第7章(1)

 日が変わると村長指示の下、村人達の行動は早かった。新天地捜索班のしなとトリオはお互いに話し合い、それぞれに行く方向を決めると早速村を出発していく。村人達は集会所へ集まり、何を置いて行き、何を持って行くべきか話し合う。子供達にどのように説明するかも議題に上り計画を立てていく。その時が来たらとどこおりなく、混乱なく行動できるように。不安を抱えている者も多いようだったが迷っている者はいないようだった。村長主導の下、村人達の話し合いは何度も何度も行われた。標とトリオも帰って来ては出掛けるを繰り返す。出掛けてから帰って来るまでの日数が段々と伸びていくことに誰の目にも段々と遠くへ足を運んでいることが分かる。

「そう簡単に人間に見つかりにくい場所なんて見つからないよね」

「そうだね。村中の空気がピリピリしてる。私の機織はたおり機も置いて行くことに決まったよ」

「え!?」

「移動の際には邪魔にしかならないから」

「そうかもしれないけど」

 あの機織り機を手に入れた時のことを明羽あはねは思い出す。厳密には明羽が手に入れた訳ではないが、あの湖のあるオアシスであった出来事を明羽はよく覚えている。大変だったけれど終わり良ければすべて良しの精神でおおむね楽しい思い出として明羽は記憶している。過ぎ去った日々を思えば色々なことがあったと明羽は振り返る。南の町を逃げ出した時のこと、気付いたら村に辿り着いていた。東の町近くの石のオアシス。盗賊「西の風」。南の町近くの湖のあるオアシス。キジさん、れい皐奏アース……。この村に来てから色々なことを見て経験したと明羽は思う。南の町にいれば見ることも経験することもなかった色々なこと。世界のこと、人間のこと、人間以外の種族のこと。過ぎた日々を懐かしむ自分に明羽は可笑おかしくて笑う。どうしてこんなにも思い出すのだろうと。今、それを振り返る時期にいるのだろうかなんて、何かが変わる岐路きろに立っているのだろうかなんて明羽は思う。

「明羽」

 明羽が顔を上げると氷呂ひろが明羽の顔を覗き込んでいた。

「考えごと?」

「えーと。まあ、少し」

 明羽が明るく言ってもなんだか氷呂の顔は暗い。狩人がやって来てからというもの氷呂はこれまで以上に明羽の側から離れようとしなくなっていた。どうしたものかと明羽が思っていると近付いてくる足音に明羽と氷呂は顔を向ける。

「明羽ー。氷呂ー」

謝花じゃはな

「もう大丈夫なの?」

「うん。寝てばっかりいても不安ばっかり募っちゃって」

 謝花は笑っていたがその顔色はあまり良くない。南の町にいた頃、いつか自分のことが、家族のことがバレてしまうんじゃないかという不安から家族全員で南の町を出た謝花にとってこの村は念願叶って手に入れた安息の地だった筈だ。けれどそこに狩人がやって来てしまった。謝花の心中はどれ程のものか他人にし量れる筈もない。

「謝花」

「動いている方が気が紛れるの。ふたりには心配掛けちゃって。ごめんね。ありがとう」

「ううん」

「謝花の元気な姿が見れて良かったよ」

「うん。って、違う!」

 謝花の大きな声に明羽と氷呂はちょっとビックリする。けれどその大きな声にふたりはホッとしてもいた。

「氷呂。標兄様が探してたよ」

「標さんが?」

「氷呂だけ?」

「なんかお願いしたいことがあるみたいだったけど」

 明羽と氷呂は顔を見合わせる。集会所にいるという標に明羽と氷呂が会いに行くと広い部屋の中ほどに標と人の姿の村長が机の側に立っていた。

「標さん」

 氷呂が声を掛けると標と村長が机から顔を上げる。

「来てくれたか。氷呂」

「謝花に聞いて」

「そうか。で、やっぱり明羽も一緒だよな」

「私はいつだってどこだって氷呂と一緒だよー。知ってる癖に」

「まあな」

 明羽は冗談めかして言ったが標と村長が考えるように黙り込む。本当に邪魔だったのかと明羽は考えを改める。

「私どっか行ってようか?」

 途端氷呂が明羽の二の腕を掴んでいた。標はそんなふたりを見ながらゆっくりと口を開く。

「えーと。新しい村の候補地を見つけたんだ」

「ホント!?」

「まだ候補だけどな。トリオもまだ探してくれてるし。そこでだ。その候補地の地下に水脈があるかどうかを確かめるのに氷呂の力を借りたいと思ってな」

「私でないといけないんですか?」

 氷呂は明らかに乗り気ではない声を出す。

「すまない。氷呂。僕はここを離れることができないから」

「村長でなくても純血の聖獣は他にもいますよね?」

「恐らく純血の聖獣の中でも地下深くの水脈を正確に把握できる程の力を持っているのは村の中でも僕と氷呂、君だけだろう」

 村長が少し逡巡する。言うべきか言わざるべきか逡巡した末に氷呂を見る。

「君は特別なんだ」

「村長のおっしゃっていることが私にはよく分からないです」

「村長。水脈が分かるのにこの村水不足になっちゃったの?」

 明羽のわざとらしい場違いな声に氷呂が無言でその脇腹を小突いた。脇腹を押さえて痛みに堪える明羽に村長が苦笑する。

「昔々はここの地下にも立派な水脈が流れてたんだよ。それがいつしか少しずつズレてしまってね」

「そ、そうだったんだ」

「今は常に氷呂が井戸を満たしてくれている」

 氷呂はジッと地面を見つめていた。

「君が特別な理由だよ」

 村長の言葉に氷呂はずっとふてくされたような顔で押し黙っていた。氷呂のこんな顔は大変珍しいがそれを堪能する余裕が今の明羽にはなかった。突然耳に入ってきた事実はそれなりに衝撃的なものだったからだ。

「私じゃありません」

「無意識だとしても僕は驚かないけどね」

 ふと明羽はずっと黙っている標のことが気になって見ると標は標で目を見開き、口を半開きにして固まっていた。明羽の視線に気付いて標は口を閉じる。標も井戸の事実を今知ったらしい。

「氷呂」

 明羽はうつむいたままの氷呂の肩に自分の肩を軽くぶつける。

「行っておいでよ。折角せっかく氷呂にお声が掛かったんだから。氷呂じゃないとって言ってくれてるんだからさ。村のみんなの為だよ。大丈夫だよ。私、大人しく待ってるから」

 標が申し訳なさそうな顔になる。

「そうなんだよな。悪いな。明羽。今お前を連れて歩く訳にいかないからな」

「標が謝ることじゃないよー」

「信用できない」

 氷呂のハッキリとした声に明羽は緊張した。

「し、信用できない?」

「明羽には前科があるでしょう」

「それを言われると……」

「ううぅ~~~」

 氷呂が唸る間、明羽と標と村長は黙っていた。氷呂はひとしきり唸ると決めたというように顔を上げる。

「できれば明羽には私の目の届くところにいてほしい」

 くして標の見つけた新しい村の候補地への視察には明羽も同行することが決まった。


   +++


 出発の日。

「明羽。氷呂」

「謝花」

 準備万端の車が止まる村の入り口に村人達が集まっていた。期待と不安がない交ぜになった重い空気が立ち込める。

「気を付けてね。明羽。氷呂」

「ありがとう。謝花」

「できるだけ早く帰って来てね」

「それは標の運転次第かな」

「明羽」

「あはは」

 ふざける明羽を氷呂がたしなめる見慣れた光景に謝花は笑う。不安の中に生まれた小さな笑いだった。車と荷物の最終確認を終えて標は夏芽なつめに話し掛ける。

「それじゃあ。夏芽。村長とみんなのこと頼んだ」

「あんたこそ。明羽ちゃんと氷呂ちゃんのこと頼んだわよ」

 村長が明羽と氷呂、標を見上げる。

「気を付けて」

 皆の期待と希望と不安を一身に浴びて明羽と氷呂、標の三人は村を出発した。


   +++


 村の入り口に集まった村人達は三人の乗った車が見えなくなってもしばらくその場に立ち続けた。その中には夕菜ゆなの姿も当然あって、夕菜はふと車の見えなくなった方角とは違う方へ目を向ける。その様子に気付いた夏芽が夕菜に近付いた。

「夕菜? どうかした?」

「夏芽ちゃん。なんかこの辺りがザワザワする」

 夕菜は心臓と胃の中程辺りを握り込む。

「苦しいとか痛いとかじゃなく?」

 夕菜はこくんと頷いた。

「あっちの方かなあ?」

 夕菜が指差した方を夏芽は見る。目を向けた先に見えるのはいつものように吹き荒ぶ視界の効かない砂嵐の壁。夕菜の精霊としての力は夕菜を中心に極限られた範囲を知覚するに過ぎないことを夏芽は夕菜と一緒に過ごすことで分かっていた。その夕菜が村の外の何かを感じ取っている。

「どうか無事で」

 夏芽は呟いていた。


   +++


 一台の黒い車が砂漠を走る。

「やっと抜けたね」

「そうだなー」

 当然ハンドルを握るのは標として、今回後部座席は空に近かったが明羽と氷呂は助手席に座っていた。

「今日の嵐は少し荒れてたなあ」

 言いながら標はアクセルを踏み込んでいく。明羽は氷呂を見た。氷呂は明羽の手を握ったままぼんやりと流れていく景色を眺めていた。明羽は氷呂に身を寄せる。と、言葉などなくてもそれに応えるように氷呂も明羽に身を寄せる。均衡きんこうが保たれ明羽は安心する。氷呂もまた少し安心して身体から力を抜く。いつだってそうして生きてきたと明羽は思う。暫く車のエンジン音とタイヤが砂を巻き上げる音だけが響く。明羽は急にその静けさが気になって顔を上げた。

「標。私達どこに向かってるんだっけ?」

「新しい村の候補地」

「そうじゃなくって」

「ああ」

 標は太陽と太陽の強すぎる光に霞む月、青と白しか見えない景色から少しだけ余所見をする。運転席と助手席の間の隙間から丁寧に蛇腹じゃばら折りにされた紙を取り出して明羽に手渡した。受け取った紙を明羽は広げる。両手を広げても広げきれない紙に明羽がもたもたしていると氷呂が手を貸す。その紙は集会所で標と村長が覗き込んでいた机の上に広げられていた地図だった。話を受けた際その場で明羽も氷呂と共に説明を受けたのだが、明羽は地図を見つめて首を傾げる。

「明羽。上下逆」

 氷呂が地図を正しい向きに直す。明羽は地図の端に付けられたバツ印を見つけて指でなぞった。標が見つけた候補地は西の町と南の町の間、四大都市を繋げて出来た円の遥か外、人間の生活圏の遥か外だった。

「どのぐらいかかるんだっけ?」

「頑張って三日。ゆっくり行けば七日以上」

「どっち?」

「急いでるからな。三日で走破するぞ」

「マジか」

「有人のオアシスには基本給油の為にしか止まらないからな。休憩も極力減らす。車から降りることはほとんどないと思ってくれ」

「うえ……」

「急ぎましょう」

 明羽はげんなりした顔をしたが氷呂は顔色ひとつ変えなかった。

「早く村に帰りましょう」

 どこか不安そうな氷呂の肩を明羽は撫でる。その手を氷呂は握った。

「今どこだろう?」

 明羽が話題を変えるように言うと氷呂が地図上を指差す。南の町の東側。盗まれた時のことを考えて地図に現在の村の位置は記されていない。標が集会所で説明している時に指差していた場所を明羽は記憶の中から探す。記憶の中の標の指の位置と今氷呂が指差した位置とバツ印の位置を明羽は見る。そして、村を出てからどれくらいの時間が経ったかを明羽は思う。

「先は長いね」

「今日中に南の町の北方を南の町から見えないギリギリを通って西側まで抜けるって話したことは覚えてるよな」

「はい。覚えてます」

 明羽は答えなかったが氷呂は即答した。

「明羽。聞いてるか?」

「聞いてます! 聞いてますとも!」

「ふふ」

 あせる明羽に氷呂が笑った。久しぶりに見る氷呂の笑顔に明羽も思わず笑う。気付いた氷呂が少し目を伏せた。

「ごめんね。明羽」

「え? 何が?」

 本当に分からない明羽に氷呂は小さく笑う。

「明羽。それ、謝った人に割と失礼だから。気を付けた方がいいよ」

「え」

「私だからいいけど。真剣に謝ってる人には気を付けてね」

「き、気を付ける」

 明羽はうなずいた。


 風が砂を巻き上げ始めていた。もう少し南に寄れば南の町の砂避けの壁の上部が見えるかという位置を明羽、氷呂、標の乗った車は走り抜けようとしていた。

「ん? んんん?」

 標が目を細めて前のめりになる。向かう地平線の上に黒い影が見え始めていた。さらに近付く程にハッキリとしてくるそれに明羽と氷呂と標は仏頂面になった。標がアクセルを緩める。

「どうする? 標」

「どうするもなあ……」

「あの中を通り抜けるのは無理だと思います」

「だよなあ……」

 三人の目線の先には地平線を覆い尽くす真っ黒な影がとぐろを巻きながら空をも覆い尽くしていた。まだ距離があるにも関わらずそれは轟轟ごうごうと音を響かせ、時々上方で光を走らせる。

「なんか光ったけど」

「雷だな」

「かみなり」

「空気中に飛び交う電気が……。まあ、いいか。その話は」

 標がため息をついた。

「少し引き返してもっと北側から抜けるしかないか」

「あの嵐じゃね」

「あの嵐、なんだかまだ発達途中って感じですよね」

 標が車を百八十度回転させる。

「あああ。予定が……」

 村の周辺でも見ない特大級の嵐を背負いながら車は再び走り出した。

 一日砂漠を走り何とか地図上でいうところの南の町から見て北東の辺りにある小さいが有人のオアシスに明羽達は立ち寄っていた。給油は済ませたが予定外の事態に計画を立て直す為に宿を取る。というのは建前で本当のところは標の精神的ダメージが大きい故の休憩だった。オアシスにひとつしかないという大衆食堂で明羽達は簡単に食事を済ませる。手持ちは少ないが早くも予定外に時間を使ってしまった為、車に積んできた保存食には手を出さないでおこうということになっていた。宿代はご愛嬌だ。

「標って計画とかあんまり気にしないたちだと思ってた」

「なんでだよ」

 机に突っ伏したまま標は顔を上げない。

「だって黎ちゃんのところに行く時なんて勘だったじゃん」

「あの時はそうゆうものとして出たからな。計画を立てたからにはその通りに動きたいよ。俺は」

 やっと顔を上げた標は机に肘を付いてため息をつく。意気消沈の標の顔から明羽は隣に座る氷呂の顔を見る。整った横顔、長い睫毛、透き通る青い瞳。

「なに?」

 氷呂が食後のお茶をすする。

「うん。私の幼馴染は美人だなあって思って。私、氷呂の顔好きだよ」

「顔だけ?」

「もちろん全部好きだよ。氷呂は私のこと好き?」

「当然」

「だよね」

 即答した氷呂に明羽はニッと笑った。

「何の確認だよ」

「安心するって話」

 おだやかに微笑む妹分ふたりの顔を見て標は肩をすくめた。

「ま、確かに」

「南の町の北区に面する門は当分全て閉鎖だってよ」

 食堂で食事をする他の客達の世間話が聞こえてくる。話を聞き付けた他の客に店員までもひとつの机に集まっていた。日が沈んで間もない時間。酒の入った客達の顔は赤い。帰りに着る防寒具がそれぞれの椅子の背もたれに掛けられている。

「なんでも百年に一度とかいう超ド級の嵐が起こってるらしい」

 ザワザワと食堂の中が騒がしくなる。

「百年に一度だってさ」

「なんで今なんだよう……」

 標が両手で顔を覆って情けない声を出した。あまりに女々しい声に明羽は呆れ、氷呂は冷静に標の肩をポンポンと叩く。

「あの嵐は十日は確実に消えないな」

「少し不安だねえ」

「こっちまで来るんだろうか?」

「いや、いや。ああゆう嵐は色々な条件が揃って初めて起こるもんだ。悪条件がな」

 ひとりの男が饒舌じょうぜつに喋り始める。

「その条件が滅多に揃わないから百年に一度なんだ。条件が揃ってる場所から動くことはないだろう。動いたら条件がなくなって消えちまうんだから。そうなった方が治まるのも早いんだが嵐がこっちの都合を考えてくれる訳もない。だからあの嵐はその場で大きくなるだけなってこっちに来ることはないのさ」

「へえ」

「はあ~」

「あんた、学者先生か何かかい?」

「って、聞いたことがある」

「受け売りかい!」

 華麗なツッコミが決まり食堂内にドッと笑いが起こった。不安そうな顔をしていた人々が安堵した顔で笑い合っていた。明羽がそんな人々を眺めていると得意気に講釈こうしゃくを垂れていた男が明羽に向かってウィンクをした。明羽は腕といわず首にまで鳥肌が立つ。ハッとして隣を見れば氷呂がお茶を啜りながら明羽と同じ方を見ていた。男のウィンクが氷呂に向けられたものだと分かった明羽は標に早くここを出ようと提案しようとして、目の端で先程の男があからさまに目を背けるのが見えた。明羽は標に顔を向ける。普段の睨みに不機嫌を上乗せした標の眼力は人をも殺せると明羽は本気で思った。標が深く深く息を吐く。

「宿に戻って計画を立て直そう」

「はい。ほら、明羽」

「うん」

 明羽は男を振り返ることなく氷呂と標に付いて食堂を後にした。

 節約の為に部屋は一室だけを取っていた。一間だけの小さな部屋の中、部屋の殆どを占領する寝床の上に地図を広げ、明羽、氷呂、標は覗き込む。大量の布で綺麗に整えられた寝床の上。標が蝋燭を地図の上に持ってくる。

「できるだけまっすぐ目的地に向かうつもりだったが。空気を読まない大嵐が南の町の北方で発生。俺達はいやおうでもそれを避けて大きくを描きながら目的地に向かうことになる。つーかそれ以外に方法がない。走る距離が増えた分補給が多くなる。ということは接する人間が多くなるということだ。妙な行動は起こすなよ。明羽」

「私だけ!?」

「もちろん氷呂もだが。なんというか。思えばお前達と出掛けた時っていつも何かしら起こってた気がしてな」

 明羽と氷呂は反論できない。

「予定は狂ったが俺達がやることに変わりはない。三日の予定だったがそれを四日にして、今日入れて四日な。目的地に向かう。という訳で明日に備えてもう寝よう。なんか疲れた。明羽と氷呂はこの寝床使って寝ろ」

「標は?」

 標は壁際の荷物置き兼長椅子に寝床から毛布を何枚か融通ゆうづうしてもらって横になった。

せまそう」

「十分。明かり消してくれ」

 氷呂が蠟燭ろうそくの火を吹き消す。砂漠で寝るより遥かに温かな部屋の中だったが暗くなった室内に標はひとつ身震いした。標が天井を見つめていると明羽と氷呂が静かな寝息を立て始める。

「明日も強行軍だ」

 標は呟き目蓋を閉じた。夜はけていく。


   +++


 夜が明けると影ひとつない真っ青な空が頭上に広がっていた。

「いい天気だ!」

 引き払った宿の前に明羽と氷呂と標は立っていた。

「いい天気だ!」

 標がわざとらしく元気な声で同じことを言った。

「でも少し風がありますね」

「……そうだな」

「南の町の北側で嵐が起こってるなんて信じられない天気だね」

「だよな!」

「標。なんか怒ってる?」

「悪い。八つ当たりだ」

 昨日の食堂が朝は屋台を出していると聞いていたので三人はそこで朝食を買う。焼いたパンに炒めた野菜を挟んだお馴染みの朝食だったが、

「ん!? この餡ピリ辛だ! おいしい!」

「本当だ。複数の香辛料の絶妙な辛味と香り。割合が気になる」

「こいつはいい。うまいな」

 食べ歩きながらひとしきり褒めちぎり明羽と氷呂と標の三人は車に乗り込み早々にオアシスを後にした。そこからは飯時には停車し保存食を食べ、余裕をもって給油し、後はひたすら砂漠を走る順調な行軍こうぐんだった。日が傾き始め早くも一日が終わろうとしていた。無人のオアシスに標が車を乗り付け明羽は車を降りる。

「お尻が痛い」

「今日はここで野宿だ。良く休んどけよ。明羽。氷呂」

「うう……」

「大丈夫? 明羽」

 お尻をさする明羽に対して氷呂はその隣に平然と立っている、ように見える。

「氷呂は大丈夫なの?」

「私もお尻痛いよ」

「本当かなあ?」

「疑うんだ?」

「申し訳ございません」

「ほら。夕飯の準備できたぞ」

 沸騰したお湯に入れて温めるだけで食べられるという袋詰めの保存食を明羽と氷呂は受け取る。

「あちち」

 明羽が火傷やけどしないように袋を開けると中から温かい湯気と共に何とも芳しい香りが広がった。

「わあ。いい匂い」

「ほれ。スプーン」

 標から受け取ったスプーンを明羽が袋の中に差し込むと中はトロトロに煮込まれた野菜たっぷりのスープだった。

「こんなの初めて見た」

 ひと口含んで明羽は目を輝かせる。

「旅のお供にと思って随分前に買ったものなんだが。他の保存食に比べて値が張ったもんだから勿体なくてなかなか手が出せなかったんだよな。さすがにそろそろ食わないとと思って持ってきた。まだ食べられるな。良かった良かった」

 明羽と氷呂の手が止まる。

「標さん。前って、どれぐらい前ですか?」

 標はスプーンをくわえたまま飄々ひょうひょうと言う。

「それなりに前」

「覚えてないぐらい前ってことだよね!?」

 明羽は涙目で叫んだが野菜のスープは大変おいしく温かく。明羽と氷呂はそのスープを一滴残らず胃袋へと流し込んだ。幸いなことに誰も腹を下すことなく朝を迎える。

「今日も風が強いですね」

「だなー」

 標が火の始末をし、氷呂は青い空を見上げる。明羽は準備万端で車の側に立っていた。

「ねえ、標。昨日のスープと同じのってまだ残ってるの?」

「道中の夕飯は全部アレの予定だぞ。今回丁度いいから全部消費するつもりで持ってきたからな」

 明羽は顎を上へ向け、下へ向け、ため息をつく。

「まあ、いいか」

 諦めのため息だった。

「今日は一昨日出くわした大嵐を横目に進むことになるだろう」

 標は因縁いんねんの相手に会いに行くと言わんばかりに気合いを入れた。


 車は進む。風が巻き上げた砂が明羽の顔に掛かる。

「うぶ……。標。砂が」

「……そうだな」

「風がますます強くなってきましたね」

 車が突風にあおられるようになっていた。三人の視界の隅には真っ黒な影が地平線の上に乗っている。黒い壁の上方で光がほとばしる。

「絶賛吹き荒れ中」

「南の町は影も形も見えないのに」

「腹立たしい……」

 標が憎々し気に顔を顰めた。

「幌張らない?」

「……そうだな」

 標が車を止めて三人で幌を張り、再び出発する。村を出てから何度目かの無言の時間が訪れる。車のエンジン音と風を受けた幌がバタバタと鳴るだけの静かな時間。青い空と白い砂漠が続くだけの変わり映えしない景色に明羽の頭も真っ白になりかけていた時、明羽は景色の変化に気付く。地平線の上に何かが浮かび上がってきていた。それはひとつではなく、細かく、広く、次第に地平線を覆い尽くしていく。

「なにあれ?」

「岩石地帯だ」

 標がゆっくりとアクセルを緩めていく。

「大小の岩がまとまって地面から隆起りゅうきしている場所が世界には各所にあってな。最も多く分布しているのが東の町周辺だ。東の町はそれを利用して発展した。だから、東の町は石の町とも呼ばれる」

「なるほど」

 分かった風な返事をする明羽を標はチラとみる。

「言っとくが東の町周辺にある岩石地帯はここの比じゃないぞ。ここら辺の岩は小さいし厚さもない。殆どゴロゴロしてるだけだ。が、本場のは人の背を優に超えるし眼前に迫る重量感圧迫感は見ものだぞ。そういやそれを売りに観光地化してたところもあったな」

「へえ! いつか行ってみたいなあ! ね。氷呂!」

 明羽は好奇心にキラキラと目を輝かせる。標は明羽の声を聞きながら目の前にせまった岩にぶつからないように慎重にハンドルを切る。氷呂は明羽に呆れた目を向ける。

「明羽。明羽は今自分の置かれてる状況分かってない訳じゃないよね? 人間に探されてる立場なんだから。万が一でも見つかる可能性がある限りそうゆう行動は慎まなくちゃ。だから、その観光計画の実現はほぼ不可能だと思って。じゃなければ当分先のことだと思ってね」

「あー。分かってる、分かってるよ。でも、そんなあ……」

 明羽はガックリと項垂うなだれ氷呂の肩にもたれ掛かる。氷呂はなぐさめるようにその頭を撫でた。小石を避ける為に標が少しだけハンドルを振る。

「少し休憩するか」

「丁度お昼時ですね」

 氷呂が窓の外へ目を向けると真っ青な空に天頂よりやや東寄りに太陽が輝いていた。その側に寄り添うように月が浮いている。

「車が隠せそうな岩がないか探してくれ。欲を言えば全方位からうまく死角になるような並びの岩があるといいんだが」

「そんな都合よく並んでる岩なんてあるのかな? あ」

「お」

「標さん」

 低い岩ばかりが並ぶ中に一際ひときわ岩が密集して林立する場所があった。人の背よりやや大きい岩が並び立っていた。標が慎重に車を進めていく。

「先客はいないみたいだな」

「先客?」

 岩がますます密集し始め、車の通れる場所が限られていく。

「そういえばなんで車を隠す必要があるの?」

「西の町に近付くとな、盗賊が増えるんだよ」

「盗賊」

 明羽の知っている盗賊は一団だけだ。だから盗賊と言われて彼らを思い出すのは必然だろう。

「そして、俺が探した死角になる場所ってのは獲物を待ち構える側にとっても好都合な訳だ」

「そんなところ探してたの? 鉢合わせたらどうするつもりだったの」

「だからこうして鉢合わせないように注意しながら進んでるんだよ。人がいるところってのはどうやったって痕跡が残るからな。うまく隠す奴もたまにいるけど。この辺りにするか」

 車は大きな岩の影に入っていた。視界はかず、車一台が本当にやっと通れるぐらいの隙間だった。

「本当にあったよ。こんなところ」

「標さん。言いにくいんですが……」

「どうした? 氷呂」

「ドアが開きません」

 沈黙が降りた。

「幌を外そう」

 標が言って、四苦八苦しながら車の中から何とか幌を外すのに成功する。オープンになった後部座席から三人はやっとこさ車外へと出た。明羽は空に向かって伸びをする。

「なんか無駄に疲れた」

「中から幌を外すなんて初めてだったね」

 氷呂は苦笑していたが今回ばかりはその顔にも疲労の色が見えた。

「明羽。氷呂。飯にしよう」

「はーい」

「はい」

 間もなく太陽が天頂に差し掛かろうとしていた。影という影が小さく、場所によってはなくなってしまう、一日の中で最も大地が、空気が、熱を持つ時間帯に入ろうとしていた。わずかにり出した岩の下にできた小さな影の中で明羽と氷呂は標から冷茶を受け取る。一口含んでその喉越しに明羽はカップの中身を一息に飲み干した。

「うまー!」

「標さん。大丈夫ですか?」

 氷呂に心配される標は昼食の支度したくの為、半身影の外に出ていた。顎の下から滝のように汗を流し、首に巻いている昼用のマフラーに多大な染みができている。

「……さすがにちと暑いな」

「変わります。標さんも休んでください」

「助かる」

 標は岩の影に入り氷呂から冷茶のそそがれたカップを受け取った。一息つく。

「うん。うまいな」

 明羽は前のめりになる。

「標! お昼! お昼は何の予定だった?」

「ん~? 缶詰と乾パン」

「この中だよね!」

 明羽は標があらかじめ車から降ろしていたずだ袋を引き寄せる。中からそれらしいものを片端から取り出していく。

「ごめんね。標。私、気付かなくて」

「は?」

 明羽が適当に取り出していた袋の中身を選別しながら戻していた標の手が止まる。

 明羽はひとつの缶詰を手にしたまましょぼくれていた。

「全部標に任せっきりにしちゃって」

「何謝ってんだか。俺はやりたいようにやってるから気にするな」

「でも。ご飯の用意ぐらい私達がするべきだったよね」

「その場合、私達じゃなくてやるのは氷呂だよな」

 明羽はちょっと目を反らした。

「さ、早く食っちまおうぜ」

「うん」

 明羽は気を取り直して手に持っていた缶詰のプルトップを引っ張り開ける。中身を見て明羽は固まった。

「標。これ、この缶詰……」

「ん? ああ。魚の缶詰。野菜のも開けっから一緒に乾パンに乗っけて食え」

 明羽は地面に手を付いた。影に入っていても指と指の間に入り込んだ砂は熱をびて熱い。

「魚……魚かあ……」

 明羽にとってもう出会うことはないと思っていた相手との思わぬ再会だった。

「はい。明羽。スプーン」

「氷呂は何でそんな平然と」

「私はそんなに抵抗ないもの」

 氷呂と標が昼食をもりもり食べているのを明羽は暫し見つめてから涙目で魚と野菜を乗せた乾パンを口に放り込んだ。

「どう?」

「おいしい……」

 明羽は素直に認めた。

「よかった」

 氷呂の笑顔が輝く。昼食を何とか無事に終えると座っていたらはみ出してしまう程の影になってきたので三人は岩壁を背に立ち上がる。日が少しでも傾くのを三人はジッと待つ。標は暑さに堪えるように文字通りジッとしているし、氷呂も身じろぎひとつせずに立っている。風が吹いて明羽は風上に顔を向けた。ザラザラとした岩肌ばかりの小さな隙間に小さく黒い影が見えた。大嵐は未だおとろえを知らないらしい。

「おばちゃん達大丈夫かな」

「少し心配だね」

 独り言に返事が返ってきて明羽が見れば氷呂が明羽を見ていた。

「うん。元気、かな?」

「きっと」

 氷呂の言葉は自分自身に言い聞かせているようだった。

「心配だね」

「うん」

 明羽は氷呂の肩に自分の肩が触れているのを感じていた。この暑さの中にあってもそれを不快だとは思わない。

「よし」

 ずっと黙っていた標が声を上げた。

「出発する?」

「いや。折角寄ったし。少し散歩してから行こう」

「いいの?」

「東の町には行けないからな」

「でも、急がないと」

「少しぐらいいだろ。氷呂。ここは観光地でもないし、人間がわざわざ立ち寄りに来る理由もない」

 明羽の顔がパアッと輝いた。

「私ちょっと歩いてくる!」

 言うなり駆け出した明羽を慌てて追い掛けようとして氷呂は一度立ち止まる。

「ありがとうございます。標さん。明羽! 私から離れないで!」

「あんまり遠くまで行くなよー」

 小さくなるふたりの背に声を掛けて標は髪をかき上げる。

「散歩じゃなくて探検だな」

 標もゆっくりと歩き出そうとして立ち止まる。並ぶ岩石群を暫し眺めてから標は一度車に寄って大小のポーチと工具類のぶら下がった愛用のベルトを引っ張り出した。

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