第7章(2)

   +++


「標さん」

 呼ばれて標はハッとする。すっかり採掘に夢中になっていた標は頭上を見上げた。太陽はあまり傾いておらずそれほど時間が経っていないことが分かる。標は手に持っていた石の欠片とルーペを腰のポーチに仕舞って振り返る。

「どうした? 氷呂」

「標さん。音が聞こえるんです」

「音?」

 氷呂は目を泳がせる。氷呂のハッキリしない物言いを珍しいと思いながら標は氷呂の次の言葉を待った。

「何か近付いてきます」

「何か?」

「音は聞こえてるんです。でも、それが何か分からなくて。車でもない、バイクでもない、足音でもない」

「明羽はどうした?」

「明羽は……」

 氷呂が悔しそうな顔になり、標はなんとなく察しがついた。

「見失ったか」

「……はい」

「あの鈍足で氷呂をいたのか。意図的に撒いた訳じゃないとは思うが」

「油断しました。岩の影に見えなくなったと思ったらもうそこにはいなくて。居場所を探ろうにも岩に遮られたり反響したり正確な位置が分からなくて」

 氷呂が重いため息をついた。

「明羽を早々に見つけたいところだが。氷呂。音が反響して明羽の位置もはっきり分からないのに何かが近付いてるのは分かったのか?」

「聞き慣れない音が聞こえた時点で一度岩石地帯の外に出てみたんです。それに近付いてるかどうかは聞こえる音が段々大きくなってる時点でそうだと分かりますから」

「なるほど。音はどっちから近付いてくる?」

「あっちです」

「西の町方面からか。人数とか分かるか?」

 氷呂が口籠くちごもる。

「……分かりません。エンジン音にしては重すぎる音が近付いて来てるんです。乗り物? なんだとは思います。なので人数までは」

「なるほど。盗賊か商人か旅人か。この岩石地帯に用がある奴なんていないと思うんだが。まっすぐこっちに向かって来てるか?」

「来てます」

「そうか。すぐに離れるべきか様子を見るべきか……」

「標さん」

「ん?」

「思ったより早いです。近付いて来てます」

「え」

「明羽……」

 氷呂が不安そうに呟く。

「とにかく探そう」

 動くにしても様子を見るにしても明羽を見つけたらすぐに行動できるように氷呂と標は一緒に行動する。時々立ち止まっては氷呂が耳を澄ます。

「まだ来てるか?」

「はい。近付いてます」

「ここに向かって来てると思って間違いなさそうだな」

 標は眉間に皺を寄せた。

「明羽を見つけるより先にあちらさんがここに着く方が早いか? そうなったらあちらさんが何の目的でここに来るのか把握した方がいいかもしれない」

「標さん。そろそろ標さんにも聞こえませんか?」

「お?」

 標が耳を澄ますと氷呂の言う通りかすかに聞こえてくる。その音は岩に反響して四方から聞こえるようだったが段々と大きくなっていることから確かに近付いていることが標にも分かる。

「ああ。聞こえた。あちらさんが回り込んだりしてなけりゃ西の町方面から来てるんだよな。取り合えず外側に向かってみよう」

「はい」

 標が警戒しながら先を歩く。その後を氷呂が付いて行く。岩に反響する音がさらに大きくなって地面もわずかに振動し始め、標が隠れられる最後の岩陰から向こう側を覗き込むと、その先はもう屈まなければ身を隠せない程小さな岩しか並んでいない、岩石地帯の外側だった。小さな岩しか転がっていないその向こうに標は大きな黒い箱を見る。

「なんだありゃ」

 大小の箱を重ね合わせ組み合わせたような明らかに自然物ではない黒い鉄の箱がゆっくりと動いていた。タイヤの代わりに履帯りたいが箱を支え、小さな岩を幾つも粉砕しながらそれは大仰おおぎょうな重々しい音を立てて止まった。見たこともないものに標が次の手を考え込んでいると金属と金属がこすれるような音が響く。標が改めて見れば箱の側面の一部に切れ目が入りゆっくりと地面に向かって倒れ始めていた。スロープになった壁を数人の男が降りてくる。男達は揃いの制服を着ていて標は目を見開く。

「あのどす黒い赤色に花を象った紋章!」

 標は頬を引きらせたが氷呂は標の言葉の中の花という言葉に気を取られた。

「花?」

「あれは王直属の親衛隊だ。なんでこんなところに!」

 氷呂は標の影から岩の向こう側を覗き込む。今はどこに行っても見ることのできないかつて世界の至るところに咲き誇っていたという植物の影を探す。

「氷呂」

「え、あ、はい?」

「あんまりこんなことはさせたくないが、あいつらの会話を聞き取れるか?」

「大丈夫ですよ。標さん」

 申し訳なさそうな標に氷呂は笑う。集中する氷呂の耳に聞こえてくるのは空気の流れる音、布のれる音、靴が砂を踏む音、砕かれた石が蹴られる音、そして、声。


   +++


 腕章を付けた男が黒い箱の前へ回り込む。

「このくらいの岩なら簡単に砕けるか」

「車体、履帯、共に目立った傷はありません」

「まったくもって頑丈なことだけが取り柄だな」

「北の町よりここまで所要時間六十三日です。想定より十二日の遅れになります」

「はああぁ……。鈍足どんそく。燃料の消費は激しいわ乗り心地は最悪だわ。まったく。車体をもっと軽くできれば燃料消費、速度アップは考えられるか?」

「報告書に記載します」

「揺れの軽減も必須だと付け加えておけ。まあ、いい。さて、諸君。問題は山積みだがまだ研究段階。ここまで想定の範囲内と言えるだろう。それにしても酷い有様だが」

 整列した赤黒い制服を着た男達がわざとらしい笑い声を上げた。

「そんな分かり切った結果を踏まえて、我々がこんな世界の果ての岩石地帯くんだりにまで来た理由を忘れてはいまい。ここからが本題だ」

 整列した男達が緊張した様子で唾を飲み込む。

「報告に間違いはないな」

「調査は既に済んでおります。この岩石地帯に有益な鉱石は発見されませんでした。近くに有人のオアシスもなく、ここに至るまでに周囲を警戒しましたが通り掛かる者も皆無です」

「よろしい。準備に掛かれ」

「は!」

 赤黒い制服を着た男達が動き出す。金属のきしむ音が響いた。


   +++


 氷呂が目を開ける。標は難しい顔で顎に手を置いた。

「実験? あいつら実験の為にここに来たのか? 一体何の実験だ?」

「もう少し聞いてみますか?」

「いや。あんまり長居しない方がいい気がしてきた。奴ら人がいるかどうか気にしてたんだろ? 何する気か知らんが嫌な予感がする。一旦車に戻ろう。明羽も戻ってるかもしれない」

「そうですね」

 氷呂と標は音を立てないようにしながらその場から離れる為に歩き出す。氷呂は大きく目を見開き振り返っていた。

「明羽!」

「氷呂!?」

 突然踵を返し駆け出そうとした氷呂を標が押さえ込む。

「どうした? 氷呂!」

「明羽! 明羽が!」

「明羽?」

 氷呂が必死に手を伸ばす先を標も見る。標もまた見たものが信じられなくて目を大きく見開いた。


 明羽は立ち上がっていた。先程まで隠れていた腰までの高さの岩の側に立つ。

「た、隊長」

「うん?」

 隊長と呼ばれた腕章を付けた男と明羽の間に遮るものは何もない。

「おや。お嬢さん。いつからそこに?」

「さっきから」

 隊長と呼ばれた男は明羽の周囲に視線をわせた。そこにあるかもしれない何かを探るように。標は氷呂におおかぶさり岩の影で息を殺す。

「子供がひとり。どうやってここまで来た?」

「さて、どうやってだと思う?」

 明羽の髪がふわりと揺れる。左耳の後ろに一束にまとめられた緑を帯びた黒髪。結び目に刺さった飾りから伸びる涙型の緑色の石が耳元で揺れる。そして広がる左側にのみ生える四枚の翼。制服の男達が身構えた。

「ほう」

 隊長と呼ばれた男だけが不敵に笑う。

「噂の片羽四枚の天使にこんなところで出会うとは」


 明羽が広げた翼を見た標の肩が震える。

「明羽。なんでだ……」

 目の前で起こっていることが標には信じられなかった。


 隊長は腕を組み、品定めするように明羽の頭の先から足の先まで眺め見る。

「怪しいことこの上ないな。自らの姿を晒すなど。仲間はいないのか?」

「さあね。イタッ!」

 明羽は髪を引っ張られて顔を顰める。

「生意気なガキだ」

 髪の毛が数本根元から千切れる音を聞きながら明羽は喉の奥で悲鳴を上げる。髪紐が切れ、結び目のなくなった髪から髪飾りが落ちた。それを見た隊長は明羽から手を放し足元の髪飾りを拾い上げる。涙型の緑色の石が太陽の光を反射してキラリときらめいた。

「見たことのない石だ。これは」

 石から明羽へと目の向きを変えた隊長は息を呑む。あまりにも冷たい緑色の目が隊長を見据えていた。切り裂かれそうな程に冷たい色の瞳に隊長は髪飾りを明羽に投げていた。明羽はそれを両手でしっかりと掴み取る。ホッとした明羽の耳に隊長の舌打ちが聞こえる。顔を真っ赤にして蟀谷こめかみを震わせる隊長は明羽の目に屈した自分を恥じ、明羽に怒りを向けていた。

「諸君!」

 隊長の声が朗々と響く。

「緊急事態である! 私はこれよりコレを連れ、先に北の町へ帰還する! 片方とはいえ四枚の翼を持つ天使である。特筆すべき危険生物を放って置くなど骨頂こっちょう! この場で殺すのが最善だろう。が、しかしくだんの天使は数回に渡り世間を惑わした。陛下のご意見を頂戴する為生かしたまま連行する。残りの実験はあとひとつ! 今回の遠征で最も重要な実験である。この目で見れないのは残念至極だが必ず成功させよ! 諸君らの健闘を祈る!」

 制服姿の男達が踵を打ち鳴らした。

「よろしい。モービルの用意!」

「はっ!」

 黒い鉄の箱から再び金属と金属が擦れるような音が響き、制服姿の男達が降りてきたのとは違う壁が倒れ始める。スロープを下りて来たのは大型のバイク程の大きさで運転席の後ろに荷台があり、タイヤの代わりに履帯を穿かせ、補助するように両脇に二枚のそりを取り付けた乗り物だった。

「乗りたまえ」

 見たことのない乗り物の荷台に隊長は既に乗り明羽を見下ろしていた。明羽は手の中の涙型の緑色の石を握り込む。

「ごめん。氷呂」

 氷呂にしか聞こえない謝罪に氷呂が顔を上げる。標に覆い被さられている氷呂は身動きが取れない。聞き慣れない駆動音と共に遠ざかって行く明羽の気配に氷呂は呆然とする。再び響き始める金属と金属がこすれるような音。制服を着た男達をすべて収容して黒い箱の開いていた壁が閉じられた。次いで響く先程とは違う何かを回しているような金属音。それが聞こえなくなると耳が痛くなる程の静寂が辺りを支配した。標の背に嫌な汗が流れた。

「氷呂! 氷呂!」

 呼び掛けても返答のない氷呂の腕を標は掴む。それでも氷呂は反応しない。

「ひ……」

 空気が一方向に吸い寄せられるような感覚ののち、響いた轟音。空気が打ち震え頭を殴られた時のように目の前に散った星を標は頭を振って払う。標は自分より遥かに耳の言い氷呂を心配するが氷呂は微動だにしていなかった。まるで魂の抜けた人形のように動かない。

「氷呂。頼む。走ってくれ!」

 氷呂を半ば無理矢理立ち上がらせ標は今いる岩陰から一歩を踏み出そうとして見る。岩石地帯の一角が砂塵と化していた。そこにあった数多に転がり立っていた岩は見る影もなく、それどころか地面が落ちくおみ縁から砂が流れ込んでいる。軋む金属音が聞こえたと思ったら黒い鉄の箱の上部から制服姿の男がひとり顔を覗かせていた。標は慌てて今出ようとしていた岩陰へ身を戻す。氷呂の口から僅かに音が零れるのを標は聞き逃さない。

「……第一段階、成功……第二段階へ移行する……威力を五上げる……失敗は許されない……これを完成させるために既に莫大ばくだいな時間と労力が掛けられている……この兵器は亜種殲滅せんめつ作戦のかなめである……」

「亜種……殲滅作戦……?」

「我らが王の……偉大な……第一歩……量産……」

 氷呂の声が震えて途切れる。

「明羽……どうして?」

 標は氷呂を抱え上げた。

「最初からこうすればよかった!」

 標は走り出す。できるだけ身を低くし岩の影から影へ飛び込んでいく。自分の勘を信じて足を進めていく。乱れる呼吸を隠れた一瞬で整えて黒い鉄の箱から遠ざかっていく。途中、二発目が放たれ車に辿り着いた時三発目が放たれた。飛び散る砂塵さじんに標は顔を覆う。

「くそっ!」

 たったの三発で岩石地帯は見るも無残な有様になっていた。車を止めていた側まで大地はえぐれている。標は助手席に氷呂を投げ込み運転席に乗り込んでアクセルを踏み込んだ。未だ舞う砂塵に紛れてこの場からの脱出を図るのだが、車が走り出した途端響く後方からの轟音。爆風に車が前のめりになった。

「く……そ!」

 標の目の端に助手席から浮く氷呂の姿が映る。

「氷呂!」

 無気力な氷呂は投げ出されるに身を任せ抵抗する様子も見せない。

「氷呂!」

 標はハンドルから手を離し氷呂の腕を掴む。氷呂と座席を掴んで自分も投げ出されないようにしながら標は歯を食い縛った。車はドスンと重い音を立てて車体を軋ませながらタイヤから着地した。

「いてぇ……」

 強かに打った脇腹を押さえながら標は他に骨が折れてないかなどを確認する。助手席に目を向けると俯いたままピクリとも動かない氷呂がいる。怪我がないか標は確認したかったが反応は返ってこないことは明白だった。氷呂を助手席にちゃんと座らせシートベルトを掛ける。後はもう後ろを振り返ることなく標はアクセルを踏み込んだ。


   +++


 時間は少しさかのぼる。明羽が見たこともなかったモービルという乗り物はすこぶる乗り心地のいい乗り物だった。車と違いエンジン音もさほどなく、揺れも殆んどない。感心しながら明羽は離れていく岩石地帯を振り返る。天気はすこぶる良かった。青と白のコントラストがまぶしい。突然響く空気を震わせる轟音に明羽は目を見開いた。先程までいた岩石地帯から粉塵ふんじんが舞い上がっていた。明羽の頭の中が真っ白になる。あそこにまだ氷呂と標がいる。

「何……? 何あれ!? あんた達が? あんた達がやったのか!?」

「発言を許した覚えはない」

 荷台の上、明羽の斜向はすむかいに座る隊長は明羽に目もれなかった。

「答えろよ!」

 焦り混乱する明羽の耳にバシッという破裂音が響く。明羽はそれを何の音だろうと思った。頬が熱を持ち痛み出して明羽はやっと殴られたのだと知る。

「下等生物がっ!」

 明羽に憎悪の目を向け、男は吐き捨てるように言った。明羽は呆然と隊長を見返した。そんな明羽の表情に少し気を良くした隊長はふんぞり返って口を開く。

「まあ、いい。教えてやろう」

 言って隊長は明羽の顔を見て鼻で笑う。明らかにこちらを侮辱ぶじょくする笑いに何がおかしいのだろうと明羽は目の前の男を睨む。

「生意気な目だ」

 明羽はまた殴られることを警戒して身構える。そうなったら逆に殴り返してやろうと明羽は思うが隊長は明羽に向ける嘲笑ちょうしょうを崩さなかった。

「陛下の念願の叶う日が間近となっているのだよ。やっと目処めどが付いたのだ。やっと、ようやく、ここまで辿り着いた。陛下の喜びは私の喜び。私の幸せ。私のすべて!」

 陶酔して喋る隊長に明羽はこの男が心の底から王に心酔していることを理解する。しかし、明羽には『王』というものがピンとこない。『王』が何を差しているかは分かっているのだ。人間の王。人間達の統括者とうかつしゃであり人間達を導き、人間達の模範もはんとなる存在。今までにもその存在は生活の中でチラついていたが明羽にはやはりピンとこないのだった。隊長の話を聞きながら明羽はその『王』とやらは人々に尊敬される素晴らしい『王』なのだろうかと思う。少なくとも明羽の目の前の男は陶酔している。けれど、明羽はこの短時間で目の前の男のことが心底嫌いになっていた。そんな男が陶酔する『王』に対してろくでもなさそうだと思ってしまっても致し方ないことだろう。

「で、具体的にその王様の念願ってなんなのさ」

 王に思いを馳せていたのかうっとりとしていた隊長の眉間に皺が寄る。不機嫌そうだった顔はすぐに明羽に見下した目に変わりニヤリと笑う。

「亜種殲滅作戦だよ」

 隊長の言葉を明羽はすぐに理解することができなかった。

「貴様も見ただろう? あの重厚感溢れる美しい兵器を」

 こちらの言葉も明羽にはすぐに理解することができない。しかし、兵器というならあのやたらと歪な黒い鉄の箱のことだろうと明羽は思う。

「我らの夢! 陛下の悲願が! 形になったものだ! これでやっと本当の平和が世界に訪れるのだ。その偉業を私の陛下が成し遂げるのだ!」

「私達がいるから世界は平和じゃないっていうのか?」

「当然だろう」

 もう何度目になるか隊長は明羽を馬鹿にしたように笑う。

「表向きは平和に見えたか? 貴様らが存在する限り我らに、人間に! 本当の安寧あんねいは訪れない!」

「私達は何もしない!」

 勢い余って立ち上がり掛けた明羽の顔面を隊長は容赦なく蹴り飛ばす。突然のことに受け身も取れずバランスを崩した明羽はモービルから滑り落ちそうになった。その明羽の腕を掴み、引き戻したのは隊長だった。明羽を狭い床の上に放り出すと隊長は明羽の腹に向かって体重を乗せた足を踏み下ろす。内臓が潰れるような感覚と骨の軋む音に明羽は喉の奥にせり上がってきたものをたまらず吐き出した。

「まったくもって汚らしいな。下等生物が」

 立ち上がれない明羽の横を通って隊長は元の席へと戻っていく。

「簡単に死んでくれるなよ。貴様には象徴になってもらうのだからな。我ら人間が世界の頂点に君臨する唯一の種族だと知らしめる為のいしずえにして象徴。そんな我らがいただく陛下こそ唯一無二絶対の存在であるのだと。貴様はその象徴として大勢の人間の前で死ぬのだ。誇らしいだろう」

「……あんたが決めること?」

「もちろん陛下が決めることだ。私は一案を進言するに過ぎない。けれど、こんなにいい案なのだ。陛下は聞き届けてくださるだろう。だから、死なないでくれ。私はあまり我慢が得意な方ではない。北の町までは長い旅路だ。その間貴様のようなみすぼらしいものを前に手を出さずに過ごす自信が私にはなくてね。おや、私の話はまだ終わってないんだが」

 明羽の視界がゆっくりと暗くなっていっていた。と同時に降ってくる隊長の言葉も遠ざかっていく。そうして明羽は意識を手放した。

「隊長。その辺にしておいた方がいいですよ。本当に死んじまいますよ」

「お前は運転に集中しろ」

「はい」

「床が汚れた。後で片付けておけ」

「ええ? でもそれ、隊長が……はい。やります」

 隊長に睨まれてモービルを運転する制服の男は前方に視線を戻した。


   +++


 明羽は寒さと痛みで目を覚ます。視界の暗さに痛みをこらえてゆっくりと起き上がる。ジャラリという金属同士が弾き合う重い音に目線を下ろせば首と足首に鎖の付いたかせめられていた。鎖の続く先は手すりに繋がっていて明羽が逃げられないようになっている。この扱いは何だと明羽は混乱する。風が吹いてその冷たさに明羽は両腕で自分を抱き締めた。見上げれば星が瞬いていた。

「夜」

 夜は確かに寒い。けれどこんなに寒かっただろうかと明羽は思う。混乱する頭で明羽は辺りを見回した。明羽は今、外に面したどこかの廊下に座り込んでいた。背後には豪奢な両開きの扉が立ち、鎖の繋がれた手すりの向こうにはちらほらと明かりが見え、その明かりを遮るように見覚えのある影が近くに遠くに揺れていた。オアシス特有の背が高く葉の大きな木々。

「オアシス?」

 冷たい風に明羽は身震いする。人の気配のしない廊下の床はツルツルとよく磨かれていてとても冷たい。明羽は立ち上がろうとして鎖の繋がる枷が首に重くのしかかり肌に触れたその冷たさに怖気おぞけが立った。

「冷たっ!」

 それは痛い程の冷たさで、こんなものをずっと付けていたらそのうち枷に肉が張り付くのではという考えがぎって明羽は自分の考えに自分で青くなる。冷静になると今度は腹が立ってきて明羽は背後の扉を振り返る。ど突いて大声を出してやろうと腕を振り上げた時、

「ああ、やっと起きたか下等生物」

 防寒具に身を包み昼間の二倍は着ぶくれした隊長が扉ではなく廊下の向こう側から現れた。その顔は赤く上機嫌で酒が入っているのは一目瞭然いちもくりょうぜんだった。明羽の腹が鳴る。

「あ? ははは!」

 慌ててお腹を押さえた明羽に隊長が大口を開けて笑う。

「なんだそれは? 催促さいそくか?」

 明羽は羞恥しゅうちに顔を赤くした。隊長は明羽に顔を近付けて酒臭い息を吐く。

「残念ながら貴様に食わせる飯はない。亜種は食わずともすぐには死なないんだろう? いい機会だ。どれだけ持つか私が観察してやろう」

 隊長は高笑いすると明羽が先程ど突こうとしていた豪奢ごうしゃな扉を開けた。明羽はハッとして声を張る。

「ねえ! ここはどこ? 私はどれくらい」

 返事の代わりに胸を蹴りつけられ明羽は手すりに叩き付けられる。

「貴様に発言を許した覚えはない」

 嫌悪に満ちた低い、威圧する声だった。扉は明羽の前で固く閉ざされる。

明羽は手すりを掴んで立ち上がろうとする。全身がブルブルと震えてうまく立つことができない。あの男と出会ってからというもの明羽の頭はずっと混乱の只中ただなかにいた。何が起こっているのか分からなかった。もちろんみずから奴らの前に姿を現し捕まったのは分かっている。そこまでは明羽の想定通りだった。明羽はそうして北の町まで行き、伝承の真偽でも調べられないかと考えていた。どうやって逃げ出すかまでは考えていなかったが。明羽は自分の言葉がここまで届かないことがあることを想像したことがなかった。自分の存在を否定されているような感覚に陥る。その時、明羽の脳裏にひとりの少女の顔が浮かんだ。

「夕菜……」

 夕菜と初めて会った時のことを明羽は思い出す。足枷を嵌められて囚われていた少女。

「夕菜もこんな気持ちだったのかな……」

 少し気持ちが落ち着いてきて明羽は深呼吸を繰り返す。手すりを掴む手に、腕に力を込める。足に意識を集中して立ち上がる。氷呂を裏切る形になってしまった以上収穫なしで帰ることはできないと顔を上げる。こんな鎖、あんな奴、明羽が本気を出せば目ではない。砂漠に出てしまえば人の目などないのだから逃げようと思えばいくらでも逃げられると、やっと逃げる算段をして明羽は息を吐き出した。

「よし」

 理解できないものはしようがないとあの男のことは未知の生物としてとらえることにして、その上で明羽はもう痛い思いはしたくないと対策を考え始める。

「なんで避けられないんだろう」

 三度、明羽は隊長の攻撃をもろに食らってしまっている。平手打ちも顔面蹴りも今さっきの胸への蹴りも。思い出して明羽は顔と胸を押さえる。

「痛い」

 二度目の顔面蹴りに関して鼻血が出なかったのは奇跡だろう。明羽は今一度隊長の動きを思い出す。あの男には迷いも同情も容赦も手加減もない。明羽は今までどれ程自分が真綿に包まれたような優しい温かな世界にいたのかを痛感する。痛感して自分の考えの甘さを正す。もう二度と油断しないと心に誓い、考えがひとつまとまると明羽は途端に空腹を思い出した。

「お腹空いた」

 手すりに寄り掛かり目の前の豪奢な両開きの扉を恨めし気に睨む。

「お客様。ご説明を」

 聞こえてきた声に顔を向ければ廊下の向こうにふたつの人影があった。

「あー。あれね」

 防寒具を着込んだふたりのうちのひとりはモービルの運転をしていた男だった。

「あれはあのまんまでいいんだよ。隊長がそうしてるんだから」

「ですが私共の宿はこのオアシスで最高位を誇る高級宿なんです。品位を落とすような行いは王の親衛隊と言えどもつつしんでいただきたい」

「支配人。あれ亜種だから」

「ひっ……え?」

 運転手と話していた男の顔に戸惑いが浮かぶ。明羽はふたりの会話を聞きながら不思議な気分を味わっていた。明羽は人間でないことをずっと隠して生きてきた。ずっと秘密にしていたことをこうも簡単に、しかも他人の口から明かされるのはとても奇妙な気分だった。

「何するか分からないし、身の安全を考えるなら近付かない方がいいよ。それでもなんとかしたいって言うなら」

 支配人は顔を大仰おおぎょうに横に振る。チラと明羽を見たかと思うと何も言わずに走り去って行った。人間のその他の種族に対する見解は分かっているつもりだったがそれを目の当たりにして明羽は落ち込んだ。人に嫌われるというのは悲しいと明羽は落ち込む。ふと目の前の扉に消えた男の顔が明羽の脳裏に浮かんだ。

「あいつには好かれなくていいや」

 イラつく顔を忘れようとした明羽の腕を冷たい風が撫でた。明羽は座り込んで膝を強く抱き寄せる。高級宿だという床の冷たさに明羽のお尻がすぐに冷え始めた。

「本当に今日ここで寝るの?」

 空腹と寒さに明羽の気持ちが折れ掛ける。

「氷呂」

 岩石地帯を離れる際、大きな音に明羽が振り返った時、岩石地帯の一角が粉々に砕かれていた。あの威力ぐらいなら氷呂の足と標の身体能力があれば十分逃げられる筈だと明羽は祈るように考える。けれど、その後も大きな音は続いていた。早々にその場を離れてしまった明羽にその後の岩石地帯がどんな風になったのか分かる筈もない。明羽は握り合わせた手に力を込める。あの男は亜種殲滅作戦がどうのと言っていた。チャンスかもしれないなんて安易な気持ちで行動したが、もう伝承の真偽どころではないのかもしれない。けれどと明羽は思考する。人間が他の種族を恐れているのは伝承が人間以外の種族を恐ろしいものとして伝えているからではないか。ならばその伝承の内容が偽りだと分かればもしかしたら人間達の考えが変わるのではないか。その可能性があるならば今の明羽の行動は自己完結的なものだけではなく、みんなの為に大きな意味を持つことになるのではないか。

「自分の行動を正当化する為の言い訳にしか聞こえない」

 明羽は自分の考えに自分でブレーキを掛ける。それでも引き返す気にはなれなかった。

「よし」

 明羽は自分のやろうとしていることを明確にして拳を握る。伝承が真実であった時のことがチラと脳裏に過ぎって、もしそうならそれはそれで受け止めて、その後のことはその時に考えようと明羽はひとり頷いた。もし伝承が真実ではなかった場合のことも思考の表層に浮いてきて明羽は焦る。伝承が偽りだった場合、何故その偽りの伝承は作られ語り継がれるに至ったのかという疑問まで浮いてきて明羽は、今は答えが出ない問いに今度こそ本格的に考えるのをやめた。身体が小刻みに震えてきて歯の根が合わなくなってきて、明羽は膝だけでなく肩も抱き締める。頭の上に視界を覆う何かが降ってきた。

「わ! え!? 何!!?」

 頭にかぶせられた何かを引きり下ろせばそれは薄いが間違いなく一枚の毛布だった。明羽が辺りを見回せば廊下の奥にいた運転手が明羽の視線に気付いて立ち去ろうとする。

「待って!」

 明羽は運転手を呼び止めていた。運転手は立ち止まって振り返る。明羽は理解できる行動が還ってきたことに焦って言葉を探す。

「え、えっと。私、私どのくらい気を失ってた?」

 運転手が頭を掻く。

「俺らがあんたを捕まえてまだ一日目。ちなみに北の町まで三十日ぐらい掛かる予定」

 明羽に質問以上の答えを返して運転手は投げ遣りにも見えるような振り方で手を振って去って行った。明羽は誰もいなくなった暗い廊下を暫く眺めてから手の中の毛布に目を落とす。その毛布を身体に隙間ないように巻き付けて明羽は丸くなる。ふと標の姿が思い出された。砂漠で野宿しなければいけなくなった時、その度に標は何枚もの毛布を重ね掛けしていた。それでも寒いと言っていた標。明羽は自分がくるまっている薄い毛布を握り込む。

「標はいつももっと寒く感じてたのかな?」

 自分の言葉を聞いてくれる相手がいたことと毛布を手に入れたことで明羽は少しの安心感を得ることができた。うつらうつらし始めた明羽は光を見る。たゆたう青色の光。いつも優しく、柔らかく、明羽の上に降り注いでいた光に暗い影が差し掛かっていた。不安そうに光が揺らぐ。

「氷呂。ごめん……ごめんね。必ず帰るから」

 明羽はゆるやかに眠りに落ちていった

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