第8章・北の町へ(4)

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 明羽は砂漠を移動している間、目を閉じて過ごすのが日課になっていた。運転手からわずかばかりの食料と水を与えられるもののそれだけでは到底足りず、夜も薄い毛布一枚では寝られなくなっていた。動かないのは体力温存の為もあったがそれ以上に気力ががれていることを明羽は自覚する。自覚していたがそれを改善しようという気も湧いてこないのだった。本能のようなものが働いていた。自分を守る為の本能。毎日毎日同じことを繰り返してさすがに飽きてきたのか隊長の明羽への理不尽な暴力も鳴りを潜めるようになっていた。明羽はもう日にちを数えてはいなかった。昏倒こんとうすること数回。正確な日にちはもう分からなくなっていた。モービルの荷台の上で膝を抱えたまま明羽はずっと金属でできた床の板目を見つめていた。

「おお!」

「見えてきましたね。長かったー」

 普段よりワントーン高い隊長と運転手の声に明羽は目だけを動かした。太陽に熱せられて揺れる地平線の上に白い何かが這い乗っていた。近付く程にその全容が見えてくる。

「ああ! 陛下! 愛しい陛下! 忠実なるあなたの臣下が帰ってまいりました!」

「臨時収入が俺を待ってるぜ」

「あれが北の町?」

 迫りくる異様に滑らかな白い壁肌が近付く者を押し潰さんとばかりにそそり立っていた。南の町よりも遥かに高い砂避けの壁に設置された装飾のきらびやかな門の前には検問待ちの車と乗合バスでやって来た人々が長い列を作っていた。その横をモービルは悠々通り抜ける。白い制服を着た門番をになう役人に運転手が何か見せると門番はかかとを打ち鳴らしモービルをあっさりと通す。門をくぐり抜けるモービルを順番待ちをしていた人々が恨めしそうに見つめるが親衛隊の制服に文句を付ける者はいない。時刻は太陽が天頂を通り過ぎ、午後の人々が活動的になる時間帯。壁の中はにぎわっていた。道は広く整備され、車道と歩道は明確に分けられる。車道は絶え間なく車が走り抜け、商店がのきを連ねるに面する歩道は地面が見えない程に人々が行き交っていた。南の町も賑わっていたがそれとは比べ物にならない程の人の数と熱量に明羽は目を白黒させる。車のエンジン音、クラックション、人々のざわめき、足音、物売りの声も怒号に近く、絶え間なく押し寄せる音に殴り付けられるような叩き付けられるような雰囲気に明羽は自身の肩を抱いていた。目立たないように小さくなる。

「泥棒! そいつを捕まえてくれ!」

 喧騒けんそうの中ひと際大きく声が響いた。歩道を歩いていた人々が振り返っていく。

「捕まえろ!」

「くそっ! 捕まえられるもんなら捕まえてみろよ!」

 明羽は遠くに見る。逃げ場がなくなったのか車道へ飛び出したのは酷く薄汚れた子供だった。車道に出てはまた歩道に戻り、また車道に出ては歩道に戻って行く。そんな子供を追い掛ける大人達は誰しもが小綺麗な格好をしていた。モービルは進む程にその追い駆けっこに近付いていた。

「おわ!?」

 モービルの前に飛び出してきた子供に運転手が急ブレーキを踏む。後ろばかり気にしていた子供はモービルに驚いて前のめりに倒れ込んだ。接触はしなかったようだが子供の姿は荷台に乗る明羽からは見えなくなる。

「何故止まった?」

 明羽の斜向はすむかいに座る隊長を運転手は振り返る。

「さすがにくのはちょっと」

「ハッ。これから陛下に謁見えっけんする予定だというのにケチを付けられた!」

 隊長は足を踏み鳴らして立ち上がりモービルを降りる。モービルの前では子供を追い掛けていた大人達が暴れる子供を押さえ込んでいるのか「放せ!」だの「暴れるんじゃねえ!」だのという声が聞こえてくる。ざわりと周囲がざわついた。赤黒い制服を身にまとった男の姿に人々の視線が集まっていた。

「どけ」

 近付いて来た隊長に子供を押さえつけていた大人達が離れる。隊長は腰のベルトにぶら下がっていた拳銃二丁を差し置いて一本の警棒を掴み取る。隊長が警棒を振り上げ、振り下げるのを誰も止めない。それどころか当然のように眺めていた。

「あーあ」

 明羽のいる位置からその光景は見えない。けれど正しく目の前でその光景を見ている筈の運転手は退屈そうに息を吐き出した。警棒を振り下ろすのをやめた隊長が肩を上下させながら言い放つ。

「役人に引き渡せ!」

 歓声が上がった。

「親衛隊だ!」

「さすがは王のつるぎ!」

「我らが番人!」

「正義の執行者!」

 明羽は歓声を近くに遠くに感じながら自分の中で何かが欠け落ちるのを感じた。それが何かは分からない。けれどはっきりと何か大事なものが欠け落ちたのを感じた。歓声に気を取られて子供の存在が意識から抜け落ちていたことに気付いて明羽はモービルの前を覗き込む。そこに大人達の姿は既になく、地面には何かを引き摺ったらしい赤い筋だけが残されていた。

「もう出してもいいですか?」

「もたもたするな」

「はい」

 隊長が荷台に戻って運転手がモービルを発進させる。当然のように赤い筋を踏み付けてモービルは加速していった。明羽は振り返る。何事もなかったかのように車は行き交い、人々が往来を行き来する光景がそこにある。明羽は膝を抱え込んだ。ジッとモービルの静かなモーター音と振動に意識を傾けた。


 北の町に入ってからもモービルは走り続ける。町の中だというのに三つ目の検問を通り抜ける頃には東の空から群青色に染まり始めていた。町の中に篝火かがりびともり始める。いつも太陽の側にある筈の月が今日はやたらと遠い場所に浮かんでいた。

「おお」

 隊長の感嘆の声にうつむいていた明羽はほんの少しだけ顔を上げる。

「隊長。変な声出さないでくださいよ。でも、ま。確かにここまで近付けば圧巻あっかんですけどね」

 石を積み上げ人工的に作られた丘の頂上に一般的な土造りの四角い住居とはかけ離れた幾つもの塔を天に伸ばす巨大な石の建造物が夕日に照らされ真っ赤に浮かび上がっていた。

「おお、おお! いつ見ても素晴らしい! 我が陛下の威厳いげん体現たいげんするかのような威風堂々としたたたずまい。これぞ我が陛下の血脈の叡智えいちを示す結晶!」

「もう何言ってるのか」

「ああ、陛下。今しばしお待ちを。実験の成果と土産をお持ちいたしますので!」

 運転手が呆れているのも構わず隊長はここにいない王をたたえ続ける。そんな隊長が不意に明羽を振り返った。その顔が凶悪に笑む。岩石地帯で髪を掴まれて以来ずっと解けたままだった明羽の髪を隊長はふたたび掴む。

「貴様が我らの手に落ちたことが周知されれば陛下の治世はより盤石ばんじゃくなものとなる。亜種共が妙な考えを起こすこともなくなるだろう」

「なに? 何の話? イタッ!」

 髪を引かれ前のめりになった明羽に隊長は楽しそうに笑う。

「なんだ知らないのか? 片翼とはいえ四枚の翼を持つ天使の噂に何やら希望を見出した亜種共がいるそうだぞ? 自分達に自由をもたらす救世主だとかなんとか。なんだ、その顔は?」

 明羽の顔を見た隊長が笑う。

「ハハッ! ハハハッ! 滑稽こっけいだな、亜種共! 貴様には同情してやろう! 勝手に奴らは貴様に期待しているらしい。当の貴様にその気など一切ないというのに! ハハハハッ! ハハハハハハハハハハハッ!」

 隊長が笑う程に明羽の髪がぐいぐいと引っ張られる。明羽は痛みに顔をゆがめながら隊長を見上げる。

「どこの……誰が……」

「この町で貴族に買われている亜種共だよ」

 買うという言葉に明羽の脳裏にまず浮かんだのは亜麻色の髪の天使の姿だった。次いでもうずいぶん昔のことのように思われる。南の町で聞いた人間に売られる人間以外の種族の話。

「それは本来禁止されてる……」

「ああ。陛下はお優しい方だからな。捕まえた亜種は即刻処分するように下知げちされている。だから皆密かに取引するのさ。お優しい陛下のお心をわずらわせないようにひっそりとな。数少ない亜種を買うのは貴族の中でステータスのひとつになっている。愚かしいことだ。まったくもって理解できない。だがしかし、それが事実だ。だから珍しい亜種が捕まったと聞けばこぞってそれを手に入れようと大金が動く。狩人共が頑張ってくれるのは別に構わないんだがほどほどにしてもらいたいものだ。亜種を殲滅せんめつするのは陛下でなくてはならないのだから。そういえば代々天使を飼っていた貴族がその天使をうっかり逃がして笑いものになっていたな。そういえばその貴族、片羽四枚の天使は片翼じゃないとか妙なことを言いふらしてたな。まあ、天使を逃がしたことを誤魔化す苦し紛れ言い訳だろうが」

 明羽は目を見開いていた。隊長の言葉を聞きながら明羽は皐奏アースが「私は人間に飼われた天使なのよ」と言っていたのを思い出す。皐奏もかつてこの町にいたのだと思ったら明羽の目に涙が浮かんだ。助けたかった、助けられなかった同胞の姿が明羽の目の裏に鮮やかに浮かび上がる。明羽の目から涙が止めどなくあふれ出す。

「あ? なんだ? 一丁前に感情を持ってますアピールか? 下等生物がこざかしい。そんなもので私の心は揺さぶられんぞ」

 隊長は明羽を床に叩き付け、その腹を蹴り上げる。空腹と睡眠不足で明羽は隊長の動きの何ひとつに反応することができなかった。痛む腹を押さえて痛みが過ぎ去るのをジッと待つ。隊長は座席に座り直して足を組む。

「まあ、ともかくとんだ杞憂きゆうだったな。救世主などと。貴様にその器はない。一部の亜種共が勝手に思い込んでいることだと分かって何よりだ。しかし、すっかり遅くなってしまったな」

 城へ向かう上り坂を上っている間に日はすっかり沈み、空には星がまたたいていた。けれど町の中は至るところに篝火がかれ、星を少しばかりかすませるぐらいには明るさに満ちていた。日没後は急激に下がる筈の気温も焚かれている火が多い所為せいか酷く緩やかに忍び寄せていた。綺麗に敷き詰められた石畳の上を静かにモービルは上っていく。丘の頂に辿たどり着くとまたも門が建ち、それを潜ると城はもう目の前だった。

「陛下のご命令とはいえ親衛隊が陛下のお側を離れるなど心苦しい限りだった」

 隊長がひたっている間にモービルは車庫に入る。

「では隊長。お疲れ様です」

「ご苦労」

 モービルのエンジンを切って鍵を抜いた運転手は一切振り返ることなく歩き去る。車庫に隊長と取り残されて明羽は酷く不安になった。ジャラリと鎖が鳴って首にかせが食い込んで明羽は慌てて隊長の後を追って歩き出す。モービルを降りて暫く歩くと隊長が不意に明羽を振り返る。隊長は明羽の身体をジロジロと眺め回した。

「そんな小汚い格好で城に入れる訳にはいかないな」


 四方を石の壁で囲まれた小さな部屋に連れて来られた明羽は水の張ったたらいの中に蹴り落される。水のあまりの冷たさに明羽は一瞬息が詰まった。服を掴まれ明羽はゾッとする。思わず翼を広げて隊長を弾き飛ばしていた。隊長はたたらを踏んだだけで明羽を可笑しそうに見下ろす。

「これは驚いた。羞恥心しゅうちしんも一丁前に持っているらしい」

 そう言うと隊長は明羽をジッと見下ろし始める。盥の中で水につかかったままの明羽は身震いする。たまらずくしゃみが出た。

「ハハハッ。早く脱がないとそのまま死ぬんじゃないか?」

 隊長は腕を組みながらなおもその場に立って明羽を見下ろし続ける。明羽と隊長の睨み合いが続く。一向に動かない明羽にしびれを切らした隊長が舌打ちした。

「チッ。らちかない」

 一歩近付いて来た隊長に明羽はっていた。

「こんなところで油売ってる場合!? 早く王様のところに行くべきなんじゃないの!?」

 隊長の動きが止まった。

「そうだ。今日の報告に行かなければ。私が帰って来たこともお教えして安心していただかねば」

 隊長はこの部屋唯一の扉に手を掛けて立ち止まる。明羽を振り返ってその姿を鼻で笑ってから隊長は部屋を出て行った。それを確認して、戻って来ないことも確かめて明羽は全身から力を抜いた。止めていた息を吐き出す。ブルブルと震え始めた身体を抱き締める。明羽にとって初めて感じた恐怖だった。

「うぅ……」

 嗚咽おえつこぼれるが明羽は唇をむ。自分で決めてここまでやって来た。けれど考えなしだったと心の底から明羽は思う。まるで予想しなかったと明羽は思う。自分の知らない世界というのは当然のように隣に存在しているのだと思い知る。理解できないものがあるのだと、随分遠くに来てしまったと、同じ世界である筈なのにまるで知らない世界に来てしまったようだと明羽は思う。

「氷呂」

 明羽が今自分を保っていられるのは氷呂という存在があるからだった。ずっと明羽と共にいた、明羽の隣にいた少女。その最も大事な友人を裏切ってしまったこと、明羽はとても後悔していた。

「氷呂。ごめん……。ごめん……」

 明羽は膝を抱えて小さくなる。「氷呂はこんなところまで勝手に来てしまった自分を許してくれるだろうか?」内心呟いて明羽の胸に一抹いちまつの不安がぎる。氷呂に見放されることを初めて考えて明羽は重く暗いものが背中から腹の内へ滑り込んできたように感じる。両肩を抱え、爪が肌に食い込む程に握り込んだ。

「大丈夫……大丈夫……」

 明羽は大きく息を吸い長く吐き出す。自分の頬をぺしぺしと叩いて立ち上がる。

「よし」

 水は冷たいが随分と身体を流していないことも事実だった。明羽は服を脱ぎ始める。水で身体を拭きながら四方を囲む石壁を観察する。立ちはだかる壁に明羽は大きなため息をついた。


   +++


 村の入り口に一台の車が入ってくる。停車した車から降りてきたのは黒い服に身を包んだ長身の男三人組とふわふわとした黄色い髪をおさげにした女の子だ。

「謝花」

 謝花は出迎えてくれた白い獣と色白の美しい女の姿に唇を引き結ぶ。

「村長。夏芽姉様。ごめんなさい! 私じゃやっぱり分かりませんでしたあああああ!」

「やっぱりダメだったかあ」

「困りましたね。これで純血の聖獣全滅ですよ。謝花ちゃんは四分の三だけど。こっちからお願いして了承してくれたみんな、村の外に出るのに変なテンションになりながら頑張ってくれたのに」

 声を上げて悔し泣く謝花をなぐさめていた村長が夏芽を振り返る。

「そうだね。どうしたものか」

「標に任せてもらったのに」

「あんな大口叩いたのに」

「僕達はなんて役立たずなんだ……」

 村長は謝花から落ち込むトリオに慰める矛先ほこさきを変える。

「あ、あの。夏芽姉様……」

「ん? どうしたの謝花ちゃん?」

 村長に慰められて落ち着きを取り戻した筈の謝花が不安そうにそわそわと手を何度も握り直しては小さな移動を繰り返す。

「あの、氷呂の様子は?」

 標に頼まれた手前、謝花は最初新天地の水脈調査に行くことを頼まれてもすぐには頷くことができなかった。夏芽と村長に説得されて行くことを決めたが、それも済んだ今、謝花の最優先は氷呂に戻っている。夏芽が少し目を伏せる。

「氷呂ちゃんは相変わらずよ。布を織ることもせず機織はたおり機の前に座ってるだけ」

「分かりました」

 謝花は言いながらすでに駆け出していた。謝花を見送り夏芽はため息をつく。

「夏芽! 僕達!」

 トリオが夏芽に熱い視線を送っていた。

「なに?」

「僕達に指示を!」

 夏芽はトリオのまっすぐな目を見返しながら「何故村長ではなく私?」と呆れる。

「村長。どうしましょう?」

「そうだねえ」

「村長。僕達……僕達……みんなの役に立ちたいんです!」

「十分役に立ってるってば。でも、分かったわ。選択肢はきっと多い方がいい。他の候補地が見つかるまで帰らないぐらいの気持ちでいってらっしゃい!」

「おう!」

 夏芽の激励げきれいにトリオは帰って来たばかりにも関わらず颯爽さっそうと車に乗り込んだ。村長はトリオの消えた砂嵐を見つめる。

「結局夏芽が決めちゃったね」

「あ。す、すみません! 村長!」

「ま、いいんじゃないかい。トリオも何かしてないと落ち着かないんだろう。君もきっとそうなんだろう。夏芽」

 村長の薄紫色の瞳に見つめられて夏芽は気恥ずかしそうに俯いた。


   +++


 頭の側に足が踏み下ろされる。音と振動に明羽は驚いて目を覚ました。明羽が顔を上げると首に繋がる鎖がジャラリと鳴る。明羽の目の前に今まで以上に赤黒い制服をきっちりと着込んだ隊長が立っていた。隊長は明羽の姿を見下ろして鼻で笑う。

「いい格好だな」

 昨日の夜に水の張った盥に蹴り落された明羽の服はたっぷりと水を吸ってしまい、とてもまた着られる状態ではなくなっていた。乾かす方法もある訳がなく苦肉の策で明羽は自身の翼を身体に巻き付けてこの一夜を過ごしていた。片翼だったが幸い翼は四枚あり身体をおおうことができた。そして皮肉なことに四方が壁に囲まれているというだけで寒さはそれなりにしのげ、明羽はここ最近で一番眠ることができていた。

「水で流したところで薄汚さは変わらんか。着替えろ。せめて上辺うわべだけでも取り繕つくろえ」

 隊長の投げつけた服が明羽の盾にしていた翼に引っ掛かる。明羽の目の前でふんぞり返っている隊長に部屋から出て行く気配はなく明羽は翼を広げたまま慎重に服の袖に腕を通した。明羽は目を瞬く。寄こされた服は決して粗末そまつなものではなかった。手触りもなめらかで使っている布の種類も多く縫製ほうせいもしっかりしている。正直明羽はここまで上等な服を着たことがない。その上等な服を何故今、しかも目の前のいけ好かない男から渡されねばならないのか。もっと違う形で着たかったと明羽は下唇を突き出した。

「なんだその顔は?」

 隊長が明羽に一歩迫り、明羽は反射的に一歩退いていた。明羽の反応に隊長は口角を吊り上げる。

「いいぞ。そうだ。恐れろ。この世の支配者は誰かその身に刻み付けろ!」

 明羽は意に反して震える手を握りしめ精一杯隊長を睨み付ける。

「付いて来い。陛下はお忙しくすぐに謁見えっけんはできないそうだ。しかし陛下はお優しい。その時まで貴様のような下等生物にも部屋を用意してくださった。心しろ。噂の片羽四枚の天使に陛下も少しばかり興味があるようだ。部屋で大人しく待て。逃げようなどと考えるなよ。無駄なことだ。部屋には常に見張りが付く。城の中は常に衛兵が見回っている。お前に自由などない。それから翼は常に出しておくようにというお達しだ」

 明羽は自身の翼を撫でた。ストレスの所為か毛羽立ち、つやもない。言いなりになることは当然不本意だったがやっとここまで来た。まだその時ではないと明羽は従順な振りをしようと考える。けれど隊長に一瞬でもおびえたことは屈辱くつじょく以外の何ものでもなく、明羽はほんの少しだけ主張する。

「ねえ。髪紐が欲しいんだけど」

「ハッ」

 隊長は明羽の主張を一蹴いっしゅうした。


 鎖を引く隊長に付いて明羽が石壁の部屋を出ると部屋の中と同じような壁の廊下が左右に続いていた。廊下の突き当りにあった上り階段を上っていく。隊長の靴音が高らかに響き、明羽の裸足のぺたぺたという音が掻き消される。階段を上り切って扉をふたつ程潜ると建物の様相は一変した。白く磨き上げられた染みひとつない清潔な壁。目がくらむ程の太陽の光を取り入れる大きな窓はすべてガラス張りだった。高い天井にはしげもなく差し込む太陽光をさらに乱反射させるガラスの飾りが等間隔に吊り下げられていた。幅広の廊下は隙なく絨毯じゅうたんが敷き詰められ、足元の柔らかさに明羽は落ち着かない。

「止まれ!」

 隊長が明羽を振り返っていた。その形相ぎょうそうに明羽は息をむ。

「貴様! その薄汚れた足で城の中を歩くとは何事だ!」

 迫ってきた隊長に明羽は翼を広げていた。白い羽根が舞う。首の枷が食い込んで明羽は宙で制止した。眼下にある隊長の顔を睨む。

「歩かなけりゃいいんだろう!」

「いいだろう! だが私を見下ろすのは許さん!」

 隊長が猟奇的に笑いながら鎖を引っ張った。首に枷が食い込むが明羽は隊長に引き寄せられるのが嫌で痛みに堪えながらゆっくりと下降する。ギリギリ足が付かない位置で態勢を整える。

「ふん」

 隊長が再び歩き始め明羽はそれに従った。せめてブーツは履いてくれば良かったと明羽は思う。ブーツを履いていても似たようないちゃもんを付けられていたような気もしたが。

「ここだ。開けろ」

 隊長が装飾のされた両開きの扉の前で立ち止まる。扉の両脇には初めて見る黄色い制服に身を包んだ衛兵が立っていた。衛兵達は翼を生やし、しかも少しばかり宙に浮いている明羽を前に緊張する。動かない衛兵に隊長が怒鳴どなる。

「早くしろ! 貴様らは木偶でくぼうか!」

 衛兵達はやっとこさぎこちなく扉を開いた。隊長が明羽を突き飛ばす。バランスを崩した明羽を引きるようにして部屋の中まで入った隊長は鎖の先を鉄格子のはめ込まれた窓枠につなげた。態勢を立て直した明羽が振り返ると隊長が閉まる扉の向こうに消えるところだった。鍵の閉まる重い音が響く。明羽は音もなく絨毯の上に着地した。絨毯の柔らかな感触が足の裏を包み込む。明羽は改めて部屋の中を見渡した。小さな部屋だった。小さな部屋だったがガラス張りの窓がひとつに対の机と椅子が置かれ、壁際にはひとり用の小さな寝床がもうけられていた。明羽は寝床に腰掛ける。何枚も重ねられた柔らかな布に明羽は仰向あおむけに寝転ねころがる。壁同様みがき上げられた天井は見るからにスベスベと滑らかで。あの岩石地帯からここに至るまでの劣悪な環境を思えば急な安息に明羽は自身の意思に反して目蓋が落ちてくるのを自覚する。

「やらなきゃいけないことがある……。まだ気を抜いちゃいけない……。でも、ここからどうしよう……」

 一拍後には明羽は静かな寝息を立てていた。


 明羽は夢を見る。たゆたう柔らかな青い光。けれどどこか苦しそうで窮屈きゅうくつそうな酷く静かな光だった。

「氷呂……」

 明羽が呟いた時、静かな夢の中に遠くから騒がしい声が割り込んで来る。そしてその声は段々と近付いてきていた。


 明羽は目蓋を押し開く。身体を起こし、目元ににじんだ涙をぬぐう。

「いけません! ここは今……」

「いいじゃないか。誰にも言わなけりゃバレねんだからさ」

 扉の外から聞こえてきた能天気な声に明羽は首を傾げる。鍵が閉まっている筈の扉が開き、衛兵との押し問答の末押し切ったらしい人物が入ってくる。ぼさぼさにも見える癖の強い暗めの赤い色の髪は背中まで長く、明羽より幾つか年嵩としかさのいった男は明羽の姿に目を輝かせた。

「本物の天使だ」

 見るからに身分の高そうな服を着た男だった。男は少年のような好奇心に満ちた目で明羽に近付いて、無遠慮に明羽の翼に手を伸ばす。明羽は反射的にその手をけていた。

「お?」

 男は暫し明羽を見つめてから手を打った。

「悪い悪い。そうだよな。急に知らない男が近付いてきたらビビるよな。ダチにも良く言われるんだ。気を付けろって。だけどなかなかどうして。夢中になっちまうとおなりになっちまって。えーと」

 男は少し悩んだかと思うと明羽に向かって片手を差し出す。

「俺はリュウガだ! お前の名前は?」

 歯を見せて屈託くったくなく笑う男に明羽は警戒心ばかりをつのらせる。いくらでも黙っていることは出来た筈なのだが不意に赤黒い制服を身にまとった隊長の顔が脳裏に浮かんだ。

「……明羽」

 明羽はあんな男の所為で誰かを信じたり、期待する気持ちを失くすなんてまっぴら御免だと負けん気を発揮する。それでも目の前の男、リュウガが差し出し続ける手を握り返すことはできなかった。リュウガは首を傾げる。握り返されない自分の手を見つめて引っ込めた。

「明羽か! よろしくな! しかし、またこの目で天使を見ることができる日がくるとは……いや、信じてたけどな! できれば自分で見つけたかったなと思っただけで」

「そう」

 明羽はリュウガの言葉に記憶の深いところで何か波打った気がしたが思い出せない。少し考えるがリュウガが明羽の隣に腰を下ろしてきて明羽の思考は中断された。明羽は驚いて飛び退く。

「なんで急に隣に座った!? 友達に気を付けろって言われたんでしょ!」

「あれ?」

 ふたりの間に妙な間が生まれた。リュウガは暫し明羽を見つめてから立ち上がる。明羽が立っていたからかもしれない。

「えっと。俺、明羽とお近付きになりたいんだが」

「無理」

 明羽は反射的に拒絶していた。口走ってからさすがに急すぎたかと明羽は反省する。けれどリュウガは元気に言う。

「友達になろう!」

 言葉が通じていない感じに明羽は赤黒い制服を着込んだ男達のことを思い出した。けれど奴らに比べてリュウガには邪気がない辺り明羽は別の厄介やっかいさを覚え始める。

「友達になってくれ!」

 リュウガは明羽が頷くまでテコでも諦めそうにない。

「何が目的?」

「目的? 俺は明羽と友達になりたい!」

「それはもう聞いた」

「本物の天使と話がしたい! あわよくば翼に触りたい!」

「売るとか見世物にするとか」

「友情は金で買えないぞ」

 急に真面目な顔になったリュウガに明羽は少し面食えんくらう。

「本当に私と友達になりたいの?」

「ああ! でもこのままじゃ明羽は「うん」とは言ってくれそうにないな。よし、誠意を見せよう。まずは信用を勝ち取らねば。何か欲しい物はないか? 俺にして欲しいことがあったら何でも言ってみろ。なんでもするぞ」

「なんでもって……」

 そんな簡単に言っていい言葉ではないだろうと明羽はリュウガを見る。リュウガは無邪気な顔でキラキラした目で明羽の言葉を待った。明羽が黙っていてもリュウガは待ち続け、いつまでも待ち続けそうなリュウガに明羽は根負けする。一先ひとまず当たりさわりのないものをお願いしてみようと明羽は口を開く。

「じゃあ。髪紐が欲しいんだけど」

「かみひも? かみひもってあの髪紐か? 髪止める」

「そう。その髪紐。普段は髪を結ってるんだけど使ってたやつが切れちゃって」

「そうか。分かった。待ってろ」

 リュウガが扉へと歩いていく。扉が開き、閉まるまでの間にリュウガと衛兵の会話が聞こえてくる。

「リュウガ様! 勘弁してくださいよ」

「また来る」

「ええ!? これっきりにしてください! 誰も通すなって言われてるのにっ」

「バレたら俺達の首が飛ぶんですって!」

「バレなきゃいいんだって。お前達が黙ってれば……」

 扉が完全に閉まって声は聞こえなくなった。静まり返った部屋の中で明羽は寝床の縁に座る。少しばかりぼんやりして、

「やることがない」

 と呟いた明羽は何のためにここに来たのかと我に返る。北の町になら、伝承がどのように語り継がれて来たか、真実かどうか調べることもできるのではと明羽は単身ここまで来たのだ。はかららずしも人間の王が住まう城にまで入り込むことができている。明羽はこれをチャンスだと無理やりにでも前向きにとらえることにした。

「よし」

 明羽は気合いを入れて立ち上がった。頬を叩いてリュウガに呑まれていた空気を引き戻す。明羽は部屋の中を改めて見回した。ジャラリと音がして首から伸びる鎖を目で追うと鉄格子のまる窓に辿り着く。格子越しに外を覗くと真っ青な空と眼下に遠くかす街並まちなみが広がっていた。

「すごい」

 起伏のない砂漠で見るより地平線が遥か遠くに感じる。建物の影を見て明羽は太陽の位置を確認する。太陽は窓の外を覗き込む明羽の右手側にあるようだった。太陽は東から昇って必ず天頂を通って西に沈む。午前と午後で若干違う空の色を見極みきわめて明羽は現在の時刻をし量る。

「この色は昼過ぎ」

 明羽はぼんやりと窓の外を眺めた。明羽に掛かればこんな窓ぐらい壊そうと思えば簡単に壊せる。けれど今それをして騒ぎを起こすのは得策ではないような気がした。目立てば動き辛くなる。けれどここから出なければ動きようがない。そもそもどこに行けば欲しい情報が手に入るのか。明羽は部屋の中をウロウロと歩き回る。考えても答えは出ず、明羽は意を決して翼を広げた。瞬間、扉からガタガタと音が聞こえ明羽はビクリとちぢこまる。

「待たせたな!」

 リュウガの元気な声が部屋内に響いた。閉まり切る前の扉の向こうに諦め顔の衛兵達が見えた。

「髪紐持ってきたぞ」

 言いながらズンズン近付いてくるリュウガに明羽は窓枠にへばり付くように後退あとずさる。リュウガが立ち止まる。

「まだそんなに近付いてないぞ!」

「うん」

 子供のようにむくれるリュウガに明羽は窓枠にへばり付くのをやめた。

「どれがいい? 全部でもいいぞ」

「いや、ひとつで十分」

 リュウガの差し出して来たやたらきらびやかなものが多い髪紐の中から明羽はできるだけ質素な一本を選び取る。

「そんなんでいいのか? こっちとかキラキラして明羽に似合いそうだと思うんだが」

「そんな高そうなの使えないよ」

 明羽は手櫛てぐしで髪をき、手慣れた手付きで髪を左耳の後ろでひとつにたばねる。

「綺麗な髪だな」

 思ったことを言っただけのリュウガに明羽は不信の目を向けた。

「それ、誰にでも言ってるの?」

「思ったら言ってる」

「そう」

 明羽は髪の結び目に触れる。少し前までそこにずっとしていた石を明羽は服の中から取り出した。

「綺麗な石だな。髪飾りか?」

「うん」

「壊れてね?」

「え!?」

 言われて明羽は涙型の緑色の石の付いた髪飾りを今一度見る。よく見れば部品がいくつかはずれ、ゆがんでいた。石が落ちていないのは奇跡のようだった。

「いつの間に!?」

 隊長に髪を引っ張られ落ちた時か移動している間服の中でつぶしてしまったか。なんにせよ明羽は今の今まで気付かなかったことに一番ショックを受ける。

「大事な物なのに……」

「どれ」

 リュウガが明羽の手から事も無げに石を奪っていく。

「ちょっと!?」

「まあまあ。ここをこうしてちょちょいと。ほれ。手先は器用な方だ!」

 リュウガは得意気に笑った。明羽はリュウガの差し出した、以前とは少し仕様の違うものの、見事に直った髪飾りに目を見開き息を呑む。固まった明羽にリュウガは首をかしげてから髪飾りを明羽の髪に挿した。明羽の左耳の側で涙型の緑色の石が揺れる。

「ありがとう!」

 心の底から叫んだ明羽にリュウガは嬉しそうに笑った。

「おう! で、どうだ?」

「え?」

「友達になってくれるか?」

「え、あ……」

 迷いが生じた明羽の脳裏にここに来た目的が浮かぶ。

「まだ、ダメ!」

「ええー」

 リュウガが不満そうに唇をとがらした。そんなリュウガを見ながら明羽は動けない自分の代わりに動いてくれそうな人物が目の前にいることに今度こそ本当にチャンスだと思う。

「欲しいものがあるんだ。それを持って来てくれたら友達になってあげる!」

 口走ってから明羽は人間に「伝承の真実を調べたい」など言っていいものなのかと不安になる。人間達は伝承を信じて疑っていない。信じているものを否定しようとする明羽に今は友好的に接してくれているリュウガだが、その態度が一変する可能性に明羽は言葉に詰まった。

「お? いいぞ! 何が欲しいんだ?」

「え、えっと……」

 しどろもどろになった明羽にリュウガは首を傾げる。

「そうか! 分かった!」

「え? なに!?」

「何が欲しいか当ててみろってことだな! よし、ちょっと待ってろ。何が欲しいのか今んところなんの情報もねーから。とりあえずなんか色々適当に持ってくる!」

「え? え?」

 扉が大きな音を立てて閉まり、衛兵達の声にならない悲鳴を明羽は聞いた気がした。明羽は呆然と閉まった扉を見つめる。

「何も言ってないよ?」

 リュウガの思い込みの激しさに明羽は頭を抱えた。もし、あれがすべて演技だなんてことになったら明羽は立ち直れる自信がない。明羽はリュウガを信じるべきか信じないべきか迷いに迷って結論が出ないままにリュウガは戻って来た。

「女の子の喜ぶ物ってなんだろうな?」

 リュウガは何度も部屋を出入りする。リュウガの持ってきたもので部屋の中は溢れ返り始める。菓子類、装飾品、服、ぬいぐるみ、などなど。リュウガの押し付けてきたワンピースを胸の前に当てた明羽はそれが自分のサイズと寸分違わないことに少しばかりの恐怖を覚える。キリキリと耳慣れない音が聞こえてきて明羽が顔を上げるとリュウガが小さな箱の底をひねっていた。リュウガがその箱を机の上に置くと金属と金属のはじける音がつらなり音楽をかなで始める。

「すごい。何これ? 楽器?」

「オルゴールだ」

「おるごーる」

「気に入ったか? 全部やるぞ」

「え。いやいや。貰えない貰えない」

「そうか? この中に明羽の欲しいものはなかったか。これ以上ひとりで考えても思い付きそうにないんだよな。こうなったらダチに相談して……」

 腕を組んで黙り込んだリュウガに明羽は心を決める。

「リュウガ。頼みたいことがあるんだ」

 明羽のまっすぐな緑色の瞳にリュウガは嬉しそうに笑った。

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