四時間開いていることを思い出し、心を落ち着かせるためにも行った方がいいかもしれないと考え、彼女は足早にそこへ向かった。
大浴場の脱衣場に入ると、そこには風呂上りの美雪の姿があった。まだ不機嫌そうな顔をしていて、昌子を無視してそのままトイレに入っていった。
感じ悪いな、あの先生。そう思いながら、彼女はレンタル用のバスタオルを手に取り、大浴場に入った。
彼女が脱衣場に戻ったのは、午前二時になる頃だった。体を拭き、髪を乾かして服を着ようとしたその時、彼女は更なるトラブルに見舞われた。
「うそ、なんで……!?」
籠の中に入れたはずのジャージが、なぜか無くなっていたのだ。下着とスマートフォンの方が盗まれそうなものなのに、それらはそのまま残っている。
わけがわからず、しばらく呆然と立ち尽くす昌子。くしゃみをしてから我に返り、仕方なくレンタル用の浴衣を着て、彼女はようやく部屋へ戻っていった。
「おはようございます。起きてますか、皆さん」
ストレスのあまり、昌子は碌に眠ることができないまま朝を迎えた。美雪のノックにいち早く反応し、起き上がって電気を点け、ドアを開ける。
「おはようございます……」
寝ぼけ眼で気のない挨拶をすると、美雪の機嫌を損ねてしまったのか、彼女は眉間に皺を寄せた。口を開け、何か言おうとしたようだが、それは廊下の奥から駆けつけてきた光によって遮られる。
「大変です、美雪さん!! 瞬さんが見当たらなくて、連絡も取れないんです!」
「何ですって……!?」
それから、ホテルのスタッフとコーチたちは総出で捜し回った。そして約一時間後、瞬は遺体として発見された。彼は別館の出入り口前で倒れていて、両目と左胸に突き刺された痕があり、傍らには先端に血のついたスキーのスティックが落ちていた。
*
「死亡推定時刻は本日の午前0時から2時の間、死因は両目と心臓からの出血多量。顔面を殴られた痕もありましたが、凶器は言うまでもなくスキーのスティック。別館出入口前の器材置き場に放置されていたものです。先端にこびりついていた血液のⅮNAが、彼のものと一致いたしました」
ホテルに駆けつけた所轄の警部が、氷室光男とコーチたちを宴会場に集めて説明した。立派な髭と肥えた体からサンタクロースを連想したくなる佇まいの警部だったが、その眼力と声色には、それとは正反対の凄みがあった。
「凶器から指紋は検出されておらず、現場から手掛かりになるものも見つかりませんでした。皆さん、加害者やその動機に心当たりはありませんかな」
「わかりません、一体誰がこんなことをしたのか……彼は、怪我で出場が叶わなかったものの、オリンピックの有望選手だったこともある優秀な人物なのに」
光男が肩を落として発言したが、警部はそれを無視して話を進めた。
「ところで、一つ気になることがありまして。氷室光さん、アナタ、昨晩0時過ぎにホテル二階の廊下で被害者と口論をしていたようですな。監視カメラの映像を見る限りだと、よほど激しい言い争いだったようですが……」
警部に名指しされ、蛇に睨まれた蛙のように縮こまる光。
「ぼ、僕は……彼に、生徒へのセクハラを止めて欲しいと言っただけです」
「なるほど。しかし、本当にそれだけだったんですかな? お願いしているというよりは、喧嘩をしているように見えたのですが……」
「それは……彼が、僕の注意を聞き入れてくれなかったから……」
「警部さん。私、喫煙所に行く途中で、二人の会話を少し聞いてました。光くんが瞬に対してかなり怒っていたのは間違いありません」
唐突に、美雪が手を挙げて淡々と証言する。
「あと、瞬が……夫が言っていました。光男さんが光くんより自分のことを気に入っていて、跡継ぎを任されそうだからって八つ当たりするな、と」
「ほう。それは本当のことなんですかな、光男さん」
警察手帳にペンを走らせながら、警部は光男に射るような視線を送った。
「跡継ぎは、もちろん倅にと思っておりますが……輝かしい経歴の持ち主でしたから、手放したくないと思っていたことは認めます」
「だからって、セクハラを黙認すんじゃねーよ……」
父親を軽蔑するような目つきで睨み、毒づく光。光男は、ただただ戸惑うばかりだった。
「美雪さんも、そこまで聞いてたなら止めてくださいよ!」
「ごめん。止めようと思ったけど、その前に瞬が外に行っちゃったから」
無表情のまま謝る彼女の姿から、悪びれる様子は全く感じられない。光は歯を食いしばり、拳を強く握った。
「狩野美雪さん。アナタも、死亡推定時刻に起きて部屋の外に出たということですね。その後は、何をされていたのですかな?」
警部の鋭い眼光に晒されても、美雪は一切動ずることなく答えた。
「私は二人の喧嘩の声で目が覚めて、それから喫煙所に行って、そのあと煙草の臭いを落とそうと思って大浴場へ行きました。最近は嫌がる子が多いから」
「なるほど、そうですか」
小刻みに頷きながら、メモを取る警部。
「ところで、被害者がスキー実習の生徒にセクハラをしたというのは本当なんですかな。どなたか、光さん以外に証人はおりませんか」
「オレたちが証言します!!」
警部が問いかけると、ここぞとばかりに隼人と昌子がその場に現れた。彼らは昨晩の瞬と光の諍いから、光が真っ先に疑われることを予測した上で宴会場の扉の外でずっと待っていたのだ。その背後から、良介と薫も加わった。
「Aクラスの、梅宮です。私、昨日、狩野さんに腰とお腹と、太腿を触られました。それを彼が……霧崎君が見ていて、氷室先生に伝えてくれたんです」
「Rクラスの百合川です。私も一緒に見ていました。間違いありません」
「君たち……」
肩身の狭い思いをしていた光が、嬉し涙を滲ませて呟く。
「なるほど。セクハラ被害があったことは確かなようですな。ところで……君にも聞きたいことがあるんだが、よろしいかな」
「は、はい。何でしょうか」
警部にじろりと睨まれ、たじろぎながらも答える昌子。
「監視カメラの映像を見たところ、どうやら君も0時過ぎに部屋から出ているようだね。自動販売機で飲み物を買って、その後は外へ出たのかな?」
「はい……」
「何のために?」
「ゆ……友人が外にいたので、どうしたのかなと思って」
「その友人というのは?」
「えっと……」
「オレです。天体観測のために外に出ていました」
緊張で指先と唇が震え始めた昌子を庇うように、一歩前に出て名乗り出る隼人。
「フム。確かに、君の姿も監視カメラに写っていたね。その後、被害者も外へ出たようだが、彼には会わなかったのかな?」
「いいえ、会いませんでした」
堂々と嘘を吐いた隼人に仰天し、目を剥く昌子。恐らく、彼はあの場に監視カメラがないことを確認していたのだろう。そうでなければ、すぐ判明する嘘を吐くのはあまりにも危険過ぎる。
「そうか。で、君はすぐ自分の寝床に戻ったが、彼女は部屋に入らず大浴場へ行っていたね」
「は、はい……」
「実はね、問題はここからなのだよ。大浴場に入ってから少し経った後、君は一回廊下へ出て、再び外へ行った。そしてまた大浴場へ戻って、それからやっと部屋へ行って眠りについたようじゃないか。あまりにも不自然な行動だが、一体どういうことなのかな?」
「えっ……!?」
全く身に覚えのないことを言われ、愕然とする昌子。どういうことなのかなんて、彼女が聞きたいぐらいだった。
「私、そんなことしてません!! 部屋に帰るまで廊下になんか出てません!!」
「しかし、監視カメラの映像にはしっかり君の姿が写っているのだよ。髪型は長いポニーテールで、学校指定の紺色のジャージも着ていたから間違いない。それに、君にはあるじゃないか。被害者を殺害する動機が」
「そんな……」
「警部さん、動機だけで疑うのは止めてください。第一、まだ証拠がないじゃないですか」
黙って話を聞いていた良介が、漸く口を挟んだ。しかし、警部は怯まない。
「そう、証拠は何一つない。だが、もし君のジャージに被害者を殺害した際の返り血がついていたら、決定的ですな」
「返り血……!?」
「梅宮さん、と言ったかな? あなたのジャージを我々に渡してくれませんかな。それと、警察署にも来てもらいましょう。もちろん、断れば君の分が悪くなるのはわかっているね?」
「昌子……」
青ざめた彼女を、不安げに見つめる薫。
その時、昌子はようやく合点がいった。ジャージが盗まれたのは、犯人が昌子になりすますため。そしてジャージが行方不明なままなのは、犯人の指紋や頭髪、そして被害者の血痕が付着し、処分せざるを得なくなったからだ。
また、昌子のジャージを着たまま狩野瞬を殺害し、彼女にその罪を着せた人間が誰なのかもわかった。だが、それを言ったところで到底信じてもらえるとは思えない。しかも、今ジャージを提供できなければ、ますます疑われることになるのは明白――彼女の退路は、完全に断たれていた。
「警部! 被害者の左掌に、こんなものが……」
余りのことに昌子が倒れそうになったその時、鑑識課の一人が彼のもとへ駆け寄って来た。デジカメの画像を見せられ、大きく目を見開いてそれを凝視する警部。
「これは……いわゆる、ダイイングメッセージというものかもしれませんな。皆さん、この斑点に何か心当たりはありませんかな?」
画面には、指先で複数の血の斑点をつけた瞬の左手が映っていた。光男とコーチたちは全員首を傾げていたが、隼人だけはすぐにそれが何かを察知した。
「オリオン座……」
「ああ、オリオン座だな」
良介も続いて言うと、警部は改めて画面を見つめ、ふむ、と鼻を鳴らした。
「言われてみれば、確かにオリオン座のように見えますな。しかし、その意味がわからなければどうしようもありませんな」
髭を弄り続けて画面を見つめる警部、押し黙るスタッフたち。そんな中、良介が突然身を乗り出して全員の顔を見渡しながら言った。
「すみませんが、皆さんの誕生日を教えて頂けませんか」
「た、誕生日!?」
素っ頓狂な声を上げた光を皮切りに、戸惑い始める面々。しかし、良介は構わず繰り返した。
「年は結構ですので、何月何日かだけ教えてください。勿論、黙秘しても構いませんが……今は、正直に発言された方が皆さんの為かと」
腕を組み、敢えて挑発するように促す良介。少々躊躇いながらも、渋々と彼らは答え始めた。
「私は一月七日です」と光男。
「私は十月二十九日」と美雪。
「僕は五月十三日です」と光。
「わかりました、ありがとうございます」
警部と同じように、生徒手帳に記録する良介。彼の真意がわからず、スタッフたちはまだ混乱しているようだった。
「良介くん、どうしてそんなこと……」
皆の疑問を口にしたのは、薫だった。良介は、任せておけと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべる。
「警部さん、犯人がわかりました。被害者を殺したのは、梅宮ではありません」
「何だって……!?」
その場にいた全員が、一斉に良介の顔を見る。しかし、彼の威勢は崩れない。
「犯人は……美雪さん、あなたです」
良介に視線を向けられ、一瞬だけ目を見開く美雪。だが、彼女は狼狽えない。それどころか、挑発的に睨み返してきた。
「あら。どうしてそう思うの、探偵さん」
「ダイイングメッセージですよ。オリオン座は、蠍座が東から昇って来ると同時に西に沈むというのはご存知ですか? つまり、瞬さんは自身をオリオン座に見立て、自分は蠍座に殺されたと伝えたかったのだと思われます」
「そっか、十月二十九日は蠍座だから……!」
傍らの薫が気づき、良介が頷く。
「そう。つまり、蠍座であるあなたに殺されたということです」
ざわめく宴会場。しかし、美雪はまだ強気のままだ。
「面白い推理ね。でも、もしダイイングメッセージを残したのが瞬じゃなくて犯人だったとしたら、私に罪を着せるために血でオリオン座を描いたということも考えられると思うけど?」
良介も、負けじと対抗する。
「確かにそうかもしれません。ですが……大浴場に入った梅宮のジャージを着て彼女になりすますことができるのは、あなただけなんですよ」
ぴく、と僅かに美雪の眉が動いた。
「確か、あなたも昨夜喫煙してから大浴場に入ったと証言しましたよね。梅宮、大浴場で美雪さんと会っただろう?」
「え……ええ、脱衣場で、少しだけ。美雪さんはちょうどお風呂から上がったところで、私を見てからすぐトイレに行っちゃったわ」
まだ緊張が解けておらず、しどろもどろに答える昌子。
「そう。あなたはトイレに入って梅宮が大浴場に行くのを待ち、ジャージを着て、髪型まで模倣して梅宮になりすました。その長い髪を束ねれば、梅宮の外見を真似ることは造作もないことだったでしょう」
「…………」
言い返せなくなり、黙り込む美雪。
「監視カメラの映像によれば、被害者の死亡推定時刻に大浴場に出入りしたのはあなたと梅宮だけだった。そして、梅宮は直接被害者の部屋に行かない限り深夜に外へ呼び出す術を持たないが、妻であるあなたは電話をすればいいだけ……そう考えれば、必然とあなた以外考えられなくなるんですよ」
「…………」
「ところで、どこに隠したんですか? 被害者の血痕と、あなたの指紋や頭髪が付着した梅宮のジャージを。まぁ、妙な動きをすると監視カメラに写ってしまいますから、まだ自分の部屋に置いていると思いますが」
「……美雪さん。あなたの部屋と、携帯電話の着信履歴を拝見してもよろしいですかな?」
俯いた美雪の顔を覗き込んで、警部が尋ねる。その時、美雪は狂ったように笑い出し、宴会場から飛び出した。
「しまった!!」
体の重い警部を置いて、真っ先に駆け出す良介と隼人。
「待ってください、美雪さんっ!!」
甲高い声で笑いながら、階段から飛び降りようとした美雪。寸でのところで良介がその腕を掴んだが、彼もそのまま転落してしまった。
「良介ッ!!」
隼人の叫びが響く。下のロビーに集っていた人々も悲鳴を上げ、パニックに陥った。
「良介、良介っ! 大丈夫か、しっかりしろ!!」
階段を駆け下り、良介の肩を揺らす。彼はすぐ隼人の声に反応したが、激痛に顔を歪ませていた。
「警部さん、救急車を呼んでください! 早く!!」
「あ、ああ!」
鬼気迫る表情の隼人に気圧され、素直に従う警部。追いついた薫と昌子も、悲惨な光景を目の当たりにして悲鳴を上げた。
良介と美雪は、救急車で最寄りの病院まで運ばれた。良介は全身打撲と左腕の骨折でそのまま入院することになった。
美雪は、数日後に病室で息を引き取った。昌子のジャージは、彼女の部屋のクローゼットから発見された。良介の推理通り、それには確かに被害者の血痕と美雪の指紋が付着していた。
*
河津桜が満開になった。病院の庭の一角を彩っているそれはまるで春の訪れを告げているようで、寝間着姿の少年は嬉しそうに駆け回り、車椅子に座っている老人は花を見ながら穏やかに微笑んでいた。休憩中の看護師たちも、写真撮影に夢中になっている。
その奥に佇むソメイヨシノの枝は、まだ蕾を僅かに膨らませているだけ。あの木の花が咲く頃には、完治しているだろうか――数学の問題集から窓の外へ視線を向けた良介は、ふとそんなことを考えていた。
長野の病院で手術を受けた後、良介は地元の病院へ移っていた。怪我は順調に回復していて、リハビリも根気よく受け続けている。
しばらく外の景色を眺めていると、病室の扉がノックされ、誰かが入ってきた。振り返ると、そこには制服姿の隼人が立っていた。どうやら、学校帰りに寄って来たらしい。
「よう。どうだ、調子は?」
「ああ、大丈夫だ。心配かけたな」
缶コーヒーをテーブルに置いて、傍らの椅子に腰かける隼人。
「本当だよ。あの時、お前まで死んじまったらどうしようって……本気で、思ったんだからな」
「……悪かった」
「……飲むか? コレ」
ああ、と良介が答えると、隼人はプルタブを引き、缶コーヒーを開けてやった。彼も、自分用に買ってきたものを飲む。
「そういえば、あの人……なんで、旦那さんを殺したんだろうな。結局、動機は聞けずじまいだったな」
「……他の女性に対するセクハラを、浮気と捉えていたんだろう。両目まで突き刺していたのは、自分以外の女性の姿を映す目さえも憎かったからじゃないか」
「なるほどな……」
「……ところで、今日は治療のついでか?」
確かここはお前のかかりつけの病院だっただろう、と付け加える良介。
「そうだけど、ついでじゃねぇよ! 安心しろ、今日はちゃんとお前の見舞いのために来てっからよ」
「そうか……だが、いつまでも親に黙って通院するわけにはいかないだろう。どうするつもりなんだ、これから」
「……まだ、考え中」
簡単に解決できることじゃねぇからな。そう言った隼人の声は、いつになく弱気で、悲しげなものだった。
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