第8章・北の町へ(5)

 すぐにリュウガは明羽の頼んだ『年代別に語られる伝承』『伝承についての噂』『伝承がらみのなんでも』を探しては持って来てくれる。数日が飛ぶように過ぎていく。

「年代別に聞いても伝承の相違そういは一切なし。伝承に疑問を持ってる人もいなくて、七不思議的なものも何ひとつない。唯一ゆいいつ少しばかり引っ掛かったのは」

 椅子に座る明羽は足元を見下ろした。そこに積まれているのはいくばくかの書物だ。貴重な本をリュウガがドサドサ持ってきた時、明羽は信じられないものを見ている気持ちで一杯だった。しかもリュウガはそれを乱雑に扱っていた。貴重なものだろうと明羽が問い詰めれば「書庫に行けばいくらでもある」とリュウガはキョトンとしていた。「書庫ってなんだ!? 車庫の亜種か!?」と明羽が内心で訳の分からないツッコミを入れるぐらいには衝撃的だった。その本もこの数日ですっかり見慣れていることに明羽はため息をつく。足元の本の中で最も古そうな本を手に取り明羽はしおりを挟んでいたページを開いた。

『世界には七つの種族が存在している。七つの種族にはそれぞれに始祖となる七人が存在する。彼らを生まれの祖とする後の人々は彼らを「始まりの七人」ないし「創世の七人」と呼んだ。

 我々人間の祖「始まりの人間」は我らの偉大な王の母であり父である。我らを暗闇から光ある世界へと導いた英雄の父であり母である。鮮やかな赤い髪は朝焼けよりも夕焼けよりも美しかったとされ……』

 その後はずっと人間がどれだけ素晴らしい生き物でどのように繁栄してきたかがつづられ、人間達の口々に語られる伝承に繋がっていく。明羽は布で一杯の寝床の上で長い足を伸ばしてくつろいでいるリュウガに目を向ける。伝承にいつわりアリという明羽の欲しい情報を得るには至らなかったが、この短い期間でこれだけの情報を集められたのはリュウガのお蔭以外の何ものでもない。何故この情報を欲しているのか明羽は言っていないしリュウガは聞いてもこない。何も分かっていないリュウガをだましているようで明羽は心が痛んだ。だが、そのやましい気持ちを押し殺して明羽はリュウガに向き直る。

「リュウガ」

「おう」

「今度は『始まりの七人』『創世の七人』に付いて書いてある本があったら持って来てほしい」

「任せろ!」

 寝床を飛び降りたリュウガに明羽は声を掛ける。

「誰にも言っちゃダメだからね」

「おう! ふたりだけの秘密な!」

 リュウガは意気揚々いきようようと部屋を出て行った。協力してくれるリュウガの為にも、明羽の目的を誰かに知られない為にも口止めを忘れてはいけない。少し緊張しながら明羽はリュウガの帰りを待つ。しばらくして戻ってきたリュウガは何も持っていなかった。

「なかった」

「え、ひとつも!?」

「ああ。その言葉が印字されてるのはその本だけみたいだ」

 リュウガが机の上に置かれた本を指差す。

「本当に? ちゃんと探してくれた?」

「応とも。このリュウガに二言はないぞ。子供の頃、勉強すんのが嫌で嫌で書庫の本を滅茶苦茶な並びにしてやったらものすごく怒られて全部俺ひとりで元の並びに直させられたからな。どこに何の本が収まってるか嫌でも覚えちまった。伝承関係なくそれっぽいのが書いてある本も一通り調べてきたが『始まりの七人』『創世の七人』って言葉は他の本には出てこなかった」

「リュウガの子供時代とかどうでもいい」

「ひでぇ」

 明羽は取っ掛かりを見失って悩み始める。

「その本に書いてあることがデタラメなんじゃないか?」

「そんなこと」

 言い掛けて明羽は考えを改める。あの本に書かれていることがデタラメなのだと。あの本だって既存の伝承を肯定する内容しか書かれていなかった。それでも、目新しい情報が乗っていたのはあの本だけだった。それこそが重要な言葉であるという証明ではないのだろうか。

「う~ん……」

 明羽はどうにも『創世の七人』『始まりの七人』が気になっていた。何故こんなにも引っ掛かるのか明羽自身にも分からない。明羽の左耳の側で涙型の緑色の石が揺れる。

「ん~。ダメだ! 分からない!」

「明羽はどうして伝承について調べてるんだ?」

 今まで何も聞いてこなかったリュウガの突然の問いに明羽は心臓が止まるかと思う。明羽が答えられないでいる間もリュウガはジッと明羽の答えを待っていた。そんなリュウガを見ていると明羽は突然でも何でもなかったのかもしれないと思い始める。もしかしたらリュウガはずっと疑問に思っていたのかもしれない。けれど聞かないまま力を貸してくれていたのかもしれない。そう思ったら明羽は酷く罪悪感にさいなまれる。手の内を明かさないまま相手を利用している罪悪感にられる。

「リュウガは知りたい?」

「いや。全然」

 明羽はせなくて眉間みけんしわを寄せた。

「なんでそんな目で見るんだよー」

「人の気も知らないで」

「人の気?」

「なんでもない。で、リュウガは興味もないのに聞いてきたの?」

「俺は明羽と友達になりたいんだよ」

「それは聞いたけど」

「友達のことは何でも知っておきたいって思うもんだろ?」

「興味ないのに?」

「理由には興味ないが明羽自身には興味があるんだよ。今のまんまじゃ明羽は友達になってくれそうにないからなあ。理由が分かって俺の効率が上がればその分友達に近付くと思ったんだが。まあ、いいや。もうちょっと探してくらあ。今度こそ有用な情報を持ってくるぜ。待っててくれ!」

「え、あ、う、うん」

 リュウガの出て行った扉を明羽は暫し見つめた。

「リュウガは何も考えてないな」

 明羽はリュウガに対して警戒するだけ馬鹿馬鹿しい気分になってきていた。リュウガが戻ってきたら何故伝承について調べているのか話すことを明羽は決める。ただ、伝承に疑問を持って調べているなんて、もしも王族に知れたら不敬罪で酷い目に合うんじゃないかとリュウガのことが心配になるがここまで巻き込んでおいて何を言っているのだと項垂うなだれた。やっぱり話すのはよしておこうかと考える。知らなければ知らなかったで全部明羽の所為にしてくれればと考えてリュウガはそんなことしそうにないなと明羽は一度瞬きをした。たったの数日。この部屋で毎日顔を合わせているだけの相手のことを最初こそ警戒していたのが嘘のようにすっかり信じ込んでいる自分に明羽は苦笑する。

「早く帰って来ないかな。リュウガ」

 ガチャガチャとドアノブが回される音に明羽は扉を振り返る。

「リュ……」

「何故鍵が開いている!」

 開いた扉の向こうに立っていたのは赤黒い制服に身を包んだ隊長だった。隊長は部屋の中を見回して散乱している装飾品、衣服類、書物を目に止めてくるりと振り返る。

「これはなんだ!?」

 衛兵ふたりは直立不動のままビクリと肩を震わせた。

「これは、なんだと、聞いている!!」

「リュウガ様の行いでございます!」

 衛兵は肩を縮こまらせながらも良く通る声ではっきりと言った。

「ああ?」

「リュウガ様がここに天使がいると知って、足繫あししげく通っていらっしゃるのです!」

「き、さ、ま、らあぁ! 貴様らに与えられた責務を言ってみろ!」

「ハッ! 天使が逃げ出さないよう監視することであります!」

「他には!」

「ハッ! 何人たりともこの部屋に出入りしないように監視することであります!」

「できていないではないか役立たず共が!」

 隊長の怒号に衛兵達は再度肩を震わせた。けれど、ただ黙ってはいなかった。

「しかし、親衛隊長殿! リュウガ様を止めることは我らには不可能であります!」

「口答えするんじゃない! あの王子には困ったものだ!」

 明羽はポカンとする。そしてリュウガが何者であるかまるで考えていなかった自分に気付く。

「いつまでも亜種にうつつを抜かす! いつになったら目を覚ます! 五対の翼を持った天使など幻以外の何ものでもないだろうが!」

 吐き捨てるように言った隊長の言葉に明羽は満天の星の下、真っ黒な砂漠の上で故郷を人間に焼かれた双子の兄弟とキジの姿がフラッシュバックする。焚火たきびをみんなで囲んでいた時キジは言った。

『第一王子が亜種にせられて……』

『第一王子は子供の頃五対の翼を持つ天使を見たと……』

 明羽はポカンとなった。隊長はそんな明羽に大股で近付く。呆けていた明羽は反応が遅れる。明羽の首の枷から伸びる鎖が引っ張られた。

「ぐっ!」

「陛下がお時間を作って下さった。行くぞ!」

 隊長は明羽を部屋から引きり出していく。たたらを踏みながら明羽がなんとか態勢を立て直した頃。辿たどいたのはやたらと生温なまぬるい水分の含んだ空気が立ち込める一角だった。

「足を止めるな! 貴様が立ち止まったところから城が汚れていく!」

 思い切り鎖が引かれ、枷が明羽の首に食い込んだ。骨が外れるのではという衝撃と痛みに歯を食い縛った明羽の服を隊長が掴む。その手を明羽は反射的に振り払っていた。

「触るな!」

 一歩退しりぞいた先には地面がなかった。背中から倒れ込むと弾ける水飛沫みずしぶきとその熱さに明羽は慌てて立ち上がる。膝まで水にかっていた。最初こそ熱いと思った水は慣れてしまえばそこまででもなく、むしろ足元から温まってくる。

「な、なにこれ……」

 顔を上げれば真っ白な湯気ゆげが視界を覆っていた。

「服ごと入るとはしつけがなってないな!」

 またも鎖が引かれ湯気の向こうから伸びてきた腕が明羽の頭を掴んだ。隊長は容赦ようしゃなく明羽の頭を湯の中に押し込める。

「頭の先までしっかり浸かれ! その薄汚うすぎたなさを少しでも落とさんとな!」

 息ができなくて明羽は隊長のそでを掴んだ。瞬間、隊長が明羽の手を振り払う。

「貴様! この制服は貴様のような下等生物が触れていいものではないぞ! 汚れた。着替えなければ。こんな姿で陛下の前には出られん。貴様の着替えは外のメイドに用意させている。私は一時離れるが逃げようなどとはゆめゆめ思うなよ!」

 隊長は足早に去って行く。明羽は水面に映る真っ黒な自分の影を見つめながら荒い呼吸を繰り返す。時折咳き込みながら息を整えていく。喉の痛みは引かないが明羽はゆらりと立ち上がった。床より一段低く作られた湯船からゆっくり出る。石造りのアーチを抜けると脱衣所らしいところに明羽よりは年上に見えるが若い女が立っていた。メイドは明羽の姿を見て顔を強張こわばらせる。

「置いといて。後は自分でやる」

 明羽の言葉にメイドは手に持っていた着替えをその場に置くと、あっと言う間に走り去った。明羽は濡れた衣服を脱ぎ、身体を拭き、丁寧に翼の水気を取っていく。髪飾りが壊れていないことを確認して髪を拭き整える。新しく用意された服もまた上等なものだった。脳への酸素不足でぼんやりしていると着替える前と何も変わらない見た目の隊長が戻ってくる。

「メイドはどこへ行った? 与えられた仕事を放棄ほうきするとは何事だ! どいつもこいつも。来い!」

 隊長が引く鎖がジャラジャラと音を立てる中、明羽はぼんやりと通り過ぎる景色を眺めていた。足を進める程に僅かに沈む絨毯じゅうたん敷きの廊下。見上げれば立ち眩む程高い天井。壁際に並ぶ見たこともない調度品の数々。ただの廊下を、ただただ移動する為だけに歩く場所をこんなに飾り立ててなんの意味があるのだろうと明羽は思う。時々すれ違う人々は明羽の姿に恐怖心や嫌悪感を顔に浮かべ、またある人は値踏みするような目を明羽に向ける。廊下の奥に一際ひときわ荘厳そうごんな扉が見えてくる。扉の前で立ち止まった隊長が名乗りを上げるが明羽の記憶に隊長の名前は残らない。重い音を立てて、けれど滑らかに扉は内側から開かれた。とても広い部屋だった。廊下よりも高い天井に奥行きは少しばかり目が霞むほど。部屋の中央に敷かれた絨毯を境に左右に年嵩としかさのいった男女が整然と並んでいた。部屋の最奥には他より一段も二段も高くなった上に豪奢な椅子が置かれ、その上に顔色の悪い男が鎮座していた。布を多用し、煌びやかな装飾のほどこされた重そうな服を着て、頭にかんむりかかげた男。

「大変なご厚情感謝いたします。陛下」

 隊長が中央の絨毯を中程まで歩いてひざまずき、何やら口上をべている間、明羽は並ぶ重臣達の奇異の目にさらされる。明羽はふとリュウガのことを思い出す。リュウガも王族だというならこの場に居合わせている可能性に明羽はその姿を探してしまう。しかし、リュウガの姿はなかった。明羽はホッとする。もし、この場にリュウガがいて明羽を見てほくそ笑んでいたりしたら落ち込むどころか立ち直ることさえ難しかっただろう。

「跪かせよ」

 重く抑揚の欠ける声に明羽が目を向けると玉座に座った男が暗くよどんだ冷たい目を明羽に向けていた。跪いていた隊長が振り返り、立ちっ放しの明羽に目を見開く。

「王の御前である!」

 殴られ鎖を引かれ明羽は床に倒れ込む。反射的に起き上がろうとするが明羽の頭を隊長が踏み付けた。

「許可なく頭を上げるな」

 隊長が足を退けるが明羽は顔を上げることができなかった。ジッと床を見つめることしかできない自分に明羽は歯を食い縛る。そんな明羽の心情などお構いなしに隊長は何事もなかったかのように口上を再開した。

此度こたびの要件を述べよ」

「ハッ! 拿捕だほした天使を陛下に献上けんじょういたしたく参上いたしました」

「噂の片羽四枚の天使だな」

「その通りにございます。観賞用に飾るも、閉じ込めておくも、痛めつけるも、見せしめに殺すも、よろしいかと存じます」

 明羽は今更になって隊長にのこのこ付いて来てしまったことを後悔する。既にタイムリミットであることに何故気付かなかったのか。明羽は後悔する。隊長への恐怖心か痛みへの恐怖心か、はたまたリュウガの存在にほだされたか。

「恐れながら進言してもよろしいでしょうか。陛下」

「許す」

がたき。この天使は飼い殺しにするのがよろしいかと存じます」

 隊長の言葉に重臣達がざわついた。王が手を上げると一瞬でざわつきは静まり返る。

「その真意は」

「ハッ! 我ら人間に反旗はんきひるがえそうと画策する亜種共がいます。奴らは噂の片羽四枚の天使を希望の象徴に祭り上げ、士気を高めようとしているのです。その希望を打ち砕く為、片羽四枚の天使は我らの手中に落ちたと示し続けるのです。奴らの希望の象徴を絶望の象徴に変えてやるのです」

 トントンと王が肘掛けを指で打つ。

「象徴というなら翼だけでよい」

 重臣達から今度は感嘆のため息が零れる。

「生かしておくだけで活気付かっきづやからもいるだろう。この場で翼をもぎ取り本体は殺せ。くれぐれも気を付けよ。翼は生かしたままぎ取るのだ。殺してからではそ奴らは跡形も残らないのだから。もぎ取った翼は剥製はくせいにし、民達によく見えるところに飾れ。余の権威を示し、亜種共には自由に飛べる翼などないことを知らしめろ」

「英断に御座います!」

 重臣達から拍手が巻き起こる。王をたたえる言葉が飛び交う。震える空気と床に明羽は動くことができなかった。明羽の話をしている筈なのにここにいる人間達の誰ひとりも明羽を見ていない。ひとしきり王を称えると人間達の目が明羽に向いた。明羽の喉がヒュッと鳴る。控えていた黄色い制服の衛兵達が明羽に近付いてくる。明羽は伸びてきた手を振り払おうとするが多勢たぜい無勢ぶぜい。頭を腕を肩を足を掴まれ床に押さえ込まれる。

「い、いやだ。いやだいやだイヤだ!!」

 明羽の心臓が早鐘はやがねを打っていた。風を必死に呼ぼうとする。けれど必死になればなるほど明羽は分からなくなる。今までどうやって風を呼んでいたのか最も肝心な時に明羽は思い出すことができなかった。掴まれた翼は消すこともできない。背中を踏み付けられ明羽は肩甲骨を覆う筋肉と皮膚が引きる痛みを覚える。次いで肉が裂ける感触と例えようのない痛みに明羽は声にならない声で叫んでいた。

「—―――――――――――――――――!!!!!」

 意識が空をかけていく。明羽は氷呂の名を呼んでいた。


   +++


 氷呂は顔を上げていた。機織はたおり機の前で呆然と見えない空を仰ぐ。

「あ……は、ね……?」


   +++


 明羽は熱いものが背中に流れ服に滲んでいくのを感じながら浅い呼吸を繰り返す。降って来る笑い声を意識の片隅で聞きながら明羽は真っ黒な何かが身体の奥底から駆け上がって来るのを感じる。痛みと恐怖心に悲しみが混ざり、それらが明羽の中で怒りに変わろうとした時、背後であの荘厳そうごんな扉が開く。

「何やってんだ!?」

 乱入してきた男に重臣達に衛兵達がたじろいだ。

「どけ! 明羽!」

 衛兵達を押し退けてリュウガは駆け寄って明羽を抱え上げる。先程まで身じろぎひとつしなかった王が立ち上がる。

「リュウガ!」

「やっちゃいけねえことってもんがあるだろう! 親父殿!」

「誰か! 止めよ!」

 部屋を掛け出て行くリュウガの背に衛兵達が迫る。迫ってきた衛兵達をリュウガは容赦なく蹴り飛ばしていく。明羽は薄れる意識の中、リュウガを見上げる。

「りゅ……が……」

「ごめんな! 明羽! 俺、天使が城にいるって聞いて浮かれてたんだ。親父が天使を捕まえてそのままにしておく訳がなかったってのに!」

「寒い……」

「え!? 寒い? どうしたらいい? どうしたらいいんだ!?」

 廊下を駆け抜けながらリュウガは問うが明羽からの返事はない。リュウガは明羽を抱え直し、前方から迫ってきた衛兵達を避けるように側の扉を蹴り開ける。

「脱走の常習犯舐めんなよ!」

 部屋に飛び込んだ勢いのままリュウガは正面の窓に飛び込む。ガラス窓がリュウガの体当たりに微塵みじんはじけ飛んだ。

「王子!?」

 衛兵達がリュウガの消えた窓に駆け寄って行く。眼下に広がる北の町の町並みもそこそこにリュウガは落下地点に目を向ける。

「この下には低木が植樹されてんだ! 落ちても軽傷で済む筈! あれ?」

 リュウガが目標とした植木は窓ひとつ分隣にあった。

「しまった。もうひとつ隣の窓だったか。て、悠長なこと言ってる場合じゃない! ヤバイヤバイヤバイ! 確実に死ぬ!」

 リュウガは明羽をより一層強く抱え込もうとする。けれど、明羽はその腕から抜け出し、逆にリュウガの腕を掴んで歯を食い縛る。

「リュウガ。腕……離さないでね」

 リュウガの頭上で明羽は翼を広げた。左背にのみ生える四枚の翼。翼が空気をとらえると衝撃と共に落下速度が落ちる。次の瞬間リュウガの顔面に赤い滴がボタボタと落ちた。

「……っ!」

「明羽!」

 重力に引っ張られる力が戻ってリュウガは背中から地面に落下する。落下の衝撃に閉じた目を開けるとリュウガの真上に明羽が落ちてくる。

「明羽!」

 落ちてきた明羽をリュウガは全身で受け止めた。息が詰まるが一拍のちには身体を起こす。

「明羽!」

 リュウガが呼び掛けても明羽は浅い呼吸を繰り返すだけだった。リュウガは上着を脱いで明羽を翼ごと包み縛り上げる。

「少しでも血止めになりゃいいが。ありがとうな。明羽。絶対助けるからな!」

 明羽を抱え直しリュウガは走り出した。


   +++


「いやああああああぁあぁあああああぁあああぁあぁぁ!!!」

 村中に響き渡った声に村人全員がはじけるように顔を上げていた。

「明羽! 明羽! ああ……。どうして……どうして私はこんなところにいるの! どうして明羽の側にいないの!!」

 椅子を蹴って立ち上がり、氷呂は集会所から飛び出していく。

「明羽……明羽……。ああ! 明羽!!」

「氷呂!」

 脇目も振らず村の外に向かって走り出していた氷呂の前に村長が立ち塞がる。

「どいて!」

 氷呂が片腕を上げるとその先に水の球が浮かび上がる。タプタプと大きくなっていく水の弾は容赦なく村長に向かって放たれた。それは村長に届く前に四散する。

「落ち着くんだ。氷呂。何があった!」

 薄紫色の瞳に見据みすえられて氷呂は唇を噛む。

「どいて。私は明羽のところに行かなくちゃいけない」

「明羽? 明羽に何かあったのか?」

「ああ……」

 氷呂は両手で顔を覆う。

「私、こんなことしてる場合じゃない。早く、早く行かなくちゃ」

「氷呂!」

「邪魔しないで!」

「氷呂ちゃん!」

「氷呂!」

 氷呂と村長が対峙たいじしているところに夏芽と謝花が駆け込んで来る。続々と村人達も集まって来ていた。

「氷呂。落ち着くんだ。何があった? 何を感じ取った? 教えて欲しい。明羽のことならみんなで考えよう」

「うるさい!」

「氷呂!」

「他の誰でもない。私がやらなくちゃいけないことなのに。私に与えられた役割なのに。私が生まれて来た理由……。私、私は……私はあの子を守る為に生まれてきたのに!」

 村長が目を見開く。夏芽と謝花は混乱したように顔を見合わせる。

「なに? 氷呂。何言ってるの?」

「氷呂ちゃんは氷呂ちゃんでしょう。そんな作られたみたいな」

「私は! あの子がいたから生み出されたの! あの子がいるから存在しているの! あの子の為に私のすべてはある! ああ、それなのに私は……」

 夏芽は異変を感じ取る。ぶるりと身体を震わせて両腕をさする。

「なに? 急に、寒い……」

 昼間だというのに村の中は急激に気温が下がり始めていた。

「氷呂……」

 村長の吐いた息が白くなる。パリ、パキ、と氷呂を中心に地面が凍り始める。

「邪魔しないで」

 先程まで苛烈かれつだった氷呂の声は嘘のようにえと凍り付くように冷たくなった。

「そこをどいて。私は明羽のところに行かなくちゃいけない」

 地面だけでなく氷呂の周囲の空気まで凍り始め、宙に大小の氷の塊が形成されていく。それぞれに段々と大きくなり鋭利さを増していく。最適な形になると氷呂は冷たく燃える瞳を村長に向けた。氷の槍が村長に向かって放たれる。村長は自らの力を以ってそれを迎え撃った。氷呂と違い、無から水を生み出すことのできない村長は氷呂の生み出した氷を水に変えて応戦する。

「ぐぅ……」

 村長は歯を食い縛った。踏ん張り、その場にとどまろうとするがじりじりと後退していく。空気がたわむのを感じて夏芽が空を見上げる。

「結界が!」

 村の中に風と砂が舞い込み始める。かつてない異常事態に村人達はお互いの手を取り合ってその場にしゃがみ込む。夏芽は腕にしがみ付く謝花の手に自分の手を重ねながら目の前で起こっていることからは目を放さない。

「村長が力比べで押されるなんて。氷呂ちゃん。あなたは一体……」

 余裕のない中、村長はチラリと夏芽に目配めくばせする。それに気付いた夏芽は謝花に語り掛ける。

「謝花ちゃん」

「夏芽姉様?」

「氷呂ちゃんを止めてくるわ」

「どうやって……」

 夏芽がニッと笑う。その顔を見て謝花はすがりついていた夏芽の腕からゆっくりと離れた。

「夏芽姉様。氷呂をお願いします」

「うん。任せて」

 夏芽は村長の次の動きに注視する。村長が氷呂の側で生成途中だった氷の槍を霧状に爆散させると驚いた氷呂が一、二歩ふらついた。けれどすぐに体勢を立て直した氷呂は腕の一振りで視界を奪う氷を散らす。散らした瞬間、今度は砂の交ざった強風にあおられて氷呂はバランスを崩した。一瞬できた隙に距離を詰めた夏芽は氷呂のうなじに手刀を叩き込む。膝からくずおれる氷呂の身体を夏芽は受け止めた。

「村長!」

 夏芽が叫ぶと吹き荒れる風がゆるやかに治まっていった。戻った視界の中、夏芽は村長が倒れ込むのを見る。

「村長!!」

「大丈夫だ」

 そう言うと村長は立ち上がることはできずとも、なんとかうつ伏せになり息を吐き出す。

「狩人の時といい。最近こんなのばかりだな」

「村長」

「夏芽姉様。氷呂は私が」

「ごめん。お願い」

 謝花に意識のない氷呂を任せて夏芽は村長に駆け寄って行く。夏芽から氷呂を受け取った謝花は氷呂の閉じられた目蓋から一滴の涙が零れるのを見た。


   +++


 リュウガは城を囲む石壁の一部を蹴り飛ばす。すると壁が抜けて人ひとりが屈んで通れるぐらいの穴が開いた。その穴を潜り抜けて、リュウガは一見しただけでは壁と見分けのつかないめ戸を填め直して再び走り出す。時々立ち止まっては衛兵の動きを探りながらリュウガはひとり移動していく。

「よしよし。こっちは探索外だな。バカめ。俺の脱走経路は常に増えてるんだぜ。明羽。ちょっと待ってろよ。すぐ戻るからな」

 絶対に見つからないと自負する場所に隠して来た明羽に呟いて、リュウガは地面に屈みこむ。地面と接する壁に意識して見なければ見逃してしまいそうな極々小さな印が刻まれていることを確認する。

「よし」

 そこから更に十数歩移動した地面をリュウガは掘り返す。出てきた木箱の中から円筒形の筒を取り出し、一緒に入っていた複数の球を吟味ぎんみする。

「えーと。『救援求む』は何色だっけ? 『荷物受け取り』と『場所』。それから……」

 リュウガは球を筒に押し込んで倒れないように地面に立てると導火線に火を点けた。ポポンと軽快の音が鳴り、空に複数の色が弾ける。

「なんだ!?」

「あっちだ!」

 人の動く気配にリュウガは身軽にその場を後にする。信号弾の上がった場所に衛兵達が辿り着いてもそこには既に人の気配もない。


   +++


 リュウガの打ち上げた信号弾に気付いた城下の人々が空を見上げていた。

「なんだ。ありゃ?」

「城でなんかあったのかね?」

「そういやあ。王の親衛隊が噂の天使を捕まえたって?」

「ああ、片羽四枚のっていう?」

「事実ならば歴史に残る偉業だ」

「何もなけりゃいいが」

「何もって?」

「その天使が逃げ出したとか」

「俺達の王様がそんな間抜け、する訳ないだろ」

「そうだよなあ」

 北の町人達は笑い合う。多くの人々がまだ空を見上げる中、空から目線を下ろして移動を始める青年がいた。

「赤。紫に青。青に僅かな黄色……」

 青年はゆぶやきながら足早にその場を離れて行く。


   +++


 リュウガは人の大きさ程の簀巻すまきを肩に抱えて城下町の中でも人の気配が極端に少ない路地を歩いていた。

「リュウガ」

 聞こえてきた声にリュウガは顔を輝かせて振り返る。

「アサツキ!」

 藍色の髪、藍色の瞳の青年にリュウガは駆け寄る。

「さっすがアサツキ! ちゃんと信号弾見てくれたんだな! 行動が早い!」

「迷いなく動けるお前には負ける。で、それはなんだ?」

「これか?」

 リュウガが簀巻きを叩く。

「これはおとりだ!」

「……何の為に?」

「詳しい話は後だ。アサツキに頼みたい荷物は信号弾で示したところに隠してきたから。くれぐれも頼む。俺はとにかく一度ここから離れる。また後で落ち合おうぜ」

「お前自身も囮なんだな。分かった。また後でな。捕まるなよ」

「だーれに言ってるんだよ。とにかくアサツキ。頼んだからな」

 念を押すリュウガに疑問を抱きながらもアサツキは頷く。

「ああ」

「じゃな!」

 リュウガが走り出し、道の向こうに消えるとすぐに声が聞こえてくる。

「いたぞ!」

「王子!」

「王子! お待ちを!」

 バタバタという足音と共に遠ざかっていく声を確認してアサツキは歩き出す。人っ子ひとりいない裏路地から更に人ひとりがやっと通れるぐらいの路地へとアサツキは入っていく。狭い曲がり角を何度も何度も曲がって行き、建て増しを繰り返したような高さにバラ付きのある倉庫街の裏道に差し掛かる。一本の梯子が掛かっている壁の前でアサツキは立ち止まった。高い倉庫に囲まれて目立たない小さな倉庫に掛かった梯子をアサツキは上っていく。囲まれて死角になっている屋上にさらに目隠しに掛かっている幌をめくり上げようとしてアサツキは伸ばした手を止めた。アサツキはリュウガの抱えていた簀巻きの大きさを思い出す。軽く深呼吸してからアサツキは幌をめくり上げた。目に飛び込んできた赤色にアサツキは目を見張った。

「何?」

 リュウガの物と思われる上等な布で仕立て上げられた上着が真っ赤に染まっていた。血の臭いにアサツキが顔をしかめた時、かすかな息遣いきづかいが聞こえてくる。アサツキは血に染まる上着から零れる緑を帯びた黒髪とまだらに赤く染まる翼を見た。息を呑んでアサツキは上着に取り付いていた。

「嫌な予感はしてたんだ。片羽四枚の天使が捕まったって聞いた時。お前、どうしてっ。度々噂が聞こえてきて肝冷やしたりもしたが元気にしてるんだって。ホッとしたりもしてたんだぞ。なのに! どうして! そうだ……氷呂はどうした? 一緒じゃないのか? 聖獣が捕まったとは聞いてないが」

 出血している翼の付け根を確認してアサツキは絶句した。

「こんな……なんで……。ダメだ。ちゃんと手当てしないと」

 アサツキは目隠しの布を引きがして明羽を包み直す。幌を止めていた紐で明羽を自分の身体に固定する。

「うぅっ……」

「悪い。明羽。少しだけ辛抱しんぼうしてくれ」

 明羽は朦朧もうろうとする意識の中、アサツキの顔を見る。

「せん、せい……?」

「明羽! 意識が戻ったのか」

「先生。氷呂……氷呂が……」

 アサツキは耳を澄ます。

「明羽。氷呂はどこにいるんだ? 一緒だったのか?」

 梯子を下りたアサツキは明羽を揺らさないようにゆっくりと歩き出す。けれど着実に前へと足を進めていく。

「氷呂。泣いてる……」

「氷呂が泣いてる、のか?」

「ごめん。氷呂……」

「明羽」

 アサツキはうわ言ばかりの明羽をそっと抱き締める。

「ぅ……」

「あ、悪い」

「ごめん。ごめん……。氷呂。帰る……ちゃんと帰るから……」

「明羽。お前ひとりで来たのか? こんな北の町くんだりまで」

「先生……」

「ん?」

 うわ言ばかりだった明羽に突然話し掛けられてアサツキは内心驚いたが冷静を取りつくろう。

「先生……。私……」

「うん」

「氷呂を……置いてきちゃったんだ……」

「うん」

「一緒にいるって言ったのに……。私……氷呂を裏切った……」

「そうか」

「氷呂……きっと私に失望してる……。見放されたらどうしよう……。氷呂に見放されたら私、もう……」

「何言ってんだ。氷呂がお前を見放すなんてある訳ないだろ。氷呂の明羽への寛大かんだいさは周知の事実だ。他の誰でもないお前が信じなくてどうする」

「うぅ……。でも、今回ばかりは……」

「分かった分かった。俺も一緒に謝ってやるから」

 明羽はふうっと息を吐き出した。

「うん……」

「だから今は自分の心配しろ。そんな恰好、氷呂が見たら卒倒そっとうするぞ」

「うん……」

 明羽はそこで再び意識を失った。

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