もう飽きたから
私は走った。目的地は一つしか浮かばなかった。走って三分の観音通り。生きていることをそれ自体で肯定などしてくれない、混沌の通り。
私は、そこでしか生きていけない。
香也に恋などして、少し調子に乗っていた。もしかしたら、そこ以外のどこかに行けるのではないかと。
馬鹿だ。私と香也では、住む世界が違う。香也がゲイだからとか、そんなことは関係ない。ただ、生きる場所が違うだけ。私にとって香也の世界は眩しすぎるし、香也にとって私の世界は醜悪すぎるだろう。
いつもの街灯の下までたどり着き、手櫛で髪を整える。
売れる身体があるうちだけは、生きていける。生きていることが許される。それが、私の世界だ。
「お、美奈ちゃん。」
半分ふざけたみたいな声が、私を呼んだ。ここしばらくで聞き慣れた、大きな男の声だ。
「ひどい顔、してるなぁ。」
大きな男は、軽く身をかがめて私の顔を覗き込んだ。
そこでようやく私は、自分が泣いていることに気がついた。
馬鹿だ。泣くなんて。泣いてどうなるような問題じゃないのに。
大きな男が、ひっそりと笑う。その表情からは、観音通りの夜の匂いがした。
私はそのことに、深く安堵した。
この男は、生きていることを無条件に肯定するような世界に生きてはいない。香也ではなく、私の側の人間だ。
「香也には、飽きた?」
大きな男が、けろりと尋ねてくる。
私は必死で首を縦に振った。
「飽きた! 飽きたから……、」
飽きたから何なのか、言葉は出てこなかった。ただ、もう飽きたと、嘘のくせにその言葉は少しの引っ掛かりもなく口から出てきた。
本当は、香也に飽きたりしていない。これから先だって、飽きることなんてない。それでも、飽きた、と、唇は躊躇いなく言葉を吐出した。
「そっか。」
大きな男は、またひっそりと笑った。
「じゃあ、引きとろっか。」
それは、荷物の引き渡しの話でもしてるみたいにあっさりと。
私は、そのあっさりさに縋った。この男にとっては、香也も私もなんてことないのだと。
「じゃあ、とりあえず今は、セックスしよっか。」
大きな男は、またあっさりとそう言って、黒いスーツのポケットから一万五千円を取り出す。
私はその金を見て、勢いよく首を横に振った。
「いらない。」
すると大きな男は、憐れむような目で私を見た。
「とっときなよ。軽率なことをすると、後で後悔するよ。」
男の大きな手が、二枚の札を私のバッグに押し込む。
その動作が終わるのも待ちきれず、私は大きな男の腕を引いて連れ込み宿に向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます