第8章(2)

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 明羽が目を覚ますとフロントガラスの向こうに朝の白い光に照らされて薄い青色に染まる空が広がっていた。車から降りてその空に向かって明羽は伸びをする。

「よし!」

「アサツキ!? どうした!?」

 テントから大きな声が聞こえてきて明羽は振り返る。

「リュウガ?」

 明羽は木々の影の下に建てられたテントに近付いていく。

「リュウガ。どうしたの? アサツキ先生?」

 許可を取らずに明羽はテントをめくり上げる。あせった顔のリュウガと起き上がりたくとも起き上がれない様子のアサツキがいた。

「先生?」

「明羽……」

 アサツキが肘を付いて起き上がろうとして失敗する。

「先生!」

「悪い。すぐに起き上がるから」

「いやいやいや。無理しなくていいから」

 明羽はアサツキに近付いてその額に手を置く。

「熱はなさそうだけど……。…………。リュウガ。二日間、ほとんど休まず車走らせるって、人間にとってどんな感じ?」

「え? 何? なんだって? なんでそんな質問するんだ?」

「私が知る人はそれなりに車走らせ続けてもへっちゃらだったけど。人間はどうなのかと思って」

「破滅」

「そっか」

 明羽は大いに反省した。人間と離れて生活するようになって人間の感覚をすっかり忘れていた。

「先生、ごめん。無理させてたね」

「大丈夫だ……」

「大丈夫じゃないよ。起き上がれてないのに。先生を休ませなくちゃ。でも、ここじゃちょっとな。ちゃんとしたところの方がいいよね。こんな人のいないところじゃ何かあった時どうしようもできないし」

「何か!? 何かってなんだ!?」

「リュウガ。うるさい」

 騒いでいるリュウガに明羽はイライラする。が、暫くすると静かになって明羽は顔を上げる。リュウガが弱った顔で俯いていた。

「アサツキ。そんなに悪いのか?」

 いつもどこか超然としていて天上天下てんじょうてんげ唯我独尊ゆいがどくそん、反省などその存在さえ知らなさそうなリュウガの見たことのない顔に明羽は目を瞬いた。

「ちょっと疲れが出ただけだと思う。しっかり休めば大丈夫だよ」

「そうか」

 リュウガが心配そうにアサツキの顔を見つめる。

「リュウガ。ここから最も近い、人のいるオアシスってどこか分かる?」

「ん? 地図を見れば分かると思うが」

「よし。見て。そして道案内して。こうなったら私が車を運転する」

「お!? おお! いけるのか? 明羽!」

「やったことはない。でもきっとできる! 先生の為だもの!」

 リュウガの目が鋭くなる。

「……アサツキの為? 明羽。お前は大人しく座ってろ。俺が運転する」

「え? なんで急にやる気出したの? ダメダメ。リュウガに運転させるなって先生に口酸っぱく言われたんだから」

「運転したことがない明羽よりは俺が運転した方がまだマシな筈だ」

「だからなんで急にやる気に!? 先生の話を聞く限りリュウガに運転させるのは怖いからイヤだ」

「運転したことのない奴に運転させるよりマシだろ!」

 白熱してきた口論に水を差すようにアサツキは弱弱しくとも手を上げた。

「ふたり共。落ち着け」

「でも、先生」

「まず。リュウガ。お前、地図読めないだろ。なんでそこで見栄みえを張った」

「う……」

「明羽が車の運転するのもなし」

「ええー……」

「ほら見ろ! 最初っから俺に任せとけばよかったんだ」

「リュウガは論外だ」

「あれ!?」

「明羽」

 アサツキが先生の顔で言う。

「少しでも回復したら俺が運転する。少しだけ休ませてくれ。できれば静かにしていてくれると嬉しい」

 アサツキが深く息を吸って目を閉じる。明羽はテントから出る為に立ち上がる。動こうとしないリュウガの腕を掴んで引っ張っていく。テントの外に出ると明羽とリュウガは並んで膝を抱えてため息をついた。

「私、標とか夏芽さんに任せっきりにしないで自分でも運転できるように教えてもらっておけばよかった。自分で運転するとか本当に考えたことなかったんだ」

「それを言うなら俺だって。二度と運転するなって言われて二度と運転しなくていいんだなってそのまま納得してたんだ。もっと必死こいて練習しとけば」

 明羽とリュウガは揃ってため息をつく。

「役立たずって俺のことを言うんだろうな」

「私のことでしょ」

 ひとしきりため息をついて明羽はオアシスの外に広がる砂漠に目を向けた。明羽とリュウガの上に落ちる木漏れ日が揺れる。青い筈の空が逆光で暗み、反するように強すぎる太陽の光に照らされて砂漠が真っ白に輝いていた。熱せられた空気に地平線が揺れている。明羽は隣のリュウガをチラと見る。明羽以上に落ち込んでいるリュウガがいた。明羽は暫し思案するように中空を見つめて言う。

「ねえ。リュウガ。このオアシスって水が湧いてるところあったよね」

「ん~? そうだな。アサツキが水の湧いてるオアシス選んでここにした筈だからな」

「私ちょっと水んでくるね」

 汲んでくると言ったのは明羽なのにリュウガが立ち上がっていた。

「俺が行ってくる!」

「そう? じゃあ頼むよ」

「頼まれた!」

「タンク忘れてるよ!」

 駆け出していたリュウガは一瞬で戻ってきて、すぐにまた駆け出していく。その背を見送って明羽はテントの中へ入った。

「リュウガの扱いがうまくなったな」

 起きていたアサツキに明羽はそっと近付く。

「ごめん。先生。うるさかった?」

「いや。大丈夫だ」

「うん。……いや、やっぱりごめん。テントの側で話してたらそりゃ聞こえるよね。配慮が足りなくて、考えが足りなくて、ごめん」

「反省するのもいいが程々にしておけ。次に生かすことに考えをシフトしろ」

「うん。どう? 具合」

「多少は良くなったな」

「多少かあ」

「悪いな。明羽」

「んん? 何が?」

「俺だけじゃなくリュウガの面倒まで見させて」

「いや。全然見れてないけど。まあ、リュウガに対しては少しでもできることが見つかれば気分も変わるかと思ったから」

「明羽は大丈夫か?」

「私? 私は先生の役に立てなくて多少落ち込んでもそこまで深刻な気持ちにはならないから。大丈夫」

「それはそれで俺が寂しいな」

「あはは」

 明羽だけでなくアサツキも笑っていた。明羽はアサツキの状態が確かに回復に向かっていることにホッとする。

「背中の調子はどうだ?」

「背中?」

 明羽は自身の背に手を回そうとしてピタリと動きを止めた。

「だ、大丈、夫……」

「無理するな」

「うん」

 明羽は緊張した筋肉をほぐすように肩から力を抜いた。

「それにしてもリュウガって案外もろいところあるんだね。よっぽど先生のことが大切なんだ」

「やめろ。気色悪い。どうしようもなく腐れ縁なだけだ」

「じゃあ、先生に関わること以外でリュウガが取り乱すことってあるの?」

「いや、知らないが。あるんじゃないか。さすがに」

「う~ん。当事者じゃ分からないか」

「……明羽には一体何が見えてるんだ?」

「見えてるっていうか。なんか似てる気がするんだよね。私とリュウガ。何ものにも代えられない大切なものがある感じ」

「明羽と氷呂を引き合いにするには無理があるぞ」

「そうかなあ?」

「お前達の間には純然たる信頼があるだろ」

「先生達にはないの?」

 アサツキはテントの支柱から広がるひだを見つめる。

「あいつはフリをしてるだけなんだよ。俺が必要なフリをしてるだけだ。本当はひとりでなんだってできるのに」

「そんなことないと思うけど」

 アサツキの辛辣しんらつな物言いに明羽はテントの外をうかがってしまう。幸いリュウガはまだ戻って来ていない。

「明羽は氷呂のことが分かってるし、氷呂は明羽のことを分かってるだろう」

「分かってるけど。あ、いや、今はどうだろう……」

「でも、理解し合えると思ってるだろう。俺は一生かかってもリュウガを理解できるとは思えない」

「どういうこと?」

「リュウガは他人の痛みを理解できない。自分の考え以外の考えが存在することすら知らない。あいつにとっては見るもの聞くもの身の回りで起こることすべてが正しくてすべてが成功だ。俺には到底理解できない」

「それが本当なら私にも理解できなさそうだけど。それでも先生はリュウガとつるんでるんだ?」

「理屈じゃあ、ないんだろうなあ」

 明羽はアサツキに連れられて北の町を出る為に行動していた時のことを思い出す。

「それって使命感みたいな?」

「……認めたくないが近い気がする。あいつに巻き込まれたお陰で俺は色々なものを見た。色々なことを経験した。色々なことを考えさせられた。到底、俺ひとりでは辿り着くことのできなかった頂きばかりだ。あいつに付き合わされて何度命の危機を感じたことか。でも、それ以上に得たものがあったんだ。あいつはいつだって俺を引っ張り上げてくれる」

「先生にとってリュウガはなくてはならない存在なんだね」

「…………まあ、リュウガがいなけりゃ今の俺はいない訳だからな。認めたくはないが」

 アサツキが汗ばむ前髪をかき上げる。不満そうな顔は決して顔色がいいとはいえない。

「先生。起こしちゃってごめんね。また休んで。今度は本当にちゃんと静かにするから」

「助かる」

 アサツキが再び瞳を閉じて明羽はそろりそろりとテントを出た。辺りを見回してもリュウガの姿はない。

「リュウガ。遅いな」

 暫く明羽が待っているとオアシスの奥から今にも息が止まりそうな息遣いのリュウガが現れる。水の一杯に入った持ち運び用のタンクを半ば引き摺りながらリュウガは待っている明羽を目指して歩く。

「水。重い!」

「体力ないなー。リュウガ」

「限……界……」

 明羽まであと数歩というところでリュウガは砂地に倒れ込んだ。はずみでタンクが投げ出され、しっかり閉まっていなかったのか栓が吹っ飛んで中身が見る見るうちに乾いた砂に吸い込まれていった。

「ああ!? 俺の汲んできた水があああああぁぁああぁぁぁ!!!」

 無人の小さなオアシスにリュウガの叫び声が響く。先程アサツキに「今度こそ静かにする」と約束した明羽は大きなため息をついた。力尽きて撃沈げきちんするリュウガを横目に明羽は殆ど空に近くなったタンクを拾い上げ、改めて水を汲みにいく。戻って来て明羽はカップ一杯の水を持ってテントの中へ入る。明羽の持ってきた水を飲んでアサツキは細く息を吐き出す。

「うん。だいぶ良くなった」

 上体を起こせるようになったアサツキはリュウガの姿が見えないことに一切触れない。アサツキが立ち上がると少しふらついて、明羽は反射的に手を伸ばしていた。

「いや。大丈夫。午前は完全につぶれたな。すぐに近場のオアシスに向かおう」

「うん」

 明羽はアサツキを見上げる。立ち上がれるようにはなったがアサツキの顔色は戻ってはいない。けれど明羽に選択肢はなく、せめてと率先そっせんしてテントを畳んだ。テントを畳みながら明羽は木漏れ日の下で突っ伏したままだったリュウガを蹴り起こす。いまだ立ち直れないリュウガは後部座席に倒れ込み、明羽は助手席に乗り込む。ふたりが乗り込んだのを確認してアサツキはエンジンを掛けた。

「行こう」

「先生。本当にダメな時は言ってね?」

「ん」

 アサツキは頷くが明羽は眉をハの字にする。せめてできることはないかと明羽は地図を手に取った。

「先生。私達は今方角的にどこに向かってるの?」

「西だな」

 明羽は地図を回し西を上にする。次に自分達がどこにいるかを確認しようとして暗いアサツキの横顔に明羽は言葉を呑み込んだ。明羽は地図を閉じて万が一に備えてアサツキの運転を観察する。その運転の仕方を見て頭に叩き込む。アサツキの運転する車は迷うことなくまっすぐに砂漠を突き進んで行った。日が沈む前に明羽達はひとつのオアシスに辿り着く。小さいが多くの人で賑わう豊かなオアシスだった。オアシスに入って明羽はなんとなく車の窓を開けた。明羽の耳に人々の話し声が聞こえてくる。

「役人どもが赤い髪の男と背に傷のある少女を探してるって?」

「情報を提供した者、捕まえた者には金一封だってよ」

「マジかよ」

 明羽とアサツキは急遽きゅうきょリュウガの髪を隠す策を講じる。そして、一番最初に目に付いた宿に入る。人が多くて宿が取れるか心配だったが、アサツキの具合の悪そうなのを見て宿の女将おかみはすぐに部屋を用意してくれた。

「一番高い部屋で客が滅多に入らないんだ。でも掃除は毎日してるから安心しておくれ」

「い、一番高い部屋か……」

 病人のアサツキがふところ事情を心配する。

「ちなみにおいくらで……」

 金額を聞いたアサツキはその場に崩れ落ちた。

「……無理。無理だ。払えない。他に部屋はないか?」

「最安値の部屋ならまだ幾つか空いてるけど。カプセル型でひとり用なんだ。三人離れていいなら個別で取ることもできなくはないけど。部屋の壁はあってないようなもんだし、部屋の前は人通りが激しい。病人が休むには適してないよ。それに女の子がいるんだからおすすめしないね。あの部屋を取るのは野郎ばっかりなんだ」

「う~ん……」

「先生……」

 いよいよ顔も上げられなくなってきたアサツキの背を明羽はさする。

「金ならあるぞ!」

 元気に言ったリュウガを明羽とアサツキは振り返る。ほっかむりを被ったリュウガが自信満々に立っていた。急いでいたとはいえお粗末そまつな仕上がりに明羽とアサツキは「さすがに無理があったか」と反省する。表立って反応は見せないが女将の顔も心なしか引きっていた。

「金ならあるぞ!」

 どうしても主張したいことだったのかリュウガが繰り返す。

「リュウガ。黙ってて」

「リュウガは黙っててくれ」

 リュウガが子供のようにブーイングをし始めるが明羽とアサツキはそれを当然のように無視した。その遠慮のなさがこうそうしたのか女将が小さく笑う。

「普通の部屋が空いてりゃ良かったんだが。色付けるからさ。どうさね?」

 女将の言葉にアサツキは暫く悩んだ後に折れた。案内された部屋は驚く程広く、床も壁も天井も磨かれた石が敷き詰められた艶やかな部屋だった。硝子がらすめ込まれた天窓の向こうでは星が瞬き始め、差し込む淡い光が白い床や壁に反射して部屋全体がほんのり明るい。

 色を付けても女将は手を抜くことは一切せず、食事は豪華なものが部屋まで運ばれ、上物の客として明羽達はかつてない程丁寧な接待を受けた。本格的に日が暮れるとこの部屋専属のコンシェルジュが部屋の至るところに置かれていたランプに明かりを入れていく。

「では、ごゆるりとおくつろぎください。何か御用ごようがありましたらそちらのベルでいつでもお呼び付けを。すぐに参ります。向かいの部屋にりますので」

「ど、どうも……」

「ご苦労!」

 コンシェルジュが丁寧に礼をして部屋を去っていった。恐縮しきりの明羽に対してリュウガはひとり用とは思えない程立派な椅子に悠々と座る。明羽はそんなリュウガに初めて頼もしいと思った。

「いつでもって、本当にいつでも来てくれるのかな?」

「鳴らしてみるか?」

 リュウガがベルに手を伸ばすのを見て明羽は勢いよく首を横に振った。これから寝るのに部屋の中の灯りは眩しくないぐらいに押さえられていたが、明羽は火を消そうとランプのひとつに近付いていく。ランプはとても造りが良く、高級感にあふれていて開け方がまるで分からない。明羽が困惑しているとリュウガが言う。

「そのままで大丈夫だぞ。倒れても割れない、こぼれない、燃え移らないようになってっから」

「そうなんだ」

 明羽はランプを元に戻した。静かになった部屋の中を見回す。奥にもうけられた寝床で目を止めた。バカでかい天蓋の掛かったこれまたバカ広い寝床は驚くことに木を成形して土台が作られている。その上に驚く程手触りのいい毛布が何枚も何枚も重ねられ、その中でアサツキが静かな寝息を立てていた。明羽はその寝顔を覗き込んでホッと一息つく。

「さて、私はどこで寝ようかな」

「何言ってんだ? こんなバカでかい寝床があるんだ。みんなで一緒に寝ようぜ」

「リュウガはそういう奴だよね」

 明羽は寝床を降りて先程までリュウガが座っていた立派な椅子に寝転がる。

「いっ……」

 背中が痛んで明羽はそっと態勢を整えた。

「明羽ー。明羽ー」

「リュウガ。うるさい。先生が心配だからリュウガは先生の側で寝てあげてよ。静かにね」

「明羽ー。明羽ー。あーはーねー」

 明羽は閉じていた目蓋を開けた。ため息をついて起き上がる。

「リュウガ。一緒に寝たら静かにする?」

「する! 俺、アサツキの隣な」

「え? あ、うん、いいんじゃない?」

 アサツキを真ん中に明羽とリュウガは川の字に寝転がる。間もなくリュウガの寝息が明羽の耳に聞こえてきた。リュウガはいびきをかくこともなく。その性格からは考えられない程静かな息遣いきづかいに明羽は内心驚きつつ、アサツキの眠りを邪魔することはなさそうだとホッとする。リュウガも寝たことだし寝床を出ようとして明羽はその動きを止めた。掛布の手触りが良すぎてなかなか出ることができない。そうこうしているうちに明羽も眠りに落ちていた。


 空が白み始めるとそれだけで白を基調とした部屋の中がサアッと明るくなる。アサツキは自然と目を覚ました。上体を起こし、藍色の髪をかき上げる。

「うん」

 アサツキは泥のように眠って軽くなった身体で伸びをする。とても寝心地の良かった寝床から降りようとして隣に寝ているリュウガに気付く。眉間に皺を寄せて口元をゆがめた後、アサツキは反対側から降りようとして今度はそこに眠っている明羽に目を見開いた。

「な、んっ。リュウガアアアアアァァァ―――――!!!」

 アサツキの叫び声に明羽とリュウガが飛び起きる。

「ういっ!!!」

「あ、明羽! 悪い!」

 背中を押さえてうずくまった明羽にアサツキが焦る。それを見ながらリュウガは寝ぼけまなここすった。

「何やってんだよ。アサツキ」

「お前が元凶だろうが」

「なんの話だよよよよよよ」

 リュウガの胸倉を掴んでアサツキはリュウガの頭をこれでもかと揺らした。目が回ったなというところで手を放す。

「明羽。大丈夫か?」

「うん。ごめんなさい。先生」

「リュウガが無理を言ったんだろう。言ったんだよな?」

「誓って」

 最終的に手触りの良い掛布に負けたことを明羽は黙っていることに決めた。

「あの椅子で寝ようと思ったんだけどね」

 意気消沈する明羽にアサツキはあることに気付いて蟀谷こめかみを押さえる。

「そうだった。この部屋に寝床はこの天蓋付きだけだったな」

「ん? うん。そうだね」

「俺が悪かった」

「え? 何が?」

 明羽はなんでアサツキが謝っているのか本気で分からなかったがアサツキは説明することなくそのまま寝床を降りる。アサツキがベルを鳴らすとコンシェルジュがやって来る。洗顔用の水を頼むと水どころか適温のお湯が用意されてアサツキはおっかなびっくり顔を洗う。アサツキが顔を洗い終えると横から絶妙のタイミングでコンシェルジュが吸水性の優れた布を差し出した。黙って顔を拭うアサツキの顔色は昨日と打って変わって血色が良い。

「先生。もう大丈夫?」

「ん? ああ。ぐっすりゆっくり休めた。何なら町を出た時より調子がいいぐらいだ」

「そっか。良かった」

 笑う明羽にアサツキは微笑む。

「俺には風呂用意してくれ」

かしこまりました」

 未だ寝床の上で欠伸をしているリュウガに明羽とアサツキは無言で詰め寄る。

「え? なんだ? 怖いんだけど」

「お嬢様の分もご用意しますか?」

「あ、じゃあ。先生と同じので」

「畏まりました」

 コンシェルジュが部屋を出ていく。

「いい判断だ。明羽」

「え? 何が?」

「背中……。素で断ってたのか」

「ああ」

 アサツキが何を心配していたのかを明羽は気付いた。戻ってきたコンシェルジュは新たにふたりの従業員をともなっていた。部屋の中に湯船が設置される。その中にたっぷりの湯が張られ、部屋に元々置いてあった衝立ついたてを目隠しに立てると、リュウガとふたりの従業員はその向こうに消えた。

「お嬢様」

「あ、うん」

 明羽は顔を洗い、コンシェルジュが差し出してくれた布で顔を拭く。

「お食事のご用意をいたします」

 リュウガが湯浴ゆあみをしている間に準備された朝食もまた、夜同様しっかりと豪勢だった。

「こんな生活に慣れちゃいけないよね」

「まったくだな」

 明羽は呟きアサツキはそれに深く同意した。宿を引き払う時間が近付いてきてアサツキの落ち着きがなくなってくる。

「先生。大丈夫?」

「体調は万全だ」

「いくらになるんだろうね」

「言うな……」

「まーだそんな心配してるのかよ」

 さっぱり顔のリュウガに明羽とアサツキは揃って無表情になる。

「絶対追加料金かさんでる……」

「湯浴みの分はね」

「女将」

 部屋の入り口に女将が立っていた。

「顔色が良い。体調は回復したみたいだね」

「お陰さまで助かった。ありがとう」

「いいってことよ。さてそこの赤髪の兄ちゃん。支払いはあんたでいいんだね」

「ああ」

 日が変わって室内で人の目も少ないことに明羽とアサツキはリュウガの髪のことをすっかり失念していた。

「油断……」

「この部屋快適すぎたね」

 アサツキは頭を抱え明羽はもう諦めて笑っていた。リュウガと女将がこちらに背を向けて話しているのを明羽は見つめる。話し声は小さく明羽には聞き取れないがリュウガが女将に何かを渡しているのだけは明羽にも見えた。

「さ、出発だ」

 リュウガが明羽とアサツキを振り返ってニッと笑う。宿の前まで女将が見送りに出る。

「世話になったな」

「また訪ねておくんな。こんな上客は滅多にいない」

 リュウガと女将のやり取りに明羽とアサツキは口をはさまない。

「道中はくれぐれも気を付けるんだよ。最近この辺りを縄張りにしてる盗賊がいる」

「そうなのか。そいつはヤベエな。気を付ける」

「情報をありがとう」

「ご飯すごくおいしかった」

「ふふふ。満足してもらえたようで何よりだ」

 ありきたりのお礼と感想だけしか言えない明羽とアサツキにも女将はこころよい笑顔を向ける。女将に改めて礼を言い、オアシス内で補給をして、明羽達は再び砂漠に走り出した。地平線へ向かう車中でリュウガが不満そうな声を出す。

「なんで俺だけずっと車ん中で留守番だったんだよ。俺も補給行きたかった!」

「お前がお尋ね者だからだよ。赤い髪は珍しすぎる」

 後部座席でリュウガはしばし、ぶつくさ言い続けた。明羽は手に持っていた地図をアサツキに見せる。

「先生。私達今どこら辺?」

 アサツキは前方に気を付けながらチラと地図を見て指差す。

「ここら辺だな。そんでもってこう進む予定だ」

 明羽は助手席に座り直してアサツキがなぞった地図上に目を落とす。明羽達は今東寄りを走りながら南へ向かっていた。明羽は地図から進行方向へ目を向ける。どこまでも続くまっ平らな砂漠がどこまでも広がっていた。明羽は仏頂面で再び地図に目を落とす。明羽の様子にアサツキは笑いをこらえるのに必死になった。

「明羽。今俺達がどの方角を向いてるか分かるか?」

「へ!? こっちじゃないの?」

 明羽が地図上を指差す。

「それはさっきまで俺達が向いていた方角だ。ずっとその一点を向いて走ってる訳じゃない。太陽の位置を確認してみろ」

 明羽は窓を開けて顔を出す。暑い風と舞い上がる砂に一瞬目をつむってから明羽は空を見上げる。青い空に真っ白な太陽が輝いていた。

「太陽、上にあるけど」

「傾いてるだろ」

 真昼に程近い太陽は天頂近くに差し掛かっている。

「かたむ……え?」

「そろそろ休憩しないとな。近付いてる筈だが」

 アサツキは未だ窓の外に身を乗り出している明羽がほっぽり出していた地図をつかむ。首を傾げながら座席に戻った明羽にアサツキは地図を返した。明羽はそれを受け取って再び地図をにらむ。後部座席から明羽とアサツキのやり取りを眺めていたリュウガはフロントガラスの向こうに見えてきたものに気付いて顔を上げた。

「あ。オアシス」

「日が傾くまであそこで休憩するぞ」

「先生! 先生! あのオアシスはどこ?」

「ここだ。ここ」

 アサツキが示した地図上には「無人」の文字が刻まれていた。今明羽が見ている地図には以前標に見せてもらった地図には記されていない記号や文字が幾つも記されている。情報量は圧倒的に今見ている地図の方が多く「有人」「無人」以外にも水源の有無も記されており、今向かっているオアシスには水源がないこともひと目で分かった。明羽は今朝出てきたオアシスと進行方向にあるオアシスの場所を確認する。位置関係は分かったがどのようなルートでここまで来たのか明羽にはさっぱり分からない。

「う~ん……」

「勉強熱心で何よりだ」

「なんにも身に付いてないけどね」

 明羽は口をとがらせ、アサツキは笑う。オアシスに車を乗り入れ、三人で木陰に休憩スペースを作る。アサツキが運転で強張こわばった身体を解している間も明羽は地図を手放さなかった。難しい顔で地図を睨み続ける明羽の側に身体を解し終えたアサツキが近付く。

「隣いいか?」

「どうぞ」

 明羽の隣に腰を下ろしたアサツキは丁寧に地図を見るコツを明羽に教えていく。

縮尺しゅくしゃくとか……訳分からん」

「あはは」

 明羽は暫く地理の勉強に明け暮れる。集中していた明羽がふと隣に目を向けるとアサツキがこっくりこっくり舟をいでいた。

「先生。先生」

「ん」

「昨日の今日だもの。少し横になりなよ」

「悪い。そうさせてもらう。何かあったら遠慮なく叩き起こせよ」

「分かった」

 横になったアサツキは間もなく静かな寝息を立て始める。明羽とアサツキの上に落ちる木洩れ日が風に揺れた。明羽は再び地図に目を落とす。

「明羽」

「ほあっ」

 大きな声が出そうになって明羽は慌てて自分の口を塞いだ。

「りゅ、リュウガ? 何?」

 明羽のすぐ側にリュウガが座り込んでいた。

「……近くない?」

「近付いてるからな」

 明羽は軽く身を反らす。

「ずっと静かだったけど何してたの?」

「オアシスの中を一回りしてきた。小さいオアシスだな。何もなかった」

「そう」

「明羽」

「な、何?」

 じりじりと迫ってくるリュウガに明羽はじりじりと後退あとずさっていた。

「アサツキは寝てるのか?」

「そうだね。起こしちゃダメだよ」

「起こさねえよー。アサツキには元気でいてくれないと困る」

「そう……」

「ちなみに明羽。背中の調子はどうだ?」

「背中?」

「車の窓から身を乗り出してただろう。平気だったのか?」

「え? ああ。急に動かしたりしなければ。朝は先生の声にびっくりしたけど大分いいよ」

「そうか。回復早いな」

「ありがとう?」

 リュウガが何をしたいのか分からなくて明羽は首を傾げる。

「明羽。約束覚えてるか?」

「約束?」

 リュウガと何か約束しただろうかと明羽は先程とは反対側に首を傾げた。

「助けた礼に羽根くれるって言っただろう」

「ああ!」

 明羽は思い出す。一昨日の夜、満天の星の下、オアシスで寝る前にした会話を思い出す。

「言った」

「だろ! その約束の羽根が欲しいなって」

 背中の調子が日に日に良くなっていることは明羽自身が実感している。けれど一昨日の今日で翼を出せるかと言われれば明羽には自信がなかった。

「今?」

「今!」

「どうしても?」

「どうしても!」

 リュウガの瞳が期待にキラキラと輝いていた。明羽が黙っているとその瞳が悲し気に揺れ始める。

「ダメか?」

 明羽はアサツキを振り返る。アサツキに頼めばリュウガを止めてくれるだろう。明羽はアサツキの「何かあったら遠慮なく叩き起こせ」という言葉を思い出すがその穏やかな寝顔にとても叩き起こすことなどできないと思う。

「リュウガ。先生が言ってた半径1メートルの約束は?」

「それはもう今更だろう」

「まあ、確かに」

 北の町を出てからというもの段々とその約束が曖昧あいまいになっているのは間違いなかった。

「私からも割と近付いてたね」

「急に何でその話になるんだ?」

 明羽はなんとかうまくリュウガに諦めさせられないかと思案する。

「リュウガは先生に私の羽根は諦めろって言われたら諦める?」

「諦める」

 即答したリュウガに明羽が戸惑う。

「あ、お? 諦めるんだ。そんなあっさり?」

「アサツキの言うことは絶対だからな」

「絶対って。友達の言うことだからって絶対に従わないといけないことなんてないと思うけど」

「アサツキには嫌われたくない。だからアサツキの言うことはできるだけ聞きたいと思ってる」

「どうしてそこまで」

「どうして? そんなの決まってる。みんな友達だと思ってた。でも、俺が天使の話をした途端みんな離れていった。俺が好きだと思うものをみんなが否定した。でも、アサツキだけは否定しなかった。アサツキがいたから俺は今も俺でいられる。だから俺はアサツキが大好きだ。あんな寂しい思いはもうしたくない」

 明羽は目を丸くする。似たようなことをアサツキの口から聞いたと明羽は思う。明羽は笑い出していた。

「あはは、あはははははっ!」

「む? なんだよー」

「ふふふ。分かる」

「ん?」

「分かるよ。リュウガ」

 リュウガが軽く目を見張った。

「先生に言ってあげなよ」

「ヤだよ。恥ずかしい」

「いつかでいいからさ」

 明羽は息を吐き出しゆっくりと吸い込む。

「よし」

「おお」

 明羽の左背に現れた四枚の白い翼にリュウガが感嘆の声を上げる。と同時に明羽は眉間にしわを寄せた。

「だ、大丈夫か?」

「ん。大、丈夫」

 背中にずしりと重く、引き攣るような痛みを微かに感じたが堪えられない程ではないと明羽は深呼吸する。翼に手を突っ込み一枚引き抜く。

「はい」

 明羽が差し出した真っ白な手の平に収まらない大きさの羽根にリュウガは唾を飲み込んだ。受け取ろうとした手が震えていることに気付いてリュウガは慌てて手を揉む。明羽から羽根を受け取ってリュウガは瞳を輝かせる。

「スゲエ。軽い。けど、折れないしなやかさがある。それにスベスベ。これが天使の羽根」

「なんか恥ずかしいんだけど」

「何を恥ずかしがる!? こんな、特別な!」

「そんなに嬉しいもの?」

「嬉しいよ! いいものだ!」

「そ、そっか」

「なあなあなあなあ。天使って風をあやつることができるんだろ。見せてくれよ!」

「ええ!?」

 テンションの上がったリュウガの見境のなくなりそうな勢いに呑まれないように明羽は注意しながら返答する。

「欲張るもんじゃないよ。リュウガ」

「どうしても。どうしても! 一回だけ!」

 おがんでくるリュウガに明羽は諦めて肩をすくめた。明羽は昨日の夜のことを思い出す。リュウガはこうと決めたら絶対に曲げないのは実証済みだった。

「分かった」

「やった!」

 リュウガはウキウキしながら明羽を見つめる。明羽は集中しようとして謁見えっけんの間での情景が急に脳裏に浮かび上がって身震いした。

「明羽?」

「だ、大丈夫」

 明羽は気を取り直して集中しようとする。妙に緊張している自分に明羽は気付く。何度も集中しようとして明羽は眉間に皺を寄せた。

「明羽?」

 リュウガは動かなくなった明羽の顔を覗き込む。明羽は愕然がくぜんと目を見開いていた。

「ど、どうした?」

「何も見えない」

「何が見えないって?」

「色というか形というか存在というか……」

「……ん?」

「風が呼べない」

「お?」

「あんなに練習して自分の手足みたいに感じられてたのに。いつも意識を向ければすぐそこにあるように感じてたのに……」

 ウェーブの掛かった亜麻色の髪を真っ白な対の翼が明羽の脳裏に浮かんで消えた。明羽は両手で顔を覆う。

「大丈夫だ! 明羽!」

 リュウガは両腕を大きく広げる。明羽は緩慢かんまんに顔を上げた。

「必死こいて身に着けたもんはそう簡単になくなったりしない。今ちょっと分かんなくなってても必ず思い出す。絶対だ!」

「どっからそんな自信」

「俺を信じろ!」

「リュウガを……」

「なんで目をらした!?」

 ショックはぬぐい切れなかったが明羽はリュウガのお蔭で苦笑していた。

「よし! 明羽。俺が五対の翼を持った天使に出会った時の話をしてやろう!」

 リュウガの突然の提案に明羽はパッと顔を上げていた。

「聞きたい」

 食い付いた明羽にリュウガは嬉しそうに笑う。

「明羽は五対の翼を持つ天使に会ったことあるか?」

「あ、いや、ない」

「そうか。同じ天使ならもしかしたら知り合いだったり、とか思ったんだがそんなうまい話はないか」

 リュウガはわざとらしく咳払いする。

「あれは俺が十歳の時のことだ。あの頃はただただ城を抜け出すことに命を懸けてた!」

「そんなことに命懸けないでよ」

「その日。俺は新記録更新を目指していた」

「聞いてないし」

「町を抜け出して、行ったことのないオアシスまで行くことを目指したんだ。そして俺は目標を達成した!」

「おめでとー」

「そのオアシスで会ったんだ。五対の翼を持つ天使に。美しかった。この世のものとは思えない美しさだった。緑色の長い髪が水面にまで届いてて」

「ん? 水面?」

「水の滴る真っ白な翼に柔らかそうな肌」

「リュウガ。その人、水浴びしてたんじゃ」

「そうだ!」

「自信満々に言うんじゃない」

「おお。明羽があの時の天使と同じ目を俺に向けている。なんだか嬉しいなあ」

「変態か」

「だってよー。その目さえこの世のものとは思えない程美しかったんだぜ。あの燃えるような金色の瞳!」

 金色の瞳と聞いて明羽は気持ちがうわつくのを感じた。明羽は自分がニヤついていることを自覚する。他人の口からとはいえ、会ったこともないその人の存在を感じられたことに明羽は嬉しさを覚えていた。

「天使が俺をにらむと急に風が吹いて、俺が目を瞑っている間に天使はいなくなってた。天使が風の使い手であることはその後に知ったことだ。俺はそれまで人間とか亜種とかとんと興味がなかったからな。ともあれその日、俺は天使に魅了みりょうされ、その存在を追い掛け始めたんだ!」

「王子なのに。興味がないとか聞き捨てならないんだけど。まあ、うん」

「だけど、なんてことだ! 天使っていうのは亜種の中でも特に数が減ってる種族だって分かって俺はそれはもう仰天ぎょうてんした。すぐに親父に天使の保護法案を提出したが一蹴いっしゅうされた。頭固いったらねえぜ。あのくそ親父。親父はダメだと俺は早々に諦めて自分で天使を探すことに決めたんだ。何度も城を抜け出してたら巡回の衛兵が増えたんだよな。まあ、そのお陰で俺の脱走技術は磨かれた訳だが。俺の技術は磨かれたがやっぱりどうにも外には出辛でづらくなってな。時間が掛かるようになっちまって。アサツキには随分助けられた」

 リュウガに振り回されるアサツキの姿が容易に想像できて明羽は同情する。リュウガの話は段々と自分の考えを語るだけになっていき、聞きたいところを聞き終えた明羽は適当に相槌あいづちを打つだけになる。けれどリュウガの熱弁は止まらない。

「リュウガ。その話はさっきも聞……」

「ここからが本番だぞ! 明羽!」

「あ。うん……」

 リュウガのとどまるところを知らない天使愛にさすがにそろそろどうにかしたいと明羽は思い始める。けれど、リュウガは口をはさむ隙を与えない。悩んでいると翼に何かが触れて明羽は飛び上がった。

「うひゃあっ!」

 背中が引き攣り明羽は硬直する。明羽がなんとか後ろを振り返ると寝転がったまま目を丸くするアサツキがいた。

「悪い。明羽の翼だったか」

「先生」

「少し寝過ごしたか。しかし、ふわふわだな」

 起き上がり、遠慮なく翼に触れてくるアサツキに明羽は翼を自身に引き寄せる。

「先生。くすぐったい、ので」

 アサツキは手元からなくなった翼に暫し手を握ったり開いたりしていたがゆっくりと明羽に目線を合わせる。

「ああ。悪い。少し寝惚ねぼけてたな」

 アサツキは立ち上がり、空に向かって伸びをする。

「うん。よく寝た。よし、出発するか」

「うん」

 明羽も立ち上がり翼が霧散むさんする。リュウガが残念そうなため息をついた。

「しかし、明羽。背中は大丈夫なのか? 翼を出して平気だったのか?」

「えーと」

 明羽から事の成り行きと風が呼べなくなっていることを聞いたアサツキはリュウガに顔を向ける。

「リュウガ」

「う、む」

「…………自重しろ」

「お?」

 怒られなかったことにリュウガは拍子ひょうし抜けした顔になる。

「気を付ける」

「反省は十分にしろ」

「うん」

 リュウガはしっかりと頷いた。昼食を取り、片付けを終えて、明羽とアサツキとリュウガは車に乗り込む。午後も明羽は助手席に座る。

「先生。リュウガを怒らなかったね」

「明羽の翼に欲望のままに掴み掛かってたらな」

「そうなってたら私、間違いなく先生を叩き起こしてたね」

「そうだな。まあ、明羽の回復具合も分かったし。明羽が今落ち込んでないのも何気にあいつの手柄だろうと思ってな」

 明羽はリュウガの無駄に自信たっぷりだった励ましとその後に長々と聞かされた話を思い出して苦笑する。

「そうだね」

 その後も休憩を取りながら最新車種の黒い車は砂漠をひた走る。日が暮れる前に今日一泊するつもりで寄った無人のオアシスには先客の商人がいた。商人にアサツキが挨拶をする。敵意がないこと悪意がないことをお互いに示し、このオアシスで一泊することをお互いに了承する。言葉を交わすとなんだかんだ話がはずみ、明羽とアサツキとリュウガと商人は夕食まで一緒に食べていた。

「いやー。いつもはひとりな旅路なもので。砂漠の真ん中でこんなにぎやかな夜を迎えられるとは。君達がやって来てくれて良かったよ」

「いえいえ。こちらこそ。保存食を安く売ってもらった上に砂漠の真ん中でおいしい料理を食べられて。あなたが先にいてくれたから」

「いやいやいや」

「いえいえいえ」

「そういえば最近この辺り、盗賊が出るらしいから。道中気を付けて」

「俺もここに来るまでに小耳に挟みました。どれぐらいの規模の盗賊とか知ってたら教えて欲しいです」

「いやー残念ながら」

「そうか。あなたも気を付けて」

「ちなみに君達はどこに向かってる途中なんだ? 私は北の町周辺のオアシスに今積んでる荷をおろして、また新たに仕入れて戻るつもりなんだが」

「俺達はこれから東の町に」

「ほう、東」

 明羽はアサツキと商人の会話を聞きながらうつらうつらし始めていた。眠気に支配されて考えのまとまらない頭で「そうか私達は東の町に向かってるのか」と思いながら明羽は、そういえば北の町を出ることに必死でアサツキ達がどこに向かっているのか聞いていなかったことに明羽は気付く。明日になったら聞いてみようと思ったところで明羽は力尽きた。倒れ掛かってきた明羽をアサツキは支える。

「明羽」

「ああ、すっかり話し込んでしまったな。お開きにしよう。もうひとりはいつの間にか寝ているね」

 アサツキは見る。静かだと思ったらリュウガは焚火の側で座りながら器用に鼻提灯はなちょうちんを膨らませていた。アサツキは商人に挨拶をして明羽を鍵のかかる車の中へ運び込み、リュウガを叩き起こして事前に設置を済ませていたテントの中へ向かう。ちなみに商人は防犯の為、自身のトラックの荷台へ入っていった。車の後部座席で小さく丸くなっていた明羽は薄らと目を開ける。ゆっくりと何度か瞬きを繰り返し、掛けられている毛布を一層隙間のないように身体に巻き付ける。

「氷呂」

 呟いて明羽は恋しさに苦しくなった胸を押さえる。そこには北の町を出てからずっと隠していた涙型の緑色の石があった。明羽は氷呂に会いたいけれど裏切ってしまった罪悪感も思い出して不安に駆られる。相反するふたつの感情に明羽は涙型の緑色の石を握り込んでいた。

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