第4話『時を止めた家』

私はいつから此処でこうしているのだろうか。

もう何百年も経ってしまったような気がする。

実際はほんの数年、いや数ヶ月、数日……数時間なのかもしれない。

とにかく、今の私には時間の経過も季節の移ろいも分からず、興味も無くなっていた。

あの日、娘を失った日から。


ひどい雨の降る日だった。

朝から空は暗く、重々しい空気だった。

「お父様、いってまいります」

「今日は天気が悪い。気をつけるんだよ」

いつも通りに始まった朝だった。

いつもと同じ時間、娘は学校へ行くために家を出た。

それから僅か20分後だった。

電話が鳴り、娘が車に撥ねられ病院へ運ばれたと連絡を受けた。

本当に私の娘なのだろうか。

人違いであることを祈った。

急いでタクシーを呼び、病院へと向かう。

雨は止む気配はなかった。

妻は娘を産んだ後に病に罹り亡くなった。

以来、私は男手一つで娘を育てた。

男親ということで、娘には何かと苦労をかけたし、嫌な思いもさせたことだろう。

カッとなり、手をあげたこともあった。

酷い言葉を浴びせたこともあった。

それでも娘は私を“お父様”と呼び、慕ってくれた。

私も娘を愛していた。

愛している。

「絶対に私の娘ではないはずだ……」

そんな祈りは虚しく雨空へと消えた。

せめてまだ息のあるものだと思っていた。

顔に白布をかけられ、横たわる無惨な姿の娘。

「何故だ。何故……お前までこんなことに」

雨に濡れ汚れにまみれ、グシャグシャになった髪を撫でてやった。

長く美しい黒髪。

この髪が風になびくことはもうない。

泥と血に汚れた白い肌に触れる。

まさにこの世のものとは思えない程に冷たかった。

「何故……何故だ。答えるんだ、理恵」

「理恵」

不意に娘の名前が口をつく。

広い家には私1人。

返事が返ってくる訳はなかった。

本当に……何年経ったのだろう。

そういえば、先日娘の同級生が仏壇に花を手向に来てくれた。

「時が経つのは早いですね。私たち、もう23歳ですよ。あの日からもう5年です。5年の間、理恵ちゃんのことを忘れたことは一度もありません。ずっと……ずっと大切な友達です」

そう言っていた。

あの日から5年。

もう……いや、まだ5年。

亡くなった時、娘は18歳だった。

高校を卒業することも、成人式に参加することもできなかった哀れな娘。

救われたことといえば、娘を撥ねた相手が深く反省していることか。

今もまだ……多分。

運転手の脇見運転による不注意で娘は撥ねられた。

歩行者用信号は青だった。

娘は悪くない。

それなのに、何故死なねばならなかったのだ。

何故…何故……何故……


「何故だと思うかね?」

「打ち所が悪かったんでしょ。じゃなきゃ生きてたっすよ。きっと」

「ふん。分かり切ったことを。つまらん男だね」

「はいはい」

そう言って私の言葉を流す男。

娘が亡くなった後、私が雇ったお手伝いさんだ。

娘の死後、私は勤めていた会社を辞めた。

働かなくても私1人が生活していくだけのお金はあった。

人を雇う余裕がある程に。

そこで私はこの男を雇った。

名を仲尾と言う。

身の回りのことが1人で出来なくなった訳ではない。

ただ耐えられなくなったからだ。

この広い家に1人でいる事に。

誰でもいいから話し相手が欲しかった。

「しかし旦那。仕事もしないでこんなデカい家に住んでオレまで雇うなんて……どこにそんな金が?……まさか、奥さんと娘さんの保険金とかじゃないでしょうね」

随分と無礼な男であるが、まぁいい事にした。

話し相手としては退屈しないだろう。


「旦那、またそこに居たんすか」

私のお気に入りの場所。

地下の書庫。

小さな天窓から見える庭の草花が美しい。

「何か用かね」

入り口に背を向けて座ったまま、そう答える。

「昼メシの支度できましたよ。さっさと上がってきてください」

それだけ言って仲尾は地下室を出ていく。

薄暗く、カビと本のインクの匂いが混ざり合った独特な香り。

壁にかけられた絵画。

レプリカの剥製。

娘はよくここで本を読んでいたし、掃除を手伝ってくれた。

しかし仲尾はこの部屋にだけ入ることを嫌がった。

どうにも気味が悪いらしい。

妻と娘の遺影があるからだろうか。

「やれやれ、しょうがないね」

重い腰を上げ、私は階段を上がる。

陽の光が眩しすぎて、思わず目を閉じた。


「ところで旦那。庭の手入れの件なんすけど、オレ1人じゃ無理なレベルなんで業者に頼んでもいいっすか?」

昼食のカレーを口に運びながら仲尾が言う。

「駄目だ」

毒々しいほどに黄色いカレーに真っ赤な福神漬けを散らす。

娘が生きていた時は、赤くない福神漬けだった。

「駄目って……旦那だって分かってるでしょ?せっかくの広い庭がどういう状態なのか。ぱっと見はお化け屋敷っすよ」

分かっている。

あの日から何も手を入れていない。

門から玄関まで続く石畳は雑草で覆われた。

庭木はてんで好き勝手に枝葉を広げ、陽の光を遮り始めた。

外壁には知らぬ間に蔦が絡み、2階の窓は一部開かなくなった。

「お化け屋敷か。面白いじゃないか」

「全然面白くないっす。見てくださいよ、この手紙」

そう言って仲尾はテーブルの隅に重ねられた新聞やチラシの山の中から一通の手紙を取り出し、私の前に放った。

私宛の手紙だったが、見事に封が切ってあった。

「人の手紙を勝手に開けたのかね」

「どうせ読む気なかったでしょ、それ」

なんて男だ。

「全く。……荒川不動産?」

「この家を買い取りたいらしいっすよ。ぶっ壊して新しい建物を建てたいみたいっすね。ここ立地いいですもんね。アパートなんか建てたらすぐに満室になりそうだ」

なんて話だ。

ここにはまだ私が住んでいる。

それにここは私と妻と娘、3人が暮らした家だ。

私が生きている間は渡しはしない。

「きっと手入れされてないから廃墟だとでも思ったんじゃないですか。だから庭の手入れを」

「ごちそうさま」

仲尾の話を遮って席を立つ。

「ごちそうさまって全然食べてないじゃないっすか。カレー嫌いでしたっけ?」

「いや、食欲が失せただけだよ。地下室にいるから、何かあったら声をかけてくれ。晩御飯はいらないよ」

それだけを告げて、さっさと地下室へと引っ込む。

このままではいけないことは、私が一番よく分かっている。

しかし、手がつけられなかった。

娘を失ったあの日から私の中の時が止まってしまったように、この家全体もまた時を止めたのだ。

私1人だけが取り残された家。

「このままでいいと思わないかい」

地下室の椅子に腰掛け、足元を見つめたままそう呟く。


天窓からの光は徐々に橙に変わり、やがて部屋の中は真っ暗になった。

このまま夜が明けなければいいのに。

このまま闇が私を飲み込んでくれたなら、妻や娘がいる場所へと行けるのだろうか。

「……ふん、私らしくもないか」

暗闇の中手探りで電気のスイッチを探す。

突然灯った灯りにまた目を閉じる。

それとほぼ同時に地下室の扉が開き、仲尾が顔を出す。

「お疲れ様っす。オレ、今日はもう帰りますからね」

「そうか。随分早いね」

時計を確認すると、19時を少し回ったくらいだった。

いつもは21時頃までテレビを見たり、明日の予定整理などしたりしているのに。

「彼女と予定でもあるのかい?」

どうでもいい質問をして時間を稼ぐ自分が女々しくて情けない。

「まぁ正解っす。戸締まりしっかりしてくださいよ」

じゃ……そう言って仲尾が地下室から出ていく。

その背中に何か質問を投げかけようとしたが、言葉が出なかった。

時間を稼げば稼ぐほど虚しくなるだけだ。

「また明日」

軽く手をあげ、それだけを言う。

返ってくる言葉はなかった。

代わりに、玄関の扉が閉まる音がした。

そして、私は1人になった。

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記憶ノ欠片 水鏡 玲 @rei1014_sekai

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