第10章・世界の終わり(5)

 動き始めたいびつな黒い箱にアサツキとリュウガを取り囲んでいた役人達と、明羽と氷呂を注視していた役人達は慌てたようにその場から離れていく。トーリの声が駆動音に負けずに響く。

「このまま予定通りに亜種共を殲滅せんめつしながら南下する! 取りこぼすことは許されない。行くぞ!」

「ハッ!」

 目の前の天使と第一王子はどうするのだろうと思いながら役人達は応じ、ゆっくりとはいえ進み始めた黒い箱に追従する為、ここまで乗って来たそれぞれの車に乗り込んでいく。

 椅子に座り直したトーリの焦げ茶色の髪が前方からの風に揺れる。

「何か見たか?」

 進行方向を見たたままのトーリの問い掛けは誰に対して向けられたものか。背後にひかえる護衛隊の面々が内心戸惑っていると、ひとりが口を開く。

「そうですねー。元とはいえ王の親衛隊長だったお人が足を滑らせるとは思いませんでした」

 飄々ひょうひょうと言ったのは元運転手だ。

「お前は見込みがあるな」

「お褒めにあずかりり光栄です。出世街道かいどうに乗せてもらえるとがたいです」

打算ださんを隠す気もなしか。いいだろう。父上の親衛隊長の座がまだ空席だった筈だ。推薦すいせんしておいてやる」

「ありがとうございます」

 どこか皮肉めいた、似たような笑顔を張り付けてトーリと元運転手は笑った。


 迫ってくる歪な黒い箱をリュウガは呆然と見つめていた。リュウガからトーリの行いは面白い程鮮明せんめいに見えていた。

「トーリ……。嘘だ。あのトーリが」

「リュウガ!」

 放心状態のリュウガの手をアサツキはつかむ。

ほうけてる場合か! 説得は失敗した。逃げるぞ!」

 アサツキは自分の考えの浅はかさを呪う。自分が出会った頃のトーリと、リュウガのトーリ像の後押しもあって決行したが、完全に今のトーリを見誤みあやまった。数年でこんなにも変わってしまうのかとアサツキも内心かなり動揺どうようしていた。リュウガをとにかく車に乗せようとその腕を引く。

「先生!」

「明羽! 何やってる。さっさと逃げろ!」

 必死に怒鳴どなり付けるアサツキを無視して明羽はその側に着地する。

「私達は逃げられたとして、先生達はどうするのさっ」

「俺達のことは心配しなくていい。とにかくお前達は逃げろ!」

「イヤだね!」

 ハッキリと突っぱねた明羽にアサツキは面食めんくらう。

「明羽……」

 明羽とアサツキのやり取りを間近まぢかに見ていた氷呂はくすくすと笑った。

「氷呂。笑い事じゃ……」

「先生。ここは人間が持たない力を持つ私達に任せてくれませんか? 私と明羽で先生達が逃げる時間をかせぎます」

「そんなこと俺が許すと……」

「もう、守られて逃げるだけなんて嫌なんだ。私達はいつも誰かに守られてた。先生。私、先生と別れてから風を呼ぶ練習をたくさんしたんだよ。再会してからまだちゃんと見て貰ってなかったよね」

「明羽。後で……後でゆっくり見せてもらうから……」

「見ててよ。先生」

「明羽」

「まあ、なんにしたって私達はもう先生がいいって言うのを待ってる気はないんだ」

「え」

「では、先生。さっさとリュウガさんを車に押し込んで逃げてください。先生達が安全なところまで行ったと思ったら私達も逃げるので」

「待てっ! 明羽! 氷呂!」

 明羽は氷呂と共にアサツキの横をすり抜けると氷呂を抱えて飛び立った。西の空から星がまたたき始めた空に羽ばたく白い翼にアサツキは目をうばわれる。そんな自分を振り払うようにアサツキは頭を振った。

「くそっ! 勝手しやがって! 教え子に守られるなんて教師としての俺のプライドが……。リュウガ! オラッ! 車に乗れ!」

「トーリが……。トーリ……」

 アサツキはひとつ息を吐いてリュウガの肩を掴む。

「リュウガ。明羽と氷呂が俺達の逃げる時間を稼ぐって飛んで行った。それなのに俺達がいつまでもここにいるのはおかしいだろ」

 アサツキは短い深呼吸ののち、息を止め、腹に力を入れる。と、思い切り右腕を振り抜いた。

 リュウガはなぐられた頬を押さえてアサツキを見る。

「いってー……」

一旦いったんトーリ様のことは頭のすみに置いて車に乗れ」

 リュウガはアサツキがヒラヒラとさせる右手を見る。

「……手首イッたんじゃねえ? 大丈夫か?」

「そう思うなら力を逃がすなりなんなりして欲しかったな。俺の渾身こんしんの一発に一歩も動かないどころかフラ付きもしないとか。この野郎……」

 アサツキの憎まれ口にリュウガは少し困ったように笑った。


 抑揚よくように欠けた声で女は報告する。

「片羽四枚の天使が青い髪の少女を連れてこちらへ向かっています」

 トーリの目にも近付いてくる翼の羽ばたきが映る。

「向かって来るなら好都合こうつごうだ。むかえ撃つ。逃げようと思えば逃げられただろうにめられたものだな。一匹二匹で何かできると思ってるのか? 亜種風情が」

 内容とは裏腹にトーリの声も女と同じように抑揚に欠けていた。鮮やかな赤い服を着た女は表情ひとつ変えずにトーリに問い掛ける。

「第一王子殿下はどうなさいますか?」

「放っておけ」

「承知しました。天使の方はどのように対処を? 青い髪の少女も亜種であることはほぼ間違いないと思われますが種族の判別ができていないので対策が立てられません。亜種判別用の機械を使いますか?」

「その口調だとすでに持ってるな」

「よくお分かりです」

 女はトーリが命じる前に何やらゴテゴテとした黒い機械をトーリの手首に巻く。部下の勝手な行動にトーリは特に何も言わず椅子から立ち上がると中央に丸いものが取り付けられた機械を目線の高さまで持ち上げた。丸いものの上に目標の姿が乗るように掲げる。トーリは一度腕を降ろし機械の中央に設けられた丸いものの中を覗き込む。丸いものの中にはほのかに青い炎がともっていた。

「色の純度が高い。高過ぎるぐらいだ。純血の聖獣に間違いはない。が、これは……」

 トーリは今一度機械を目線の高さに掲げる。今度は天使が丸いものの上に乗るように合わせる。トーリが覗き込むまでもなく機械は真っ白な光を放った。

「トーリ様」

「大丈夫だ。目がくらんだだけだ」

 トーリが目をつむったまま機械の巻かれた腕を横に出すと女が当然のようにそれを回収する。軽くなった手首をトーリは握る。

「片羽四枚の天使か。片羽とは言え、つばさ四枚は伊達だてじゃないということか」

 トーリはゆっくりと閉じていた目蓋まぶたを開く。

「兵器はいつでも撃てる状態になってるな」

 女はここで初めて相貌そうぼうくずした。それはつややかで、どこか麻薬のような微毒を含む、見たものをまどわす微笑ほほえみだった。


 明羽が前に進む程に空気がはじけて割れる。氷呂は明羽の腕の中で明羽の翼が空気を打つ音を聞いていた。

「明羽。大丈夫? 震えてる」

「へ?」

 明羽は自分の腕の中の氷呂を見て、自分が震えていることに初めて気付く。明羽は氷呂を抱え直した。

「ちょっとビックリしただけ。だってリュウガの弟君。アサツキ先生から受けた印象ともリュウガの信じてた姿とも全然違ってたんだもん。ね」

「そうだね」

「大丈夫だよ」

 心配そうに明羽を見る氷呂に明羽は笑う。

「大丈夫」

 二度目の呟きは明羽自身に言い聞かせるものだった。リュウガの言葉は何ひとつトーリに届かず、うまくいくと思っていたことは何もうまくいかなかった。そもそもトーリがこちらの想定する人物でなかった時点で明羽達が信じていたものは最初からそこにはなかった。そして、元隊長が明羽に気付いたように、明羽もまた元隊長に気付いていた。トーリが元隊長の足をすくい上げたのを見たのはリュウガだけではない。明羽は元隊長が無様ぶざまに死ぬ様を見て高揚感こうようかんを覚えた自分に驚き、ショックを受けていた。

「そうだね。明羽。大丈夫。きっとうまくいく」

 既に敗色濃厚にも関わらずそう言い切った氷呂に明羽は自分の額を思い切り氷呂の額に擦り付けていた。

「わっ! ちょ……何!? 明羽!?」

「あはは。氷呂に言われるとそんな気になるから不思議! うん。今はせめて先生とリュウガを逃がすのだけは成功させなくちゃ。その後のことはまたみんなで考えよう」

「もう。そうだけど」

 照れながら不満そうに前髪を直す氷呂に明羽は白い歯を見せて笑う。

「行こう。氷呂」

「うん。明羽」

 明羽と氷呂が降りると赤を通り越した砂漠に薄い影が伸びる。

「目暗ましに風で砂を巻き上げる」

「明羽が集中してる間は私が明羽を守るから、安心して」

「うん。信じてる」

 明羽と氷呂は手を繋ぎ、お互いに強く握り合う。

「そよ風なんてもってのほか。竜巻でも全然足りない。私を中心に嵐を起こす」

 一瞬だけいだと思った風はすぐに明羽を中心に巻き始める。歪な黒い箱を先導する車の中の役人達がその異変に気付く。明羽は黒い箱をまっすぐに見据みすえて翼を広げた。左側にのみ生える四枚の翼。それの光景はトーリにも見えていた。

格好かっこうまとだな」

 ひとつふたつと響き始めた発砲音にトーリは転落防止の柵の外、眼下を見下ろすと車から身を乗り出した役人達が進行方向に向かって発砲を繰り返していた。ひとつふたつだった発砲音は次第に大音量と断続的なものに変わっていく。指示していない行動を取る役人達にトーリは何も言わなかった。明羽と氷呂はいつか聞いた雨音あまおとのように響く銃声の中、身じろぎひとつしない。役人達の銃の命中率はいちじるしく低く、そのほとんどが明羽と氷呂をけていく。それでも中には明羽と氷呂に向かって来るものもあって、それを氷呂が水の防壁でって防ぐ。防がれる銃弾と巻き上がる砂によって次第にくすみ始めた視界に、どこかの役人が悪態あくたいく。

「あれが美しいだって!?」

「第一王子はやはり洗脳されている!」

「化け物共め!」

 トーリは護衛隊のひとりが持ってきた砂避けの布を顔に巻く。

「熱感知は」

「うふふ。正常に動作しています」

 抑揚に欠けた声でしゃべっていた女の姿は既に影も形もなく、かつてない程甘い声でささやく女は、トーリの手の平に納まる大きさのスイッチを差し出す。

「どうぞ、トーリ様。しかと照準を合わせ、押下してください」

 次いでトーリの前に運ばれてきた台形の箱の天板部分には、白、黄、だいだい、赤、紫、青、黒などの色が円形に幾重いくえにもかさなって波打っていた。

「トーリ様。このあたりだけ他に比べて温度が低いのが分かりますか? 聖獣が水の壁を張っている為、周囲より温度が低いのです。役人達の影がはっきり映っているのに対し、亜種二匹の姿は判然としないことから、この奥にいるのは間違いないでしょう。狙ってください」

「簡単に言う」

 トーリは地面と水平になるようスイッチを握った腕を前方に伸ばした。すると台形の箱の天板の上、色取り取りの波形の中に赤く光る線が浮かび上がる。

「そのまま下方へ十五度下げてください」

今更いまさらだが威力いりょくに問題はないんだろうな」

「ふふ」

 女は自信に満ちた顔で笑う。

「イヤですわ。トーリ様。派手さはありませんが、鉄板はもちろん、石壁すら貫通するレーザーですよ。もちろん。それ相応そうおうの厚みになれば防がれるでしょう。ですがこれは初公開の新兵器です。知らないのだから亜種共に対応できる筈がありません。私達が持ち得ない亜種共の力を以ってしても防がれる筈がありません」

「そうか」

「まあ、数度実験が成功しているとはいえ、実践は初めて。失敗する可能性もゼロではありませんが」

 トーリは黙り込む。

付きましたか? トーリ様」

「いいや」

「誤差、少微です」

「全隊停止!」

 歪な黒い箱が金属のきしむ音を響かせながらゆっくりとその動きを止める。と、追従していた車も次々とならって停止する。銃弾が飛ぶ音が消えて、トーリが指先のスイッチを押すとカチッと軽い音が鳴った。瞬間、トーリの乗る歪な黒い箱の前側面から光が放たれる。光は砂嵐に小さな穴をあけながらまっすぐに進む。まるでその一点に吸い込まれるかのように。


 氷呂はすうっと空いている方の手を前方へ伸ばす。明羽と氷呂の姿をおおい隠す大きさの氷の板を何枚も何枚も前に重ねて作り出していく。レーザーが最初の氷に触れた瞬間一列に並んでいた氷の板は万華鏡のように展開した。氷を通過するたびに何本もの光に枝分かれした光は威力を弱めながら四方八方へ散り消えていった。


「なっ!」

 トーリと女が驚愕きょうがくに目を見開いた。トーリと女は同時に叫ぶ。

「砲台準備!」

「トーリ様! 次弾充填そうてんを命じてください!」

「無意味だ。今のを見てなかったのか? また散らされるのがせきの山だ。それだったら岩石地帯を吹き飛ばしたと資料に書いてあった砲台で亜種共々あの辺一体を吹き飛ばす」

 トーリが冷静さを取り戻しているのに対し、女は悔しそうに唇をんだ。


 明羽は自分が起こしている嵐の中に展開された氷の板に目をしばたく。

「氷呂?」

「明羽。集中して」

「あ、はい」

 明羽は氷呂から前に目を戻すが気になってチラと氷呂に目を向ける。

「明羽」

「いや。分かってるよ。ただ、ちょっと氷呂の目が」

 いつも青く澄んでいる氷呂の瞳が今は金色に輝いていた。氷呂は目を伏せる。

「恥ずかしいから見ないで」

「あ、はい」

 明羽は前に向き直って氷呂と繋いでいる手を握り直す。氷呂の手首に巻かれた涙型の青色の石が揺れた。

「いつもの青い瞳も好きだけど金色も綺麗だね。でも、やっぱり私は氷呂の青い瞳が好きだな」

「これが終わったら元に戻ってるから大丈夫」

「あ、そうなんだ」

 明羽の左耳の後ろで束ねている髪が風にあおられ、髪飾りについた涙型の緑色の石が揺れた。不思議と不安を全く感じてないことに明羽は小さく笑う。それに対して警戒をおこたらない氷呂は小さく眉間にしわを寄せた。

「あ。これはまずいかも」

「え? ほあ!?」

 大分離れた場所の地面がぜる大きな音に次いで衝撃波が明羽と氷呂をおそう。油断していた明羽はバランスをくずしてひっくり返り、その上に氷呂はおおかぶさった。

「氷呂!?」

「動かないで。明羽」

 氷呂は飛んできた小石を水の幕で受け止め、大きい物は氷の槍で打ち砕く。降ってくる石がなくなって風が吹きすさぶ音だけになると、氷呂は明羽の腕を掴んで立ち上がる。

「明羽、早く! 次が来る! 一度ここから離れよう」

 明羽は慌てて立ち上がって氷呂を抱えて嵐の中を飛び立った。自分で起こした嵐の為、明羽はスイスイと嵐の中を飛んで行く。背後から地面がえぐられる音が何度と繰り返し聞こえてきて明羽は真っ青になる。

「な、な、何が」

「さっきのは初めて見る兵器だったけど。これは……」

 氷呂の呟きに明羽はハッキリと思い出す。氷呂に背を向けてしまった岩石地帯で見た光景を。

「氷呂。先生とリュウガ、逃げられたかな?」

「分からない」

 明羽と氷呂はお互いの不安をまぎらわすように抱き締め合う。


 トーリは波形を映す天板の上から明羽と氷呂の姿を見失って舌打ちする。

「撃ち続けろ!」

 トーリの命令に嵐の中への闇雲の砲撃は続く。


 嵐の外を走っていたアサツキとリュウガの耳にも砲撃の音は聞こえていた。

「どうなってるんだ……」

「アサツキアサツキ。明羽と氷呂、大丈夫かな? 発砲音が、すごい発砲音が聞こえてたと思ったら嵐の中からピカッて光が走って今はこんな、こんな」

「落ち着け。リュウガ」

 そう言いながらアサツキはアクセルを踏んでいた足からゆっくりと力を抜いていた。車のスピードが落ちていく。

「アサツキ……」

 アサツキは黙って見つめていたハンドルから顔を上げた。

「戻ろう」

「そう来なくっちゃな! アサツキ!」

 不安そうな顔から一点リュウガの顔が明るくなる。アサツキが車を方向転換させると数メートル先の地面が流れ弾でぜた。地面が波打つ衝撃にアサツキとリュウガの乗った車が宙に浮く。

「う……」

「待て待て待て!」

 アサツキは叫びにもならないうめき声を上げ、リュウガは衝撃に備えて歯を食いしばる。車は緩やかに回転すると落下し始め、浮遊感にアサツキとリュウガはその後どうなるかを覚悟した。ミシッバキバキバキッという音と共に想像していたのとは違う衝撃にアサツキとリュウガは目を丸くする。

「無事か? 無事だな」

「黎さん」

 ひっくり返った車のはるか下方にアサツキとリュウガを見上げる黎がいた。窓ガラスの外に見たことのない緑濃い枝葉が見えてアサツキは当惑する。

「何が……」

 黎は黒い尾を一振りする。地面に激突する前に車を受け止めた木はミシミシと音を立てながらさらに枝葉を伸ばし、車の上下を正して地面に下ろす。役目を終えると木は跡形もなく消え去った。アサツキが車を降りる。

「黎さん。ありがとうございます。しかし、何故、ここに」

「礼なんぞいらん。理由は頼まれたからだ。そんなことより、どうやら説得は失敗したようだな」

 アサツキはうつむく。

「すみません。力およばず。あんな大口おおぐちを叩いておいて。俺達の考えが足りませんでした。俺は、トーリ様が俺と会った時のままだと信じて疑わなかった」

懺悔ざんげもいらん」

「いや、アサツキ。俺は思うんだ。トーリは何も変わってない」

「リュウガ。何を言い出すかと思えば。お前は一体何を見てたんだ」

「信じたいんだ。トーリを」

「それがお前のただの願望だとしてもか」

「おう!」

 言い切るリュウガにアサツキは呆れ、ため息をつく。

「つまり、もう一回行くんだな」

「おう!」

「俺はそれに付き合わされる訳だな」

「ダメか?」

 哀願あいがんするリュウガの目にアサツキはため息をつく。

「ここで俺だけ引くなんてできる訳がない。最後まで付き合うさ」

「アサツキ!」

「くっつくな。暑苦しい」

「もう、気温下がり始めてるけどな」

「はあ……。早く決着付けないと俺達がこごえ死ぬな」

「本当に行くのか?」

 黎が怪訝けげんそうな声を出す。

「黎さん。助けていただいたのに。すみません」

「謝罪もいらんが。俺に貴様達を止める理由はない。好きにするがいい。ただ、あの嵐に突っ込んで行く気か? ……弱まってるな」

「え」

 アサツキは見る。明羽の起こした嵐が勢いをくし始めていた。


「明羽」

「うーん。この規模を維持いじするには飛びながらじゃ無理」

「明羽。一度上に逃げよう。物理的に距離を取るの」

「なるほど」

 明羽は翼を何度も羽ばたかせ、進行方向を上空へと変える。嵐が完全に消える前にできるだけ高度を取って明羽は中空で制止した。

「氷呂。大丈夫? 寒くない?」

「大丈夫だよ。明羽」

 明羽と氷呂は世界を振り返る。砂がわすかに巻くだけになり、視界が開けた砂漠は見るも無残むざんな光景に成り代わっていた。砲撃もいつの間にか止み、えぐられた大地にさらさらと砂が流れ込んでいく。広範囲に広がるそれに明羽は氷呂を抱く手に力を込めた。

「おじ様」

「え」

 氷呂の見る先を明羽も目で追う。抉られた大地からそう離れていない場所に後部座席を幌で覆った一台の黒い車が停車していた。その側に立つふたりの人影と黒い獣の姿を明羽は見る。

「先生っ、リュウガ! まだあんなところに! どうしよう。氷呂!」

「視界をさえぎるものが何もない。私達が降りたら目立ち過ぎる。先生達だけなら暗くなってきたし、すぐに動けば夜闇にまぎれて逃げられるかもしれないけど」

「先生。リュウガ。早く逃げてっ」

「でも、どうしておじ様が」

 パッと視界の隅に赤い光が上がった。明羽と氷呂は吸い寄せられるようにそちらに目を向けていた。歪な黒い箱から打ち出された赤い光は弧を描きながら抉られた大地に吸い込まれ、被弾した瞬間真っ赤な炎が地面をめるように広がった。

「え? 何?」

 濃紺に染まり始めた世界が夕焼けよりも赤く、真昼よりも熱くなる。

「何!? なになになに!?」

「落ち着いて。明羽。さすがにこれは。おじ様達のところに行きましょう」

 意味もなくふらふらと飛び始めた明羽を氷呂が誘導する。


 トーリは目の前に突如とつじょとして現れた火の海にゆっくりと背後を振り返る。

「トーリ様。私に名誉挽回めいよばんかいの機会をください!」

 役人達の慌てふためく声が響く中、赤い制服を着た女は笑った。

「こんな兵器が開発、搭載とうさいされているなんて報告は受けていない」

「ええ。私が個人的に開発していた兵器です。独断で乗せました」

「どういうつもりだ」

「そんな怖い顔をしないでください。予定外ではありますがこの兵器は有用ですよ。レーザーが一点の殺傷さっしょう能力に特化しているのに対し、こちらは広範囲を一網打尽いちもうだじんにすることを目的とした兵器です。殺傷能力はレーザーにおとりますが、うまく追い込めば労せず敵を叩けます。ほら、見てください。素晴らしいでしょう。砲撃では何度も打ち込まなくてはいけませんが、これは一発撃ち出しただけでこの範囲を燃やし尽くすことができます。特別に配合した油によって上がった炎は水をかけても簡単には消えません。炎が上がったが最後、自然に消えるのを待つしかない。最終兵器に持ってこいだと思いませんか?」

「亜種相手の兵器じゃないな」

 トーリに見据えらえて女はニヤリと笑う。

「トーリ様。公の歴史には記されていませんが、かつて亜種によって世界が火の海にまれたことがあることをご存知ですか?」

 トーリは答えない。

「あの炎を参考にしてみたのですけれど」

「火をあやつる亜種はいない」

「あら? じゃあ、もしかしてもう文献でしか残っていないあの火の海は人間の仕業しわざだったのかしら? なんて、ねえ。トーリ様?」

 うそぶいて笑う女を前にトーリは酷く気ががれて脱力した。


 燃えさかる炎を前に飛び出そうとするリュウガを、アサツキが必死に引き止める。

「トーリの奴やり過ぎだ!」

「リュウガ。今は諦めろ! 近付くのも無理だ!」

「なんでだ! どうして! トーリ!」

「黎さん! すみませんが手を貸して貰えませんか! 黎さん?」

 リュウガに押し負け始めたアサツキは側にいる筈の黎に目を見張る。黎は真っ赤な炎を見据えて真っ黒な毛を激しく逆立てていた。今、黎の脳裏を支配するのは遠い昔に見た光景だった。

「れ、黎さん?」

「貴様達は今すぐこの場を離れろ!」

「黎さん!?」

 黎はアサツキとリュウガをその場に残して炎へと向かって走り始める。炎のふちを回りながら砂の大地から巨木を生やしていく。


 炎を取り囲むように突如として生え始めた巨木にトーリは目を見開く。

「魔獣がいる?」

「あら」

 女は特に慌てた風もない。慌てふためいていた役人達の声に驚愕と当惑の声が混ざり始める。


 巨木の幹をも舐め始めた炎に黎は舌打ちする。

「少しでも勢いが弱まればと思ったが」

 立ち止まり、息を切らしながらも足元に集中する。黎の立つ地面が波打ったかと思うと、徐々じょじょに炎に覆い被さるようにり上がっていく。大地を動かしながら黎は短い呼吸を繰り返す。

「ひとりでは厳しいな。くそっ。老体に鞭打むちうたせおって!」

はなて!」

 炎を回り込んで近付いて来ていた役人達に黎はこの時やっと気が付いた。飛んでくるノーコンの銃弾に黎は再び舌打ちする。しかし、多勢に無勢の状況にじりじりと黎が後退し始めると、競り上がっていた地面がボロボロと崩れ始める。

「ぬう……」

「黎ちゃーん!」

「おじ様!」

 黎は驚いて空を見上げた。明羽がまっすぐに黎に向かって降下する。明羽に抱えられた氷呂が黎に向かって大きく両手を広げた。

「明羽! 氷呂! なん、ぐえっ」

「うご……。重い……」

「頑張って! 明羽!」

 大の大人程の大きさのある黎を抱えた氷呂を抱えて、明羽は強く強く翼を羽ばたかせた。突如現れ、去って行った天使の姿に役人達は呆気に取られ、揺れる炎の光に照らし出されながら遠ざかっていくその姿を呆然と見送った。


 トーリは双眼鏡を降ろして呟く。

ことごとく取り逃がすな」

 日は既に落ちたが側で燃え盛る炎の所為せいで寒さには程遠く、トーリはじわりと浮いた汗をぬぐう。


 できるだけ燃え盛る炎の大地から遠ざかるように飛んで、明羽は熱が届かないところまで来るとフラフラと着地した。

「ゼッハッ……。ガンバッた……! 私!」

「お疲れ様。明羽」

「何をやっとるんだ。貴様達は。俺のことなど放って置けばよかったものを」

「そんなことっ……できる訳ないじゃんっ」

「そうですよ。おじ様」

 地面に手を付く明羽とまっすぐに立つ氷呂の対照的な姿を黎はジッと見つめる。その頭といわず全身に突如水がひっくり返らされた。ポタポタと黒い毛から水が滴り落ちる。

「……何がしたい?」

「す、すみません! おじ様。あの、炎の側にいらっしゃったので熱かったのではと思ってっ」

 黎の重低音に氷呂だけでなく明羽までもが背筋を伸ばしていた。黎はため息をつき、全身をブンブンと振るうと黒い毛並みは元のつやをいとも容易たやすく取り戻す。

「おお」

火傷やけどとかはありませんか?」

「問題ない。古傷は少々うずいたが」

「古傷?」

「聞き流せ。こちらの話だ」

 軽く首を傾げる明羽と氷呂から黎は随分と遠くになった炎の影に目を向ける。

「どうにもならないか……」

「黎ちゃん」

 遠くなった炎を見つめて明羽はその瞳を少し悲し気に揺らした。

「あれは何だろう? 何の為に生み出されたもの?」

「分かり切ったことを。俺達を殺す為に人間が作り出した兵器だ」

「本当に? 本当にそれだけなのかな?」

「何が言いたい?」

「人間に比べて私達は今すごく数が少ないでしょう? あんな大掛かりな兵器必要なのかなって思って」

「捕まえた俺達を一堂に集めて燃やし尽くすつもりだったんじゃないか」

 明羽は黎を見て口をひん曲げる。

「黎ちゃん。怖いこと言うね」

「俺の知っている人間という生き物はそういう生き物だ」

「そうなの? 私の知ってる人間は割とみんないい人だったよ」

「そうか」

 氷呂が明羽の手を握り、明羽はそれに答える。氷呂の瞳は澄んだ早朝の空を落とし込んだ青色に戻っていた。

「黎ちゃん。アサツキ先生とリュウガは?」

「あの場から離れろとは言った。俺の忠告を聞いたかどうかは分からんな」

「そっか」

 明羽は握っている氷呂の手を少し強めに握り直す。

「ねえ、黎ちゃん」

「ん?」

「私達はこんなに違うのにどうして同じ世界にいるんだろう?」

 黎はチラリと明羽を見上げた。明羽の瞳はまっすぐに地平線を舐めるように燃え続ける炎に向けられていた。

「さあな。創造主達に聞いてくれ」

「創造主『達』か」

 明羽のどこかふくみある言い方に黎は尾を一振りする。

「何か思い出したか?」

「何かって?」

「いや」

 黎は目をせる。

「リュウガが言ってたよね。私達は理解し合うことはできないって。私はそれを悲しいと思った」

「それで?」

「……夏芽さんは大丈夫かな? 今、どうしてるだろう?」

 黎は答えない。

「標が側にいるよね。でも、苦しむ夏芽さんを見て標もつらそうだった。村長も謝花も夕菜も村のみんなも、私にとって大事な仲間だ。あんな炎に巻かれて欲しくない」

 その光景を想像して明羽はギュッと目をつむる。何故こんなにもリアルに想像できてしまうのか明羽には分からない。

「俺はかつてあれと似た光景を見たことがある」

「村長と一緒に聞かせてくれたよね。人間達が語る伝承にあたる時代。私達と人間が隔絶かくざつするにいたった出来事」

「そうだ。俺は今さっき確信した。人間は何度でも同じことを繰り返すぞ」

「でも、黎ちゃんっ」

「明羽」

 緑色の瞳をうるませる明羽に黎は酷く悲しそうな目を向ける。

「迷いがあるならめておけ」

「黎ちゃん。黎ちゃん……私はどうすればいい?」

「貴様がそうするべきだと思ったことをしろ」

「……黎ちゃんはどう思う?」

「他人の意見なんて自身の判断をにぶらせるだけだぞ」

「それでも聞かせてよ」

「ふん。今はあれだけの規模で済んでいるが。このまま進めば間違いなく世界規模に発展するだろうな。かつてのように逃れられた者がいたとしても、いずれ俺達は間違いなくほろぶだろう。そうすれば晴れて人間の天下だ。共存の道はない」

「それが、黎ちゃんの答えなんだね」

「俺は人間が嫌いだからな」

「そっか」

「貴様はそれでも人間が好きか?」

 明羽は首を横に振る。黎はそれを以外に思う。

「いい人達はたくさんいた。たくさん助けてもらった。けど、人間全部を一緒くたに好きとは今の私には言えない」

「そうか」

 氷呂がそっと明羽を抱き寄せる。明羽は小さく震えていた。

「氷呂。怖いんだ」

「大丈夫だよ。明羽」

 氷呂は明羽の頭をでる。

「何度でも言おう。迷いがあるなら止めておけ」

 明羽はゆっくりと黎に向き直った。呼吸を整えて明羽は言う。

「私の目の前で大切な人達が奪われるぐらいなら。私は私の手で世界を終わらせる」

 黎は明羽のまっすぐな瞳を見つめ返す。

「なんだ、後押しが欲しかっただけか」

「ごめん。黎ちゃん。利用するようなことしちゃって」

「謝ることはない。貴様が貴様に与えられた役割を果たす時が来ただけだ」

 向き合った明羽と氷呂はお互いの手を握り合う。明羽は翼を広げた。左側にのみ生える四枚の翼。その対となる場所、何もない筈の右の背で空気が揺らぐ。

「氷呂」

「明羽」

 明羽の身体がゆっくりと地面から離れていく。それに合わせて氷呂のつないでいる手が引き上げられる。明羽の顔を見上げる形になって氷呂は微笑む。

「大丈夫だよ。明羽。私達、きっとまた会える」

「氷呂」

 不安そうな明羽に氷呂も少しばかり青い瞳を潤ませながら精一杯に微笑む。

「愛してる。明羽」

「わ、私だって。氷呂。氷呂!」

 どちらともなくお互いの手を放して明羽はゆっくりと空高くのぼっていく。緑色だった瞳を金色に変えて、明羽はその背に負った四対の翼を広げた。

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