第4話 眠れる森の指揮者
春爛漫、とはまさに今日のような日のことを言うのだろう。満開になったソメイヨシノの並木道の下で、日の光を浴びながら、入院患者たちが歓喜の声を上げている。
彼――真田良介は、明日ようやく退院することになった。リハビリの甲斐あって、既にヴァイオリンの演奏も許されている。しかし、流石に病室で弾くわけにはいかないので、彼は瞼を閉じ、愛器を構えるポーズをとって右腕と左手の指を動かしていた。
「イメージトレーニングか?」
「……剣持先輩!」
目を開くと、そこには前生徒会長・剣持学の姿があった。彼と話すのは、およそ半年ぶりだ。傍らの椅子を勧めると、彼は遠慮なくそれに腰掛けた。
「ご無沙汰しています。……どうされたんですか、その怪我は」
「ああ、これか。……君にはまだ、話していなかったから驚くかもしれないが」
眼帯をした左目の周囲の痣に手を添え、他に誰もいないことを確認してから、彼は衝撃の事実を告白した。
「これは、父親に殴られた痕だよ」
「えっ……」
笑顔で言われ、一層困惑する良介。しかし、学は何事もなかったかのように続ける。
「いわゆる、家庭内暴力というやつだ。僕は、成績が少しでも下がると殴られるというプレッシャーの中で学校生活を送ってきた。だが、先日の受験でしくじってしまってね……遂に、目立つところに食らってしまったというわけだ」
「そんな……暴力は犯罪ですよ、通報はしないんですか!? お父さんに殴られたという証拠は!?」
「証拠、か。探偵業が板についてきているな、真田」
乾いた笑いを零してから、彼は続けた。
「僕はすぐに通報すべきだと、母に何度も言っているよ。しかし、どうしても許してもらえないんだ。本当はいい人だから、成績さえ良ければあの人は普通の人だからと言い続けて、僕の意見なんてまるで聞き入れてもらえない。目の手術をする時だって、不良に絡まれて殴られたんだと自ら嘘を吐いた。……きっと、自分が人生の伴侶として選んだ相手のことを、誰にも否定されたくないんだろうな。自分自身も含めて」
「………」
窓の外を遠い目で眺めながら、学は力なく言った。
「その……大丈夫なんですか、目の方は」
遠慮がちに尋ねると、彼は再び作り笑いをする。
「まぁ、何とかね。腕のいい外科医に担当してもらえたみたいで助かったよ」
「そうですか……」
良介が言うと、数秒の沈黙が流れた。人々の楽しげな声が、外から響いてくる。風は穏やかで、桜吹雪も美しい。
「真田。僕は、君が羨ましいよ」
「……何故ですか」
「何故って、君には勉強だけでなく、ヴァイオリンと探偵業という二つの武器を持っているじゃないか。だが、僕には勉強しかない。とにかく、来年こそは第一志望に受かって、父に認めてもらうしかないんだ」
「…………」
言葉に詰まる良介。それを察し、立ち上がる学。
「すまなかったね、見舞いの品もなしに尋ねてきて。実は、僕も今日までここに入院していたんだ。これから帰宅するよ。君は?」
「……俺は、明日です」
「そうか。まぁ、退院後も気をつけて演奏するんだぞ」
じゃあ、と言って学は去っていった。
彼の笑顔を見たのは、それが最後だった。
*
校内は、既に散ってしまった桜の花びらで薄紅色に染まっていた。春休みが明け、三年生として気持ちを新たに登校する日、クラス分け表の前はいつになく賑わっていた。
「昌子、おはよう! 今日から同じクラスだね、よろしくね」
「そうね、よろしく!」
頷き合い、新しい教室に足を踏み入れる。
「あー、もう三年生なんて信じらんない! 受験のことなんて考えたくないわー」
空いている席に鞄を置き、座ってすぐ溜め息を吐いた昌子。
「でも、薫は受験するんじゃなくてバレエの国際コンクールに参加するのよね?」
「うん、そう。一月末から二月にかけてが本番だから、似たような時期だね」
答えながら、薫もすぐ隣に着席する。
「ねぇ、聞いた? 剣持先輩、大学落ちちゃったから浪人するんだって!」
手招きをして、薫の耳元で囁く昌子。
「えっ? 誰だっけ、剣持さんって」
「ああ、薫は話したことなかったかしら。前の生徒会長で、超エリート一家の一人息子だからプレッシャー半端ないって言ってたわ。大丈夫かしらね、剣持先輩……」
そう言いながら、窓の外で舞い散る桜の花弁を見つめる昌子を見て、これは話題を変えなければと察した薫。
「ねぇ、明日の入学式の後、ホールでオーケストラ部の公開練習があるの。一緒に見に行かない? 良介くんも復帰したみたいだし、今度、うちのバレエ団と共演することになったから聴いてみたいんだ」
「そうなの? じゃあ、行きましょ!」
笑顔を見せ合って約束をしたその時、始業を告げるチャイムが鳴った。
*
翌日、各部活動の勧誘活動をくぐり抜けて、昌子と薫はホールを訪れた。座席には、新入生らしき学生たちの姿。舞台の上では既にオーケストラ部が個人練習を始めていて、数多の管楽器、そして弦楽器の音色が重なり、響き渡っている。
「素敵。私ね、オーケストラの本番前の練習の音が大好きなの」
彼らを眺めながら、うっとりした表情で薫は話し始めた。
「あら、どうして?」
「音はバラバラだけど、ああ、いよいよ本番が始まるんだっていう気持ちになれるから。バレエの上演前もね、こんな感じでオーケストラが練習してるの」
「ああ、なるほどね」
ここにしよう、と薫が言って、二人はちょうど中央の席に着いた。
「ところで、どうして薫のバレエ団とうちのオケ部が共演することになったの?」
「あのね、団長と校長先生が鳳凰の卒業生で旧友なんだって。オケ部にとってもいい練習になるだろうから是非、っていう話になったらしいよ」
「へぇ、そうなの」
「あ、いた。良介くん」
「え、どこどこ?」
「ほら、あそこ。左側の一番手前の、最前列の席」
嬉しそうに微笑んで、薫はその場所を指さした。そこには、真剣な表情で楽譜を見つめ、ヴァイオリンを弾く良介の姿があった。左腕は完治したらしく、怪我をしていたとは思えないほど見事に弾きこなしている。
「あの席はね、コンサートマスターっていう、オーケストラを率いるリーダー的存在が座るところなの。つまり、ヴァイオリニストの中で一番上手くて、頼られてるってこと。指揮者の次に責任がある、重要な役割なんだよ」
「へぇ、そうなの……」
オーケストラやクラシック音楽に疎い昌子は、感心しながら薫の解説を聞いていた。生徒会長としての彼しか知らない彼女は、まるで別人を見ているかのような、不思議で新鮮な気持ちになった。
「皆さん、そろそろ始めましょう!」
眼鏡を掛けた長い黒髪の女子生徒が、手を叩いて言い放つ。そして、徐々に鳴り止んでいくオーケストラの音。彼女は指揮台に置かれたマイクを手に取り、観客の方へ向いて軽く会釈した。
「皆さん、こんにちは。この度はオーケストラ部の公開練習へお越し頂き、誠にありがとうございます。部長の白(しら)鳥(とり)姫(ひめ)子(こ)です。よろしくお願いいたします」
再度頭を下げると、観客席から疎らな拍手が送られた。
「私たちは、毎週月・水・金曜日の午後4時からこのホールで合奏練習を行っています。火・木・土曜日は、練習室にて個人練習やパート練習をしています。興味を持って頂けましたら、ぜひ入部をご検討ください。初心者の方も大歓迎です! では、茨(いばら)田(だ)森(しん)二(じ)郎(ろう)先生、よろしくお願いします」
彼女がマイクを元に戻すと、舞台袖から指揮者らしき中年の男が現れた。パーマをかけた少し長い髪に丸眼鏡、肥えた腹を覆うTシャツにはベートーヴェンの肖像画がプリントされていて、口元は髭で覆われている。嫌なことでもあったのか、何故か不機嫌そうに顔を顰めていた。
「あー……じゃあ、練習を始める。今日は何だ? 白鳥」
「あっ、はい、第一幕第六曲のワルツです」
一瞬肩を強張らせ、眉を八の字にする姫子。その様子を見て、きっとその指揮者とはうまくいっていないのだろうと誰もが思った。
「そういえば、演目って何なの?」
ふと疑問に思い、小声で傍らの薫に尋ねる昌子。
「眠れる森の美女だよ。結構メジャーな演目なの」
「ああ、あの百年眠り続けるお姫様の話ね?」
「そうそう。もちろん、全部の曲をやるんじゃなくて、抜粋してやるんだけどね。ワルツは一番有名で華やかな曲だから、聴いてるだけでも楽しいと思う」
薫が説明し終わった直後、茨田と呼ばれた男が気だるげに指揮棒を振り始めると、オーケストラが一斉に鳴り出した。宴の始まりを連想させる壮大な旋律に、聴衆が惹きつけられる。やがてメロディーは穏やかになり、豪華絢爛な宮殿で踊っている貴族たちの姿が自然と脳裏に浮かび上がった。まるで自分もドレスを着てタキシードを纏った男性と手を取り合いダンスを楽しんでいるかのような気分になり、思わずリズムに合わせて体を揺らしてしまう昌子。だが、心なしか、指揮棒の動きとオケの演奏が合っていないように思えた。
「違う違う違う、ストップストップ!!」
そして、突然響き渡った茨田の怒号によって、演奏は遮られる。
「何度言ったらわかるんだお前ら、この曲はテンポが命なんだよ!! それが崩れたら全てが台無しだろうが!!」
「…………」
部員は誰一人として返答せず、恨めしそうに茨田を見遣る。
「白鳥! こいつらちゃんと練習してたのか!? もう本番間近だってのに酷い出来だぞ!! そもそも全員俺を見てねぇってのはどういうことだ! ケンカ売ってんのか!?」
「も、申し訳ございません……!!」
泣き出しそうな顔で、姫子が頭を下げる。
「真田、お前もだ!! 指揮者ぶってオケばかり見てちっとも俺の方を見やしねぇ、だからテンポがどんどん狂ってくんだろうが!!」
姫子の謝罪を無視し、指揮棒を向けながら良介にも怒鳴り散らす。しかし、彼はたじろぐどころか、強く睨み返して言い放った。
「……お言葉ですが、茨田さん。オーケストラのテンポそのものは崩れていません、あなたの指揮と合っていないだけです」
「真田くん!!」
立ち上がり、良介を制止しようと姫子が叫ぶ。
「だから、それが大問題なんだろうが!!」
指揮棒を床に叩きつけ、唾を飛ばす勢いで叫ぶ茨田。しかし、良介は怯まない。
「大問題なのは、オケと指揮者の間に信頼関係が築かれていないことです。だから誰もあなたの指揮を見ず、代わりに俺を見ている。問題の本質を見誤って、俺たちだけに責任を擦りつけるのは止めて頂きたい」
「何だと!?」
蟀(こめ)谷(かみ)に血管を浮かばせ、今にも殴り掛かりそうになった茨田。オケの女子たちが悲鳴を上げたその時、良介の隣に座っていた生徒が立ち上がった。
「先生。その辺にしておかないと、またお仕事なくなっちゃうよ?」
「胡桃沢(くるみざわ)さん……」
胡桃沢、と良介に呼ばれた彼女は、諭すように言った。すると、先程までの勢いが嘘のように静まり、途端に茨田は口調を和らげる。
「し、しかしだな……」
「皆ね、先生が怒りっぽいから怖いだけなの。だから、もっと優しくなってあげたらちゃんと見てくれるはずよ。大丈夫、私たちはちゃんと練習してるから。焦らないで?」
上目遣いであざとく小首を傾げ、ウェーブのかかった短い髪を揺らす。茨田の機嫌はすっかり良くなり、わざとらしく笑って見せる。
「おお、そうか。くららが言うなら間違いないな。じゃあ、取り敢えずもう一度頭からやってみようか」
嬉しそうに喋りながら譜面を最初のページに戻している隙に、胡桃沢くららは良介に何かを耳打ちした。それを聞いて、黙って頷く良介。
二度目の演奏は、驚くほど指揮棒の動きとオケのテンポが揃っていた。それもそのはず、良介一人だけがしっかりと茨田の指揮を見ていたからだ。オケのメンバーは変わらず良介のみを注視していたが、すっかり気を良くした茨田がそれに気づくことはなかった。
「いやぁ、茨田君! 素晴らしいね、実に素晴らしいじゃないか!!」
すると、ある人物の大袈裟な拍手が突然演奏に割り込んできた。見ると、そこにはやけに上機嫌な鳳凰学園高校の理事長・二階堂(にかいどう)貴(たか)典(のり)がいた。イタリア製ブランドの紺のスーツを着こなす長身にロマンスグレーのオールバック、黒いサングラス、整えられたコールマン髭。その全てが、彼の揺るぎない地位と財力、そして自信を表しているかのようだった。
「理事長! お陰様で、良いお仕事をさせて頂いております!」
急に乱入されたにも関わらず、愛想笑いをして頭を下げる茨田。
「いやいや、こちらも茨田君に来てもらって助かってますから! 新入生の皆さん、ぜひオーケストラ部をよろしくお願いいたしますね!」
どうやら気紛れに立ち寄っただけらしく、貴典は手を振ってすぐにホールから去っていった。何だったんだ、と戸惑いを露わにする部員と観客たち。
「よし、じゃあ、十五分休憩だ!」
指揮台から降りると、茨田は顎で姫子について来るよう命じ、舞台袖へと消えていった。部員たちは、溜め息を吐きつつ羽を伸ばし始める。それと同時に、座席にいた見学者たちも立ち上がり、うんざりした面持ちでホールを後にした。彼らの口から聞こえたのは、オケ部は止めとこっか、吹部も行ってみよう、といった言葉だった。
「出よっか、私たちも……」
ばつの悪い表情をした薫に、昌子は素直に従った。
「百合川、梅宮。不快にさせてすまなかった」
「大丈夫だよ、気にしないで」
「そうよ。お陰でヒヤヒヤしちゃったけど、会長が悪いわけじゃないんだから」
自販機で飲み物を買って二人が中庭のベンチで休んでいると、そこへ良介がやって来て頭を下げた。風が吹き、桜の花びらが宙を舞う。
「でも……あの指揮者のせいで新入部員が来なくなっちゃうわね、きっと」
「ああ……」
「良介くん、どうしてあんな人が指揮者なの? 何だか、才能もなさそうなのに」
大人しそうに見えて結構ハッキリ物を言うわよね、アンタって――隣の薫を見ながら昌子は思ったが、口には出さないでおいた。
「どうやら、うちの理事長の知り合いらしい。あの性格のせいでプロオケから解雇され過ぎて業界に居られなくなったから、仕方なく雇ってやったそうだ。前の指揮者が体調を崩して退任したばかりで、ちょうど良かったんだろう」
「……ホント、ロクなことしないわよね。うちの理事長って」
昌子がそう零したのは、貴典の悪い噂が絶えないからである。二階堂麗羅のように親類縁者や裕福な家庭の子息の裏口入学を受け入れたり、茨田森二郎のように働き口のなくなった人間を雇ったりしているせいで、歴史ある進学校としての鳳凰学園高校の評判は下がるばかりだ。そして、そのような悪行によって得た金で私腹を肥やしているのだろうから、一層質が悪い。
「それにしたって、後釜があんな酷い人じゃオケの成績だって下がりかねないよ」
「仕方ないだろう、しばらくは俺が指揮者の代わりをするしかない」
腕を組み、眉間に皺を寄せて良介は溜め息を吐いた。
「そんな……」
「案ずるな。バレエ団に迷惑はかけない」
不安そうな薫の顔を見て、心配させまいと良介は強く言った。しかし、彼女が案じているのは公演ではなく彼の負担が大きくなることだろう、と昌子は察した。
「……ところで、良介くん」
「何だ」
「良介くんの隣に座ってた胡桃沢さんって、どういう人なの? あの人が話し始めた途端、指揮者の態度が変わってたけど……」
「ああ……彼女は、茨田の実の娘なんだ」
「む、娘!?」
意外な事実が明らかになり、薫と昌子は声を揃えて驚いた。
「なるほど……全然似てないけど、確かに娘ならデレデレになるのも納得よね」
「名字が違うってことは、今はお母さんと一緒にいるってこと?」
「ああ。だが、いつか一緒に共演できるように、密かにプロを目指してヴァイオリンの特訓をしていたそうだ。そして茨田がここで雇われることを知って、二月に鳳凰に来たらしい」
「え、そのためにわざわざ転校して来たってわけ!?」
「そうなんだ……あんな性格でも、一緒にいたかったんだ。お父さんと」
「俺も彼女の気持ちはよくわからないが、正直いてくれて助かっている。彼女以外に、あれの機嫌を取れる奴はいないからな……」
良介が二度目の溜め息を吐くと、急に彼は口を閉ざし、人差し指を立てて二人に静かにするよう合図した。何事かと思ったが、視線の先にいる人物を見て、彼女たちはすぐに事態を把握する。
「いい加減にしろ!! 俺は医者にカフェイン止められてんだってもう何十回も言ったよな!? そんなに俺を怒らせてぇのか!!」
「すみません、すみません……!!」
校舎とホールを繋ぐ渡り廊下の出入り口付近で、茨田が姫子を容赦なく叱責している。どうやら、誤ってカフェインの入っている缶コーヒーを差し出してしまったのが原因のようだ。茨田はすぐに去っていったが、姫子はその場に残り、肩を震わせ、黙って涙を流し始めた。
「酷い……あんなの、立派なパワハラじゃないのよ!!」
「ああ……」
「良介くん、あんな人、証言だけですぐ辞めさせられないの? 生徒を何度も怒鳴りつけてるんです、って」
「俺もそうしたいところだが、それは止めてくれと言われているんだ。胡桃沢さんに」
「そんな……どうして?」
「腐っても実の父親だからな、職を失わせたくないんだろう。部長には気の毒だが、胡桃沢さんは既に大事な戦力だ。俺にはどうしようもない」
「そう……」
板挟みに遭っている良介の心情を悟ったからか、薫はそれ以上何も言わなかった。
そろそろ時間だ、と言い残して、良介は姫子に声をかけてからホールへ戻っていった。しばらく沈黙した後、口を開いたのは薫だった。
「何だか、いやだな。良介くんと共演できると思って、嬉しかったのに」
「そうね。でも、心配するなって言ってくれたじゃない。信じなさいよ、会長を」
慰めるように、昌子は俯く薫の肩に手を添えた。
「ありがとう。でもね、もう一つ気になることができちゃって……」
「何よ、どうしたの?」
「……昌子、胡桃沢さんのこと、どう思う?」
「えっ……?」
「彼女、小柄で可愛らしかったよね。美人だし……それに、良介くんがさん付けで呼ぶってことは、相当上手なんだろうね。席もすぐ隣で、もう耳打ちできるぐらい信頼関係もあるってことだし……」
珍しく自信がなさそうに話す薫の姿を見て、昌子はようやく質問の意図に気づいた。
「つまり……会長が彼女のこと、好きなんじゃないかって?」
恐る恐る尋ねると、薫は頬を深紅に染めて、こくん、と僅かに頷いた。
「薫……アンタって子は!!」
母性本能を擽られたのか、思わず薫を強く抱き締め、叫ぶ。
「ちょ、ちょっと昌子!?」
「自信持ちなさいよ、だって会長はアンタの濡れ衣を晴らしてくれたことがあるじゃない!!」
「で、でも……!」
「とにかく! 私、アンタの恋全力で応援するから!!」
「あ、ありがとう……ところで、そう言う昌子の方はどうなの?」
「えっ?」
不意を突かれ、素っ頓狂な声を返す。
「な、何のことよ、急に」
「何って、隼人のことに決まってるじゃない」
「はっ……!?」
今度は、昌子の顔が真っ赤になった。平然と放たれた爆弾発言に、動揺を隠せない。
「なっ、何で私がアイツのこと好きになんなくちゃいけないのよ!?」
「何でって……スキー実習の後から、隼人に対する態度が違うもの。二人きりで天体観測してたって言ってたけど、他にも何かあって、好きになっちゃったんじゃないの?」
心を見透かされ、開いた口が塞がらなくなった。もはや、認めてしまう他ないようだ。
「……アンタが、そう言うなら……そうなのかも、しれないわね……」
しかし、やはり素直になれず、目を逸らして曖昧な言い方をしてしまう。
「もうっ、昌子ったら!」
今度は、薫が堪らなくなって昌子を抱き締めた。
そんな二人を、葉桜が静かに見守っていた。
*
初夏の訪れが感じられるようになった、連休前の日曜日。少し強くなった日差しを浴びながら、涼しげな恰好をした昌子と葵は地下鉄の駅の出口から目的地へと向かっていた。爽やかな風が、彼女たちの髪と街路樹の新緑を揺らす。
「えーっと、ここを左に曲がって……」
「あ、ありました! あそこですね」
日傘の下で昌子が地図アプリと睨めっこをしていると、傍らの葵が無邪気に指を差す。そこには、都内最大規模のバレエ団が所有する立派なホールがあった。まるで西洋の歴史ある劇場のように、大理石の彫刻が施されている。
「わぁ、凄いですね……!」
「あ、もう始まっちゃうじゃない! 急ぎましょ、葵!」
立ち尽くす葵の肩に軽く触れて、昌子は軽快に駆け出した。
受付前の看板には、公演のリハーサルの予定が記されている。本番は連休中であるため、部活動で見ることができない彼女たちは、特別に今日招かれたのであった。そっとホールの重い扉を開けると、中では既に良介たちオーケストラ部の面々が練習を始めていた。
「何だか皆さん、かっこいいですね! プロみたいです!」
「そうね、大人っぽいわね」
昌子は白のノースリーブに青いデニムスカート、葵は淡い水色のワンピースを着ていたが、彼らは皆一様に黒い衣装を身に纏っていた。男子はスーツに蝶ネクタイ、女子はドレス。楽譜と向き合う真剣な表情と相まって、とても同じ高校生には見えなかった。
「私、オーケストラの演奏もバレエも初めてなんです! だから、とっても楽しみで!!」
興奮を抑えきれないのか、葵は大きく目を見開き、少し頬を紅潮させて叫んだ。その声はホール中に響き渡り、オーケストラ部のメンバーたちが訝しげに彼女の方を見つめる。
「あ、す、すみません……!!」
今度は羞恥で顔が真っ赤になってしまい、申し訳なさそうに肩を竦める葵。
「大丈夫よ、まだ練習中なんだから。取り敢えず、座りましょ?」
「は、はい……」
軽く背中に触れて慰め、促す昌子。辺りを見渡すと、バレエ団の関係者らしき大人たちの姿があった。
「ねぇ。ちょっと、会長を冷やかしに行かない?」
予定では十時から開始となっているはずだが、五分過ぎても始まる様子はなかった。昌子は葵を誘ってみたが、彼女はまだ萎縮しているようで、私は大丈夫ですと小声で答えた。そう、とだけ言って、昌子は荷物を置いて立ち上がる。
彼らは、オーケストラピットという舞台の手前の窪みで練習をしていた。顔を覗かせ、良介の姿を探す昌子。彼は、いつも通りコンサートマスターの席に着いていた。
「会長!」
昌子が呼ぶと、良介はすぐに視線を寄越した。軽く手を振る彼女、少し口角を上げて応じる彼。
直後、その傍らの席が空いていることに気づく。すると、奥の扉から不安げな表情を浮かべているくららが現れ、良介のもとへ駆け寄って来た。
「真田くん、どうしよう。何度も電話してるんだけど、全然繋がらなくて……」
「……わかった。バレエ団側に伝えて来る」
ヴァイオリンを席に置いて、オーケストラピットを後にする良介。くららも彼を追い、扉の向こうへ姿を消す。どうしたのかしらと昌子が首を傾げると、彼らは客席の方へやって来て、最前列に座っているスーツ姿の中年の女性の前に立ち、深々と頭を下げた。
「予定を遅らせてしまい、大変申し訳ございません。何度も電話をかけてみたのですが、応答がなくて……」
くららが謝罪すると、女性は脚を組み直し、眼鏡の位置を直しつつ大きな溜め息を吐いた。
「全く、呆れたものね。今日しかリハができないというのに、指揮者が遅刻、しかも音信不通だなんてどうかしているわ」
「ご迷惑をおかけいたしました。本日の指揮は、我が部の顧問がやらせて頂きます」
「もういいわ。とっとと始めて頂戴!」
良介の誠意を軽くあしらい、手を振って追い払う女性。一瞬顔を強張らせた良介だったが、ぐっと堪え、もう一度頭を下げてからオーケストラピットへ戻っていった。くららも彼に倣い、再度謝ってすぐ持ち場へ去っていく。
どうやら、今日は茨田が不在のようだ。バレエ団の団長らしき女性の対応に昌子は些か腹を立てたが、茨田がいないことに安堵を覚える。
「先輩。会長さんたち、どうされたんですか?」
昌子が席に戻ると、葵が不安げな表情で尋ねてきた。
「指揮者が遅刻してて、連絡がつかないんだって。だから、リハーサルも遅れてるみたい」
「そうですか……」
話しながら、そういえば付き人のように扱われていた部長の白鳥姫子もいないな、とその時ようやく昌子は気づいた。
リハーサルはすぐに開始された。序幕は、主人公たるオーロラ姫が誕生し、洗礼を受けるシーン。薫の出番は、第一幕からだ。オーロラ姫の十六歳の誕生日に祝宴が催され、四人の他国の王子から求婚される場面で、白地に金色の刺繍が施された衣装に身を包んだ薫が、優美に、そして堂々と舞う。その姿は、まさに一国の王女そのものであった。
「凄い……! 流石ですね、百合川先輩!!」
口元を手で覆い、小声で感動を伝える葵。強く頷き、同意する昌子。
第一幕が終わると、リハーサルは一旦中断され、昼休憩となった。時刻は十二時前、流石に昌子と葵も空腹に耐え兼ねていた。
「お腹空いたわね。ここのレストランで食べましょ」
「はい!」
席を立ち、葵を連れてホールの外へ出る。レストランで食事を済ませ、戻ろうとすると、彼女たちは途中の廊下でくららを見かけた。彼女は、青白い顔で天井を仰いでいた。力の抜けた右手の下には、落下して画面の割れたスマートフォンが転がっている。
「ど、どうしたんですか……? 大丈夫ですか!?」
考えるより先に体が動いたとはまさにこのことで、昌子は無意識のうちに彼女の傍へ駆け寄り、両手で肩を掴んで揺さぶっていた。
「……だ……」
「え、何? 何て言ったの!?」
焦点の合っていない瞳を昌子に向け、唇を震わせながら、呟く。
「……死んだ、って……警察から、電話が……」
それだけ告げて、意識を失い昌子の胸に倒れ込むくらら。誰が、という愚問を挟むことなく、昌子は葵に言った。
「葵、会長に伝えて。……指揮者の茨田が、死んだって」
*
昌子によって医務室に運ばれたくららが目覚めたのは、日が傾き始めた頃だった。
「胡桃沢くららさん。お目覚めのところ恐縮ですが、お話を聞かせてください」
細身で背の高い、真面目そうな雰囲気の刑事が、警察手帳を開いてくららに尋ねた。意識は取り戻したものの、彼女はまだ気落ちしているようだ。良介、薫、昌子、葵の四人は、そんな彼女を黙って見守っていた。
「……昨日は、父の四十六歳の誕生日で、私、お祝いをしに行ったんです。その時は元気で、特に変わった様子はありませんでした。明日はリハーサルなんだからお酒は程々にねって言ったんですけど、結構たくさん飲んでいて……父が寝てしまった後、私はバスに乗って帰りました」
「なるほど。わかりました」
「……あの、父はどのような状態で発見されたんでしょうか」
表情一つ変えずにペンを走らせる刑事の顔を、彼女はその時初めて捉えた。
「死因は一酸化炭素中毒です。コーヒーを淹れる為にガス台でお湯を沸かそうとしたところ、換気扇をつけ忘れ、そのまま意識を失って死亡したと我々は考えています。検視の結果、事件性はなさそうだったので、事故死として処理されると思われます。まだ司法解剖が完了しておりませんが、遺体発見時はまだ死斑が出たばかりのようでしたので、死亡推定時刻は恐らく十時から正午の間くらいでしょう」
「そうですか……わかりました」
「刑事さん。マイコンメーターがガスを遮断することはなかったんでしょうか」
「……君は?」
良介が横槍を入れると、刑事は彼の方を向いて尋ねた。
「オーケストラ部の真田良介です。普通、ガスを長時間使っているとマイコンメーターが異常と判断してガスを止めるようになっているはずですが、遺体発見時もガスはついたままだったんでしょうか」
「……君、守秘義務というものを知っているかい? 彼女は被害者のご子息で、死亡の直前まで会っていたから必要最低限のことを伝えたが、事件と何の関係もない君からの質問に答えることはできないね」
警察手帳を閉じ、スーツの胸ポケットにしまうと、刑事はそのまま医務室を後にした。
「良介くん、何であんなこと聞いたの?」
窓から差し込む西日に目を細めながら、薫は疑問を投げかけた。
「もし、事故ではなく殺人なら……マイコンメーターに細工ができるガス業者が加害者である可能性が高くなるからな」
「……つまり、どういうこと?」
「確実に一酸化炭素中毒で死なせる為には、より長くガスを供給させる必要があるだろう。中途半端なところでガスが止まったら、失敗するからな」
「淡々と悍ましいこと言わないでよ、会長」
昌子が咎めると、唇を固く閉ざしていたくららが話し出した。
「真田くん。多分、ガスはずっとついてたと思うな」
「……何故だ?」
「お父さん、結構な寒がりでね。冬は昼も夜もずっとストーブをつけっぱなしにすることが多くて、ガスが遮断される度にイライラしてたから、ガス会社に遮断機能をストップさせるように電話してたもん。これはお母さんと離婚する前のことだけど、今でもそうなんじゃないかな。まだガスファンヒーター使ってたし」
「そうか……」
そう呟くと、良介は腕を組み、物思いに耽り始めた。
「胡桃沢さん。お父さんから、睡眠薬を普段使っているという話を聞いたことは?」
「えっ……ううん、ないけど、どうして?」
「一酸化炭素中毒で確実に殺したいなら、犯人は恐らく睡眠薬を盛って、眠っている間にガスを点けたはずだ。もし、司法解剖でそれが検出されたら、事故ではなく殺人事件として捜査が始まるだろう。すると、身近な人間の中で最も強い動機があり、唯一俺たちオーケストラ部の中で死亡推定時刻のアリバイがない人物が疑われてしまう。……つまり」
「……あ!」
その人物に心当たりのある昌子が、思わず声を上げた。
「そう。体調不良で欠席していた、部長の白鳥さんだ」
*
「そんな……私が、茨田先生を殺したっていうの!?」
翌日の放課後。良介は生徒会室に姫子を呼び出し、昨日体調不良でずっと在宅していたことを証明できる人物の有無を尋ねた。その途端、彼女は激昂した。
「疑うようなことを言ってすまない、部長。ただ、司法解剖で睡眠薬が遺体から検出されたという話を胡桃沢さんから聞いたんだ。部長は、確か……」
「…………」
俯き、両手でスカートの裾を握り締めてから、姫子は口を開いた。
「……そうよ、飲んでるわよ、睡眠薬! 茨田が来たせいで、碌に眠れなくなったからね!! あいつさえいなければ私が指揮をやらせてもらえるはずだったのにって思うと、悔しくて悔しくて……だけど、それが何の根拠になるっていうの? それだけで私を犯人扱いするつもり!?」
「いや、それは何の決定打にもならない。動機があってアリバイがないとはいえ、部長が殺したとは思えない。だが、土曜日まで元気だったのに昨日一日だけ体調不良、そして今日は元気だというのも少々気になるところだ。念のため、その理由も聞いていいか」
「…………」
恨めしげに睨みつけながらも、彼女は強張る唇を懸命に動かし、声を震わせて答えた。
「……家族は皆留守だったから、私がずっと家にいたという証明ができる人はいないわ。昨日だけ具合が悪かったのは……」
「…………」
良介は黙って姫子の目を見ていたが、何かに耐え切れなくなったのか、彼女は視線を逸らしてしまった。
「……言いたくない。でも、本当に、体調不良だったのよ……!!」
「部長。ここで黙っていたら、より一層疑いが濃くなるだけだ。頼むから言ってくれないか」
「でも……!!」
「生理痛、じゃねぇの?」
「えっ……!?」
姫子が勢い良く扉の方を振り向くと、そこには隼人の姿があった。突然現れたからか、言い当てられたからなのかはわからないが、驚きのあまり口を開けたまま固まってしまっている。
「悪い、不快にさせちまったか? でも、自分から男に言うのも嫌だよな。恥ずかしいもんな」
「…………」
瞬きも忘れて黙っていた彼女は、数秒の間を置いてから、小さく頷いた。
「……どうして、わかったの?」
「だって、今日ずっと元気なかったし、体育の時間は見学してただろ。同じクラスなんだからそれぐらいわかるぜ、白鳥さん」
「……ありがとう、霧崎くん。助かったわ」
隼人には深く頭を下げ、良介には一瞥もせず、彼女はそのまま生徒会室から出ていった。
「あーあ。信用失っちまったな、お前」
「笑うな。それより、何の用だ」
会長席に座る良介に歩み寄りつつ、隼人は得意気に白い歯を覗かせた。
「いーのかなー? ドサクサに紛れてしっかり現場を見てきた遺体の第一発見者サマに、そんな口利いちゃってー?」
「第一発見者……お前が?」
立ち上がり、目を見張る良介。おう、と腕を組んで答える隼人。
「どうしてだと思う?」
「……デリバリーの配達先が、茨田の自宅だったからか」
その通り、と言って、隼人は事の一部始終を語った。
彼は、大手ファストフード店でデリバリーのアルバイトをしている。昨日は偶然配達先の中に茨田の家があり、訪ねてみたところ応答がなく、玄関ドアの隙間からガスの臭いがしたので、その場で警察に通報したそうだ。
「茨田は台所でぶっ倒れてたぜ、ガスをつけっぱなしにしてな。窓もドアも全部鍵かかってて、換気扇も回ってない。誰がどう見ても、一酸化炭素中毒の事故死ってわけだ」
「つまり、事故死でなければ密室殺人というわけか」
「ああ」
「……コーヒーを淹れようとしていた痕跡は?」
「ああ、あったな。ドリップコーヒーの粉が台所と床に散らばってたから、お湯が沸く前にぶっ倒れたみたいな感じだったぜ」
「そのコーヒーの袋は見たか?」
「ああ、見たぜ。銘柄もバッチリ覚えてる」
「カフェインレスコーヒーだったか?」
「いや、普通のやつだったな」
「デリバリーの指定時間は?」
「十二時ジャストだった」
「遺体の近くに、スマートフォンはあったか?」
「おう。床に転がってたぜ」
「ガス台のスイッチの形状は?」
「レバーを上から押すタイプだったな」
「……これだけ情報が揃えば、十分だ。思ったより早く解決できそうだな」
「じゃ、後は頑張れよ。名探偵サン!」
ああ、と良介が答えると、隼人は長い髪を揺らしながら颯爽と姿を消した。深く溜め息を吐き、風に当たろうと窓を開ける良介。
東の空には、細く白い月が儚げに浮かんでいた。
*
指揮者の突然死というアクシデントがあったものの、『眠れる森の美女』の公演は無事幕を下ろした。控室の中では、楽器をしまいながらオーケストラ部の面々が互いに労をねぎらいつつ、閑談に興じている。
「胡桃沢さん」
「あ、真田くん。お疲れ」
ヴァイオリンの手入れをしているくららの横から、声をかける良介。
「良かったら、飲んでくれないか」
彼は自販機で買った缶コーヒーを差し出したが、彼女は微笑みながら断った。
「申し訳ないけど、私、カフェインだめなんだよね。でも、ありがとう」
「そうか……ところで、この後少し時間をもらえないか。話したいことがあるんだ」
「……うん、わかった」
愛器をケースにしまい、チャックを閉じながら、彼女はまた微笑んだ。
二人は、誰もいない舞台の上に移った。良介は、両手をズボンのポケットに入れて舞台の中央に立ち、客席を眺めている。
「ねぇ。何かな、話って」
「単刀直入に言おう。あんただな、茨田先生を殺したのは」
「……あは、面白い! そういえば真田くんって、色んな事件を解決してきたんだっけね。これから私に、推理ショーをしてくれるんだ?」
くららは軽い調子で彼を茶化したが、良介は一切動じることなく話し続けた。
「あんたは我ながら完璧な計画だと思っていたことだろう。しかも、茨田を最も強く憎んでいるであろう人物にアリバイがないときた。だが、調子に乗ったあんたは幾つものミスを犯してしまった」
「ミス……?」
良介は指を一本ずつ立てながら、順番通りに説明し始めた。
まず、茨田宅のマイコンメーターの制御システムが機能しないと語ったこと。その情報を事前に確認する必要があるのも、把握しているのも犯人以外は考えられない。
二つ目は、当初事故死を装う予定だったにも関わらず、姫子が当日リハーサルを欠席したことによって、彼女を犯人に仕立て上げようと自ら殺人事件であることを示唆してしまったこと。茨田に睡眠薬を服用する習慣はなかったという証言は、彼女のでっち上げた嘘だった。その習慣があるからこそ、遺体から検出されても警察に殺人だと疑われることはないと踏んでいたのに、姫子に濡れ衣を着せたいがために敢えて嘘を吐き、殺人の可能性を自ら高めてしまったのだ。
三つ目は、茨田が以前カフェイン中毒に陥り、医者からその摂取を止められていたという事実を知らずにカフェインの入っているコーヒーを現場に残したこと。そのせいで、真っ先に事故死ではなく殺人であることが悟られる上、この行為は姫子が犯人でないことの証明にもなり、自らの意図と矛盾してしまう。
四つ目は、殺害当日の正午にデリバリーの注文をしてしまったこと。事故死であれ殺人であれ、本来ならば留守にしているはずの人間が配達など頼むはずがないことくらい、誰でもわかる。
「だが、それはつけっ放しのガスのせいで火災になり、周辺の家々まで巻き込んでしまうのを防ぐ為の、あんたの優しさ故のことだったんだろうな」
「……どうして、デリバリーの注文があったことを知っているの? それに、現場にあったコーヒーのブランドだって……」
「生憎だったな。その配達を担当したのが、生徒会副会長の霧崎隼人だったんだ。つまり、あんたにとって都合の悪い人物が第一発見者になってしまったということだ」
「なるほどね……でも、まだ犯人が私だっていう証拠がないんじゃない? それに、死亡推定時刻にアリバイのある私が、どうやってお父さんを殺したっていうの? しかも、玄関も窓も鍵がかけられてたって警察の人が言ってたよ。つまり、いわゆる密室殺人ってやつじゃない? その謎も解けたの?」
まだ余裕があるのか、くららの強気な声がホールに反響する。
「……あんたも、カフェインが摂れないと言っていたな」
「そうだよ、それがどうかした?」
「それなのに、茨田の遺体の傍にあったのはカフェイン入りのコーヒーだった。もし、殺害前にどこかの店でそのブランドのコーヒーを購入しているあんたの姿が防犯カメラに写っていたら……?」
「……!!」
顔を蒼白とさせ、言葉に詰まるくらら。
「そして殺害当日、何度も何度も茨田に電話をかけたのはあんただったな。それは、前日の夜に予めガス台に置いた茨田のスマートフォンを着信時にバイブレーションで震わせることによって落下させ、その拍子にガスのスイッチを入れさせる為だった……違うか?」
「……そんな方法で、都合よく火が点くとは思えないけど?」
「だが、不可能ではないはずだ。スマートフォンが少し震えただけで落下するような、ギリギリのバランスで置けばな。因みに、音声は全て録音させてもらっている」
「なっ……!?」
良介は、振り向き様に右ポケットからスマートフォンを取り出した。彼女は、金縛りに遭ったかのように動かない。
「あんたが認めないなら、この音声を警察に提出するまでだ。これを聞けば、睡眠薬の件であんたが俺に嘘を吐いていたことが明らかになり、警察もあんたを疑わざるを得なくなる。茨田が普段から睡眠薬を飲んでいたことくらい、捜査で判明している筈だからな。そうなれば、あんたがコーヒーを買った可能性のある店舗の防犯カメラの映像を確認するだろう」
「…………」
「そもそも事件前夜に被害者の家にいて、かつ合鍵まで持っているあんた以外に、今回の犯行を成し得る人物など存在しないんだ。そうだろう?」
観念したのか、くららは膝から崩れ落ち、力なく笑った。
「……警察がわかるのも、どうせ時間の問題だよね……」
「……一緒に、行ってくれるな?」
どこへ、と言わずとも、彼女には行き先がわかっていた。僅かに頷いたその顔が微笑むことは、二度となかった。
*
「お疲れ様でーす……って、あれ? 良介、お前何でこんなとこにいんだよ」
大型連休最終日の夕方。隼人が職場の裏口から出た時、そこには制服姿の良介が立っていた。
「公演、終わったばっかだろ? もう部活始まってんのかよ」
「いや、今日は予備校だ」
「何、お前休みの日も制服で予備校行ってんの?」
どんだけ服選ぶの面倒くせぇんだよ、と呆れ半分に言う。駅前の商店街の雑踏に、彼の笑い声が紛れることはなかった。
「そういや、自首したんだって? 例の事件の犯人」
「ああ。お手柄だったな、今回ばかりは」
「一言余計なんだよ、礼ぐらい素直に言いやがれ!」
商店街を離れ、二人は川沿いの道に出た。土手にはランニングや犬の散歩をしている人々の姿があり、爽やかな風が心地良い。野球の試合があったのか、得点板にはまだその記録が残っている。
「で? 結局、動機は何だったんだよ」
「……不倫をして、母親を捨てた父親に対する怨念が動機だったらしい。あの男を殺すチャンスを掴む為にわざわざヴァイオリンの特訓をして、鳳凰に転校してきたようだ」
「うっわ、怖っ! 父親をデレッデレにさせつつ、殺す機会を伺ってたってか!?」
「そういうことだな……」
夕焼け空に、烏が飛び交う。サイクリング中の自転車が、数台彼らを抜いて通り過ぎる。
「そういえばお前、どう思ってんだよ?」
「……何の話だ?」
「とぼけんなよ、薫のことに決まってんじゃねーか! オレに構ってねぇで、アイツの事も考えてやれっつーの!」
「待て、隼人っ!」
そう言って、隼人は脱兎の如く走り出した。悔しい事に、普段ヴァイオリンの練習ばかりしている良介がその背中を追うことは叶わない。
「何を言っているんだ、あいつは……」
頬を赤らめ、荒げた息で吐き捨てるように呟く。刹那、彼の脳裏に浮かんだ彼女が、微笑みながら彼の名を呼んだ。
「……すまない、百合川」
俺はお前を幸せにしてやることができない、だから俺にお前を想う資格なんてないんだ――その言葉を飲み込んだ背中に強く照りつける、オレンジ色の太陽。
その場で立ち尽くす彼を、白い月だけが見守っていた。
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