第8章・北の町へ(7)

   +++


 名前を呼ばれた気がして氷呂が顔を上げると真っ黒な闇の中、真っ白なまばゆい光が視界一杯に広がった。


 氷呂は目を見開き飛び起きる。

「うっ」

 重い身体に力が入らず氷呂は狭い診察台から転がり落ちた。側に置いてあった小さな椅子がひっくり返ってけたたましい音が立つ。

「ううっ……」

 肘を支えにして氷呂は何とか立ち上がろうとするがうまくいかず、背の低い棚に手を伸ばす。棚の縁を掴むと上に乗っていた何かに氷呂の指が触れて落ちてくる。再びけたたましい音が診療所内に響いた。一瞬だけ鼻孔びこうをくすぐる香りと煙が強くなる。氷呂は一度くしゃみをしてから咳き込んだ。

「……なに?」

 割れた平皿と元は植物らしい燃えカスが床に散らばっていた。幸い火は完全に消えている。外からバタバタと足音が近付いてきて診療所の扉が開く。

「氷呂ちゃん!?」

 松明たいまつの灯りと忍び込んで来た身を切るような冷たい空気に氷呂は今が夜中だと知る。

「謝花ちゃん。扉を閉めてちょうだい」

「はい!」

 近付いてくる夏芽に氷呂はなんとか上体だけでも起こす。

「氷呂ちゃん。怪我はない?」

「夏芽さん。ごめんなさい。私……」

 床に散らばった破片を気にする氷呂の肩を夏芽は掴む。

「怪我はない!?」

 氷呂は驚いて夏芽の顔を見る。まっすぐな強い光を宿した透明感の強い薄青色の瞳が氷呂を見つめていた。

「はい……。大丈夫です」

「そう。よかったわ。ごめんなさい。少し席を外すだけのつもりだったんだけど。私の注意が足りなかったわ」

「そんな!」

 金属がこすり合うような、それにしては少しざらつきのあるかすかな音に氷呂が見れば謝花が割れた皿の破片を拾っていた。

「謝花。ごめん……」

「いいから。氷呂は動かないで」

 少し怒っているような謝花の声に氷呂は動きを止める。謝花が破片を拾い終わって氷呂は身体の力を抜いた。

「氷呂ちゃん。手を貸すわ。立てる? 診察台に戻りましょう」

「あの! 夏芽さん!」

 氷呂を立ち上がらせた夏芽はそのまま氷呂を診察台に戻そうとする。氷呂はそれに言葉であらがった。

「待って、待ってください! 勝手を言って申し訳ないんですが!」

「ん?」

 夏芽が氷呂の顔を覗き込む。謝花も目を丸くして氷呂を見る。

「氷呂ちゃん」

「氷呂」

「雰囲気が!」

「目に力が戻ってる!」

 夏芽と謝花の驚き様に氷呂は何度か瞬きを繰り返し、ゆっくりとふたりの手を取った。

「ご心配お掛けしました。私はもう大丈夫です」

 次の瞬間、夏芽と謝花は氷呂を力一杯抱き締めていた。

 夏芽と謝花が氷呂を広場に連れて行く。そこには色々あって取りめていた飲み会が再開されていた。若干開き直った、もとい投げりになった数人の村人達が再開したのをきっかけに他の村人達も参加するようになった飲み会だった。

「標がいない今、私が見回りをしてたの」

「そうだったんですね」

 戻ってきた夏芽と謝花と現れた氷呂に村人達の動きが止まる。村人達の視線に少し決まりの悪さを感じながら氷呂は広場の中を歩く。少し遠慮がちだが、それでも背筋を伸ばして凛と歩く氷呂の姿に村人達は顔を見合わせた。氷呂が通り過ぎた側から村人達がその後を追って行く。村人達と言葉を交わしながら広場の中を移動する村長の姿を見つけて氷呂は歩みをにぶらせた。

「氷呂ちゃん」

「氷呂」

「はい」

 夏芽と謝花に背を押されて氷呂は前へ進む。近付く村長の姿に、珍しく晴れている星空の元、星の光を受けて銀色に波打つその毛並みに氷呂の胸の内に熱いものが込み上げる。三角形の白い耳をぴくりと動かして村長は振り返る。足を止めた氷呂の姿に村長の薄紫色の瞳が見開かれた。

「村長」

「氷呂」

「私……ごめんなさい。なんてことを」

 顔を覆う氷呂に村長は近付く。

「大丈夫。私は何ともない。氷呂の方こそ。もう大丈夫なのかい?」

 目を細めてこちらを気遣きづかう村長を前に氷呂は膝を付く。氷呂は村長の首に抱き付いた。

「本当に大丈夫だよ」

 氷呂はゆっくりと村長から離れる。

「本当に大丈夫なんですね」

「ああ」

「良かった」

 氷呂が立ち上がって振り返るとそこには広場にいた村人達が押し寄せていた。

「氷呂ちゃん……」

「氷呂ちゃんだ……」

 向けられる視線に氷呂は背筋を伸ばす。

「みんな。私の所為で怖い思いをさせてしまって。ごめんなさい。謝って済むことじゃないけど。ごめんなさい。自分勝手な私を許してください。私、明羽を迎えに行きます」

 氷呂の宣言に村人達は息を呑む。

「私ひとりで標さんを追い掛けようと思います。本当に勝手で……」

「氷呂ちゃんだ……」

 誰かが呟くとそれを皮切りに村人達は次々と声を上げる。

「氷呂ちゃんだ! いつもの氷呂ちゃんだ!」

「明羽ちゃん一筋の氷呂ちゃんだ!」

「氷呂ちゃんが明羽ちゃんを追うってよ!」

 真夜中の村に大歓声が響き渡る。家で寝ていたであろう村人達も集まって来て広場は夜とは思えない騒ぎとなった。

「え、えっと」

「よかった」

 目の前の大騒ぎに当惑する氷呂の横で村長がホッと息をつく。

「明羽を拒絶する君なんて想像したこともなかった。君達はふたりでいる時が一番安定しているように見える。いや。僕が、君達はふたりでいて欲しいと思ってるんだ」

「村長。私、私自身の所為せいなのにみんなに八つ当たりして、迷惑を掛けて……」

「誰の所為でもない。君の所為でも。まして明羽の所為でもない。なるようになってしまった。けれど道筋を変えたければ、手放したくなければ抗うしかない。明羽を迎えに行くんだろう?」

 氷呂は頷く。

「はい」

「君の瞳を見れば分かる」

 村長の言葉に氷呂は首を傾げる。

「明羽は持ち直したようだ」

 瞬間、氷呂は赤面した。

「は、はい! すみません! 私、本当に取り乱してしまって!」

 耳まで真っ赤になって両手で顔を覆う氷呂に村長は尻尾を振りながらとても楽しそうに笑う。氷呂と村長が話しているところに人をき分けて夏芽が近付く。

「氷呂ちゃん。準備できたわよ」

「え?」

「丁度トリオも帰ってきてるし、真夜中だけど星も出てる。晴天よ。この機を逃す手はないわ。寒さに弱い奴は先に行ってるし。私達だけなら余裕でしょう」

「夏芽さん? あの……」

「ひとりでなんて行かせないわ。謝花ちゃん」

 騒ぐ村人以上に感極まって立ち尽くしていた謝花が夏芽を見る。

「大丈夫ね」

「はい!」

 夏芽の期待に謝花は力強く答えていた。

「では村長。行ってきます」

「ああ。気を付けて。標と明羽によろしく」

「いってらしゃい。氷呂。夏芽姉様」

 夏芽が歩き出し、村人達が氷呂を押し出す。広場を出て行く氷呂と夏芽を村人達は大歓声で見送った。

「夏芽さん。あの、でも……」

「確かにね。きっと氷呂ちゃんひとりの方が早いだろうけど。それでも一日で着けるような距離じゃないわ。休む時はどうするの? 無防備に砂漠のど真ん中で寝てたらさすがの私達でも凍え死んじゃうわよ」

「そうじゃなくって。ええっと……」

「車を乗ってちゃっていいのか気にしてるなら大丈夫よ。トリオも村の新天地探し頑張ってくれてたんだけど、頑張り過ぎちゃって今三人共ダウン中だから。それに! 明羽ちゃんに色々言いたいことがあるのは氷呂ちゃんだけじゃないのよ!」

 夏芽が振り返って氷呂の鼻先に指を突き付けた。

「分かった?」

 夏芽のウィンクに氷呂は観念して苦笑する。

「分かりました」

「よろしい! 運転はお姉さんに任せなさい。かっ飛ばしてあげるから!」

「よろしくお願いします」

 村の入り口に停めてあった後部座席を幌で覆った車に氷呂と夏芽は乗り込む。満天の星降る夜の砂漠にふたりが乗る車は飛び出した。


   +++


 先程まで感情の見えなかった青い光が今や力強さを際立きわだたせていることに明羽は目を瞬く。それでも降り注ぐ優しさはずっと見てきたものと寸分たがわず。明羽はその心地よい光に身を任せて目を閉じた。


「明羽。明羽」

 温かな微睡まどろみから明羽は浮上する。

「んん?」

「いい夢を見てたところ悪い。起きてくれ」

 背中に負担のないようにアサツキは明羽が起きるのを手伝う。明羽は数秒目を閉じてからパッチリと目蓋を開いた。

「アサツキ先生?」

「事態が変わった。ゆっくり話してる時間はなくなった。着替えてくれ」

「分かった」

 明羽は寝床から降りようとして途端、背中が引きり動けなくなる。

「せ、先生……」

「手を貸す」

「お願いします」

「よっしゃ! 俺も手伝うぜ!」

「リュウガ。お前は当分明羽に近付けないと思っとけ」

「でえ!? そんなあ! 俺が調達してきた服なのにー」

「そもそもお前に頼むつもりはなかったんだ。話してる間に飛び出して行きやがって。お尋ね者の癖にどうやって女物の服を調達できたんだが」

「その辺の女の子ナンパして買ってきてもらった!」

「そのコミュ力の高さは評価する」

 リュウガは王子なのに町人に顔を知られていないのだろうかと明羽は思ったがアサツキがツッコまないので明羽もツッコまない。その女物の服を手に取ってアサツキは少しばかり首を傾げる。

「これは、どうやって着るんだ?」

「ワンピースだね」

 明羽が着方を説明する。アサツキは明羽が着ていたぶかぶかの男物の服をさっさと脱がすと明羽の説明にならって女物の服を明羽に着せた。明羽は足元を見る。

「スカート」

「明羽はいつもパンツスタイルだったからこうゆう服は新鮮だな」

「足がスースーする」

「そうゆうものか?」

 腰を付属の布でしぼり上げるとスカートがわずかばかりふくらんだ。ワンピースに合わせたらしい別の羽織を肩に掛けた明羽はハッとする。肩幅も袖の長さも胴回りもスカート丈も、そのワンピースは明羽の体型とすべてが一致していた。明羽は城にとらわれていた時、リュウガが持ってきた服を思い出す。あれは偶然ではなかったと、リュウガは一目見ればその人の身体のサイズが分かる特技を持っているのだと明羽は確信する。明羽がチラリとリュウガを見るとその視線に気付いたリュウガは明羽に向かって親指を立てた。

「その特技、気持ち悪いからな」

「ええ!?」

 明羽が口にしなかったことをアサツキが口にした。アサツキが靴を差し出して明羽がそれに足を入れると驚くことに靴のサイズまでぴったりだった。

「明羽。これなんだが」

 アサツキが明羽に差し出したのは涙型の緑色の石の付いた髪飾りだ。

「南の町にいた時は付けてなかった物だな」

「うん。町を出た後に氷呂に貰ったんだ。とても大事な物」

「そうか。悪いんだが、これは今は隠しておいてくれ。特徴のあるものは外しておきたい。大事に仕舞って置いてほしい」

「うん。分かった」

 髪飾りを明羽は肌着の中に忍ばせる。

「髪も下ろしておこう。印象をできるだけ変えたい。それで、違う髪飾りを付ける」

 いつもと違うところにいつもと違う髪飾りが付いて明羽は少しばかり違和感を覚えた。だが、アサツキとリュウガは感嘆の声を上げる。

「ほお」

「へえ」

 明羽は首を傾げた。

「なんだあ。かわいいな。明羽」

「何言ってんの? リュウガ」

 アサツキが明羽の首の包帯を隠すように追加でスカーフを巻く。

「よし。準備できた。行くぞ。歩けるか? 明羽」

「頑張る」

 アサツキとリュウガが旅用らしい上着を羽織った。アサツキにうながされて明羽は短い付き合いだった部屋を後にした。扉を出ると目の前が土壁で、明羽は目を見張る。明羽が驚いている間にアサツキとリュウガは壁に沿って造られた階段を上がっていた。数段上がった階段の上に狭い道が横切る。明羽は階段を振り返る。明羽がいた部屋は半地下にあり、その上に見慣れた土造りの四角い住居が乗っていた。見慣れない造りの家を明羽がまじまじと見ているとアサツキが明羽の腕をそっと引いた。日が昇ったばかりの町は際立つ青い空を背景に影となって浮かび上がる。家々の影になる道は薄暗い。明羽にとって自身の足で歩く初めての北の町だったが堪能たんのうしている時間はない。

「明羽。急ぐぞ」

 呼ばれて明羽はアサツキとリュウガに必死に付いて行こうとする。比較的離れたところから怒声が上がった。次いで木板きいたの割れる音に悲鳴が上がる。

「な、なに?」

「チッ。思ったより早いな」

「アサツキ」

 アサツキとリュウガが短く言葉を交わす。

「分かった。その道は通らない。リュウガ。そろそろ行け」

「うん……」

 返事はすれどリュウガはすぐには動かなかった。

「お前が一緒にいて見つかったらそこで終わりなんだが?」

「ううぅぅ。分かってら! じゃあな。アサツキ。明羽のことは頼んだ。絶対! また後でな」

「お前も気を付けろよ」

「誰に言ってる」

 リュウガは自信満々に言って明羽に手を振るとひとりで走り出す。

「先生。リュウガはどこに?」

「町人が王子の顔を知らなくても衛兵に役人に門番はさすがに知ってるだろ。だからリュウガはひとりで別ルートだ」

「門を通るの?」

「そうだ。俺達は正式な手順を取って町を出る。今、明羽は走れないだろう。無理な体勢も取らせられない。リュウガの使う抜け道は使えない。だから顔の割れてない俺が明羽を連れて町を出る。堂々と行こう。でも、ゆっくりもしていられない。急ごう」

 アサツキが歩き出す。明羽はそれを追って歩き出す。背中が痛んだが足は止めない。不意にアサツキが振り返る。

「明羽。背中は痛むか?」

「大丈夫」

「辛かったら言えよ」

「うん」

 明羽は笑って頷いた。その背後から再び怒号が響いてくる。

「ひえっ」

「明羽。止まるな」

「うん」

 早朝には似つかわしくない声と音があちらこちらから聞こえてきて、家に居た人々が通りに溢れ始める。人の増えた通りを明羽とアサツキは歩いていく。

「これは都合がいいな」

「何が起こってるの?」

「王はまだ諦めてないんだ。明羽とリュウガが城から逃げ出して四日目か。まだ町の中にいると踏んで、家という家を片端から調べるという強行手段に出た」

「横暴!」

「それだけ王は明羽を逃がしたくないんだろう。リュウガのこともあるし」

 人の波から守るように明羽の前を歩くアサツキの背中を明羽は見上げる。

「先生はどうして私を助けてくれるんだろう?」

「うん?」

「知り合いといえば知り合いだけど。私はもう生徒でもないし」

「そういえばそうだな。元生徒か。なら俺はもう明羽の先生じゃない訳だな」

「そういえばそうだね。じゃあ先生はおかしいかな? アサツキ?」

 明羽とアサツキは立ち止ってお互いの顔を見合う。

「いきなり呼び捨てか。そして、なんだかこっ恥ずかしいな」

「ごめん。今まで通り先生でいいか」

 ふたりは再び歩き出す。

「理由か。リュウガが明羽を助け出して来た時点でなあ」

 明羽は違和感を覚えて聞き返す。

「リュウガ主体なんだ?」

「まあ、いや、なんだ……リュウガが関わってるなら俺も関わらざるを得ないんだよな。みたいな」

「なんじゃそりゃー」

「まあ、そうなるよな。俺にも良く分からん。それにやっぱり知ってる、言葉を交わしたことがあるってのは大きいよ。俺が明羽を助ける理由はそれだ」

「そっか。そっか?」

「明羽。こっちだ」

 納得しきれない明羽の前でアサツキが急に道を曲がる。明羽は家と家の隙間から人工的に作られた丘の上に建つ、あの城を見る。

「アサツキ先生?」

「リュウガから役人の待ち構えてる道を幾つか聞いてる。その道を避けていくからかなりの大回りになる。明羽。頑張ってくれ」

「うん。大丈夫」

 曲がり角を何度も曲がり、家々の影の向こうに見え隠れしていた歪な形の丘が次第に遠ざかっていった。背中が熱いと明羽は思う。一瞬でもアサツキを疑ったことに明羽は罪悪感を覚えていた。怒鳴り声が通りに反響して明羽は肩をビクリと震わせた。

「お前! 亜種をかくまっているだろう!」

「そんな! お役人様! 俺達は朝市に行く為にこの道を通っただけで」

「口答えする気か!」

 打音だおんに続いて重いものが落ちる音に更に打音が続く。

「お役人様! お役人様! お止めください! 本当に私達は」

「うるさい!」

 ぶつかるような音がしたと思ったら女の声に変わって子供の声が響いてきた。様々な声、音から遠ざかりながら明羽の心臓は早鐘はやがねを打っていた。

「明羽。大丈夫か?」

「え? 何が?」

 明羽は乱れた呼吸を繰り返す。アサツキが明羽の額に掛かった前髪をく。

「顔色が悪い。だが、ここで休ませてはやれない」

「大丈夫。大丈夫だよ。先生」

「ああ」

 明羽とアサツキはそんなやり取りを繰り返しながら歩みを進めていく。ひとつふたつと区境くざかいにある門を通り抜け、後、いくばくかもすれば太陽が天頂に届くかという頃。アサツキが空を見上げる。

「よかった。午前の検問に間に合いそうだ。もうひと踏ん張りだ。明羽」

 足元ばかり見つめていた明羽は顔を上げる。凹凸おうとつなど一切見えない真っ白な砂避けの壁が遥か頭上までそびえ立っていた。技術のすいを集めたような重々しい門が明羽とアサツキの眼前に迫る。その門の側にはテントが立ち、町を出る手続きを待つ人の列ができていた。ひさしもうけられてできた影の下にできた列の最後尾に明羽とアサツキは付く。直射日光を避けられて明羽は一息ついた。額に浮いた汗をぬぐう。

「ふう」

「明羽」

 アサツキは鞄の中から取り出した水筒から金属製のカップに水を注ぐ。それを明羽に差し出す。

「飲めるか?」

「うん。ありがとう。先生」

 明羽はカップの中身を一息に飲み干した。アサツキは返ってきたカップに一口分の水を新たに注いで口に含む。それを見た明羽はこれから先を思えば色々切り詰めなければいけないことを思って今の自分の行動を反省する。

「明羽」

「はい」

 一層声を潜めたアサツキが明羽に差し出したのは一枚の紙切れと金属製の黒いカードだった。

「何? コレ?」

「明羽の身分証と通行手形だ。見たことないか? でも、そうか。南の町では町から出る予定はなかったか。だったら見たことなくてもおかしくないかな」

 明羽が黒いカードを良く見ると文字が彫ってある。

「み……ミュ……ミュルカ?」

「明羽の偽名だな」

「これは一般的によくある名前なの?」

「ネーミングセンスは俺もリュウガも絶望的だからな。諦めてくれ」

「そう……」

「ちなみに俺はお前の叔父。明羽は俺の姪だ。預かっていたお前を兄の元へ返す設定」

「それだけ?」

「それだけだが?」

 あまりにお粗末すぎる設定に明羽は言葉を失った。アサツキが庇から顔を出して空を見上げる。

「ギリギリか」

「次の者。身分証と通行手形を提示してください」

 明羽とアサツキの番だった。白い制服を着た女が明羽とアサツキを吟味ぎんみする。その後ろに同じ白い制服を着た男がふたり睨みを聞かせて立っていた。アサツキが自身の黒いカードと白い紙を女に差し出す。

「アサツキさん。と、ご家族ですか?」

 明羽は先程アサツキに渡された黒いカードと白い紙を差し出した。それを受け取った女は明羽の物とアサツキの物とを見比べる。

「姪です」

「似ていらっしゃいませんね」

 アサツキの言葉に女は間髪かんぱつ入れずに言った。アサツキは黙ってしまう。明羽はフォローする為ニコリと笑った。

「私、母にばかり似てしまったんです」

「お母様はおいくつですか?」

 明羽はニッコリ笑ったまま内心汗をかく。明羽は咄嗟に自分ぐらいの子供がいてもおかしくない年齢とは幾つぐらいかと考えるがすぐに出てこない。急にオニャの顔が浮かんでオニャはいくつだったろうかと明羽は思う。

「義姉は確か三十六になったところではないかと」

 今度はアサツキがフォローに回る。

「三十六。お若いですね」

「そうですか? 結婚は遅かったんですよ。二十になるかならないかで。まあ、兄も三十で初婚で。十も離れた男のところによく来てくれたものだと家族みんなで話していたものですよ。それにすぐにこの子ができて……」

 人間の平均結婚年齢が男女ともに十八ぐらいであることを明羽は知らない。

「訳あって預かっていたこの子を兄の元へ帰しに行くんです」

「訳あって。どのような訳かお聞きしても?」

 女の質問に明羽は必死に頭を回すが何も思い浮かばない。アサツキを頼って明羽がチラとアサツキの顔を盗み見るとアサツキはニッコリと笑った。

「察してください」

 雑な誤魔化しに明羽は真っ青になった。女はアサツキに向けていた目を細めると手元のカードに目を落とし、明羽に目を向ける。

「ミュルカさん?」

「はい」

「あなたは何故、叔父様の元へ預けられたかご存知ですか?」

 明羽は軽くアサツキを睨み上げた。アサツキは明羽と目が合わないように顔をそむけていた。出そうになるため息をこらえて明羽は女を見上げる。

「実は私、何も聞かされずに叔父様の元に預けられたんです。父も母も何を考えているのか。私には分かりません。ですが、叔父様ったら掃除も洗濯も料理もできなくて。初めて来た時は卒倒そっとうするかと思いました。でも甲斐がいがあってここでの生活はとても楽しかったです。私はできればまたお邪魔したいと思っています」

「なるほど」

 女はアサツキに目を向けた。

「な、なんです?」

「生活能力のない弟のことをお兄様は心配なさったようですね」

 アサツキは明羽を見下ろした。今度は明羽がツンッとアサツキから顔を背ける。明羽とアサツキの様子など気にも止めず女は通行手形とは違う紙を取り出した。

「髪の色は酷似。目の色も同様。年頃も一致。髪飾りは不一致。その髪飾りは最近手に入れた物ですか?」

「ええ。叔父様がくださったんです。よくお分かりですね」

 笑顔で言う明羽の髪飾りに女は顔を近付けた。

「くすみもなく傷もない。確かに新しいものですね」

 カマを掛けられていたことに気付いて明羽は正しく答えられたとホッとする。

「身長も大体一致。さて、ミュルカさん」

「はい」

 こちらを見ずに偽名を呼んだ女に明羽は間髪入れずに返事をする。

「あなた。首にスカーフを巻いてますね。取って見せてもらえますか?」

「何故ですか?」

「取れない理由がおありで?」

 明羽が返答にきゅうしていると明羽の前にアサツキが立った。明羽の視界から女の姿が消える。

「せ……叔父様」

 うっかり『先生』と呼びそうになって明羽は内心慌てて言い変える。

「何故そんなことをさせる?」

「拒否なさるとこちらもそれなりの対応をさせていただきますが」

「そんなことは聞いてない。正直、今まで町から出るのにこんなに質問攻めにされたことはない。俺達が何か怪しいか?」

「先日、天使が捕まったのはご存知ですか?」

「噂には」

「そうです。おおやけにする前にその天使が城から逃げ出しました。しかも第一王子をそそのかして」

 事実のじ曲げに明羽は目の前にアサツキの背があることをいいことに取りつくろうことなく嫌な顔をした。

「王子の目を覚まさせる為、今日からその天使を町中を上げて探しているのですよ」

「朝からあたりが騒がしかったのはその所為か」

「そうです。そしてすべての門番には逃げ出した天使の特徴とくちょうの記された手配書が配られています」

「その手配書に書かれている天使と私の姪が似ているとでも?」

「十代中頃と思しき女性はすべて注視させていただいています」

「ふざけるな!」

 アサツキの怒鳴り声に明羽はビックリする。

「私の姪が! ミュルカが! 亜種だと? ふざけるな! そんな汚らわしい生き物と疑うなどミュルカを侮辱ぶじょくしている! 謝りたまえ!」

 激昂げっこうするアサツキの背が震えていた。明羽はその背にすがりつく。するとアサツキの震えが止まった。乱れた息を整えるようにアサツキはゆっくりと呼吸を繰り返す。

「落ち着いてください」

「俺は落ち着いている!」

 未だ怒り治まらずという風のアサツキに女は再び手元の紙に目を落とした。

「天使は背に怪我を負っているとも書かれています」

「叔父様」

 明羽がアサツキの背から前に出る。アサツキを見上げて明羽はニコッと笑った。

「あ……ミュルカ」

 『明羽』と呼びそうになったアサツキは口の形を変えることでなんとかえ忍ぶ。明羽は女の前でくるりと回って見せた。軸の一切ブレない回転にスカートが綺麗に膨らんでしぼむ。

「私が怪我をしているように見えますか?」

「見えませんね」

 明羽はスカートの裾を摘まんで一礼した。

「そのお嬢ちゃんは亜種になんて見えないぞ」

 明羽とアサツキの後ろにはいつの間にか長蛇の列ができていた。並んでいる人々が不満の声を飛ばす。

「そうだそうだ」

「一組にどんだけ時間掛けてんだ!」

「こんなペースじゃ私の番が回ってくる前に日が暮れちゃうわ」

「明日には行かなきゃいけないところがあるのに!」

「隣の車両の列はスイスイ進んでるっていうのに!」

「ブー!」

「ブー!」

「静かに!」

「静まれ!」

 女の後ろで睨みを利かせていたふたりの役人が騒ぎを治める為離れていく。女は静かに手配書を折り畳んだ。明羽とアサツキに身分証の黒いカードと通行手形を差し出す。

「最後にひとつだけ質問を」

 アサツキがあからさまな嫌悪感けんおかんを示した顔を作る。

「そう邪険にせず。本当に最後ですので。お兄様方はどちらにお住まいですか?」

「十三番目のオアシスだ。今から町を出て近場のオアシスで昼をやり過ごす。午後に入ってすぐに移動を始めれば今日の内に着く」

「金属細工のオアシスですね。なるほど」

 女は明羽の髪飾りに目を向けた。そしてポンポンと明羽の背を叩く。明羽は笑顔を絶やさず首を傾げた。

「おい」

 アサツキの低い声に女は黒い門に備え付けられた人ひとり通れるぐらいの小さな扉に手を掛ける。

「良い旅を」

                                  了

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