第9章(4)

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 トーリは目をしばたく。

 目の前に広がるのは城の中に造られた王族だけが使えるプライベートな中庭だった。今の自分がいる筈のない場所であることにトーリは瞬時にこれが夢だと直感する。手を見れば現在よりも一回り小さく地面も近かった。トーリはここにいる自分の年齢を推測して辺りを見渡す。記憶の複写か、はたまた心理的な何かが影響した夢か判断する為にトーリは一歩前に出る。すると中庭のすみっこに明らかに王族ではない青年が心許こころもとなそうに立ち尽くしていた。その瞬間にトーリはこの夢が記憶の複写であることを確信する。

「こんにちは」

 トーリが声を掛けると藍色の髪の青年が髪と同じ色の瞳を丸くしてトーリを見た。

「こ、こん、にち……」

「アサツキさんですよね」

「え、なんで俺の名前……」

「兄上がよくあなたの話をするので」

「あ、に?」

 十代のアサツキは細く息を吐き出した。背筋を伸ばし、トーリに向かって軽くこうべれる。

「お初にお目にかかります。トーリ様」

「堅苦しい挨拶なんて、なくて大丈夫ですよ」

 トーリが言うとアサツキは背筋を伸ばし直す。

「トーリ様。発言をお許しいただいてもよろしいでしょうか」

「はい」

「ありがとうございます。トーリ様。できれば俺のことは見なかったことにしていただきたいのですが」

「何故ですか? どうせ兄上が無理を言ったのでしょう」

「まあ、その通り、です。ご明察めいさつです」

 その後、アサツキもトーリも言葉を発さなかったので、ふたりの間に沈黙が落ちる。気まずそうなアサツキをトーリはジッと見上げる。

「ここまで誰ひとりにも見つからずに外の者を連れてくるなんて。さすが兄上といったところでしょうか」

 感情の読みづらいトーンでしゃべるトーリをアサツキは見返す。

「褒めると調子に乗るので、控えめにして頂けると助かります」

「褒めようがけなそうが、私の言うことなんて兄上は歯牙しがにもかけないでしょう」

「トーリ様が褒めれば有頂天うちょうてんになると思いますが」

 目を瞬くアサツキにトーリもまた目を瞬く。

「本当にそう思いますか?」

「リュウガは、あ、リュウガ……様はトーリ様のことを可愛く思っているのは間違いのない事実ですよ」

 リュウガに様を付けることに酷く抵抗があったアサツキは頬を引きらせながらもなんとか言い切った。言い切って肩から力を抜いたアサツキがおかしくてトーリは笑ってしまう。

「……誤魔化ごまかしきれませんでしたか」

「笑ってしまってすみません」

「いいえ。できればこれも見なかったことにしていただけると。不敬罪ふけいざいで俺の首が飛ぶ……」

「ふふふ。黙っていましょう。お約束します」

「ありがとうございます」

 アサツキとトーリはお互いの顔を見てふたりで破顔はがんした。トーリにうながされるままアサツキは側のしげみになかば隠れるように置かれていたベンチに座る。

「兄上の話を聞かせてくれませんか?」

「リュウガ……様の、ですか?」

「話し辛そうですね。兄上のことはいつも通りに呼んで良いことにしましょう」

「え。いや、さすがにそれは……。トーリ様の前で不敬が過ぎるでしょう」

「私は構いません。では、アサツキさんは私に敬語を使うのもなしにしましょう。普段通りになれば話しやすくなるのでは?」

「……ご容赦ようしゃを」

 リュウガの友人でありながらリュウガとは全くタイプの違うアサツキをトーリは観察する。

「アサツキさんは今日は何故こちらに? 兄上の姿は見えないようですが」

 アサツキが苦い顔になる。

「アサツキさん?」

「失礼しました。実を言いますと俺も分からなくて。突然リュウガが俺の部屋に現れたかと思うと、ここに連れて来られて「待ってろ!」と置いて行かれたんです。なんの説明もなく」

「兄上らしいというか。わりに私が謝ります。兄上が申し訳ありません」

 アサツキはギョッとする。

「トーリ様に謝っていただくことなんてありません。大丈夫です。後でリュウガに文句のひとつも言ってやります」

「文句で済ませられますか?」

「リュウガに謝れと言っても伝わらないでしょう」

「ごもっともです」

 トーリとアサツキはリュウガに対する認識がお互いに一致していることにまた笑い合う。

 アサツキは一度リュウガの敬称を取ってしまうと気にならなくなっていた。トーリも本当に気にしていない様子にアサツキは安堵あんどする。

「さすがですね。アサツキさん。兄上のことを熟知じゅくちしていらっしゃる」

「トーリ様もそうでしょう」

「私は、兄上のことを知っていると自信を持って言えません。兄上はいつも私を置いて自由にどこにでも行ってしまう。私はいつも置いてきぼりで」

「トーリ様はリュウガと一緒に城を抜け出したいのですか?」

 アサツキの問いにトーリは黙り込む。

「トーリ様。トーリ様は良識りょうしきをお持ちです」

「良識ですか?」

「はい。トーリ様は自分が自由気ままに振る舞えば周りが困ることを良く分かっていらっしゃる。リュウガは良い反面教師ですね。トーリ様からなら、リュウガの行動で周りがどんな顔をしているか、よく見えるでしょう。リュウガはそこにいないので分からない訳ですが」

「そうですね」

「だからあなたは立ち止まる。考える。それは理性ある行動です。周りは助かっていることでしょう」

「そうでしょうか。たとえそうであっても、私は、時々兄上の奔放ほんぽうさがうらやましいんです。私はいつも保守的で」

「あの奔放さを羨む気持ちは分かります。ですが、他人の目を盗んで抜け出す必要はそもそもない筈なんです」

「というと?」

「城から出たいなら全員を納得させて堂々と表門から出ればいいんです。本来はそうするべきなんですが、リュウガにはそれができる頭がないから……失礼」

 アサツキは咳払せきばらいする。

「抜け出すしかないんです。考えるより欲が先走る。困ったものです。トーリ様なら正式な手続きを取るなり嘘でも理由付けをして表門から出ることも可能でしょう」

「嘘でも」

「申し訳ありません。口がすべりました」

 アサツキは苦虫を噛みつぶしたような顔になる。トーリはタイプの違うアサツキとリュウガが一緒にいる理由が分かった気がした。

「それでもトーリ様はリュウガと共に城を抜け出したいですか? 他人から追われるスリルを望みますか?」

「少し興味はあります」

 アサツキは目を丸くする。

「それは、困りましたね」

 本当に困ったというように微笑むアサツキの顔をトーリは見つめる。

「ですが、私には無理です。どう足掻あがいたって兄上のようには行動できません。私自身が兄上になれないのと同じことです。これは火を見るより明らかです」

「そんなことは」

「いいえ。私のことは私が一番よく知っています。だから」

 トーリはアサツキの隣で居住いずまいを正す。

「アサツキさんの言った通り。私は私のやり方で堂々と表門から外へ出て行けるようにたくさん勉強します。そして兄上も表門から堂々と出入りできるように私がお膳立ぜんだてします」

「え」

「そうすれば兄上はもっと自由に行動できるようになる筈だし、兄上も私を連れて行ってくれる気になる筈です。私は生まれてこのかた、天使どころか亜種を見たことがありません。兄上がひと目でせられたという天使に興味がないと言ったら嘘になります。私は兄上と一緒にその天使を探しに行きたいんです」

 トーリの無邪気な笑顔にアサツキの頭の中でピーンと光がひらめいた。

「それはいいですね。是非ともトーリ様にリュウガの手綱たづなを引いてもらって」

「兄上をおさえるなんて私にはできません。アサツキさんがいてくれて良かったです」

「え」

「三人で堂々と表門から出て行けるように私、頑張ります!」

 トーリの決意あらたかな宣言に、アサツキはこおり付いた笑顔をかして微笑んだ。

「頑張ってください」

「はい!」

 トーリを応援しながらアサツキにはトーリにリュウガの影が重なって見えていた。ふたりは間違いなく兄弟なのだとアサツキは小さく諦めのため息をつく。

「アサツキさん」

「あ、はい。すみません。ため息なんてついてないですよ」

「ため息? 何の話ですか? それよりこの本のこの単語の意味が良く分からなくて。前後の文脈から推測はしてみるのですが」

 どこから取り出したのか、トーリは一冊の本をアサツキの前にかかげて見せた。その本を開いてトーリが指差した先をアサツキは覗き込む。

「ああ、これは著者の性格が悪いんです」

「アサツキさんもこの本を読んだことがあるんですね」

「ええ。まあ。トーリ様ぐらいの年齢の方々には難しい本だと思いますが。この部分を読み流さないで疑問を持って考えていらっしゃるなんて大したものです」

「読み流すには違和感が大き過ぎました」

「それに気付けるというのも才能ですよ」

「褒めても何も出ませんよ」

「純粋にそう思っています」

 アサツキとトーリは笑い合う。リュウガが戻って来るまでふたりは教え教えられながらそのひと時を共有する。リュウガがやたら嬉しそうな顔で戻って来るまで、ふたりは言葉をわし続けた。それはトーリがひとつの目標を決めて歩み始めた時の出来事。けれどその目標を達成することはかなわなかった。時間が掛かってしまったのは確かだと、トーリはひとつ。結論としては、間に合わなかったのだ。リュウガは城に捕らえられた天使を連れて出奔しゅっぽんしてしまった。また、トーリは置いて行かれてしまった。リュウガにとってトーリなど、始終しじゅう眼中がんちゅうになかったのだ。


   +++


 隊を編成し南下し始めて何日がっただろう。そんなことを考えながらトーリは目を覚ます。空気がキンと冷たく張り詰めていた。トーリは何枚もかさねられた掛布かけふの中からい出す。遠征を始めて夜明け前が最も冷え込むことをトーリは知った。トーリ専用のテントの中、トーリの動く気配を察したのかテントの外から声が掛かる。

「おはようございます。トーリ様。すぐに火と水を持ってきます」

「ああ」

 返事をしてトーリは組み立て式のとこから立ち上がった。すぐにテント内中央にもうけられた暖炉だんろに火が入れられ、水は湯になり、朝食の準備が始まる。それを横目に見ながらトーリの身支度は整えられる。朝食を終えるとトーリは伝令から届けられた各地の作戦の進行状況を確認し、次の指示を出していく。一通り終わって一息つくと天幕越しにも真っ白な光が世界を照らし始めるのがトーリにも分かった。トーリはテントの外へ出る。すかさず赤い制服を着た男が近寄ってきてトーリの肩に上着を掛けた。日が昇り始めたとはいえ外の空気はまだ冷たい。トーリはその男をチラと見上げる。

「父上の親衛隊長だったあんたが何故僕の護衛隊に志願したのか。理由を聞かせて欲しいものだな」

 トーリのとし不相応ふそうおうの感情の読み取り辛い声色にも動じず、元隊長は慈愛じあいの笑顔を顔に張り付ける。

「はい。陛下の大切なご子息のおひとりですから。護衛を付けると聞いてすぐに志願いたしました。あなた様のことは私が命にえましてもお守り致しますので」

 元隊長の言葉をトーリは鼻で笑って一蹴いっしゅうする。

「点数稼ぎも大変だな。せいぜいはげむが良い」

「ええ。励ませていただきます」

 トーリを引きり下ろせる瞬間を虎視眈々こしたんたんねらう男の思惑に、当然のように気付いているトーリは自虐的じぎゃくてきな皮肉を込めてつぶやく。

「気の長いことだ」

 そしてすぐに自分に手を下さない男の存在などすぐに意識からき消して、トーリは辺りを見渡した。白い制服の役人達が自分達の使ったテントを片付ける光景が広がっていた。その合間あいま合間あいまに見え隠れするのは明らかに人工的に作られた、けれど半壊している石壁群だった。ここに辿り着く前、地図と現在位置を確認していたトーリは隊が不自然に大きく湾曲わんきょくして南下していることに気付く。すぐに隊の進行を止めてトーリは先導を任せていた小隊の隊長を呼び寄せた。確かに進行方向にあるオアシスを片端から改める為明確に直線では南下してはいなかった。けれどとある場所を避けているとしか思えない隊の動きにトーリが小隊長に問い掛けると、小隊長はポカンとした。小隊長は無意識にその場を避けていた。そしてそれに他の誰も疑問を持たなかった。その事実にトーリは指示を出した。その場所を目指すように。目指したその場に着いたのは昨日の夕方頃のこと。規模は大きくないがそこにあったのは半分砂に埋もれた廃墟はいきょだった。周囲には他に何もなく、どこまでも続く平らな砂漠の上に、わずかばかりに残った石壁を夕日が浮かび上がらせていた。風除けぐらいにはなるかと廃墟の中で野営をすることをトーリが決めて今にいたる。

「地図」

 トーリが横に出した手にすぐに世界地図が手渡される。トーリは地図を開き、眉間みけんしわを寄せる。

「こんなものが世界の中心にあるなんて、城のどの書物にも記されていなかった」

 と同時に口伝くでんにも聞いたことがないとトーリは思う。辿たどり着いた時は物珍しそうに廃墟の中を見て回っていた役人達もいたが一晩経ってその姿もまばらになっている。トーリは振り返る。そこにあるのは廃墟の中でも中心に位置する場所。そこには廃墟の中にあるにもかかわらず、やたらと綺麗な石の円卓がどっしりと残っていた。そしてその円卓を囲んでいるのは円卓と同じく石を磨き上げて作られた七脚の椅子だった。トーリの知識の中に僅かばかりに引っ掛かる言葉がある。脳裏に浮かんだのは「始まりの七人」「創世の七人」という単語。

「馬鹿馬鹿しい」

 七種族の始祖しそが本当に居たとして、この場所と関連付けることに意味はない。たまたま数字が合っただけだとトーリが地図を横に出すとそれはすぐに回収される。

「準備ができ次第出発する!」

 トーリの声に役人達の応じる声が青い空に抜けた。ほぼ同時に駆け寄ってくる足音を聞いたトーリは振り返る。

「どうした?」

 話しかける前に話し掛けられて、駆けてきた役人は驚いて立ち止まった。すぐに我に返って背筋を伸ばしたのは通信機を通して各地からの伝令を取りまとめている役人だ。

「第二王子殿下にご報告いたします! 世界各地で暴動が起こっているとの報告が入りました!」

「暴動?」

「は! 作戦遂行すいこうを終えた北東、北西周辺のオアシスから狼煙のろしが上がり、現在作戦遂行中の東の町ではかなりの規模となっている模様です! 同時に西の町では疑心暗鬼におちいった町人同士が勝手に亜種のあぶり出しを始め、大混乱に陥っているとの報告がありました! 南の町ではこの作戦に対する抗議活動が始まっていると」

「ふっ……ハハハハハ!」

「お、王子殿下?」

 突然笑い出したトーリに伝令役の役人は報告の言葉を忘れる。トーリはひとしきり腹を抱えてから役人を見る。

「暴動は武力で制圧しろ。狩人共に伝えれば嬉々ききとして突っ込んで行ってくれるだろうよ。西の町は放っておけ!」

「王子殿下!?」

「どうした? 早く行け。僕の命令を一言いちごん一句たがえず各地に伝えろ。それがお前の仕事だろう」

 伝令役の役人は顔を真っ青にして元来た道を走って戻る。時々砂に足を取られながら走っていく役人の背中から目を放し、トーリは唇をむ。

「僕の邪魔は誰にもさせない」


   +++


 暴動の話は明羽達の耳にも届いていた。トーリひきいる本隊まであとわずかということで最後の補給と情報収集の為、明羽達はあるオアシスに立ち寄っていた。アサツキが運転席に乗り込むと車の中で待っていたリュウガがアサツキの腕を掴む。

「アサツキ、アサツキ。聞いたか? 暴動だってよ」

「ああ」

 オアシスの中は大混乱に陥っていた。せまる恐怖に助けを求めて叫ぶ者、絶望に打ちひしがれ道端にうずくまる者、各地で起こる暴動に背中を押され立ち上がる者。そして、荷物をまとめて逃げ出す者。オアシスのはしに止めた車にもそれらの声は嫌でも聞こえてきていた。アサツキと一緒に買い出しに出ていた氷呂が後部座席から声を掛ける。

「先生。ここは……」

「ああ、氷呂。分かってる。ここにいる方が危ない。すぐに出るぞ」

「氷呂」

「大丈夫だよ。明羽」

 不安そうな顔をする明羽の手を氷呂は握った。

「アサツキ。急げ急げ。トーリが心配だ」

「分かってる」

 アサツキがエンジンを掛ける。四人を乗せた車は人の声が恐ろしい程うなり響くオアシスを後にした。


   +++


 昼の熱がまだ残り揺れる地平線の彼方に、同じようにユラユラと揺れる太陽が沈もうとしていた。空と大地は真っ赤に染まり、いびつな黒い金属製の箱も今は夕日に照らされて真っ赤に染まる。その箱の上に設置された椅子にトーリは座り、頬杖を付きながら赤い世界をぼんやりと眺めていた。そんなトーリの側には伝令役の役人が立っている。白い制服を他より鮮やかな赤に染め上げながら役人は小刻こきざみに震えていた。

「北東、北西の暴動は死傷者を多数出しながら鎮圧ちんあつされました。西の町の現状は情報が錯綜さくそうして正しくつかめていません。町民の一部が強制的に他の町民を支配下に置いたとか、最後のひとりになるまで殺し合ったとか、混乱に盗賊が介入かいにゅうして鎮静化ちんせいか一役ひとやく買ったとか」

「盗賊が?」

「どれが正しい情報か、はたまたすべてデマか判断が付きません。ただ、た情報すべてにおいて西の町の混乱は収まったものと推察できます。それから東の町ですが……」

 伝令役の役人は一際大きく震え出す。ひたい脂汗あぶらあせが浮かぶ。

「ひ、東の町は治まるどころか暴動が激化して、手に負えない状態になっています。死傷者の数は増える一方です。狩人……狩人共が門を閉鎖へいさして町人達をあおっているとの情報が」

 トーリが肘掛ひじかけを指でトントンと叩くと伝令役の役人がビクリと肩を震わせた。

「やり過ぎだな」

「王子殿下」

「さて、どうしようか」

「第二王子殿下! 恐れながら進言しんげんいたします!」

 伝令役の役人は今をのがすまいと必死の形相ぎょうそうで主張する。

「今すぐ東の町へ向かうべきです! この本隊を連れ、狩人共の横暴おうぼうを止めるべきです!」

 トーリは答えない。

「王子殿下!」

 トーリは伝令役の役人の顔も見ない。

「殿下! あなたのくだした命令で狩人共が増長したのです! ご自身の責任をご理解なさっていますか!!!」

「その命令を各地に伝えたのはお前だろう」

 伝令役の役人の喉がヒュッと鳴る。

「確かに僕には責任がある。この作戦を成功させなくてはならないという責任がな」

「せ、成功させる為なら人の生を理不尽に奪ってもいいというのですか!」

「それが駄目だと思うならお前はお前の頭で考えて正しいと思う命令をいつわってでもそれぞれに下知げちすれば良かったんだ。でも、そうしなかった。僕の所為にする前に考えることを放棄した自分を振り返ったらどうだ」

 伝令役の役人は目を見開き動かなくなる。

「僕には責任を果たす覚悟がある。お前はどうだ? お前の責任は僕の言葉を正しく各地に伝えることだ。お前はそれを正しく果たした。それなのにお前は僕を責めている。何故か? お前には責任を果たす覚悟がなかったからだ。この行いが罪だというならば俺もお前も同罪だ」

 ゆっくりと伝令役の役人の身体がかたむいていく。倒れた役人は二度と動かなかった。トーリの背後にひかえていた鮮やかな赤色の制服に身を包んだ者達が倒れた役人を運び去っていく。

「さて、どうしようかな」

 運び去られる役人になど目もれずトーリはつぶやく。

「トーリ様」

「ん?」

 トーリが振り返ると赤い制服を着た女が抑揚よくように欠けた声で言う。

「見張りからの報告です。こちらに近付いてくる車が一台あるとのことです」

「車? 一台?」

 トーリは考えをめぐらすように数秒黙り込む。

「役人達は銃を扱えるようになったか?」

 役人が常備じょうびする武器は刀であり、銃は触ったこともない者がほとんどだった。それを今回の遠征えんせいの為にトーリは役人達に最低限、銃器も扱えるように訓練を課していた。

 女は答える。

「引き金を引くのには慣れたようですが命中率はあまり。構える姿だけは様になったかと」

「脅しぐらいにはなるか。車が接近する方に構えさせろ。ただし僕の合図なしには撃ち始めるな。様子を見る」

 女が合図を出すとそれを読み取った小隊長達が部下に指示を出していく。白い制服を夕日に真っ赤に染めた役人達が持ち慣れない銃を一方向へ構えると、それなりに壮観そうかんな光景になった。役人達が緊張した面持おももちで息を詰めていると地平線に黒い点が浮かび上がる。その点は次第に大きくなり、後部座席を幌で覆った車は銃の射程圏内ギリギリに入ったところで止まった。役人達に緊張が走る。風が砂を転がす音だけが時たま聞こえる静寂せいじゃくの中、車の助手席が開く。と、乾いた発砲音が一度だけ砂漠に響いた。釣られて他が発砲する前にトーリは声を張り上げる。

「誰が撃った! 命令ひとつまっとううすることもできないのか!」

 整列する役人の中のひとりがビクリと肩を震わせる。けれど、他の役人達は凍り付いたように助手席から降りた男を凝視ぎょうししていた。背中まである癖の強い少し暗めの赤色の髪は、夕日を受けて燃えさかる炎のように真っ赤だった。

「トーリ!」

 空気に、一筋の稲妻いなづまが走ったかのように通った声に役人達はハッとする。トーリはゆっくりと立ち上がり小さく呟く。

「兄上」

 ひとりふたりと役人達はささやき始める。

「あれは誰だ?」

「第二王子殿下を呼び捨てにしたぞ」

「赤い髪の男……指名手配中の男じゃないか?」

「城につかまえてた天使の逃亡をほうじょしたっていう?」

「天使の逃亡を助けたのは第一王子だろう」

「赤い髪の男は王子に手を貸した後、オアシスに逃げたっていう」

「ちょっと待て。俺はあの男を城で見たことがあるぞ。あれは、あの人は第一王子殿下だ」

 誰かの言葉に役人達が一層ざわついた。小隊長達がしずめようとこころみるが即席そくせきで組まれた烏合うごうしゅうはまるでまとまらない。

「兄上!」

 リュウガとよく似た、けれど幼さの残る声が役人達の頭上を飛び越える。トーリの声に役人達は静まり返った。赤い髪の男が第一王子であることを確信した役人達は兄弟のやり取りを聞き漏らすまいと固唾かたずを飲む。

「兄上! ご無事で何よりです! 父上が心配していますよ」

「トーリは心配してくれなかったのか?」

 リュウガの緊張感のない的外まとはずれな返答に、役人達は呆気に取られるも、いで吹き出しそうになるのをこらえた。トーリはニッコリと笑う。およそ子供とは思えない張り付けた笑顔だった。

「もちろん。僕も心配しておりました。兄上」

 リュウガの顔がパッと明るくなる。

「そうか。心配掛けて悪かったな。俺はこの通り元気だ。ピンピンしてる。それでだな。トーリ。俺はお前と話をしに来たんだ」

「話?」

 トーリの頬が小さく引きった。

「トーリ。なんでこんなことしてる? 親父に言われたのか? そうなんだろ。お前は優しい奴だ。本当はこんなことしたくない筈だ。帰って親父に言ってやれ。本当はこんなことしたくないんだって!」

 ひとりで地団駄じだんだを踏むリュウガの子供っぽい仕草に役人達は再び呆気に取られる。車の中にいたアサツキは頭をかかえた。

「悪い。ちょっと行ってくる。明羽と氷呂はくれぐれもそこを動くなよ」

「先生」

「大丈夫だ」

 車の運転席からアサツキは降りる。運転席から降りて来た藍色の髪の男に役人達は目を丸くする。

「誰だ?」

 役人達が再びざわめき始めるが、アサツキはそれが手にえなくなる前に息を吸う。

「トーリ様! お久しぶりです! 一度お会いしたことがあるだけなので覚えていらっしゃらないかもしれませんが」

 トーリの肩がぴくりと反応する。

「アサツキさん」

 その呟きは誰にも聞こえない。

 アサツキはリュウガに近付き、リュウガは近付いてくるアサツキに嬉しそうに笑う。

「アサツキ」

「リュウガ。聞け。決め付けるな。トーリ様の話もちゃんと聞け」

「へ?」

 トーリはいびつな箱の上、落下防止の為に付けられているさくを握って人差し指でトントンと二度叩く。

「兄上」

 トーリの呼び掛けにアサツキとリュウガが顔を上げる。

「何か誤解があるようです。兄上。僕は僕の意思でここにいる」

「トーリ?」

 リュウガの情けない声を聞きながらアサツキは不穏ふおんな気配を感じ取る。アサツキの見るトーリの顔から表情が消えていた。

「リュウガ。リュウガ!」

「へ? お? なんだ?」

「なんか喋れ!」

「え? なんかって、何を?」

「なんでも……いや。お前は何の為にここに来た。思い出せ。全部言葉にしろ。トーリ様が何か言う前に!」

「ええ~と……?」

 リュウガはななめ上を見上げてからトーリに向き直る。

「トーリ」

 そこにいた誰もがハッとリュウガに目を向けていた。それは最初の呼び掛けのようなまっすぐに走る声ではなく、その場を支配する声だった。隣にいるアサツキさえも驚いて目を見張る。

「トーリ。ここにいる全員にも聞いてほしい。俺は確かに天使を連れて城から逃げた。俺の行動はよく突拍子とっぴょうしもないとか予想が付かないとか言われるから、多分ここにいる奴らも驚いただろう。けど、俺はどうしてもそうしなくちゃいけなかったんだ」

 役人達は顔を見合わせる。

「第一王子殿下は天使にそそのかされたんじゃなかったのか?」

「親父達は亜種だからってひとりの女の子を床に押さえつけてその背中から翼をもぎ取ろうとしてた」

 リュウガの言葉に役人達は怪訝けげんな顔をする。亜種なのだから当然だろうと。

「いいか。よく聞けよ。亜種だって俺達と何も変わらない。痛いもんは痛いし、怖い時はおびえるし、悲しかったら泣く。怒る時は、あー、多分怒る。俺達と同じように誰かと喜びを分かち合い、誰かの幸せを願う心を持ってる。ほら、どうだ! 俺達と何も変わらないだろう! そりゃ、生理的に受け付けないとか嫌いなもんは嫌いだって奴もいるだろう。でもな、嫌いだからって殴っていい理由にはならないんだぜ!」

 役人隊のざわつきは大きくなっていく。その中でもリュウガの声はハッキリとそこにいる者達の耳に届く。

「よく考えてくれ。この中に自分を、家族を、仲間を、大切な誰かを亜種に傷付けられた奴はいるか?」

 先程までのざわめきが嘘のようにしんと静まり返る。リュウガの横顔を見てアサツキはごくりと唾を飲み込んだ。その横顔は間違うことなく人をひきいる者の顔。アサツキの知らないリュウガがそこにいた。

「違うからと理解できないからと、排除はいじょするのはもう終わりだ。理解できないなら理解できないままでいいじゃねえか。違うということをそのまま受け入れろ。人間は人間、亜種は亜種。それでいいじゃねえか。それを踏まえて俺はお前達に問いたい。ここにいる奴らで実際に亜種に会ったことのある奴は何人いる? 手の指程もいないだろ。想像だけでビビってんじゃねえぞ。噂を聞いて恐ろしくとも好奇心をつのらせた奴は本当にいないのか? 俺はかつて五対の翼を持つ天使に会ったことがある」

 役人達が息を呑む。

「その美しさたるや言葉でなんか言いあらわせないぜ! きっかけは俺がくれてやる。変化を求める奴は俺に付いて来い。新しい世界を見せてやる!」

 自信に満ちた、それでいて楽しそうなリュウガに役人達の中から銃を降ろす者が現れる。中には捨てる者さえ出始める。数人の役人がリュウガに向かって一歩を踏み出そうとした時、恐ろしい程えとした声が役人達の頭上に降り落ちる。

「五対の翼を持つ天使ですか。そうですね。兄上はずっと探していましたよね。ところで、兄上が逃がしたという片羽四枚の天使はどうしました?」

 リュウガがしゃべり始める前から何ひとつ表情の変わらないトーリがそこにいた。トーリのその暗い瞳にアサツキはゾッとする。役人達は手の中にある銃を握り直した。

「あれ?」

 リュウガは頭を掻く。この時リュウガは胸の内がざらつくような、冷え込むような初めての感覚にとらわれる。それが不安という感情であることをリュウガはまだ知らない。リュウガはこちらを見下ろしてくるトーリを見つめ返す。

「えーと。明羽のことだったよな。一緒に来てる」

「リュウガ」

 アサツキがリュウガの腕を引いた。

「アサツキ?」

「クフッ!」

 笑いをこらえ切れなかったトーリは笑う。

「クックックックッ。一緒に来てる。そうですか。兄上。ひとつお尋ねしても?」

「ん、お? おう! なんでも聞け! なんでも答えてやるぞ。俺はお前のお兄ちゃんだからな」

「兄上は僕を説得せっとくに来た。亜種殲滅作戦あしゅせんめつさくせんめに来たということで間違いありませんね?」

「おう! そうだぞ。トーリがやりたくもないことやらされてるみたいだったから止めに来たんだ」

「つまり僕の為と?」

「そうだ!」

「どういう風の吹き回しですか。ずっとほったらかしだったくせに」

「ほったらかしい!?」

 リュウガは心外しんがいだとばかりに腕をブンブンと振る。その姿はアサツキの良く知るリュウガの姿だった。

「トーリ! 何言ってんだ! 俺はいつだってトーリのこと考えてたし、忘れたことなんてないぞ!」

「天使のことを考えている時もですか?」

 リュウガは黙り込み、アサツキは蟀谷こめかみを押さえた。

「リュウガ。そこで黙るのはまずい……」

「兄上はどうやら亜種に洗脳せんのうされているようだ。車の中をあらためろ。元凶げんきょうがいる筈だ」

 トーリの指示に一小隊が車を取り囲む為に走り出す。アサツキとリュウガにも役人達が駆け寄る。役人達に銃を突き付けられ、アサツキとリュウガは身動きが取れなくなった。

「明羽。氷呂っ」

 アサツキが切羽詰まった顔を車に向ける。車を取り囲んだ役人達は銃をかまえ、息を殺し、ひとりが幌のジッパーに手を掛けると仲間にひとつ頷いた。

「ヤメロ!」

「リュウガ!」

 自分に銃を構える役人に掴み掛かろうとしたリュウガをアサツキは止める。

「この人数はお前でも無理だ。こらえてくれ!」

「でもよっ。アサツキ。このままじゃ明羽と氷呂が!」

 アサツキとリュウガが言い合っていると車にしっかりと張られていた筈の幌がはじけ飛ぶ。真っ赤な夕日の光を僅かに透過する真っ白な四枚の翼にその場にいる誰も彼もが目を奪われた。氷呂を抱え、空へ逃げた明羽はアサツキとリュウガに不安な顔を向ける。

「先生!」

「明羽! 逃げろ!」

「でも、先生!」

「でもじゃない!」

 眼下から叫ぶアサツキの姿に南の町から逃げる際に見たオニャの姿が重なって、明羽は唇を噛む。また逃げることしかできないのかと明羽はきつく目を閉じる。

「先生……」

「明羽っ」

 明羽とアサツキが言い合うのを遠くに見ながら元王直属親衛隊隊長の男はこぼれ落ちそうな程に目を見開いていた。

「あの、天使!!」

 元隊長は明羽から目の前のトーリの無防備な細い背中に目を移す。元隊長は肺一杯に息を吸い込んだ。

「亜種が第二王子殿下を狙っている! 総員、構えろ!」

 ご多分に漏れず、天使の姿に呆けていたトーリの護衛隊員達は目覚めたように動き出す。隊長でもない男の言葉に一糸乱れぬ動きをする。元隊長は鮮やかな赤色の制服を着た者達の中にまぎれてトーリに近付いた。

 アサツキが明羽に叫んでいる間、リュウガはトーリに向かって叫ぶ。

「トーリ! トーリ! 俺は洗脳なんかされてないぞ! トーリ! 俺の話を聞けー!」

「聞いていますとも。兄上」

 ニッコリと笑うトーリにリュウガは自分の言葉が一切伝わっていないことに悲しくなる。そして、リュウガはトーリの後ろから近づく男に気付き、違和感を覚えた。

「トーリ……トーリ! 後ろ!」

 元隊長はナイフを構えてトーリに走り込んでいた。元隊長は考える。第二王子は亜種の未知の力によって殺された。空いてしまった総指揮官の座に、代わって自分が座り第二王子を殺した天使を捕まえた上、遂行中の作戦も見事に成し遂げる。汚名を返上し、王からの信頼を取り戻す。計画の成功を疑わず、元隊長はニヤリと笑った。ナイフが人知れずトーリの背に深々と突き刺さる……というところでトーリはくるりと身をひるがえした。

「へ?」

 勢いの終着点を見失った元隊長は転落防止の柵を危うく飛び越し掛けた。

「くそっ」

 前のめりにはなったがなんとか踏ん張った元隊長の足をトーリが蹴りすくい上げる。元隊長は柵を乗り越え、頭から歪な黒い箱の外へ滑り落ちていった。赤い制服を着た者達が落ちた男の行方ゆくえを追って柵の外を覗き込む。

「あーあ」

 それを傍目はために見ていた元運転手が小さく笑った。

「前進する。兵器に火を入れろ」

「今ですか?」

 抑揚よくように欠ける女の声にトーリはニヤリと笑う。

「今すぐだ」

 女は肩をすくめて、足元に設置された重そうな丸い金属の扉を引き開け、その中へと消える。間もなく大きな振動と共に動き始めた歪な黒い金属製の箱に、柵の外を覗き込んでいたトーリの護衛隊員達は静かに自分達の持ち場へと戻って行った。


 箱から落ちた元隊長は頭を振って髪についた砂を落とす。さいわいなことに柔らかな砂がクッションとなって擦り傷と軽い首の捻挫ねんざだけで済んでいた。

「くそ! くそ! あのクソ餓鬼がき! 目障めざわりなんだよ! 俺の邪魔ばっかりしやがって!」

 悪態あくたいを突いた直後に響いてきた低い音と振動に元隊長は振り返る。箱を支える履帯りたいが男の頭蓋骨ずがいこつを砕いた音は、箱自体が発する音と振動によって掻き消された。

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