第9章・逃走中(5)

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「出発する!」

 お頭の号令の下、先行する黒い車がゆっくりと動き始めた。それに続くように順繰じゅんぐりに車の群れが動き出す。群れの中にはひと際大きく、目立つ一台のトラックがあった。順番待ちのトラックがく、大きなコンテナは人が乗るように改造され、側面にもうけられた扉に続く梯子はしごにお頭が足を掛ける。

「お別れだ」

「何だか寂しいな」

「今度こそ次はないな」

 見上げてくる明羽を無視してお頭は梯子を上る。

「明羽ー。氷呂ー。またねー!」

 トラックの側を走り抜けた車の助手席からアンナが身を乗り出していた。お頭はガックリと項垂うなだれ、明羽と氷呂はアンナに大きく手を振り返す。アンナの声が聞こえたらしいコンテナの中から老人や子供達がため息や含み笑いをこぼすのが聞こえる。お頭が無言でコンテナに乗り込み、入れ替わりで目付きの悪い男が入り口に立つ。

「あの最新車はありがたく貰っていきます」

「うん。こっちはもう運転できる人がいないし。車自体に問題がないなら使ってもらった方がいい筈だから」

「良いものを貰いました。正直私はアレをタダで貰えたのが一番嬉しかったです」

「そっか。良かった」

「それでは。我々はこれで」

 明羽と氷呂の目の前でコンテナの鉄製の扉が固く閉ざされる。トラックは車体全体を揺らしながら重低音と共にゆっくりと走り始める。規格外に大きなトラックを中心に、黒い車の群れがまっ平らな砂漠を走り去る。

「本当にありがとう」

 明羽は遠くなっていく盗賊団『西の風』を見送って、岩石地帯を振り返る。先程まで多くの人でにぎわっていた岩石地帯は今や冷たい岩壁が並び立つ、静かな場所になっていた。暑い風が吹き抜ける。

「さあ。俺達も行こう」

「うん」

 標にうながされ、明羽は見るのもなんだか懐かしい、後部座席をほろで覆った車を前に胸がおどった。二台ある内の一台は後部座席をフラットな状態にして今はそこにアサツキが寝かされている。

「先生。どう?」

「悪くない」

「標。安全運転でお願いね」

「分かってる」

 明羽は標と拳を突き合わせ、氷呂と共にもう一台の車の後部座席に乗り込む。夏芽は既に運転席で明羽と氷呂を待っていた。標はアサツキを乗せた車の運転席に座り、その助手席にリュウガが乗り込む。二台の車は南へと進路を取って走り出す。


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 赤黒い制服を身にまとった男達がひとつのオアシスに身を寄せていた。一様に満身創痍まんしんそういの親衛隊の面々を前に役人達が慌ただしく動き回る。ただひとり、赤黒い制服に腕章を付けた隊長だけは怒りに拳を震わせていた。

畜生ちくしょう! 畜生! 盗賊風情が!! 亜種も盗賊もひとり残らずぶっ潰してやる! 俺の、俺の邪魔をしやがって! 何様のつもりだ! ふざけるな! ふざけるな! 陛下に何と申し開きをすれば! 今一度、陛下にチャンスをいただかなくては。陛下……。一度城へ。ああ、陛下! 陛下にご指示をあおがなければ!」


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 真っ青な空に浮かぶ太陽と寄り添う月が見下ろす下で、後部座席を幌で覆う双子のように似通った車が二台、真っ白に輝く砂漠の上を走っていた。明羽はフロントガラスの向こうに広がる景色に目を瞬く。自身が座る座席シートを撫で、肩に触れる熱量に目を向ければ氷呂が微笑んだ。

「どうかした?」

「私。戻ってきたんだと思って」

 明羽の呟きに夏芽が反応する。

「まだ村に着いてないから正確にはそうとは言えない気もするけど。まあ、そうね。おかえりなさい。明羽ちゃん」

「夏芽さん」

 明羽の瞳がうるんだ。

「ごめんなさい。夏芽さん」

「謝るのも大事だけど。それより先に言うべき相応ふさわしい言葉があるんじゃないかしら?」

「うん。……うん。……ただいま。夏芽さん。ありがとう。迎えに来てくれて。私を諦めないでいてくれて。ありがとうっ」

「どういたしまして」

「ごめんなさああああああい!」

「あらあら」

 膝に泣きついた明羽の頭を氷呂が優しく撫でる。氷呂の瞳も潤んだが氷呂はそれをグッとこらえた。


 真昼が過ぎ、標は休憩する為無人のオアシスに車を寄せる。事前に相談していた訳ではないが夏芽は標の止めた車の横に自身の車を横付けする。車が止まるや否や明羽は車を飛び出して標に駆け寄った。

「標! ありがとう!」

「お? なんだ? どうした?」

 明羽が抱き付いてきた衝撃を標は物ともしない。

「車の中で聞いた。標がきっと一番大変だったと思って。夏芽さんは氷呂が一緒だったけど、標はひとりで私を追い掛けてくれたって」

 胸板の上にある明羽のつむじから標は夏芽と氷呂に目を向ける。氷呂は静かに足元を見つめ、夏芽は首を横に振った。ふたりの反応から標は村での氷呂の暴走のくだりは明羽には伝わっていないことを了承する。

「ありがとう。標。ごめん。ごめんなさい!」

「感謝だけがたく頂いとくな。岩石地帯でしこたま謝られたからな」

 遅めの昼食を食べ、皆が一服している間に夏芽は車の中で寝ているアサツキの元へ向かう。ゆっくりジッパーを開けて夏芽は静かに車に乗り込む。

「お邪魔しま~す」

「ああ」

「あら。ごめんなさい。起こしちゃったわね」

「いや。大丈夫だ。標は運転がうまいな。移動中よく眠れた」

「それは良かったわ」

 夏芽がアサツキの定期診察に向かった車を見ながら、明羽は冷茶の入ったカップを口に運ぶ。

「アサツキ先生。どうかな? 車での移動、傷に響いてないといいけど」

「安全運転は心掛けたつもりだけどな」

「うん。ありがとね。標」

「俺見てくる!」

 リュウガが駆け出して行き、それを見送って標はお茶をすする。

「リュウガはいつもあんな感じなのか?」

「うん。あんな感じ。アサツキ先生大好き」

「そうか」

「明羽。お菓子食べる?」

「食べる!」

 氷呂が開けてくれた缶詰の中にはクッキーがぎっしりと詰まっていた。

「こんなのもあるんだね」

「保存食の一種だね」

「食べちゃっていいの?」

 明羽は標を見る。

「それも随分前に買った奴なんだよな」

「ああ。そういうこと」

 明羽はいつかのスープを思い出しながらクッキーをひとつ口の中に放り込んだ。

「うん。少しパサ付いてるけどお茶があれば十分食べられる。てか、おいしい」

「保存食って優秀だよな」

 二つ目のクッキーを口にふくみながら明羽は砂地に揺れる木洩こもれ日を眺めた。

「標」

「ん?」

「……村長は本当に知ってるの?」

「ああ。俺達と人間が決定的に別れる原因となった瞬間に何があったのか。村長は見てきてる筈だ」

「標と夏芽さんも村長から聞いて知ってたとか言う?」

「いや。村長がとても長く生きてるって聞いたことがあるだけだ。それこそ創世の時代から生きてるとか」

「創、世……? 何? どういうこと? 私達が人間より長生きなのは聞いたけど。もしかしてそういう人ざらに居たりするの?」

「いや。さすがにいないと思うぞ。少なくとも俺は村長とおっさんのふたりしか知らない」

「ふたりいる時点で」

「まあ、そうだな」

「私。本当に何の為に……」

 明羽の手を氷呂が握る。

「これを機に何か思いついてもまずは一回、立ち止まる癖付けてね。切実せつじつにお願いだから。明羽。今回は無事だったけど次があるなんて思わないで」

「はい……」

「何かしようと思った時はちゃんと相談しろ」

「はい……」

 明羽はしょんぼりと項垂うなだれてからアサツキとリュウガがいる筈の車に目を向ける。明羽が考えなしに行動した所為せいで巻き込んでしまったふたりがその中にいる。

「ちょっと私も先生見てくる」

「私も行く」

 明羽と氷呂が歩き出し、ひとり残された標が砂の上に寝転がる。

「いい天気だ」

 明羽はジッパーの開いている幌をめくり上げる。

「先生。夏芽さん。リュウガー。……うわ、狭い」

「明羽ちゃん。この人連れ出して。邪魔ったらないの」

「言われた通りジッとしてるだろう? なんで追い出す?」

 寝るアサツキを挟んで夏芽とリュウガが睨み合っていた。

「いるだけで邪魔なのよ!」

 夏芽が怒鳴るもリュウガはこたえた様子もなくブーイングを飛ばし返す。はさまれたアサツキは始終仏頂面だった。

「リュウガ。夏芽さんの邪魔しちゃ駄目だよ」

「だから邪魔してねえって」

「先生もしんどそうだよ」

「俺の所為かあ!?」

 リュウガが心外だと言わんばかりに叫んだ。

「まあ、いいわ。気が散って時間掛かっちゃったけど脈拍体温点滴異常なし! お邪魔様!」

 夏芽がひらりと明羽の隣を通り抜けると青い空に向かって伸びをした。降りた夏芽に代わって明羽が車に乗り込む。

「狭い……」

 空気を呼んだ氷呂は乗り込まずに幌の内側に立って中を覗いていた。アサツキが明羽の顔を見る。

「何かあったか?」

「先生は何でもお見通しだね」

「そんな馬鹿な」

「明羽が分かりやすいんだよ」

「氷呂の言う通りだな」

「ええ……」

「で? 話したいなら聞くが」

「うん。聞いてよ。先生。私、伝承の真偽しんぎについて調べたくてわざわざ捕まって北の町まで行ったのにさ」

「ちょっと待て。今わざと捕まったって言ったか?」

「あ」

「標達に同情する」

 眉間みけんを押さえたアサツキに明羽は焦る。明羽自身驚いたことだが、標や夏芽、氷呂に怒られるよりも、アサツキの声色の変化に明羽はショックを受けていた。

「ごめんなさい」

「二度とそんな考えは起こすなよ」

「はい」

「で、なんだって?」

「うん。私が行かなくても村にその時代から生きてる人がいるって言われて。私、本当に何の為に行ったんだろうって……。ああ、駄目だ。言うだけ墓穴ぼけつを掘ってるよぅ」

「そうだな。大いに反省して、二度と同じことを繰り返さないように尽力じんりょくしなさい」

「はい」

「もっと言ってやってください」

「わあ……。氷呂、勘弁して……」

「ちょっと待てよー」

「へ?」

 明羽が顔を上げるとリュウガが不満そうに唇を尖らせていた。

「明羽。俺に口止めしといて自分から話すってえのはどういう了見だ」

 明羽はポカンと口を半開きにした。

「本当だ!」

「俺にあれだけ懐疑的かいぎてきな目を向けといて」

「そうだね。ごめんね……」

 ふてくされるリュウガに明羽は深く項垂うなだれた。怒られてばっかりだと、本気で落ち込み始めた明羽にリュウガはまだ少し不満そうだったがひとつうなずいた。

「許す」

「はい! 有り難き幸せ!」

「うむ! 苦しゅうない」

「悪ふざけが過ぎるぞ。リュウガ」

「ゴメンナサイ」

 本気で嫌そうに顔をしかめたアサツキに今度はリュウガが明羽に代わって項垂れた。

「さ、午後もバリバリ走らせるぞ!」

 標の宣言に明羽は氷呂の側に飛び降りた。

「先生。またね」

 アサツキが明羽と氷呂に手を振った。


   +++


 明羽と氷呂、標と夏芽、アサツキとリュウガが砂漠を何日も疾走しっそうする間、村は普段通りに嵐の只中ただなかにいた。夜の嵐の中に星の淡い光は届く筈もなく、真の暗闇に風がうなり、渦を巻く。縦横無尽に飛び交う砂はまさに狂気だった。けれどその中を闇に溶け込む黒い影が人知れぬ小さな村に静かに近付いていた。皆が寝静まる中、村長もまた自分の家の囲炉裏端で深い眠りの縁にいた。形の良い白い三角形の耳がピクピクと動く。村長は薄く目蓋を開け、辺りを見渡した。暗闇に慣れてきた目に見慣れた調度品の数々が映る。食器棚、洋服棚、玄関の戸、囲炉裏、土間、台所、天井付近に設けられた今は閉じられている明かり取りの窓。村長は首を傾げ、さらに耳を澄ます。次の瞬間村長は目を見開き立ち上がっていた。大きな音を立てないように注意しながら玄関の戸を押し開け、外へ出る。村長は急いで村の入り口へと走る。車の出入りの為に広めに取られた空間に、村長とよく似た、けれど毛色の違う影を見つけて村長は歩みをゆるめた。黒い三角形の耳の後ろから側面を回り込んで前へと突き出す角を左右に振りながら、辺りを見渡していたれいが村長に目を向ける。

「標を連れてきて以来だな。あの頃より広くなったか? 久しぶりだな」

「黎!」

 先程まで大きな音を立てないように注意していたことなどすっかり忘れて村長は叫んでいた。一、二歩で最高速に達した村長をもろに食らった黎がもんどり打って地面にころがる。衝撃にすぐに立ち上がれない黎は声だけで抗議こうぎする。

「その癖は未だに健在か! あれ程直せと言ったのに!」

 村長は両耳をぺたりと折った。

「すまない。君の姿が見えるとつい嬉しくて」

「まあ、いい」

 黎がすっくと立ち上がる。治せと言いながらいつもわざと受けてくれる黎に村長は尾を左右に揺らした。

「それにしても。黎。君が村に来るなんて。何かあったのか?」

「どうにもな。大地がざわついてかなわない。あの小娘達はどうしているかと様子を見に来たんだ」

「あの小娘……」

「どうした?」

「実は……」

 村長は明羽と氷呂が今、村にいないこととその経緯けいいを語る。

「はあ!? 何をやってるんだ、あの小娘は。馬鹿か? 馬鹿なのか? 馬鹿なんだな! とうに過ぎ去ったことなど知ったところで皆に迷惑を掛ける程価値のあることか?」

「迷惑というか、心配はしてるけれけど」

「そんなゆるゆるだからめられるんだ。戻ってきたら殴り付けるぐらいの気概きがいしかれ! 雷を落とせ! でないとあの娘は同じことを繰り返すぞ。分かるな?」

「黎。僕は水を操ることはできても雷を操ることはできない」

「今のは比喩ひゆだ!」

 ため息をついて歩き出した黎に村長は付いて行く。


 村長の家の囲炉裏ばたで一服した黎は手足を伸ばした。お茶を淹れる為に人型になった村長が湯飲みを片付ける姿を黎は目で追い掛ける。

「相変わらず。貴様の人化はその姿か」

「一定の年を迎えると聖獣の人化の見た目年齢が止まるのは君も知ってるだろうに。何故、急にそんなことを言い出すんだい?」

「貴様の人化は年の割に若く見えすぎる」

「そんなこと言われても」

「一定の年齢に達すると見た目の成長が止まるのはすべての聖獣に共通することだが、そこに自分の意思がまるで干渉しないということもない。貴様の姿は始まりの聖獣の影響を受けているのが丸分かりだ」

「始まりの聖獣は始祖のひとりなだけあって人化の見た目年齢は自由自在だった。僕の人化がその影響を受けているというのは無理があると思う」

「確かにあいつはデカくなったり小さくなったり自由自在だったが基本的には少年の姿だっただろう。いつも始まりの天使と手をつないで歩いていた」

「その姿は僕もよく見かけたな。始まりの天使はとても長身で、少しアンバランスだった。何故始まりの聖獣は始まりの天使に合わせなかったんだろう?」

「あいつらはどちらも変態だったからな」

「そんな言い方……。始まりの聖獣は一応僕の生みの親なんだけど」

「始まりの七人はもれなく変態だった」

「それは偏見へんけんだと思う」

「第一世代の生き残りも、もう俺達だけか」

「あの炎の日を生き残った者さえ。もう、ひとりもいないね」

 湯飲みを片付け終えた村長は本来の獣の姿に戻ると、寝転がる黎の側に身を寄せる。

「何故、俺達は未だに生き永らえているのか」

「なんでだろうね。僕達だけ寿命をあたえられ忘れたのかな?」

「同世代が寿命で還っていくのを見てきただろう。何故俺達だけ忘れられる!?」

「さあねえ」

「まったくあいつらは今どこにいるんだ! 文句のひとつも言わせてほしいものだ!」

「やっぱり生きてると思うかい?」

「あいつらに寿命などあるか! 死の概念すらあるかどうか」

「そうだね。そうだよね。あの人達は」

 村長と黎は黙り込む。ふたりは既に存在しない景色を一緒に見つめる。

「懐かしいな」

「ああ。懐かしいね」

 はるか遠くに追いやられてしまった、けれどはっきりと思い出せるあの声、あの空気、あの景色を村長と黎は思い出す。


   +++


 どこまでも続くまっ平らな大地の上に真っ白な花が咲きほこっていた。大振りの白い三枚の花弁が風に揺れる。花畑の側には地平線をさえぎる緑深い巨木の森が立ち、その森を背に真っ白な花畑の上で寝そべるふたつの黒い影があった。ひとりは形の良い黒い三角形の耳の後ろから頭蓋を守るように前方へ伸びる太い二本の角を持つ黒い獣だった。もうひとりは病的に白い肌に対照的な闇色の長い髪、その頭からは細く捻じれた二本の角が生えている。眠る黒い獣のゆっくりと上下する腹に上半身を埋めた女は幸せそうに眠っていた。その花畑から少し離れた場所にある、また違う花畑の中程には腰掛けるのに丁度良さそうな岩が置いてあった。そこに丁度腰掛ける青年は質量の感じられない透き通る肌に太陽の光を透過とうかさせ、色の薄い影を落としながら肌よりも透き通るかろやかな歌声を空気中に響かせる。花畑に風が吹き抜けると真っ白な花弁が幾枚いくまいも舞い上がった。舞い上がった花弁にじって大きな白い羽根が舞い混じる。五対の翼を広げた天使が花畑に降り立つと、その姿を見掛けてからずっと追い掛けていた白い獣が花畑に駆け込んだ。

「天使殿」

「聖獣か」

 女とも男ともつかない声を発し、鮮やかな緑色の髪を揺らして始まり天使は振り返る。その目の前で始まりの聖獣はまたたきの間に少年へと姿を変えた。

「天使殿。私の子と、あなたの子の相性はどんな感じだろうか」

「どんな感じも何も。今日も一緒に元気に遊んでいるよ。子守りを任せてしまって悪いな。精霊。感謝する」

 始まりの天使と始まりの聖獣に青年は静かに微笑んだ。花畑の少し奥にふたりの幼子おさなごが座り込んでいた。ひとりは腰まである青い髪をハーフアップにし、夜明けの澄んだ空を落とし込んだ青色の瞳を持つ。ひとりは緑を帯びた黒髪を左耳の後ろでひとつにたばね、鮮やかな緑色の瞳を持っていた。ふたりの幼子はお互いに花冠を送り合って、はにかんで笑い合う。少しばかり近場を駆け抜けていた若かりし頃の村長と黎は立ち止まってふたりの幼子を眺めていた。


 穏やかな景色は一変する。視界を舐める真っ赤な炎。あちらこちらから悲鳴が上がる。

「どうして! 何が起こったの!?」

「なんでこんなことに……」

「早く! 早く火を消さなくては! 私達にはその力があるのだから!」

「駄目だ! 空気が乾燥して水が集まらない」

「井戸はどこ!?」

「いたぞ! 聖獣だ!」

「ぶっ殺せ!」

 人化した聖獣達の目に映ったのは斧やすきくわかまを振りかぶる人間達の姿だった。抵抗する間もなく絶命する聖獣達。真っ赤な景色の中に散りばんだ青く冷たい欠片が熱に解けて消えていく。

「俺達が持たない力を持った化け物共!」

「死体も残らない不気味な奴らめ」

「やられる前に私達はやらなくちゃいけないのよ!」

「向こうで悪魔共が炎を闇に吞ませようとしてるぞ!」

「向こうで魔獣共が地面をひっくり返して炎にかぶせようとしてる!」

「ハハハッ! 馬鹿な奴らだ! この炎はそんな簡単に消えやしない」

「奴らを根絶やしにする為にあの方が特別に作り出した炎だもの」

「偉大な方だ」

「我らの救世主!」

「この聖なる炎に巻かれて死ねるなら私は本望だ」

「ええ」

「ああ」

「俺もだ」

「必ず奴らを根絶ねだやしに!」

 人間達はうなずき合う。村長になる前の村長は、白い毛並みを煤塗すすまみれにして炎の中を走っていた。

「走れ! とにかく炎の外へ! 燃え広がるのが早すぎるっ。早く、早く! とにかく風上へ!」

 燃えさかる炎の向こうに黒い影が見えて村長は叫ぶ。

「黎! ゴホッゴホッ!」

 炎の中を駆け抜けようとしていた黎が立ち止まって振り返った。き込む村長に黎は駆け寄る。

「無事だったか。頭を低くしてゆっくり呼吸しろ」

「ああ……」

「貴様ももう逃げろ。俺達の作った森にまで火の手が回ってる」

「あんな湿潤しつじゅんな森にまで?」

「中までは燃えないだろうが周りを火に囲まれれば中で蒸し焼きだ。後は諦めろ。逃げるぞ!」

 村長はこぼれそうになった涙をこらえる為にギュッと目をつむった。走り出した黎に付いて村長は走り出す。

「始まりの七人はどうしたんだろう。彼らの力をってすればこんなもの、どうにでもできるだろうに」

「俺に聞くな!」

 炎の外へ向かって村長と黎は一心不乱いっしんふらんに駆け続けた。


 長く燃え続けた炎がやっと消えた時、残ったのは草一本生えない真っ黒な大地だけだった。白い毛並みをにごらせた村長が目の前に広がる黒い大地にうつむく。

「人間達は何故こんなことをしたんだろう」

 側に立っていた黎が舌打ちする。

「人間達は己らの恐怖心に負けたんだ」

 不機嫌そうに尾を一振りした黎に村長は身体をこすり付けた。

「やめろ。汚れるぞ」

「火傷は平気かい?」

「ふん」

「後で一緒に水浴びしよう」

「水だけ提供してくれ」

 渋い顔をする黎に村長は笑った。まだ笑えている自分に村長は少しだけ不思議な気持ちになる。


   +++


 囲炉裏の中に残った火種が小さくはじけて小さな音を立てた。

「あの炎の日以降、始まりの七人を見掛けなくなった」

「ああ。彼らは今どこで何をしているのか。なあ、黎。あの花畑で始まりの天使と始まりの聖獣が始まりの精霊に任せていた子供達は」

「ああ。そうだな」

「やっぱり、そうなのか」

「だが、当人達は覚えていないのだろう」

「ああ。嘘をついているようにも見えない。第一世代を生み出して以降始まりの七人は自ら命を生み出すことをしなかった。そんな中、生み出されたあのふたりが特別なことは間違いないのだろうが。何故あの子達は生み出されたのだろう」

「ああ、そうか。貴様は知らないのか」

「黎?」

「なんでもない。貴様は今まで通りあの小娘達に接してやれ。きっとそれが一番いい」

「黎」

「この村に入るのにものすごく精神と体力をけずられた。俺はもう寝る」

「夜に来るからだよ」

「昼間に来たら村人達と鉢合はちあわせるだろう。囲まれるのは好きじゃない」

 鼻を鳴らして本格的に寝る態勢に入った黎に村長も静かに身体の力を抜く。

「おやすみ。黎。来てくれてありがとう。君が教えてもいいと思ったら、聞かせてくれ」

 黎の黒い三角形の耳だけがピクピクと動いた。


   +++


 頭上から地平線へ向かって美しい青のグラデーションが伸び広がっている。強すぎる太陽の光に空の青が暗く見える程の日差しの中、真っ白に輝く砂漠の上をもうもうと砂煙を上げながら同じ型の車が二台走っていた。光の反射を抑える塗料で真っ黒に塗り上げられた双子のように似通った二台の車が走る。空に浮かぶ太陽と寄り添う月、遮るもののない地平線しか視界に入らない景色に、明羽は進んでいる筈なのに止まっているような錯覚さっかくを起こす。脳がおかしくなる前に明羽は視線を地表に移した。砂紋が後方に流れて行く様に明羽はホッとする。

「今日もいい天気ね」

 車の中で太陽の光が遮られているとはいえ、夏芽は涼しい顔で言った。助手席に座る明羽はあごに流れてきた汗をぬぐい、氷呂は額ににじんだ汗を拭う。

「明羽。お水飲む?」

「うん」

 氷呂が袋状になったそでの中から手の平大の小さな水筒を取り出した。水筒からカップに移された透明な水を明羽は喉に流し込む。

「冷たーい。おいしい」

「いいわねー。私にもちょうだいな」

「はい。夏芽さん」

 前方に注意しながらカップを受け取った夏芽とおかわりを貰った明羽が揃って喉を鳴らす。

「くう~。役得よねえ。氷呂ちゃんがいれば水に困らないし、いつもいつでもこんなにおいしいお水が飲めるんだから」

「だよね~」

「お役に立ててるようで良かったです。もうすぐ休憩ですよね。標さんやアサツキ先生達にもおすそ分けしようと思います」

「そうね。もうすぐの筈だから。その時に」

 氷呂と夏芽がそんな会話をしている間、並走するもう一台の車では標がバックミラー越しに後部座席に目を向ける。

「どうだ? 調子は?」

「ああ。お蔭さまで。悪くない」

 後部座席に座るアサツキが返事をした。助手席に座るリュウガが後部座席に乗り出す勢いでアサツキをうかがう。

「アサツキ。アサツキ。アッサッツキ♪」

「うるさいぞ。リュウガ。起き上がれるようになったとはいえまだお前の相手をしてやれるほど、俺の体力は戻ってないからな」

「ええー」

 リュウガがガックリと肩を落とした。けれどすぐにパッと顔を上げる。

「でも元気になって良かった」

「まあ、そうだな」

「本当に……」

 鼻を啜り始めたリュウガを無視してアサツキはフロントガラスの向こうに広がる景色に目を向ける。

「大分南下してきたな」

「そうだな」

 標が頷いた。

「もう半日もしたら村に着くぞ。その前に最後の休憩をして、後はひたすら村まで突っ走る」

「半日……。おおよそ村の場所は把握はあくしてるつもりだが。俺の感覚で言えばここからとても半日で着く距離ではないんだよな」

「そうか。一息に走るには人間には辛い距離か」

「ああ。本当に驚かされる。ここまで来るのにも君達の休憩する回数の少なさと言ったら。標。本当に無理はしてないんだよな?」

「ああ。してないぞ。何ならもう少し休憩減らして急ぐこともできたぐらいにはまだ余裕があるな」

「そうか……野暮やぼな質問だった。君達を目の当たりにしてつくづく思うよ。何故人間だけがこんなにも他の種族達と違うのか」

「なんでだろうなー」

 相槌あいづちを打ちつつも標はアサツキ程その疑問を疑問にとらえてはいなかった。アサツキはふうと息を吐き出す。

「アサツキ。疲れたか?」

「少し」

「あと半日だってさ。寝ててもいいんじゃね」

 リュウガがニッと笑う。

「そうだな。休憩が終わったら俺は後ろで寝かせてもらおうかな。運転し続けの標には悪いが」

「気にするな。これは俺の役割だと思ってるからな。アサツキは病み上がりなんだし」

「そうだそうだ」

 リュウガが元気に標に同意して、アサツキは申し訳なさそうな顔になる。

「怪我人は怪我人なんだがここ数日。本当に何の役にも立てていないものだからどうにも申し訳なくて」

「それを言うなら俺は健康体なのに何の役にも立ってないぞ」

 胸を張るリュウガにアサツキは黙り込んだ。そんなふたりのやり取りに標はただただ笑う。

「あはは。ふたりはそれ以前にたくさん働いただろ。ま、それの振り替え休日ってことで」

「申し訳ない」

 無人のオアシスに立ち寄って最後の休憩を取ると二台の車は更に南へと向かって走り続ける。


   +++


 高い天井、磨き上げられた石の壁、絨毯の敷き詰められた廊下に懇願こんがんする声が響く。

「陛下! 何故、何故あの天使を追う許可をくださらないのです!? どうか、どうかもう一度私めに機会をお与えください!」

 赤黒い制服を身にまとい、その腕に腕章を付けた男が顔色の悪い男の後を追い掛けていた。廊下を行く程に顔色の悪い男に気付いた人々がすれ違い様にこうべれていく。人間の王は立ち止まることなく言う。

「その必要がなくなったからだ」

「それは一体どういう……?」

「計画を早めることになった」

 親衛隊長が息をむ。

「陛下の念願が叶う時が来たのですね! では、すべての指揮権はもちろんこの私めに」

「指揮はトーリが取る」

「……はい?」

「計画を早めることをトーリが提案したのだ。準備は万全とは言いがたいがトーリは自身の能力でそれをおぎなうと言い切った。トーリはまだ幼い。荷が重いと思ったがトーリに迷いはなかった。いつからあの子はあんな目をするようになったのか。だから任せることにしてみたのだ。余の決定が不服か?」

「め、滅相めっそうもございません。第二王子殿下ならばその大役たいやく、必ずやげてご覧に入れるでしょう。素晴らしい采配さいはいにございます! ただ……」

「ただ?」

「恐れながら。敵は野蛮やばんな亜種共にございます。トーリ様の身に危険が及ぶ可能性も……」

「抜かりない。トーリには護衛を付ける」

「陛下! その大役ぜひともこの私めに!」

「親衛隊長自ら? 貴様は余の親衛隊だろう」

 王の言葉に隊長が感動に瞳を潤ませた。

「陛下! 私も御身おんみの側を離れるのは心苦しい限りでございます! ですが、トーリ様は陛下のご子息がひとり。そのお身体はどの宝よりも高貴なもの。トーリ様をお守りすることは陛下をお守りすることと同義と考えます」

 頭を垂れる隊長を吟味ぎんみするように王は目を細めた。

「まあ、いい。トーリを護衛するひとりに貴様を加える。だが、既に隊員の選別は終わり、隊長も決まっている。貴様は一隊員となるが、良いな」

御意ぎょいに」

 隊長は頭を垂れたまま立ち止まり、王は廊下を進んで行く。王は呟く。

「あの男はもうダメだな。自分の立ち位置をわきまえていない。ハア……。トーリ。これでリュウガも目を覚ましてくれればいいが」

 小さくつぶやかれた声は誰にも届かない。隊長は王の姿が見えなくなるまで頭を垂れ続けた。完全にその気配が消えてから隊長は顔を上げる。激しく足を踏み下ろすが衝撃はすべて絨毯に吸収された。

「あんな小僧に! 何故! 私ではなく!」

 隊長は拳を握りしめる。その指の隙間に血が滲むがそれでも握り締め続ける。その手から力を抜くと隊長は笑みを浮かべた。

「だが、問題はない。近くにいる大義名分は得られた。陛下の決定を疑っている訳ではない。陛下はご子息に期待していらっしゃるのだ。だが、あんな餓鬼がきに指揮など取れるものか。後は隙を見てあの餓鬼から指揮権を奪えばいい。私の華麗なる手腕をご覧になったら陛下は更に私に期待してくださるに違いない。ふふふ。ハハハハハ!」

 男の笑い声が高い天井に低く木霊する。


   +++


 後部座席を覆う幌がバタバタと音を立てていた。

「風が強くなってきたな」

「アサツキ。起きたのか!」

 リュウガが助手席から後部座席を覗き込む。

「近付いてる証拠だ」

「そうだよな。ふう」

 嬉しそうな標とは対照的に暗い顔でため息をつくアサツキにリュウガは首を傾げた。

「見えてきたぞ」

「お!」

 リュウガがフロントガラスに向き直る。そして、その向こうに見えたものに笑顔を引っ込めた。

「標。なあ、標。標が見えて来たっていうからてっきり村が見えてきたのかと思ったんだけど?」

「ああ、悪い。そうだな。村はまだだな」

「俺に見えるのはさ。でっかい砂嵐なんだけど!?」

 車の進行方向、地平線の上に、うねる黒い壁がせり上がってきていた。それは近付く程に大きくなり日のれ始めた群青色の空を途中で途切れさせている。風はますます強くなり、視界を覆っていく。それにはさすがのリュウガも顔を青くする。

「このまま行ったら突っ込むぞ!?」

「突っ込むんだよ」

「ハア!?」

「そうだよな……」

「アサツキィ!?」

「ふたりともしっかりシートベルト締めとけよ」

「分かった」

「アサツキイィ!?」

 さらに近付く大嵐にリュウガは閉めたシートベルトを握りしめる。

「死ぬ……」

「今日は少し荒れてるな。でも、ま、大丈夫だろ。行くぞ!」

 標はチラとサイドンミラーに目を向ける。もう一台が付いてきていることを確認する。先程の比ではない程に風を受けてバタバタと、砂が当たってバシャバシャと幌が鳴る。

「標! 怖い! 怖い!」

「……」

「もうちょっとの辛抱な。歯しばっとけ。舌噛むぞ」

 吹き荒ぶ砂にヘッドライトが当たって反射するような、一寸先も見えない嵐の中を車は突き進む。嵐が突然途切れ、現れた建物の壁に標はゆっくりと車を回り込ませていく。村に入って標はサイドブレーキを引いた。

「無事か?」

 標が助手席と後部座席を振り返ると放心状態のアサツキとリュウガがいた。放心状態で反応のないふたりを置いて標はひとまず車を降りる。標に次いで村に入った夏芽は標の止めた車の隣に自身が運転してきた車を止めた。

「明羽ちゃん」

「ん?」

 夏芽の視線を明羽は目で追う。

「あ」

 フロントガラスの向こうに集まった村人達がジッと明羽の乗る車を見つめていた。

「明羽」

「うん」

 氷呂に手を引いてもらって明羽は車を降りる。明羽は村人達の顔をまっすぐに見ることができなかった。顔を上げられないまま明羽はギュッと目をつむる。

「みんな。ごめ」

「明羽ちゃんだ!」

 爆発的に上がった歓声に驚いた明羽は思わず顔を上げていた。明羽の目に映ったのは明羽が恐れていたものとは裏腹の、両手を上げる者、涙ぐむ者、雄叫おたけびを上げる者の姿だ。皆が皆、一様に喜びに満ちたホッとしたような顔をしていた。

「みんな……」

「明羽ちゃん!」

「あはねちゃん!」

「明羽姉!」

「明羽!」

「おかえり!」

 明羽の視界が滲む。

「ただいま!」

 明羽が叫び返すと村人達が明羽に押し寄せる。

「みんな! 心配掛けてごめん!」

「無事で良かった!」

「もう勝手にひとりでどっか行っちゃダメだよ!」

「うん!」

「明羽! 氷呂!」

 明羽に群がる村人達を掻き分けて謝花が駆け寄ってくる。

「謝花」

「明羽! 氷呂!」

 おさげにしたふわふわの黄色い髪を揺らしながら謝花は明羽と氷呂のふたりに抱き付いた。

「良かった。ふたり一緒に帰ってきてくれた。本当に良かった! 明羽!!」

「ハイッ!」

「平気? 平気? どこも変じゃない?」

 明羽の身体を撫で回す謝花に明羽は目を丸くする。

「なになになになに!? 元気だよ!?」

「……本当だね?」

「うん」

 謝花の目からぶわっと涙が零れ落ちる。

「よかったよおおぉぉ!」

「う? うん。うん……」

 わんわん泣き叫ぶ謝花に呆気に取られながらも明羽と氷呂は謝花を抱き締め返す。

「謝花。ごめん。ただいま」

「謝花。ごめんね。たくさん心配掛けて」

「もういいよ! ふたり一緒に帰って来てくれた! それで全部チャラ! おかえり! 明羽! 氷呂!」

 謝花は思い切り明羽と氷呂の肩を叩いた。涙で潤む瞳をキラキラと輝かせて笑う謝花に、明羽と氷呂は痛みにえて笑い返した。三人の様子を村人達が微笑ましく見つめる。

にぎやかだなあ」

 聞き慣れない声に、村人達の目が集中する。青い顔のリュウガがボンネットに両手をついた格好で明羽と氷呂と村人達を見ていた。村人達は顔を見合わせる。

「誰?」

「滅多なことは言うなよ。リュウガ」

 リュウガの側ではアサツキが同じような青い顔で車に寄り掛かっていた。謝花が目を見開く。

「アサツキ先生?」

「謝花。久しぶりだな。元気そうで良かった」

 青い顔で微笑んだアサツキに謝花は明羽と氷呂を振り返る。口を半開きにしたまま何も言わない謝花に明羽と氷呂もまた、黙ったまま頷いた。けれどそれで伝わる訳もなく、謝花が叫ぶ。

「どういうこと!? なんでアサツキ先生が!?」

「まあ、簡単に言うと私のことを助けてくれたのがアサツキ先生で」

「俺を忘れるな!」

「あの赤髪の、リュウガって言うんだけど。あの人も私を助けてくれた人で」

「え? え? 明羽って北の町に連れてかれたんじゃなかったの? アサツキ先生って南の町にいたんじゃないの?」

「まあ、色々あったんだよ。アサツキ先生にも」

「全然分かんない」

「うん。私に起こったことは私が説明するけどアサツキ先生のことはアサツキ先生に聞くといいと思う」

「……うん」

 混乱冷めやらない謝花は考える許容量きょようりょうを超えたらしく、ただ頷いた。顔色が少しばかり回復したリュウガは深呼吸をして胸を張る。

「始めまして! 俺はリュウガ! 人間だ!」

 村人達の動きが止まった。

「あれ?」

 アサツキが蟀谷こめかみを押さえた。村人達から悲鳴が上がる。

「なんでっ、人間!?」

「何考えてんだ! 標!」

「馬鹿たれ――――!!」

「俺だけ責められるのかよ!」

 標のツッコミが決まって、村人達は一目散に村の四方へと散り散りになる。あんなにたくさん集まっていた村人達はあっと言う間にいなくなった。

「なんで!?」

「だから滅多なことは言うなと言ったんだ」

「ええ?」

 心の底から分からないという顔をするリュウガにアサツキはため息をつく。リュウガは唯一残った謝花に目を向けた。リュウガと目が合った謝花が息を呑む。明羽と氷呂の影にサッと隠れる謝花にリュウガはかまわず近付いていく。

「こんにちは!」

「ひいっ!」

「あれ!? 怖くないぞ!」

 明羽は両手を広げて謝花とリュウガの間に立ちふさがる。

「リュウガ! それ以上謝花に近付いちゃダメ!」

「ええ?」

 アサツキがリュウガの首根っこをつかむ。

「リュウガ」

「ええ……」

 明羽達が遊んでいる間に標は車の中から二本のロープを取り出す。一本をリュウガの腰に回しもう一本をアサツキの腰に回し結んだ。そうして最後に両ロープの端を標は自身の腰に結び付ける。

「悪いな。村にいる間は我慢してくれ」

「構わない。それで村の人達が安心できるなら」

「俺の扱い!」

 リュウガが急に走り出す。ロープが一杯に伸びたところでリュウガは盛大にそっくり返った。支柱になった標はびくともしない。

きたえてるんだな。標。素晴らしい体幹たいかんだ」

「え。特別何かしてはいないんだけどな」

「そうか」

 アサツキはさとられないように自身の腹に触れる。標がふたりにロープを結び付けたことで謝花はやっと肩から力を抜いた。

「ごめん。謝花。心配掛けた上に変なの連れて来ちゃって」

「ううん。明羽達が連れて来た人だもん。悪い人ではないよね。私こそ。ごめん」

「いや。リュウガに関しては、うん。近付かないのは正しい判断だと思う」

「ええ……。明羽を助けてくれた人じゃないの?」

「まあ、そうなんだけど」

「無理する必要はないって話だよね。明羽」

「そうそう」

「そう?」

 軽く首を傾げる謝花に明羽と氷呂は何度も頷く。話す三人に夏芽が辺りを見回しながら近付いた。

「ねえ。謝花ちゃん。村長の姿が見えないんだけど」

 瞬間、氷呂が顔を青くする。それに気付いた謝花はあわてて言う。

「何にもないよ、氷呂! お客さんが来てるだけ」

「お客さん?」

「おかえり。明羽。氷呂。標。夏芽。出迎えが遅れてすまない。そのお客さんがちょっと我儘わがままでね」

「誰が我儘だ。村人が大勢集まっているところに行きたくなかっただけだ」

 遅れて現れた村長と黎の姿にその場にいた誰よりも早く標が反応した。

「おっさん!?」

「おあ!?」

「うお!」

「あ、悪い」

 一、二歩駆け出してアサツキとリュウガを引きったことに気付いた標は立ち止まった。

「いや、本当に悪かった」

「俺は少し引っ張られただけだ。大丈夫」

「気を付けろ! 標!」

「悪い悪い」

 比較的標の近くにいたアサツキにはそれ程のダメージはなかったが少し離れたところにいたリュウガは地面に倒れたまま怒鳴っていた。

「愉快になことになってるな」

「全然愉快じゃねーし!」

「ん?」

 深い緑色の瞳に睨まれたリュウガがサッとアサツキの背に隠れた。それを無視してアサツキは黎に一歩近づく。

「ああ……。アサツキ。行くなっ」

「明羽の話では村に魔獣はいないと聞いていたが」

「俺は先日この村に立ち寄っただけだ。小娘達の様子を見にな。そしたら肝心かんじんの小娘達がいないという。貴様らのことだぞ!」

 黎の腹に響く重低音に明羽と氷呂は背筋を伸ばした。

「無事を確認する為に村に残ってた次第だ。まったく。何をやってるんだ」

「ごめんなさい」

「すみません」

「黎。一先ひとまず今日はその辺で。もう日も暮れる。みんな疲れてるだろう。お客人にも部屋を用意するよ。明羽へのお説教と、今の村に人間を連れて来た理由は後日ゆっくりと聞かせてもらえるかな」

「はい……」

 明羽は神妙に頷いた。そんな明羽の顔を村長はジッと見つめる。見つめられた明羽は目をしばたき、村長はニコッと笑った。

 標がアサツキとリュウガを集会所に案内し、黎は村長と共に村長の家へ戻る。夏芽は謝花と共に診療所へと向かい、明羽と氷呂は家への道を歩き出す。

 久しぶりの自宅に入ると、明羽は布で一杯の寝床に倒れ込んだ。

「久しぶりの我が家だ。あー今日はもう何も考えたくない」

「明羽。寝床に上がる時は靴脱いで」

「はーい」

 明羽はのろのろとブーツを脱いだ。もぞもぞと布の下に身体をすべり込ませる。懐かしい天井を見つめて明羽は何度か瞬きを繰り返す。

「何日も留守にしてたのに、部屋の中綺麗だね」

「多分。謝花とか村の人達が気に掛けてくれてたんだと思う」

「そうか。そうだよね。ああ……本当に私、何やってるんだろう」

「たくさん反省して、反省を生かしてね。私もだけど」

 髪をほどいて、氷呂も寝床にもぐり込む。

「氷呂は何も悪くないよ。全部私の所為だ」

「私……私は自覚が足りなかったの」

「え。何?」

 明羽は氷呂の顔を見る。氷呂はジッと明羽の顔を見つめていた。

「私にあたえられた役割の話」

「役割?」

「私は何があっても、何を犠牲にしても、明羽の側にいなくちゃいけなかった」

「氷呂?」

 氷呂は静かに微笑む。

「明羽は明羽の心のままに。私は全力で明羽を守るから」

 氷呂が明羽の前髪をく。安心感を覚えた明羽は急激な眠気におそわれる。

「氷呂。それってどういう……」

「おやすみなさい。明羽」

「氷呂」

「また明日」

 明羽は深い眠りへと落ちていった。安心しきった夢も見ない深い深い眠りだった。

                                  了

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