第9章(7・終幕)

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 長い睫毛が縁取るのは晴れ渡った早朝のように澄んだ青い瞳。ハーフアップにした腰まであるなめらかな髪もまた青く。すれ違えば誰もが振り返る相貌そうぼうに少しのうれいをにじませて、氷呂は光も闇もない空間の一点を見つめていた。その足元には村長よりも一回り身体の小さな白い獣が寝そべっている。

「氷呂。君は何も悪くないよ」

「でも、お父様。明羽に与えられた役目であったとはいえ、明羽ひとりに背負わせてしまったことが申し訳なくて」

「君が気に病むことじゃないね。決めたのは僕達だ。それより僕は君が君に与えられた役割を見事に果たしたことをほこってほしいな。僕はほこらしいよ」

 氷呂は始まりの聖獣を一瞥いちべつもしない。

「無ー視ー。そんなに責めて欲しいなら反省点を洗い出してあげるよ。まず、あの南の町近くの湖のあるオアシスで、明羽のことを忘れた時はどうしたものかと思ったよ」

 氷呂の肩がピクリと動く。

「それから明羽がひとりで北の町に向かったのに対して、ショックを受けたのは分かるけど、その後、行動に移るのに随分ずいぶん時間が掛かったね。明羽を放置するなんて!」

「反省してますぅ!」

 氷呂は足元に寝そべる始まりの聖獣に涙目を向けた。始まりの聖獣はニコリと笑う。

「でも、君はまっとうした。僕は満足だ」

「お父様が満足しても……」

「んん? まだこの問答もんどうを続けるかい? いいよいいよ。喜んで!」

「いい加減にして」

「アハハ」

 氷呂はため息をつき、先程まで見つめていた方へと顔を向け直す。

「明羽……。お父様。待っていれば本当に明羽は来るの?」

「来るよ。今、大事な話をしている最中さいちゅうだからさ。終われば来るよ。どーんと構えて待ってなよ。余裕を見せようぜ!」

「お父様。虚勢きょうせいを張ってるのが見え見え。相変わらず、おば様一筋なんだね。ちょっと安心したけど明羽と一緒に来る筈の村長に八つ当たりするのだけはヤメテね」

 始まりの聖獣は微笑む。見た者を威圧いあつする、て付くような笑顔を顔に張り付ける。

「嫌だなあ。氷呂。僕がそんな大人気おとなげないことする訳ないだろう。僕が天使殿一筋なのは認めるけど」

 氷呂はその青い瞳を半眼にして始まりの聖獣を見下ろした。

「お父様。これはあくまで私の推測すいそくなんだけど」

「う~ん? 何? 聞いてあげないこともない」

「お父様が私を作った本当の理由。おば様が明羽を作ると決めた時、お父様は危機感を覚えたんじゃないかと思って。おば様の興味が明羽にばかり向いたら自分は見向きもされなくなるとか考えなかった? 明羽もおば様に傾倒けいとうするようになったらそこに自分が入る隙はなくなる。だからお父様は私を作ったの。おば様が明羽を愛しても、明羽が他を愛するならそこに自分が入る隙ができるという打算ださんの元、お父様は私を作ったんじゃないかと思って」

「考え過ぎだよ」

 始まりの聖獣はつまらなそうに言う。

「まあ。そうでもそうじゃなくても本当はどうでもいいんだけど」

「じゃあ、なんでわざわざ言葉にしたのさー」

「お礼が言いたくて」

「お礼?」

「そう。たとえどんな理由だろうと私を生み出してくれたことにお礼が言いたくて。お父様。私を明羽と出会わせてくれてありがとう」

「そうなるように作った身としては、そんなまっすぐお礼を言われると罪悪感が湧くなあ」

「作った? いいえ。お父様。これは私のまぎれもない本心。お父様がなんと言おうとそれだけは絶対にゆずらないから」

 力強く言った氷呂に始まりの聖獣は尾を一振りして無い地面を打つ。

「なんだか自分を見ているようだ」

「お父様が自分の性格を自覚していたなんて意外だよ」

「失礼だなあ。でも、それでこそ僕の娘、僕の分身!」

「明羽。まだかなあ」

「わあ。もう僕との会話に興味ないよ。この子」

 氷呂と始まりの聖獣は同時に顔を上げた。ふたりは光も闇もない空間の一点を見つめる。近付いてくる白い点を視界にとらえて氷呂は息を吸い、顔をほころばせた。

「明羽!」

 氷呂の声に白い獣の背に乗っていた小さな影がその背から飛び降りる。氷呂に駆け寄る小さな明羽の姿は瞬きの間に氷呂と同い年の見慣れた姿へと変わった。

「氷呂!」

 明羽と氷呂はお互いの存在を確かめ合うように、強く強く抱き締め合う。

「氷呂! 氷呂! 氷呂だ!」

「そうだよ。明羽。また、会えたね」

 明羽の後から来た村長は抱き合う明羽と氷呂に目を細める。そんな村長に始まりの聖獣が近付く。

「やあ。かい。久しぶり」

「始まりの聖獣。お久しぶりです」

 丁寧に返事を返す村長に、始まりの聖獣はニッコリと笑って元気よく言う。

「君が天使殿とふたりきりで話しているところを想像するだけで炎にあぶられている気分だった僕だよ!」

「お父様」

「冗談はさておき」

 氷呂がため息をつき、始まりの聖獣はけらけらと笑う。村長は絶対に冗談じゃないと思いながらも言葉にはしなかった。

「君が明羽を連れてここに来たということは、天使殿はみんなのところに戻ったということかな?」

「ええ。そうおっしゃっていたので、もう向かったかと」

「ということは君は了承したんだね。明羽と氷呂と共に行くことを」

「創世の七人の一角をになう者の頼みを断れる訳がないでしょう」

「あれ? 嫌々だった?」

「そんなことは言ってません」

「冗談が通じないなあ。相変わらず君は真面目まじめだねえ」

 村長は嫌そうな顔になる。

「冗談を言うならもっと分かりやすい冗談を言ってください。今のは冗談の部類には入りませんよ」

「そうかな? じゃあ分かりやすい冗談って?」

「お父様!」

「むぐぐ!」

 始まりの聖獣の口を両手でつかんだ氷呂に村長はギョッとする。

「父がすみません。村長」

「うん! いや! うんっ! 大丈夫だから!」

 ハラハラする村長を尻目に氷呂は始まりの聖獣から手を放し、始まり聖獣は前足で自由になった鼻先を気にする。

「乱暴だなあ。氷呂は」

「お父様みたいに意地が悪くないだけマシでしょ」

「仲いいねえ」

 明羽の感想に村長はドッと気が抜けた。ひとりで気をんでいることに村長が少しばかり馬鹿馬鹿しい気分になっていると、始まりの聖獣が顔を上げる。

「そうだ。多分だけどね。同行者増えると思うんだよね」

「え」

「多分だけどね」

「多分?」

 始まりの聖獣は笑う。

「だって世界を外から眺めていたのは僕と天使殿だけじゃないんだから。みんなでずっと世界を眺めながら明羽と氷呂の動向を追ってた。天使殿から話を聞いたら自分達の子もって言い始めるのは必然でしょ」

「……なるほど。つまり?」

「あの世界で明羽と氷呂の面倒をよく見てくれていたのは誰? まあ。予想だけどね。さて、じゃあ、後のことは暟に任せるとして僕はそろそろ天使殿のところに戻るとするよ。明羽、氷呂」

 明羽と氷呂が始まりの聖獣を見る。

「またね」

 駆け出した始まりの聖獣の背に明羽は叫ぶ。

「おじさーん! 母様かあさまによろしく言っといて。それから、ありがとうって!」

 始まりの聖獣はチラと振り返ってニコッと笑った。そして、その白い姿はあっと言う間に三人の視界から消える。始まりの聖獣が消えた方をジッと見つめる明羽の頭に氷呂は手を伸ばした。明羽は左耳の後ろにある髪の結び目に氷呂が触れたことでそこにあった筈の髪飾りがもうないことを思い出す。

「石、割れちゃったんだ。ごめん。氷呂」

「そうみたいだね」

「氷呂?」

 氷呂は手首飾りのひとつを外すと明羽の髪の結び目に巻き付けた。そして、残った片方の手首飾りは紐を長くし、自身の首に掛ける。明羽の髪の結び目では涙型の青い石が光り、氷呂の胸元では涙型の青い石が揺れる。

「お揃いだね」

 少し照れくさそうに笑う氷呂に明羽も照れくさそうに笑った。

「行こうか。明羽。氷呂」

 村長の穏やかな声に明羽と氷呂は頷いた。


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 始まりの聖獣は息をはずませながら、光も闇もない空間を切り裂くように駆け抜ける。進む先に目的の人影を見つけて始まりの聖獣は一層息を弾ませた。

「天使殿!」

「聖獣か」

 始まりの聖獣は駆けて行き、始まりの天使に身体を摺り寄せる。そのまま始まりの天使の身体を一周し頭が始まりの天使の腹の位置にくると始まりの聖獣は立ち止まった。柔らかな白い体毛でおおわれた首を始まりの天使がでる。

「明羽と氷呂は」

「暟と共に旅ったよ」

「そうか」

「ところで天使殿。みんなはもう行ってしまったのかな?」

「ああ」

「そっかー」

 始まりの聖獣は残念そうな声を出す。

「挨拶しそびれちゃったな。天使殿の話にみんなはどんな顔してた? 受け入れてくれた?」

 少し前に見た光景を見つめるように始まりの天使は遠くへ目を向ける。

「魔獣に笑われてしまったよ。随分情深い天使になったものだと」

「魔獣殿の言いそうなことだ。まあ。そう言いたくなるのも分からないでもないが。何もないこの場所に生まれた時、僕らは人間ほど豊かな感情を持っていなかった。僕達は随分変わったと思う」

「そうかな。本質は何も変わらないだろう」

「まあ。変わったというよりは身に付いたと言った方がしっくりくるかもしれないね」

「皆、受け入れてくれたよ」

「そうか! それは良かった!」

「明羽と氷呂の話をしたら、私があの世界からすくい上げて皆に返した命の中から、悪魔と精霊がそれぞれひとりずつを差し出してきた」

「やっぱり!」

「やっぱり?」

「そうなる気がしてたんだ。その子達、彼らだろ? あの世界で明羽と氷呂をよく連れて回ってくれた」

「ああ。それと魔獣は魔獣で、別口でひとり飛び回らせると。どこかで見掛けたら声を掛けてやってくれと……何故、私に言うのか」

 最後はただの愚痴になっている始まりの天使に始まりの聖獣は笑う。

「なんにせよ。朗報だ。暟が喜ぶ。で、人間殿と動物殿は?」

 始まりの天使は目を伏せた。

「人間はずっと泣いていたよ。私達と私達の子供達に謝りながら。動物はずっとその側に寄り添っていた」

「そうか。僕らが何を言ってもあの子はずっと自身を責め続けるんだろうね」

「私達にはどうすることもできなかった。「もう迷惑は掛けないから」と言い残して、動物と共にって行ったよ」

「そうか」

 少しトーンを落とした始まりの聖獣だったがはたと気付く。

「動物殿と共に? みんなそれぞれに世界をつくるんだろう? 一緒に発ったところで」

「動物が人間を説得したようだ。人間と動物は共にひとつの世界を創る」

「そうか。いや。でも、少しホッとした。今の人間殿を独りにするのは心配だったが動物殿が一緒なら安心だ。友が側にいてくれるというのはそれだけで心強く、落ち着くものだ」

「ああ。そうしたら悪魔と魔獣もふたりでひとつの世界を創ると」

「あー。悪魔殿は魔獣殿にべた惚れだったものな。魔獣殿もまんざらではなかったようだし」

「ああ。魔獣から声を掛けて悪魔が大喜びしていた」

「魔獣殿から!? それは意外。あの人の本心はついついまで見えなかったなー」

「いつも飄々ひょうひょうと」

「そうそうのらりくらりと」

「こんな話をしていると、いつも、いつの間にか後ろに立っていた」

 始まりの天使と始まりの聖獣は揃って背後を確認してしまう。けれどそこには光も闇もない空間がどこまでも続いているだけだった。

「だが、あのリーダーシップはなくてはならないものだった」

「だよねー。魔獣殿がいなかったら絶対に話しまとまらなかったよね。実験的に創った世界だったとはいえ、ちゃんと世界の形になったのは魔獣殿がいたからだ」

「まったくだな」

 始まりの聖獣はゆっくりと息を吸う。

「あの世界は僕達の夢の箱だった」

「ああ」

「壊れてしまって、とても残念だ」

「そうだな」

「そういえば精霊殿は?」

「うん?」

「人間殿と動物殿。悪魔殿と魔獣殿。精霊殿は? 誰かと共に行くと? 悪魔殿とは相性が悪いから一緒に行くことはまずないと思うけど」

「精霊は自分の為の楽園を創ると意気揚々いきようようとひとり発って行ったよ」

「では、天使殿は?」

「私? 私は……」

 始まりの聖獣がジッと始まりの天使の顔を見つめる。始まりの天使は一度遠くへ目を向けてから一度、二度と瞬きを繰り返し、始まりの聖獣へと目を落とす。

「共に来るか?」

「もちろんだとも!」

 張りのある声を上げると始まりの聖獣は瞬きの間に獣の姿から人の姿へと変化する。

「天使殿。手をつなごう」

 薄い青色のハイライトの差す柔らかな白い髪を揺らして微笑んだ少年に、始まりの天使は少しばかり目をらしてからうなずいた。

 始まりの聖獣が差し出していた手に始まりの天使がそっと手を乗せる。始まりの聖獣は始まりの天使の手を握って意地悪いじわるく笑った。

「照れちゃって」

「照れてなどいない」

「またまた」

 不自然に声を低くした始まりの天使を笑って、始まりの聖獣は歩き出す。始まりの天使はその自分と比べて小さな歩幅ほはばに合わせて歩き出す。

「天使殿。何故なぜ、僕が人化するようになったか言ってなかったよね」

「理由があるのか?」

 始まりの聖獣は無邪気むじゃきに笑う。

「こうして、天使殿と手をつないで歩きたかったからだよ。まさか子供達にまで伝播でんぱするとは思わなかったけどね~」

 隣を歩く聖獣の言葉を聞きながら、始まりの天使は暫く黙っていた。


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 光も闇もない空間を明羽と氷呂と村長はゆっくりと歩く。

「村長は良かったの? 母様に頼まれたとはいえ、私達に付いて来ちゃって」

「うん、まあ。確かに断れなかったというのはあるけど。それを踏まえても僕は今とてもワクワクしているんだ」

「へえ?」

「明羽。氷呂。僕はあの世界でずっと村を守っていた。覚えてる?」

「もちろん!」

「もちろんです」

 明羽と氷呂は力強く頷く。

「僕はずっとずっと長いこと村から出ることができなかった。不満はなかったよ。でも、今、僕は自由で、戸惑うぐらい自由で、どこにでも行ける。これを謳歌おうかしなくてどうするというんだろう。それに村のみんなのことが気に掛かってるんだ。僕達はこれから世界から世界を飛び回るんだろう? みんなにも会えるかと思ってね。安否を確かめて安心したい」

 村長が白い尾を一振りする。明羽と氷呂は顔を見合わせた。

「村長は今でも村長なんだね」

 明羽と氷呂は笑う。それを見て村長は少し恥ずかしそうに微笑んだ。

「そういえばもう村はなくて、僕も村長ではないんだったね」

「でも、村長は村長だった。私はこれからも村長を村長って呼びたい」

「ええ? 村を持たないのに村長かい?」

「ダメかなあ?」

「状況としてはおかしいですけど。私も村長のことは村長と呼びたいです」

「氷呂もか。まあ、僕も呼ばれ慣れてるし。ふたりがそうしたいというなら。いいか」

 村長は気を引き締め直し、胸を張る。

「それはそうと僕は僕のことより君の事の方が気掛かりだ」

「私?」

 明羽は自分を指差した。

「明羽は良かったのかい? また勝手に役割を負わされたんじゃないかと思ってね」

 明羽を見上げる村長の薄紫色の瞳に明羽は少し困ったように笑う。

「まあ、確かに。何にも知らないまま私はあの世界で生きてたけど。村長。私は幸せだったよ。幸せだったんだ。それに、今回は前とは違うよ。母様は願ってくれた。私が自由に飛ぶことを。だから私は飛ぶんだ。母様が願ってくれたままに。自由に。どこまでも」

「そうか」

「それに村長が村のみんなに会いたいように私もみんなに会いたい。その他にもね、あの後どうなったか気になる人達がいるんだ。だから、母様が新たにくれたこの役割は私にとって願ったり叶ったりなんだよ」

 うれいなく笑う明羽に村長は安堵あんどする。

「そうか」

「うん!」

「明羽」

「ん? どうかした? 氷呂」

 氷呂が指差す方を見て明羽は顔を輝かせる。三人が向かう先にはふたつの人影が立っていた。片や紫黒しこくの髪に闇色の瞳の長身の青年。片や青灰あおはい色の髪に薄青色の瞳の色白の美しい女性。

「標ー! 夏芽さーん!」

「明羽ちゃん! 氷呂ちゃん!」

 夏芽が駆け寄って来た明羽と氷呂を抱き締める。

「こんな形で再会できるなんて思わなかったわ!」

「私も思ってなかったよ!」

「思ってなかったです」

「思ってなかったよなあ」

 標が夏芽の腕の中の明羽と氷呂の頭を撫でる。

「標、夏芽」

「村長」

 夏芽は明羽と氷呂を離すと変わって村長を抱き締める。

「ご無事で何よりです」

「無事というかなんというか。始まりの天使様様といったところかな」

「始まりの天使様ですか」

「俺達は気付いたらここにいたからなあ。何が何やら」

「ただ漠然ばくぜんと待ってればいいんだなって、標と意見が一致して」

「ここで待っていたという訳か」

「そうなんです」

「母様がごめんなさい」

 明羽が謝って標と夏芽は首を傾げた。村長は、明羽と氷呂と、始まりの天使と始まりの聖獣の関係を述べる。と、標と夏芽は絶句した。そして、標と夏芽が何故ここで待たされていたのかを村長が説明すると、標と夏芽は目を見開いた。

「私達も明羽ちゃんと氷呂ちゃんと一緒に」

「世界から世界を渡り歩く。ですか」

「い、嫌かな?」

 明羽の不安そうな顔に標と夏芽は苦笑した。

「そんなこという訳ないでしょう」

「喜んで。同行させてくれ」

 明羽は満面に笑った。


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 緑を帯びた黒髪を左耳の後ろでたばねた少女は、いまだ見るものの少ない新たな大地を踏みしめる。その隣には青く長い髪をハーフアップにした少女が寄り添い。ふたりの側には紫黒の髪の長身の青年と、青灰色の髪の色白の美しい女性。そして、太陽の光に白い体毛をにしきに変える獣が立っていた。

 風が吹く。

 青い髪の少女の胸元で涙型の青い石が揺れる。同じものが緑を帯びた黒髪の少女の耳元でキラリと光を放った。


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 市場いちばは多くの人々でにぎわっていた。

「殿下!」

 癖の強い暗めの赤い髪を揺らして青年は振り返る。

「リュウガ様! おひとつ持って行ってくださいな」

 投げられた手の平大の木の実をリュウガは片手でなんなく受け取める。

「殿下が交渉したお蔭で、隣国から仕入れられるようになった果物くだものです。売れ行き好調ですよ」

「そいつは良かった!」

 リュウガは果物にかぶり付き、その味に満足しながら市場の中をり歩く。リュウガに気付いた民達が次々とリュウガに声を掛けていく。人もまばらな市場の外れに着く頃にはリュウガの両手は荷物で一杯になっていた。

「視察に来ただけなんだけどなあ」

「リュウガ」

 城の外で王子を呼び捨てにする人物にリュウガはひとりしか心当たりがない。

「アサツキ!」

 瞳を輝かせて振り返ったリュウガに藍色の髪、藍色の瞳の青年は口を開き掛けて閉じた。

「リュウガ。その荷物は……」

「だってくれるんだもん」

 アサツキは蟀谷こめかみを押さえてため息をついた。

「断ることを覚えろ」

「みんなの好意を無下むげにしろってかー?」

「そんなことは言ってない。王子が物乞ものごいのように、差し出された物をほいほい受け取ってたら示しが付かないだろう」

「俺の国に物乞いはいないぞ」

「まあな」

ひそかな自慢だ」

「お前の努力の賜物たまものだ。大手おおでを振って自慢していい」

 国は豊かだった。隣国とは睨み合う期間も過去にはあったが、今は友好国として交易が盛んに行われている。リュウガの手の中の品々は王族が民に慕われていることの表れで、国が安定している証拠といえるだろう。

「ところでアサツキ。俺になんか用事があったんじゃないのか? わざわざ探しに来たんだろ?」

「そうだった。予算の割り振りのことで財務大臣と国防大臣がまた言い争いになってる。仲裁ちゅうさいに入ってくれ」

「またかよ。あの中年共。仲いいなあ」

「否定はしない。おふたりは認めないだろうが」

妥協だきょうを覚えて欲しいもんだぜ」

「今頃、会議室の机が真っ二つになってるかもしれない」

 アサツキが遠い目になる。

「マジかよ。今まで未遂みすいだったのに。分かった。急いで戻ろう」

 市場の中を足早にアサツキとリュウガは戻って行く。その際、アサツキは誰かとすれ違った気がした。知り合いのような気もしたがはっきりと分からず立ち止まる。

「アサツキ? 急ぐんじゃなかったのか?」

「ああ。そうなんだが……」

 前を行くリュウガに生返事をしながらアサツキは背後を振り返る。

「兄上!」

 切羽詰せっぱつまった幼さの残る声にアサツキはハッとした。焦げ茶色の髪の少年が人の波を掻き分けながらリュウガとアサツキに駆け寄ってくる。リュウガの腕を掴んだ少年は切らした息を整えるのもそこそこに涙目でリュウガを見上げる。

「兄上! 急いでお戻りください! アサツキさんも!」

「トーリ様! 申し訳ありません。今すぐに」

 トーリの慌てようにこれは本当に机が割れた可能性を考えてアサツキとリュウガは駆け出した。


 人混みの中を駆けていく三人の後ろ姿を明羽は同じ人混みの中から見送った。

「明羽」

「うん」

 氷呂に呼ばれて明羽はアサツキとリュウガに背を向ける。

「やっと見つけたと思ったら。アサツキ先生。やっぱりリュウガと一緒にいた」

「元気そうで良かったね」

「リュウガがちゃんと王子様やってて笑う」

 明羽の軽口に氷呂が困ったように微笑む。

「それは失礼だよ。明羽」

「リュウガだからいいんだよ」

 明羽のあっけらかんとした言い方に、ふたりに付いて歩いていた夏芽が呆れる。

「確かに子供っぽいところはあったと思うけど、何に対しても一生懸命な子だと私は評価してたんだけど」

「夏芽さんはだまされてる」

「ええ~? まあ。明羽ちゃんが一番あのふたりと行動してたんだものね。そういうことにしておきましょうか」

「なんだかふくみのある言い方だなあ」

「そんなことないわよ」

 明羽と氷呂と夏芽は人を避けながら歩いていく。

「あの世界での記憶はみんなない筈なのに。おばちゃんとキナさんも一緒にいたし。おばちゃんにいたってはまた子ども増えてて」

「そうだね。おばさんもオニャさんも子育て大変そうだけど幸せそうで良かった」

「ふふ。だね」

「明羽。氷呂。夏芽。そろそろ本命に会いに行こうぜ」

 少し先で標と村長が明羽達を待っている。

「はーい。氷呂」

「うん」

 明羽と氷呂は手をつなぐ。

「私を忘れないで!」

「忘れてないよ~」

 夏芽に背を押されながら明羽と氷呂は駆け出した。


   +++


 人間達が生活しているアチラ側をおもてと言い表すなら、明羽達が今いるのは世界の裏側といえるだろう。暗闇に金色の瞳が光る。

「誰だ」

「動物のおっちゃん。久しぶりー」

「お久しぶりです」

 現れた明羽と氷呂に始まりの動物は警戒をく。

「天使の子と聖獣の子か」

「標と夏芽さんと村長もいるよ」

「そのようだな」

 闇の中、あの世界に存在したどの鳥より立派な両翼を畳み、始まりの動物はどっしりと座していた。鋭いくちばし寡黙かもく気味ぎみに閉ざされ、巨体を支える太い足も鋭い爪も今は見えない。

「お前達も変わりないようだな」

「ということはそっちも?」

 明羽が近付くと始まりの動物は軽く翼を上げた。翼の下から現れたのは明るい赤い髪が印象的な小柄こがらな少女だった。その瞳は硬く閉ざされ、胸がゆっくりと上下する。

「ちょっと失礼しますね」

 夏芽が少女の側に膝を付く。短い赤い髪を軽くいて顔色を確認し、細い手首を軽く握る。

「何度目になるか分からないけど、始まりの方々は病気とか死と無縁なのを痛感するわ。脈拍異常なし、呼吸機能異常なし、筋力のおとろえもなし、っと」

「いつ目覚めてもおかしくはないということだな」

「その通りです」

 新たな世界を創り、始まりの天使から渡された膨大な量の命を世界に放ち終えると、間もなく、始まりの人間は眠りに着いた。長い長い眠りに着いたまま、いまだ目を覚まさない始まりの人間に始まりの動物はため息をつく。

「まあいい。気が済むまで眠るがいいさ。俺は気長に待つだけだ」

「そんな人間のおばちゃんと動物のおっちゃんにプレゼントー」

 明羽の手の中にある花束に動物は目を座らせた。

「またそれか」

 動物が少し視線をずらした先を明羽も見る。そこには瑞々みずみずしく咲きほこる花が山となり、すそ野を広げていた。

「ここに時間の流れはなくて持って来た花が一向に枯れないのは分かってるんだけどさ。だって、すごいんだもん。この世界の花の種類の多さといったら! しかも、来る度に新しいのが増えてるし! ね。氷呂」

「そうだね。この世界は本当に目まぐるしくて、驚きます」

「他の者達の世界はそうではないか。想像できる話だが」

 動物が長い息を吐く。明羽は持ってきた花束の中から一輪抜き取ると、始まりの人間の髪にした。赤い髪に、金の差す白い花が良く映える。人間と動物の世界は創られてからというもの、世界そのものが独自の進化を進めていた。爆発的に増加した人間に、一定数を保っていた動物は追いやられ、絶滅こそしてはいないが『あの世界』に存在していなかった無数の植物に虫類、微生物、他種多様な生き物が生まれては消えていく。短い周期で繰り返される生と死のサイクルに変化は止めどなく、この世界は恐るべき程に目まぐるしかった。

「統一感がないというか、ごちゃ混ぜというか、多様性に富んでいるというか」

「この世界は俺達の手を離れて久しい。この先どのように進もうと、もう俺達にはあずかり知らないことだ」

「そっか」

 明羽は俯く。創造主に見放された世界はこの先どのように進むのか、明羽にはまったくって想像ができない。けれど、そこに住み、生活する者達の顔を明羽は思い出す。皆それぞれに泣いたり笑ったり、創造主など知らずとも、みずからの力で生活していた。

「人間はたくましいね」

「ああ。まったくだ」

 始まりの動物は始まりの人間に目を落とす。

「……今日は顔色が良い」

「え。そうなの?」

「お前達が来ると嬉しそうだ。また、たずねてやってくれ」

「もちろんだよ。何度でも来るよ。それが今の私達に与えられた役割だもん」

「そうだったな」

「そうじゃなくても、来るけどね!」

 自信満々に言った明羽に始まりの動物は目を細める。

「フン」

「何で鼻で笑ったあ!?」

「明羽」

 氷呂がなぐさめるように明羽の肩を叩く。始まりの動物と始まりの人間に別れを告げて、明羽達はその世界の裏側を後にした。

 残された始まりの動物は呟く。

「まだ、自分を責めているのか」

 返ってこない返事に始まりの動物は静かに、赤い髪の少女の小さな身体を羽毛の下に抱き直した。


   +++


 その世界は風が吹くたびころがるような鈴の音が響く。

「相変わらず綺麗なところだね」

 透明度の高い草木は日の光を受けると宝石のように輝き、葉擦はずれの音は鈴の音に似た音をあたり一面に響かせる。植物達がかなでる音楽に合わせて、あちらこちらから聞こえてくるのは美しい歌声だ。その中でもひときわ透明感が強く伸びる歌声に明羽達は近付いた。

「こんにちは」

 明羽に声を掛けられた人物が振り返る。

《やあ。よく来たね。特別な子供達。みんなは息災そくさいだった?》

 他の七人より透明感の強い金色の瞳を細めて始まりの精霊はやわらかに笑う。明羽は氷呂にも手伝ってもらいながら見て回って来た世界のことを伝えていく。明羽と氷呂が話しているのを夏芽と村長は一歩離れたところから見守った。

《そうか。人間はまだ》

「うん。こっちは変わりない?」

《ああ。変わらない》

 明羽に答えながら始まりの精霊はその背後を覗き込む。

《あっちに居るよ。行っておいで》

 夏芽の尻尾がピンと立った。平然を装っていた分、そわそわしていたのを見抜かれて、夏芽は恥ずかしそうに口をもごもごさせるがすぐにはっきりと頷く。

「すみません。失礼します」

 駆け出して行った夏芽を明羽と氷呂と村長は見送った。夏芽が向かった先にはひとりの精霊が木陰こかげたたずんでいた。夏芽に気付くと精霊は頬に朱を差して微笑む。夏芽と精霊が仲睦なかむつまじく話し始めると、後から小さな精霊も飛んできて、三人になってさらに話がはずむ光景を明羽は見つめた。

「覚えていなくても、か」

「夏芽さん。お母さんのこと大好きだったものね」

夕菜ゆながここにいたことにはちょっと驚いたけど」

「夕菜のお父さんはもういないんだもの。人間になる理由が夕菜にはきっとなかったんだよ」

「そうだね」

 明羽と氷呂は少し寂しい気持ちになるが、夏芽と春華はるかと夕菜はとても楽しそうで、明羽と氷呂はお互いの顔を見合わせると小さく笑って肩をすくめた。

《あの世界のことを覚えているのは私達と君達六人だけだものね。気をむのも分からなくはないけど。今ここにいる子達はみんな幸せだから。安心していい》

「だね。ん? 六人?」

 明羽は指折り数えて思い出す。

「そうだ。私と氷呂と標と夏芽さんと村長ともうひとりいるんだった」

《始まりの魔獣の子が丁度今この世界に来ているよ》

 今度は村長の三角形の耳がピンと立つ。

《君達と別行動で飛び回る彼とは、なかなか会えないんじゃないかと思って。あっちにいるから会いに行って……》

「し、失礼します!」

 村長が始まりの精霊の指差した方に飛び出して行く。明羽と氷呂は置いてけぼりにされてしまった。

「行っちゃった」

《君達も行ってくるといい。みんな集まったら戻っておいで。お茶とお菓子を用意しておくから。ああ、でも、ゆっくりでいいよ。お茶とお菓子の用意をしつつ、僕は僕でここにいないもうひとりに挨拶してくるから。彼はすぐ外で君達を待っているよね?》

「うん。いつものように」

《この僕みずからに挨拶させるなんて。彼も大物おおものだよね》

 ちょっと楽しそうな始まりの精霊に明羽も楽しそうに笑う。

「世界のすぐ側だからって無理しないでね」

《世界から世界へ渡る訳じゃない。大丈夫だよ》

 明羽と氷呂にひらひらと手を振って始まりの精霊はふわふわと飛んでいく。


 光も闇もない空間で標はひとりぼんやりと立ちくしていた。

「俺はこの世界に入りたくとも入れないとはいえ、やっぱりちと寂しいな。そして、やっぱりあの人は来るんだろうか……」

 標が困ったように独りちると、パチンと指が鳴らされる。背後に現れた椅子が膝裏にぶつかった反動で、標はその椅子になかば倒れ込むように座らされた。目の前には一本足の丸机が現れ、その上には白磁のポットと揃いのティーカップ、菓子が山のように盛り付けられた皿が現れる。標は恐る恐る頭上に目を向けると、光を透過する肌、重力を無視して宙に浮く青年が、金色の瞳を細めて笑った。始まりの精霊はティーポットを手に取るとティーカップへとお茶をそそぐ。

「これは、どうも……」

 標が気まずそうに何か言い掛けるが始まりの精霊はひらひらと手を振って去って行った。またひとりになった標は湯気の立つカップを持ち上げる。

「創世の七人の一角いっかくになう、始まりの精霊に気をつかわせる俺ってどうなんだ……」

 明らかにひとりきりでは食べきれない量の菓子を目の前に、いつものように持って帰ろうと思いながら標は項垂うなだれた。


「体質とはいえ、精霊の声を聞くと具合悪くなっちゃうんだもんね。標」

「標さんがっていうか、種族同士の相性あいしょうが悪いのはどうしようもないよね。人によって差はあるみたいだけど」

 明羽と氷呂は半透明の葉が生い茂る草原を歩いていく。ふたりが進む程に草原はシャラシャラと鳴り、そこに先を行っていた村長の声が混じる。

「黎!」

 草原の中に寝そべっていた黎は村長の声に驚いて飛び起きた。飛び起きた黎に村長は迷うことなく突進する。横身に村長を受けた黎は草を散らしながら草原を二、三度転がった。

「世界が終わっても貴様は変わらんな!」

 響いた怒声に村長は耳をペタリと折り、尾をだらしなく下げる。

「ごめんよ。黎……」

「反省が生かされる日が来るのを切に願う」

 頭蓋を守るように生える二本の角を持った黒い獣が村長に歩み寄った。黎が鼻先を村長の頬に近付けると村長はそれだけでご機嫌に尾を左右に振る。

「反省が生かされる日は来ないよね。絶対」

「そうだね」

 明羽は肩を竦め、氷呂はクスクスと笑う。

「黎ちゃーん! 久しぶり。精霊のおっちゃんがお茶しよって準備してくれてるよ」

 挨拶もそこそこに黎は一瞬だけものすごく嫌そうな顔になった。

「始まりの精霊がもよおす茶会。ぐう。断れる訳がない」

「みんないい人だけどな。村長も黎ちゃんも気負きおい過ぎじゃない? イヤならイヤって言っちゃっていいと思うんだけど」

「できるか!」

 黎は叫び村長は苦笑する。

「くそ。貴様達は奴らの分身みたいなものだから平気なんだろうがな。あんな力のかたまりみたいな者達を恐れない方が……ああ、もう。始まりの七人をおばちゃんおじちゃん呼ばわりしているのを始めて聞いた時は自分の耳を疑ったんだぞ」

「だって母様の同胞どうほうというか兄弟というか友達というか、なんだもん」

 浮かない顔の黎と共に明羽と氷呂と村長は元来た道を戻り始める。戻ると地面から生える円卓の上に数多あまたのお菓子が並べられ、温かな香りのお茶が湯気ゆげを立てていた。すでに席には夏芽と春華と夕菜が着いており、始まりの精霊が明羽達を手招てまねく。お茶とお菓子を楽しみながら他愛たあいない話をして、明羽達は精霊の世界を後にした。世界の外、光も闇もない空間で標も無事、黎と再会を果たす。

「おっさん! ……なんか疲れてないか?」

「貴様もな」

 お互いの気疲れを標と黎はねぎらい合う。

「またどこかでかち合うこともあるだろう。またな」

「うん。またね。黎ちゃん」

 再会を約束し、明羽は黎の背を見送った。


   +++


 明羽は翼を広げる。慣れた左側にのみ生える四枚の翼で、すいっと上昇してなんなく崖の上に着地する。すぐにその側に村長が駆け上がった。明羽は村長と共に崖下を覗き込む。

「氷呂ー。標ー。夏芽さーん」

 その世界は起伏きふくの激しい大地に緑濃い森が生い茂り、苔生した大地が広がっていた。

「明羽。待って。ほあっ」

 苔に足を滑らせた氷呂の腕を標が掴む。

「すみません。標さん」

「気を付けろー」

「氷呂ちゃん。大丈びあっ!」

 氷呂と標に近付こうとしてそっくり返りそうになった夏芽を標が抱え支えた。

「気を付けろー」

「くそう!」

「夏芽はなんでそんな悔しそうなんだよ」

「アハハ。みんな頑張れー」

 標と夏芽は崖上の明羽を見上げる。

「飛べることを羨ましいなんて思ったこと、なかったのになあ」

「あの世界にはこんな地形なかったものね」

「今じゃここに来る度に思うんだもんな。生きてると何が起こるか分かんねえな。本当」

「ジジイ臭いこと言ってんじゃないわよ。ほら、置いてかれるわよ」

 氷呂が既に崖を半分攻略しているのを見て、標と夏芽は重く蒸す空気に、額に浮かんだ汗をぬぐいながら一歩一歩進んで行く。崖の上に全員がそろったのを確認して、明羽は目的地へと再び足を向ける。日の光がほぼ差し込まない森の中から不意にひらけた場所に出る。一片を崖に切り取られ、その下に起伏の激しい大地にどこまでも続く森が地平線まで伸びているのが見える。その景色を見晴るかす、意図的に平らに成形された地形の上には真っ白な花が敷き詰められていた。

 明羽は息を吸う。

「来たよー」

 大きな白い三枚の花弁を誇らしげに広げた花の絨毯の上。寝そべっていた黒い獣が黒い三角形の耳をピクピクと動かす。

「騒がしいのが来たな」

 黎よりも一回り体躯たいくの大きな黒い獣が上体を起こす。頭蓋を守るように横から前へと伸びる、黎のものよりも鋭い角が明羽に向いた。

「魔獣のおばちゃーん」

 明羽が両手を広げて花畑の中に駆け入ると、明羽と始まりの魔獣の間に滑り込む人影があった。

「魔獣にそう易々やすやすと触らせてなんてあげるものですか!」

 現れたのは、病的に白い肌。それとは対照的な足首まで長いのに、うねりなどひとつもない闇色の髪。左右で長さの違う、細くねじじれた角を頭に生やした女性だった。明羽は足を緩めることなく女の肉付きの良い身体に抱き付く。最初からそれが狙いだったかのように。

「いやん」

 女が崩れ落ちるに合わせて明羽は始まりの悪魔から手を離した。目の前でしなを作る始まりの魔獣の角が丁度手の伸ばしやすいところにあって、明羽は思わず触れていた。

「ひゃあっ!」

 始まりの悪魔がビクリと身体を震わせて、その過剰かじょうな反応に明羽もビックリする。

「ちょっと! いつもは角まで触らないじゃない!」

「ご、ごめん!」

「セクハラよ、セクハラァ!」

 いわれなき罪を背負わされそうになった明羽はアワアワする。

「魔獣! 今の見たわよね! 厳重注意ものよね!」

「あー。はいはい」

「興味のない返事! ああ、でもそんな冷たい貴女あなたが好き!」

「そこのキチガイ女のことは放っておいてこっちにおいで。子供達」

 始まりの魔獣に子供扱いされて村長は苦笑した。氷呂が明羽の手を取って歩き出す。明羽は足元でいまもだえる始まりの悪魔を気にしつつ、氷呂に付いて行った。村長が続き、標と夏芽が始まりの悪魔の側を通り過ぎようとした時、始まりの悪魔は標の足首を掴んだ。

「うお!?」

「しーなー。助け起こして」

 甘い声を出す始まりの悪魔に標は仕方なく手を差し出す。

「ありがとう!」

 その腕に飛び付いた始まりの悪魔は標の腕にその豊満な胸を押し付ける。始まりの悪魔は標ではなく側に立つ夏芽をチラとうかがった。夏芽と始まりの悪魔の目が交差する。

「何か?」

「違ぁーう!」

 一切いっさい熱のこもらない、それどころか怪訝けげんそうな夏芽の薄青色の瞳に、始まりの悪魔は標の腕を放り出す。

嫉妬しっとしなさいよー。私は恋話こいばながしたいのー」

「そんなこと言われましても……」

「申し訳ありませんね」

 標と夏芽は揃って謝った。

 騒ぎに気付いたこの世界の住人達が集まってくる。住人達といっても集まったのは悪魔の子達ばかりで、ひとりを好む魔獣の子達は一切姿を現さない。現しはしないが遠くから来客の気配をうかがってはいた。ふてくされた始まりの悪魔が始まりの魔獣の身体に顔をうずめる。それを一切意にかいさず、始まりの魔獣は明羽と氷呂に目を向けた。

「他の皆のことを聞かせておくれ」

 明羽は見てきた多くのことを語る。それに氷呂が時々捕捉ほそくしながら話は進む。精霊の世界のことに関しては標も興味深そうに耳を傾けていた。

「そうか、人間はまだ。待ち続ける動物も奇特きとくなことだ」

 始まりの悪魔が勢いよく顔を上げる。

「そこは愛でしょ!」

「あー。はいはい。お前は本当にそういう話が好きだな」

「好きだもの!」

 好きなものを堂々と好きという始まりの悪魔に明羽は好感を持っている。隣にいる氷呂の手を握って明羽は真剣に言う。

「私は氷呂が大好きだよ」

「知ってる」

 氷呂は微笑み、寄り添い合う明羽と氷呂に始まりの悪魔は目をうるませた。

「いい! 話しっぱなしで喉乾いたわよね。果物くだものあるわよ。お食べなさい!」

「わーい。ありがとう」

 始まりの悪魔から受け取った柔らかな果実を半分に割って明羽は氷呂と分ける。

「標と夏芽には明羽と氷呂を見習ってほしいわね」

「そんなこと言われましても……」

「申し訳ありませんね」

 始まりの悪魔から受け取った柔らかな果実を標と夏芽も半分個はんぶんこした。

 真っ白な花畑の中。明羽は開いた青い空に白い雲が流れるのを眺める。時折、風が吹いては気紛きまぐれに白い花弁が舞う。

「ここに来るといつも懐かしいような、そうでもないような気分になる」

「そうだね」

 酷く曖昧あいまいな返事をする氷呂を始まりの魔獣は眺める。

「記憶は未だ戻らないのか。お前達が生まれた頃の記憶だ」

「うーん。それが、さっぱり」

「そうですね」

 明羽が諸手もろてを上げるのに対して、やはり氷呂は同意するだけの曖昧な返事を返す。

「そうか」

 けれど、始まりの魔獣はそれ以上追求しなかった。代わりに違う言葉を放つ。

「あ。もうすぐ雨が来るぞ。気を付けろ」

「へ?」

 ほうける明羽を氷呂が勢い良く抱き寄せた。

 メキメキという音と共に始まりの魔獣と始まり悪魔の側に一本の木が生え、葉の生い茂った枝がふたりの上に伸びる。

 次の瞬間バケツをひっくり返したような雨が降り注いだ。その雨は数分ののちみ、真っ青な空と眩しい程の太陽光が降り注ぐ。氷呂の力によって雨にけられた明羽は半ば呆然としたまま、崖の向こうに浮かび上がったものを見た。

「あ、虹」

「明羽。大丈夫? れなかったよね!」

 必死の形相ぎょうそうで聞いてくる氷呂に明羽は笑ってうなずく。

「大丈夫だよ。氷呂のお蔭でね」

 氷呂はホッと胸を撫で下ろす。少し目を放した隙に、始まりの魔獣と始まりの悪魔を雨からしのいだ木は跡形もなく消えていた。

「標。夏芽さん。村長は大丈……夫、じゃないね」

 明羽が振り返った先には全身ぐしょ濡れの三人がいた。

「もっと早く教えて欲しかったんですが?」

「教えられたところで俺達にどうにかできる雨量うりょうじゃなかったけどな」

「すまない。完全に不意打ちだった。僕がどうにかするべきだった」

「すみません! 私、明羽だけっ!」

「いいわよ。氷呂ちゃんはそれでこそ氷呂ちゃんだから」

 村長は全身を振るって水気を飛ばし、標と夏芽は諦めたように笑いながら服のすそしぼる。

ぬぐえる物を持ってくるわ」

「ハハハハ! 乾くまでのんびりしていけ」

 始まりの悪魔が立ち上がり、始まりの魔獣は心の底から楽しそうに笑う。

 氷呂が標と夏芽と村長に謝る声に混じって笑い声が聞こえてくる。明羽が笑い声に目を向けると、集まっていたこの世界の悪魔達もまた、先程の雨にずぶ濡れになっていた。ただ、彼らは濡れるのも一興いっきょうと言わんばかりに楽しそうに笑っていた。

「いいな」

「明羽?」

「なんでもないよ」

 氷呂に向かって明羽は首を横に振る。天使の体質上、雨に濡れると熱を出して寝込むことになる明羽は、少し彼らを羨ましく思う。標と夏芽と村長の全身がしっかり乾くまでお邪魔して、明羽達は魔獣と悪魔の世界を後にした。


   +++


 空に浮かぶ無数の島々からは絶えることなく水が流れ落ち続けていた。風が吹くとしずくが舞い、日の光にキラキラと幻想的に輝く。真っ白な翼を広げ、浮遊する島々を渡り行く人々の姿が見える。島と島の間に浮かぶ無数の大小の岩を足場に行き来する白い獣達の姿が見える。島々から流れ落ち続ける水の行き先はたたえられる青。青。青。風が吹けば波が立ち、青の中に金色の帯が伸び広がっていく。


 明羽は一際大きな浮遊島に降り立った。左側にのみ生える四枚の翼を閉じる。ここでは翼を仕舞う必要がない。明羽の後を小さな小舟が付いて来ていた。それはこの世界で自由に動き回ることのできない標と夏芽の為に始まりの天使が作った浮遊する乗り物だった。なのだが、空を駆ける小舟はとても便利だったので、氷呂と村長も相乗りしている。岸に付いた小舟から、氷呂と標と夏芽と村長が降りる。明羽はそれを確認してから辺りを見渡した。探していた人物を見つけて、明羽はパッと顔を輝かす。

 木陰に置かれた石造りの机と椅子に、五対の翼を持つ天使と、薄い青色のハイライトの差す、柔らかな白い髪の少年が座っていた。

 明羽は駆け出す。

「ただいま! 母様!」

                                  完

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翼を負うもの 利糸(Yoriito) @091120_Yoriito

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