第2話
また大筋の診察日がやって来た。冷泉は密かにこの日を“Xデー”と呼んでいた。
冷泉の診察室のドアが破壊されて一週間後。
大筋の母が速やかに修繕費を振り込んで作り直されたドアを開き、“奴”は冷泉の前に現れた。
「冷泉先生、今日もよろしくお願いします」
「よろしくお願いします……?」
冷泉は、大筋の様子に面食らった。
服、着とる!!!
タンクトップじゃなくて、ちゃんと服、着とる!!
そして常に仰々しく、己の恋人たる筋肉を見せつけるかのように所作がやかましい大筋が、ちいさくなって椅子に座っている。借りて来た猫のように大人しい。
冷泉はおそるおそる聞いた。
「大筋さん、今日はなんだか元気がないですね。嫌なことでもあったかな?」
「はい……実はそうなんです」
まともに服を着ていても立派な体躯が隠しきれない大筋だが、やはりちいさく見える。
時として人は精神状態の如何によって外見にも影響を与える。
どうやら大筋はひどく傷ついているようだ。
でなければ、こんなにも冷泉の問いに対してまともな返答をする訳がない。
「よかったら先生に聞かせてくれるかな? 嫌なら無理しなくていいですからね」
「はい……実は……」
冷泉は内心緊張していた。
大筋の治療を始めて一カ月、ここまで突っ込みどころのない、普通の会話ができていることは間違いなく異常事態だ。
「ボク……気づいてしまったんです」
医師の勘が言っていた。
“決して油断するな”と。
「ボクが筋肉のことを愛していても、筋肉はボクのことを愛していないって」
「お……大筋さん!!」
冷泉は、診察前に書き上げていた入院指示書を皺になるくらいギュッと掴んだ。
「気がついたんですか……!! とうとう……!!」
「ええ……」
大筋は俯き、悲しげに微笑んだ。
やった……!!
私はやった……!! ようやくこの厄介患者の治療を一歩前に進められた!!
冷泉は心の中でガッツポーズを決める。
実は大筋の治療は長期戦になると見込んで入院計画を立てていたのだが、それはもう必要なさそうだ。
冷泉は入院指示書を後ろ手でバラバラに破いた。
「恋ってそもそも他人にするものじゃないですか。でも筋肉はボクの一部でしょう? それに恋するなんてありえない。恋とは呼べない」
「ええ、ええ、そうですね〜そのとおりです! 先生大筋さんと初めて会話できて嬉しい……」
医師の勘なんて、結局役に立たなかったな……冷泉がやや自嘲したそのときだった。
大筋は目にも留まらぬ素早やさで医療用カートに手を伸ばすと、メスの袋を破り自身の大胸筋に突き立てた。
「だからね、筋肉の奴をボクとは別の存在にしてやろうと思うんです」
「は、はぁー!?」
予想外すぎる展開に、冷泉はただそうとしか言えなかった。
「見ててね、先生!」
「阿呆か貴様は!! この筋肉偏愛者!! 今すぐやめんかダボ!!」
慌てるあまり精神科医としてのNGワードを連発しながら冷泉は大筋を羽交締めにするが、全く歯が立たない。
「待っててねボクの筋肉……今“ふたつ”にしてあげるからね……」
「わー!! 大筋さんだめー!! 感悟さん、麻酔、麻酔ー!!」
「はっ、ただちに」
冷泉の呼びかけを聞いて即座に現れた看護師の感悟は、忍者を思わせる素早い挙動で冷泉に巨大な注射器をぶち込む。
液体が体内に入っていくにつれ大筋は白目を剥いていき、やがてその巨体は昏倒して床に倒れ伏した。
冷泉はぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返しながら、ぐぅぐぅと寝息を立て始めた大筋を見下ろす。
そして息を整えてから、言った。
「やっぱり入院措置だな……」
冷泉はバラバラになった入院指示書のカケラを集め始めた。
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