第6章(4)

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 西の町は世界で最も貧しいと言われる町だった。どの町よりも、どのオアシスよりも貧しい町で、砂避けの壁など最初からなく作られる気配もなく、中心部へ行けば少しは賑わいを見せるが盗みや喧嘩は日常茶飯事で砂漠に面する外周の家々は一晩経てば半ば砂で埋もれる。そこに住む者は朝一で砂を掻くのが日課であり、嵐に見舞われれば必ず死人が出る。それが西の町だった。夕菜はそんな西の町の外周に建てられた掘っ立て小屋のような家に父とふたりで住んでいた。隙間という隙間を塞いで真っ暗の室内から夕菜は立て掛けてあるだけのような玄関戸を押し開ける。玄関の前に積もった砂の所為で戸はなかなか開かない。何度も踏ん張って頭ひとつ分の隙間ができると夕菜はそこから外へと滑り出た。肌を刺す冷たい空気に肩をすくめる。日が昇る前の空は真っ白に輝き、砂で覆われた大地の方が暗く見える。風のない穏やかな朝だった。夕菜は肩に掛けたままだった薄い毛布をたくし上げる。夕菜は清々すがすがしい新しい朝に身震いする。

「夕菜ー? もう起きたのか?」

 寝起きのどこかぼやけた声が家の中から聞こえてきて夕菜は振り返る。夕菜が開けるのに苦労した戸を易々やすやすと押し開けて夕菜の父親が外へ出た。

「寒いよ。夕菜」

「お父さん! 今日はいい天気!」

 父親は夕菜の頭を撫でる。

「夕菜が言うなら間違いないなあ」

「でも、お昼過ぎたら風が強くなるかも」

「そうかー。じゃあ、お父さんなるだけ早く帰って来て砂対策しないとだな。お父さんが帰って来るまでおばさんの言うことよく聞くんだぞ。夕菜」

「うん! あ」

 地平線からまっさらな太陽が顔を覗かせた。夜の置いて行った凍える空気を温かな光が打ち消していく。それは、いつもと変わらない朝だった。パンだけの質素な朝食を済ませると夕菜の父親は隣の旦那と連れ立って仕事へと出掛けて行く。男ふたりの後ろ姿を隣の奥さんと見送って夕菜はそのまま隣の家へと移動した。父親の幼馴染という若夫婦には子供がいなかった。だからなのか若夫婦は夕菜を可愛がり、夕菜も若夫婦に懐いていた。そして、父親以外に夕菜の秘密を知る唯一の夫婦だった。

「さて、夕菜ちゃん。私はこれから今日の水汲みに行くんだけど。手伝ってくれる?」

「うん!」

 奥さんとの水汲みは夕菜の日課だった。夕菜は小さなバケツをひとつ持ち、奥さんは両端に大きなバケツをぶら下げた棒を肩に担ぐ。井戸は少し町中を歩いたところにある。砂で埋まることのないように井戸の周りは特に家を集中して建てられる為、井戸に近付く程に道は狭くなっていく。道というより通路を抜けた先に見えた井戸の縁にはそれでも砂が積もっていた。夕菜と奥さんは家の水瓶が一杯になるまで家と井戸を何度も往復する。奥さんはいつも夕菜の家の水瓶も一杯になるまで往復した。父親が若夫婦にいつも言う言葉を夕菜も口にする。

「おばさん。いつもありがとう」

「夕菜ちゃんもいつもお手伝いありがとう」

 頭を撫でてくれる奥さんに夕菜は会ったことのない母の姿を夢想する。


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 夕菜はいつだったか寝入る前に父親に尋ねたことがある。

「私いつかお母さんに会えるかな?」

「ああ。いつか必ず。いつになるかはお父さんにもちょっと分からないが。きっと会いに来てくれるよ」

「う~ん。会いに来てくれるのもいいけど私から会いに行きたいなあ。ビックリさせたい」

「夕菜。その時はきっとお父さんを置いて行っちゃうんだろうね」

 父親の瞳に涙が浮かぶ。

「あれ!? いや、その時はお父さんも一緒に行こうよ。一緒にお母さんをビックリさせよう!」

「いいんだ。どうせ夕菜が大人になったらゆくゆくはお父さんを置いて行ってしまうんだ。それがちょっとばかり早まるだけさ、うっ……」

 出て行く夕菜を想像してしまったのか父親が目頭を押さえて肩を震わせる。そんな父親に夕菜は呆れながらも納得してしまうのだ。この豊かな想像力があったからこそこの父親は精霊である母を受け入れることができたのだと。精霊の容姿は七種族の中でも最も不可思議な容姿と言われているのだから。

「お父さん! お父さん! お母さんと出会った時のことまた聞かせてよ」

「ああ、そうだな。何度だって話してやるぞ。あれは星の綺麗な夜で……」

 先程まで涙ぐんでいたのが嘘のように父親は意気揚々いきようよう語り出す。夕菜は父親の語る母親の話が好きだった。星の光に透ける肌の美しい人の話に夕菜は想像力を掻き立てられる。


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 水汲みを終える頃には太陽は天頂近くに差し掛かる。日中で最も気温の上がる時間帯。人間は建物の中へと避難する時間だ。夕菜と奥さんも例外ではなく。家の中に引き籠った奥さんは服の繕いや刺繍、蝋燭作りの内職をして過ごし、夕菜は奥さんの手伝いをしつつ話し相手になって過ごす。

「お父さん。本当移り気で」

「あの人昔っからそうなのよね」

「落ち込んでもすぐ切り替えて元気になるのはいいんですけどね」

「ははは。確かに」

 四方を土壁で囲んだだけの一間しかない小さな家の中。大人ふたりがギリギリ寝転がれる大きさの寝床と一口分のかまど、大きな水瓶が角にふたつ並び、薄い敷布が一枚敷かれただけの家の中。夕菜は継ぎはぎだらけの玄関戸に目を向けた。風に煽られてカタカタと音が鳴り始めていた。

「夕菜ちゃん?」

「おばさん。風が」

「風? そうね。少し強くなってきたかしら。でもこのぐらいならいつものことでしょう?」

 奥さんが夕菜を安心させるように笑ったが夕菜は首を横に振った。

「この風。多分これからもっと強くなる」

「夕菜ちゃん。それ、誰にも言っちゃダメよ」

「でも」

「言っちゃダメ。私も聞かなかったことにするから。さ、そろそろ外に出てもいい時間だわ。お夕飯の買い物に行かなくちゃ。お留守番よろしくね」

 小さなお財布を大事そうに抱えた奥さんが家を出る。奥さんはいつもこの時間帯に行商人が店を構える場所へと向かう。外まで奥さんを見送って、夕菜は砂漠へと目を向けた。風で舞い上がる砂で遥か遠い地平線が霞んでいた。夕菜は真っ昼間だというのに寒気を感じて身震いする。

「嵐がくる……気がする。このまま何もしなかったらまたたくさん家が埋まっちゃう」

 夕菜は考える。誰にも知り得ないことを騒ぎ立てることは良くも悪くも目立ってしまう。それは自分だけでなく父親と若夫婦にも迷惑を掛けてしまうことを幼いながらも夕菜は理解していた。それでも、誰かを助けられるならと、きっと父親は褒めてくれると夕菜は顔を上げる。

「よし。みんなに教えに行こう!」

「やめた方がいいと思うけど」

 背後に突然現れた人の気配に夕菜は慌てて振り返った。

「な、ななな!?」

 夕菜の父親よりも若い男が立っていた。小柄で細身だが程良く鍛えられた体躯は服の上からでも分かる。マントの隙間から腰にぶら下げられた黒い板が覗いていた。柔らかな砂色の髪が風に揺れる。感情の読めない瞳で青年は夕菜を見下ろしている。

「誰?」

「さて、なんだと思う?」

 青年は不自然な程に人懐っこい笑顔を顔に張り付けた。最初からその笑顔を見せられていれば容易く警戒心を解いてしまいそうだったが無表情から突然そんな顔になった青年に夕菜は警戒する。黙りこくる夕菜に青年は笑顔を崩すことなく夕菜を見つめ続ける。その瞳は欠片も笑っていなかった。

「そんな急な値上げ、俺達に払える訳ないだろう!」

 突然聞こえてきた怒鳴り声に夕菜は心臓を縮み上がらせた。声は先程奥さんが向かった方から聞こえてきていた。未だに怒鳴り声が聞こえてくる。夕菜は駆け出していた。青年も付いてくるが夕菜は青年とふたりきりになるよりはいいと無視する。

「なんで急に今までの倍の値段になるんだ!」

 間近に響いた怒鳴り声に夕菜は急ブレーキを掛ける。小道を抜けた先で大人達が言い争っていた。

「払える訳がないじゃないか!」

「どうして急に」

「昨日と同じ値段で売ってくれよ!」

「うるさいうるさいうるさい! こちとら商売だ!」

 野太い声に顔を向ければ荷台が幌張りのトラックが一台停まっていて、荷台の中から初老の割に体格のしっかりした男が集まっている人々に唾を飛ばしていた。

「びた一文負ける気はないぞ!」

「そんなっ。私達に死ねって言うのか!」

「そんなことは言っとらん。単純な話だ。金を貯めてから買いに来い」

「何を言ってるんだ!?」

「毎日食べなきゃ生きていけない! 金を貯めてからなんて無理に決まってるだろう!」

「じゃあ、諦めるんだな!」

「ブッハ!」

 突然の吹き出し笑いにその場にいた人々の目線が一か所に集まる。皆の視線が一斉に夕菜のいる方に向けられて夕菜は生きた心地がしなかった。吹き出した張本人、夕菜の背後にいた青年は片手で顔を押さえてクツクツと笑っていた。

「なんだ、お前は? 何故笑っている?」

「だって、可笑おかしいじゃないか」

 青年は夕菜を押し出しながら狭い路地から前に出る。

「金のない貧乏人から金を巻き上げようとしている間抜けが目の前にいて笑うなって言う方が無理な話だ」

「あ? お前何様のつもりで……」

 商人は青年の腰にぶら下がっているものに気付いて黙り込んだ。人集ひとだかりの中にいた奥さんもそれに気付き青年の前にいる夕菜に顔を蒼白にする。

「もっと金になるモノが前にあるのにそれにすら気付いてないし」

 青年は柔和にゅうわに笑っていた。笑いながら夕菜に手を伸ばす。奥さんは駆け出していた。

「夕菜! 夕菜! 早くこっちへ!」

「おばさん」

 切羽詰まる声に夕菜は奥さんの元へ向かおうとした。夕菜の目の端で青年が自身の背に手を回す。ぶら下がっていた黒い板が揺れ、マントの下に隠れていた物があらわになる。響く破裂音。奥さんの身体が仰向けにったかと思うとそのまま倒れて砂埃が舞った。

「……おばさん?」

 動かなくなった奥さんに夕菜は呆然と立ち尽くす。赤い色がじわじわと砂に広がる光景に悲鳴が上がった。集まっていた町人が我先にと逃げ出していく。

「夕菜!」

 夕菜は世界で一番聞き慣れた声に顔を上げた。

「お父さん!」

 約束通り早く帰って来た父親に夕菜は涙目を向ける。父親と共に帰って来た奥さんの旦那が猟銃を構える青年とその腰にぶら下がっているものに目を止める。

「なんで狩人が!?」

 再び響く破裂音。夕菜はやっとそれが銃声だと気付いた。夕菜の頭上で弾が装填される。

「夕菜! 逃げろ!」

 父親がこちらに向かって手を伸ばすのを夕菜は見る。けれどその手が夕菜に届くことはなかった。倒れた三人はピクリとも動かない。夕菜には何が起こったのか理解できなかった。

「お父さん? おばさん……おじさん……」

「ひええええええぇぇええぇえぇぇぇ」

 商人が情けない声を出して地面に座り込む。腰が抜けて立てないのか這いずりながら狩人に背を向けた。

「殺さないから逃げないでよ」

 狩人は商人に近付き様、夕菜の腕を掴んだ。夕菜の小さな身体は容易く運ばれる。倒れる三人から夕菜は目が離せない。少し遠ざかった三人の姿を夕菜は呆然と見つめ続ける。狩人が商人に話し掛ける。

「コレあげるからさ。僕のお願い聞いてくれない?」

「お、お願い?」

「そう。君、金が欲しいんだろ? だったらコレを北の町に持って行けばいい。これを欲しがる貴族は山程いる」

「そんな小娘に何の価値があるって言うんだ!?」

「コレは世にも珍しい精霊と人間の間の子だよ。見て分かんない?」

「は? た、確かか!?」

「なんで分からないかなあ?」

「確かなのか!?」

「僕は間違えない」

「そ、それが本当だとしても貴族達が信じるかどうか」

「そこは商人である君の腕の見せ所でしょ? コレは間違いなく本物だし。けど、本物だろうと偽物だろうと商人なら信じさせてみせなよ」

「ぐう。しかし……」

「うまくやれば北の町での商売権だって手に入るんじゃない? 金持ちになりたいんでしょ?」

「な、なるほど。で、貴様のお願いとやらはなんだ?」

「簡単なことだよ。北の町に向かう前に南下して東の方を回ってほしいんだよね」

「お前、ここがどこか分かって言ってるのか!? 西の町だぞ! なんでそんな遠回りをせねばならんのだ! 世界一周しろって言ってるようなもんだぞ!」

「へえ。できないんだ?」

 狩人は笑っていた。人の良さそうな、他人に一切の危害を加えなさそうな顔で笑う。この顔で狩人は立て続けに罪のない人間を三人殺している事実に商人はごくりと唾を飲み込んだ。

「わ、かった……」

「そうこなくっちゃ」

 そうして夕菜は抵抗できる精神状態じゃないまま鎖で繋がれた。


   +++


「う、うぅ……。ひっ……。うっ……」

 静まり返る車の中に夕菜の泣き声だけが響く。

「トラックのにっ……荷台、で……ゆら……揺られっ……な、がらじ、実感わい、湧いてきて……」

「逃げ出したんだね」

「もう、どうにでもなれって! お、と……さん……。おとうさん……お父さん! 死んじゃった!! わあああああぁぁあぁあああぁぁ! あああああぁぁぁあぁぁ!!!」

 泣き叫ぶ夕菜の声が乾いた空に伸びていく。エンジン音も砂を巻き上げるタイヤの音も呑み込んで乾いた空気中に溶けて消える。明羽は夕菜の肩を抱き寄せた。氷呂は抱き合うふたりを抱き締める。標はバックミラー越しに三人の様子を見た。

 標が車のライトを付ける頃、夕菜はやっと泣き止む。ぼんやりとした顔で小さく浅い呼吸を繰り返す夕菜の腫れぼったい顔に氷呂が水に濡れた手拭いを乗せた。

「冷たい。お姉ちゃん達は何者? 人間じゃないって分かったから助けてって言っちゃったけど」

「私は明羽。天使なんだ」

「私は氷呂。聖獣だよ。運転してるお兄さんは標さん」

「標は悪魔なんだ」

 標がチラとバックミラー越しに後部座席をうかがう。目蓋の上に手拭いを乗せたまま、夕菜が口だけを動かす。

「すごいね。みんな違う種族なんだ」

「聞いたことない? 世界のどこかに人間以外の種族が集まってできた村があるって噂」

 夕菜の顔から手拭いが滑り落ちた。

「そんな村があるの?」

「あ、知らないのか」

「私達はその村から来たんだ」

「私、あんまり噂とか知らなくて。本当に?」

「夕菜もこれからは仲間だよ」

「……うん」

 夕菜はまだ実感が湧かないのか自信のなさそうな返事をした。けれど他に頼れるもののない夕菜は明羽と氷呂の手を握る。氷呂が夕菜の髪を指でく。

「そうだ。夕菜。アメ食べる?」

 そう言って氷呂は可愛らしい色合いに染め上げられた巾着を取り出す。開けば歪みないひと口大の球体に成形されたアメ玉がいっぱいに入っている。夕菜が躊躇していると明羽が一粒まんで口に放り込む。

「うん。甘くておいしい」

 口の中でコロコロとアメ玉を転がす明羽を見て夕菜も一粒手に取った。夕菜は口の中に広がる柔らかな甘みに思わず顔をほころばせる。

「うん。おいしい」

 氷呂が標にもアメ玉を渡し、暫く四人は口の中でコロコロとアメ玉を転がした。

「そういえば、明羽ちゃん……。明羽お姉ちゃん」

「夕菜の呼びやすい呼び方でいいよ」

「じゃあ、明羽ちゃん。商人に投げつけてたのもアメ玉だったよね。あれは良かったの?」

「あー。あれは」

 明羽はかくかくしかじか説明する。夕菜が呆れた顔になった。

「明羽ちゃん。そのアメ玉、多分三分の二は何かしらの薬入りだと思う」

「え!?」

 明羽が氷呂を見ると氷呂の目が座っていた。次いでバックミラー越しに標を見ると標は明羽に目を向けてすらいなかった。

「ゆ、夕菜はどうしてそう思うの?」

「え。西の町ではそれが常識だから」

「ええ……」

「明羽ちゃんってすごく平和なところにいるんだね。それとも性分?」

「き、気を付ける」

 明羽はアメ玉をもう一粒口に含んだ。眉間に寄っていたしわゆるんでいく。そんな明羽を見て夕菜も氷呂に二つ目のアメ玉をせがんだ。空に星が瞬き始める。夜の砂漠のど真ん中に車を止めて明羽、氷呂、標、夕菜は焚火を囲んだ。砂の上に三つの影が放射状に伸びて揺れる。夕食を食べ終えて食後のお茶を手にする四人は頭上に広がる満天の星を見上げていた。

「今! 今流れた!」

「どこ! どこ!?」

「これだけ星があると流れても良く分からないね」

「寒い……」

「夕菜抱えてるのに?」

 明羽の目線の先には標と標の膝の上にすっぽり収まる夕菜がいる。

「いや、温かいよ。夕菜は温かい。でも、寒いもんは寒いんだよ」

「私、重くない?」

「軽い軽い。ちょっと心配になるぐらい軽い」

「お父さん……。お父さんがいつも夜寒そうにしてたから、いつも私が湯たんぽ代わりだったんだ」

「そうだったのか」

「うん」

 標は少し寂しそうな顔になった夕菜の頭を撫でる。頭がすっぽり収まってしまいそうなほどの大きさの手に撫でられて夕菜が気持ちよさそうに目を細めた。

「夕菜が可愛いからって変なとこ触っちゃダメだよ」

「俺に幼女趣味はねえ。夏芽みたいなこと言うなよ」

「あはは」

「でも、夏芽さんなら言いそうですね」

「否定できない」

 笑う明羽と氷呂、ため息をつく標の顔を夕菜は順繰りに見る。

「なつめさんって?」

「夏芽さんはね」

 言い掛けて明羽ははたと気付く。

「夏芽さん。そうだ! 夏芽さん!」

「どうした? 明羽」

「精霊だよ!」

 夕菜が頷く。

「うん。精霊だよ?」

「夏芽さんきっと喜ぶよ!」

 夕菜は首を傾げるが氷呂と標は頷いた。

「確かに」

「ああ。確かにそうだな」

「夏芽さんはね。夕菜。聖獣と精霊の間の子なんだ」

「村で精霊の血を引いてるのは夏芽さんだけだから。夕菜が村の仲間入りしたらすごく喜ぶと思う」

 夕菜の瞳が期待に輝く。

「私、自分以外の精霊に会うの初めて」

「明日には会えるよ」

「楽しみだな」

 夕菜が夜空を見上げるとサッと一際ひときわ強い光を放つ箒星ほうきぼしが流れた。夕菜が歓声を上げ、明羽と氷呂も夕菜と一緒になってはしゃぎ声を上げる。夜が更けてきてうつらうつらし始めた夕菜の頭を標が撫でた。

「お父さん……」

 呟いて夕菜はハッとする。

「ごめんなさい」

 慌てて身体を起こした夕菜の頭を標は撫で続ける。

「もう寝るか」

「うん」

 夕菜は恥ずかしそうにうつむきながら頷いた。幌を張り、冷気を遮断した車の中。背もたれを倒してフラットにした後部座席に明羽、夕菜、氷呂が川の字に並んで寝転がる。

「毛布足りてるか?」

 運転席から標が後部座席に声を掛けた。

「大丈夫」

「足りてます」

 明羽と氷呂の返事を聞きながら夕菜は前の席に目を向ける。

「標お兄ちゃんはこっちで寝ないの?」

「へ?」

 標が勢いよく振り返った。車中に暫し沈黙が降りる。

「いや。俺は」

「氷呂。私そっち寄るね」

「分かった」

「おい。勝手に話を進めるな」

 標が後部座席に身を乗り出すと明羽と氷呂と夕菜がジッと標を見つめる。

「……夏芽に殺されるな」

 呟いて標は運転席を降りた。標、夕菜、明羽、氷呂の順番で四人が後部座席に横になる。

「さすがにちょっと狭かったか」

 明羽は幌の天井を見つめて呟いていた。

「俺は今からでも運転席に戻るべきか?」

「氷呂。私が端で寝るって」

「ダメ」

「ええ……」

 夕菜は三人の声を聞きながら温かい気持ちでゆるゆると眠りに落ちていった。


   +++


 青と白で二分する世界の境目を一台の車が走る。砂煙を後方に伸ばしながら走る車の進む先に現れるのは視界を奪う砂嵐の壁だ。近付く程に風は強くなり空を覆い隠していく。

「もうすぐ着くぞー」

「あの壁見ると帰って来たって気がする」

「そうだね」

「……嵐だよ?」

 夕菜が胡乱な声を出した。明羽が説明する。

「私達の村はあの嵐の中にあるんだ」

「ええぇ?」

 標は特にアクセルを緩めることもなく砂嵐に向かって車を進めていく。幌が風に煽られ舞い上がった砂が当たってバチバチと音を立て始める。一切の視界が効かないフロントガラスの向こうに夕菜は小さな恐怖心を覚えた。夕菜に手を握られて明羽と氷呂は握り返す。

「大丈夫だよ」

「うん」

 先を知らない夕菜にとっては長く感じられた砂嵐の道中、標がゆっくりと速度を落とし始める。フロントガラスの向こうに突如現れた土壁に標はゆっくりと回り込んで行く。後部座席から前に身を乗り出して土壁を観察していた夕菜は壁に一定の間隔で隙間があり、それが住居の壁であることに気付く。

「西の町と同じだ」

 砂避けの壁を作らず、家と家の隙間を狭くすることで外からの砂の侵入を防ぐ。不意に住居の隙間に車が通れるぐらいの幅が現れ、標はハンドルを回した。風に煽られバタバタと言っていた幌が急に静かになる。標はゆっくりとブレーキを踏み込み車が完全に止まるとサイドブレーキを掛けた。氷呂が幌のジッパーを開けて降りると夕菜がそれに恐る恐る続いた。標がボンネットの横で伸びをしているとエンジン音を聞き付けた夏芽と謝花が村の中から現れる。

「おっかえりー」

「ただいま」

「どうだった?」

「色々仕入れてきた。運ぶの手伝ってくれ」

「私にものを頼むなんていい度胸ね」

「忙しいならいいんだが」

「そんなこと言ってないわよ」

 標と夏芽の声を聞きながら氷呂の後ろに隠れていた夕菜はその袖口を掴む。

「大丈夫だよ。夕菜」

 優しい氷呂の声に夕菜は恥ずかしそうに俯いた。

「明羽! 氷呂! おかえり!」

 明羽と氷呂に駆け寄ろうとした謝花は夕菜に気付いて立ち止まる。

「誰?」

「謝花。ただいま」

「ただいま。謝花」

「おかえりー……」

 謝花はまじまじと夕菜を見つめ、夕菜は夕菜で恐る恐る謝花を見つめ返す。ふたりの微妙な距離感に明羽と氷呂は笑う。

「謝花。この子は夕菜」

「どうしたの?」

 氷呂が夕菜を謝花に紹介していると夏芽が近付いてくる。

「夏芽さん。ただいま」

「ただいま帰りました」

「おかえり。明羽ちゃん。氷呂ちゃん」

 夕菜は掴んでいた氷呂の袖口を一層強く握り込む。目の前にやって来た夏芽を夕菜は精一杯見上げる。夕菜の視線に気付いた夏芽が夕菜の前にしゃがみ込む。

「こんにちは。私は夏芽。あなたは?」

「わ、私は夕菜。こんにちは!」

 夕菜は緊張して挨拶だけ大きな声になってしまったことに顔を真っ赤にする。夏芽は笑う。見たものを魅了する美しい笑顔だった。

「こんにちは。さて、明羽ちゃん。氷呂ちゃん。説明してくれる?」

 明羽と氷呂は説明する。一緒に話を聞いていた謝花が顔を青くしたり嫌悪に顔をしかめたり恐れおののいたりしていたが最終的に夕菜の素性を聞いてポカンとなった。

「え? 本当に?」

「多分。人間じゃないのはなんとなく分かるし。詳しいところは分からないけど本人がそう言ってるし」

「はあ~」

 謝花が気の抜けた声を出す。夏芽はといえばジッと夕菜を凝視していた。と思えば目にも止まらぬ速さで夕菜を抱え上げたかと思うとその場から駆け去って行く。

「え、夕菜……」

「夏芽さん!?」

 夏芽の姿は既にない。

「人攫いだな。まったく。俺ひとりで荷物整理かよ」

「僕が手伝うよ」

 遅れて現れた白い獣に標が驚く。

「村長っ。いや。そんなつもりでは……」

 村長が一瞬で獣の姿から人の姿へと変化する。

「おかえり。明羽。氷呂。標」

「ただいま」

「ただいま帰りました」

「さっきすごい勢いの夏芽とすれ違たんだけど女の子を抱えてたね」

「あ、はい」

「後でいいから夏芽にその子を連れて来てくれるように伝えてくれるかな」

「多分診療所だよね」

「そうだよね」

「今から行ってくる」

 歩き出した明羽と氷呂と謝花に村長は声を掛ける。

「ゆっくりでいいよ」

「はーい」

 明羽はその場に残る標と村長に手を振った。


 明羽は診療所の戸を叩く。

「夏芽さーん。夕菜ー。いるー?」

「ちょっと待ってー。よし。いいわよ」

 夏芽の許可が下りて明羽は戸を開いた。明羽、氷呂、謝花の順番で診療所の中を覗き込む。今日も今日とて青い空など見えない村の中、明かり取りの窓から入る淡い自然光に浮かび上がる室内ではピカピカに磨かれ真新しい服に身を包んだ夕菜が立っていた。

「おお」

「わあ」

「くぁわいい!」

「そうでしょう。もっと言ってあげて!」

 夏芽が得意そうに胸を張った。

「この短時間に。夏芽さんすごい!」

「さすがです。夏芽さん」

「夏芽姉様。天才!」

「おほほほほほほほほ! あれ? なんで私が褒められてるのかしら」

 みんなに「かわいいかわいい」言われて夕菜は女の子らしい格好をしている自分に恥ずかしくて俯く。俯いた夕菜の前に謝花がしゃがみ込んだ。

「大丈夫? 夕菜ちゃん」

 その心配そうな声に夕菜はパッと顔を上げた。

「だ、大丈夫!」

「急にさらわれてびっくりしたよね」

「え」

 明羽を見上げて夕菜は首を横に振る。

「びっくりしたけど。すごく良くしてもらったよ」

「いい子ね。夕菜ちゃん! 栄養失調気味だけど健康に問題なくて良かったわ」

 夏芽が夕菜をこれでもかと抱き締める。

「人攫いは健診の為だったんですね」

「夕菜のこと心配してだったんだ。どう見てもただの人攫いだったよ」

「人攫いだったよね」

「三人娘。そこにお直りなさい」

「そうだ。夏芽さん。村長が後ででいいから夕菜を連れて来てって言ってたよ」

「話を反らしたわね。でも、まあいいわ。私の用事は済んだし。夕菜ちゃんを連れて行きましょう」

 明羽と氷呂と夏芽と謝花にうながされて夕菜は診療所を出る。中央広場に差し掛かるとどこから話を聞き付けたのか村人達が集まっていた。夕菜の姿を見つけた村人達から歓声が上がる。駆け寄って来た村人達に危機感を覚えた明羽は氷呂と共にその場から離れる。逃げ損ねた謝花は村人達にもみくちゃにされていたが肝心の夕菜は夏芽に守られていた。

「夕菜のことは夏芽さんに任せておけば大丈夫だね」

「これ以上頼もしい守護者はいないね」

「お疲れ。明羽。氷呂」

「標」

 標が人集ひとだかりを回り込んで来る。

「荷物の整理終わったの?」

「おう。終わったぜ」

「村長は?」

「俺より先に戻ってる筈だが。荷物運んでいる間に夕菜を連れてくることになった経緯は一通り説明しといた。から、そんなに長々話はしないと思うんだが。しかし、すごいことになってるな」

 標も加わって、明羽と氷呂の三人は村人達による夕菜の歓迎の儀式を眺めた。

「なんだか感慨深いなあ」

「うん?」

 聞こえた呟きに標は明羽を見下ろす。

「私達が誰かを迎え入れる側になる日が来るなんてと思って」

「そうだね」

 標が明羽と氷呂の頭をおもむろに撫でる。

「何?」

「お前達を村に連れて来た時がすっかり懐かしいな」

「そうだったね。標が私達を村まで運んでくれたんだったね。よっ。命の恩人」

「私達の救世主さん」

「悪ノリ……。氷呂まで」

「でも、最初は本当どうなるかと思ったよね。水不足に食料不足」

「そうだよな。お前達が来た時が村にとって一番ヤバい時だったと思う。それが新たな仲間を喜んで受け入れられるまでになったんだもんなあ。お前達のお蔭だよ」

「何言ってんだか。村のみんなが頑張ったからだよ」

「あ」

 氷呂の声に明羽と標は人集りの中にいる筈の夏芽と夕菜の姿を探す。人集りが割れて夏芽と夕菜の前に獣の姿の村長が近付いた。目の前に来た村長に夕菜がぎこちないながら礼をする。村長が二言三言夕菜に話し掛けた。夕菜が鼻で息を吸い込んでゆっくりと肩を上下させたかと思うと先程よりもずっと深く村長に礼をした。心の底からの感謝の意が見て取れる姿に標は独り呟く。

「それでも、やっぱりこの光景が拝めるのはお前達ふたりのお蔭だと思うんだよ」


 村にとってふたり目となる精霊を心ゆくまで堪能した村人達が満足げに日常に戻って行く。広場にわずかな余韻が残る中、晴れて村の仲間入りを果たした夕菜が明羽と氷呂の姿を見つけて駆け寄る。

「明羽ちゃん。氷呂ちゃん」

「夕菜」

「明羽ちゃん!」

 夕菜が明羽の胸に飛び込む。明羽は慣れないことに戸惑っていると隣から氷呂が夕菜の頭を撫でる。ちなみに謝花は村人にもみくちゃにされたことですっかり疲れ果て、ける村人達と共に一足先に家へと帰って行った。

「ああ、それにしても本当に嬉しい!」

 夏芽が本当に嬉しそうに瞳を輝かせる。

「夕菜ちゃん。改めまして。私は夏芽。あなたと同じ半分精霊なの。残り半分は聖獣だけど。あなたが来てくれて本当に嬉しい。これからたくさん話をしましょう」

 夕菜の瞳が揺れる。夏芽をまっすぐに見返して夕菜は大きく頷いた。夕菜の村での寝所は身寄りのない子供達が一緒に暮らす家に決まり、子供達の面倒を見る為一緒に暮らすお姉さんが村長に連れられて広場にやって来る。お姉さんに付いて歩き出した夕菜は一度明羽と氷呂を振り返ったが、二度振り返ることなく広場を後にした。

「ぐすっ」

「夏芽さん?」

「泣いてんのか?」

「うっさいわね」

 夏芽は鼻をすする。

「こんな日が来るなんて思ってなかったのよ。本当に想像さえまともにしたことなかった。本当、人生何が起こるか分からないわね」

 なかなか涙が止まらないらしい夏芽の背を明羽が撫でた。


 夏芽が自分の感情を持て余している間、夕菜はお姉さんに手を引かれながら見るものすべてが初めての村の中を歩く。

「大丈夫だよ」

 不安を見透かされた夕菜がお姉さんを見上げた。お姉さんは微笑む。

「明羽ちゃんも氷呂ちゃんも同じ村の中にいる。標も夏芽も。会いたくなったらいつでも会いに行けるよ」

「うん。ありがとう、ございます」

「ウチに着いたらみんなを紹介するね」

「私……」

「ん?」

「新しい家族と仲良くなれるかな?」

「そうだねえ。ひとつだけ言っておくとあなたの新しい家族になるのはこれから一緒に住む私や子供達だけじゃない。村のみんなが夕菜の新しい家族だからね」

 夕菜は目を見開く。

「すごい。私、ずっとお父さんとふたり暮らしだった。後、隣のおばちゃんとおじちゃんだけだったのに。急に大家族」

 夕菜がここに至る経緯を聞かされて知っているお姉さんはその微笑に少しの寂しさを覗かせた。

「ウチの子達と仲良くできるならそれが一番だけど。もし、誰かが何かやって来たり言って来たりしたら教えて。困ったことがあったら声にして。私だけじゃない。村のみんなが助けてくれるからね」

 夕菜はオアシスで目の前に広がった真っ白な翼を思い出す。「助けて」と叫んだら視界を覆い広がった心奪う白を思い出す。

「うん」

 夕菜の顔にはもう不安の色はなかった。

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