試練の扉:クルト 「一秒の価値」

 ヤバい


 輝く暗黒というか、底の見えない闇の中心に目が潰れる程の光が存在しているというか……とにかく黒くて光るその球は、明らかに常軌を逸した存在だ。


 ヤバい


 あれは駄目だ。さっきまでの「触ったらスゲー痛いけど、怪我はしない」なんて生易しい攻撃じゃない。もしあれにちょっとでも触れたなら、俺の存在なんて跡形も無く消し飛ぶことだろう。


 ヤバい


 知識が、経験が、本能が。魂に刻まれた命という存在そのものが、俺に死を告げてくる。あれは「死」だ。死という概念そのものだ。


 ヤバい


 怖い。ただひたすらに怖い。恐怖で気を失ってしまいそうなのに、割れそうな程に痛む頭が俺の意識をつなぎ止める。


 だというのに、俺の体は動かない。もうすぐ死ぬのではなく、もう死んでいるのだとばかりに、どれだけ力を込めても指一本すら持ち上がらない。


 ヤバい


 ああ、俺はここで死ぬのか。「試練」は失敗しても死ぬことはないと話で聞いてたが、そんなものは何の慰めにもならない。


 だってそうだろ? 何事にも例外はあり、どんなものにも始まりがある。今日この瞬間、俺自身が「試練の扉」で死ぬ最初の探索者になる、ただそれだけのことだ。


 ヤバい


 既に死を受け入れた体から力が抜け、今まさに死のうとしている心から抵抗する意思が消えていく。


 人は死ぬとどうなるんだろうか? 単純に消える? それとも何もかもまっさらになって、別の誰かに生まれ変わる? そういやちょっと前には、死ぬと記憶を引き継いで別の世界に転生するなんて話が流行ったことがあったな。


 なら俺も、俺のまま他の世界に行くのか? ははは、それなら死んだ後も楽しめそうだ。あいつらと一緒なら、どんな世界だって…………?


(何言ってんだ。死ぬのは俺だけじゃねーか。家族も仲間も全部置いて、俺だけ一人で異世界旅行?)


 ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバヤバヤババババ――――


「……そりゃあつまんねーな」


 俺の口から、声が漏れた。動かなかった指が動き、ぎゅっと拳を握りしめた。


 死にたくない。まだ生きたい。蘇った意思に呼応するように、俺の隣に気配が生まれる。


 故に俺は目を閉じる。恐怖に屈するのではなく、勇気を以て立ち上がるために。そうして生まれた青い幻の男は、スッとその場に立ち上がると…………脱兎の如く逃げ始めた。


「逃げんのかよ!?」


 もっとこう、この黒い光に立ち向かってどうにかするのかと思ったんだが、蓋を開けてみればまさかの全力逃走。だがまあ、確かにこんなヤバいもんを俺がどうにかできるとは思えねーから、現実的には逃走一択なのは間違いない。


「くっそ、なら逃げ切ってやる!」


 突っ込みを入れたら、体に活力が戻ってきた。どんどん大きく膨らんで、今やちょっとした家くらいの大きさになった黒い光がゆっくりとこちらに向かって移動を始めるのと同時に、俺は床を蹴って全速力で走り出す。


「来てる来てる! スゲー来てる!?」


 段差を飛び越え、坂を駆け抜け、角を曲がって隙間を抜ける。後ろを振り返って確認する余裕なんてとてもないが、背中に感じるビリビリが、間違いなく黒い光が俺を追いかけてきているのがわかる。


「あー! 来てる! やっぱり来てやがる!」


 角を曲がる過程で、試しに長めに横移動もしてみた。その過程でちらっとだけ視線を向けると、黒い光は壁も床も全部飲み込みながら、横にずれた俺の方にまっすぐに向かってきている。


 そうだよな。伝説の大岩転がしローリングストーンじゃあるまいし、横に逃げたら通り過ぎてくれるなんて都合のいいことはねーよなぁ、糞が!


「ハッ! ハッ! ハッ! ハッ!」


 強く短い呼吸を繰り返しながら、俺は走る。ひたすら走る。ちょっとでも足を止めたら、その瞬間が人生の終わりになるのだから、力を抜くことなんできるはずもない。


「ハッ! ハッ! ハヒュ! カヒュッ!」


 とは言え、全力疾走なんてそう長時間は続けられない。全身が軋み視界がぼやけ、手や足が鈍りでも詰まってるのかってくらい重い。


 ああ、休みたい。せめて息を吸いたい。ほんの一秒でいいから、胸いっぱいに空気を吸わせて欲しい。


 止まらないと死ぬ。だが止まっても死ぬ。あれ、どっちにしろ死ぬなら、止まって休んだ方がよくないか?


 一秒生き延びることにどれだけの意味がある? こんなに辛い思いをして、一秒を重ねてどうする? その先に何かあるのか? この一秒に、この先の一秒に――――


「あるって信じるから、人は生きてんだよぉぉぉぉぉぉぉ!!!」


 叫ぶ。貴重な空気と体力が一気に消費されたが、代わりに俺のなかに生きる意思が充填された。


 いくぜ一秒! もたせ一秒! 俺の人生そのものを、この一歩に刻み込め!


 歯を食いしばって前を向く。落ちかけたまぶたを気合いで開く。いつの間にか坂も段差も壁もなくなり、ただ平坦に広いだけとなった真っ白な空間を、俺は意地だけで駆け抜ける。


 それがどれだけ続いたか、俺にはわからない。だがどれだけであったとしても……そこに続けた意味はあった。


「っ!?」


 俺が進む先に、扉があった。真っ白な地平にぽつんと存在するそれは、間違いなく扉だった。


 あれだ。あそこがゴールだ。てかこの流れであれがゴールじゃなかったら、思いつく限りの悪口を叫びながら死んでやる。だからあれがゴールだ。俺が今そう決めた!


「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」


 とっくに尽きている気力を残りかすの一滴まで絞り出し、俺は扉に向かって駆ける。しかしそんな俺の視界に、扉とは別のものがチラリと映った。


(…………ボドミ?)


 扉から少し離れたところで、青い板きれが浮いている。背後の黒い光は育ちに育ち、シュゴーとか音を立てながら迫ってきているので、どう考えても安全な場所ではない。


 だからどうしたと言ってしまえば、それまでだ。俺を散々からかって追い詰めた板きれ野郎が消えたところで俺には何の痛手もねーし、そもそもボドミはダンジョンの仕掛けなんだから、黒い光に巻き込まれない仕様になっているとか、消えたところでまた次が出てくるだけとか……つまりは放置することに何の問題もあるはずがない。


 だが…………


(いやいやいやいや、無理だろ。無理すんなって)


 ちょっと進行方向を変えれば、まあ拾える。だがそれは逸れた分だけゴールの扉から遠ざかるという意味でもある。今のペースならギリ逃げ切れると思うが、逆に言えば寄り道なんてしたら間に合わないってことだ。


(板だぞ!? あんな板きれ拾ってどうするってんだよ!? そもそもあいつ俺より速く動けるんだぞ? ほっといたって逃げたきゃ逃げるって!)


 助ける理由は一つも浮かばず、見捨てる理由はいくらでも浮かぶ。そうとも、散々人をおちょくってくれた板きれなんて……


『マスター』


 俺の脳裏に、ふとゴレミの顔が浮かんだ。代わりなんていくらでもいる、単なる石塊。命すらないゴーレムの相棒の笑顔――


「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! キャーッチ!」


 気づいたら、俺は進行方向を変えていた。空中で微動だにしないボドミを掴み取ると、即座に扉に向けて進路を修正する。


 だが遅い。間に合わない。追いつかれる……今のままでは・・・・・・


「廻れ! 俺の命の歯車ぁ!!!」


 あの日そうしたように、俺は自分のなかにある歯車を廻す。既に限界だった体が更に悲鳴をあげるが、そんなこと知らん。今間に合わなきゃどうせ死ぬんだから、限界くらい気にするな!


「ぐっ、おぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」


 ゴレミ曰く、強化率はたったの一パーセント。命を早回しして手に入る力にしてはあまりにしょぼいその倍率が、しかし俺に足りない一歩を与えてくれる。黒い光が俺の後ろ髪をチリリと焦がし……だが、間に合った。


「だぁぁぁぁ! へぶっ!?」


 ボドミを抱え、閉じた扉に全力で体当たりする。するとバキッと音がして扉を破ることには成功したが、その先にあったのはただの床。まさか本当に扉のガワがあるだけなのかと鼻を押さえながら振り向くと……


シュゴォォォォォォォ!!!


「おぉぉ……」


 枠だけとなった扉が、黒い光をもの凄い勢いで吸い込んでいく。そうして黒い光が全て消え、辺りに静寂が戻ると、どこからともなく謎の声が響いてきた。


『汝は見事に試練を乗り越えた。心身共に成長し、分かたれた可能性にその手を伸ばした。


 汝、探索者よ。その魂に敬意を表し、ここに試練の終了を宣言します。さあ、扉をくぐりなさい』


 それと同時に、残っていた扉のフレームがピカッと光り、塔にあった「試練の扉」とそっくりの見た目に変わった。


「はぁぁぁぁぁぁぁぁ…………終わった? え、終わった!? あー……うん? ボドミに触ったら試練が始まるんじゃなくて、触るのが試練だったのか?」


 俺は荒れる呼吸を整えながら、掴んでいたボドミを持ち上げる。するとそこに書かれていた「肉体の試練」と「技術の試練」の文字の最後に丸がついており、「精神の試練」に至っては花丸がついていた。


 ならまあ、上手くやれたんだろう。何ともガキ臭い表現だが、所詮俺なんてガキだしな。これはこれで悪くない。達成したっていうのなら、ありがたくご褒美をもらいに行きたいところだが……


「あー、でも、流石にこれは…………ちょっと休ませてくれ…………」


 四肢を投げ出し仰向けに床に倒れ伏すと、限界をとっくに超えていた俺の意識が暗闇に落ちていく。腹の上に乗っかったボドミがいい感じに温かくて気持ちいい。


「……お疲れさん」


 誰にともなくそう口にすると、俺は静かに瞼を閉じるのだった。

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