第6章(3)

   +++


 日が昇り、明るくなって広場に明羽の笑い声が響く。

「あひゃひゃひゃひゃ! 昨日の夜そんなことになってたんだ」

「笑い事じゃねえからな。マジで大変だった。夏芽を止めるのが大変だった。トリオだって勇気ふり絞って折角みんなの前に出てきたってのに」

 標が重い重いため息をつく。

「大変だった。怒髪天を付いた夏芽を前にしたトリオの可哀相なことったらなかったぞ。とにかく飲んじまった物はしょうがないからトリオにはそれ以降口を開かないように細心の注意を払わせて。夏芽の怒りをしずめられずとも何とか落ち着かせて」

「大変だったね」

「大変だった。本当に大変だった。逃げ足の速い奴らはあっと言う間にいなくなるわ、逃げられなかった奴らは夏芽の剣幕に呑まれて口効けなくなるわ」

「でも、良かったじゃん。トリオ、自分達で出てきたんでしょう? やればできるじゃん」

「ああ、そうだな。お前達のお蔭だ。けど、褒めてやりたいんだが二度目はないかもしれん」

「私達? なんかしたっけ?」

「夏芽さん。本気で怒ってましたもんね」

「ああ。氷呂には聞こえてたんだもんな。分かるよな」

 氷呂と標が深刻なため息をつくのを明羽は何ともなしに見る。

「もう来ないのかなあ。トリオ」

「そうだな。と、思ったが。どうやら大丈夫そうだ」

「ん?」

 標の目が明羽と氷呂の背後に向けられていた。

「こ、こんにちは」

 極間近から降って来た声に明羽は驚いて振り返る。勢いよく振り返った明羽にトリオも驚く。

「お、おはようございます、だったかな?」

「明羽さんが驚いてるよ」

「すみませんすみませんすみません」

「いや、驚いたのはそこじゃないから。てか、距離感! 近いよ」

「すみませんすみませんすみません」

「いや、その、明羽さんと氷呂さんをお見掛けてして挨拶しようと思ったんですけど標と話し込んでるみたいだったから」

「タイミングが分からなくて」

「タイミングかあ」

 明羽が呟くと近くを通り過ぎ様に村人が明羽と氷呂に声を掛ける。

「おはよう。明羽ちゃん。氷呂ちゃん」

「おはようございます」

「おはよー」

 遠ざかって行く村人を見て明羽は親指を当てた。

「今のタイミングだよ」

「今のかあ」

「難易度高いなあ」

「難しい」

「難しくないよ。慣れだよ」

「慣れかあ」

「挨拶はコミュニケーションの基本ですから。めげずに繰り返してみてください。むしろ、最初は挨拶することだけを意識した方がいいかもしれませんね。声の出し方の練習にもなりますし。日常会話はそれができるようになってからでもいいと思いますよ」

「なるほど」

 明羽と氷呂とトリオのやり取りを見ながら標は小さく微笑んだ。空を見上げればいつもと同じ嵐に巻き上げられた砂で茶色に染まる空が広がっている。見慣れたいつもの空だった。昨日の悪天候は長く続かないで済んでいた。

「明羽。石を売りに行こうと思うんだが付いてくるか?」

 明羽はパッと標を振り返る。

「うん! 行く! 今から?」

「今から」

「明羽が行くなら私も行きますよ」

 氷呂が頷くと明羽は待ちきれないと言わんばかりに駆け出した。

「夏芽さん、呼んで来るね!」

 えっちらおっちら遠ざかって行く明羽の後ろ姿を見送りながら標は呟く。

「なんで夏芽まで?」

「多分私達が村に来て初めて出掛けた時のメンバーだからだと思います。あの時明羽、とても楽しかったんだと思います」

「狩人に追い掛けられたのに?」

 標が苦笑し、氷呂は微笑んだ。


 明羽は診療所の戸をそっと開く。

「夏芽さん。いる?」

「あら、明羽ちゃん。どうしたの?」

 患者と向き合う為の特等席に夏芽が座っていた。

「標がこれから石を売りに行くっていうから夏芽さんもどうかなって思って」

「あらあら。わざわざ誘いに来てくれたの? ありがとう。でも、ごめんなさいね。私はいけないわ」

「ありゃ」

「ちょっと体調崩してる子がいてね。回復傾向だけど経過観察しなくちゃいけないから。謝花ちゃんに全部任せるにはまだ荷が重いかと思ってねえ」

「そっかー」

「わざわざ来てくれたのに悪いわね」

 何度も謝る夏芽に明羽は首を横に振る。

「こればっかりはしょうがないもん」

「楽しんできて」

「うん! いってきます!」

 夏芽と謝花、村長とトリオに見送られて明羽と氷呂と標と後部座席に黒い石の詰まった箱を満載にした車は村から出発した。何ひとつ遮るもののない天上一面の青い空に太陽が輝き、寄り添うように月が浮いている。一台の黒い車が真っ白な砂漠をひた走る。明羽は後方に流れて行く砂紋を眺めながら標に話し掛ける。

「標」

「ん?」

「今回もおじーちゃんのところに行くの?」

「いや、オアシスの外だったとはいえ狩人に追い掛けられたからな。あそこにはもう行けないな」

「そっかあ」

 良くしてくれた白髭のじー様と若旦那、弟子のふたりを思い出して明羽が残念そうな声を出す。

「でも、東に向かってるのは変わらない?」

「ああ。前より東の町よりのオアシスに行くぞ」

「そっか」

 お互いの顔を見ずに話を終えて標は明羽の後頭部をチラッとだけ見た。暫しの間、風を切る音とエンジン音、タイヤが砂を巻き上げる音だけが響く。標は顎に流れてきた汗を手の甲で拭う。するとすかさず氷呂が小さな水筒を差し出した。日が天頂を通り過ぎ、下りに向かい始める時間帯になってそのオアシスは地平線の上に浮かび上がった。オアシス特有の大きな葉の茂る木々の間に伸びる舗装されていない砂を踏み固めただけの道に標は車を乗り入れていく。二台の車がギリギリすれ違うことができる広さの道を車は進む。三人の頭上を木漏れ日が流れていく。

「明羽。氷呂。先に言っとくな」

「へ? 何?」

「目的のオアシスに着いた訳だがこのまま店の前まで車で乗り付ける。交渉はもちろん、荷降ろしも全部俺がやるからふたりは車から降りないでくれ」

「どうしてですか?」

「このオアシスはな。あんまり治安が良くないんだ」

「へえ?」

「そんな胡乱うろんな声出されてもな。事実だし」

「説明求む」

「説明? そうだな。白髭のじー様のいたオアシスは世界中を見ても非常に稀な治安の安定したオアシスだったんだ。このオアシスも全体的に見ればまだまだマシな方なんだがそれでも、店で交渉している間はお前達のことを見てられないから。俺の為にもふたりは車から降りないでくれ」

「なるほどねえ。分かった」

「分かりました」

 ふたりが返事をすると車は木漏れ日の下から抜け出した。道の両端に建物が並び多くの人が行き交い始める。何台かの車とすれ違い、標は一件の建物の前に車を止めた。

「ここ?」

「ああ。さっきの俺の言葉、覚えてるな」

「標が戻って来るまで車から降りない」

「よし。じゃ、ちょっと待っててくれ。できるだけ早く済ませてくる」

「お気を付けて」

 明羽と氷呂が手を振ると標が建物の中へと消えていく。建物の入り口は狭く、外から中の様子は窺うことができない。心ばかりの小さな看板が入り口の上に掛かっていたが何が書いてあるか分からないぐらい朽ちかけていた。標が一度戻って来てテキパキと荷物を下ろしていく。再び標の消えた入り口を明羽は見つめる。

「おじーちゃんの店とは大違いだ」

「そうだね」

 ここに来て明羽はやたらとあの時のことを思い出していた。氷呂がいて、標がいて、夏芽がいて、村に辿り着いてから初めて外に連れて行ってもらった時のこと。もう随分と昔のことのように思われて明羽は酷く懐かしい気分になる。標はなかなか戻って来なくて交渉が難航しているのだろうかと思いながら明羽はぼんやりとしていた。

「お嬢ちゃん達。お留守番かい?」

 優しげではあったが野太い声に明羽は顔を上げる。そこには髭面でやたら身体の面積の広い男が立っていた。圧迫される視界に明羽は身を引く。

「アメちゃんあげようか」

「え? あ、ありがとう?」

「ありがとうございます」

 男が差し出して来た小さな飴玉を明羽は受け取ってしまう。氷呂もまたにこやかに受け取っていたが明羽にだけ聞こえるように囁いた。

「食べちゃダメだよ」

 明羽は思わず自分の手の中の飴玉を見つめてしまった。一回受け取ってしまうとひとりまたひとりと人が寄ってきていつの間にやら車の周りには黒山の人集りができていた。

「お嬢ちゃん達。そんな男のアメ玉よりウチのアメ玉の方がおいしいよ」

「いやいや。俺の店のアメ玉の方が」

「何言ってるのよ。私の店のアメ玉の方がよっぽどいい出来だ」

「ウチの方が」

「いや、アタシの方が」

「俺が俺が」

「私の方が」

 明羽と氷呂の手の平はアメ玉で一杯になっていた。

「あ!?」

 店から出来た標が黒山の人集りを散らしていく。

「お前達な……」

「く、車からは降りてないよ?」

「すみません」

 氷呂が心の底から謝った。一杯のアメ玉を空の布袋に移し、空いた明羽の手の平の上に標は別の布袋を乗せる。

「重い」

「今回の売り上げだ」

「おお」

「それで日用品の買い足しと村のみんなになんか買って帰ろう」

 標がエンジンを掛ける。

「村のみんなに。あ、このアメ玉子供達のお土産にしたら喜ぶかな?」

「そのアメ玉は後で捨てなさい」

「もう。明羽ってば」

「え」

「子供達にアメ玉をお土産にしたいならちゃんとした店で買ってやるから」

 後部座席の荷物がなくなり軽くなった車はゆっくりと走り出した。幌の張られていない黒い車が一台真っ白に輝く砂漠の上を走っていく。明羽と氷呂は空になった後部座席に席を移動していた。明羽の隣に座る氷呂が明羽の手元を覗き込む。

「かわいい袋に入れてもらえてよかったね。子供達きっと喜ぶよ」

「うん」

 明羽の手には可愛らしい色合いに染め上げられた巾着がひとつ乗っていた。

「その分吹っ掛けられたけどな」

 さして不満もなさそうに標は言う。標の首で濃いピンク色のマフラーが風を受けてはためいた。夏芽からプレゼントされた昼用の日除けのマフラーを標は当然のように愛用している。

「で、こっちのアメ玉はどうしようか?」

「まだ持ってたのか」

 明羽が持ち上げたのは大量のアメ玉で膨らむ布袋だ。くしくも可愛らしい色合いの巾着と布袋は丸みも重さもほぼ同じだった。

「かわいい袋に包んでもらって本当に良かった」

「同じような布袋だったら分からなくなってたね」

「さっさと捨てとけばそんな間違い心配する必要もない筈なんだが」

「何処に捨てればよかったのさあ」

 明羽の言葉に標は口を噤む。

「そうだな。俺が悪かった。どうやって片付けるかちょっと考えるか。さて、そろそろ一回休憩するか。この辺りに無人のオアシスがある筈なんだが」

「休憩するのはいいんだけどさ。今日中に帰る予定?」

「いや。さすがに日帰りは厳しいな。そんなに急ぐ必要もないだろ。途中適当に無人のオアシス見繕みつくろって野営して、ゆっくり帰ろう」

 空は既に赤色に染まり始めていた。真夜中も車を走らせれば今日中に村に帰れるかもしれないが確かにそんなに急ぐ必要はないだろうと明羽も標に同意する。

「そうだね」

「お。見えてきたぞ。あのオアシスだ。ん?」

「どうしたの? 標」

「明羽。氷呂。あれ、見えるか?」

「あれってどれ?」

 車の進む先に見るからに小さい規模のオアシスが見えてきていた。氷呂が前の席に身を乗り出す。

「荷台が幌張りのトラックが一台止まってますね。行商人でしょうか?」

「ん? んん?」

 氷呂が見つめるフロントガラスの向こうを明羽も覗き込む。

「あ、本当だ」

 明羽の目にも木々の影に明らかに自然物ではない黒色と布地が見えた。

「お前達にも見えてるってことは俺が幻見てる訳じゃないってことだな。さて、どうすっか」

「人が居るとまずいの?」

「いや。無人のオアシスを休憩地点にしてる旅人は珍しくない。むしろ普通のことなんだが」

「じゃあ、なんで?」

「警戒するに超したことはないだろ。時々行商人と見せかけて旅人を待ち構えてるチャチな盗賊がいたりするし」

「なるほど」

「う~ん。この近くに他にオアシスがあったかな」

 標が悩む間、車の速度が落ちていく。悩んだ末に標は再びゆるゆるとアクセルを踏み込んだ。

「とりあえず行ってみるか」

 決めると標はまっすぐに車を眼前のオアシスへと走らせた。長く伸びてきた木々の影に車を乗り入れて止める。

「よし。ちょっと声掛けてくる」

「声?」

「挨拶は大事だからな。俺達は怪しい者じゃないですよって相手に伝える。そして、俺達も相手の情報を得る。じゃ、ちょっと行ってくるからふたりは待っててくれ」

 先程のオアシスに続き車で待っているように言われた明羽はフロントガラスの向こうに遠ざかる標の後ろ姿を眺めながら呟く。

「心配してくれるのは分かるけど」

「大人しく待ってようね」

「なんでそんな言い方?」

「ふふ」

 氷呂が笑って明羽も釣られて微笑む。

「ん?」

 大人しく待っているつもりだった明羽と氷呂に向かって先客のトラックの側から標がふたりに向かって手招きしていた。

「どうしたんだろう?」

「行こう。明羽」

「うん」

 明羽と氷呂は標に駆け寄る。

「どうしたの? 標」

「人がいない」

「へ?」

 明羽はトラックの周りを一周する。無断で失礼とも思ったが荷台の幌をめくり三人で中も覗き込んだ。荷台には商品らしい荷物が所狭しと積まれていたがやはり人の姿はない。

「誰もいないね」

「不自然だ」

「え? どこが? オアシスの中にちょっと出掛けてるだけじゃないの?」

「そうだとしても、こんな小さなオアシスならどこにいたって近付いてくるエンジン音は聞こえる筈だ。これだけ商品を乗せたままのトラック。誰か来たのが分かれば急いで戻ってくるのが道理だろう。俺らが盗賊だったらどうする。全部盗まれるぞ」

「なるほど」

 標の警戒心が高まる。風が吹いてトラックの幌が波打った。光の当たり辛い奥の方で何かが鈍く光る。

「なんだろう?」

「明羽?」

「氷呂。あれ見える?」

 氷呂が明羽の横から荷台の中を覗き込む。

「鎖かしら?」

「鎖?」

 標もふたりの頭上から中を覗き込み、眉間に皺を寄せた。

「嫌な予感がする。明羽。氷呂。これからオアシスの中に入るぞ。俺から離れないように付いて来てくれ」

「え。いいの?」

「ん?」

「前もさっきも待ってるように言われたから」

「ああ、そうか。そうだな。まあ、今回ばかりは一緒にいてくれ。置いてく方が心配だ」

「そっか」

「足手まといにならないように気を付けます」

 標は苦笑する。

「足手まといだなんて思ったことはないんだが」

 標を先頭に明羽と氷呂の三人は警戒しながらオアシスの中へと踏み入って行く。

「人の通った形跡はあるが。また、妙だな」

「妙?」

「あっちに行ったりこっちに行ったり、同じところを何度も歩いたり。低い枝に引っ掛かった服を無理やり引き千切った後もある。相手さんは大分焦ってるみたいだな」

「何か探しているんでしょうか?」

「鋭いな。氷呂」

「どういうこと?」

「低い木の側とか俺達から見て死角になるところに特に足跡が残ってる。分かるか? 明羽」

「う~ん? なんかひしゃげてる低木がたくさんあるような」

「片っ端から掻き分けてる奴らがいる」

「奴らということは複数人ですね」

「恐らくふたりだな」

「草の根掻き分けてもって感じですね」

「ああ。ただこの荒っぽさを見るに大事なものというよりヤバい物なんじゃないかと」

 氷呂と標が話している間、明羽はふたりの真似をして周囲を観察してみる。

「ねえ。あっちの方はまだ荒らされてないみたいだけど」

 明羽の指差した方を見た標が明羽の頭に手を置く。

「明羽。少し声を落とそう」

「へ?」

「奴ら、多分まだ探してる」

「探す? 何を? ちょ、重い」

 標に体重を掛けられて明羽はゆっくりとしゃがみ込む。三人で仲良くしゃがみ込んだところ、明羽はひとつ向こうの低木と低木の間に小さな女の子がひとりうつ伏せに隠れているのを見つける。目が合って明羽は目を丸くしたが少女は明羽以上に目を見開いていた。明羽が口を開こうとすると少女は必死の表情で首を横に振った。自身の口の前に人差し指を立てる少女に明羽は隣の氷呂の肩をつつく。氷呂が何かを言う前に明羽は自身の口の前に人差し指を立てた。その人差し指を少女の方へと向ける。氷呂も少女の姿に気付く。

「標」

「標さん」

「ん?」

 周囲を警戒していた標が明羽と氷呂を振り返った時、人が近付いてくる気配に三人は示し合わせたように口を閉じる。

「旦那。さっきのエンジン音、聞こえなかったんですかい?」

「うるさい! 当然聞こえてたわ!」

「だったら一度戻らねえと。怪しまれまっせ」

「それどころじゃないわ! 大事な商品が逃げ出したんだぞ!」

 顔の見えない男の声に明羽の眉がぴくりと動く。

「あの狩人の言ってたことが本当なら、いや、たとえ嘘でも! あれがあれば儂の商人としての格は間違いなく上がるんだ! 北の町での商売権だって手に入る筈だ! エンジン音? 知ったことか! そんなことより早く探し出せ!」

「俺は雇われ護衛であって探し物は業務外っす」

「つべこべ言わすに行け!」

 明羽は標の腕を掴んで揺すった。突然のことに標が当惑した顔を明羽に向ける。明羽はそんな標に向かって身振り手振りする。

「あ? 何?」

 小声で明羽のその意図を聞き返す標に明羽は再び同じ手振り「立ち上がれ」と指示を出す。標はまるで納得していない顔のままゆっくりと立ち上がった。立ち上がれば間違いなく近くにいるふたり組に見つかるのを分かっていながら立ち上がる。初老の割に体格のしっかりした男と標よりも頭ひとつ分背が高く手足がひょろ長い男が標を見た。

「旦那」

「な、なんだ貴様!? どこから現れた!」

「えーと。先程このオアシスに着いた者でー」

「旦那。さっきのエンジン音の主だと思いやっせ」

「あ、ああ! そうか! で、いつからそこに居た!」

「えーと。挨拶に?」

 いまいち会話が嚙み合わないのを自覚しながら標は足元の明羽と氷呂が移動し始めるのを感じた。「説明をくれ!」と内心叫びながら標は目の前の男ふたりから目を放さない。

「挨拶などいらんわ! 儂らは儂らで自由にやっている! 貴様も勝手にしていればいいだろう!」

「あー。そうですかー」

 標は適当な返事をする。言われた通り勝手にしようと標は身体の向きを変えながら明羽と氷呂の行方を目で追おうと試みるが既にふたりの姿は影も形もない。この場から離れようとする標を護衛の男は目で追う。

「旦那。まずいんじゃないですかい?」

「何がだ!?」

「あの男に勝手に動き回られて俺らより先に見つけ出されたりなんかしたら」

 商人の目がカッと見開かれた。

「待て! そこの下郎!」

 標は立ち止って振り返る。

「あんた。まさか今の、俺を呼んだんじゃないだろうな?」

「他に誰がいる。今ここにお前以外に下郎がいるか? よく聞け。このオアシスには儂が先に来た。儂が先に足を踏み入れた。儂に優先権がある! 後から来た貴様がこの場所に留まる権利はない! 即刻立ち去れ!」

「黙ってりゃほざいてくれるじゃねえか」

「何!?」

「オアシスは誰の物でもないし、あんたに命令される謂れもない」

「何いぃ!? く、口を慎め、下郎! 儂はこれから世界で一、二を争う大商人になる男だぞ!」

「だから何だよ」

「貴様らのような下等民は儂のような上級民を敬うのが世の理だろう」

「何の話だよ」

 標と商人の言い争う声を視界の外に聞きながら明羽と氷呂は匍匐前進ほふくぜんしん一歩手前の態勢で移動する。

「標がうまく注意を引いてくれてる」

「標さんに明羽の意図まったく伝わってなかったみたいだけど。想定した形になったみたいだね」

「うん。さすが、標」

 目的の場所に辿り着いた明羽と氷呂はそっと低木の間を覗き込む。そこに居た少女が現れた明羽と氷呂に怯えて小さく震えた。

「あ、えーと。怖くないよ。私は明羽」

「私は氷呂」

 明羽と氷呂は少女を安心させる為に笑顔になる。少女はそんな明羽と氷呂に膝を抱え込んだ。微かな金属音に明羽は見る。少女の細い足首に不釣り合いに無骨な足枷が嵌められていた。そこから伸びる千切れた鎖が微かな音を立てる。

「トラックの荷台にあった鎖」

 明羽の声に少女がビクリと肩を震わせる。

「明羽」

「うん」

「ねえ。あなた。喉乾いてない?」

 氷呂が袋状になっている袖から小さな水筒を取り出す。水筒を傾け手の平に少しだけ中身を零す。透明なキラキラとした液体に少女の喉が鳴った。氷呂は自分の手の平の水を飲んでみせる。

「大丈夫だよ」

 氷呂が差し出した水筒に少女の震える手が伸びた。少女は勢いよく水筒に吸い付く。

「ゆっくりで大丈夫だよ」

 氷呂の声が聞こえているのかいないのか分からないが少女は夢中で水筒の中身を飲み続けた。そして、少女はあることに気付く。水筒の中の水が飲んでも飲んでもなくならないことに。少女は盛大にむせ込んだ。標と商人と護衛の男が声の聞こえた方に顔を向ける。

「あっちっすね」

 声に最も近くにいた護衛の男が動く。標も動くが物理的に間に合わない。近付いてくる長い腕に少女は唇を震わせた。

「……けて。助けて! 私は夕菜ゆな! 助けてください!」

 少女の叫びに明羽は翼を広げた。左側にのみ生える四枚の翼。視界を奪われて護衛の男が尻餅を付く。護衛の男が顔を上げると明羽が護衛の男を見下ろした。明羽の幼さの残る顔立ちにおよそ似つかわしくない冴え冴えと凍てついた瞳に護衛の男は喉を鳴らす。商人がポカンと明羽を見る。

「天使? 片翼の天使? 片羽四枚の天使!? 捕まえろ! 一時世間を賑わせた噂の天使だ! デマだと結論付けられていたあの天使! そこの精霊のガキと合わせて持って行くぞ!」

 明羽と氷呂と標が目を丸くした。

「え? 精霊?」

 明羽が少女を見下ろすと少女が涙を一杯に溜めた瞳で明羽を見上げていた。

余所よそ見してていいんですかい?」

 護衛の男が明羽に手を伸ばす。その手を横から標が掴んだ。

「明羽。翼仕舞え」

「標」

「いい判断だった。お蔭で間に合った」

「うん!」

 四枚の翼が霧散する。舞い落ちてくる羽根に夕菜は手を伸ばしていた。しかし、羽根は夕菜の手に収まる前に消えてなくなる。

「明羽。氷呂。ユナを連れて少し下がっててくれ」

「分かった」

「分かりました」

 明羽と氷呂はうまく立ち上がれない夕菜をふたりで支えて移動する。

「おい! 逃がすな!」

「分かっていやすよ。旦那。雇われてる分は働きやしょう」

 護衛の男は未だ腕を掴んだままの標を見下ろす。

「細い腕っすね」

「あんた程じゃないさ」

「じゃあ、力比べといきやしょうか」

「いいな。得意分野だ」

 そして、護衛の男は目を見開く。

「マジですかい……」

「ん? なんかやったのか? まあ、いいか。俺の本気はこっからだ」

 護衛の男の腕が捻じれ地面に頭から落ちる。脳を揺さぶられたのか護衛の男は白目を向いて動かなくなった。

「ば、馬鹿な」

 商人が一歩、二歩と後退る。

「なんなんだ……。なんなんだよ! お前らは!!」

「元気だな」

 標は首を掻いた。それが商人にどう見えたのかは分からないが余裕綽綽よゆうしゃくしゃくに見えたのは間違いないだろう。顔を真っ青にして商人はこちらに背を向けて一目散に逃げ出した。追い掛けようか標は悩むが背後から顔の横をかすめ飛んでいった影に目を丸くする。飛んでいった両の手一杯に乗る大きさの布袋は商人の後頭部に見事に命中した。命中した瞬間に布袋の口が開き一杯に詰まっていたアメ玉が弾け飛ぶ。アメ玉に夕日の光が反射してキラキラきらきら輝いた。商人はばたりと倒れて動かなくなる。標が振り返ると明羽がガッツポーズをしていた。

「持って来てたのか」

「一応」

 標は倒れるふたりの男を見下ろす。

「ここで休むのは無理だな」

「そうだね」

「今夜は車中泊だな」

 歩き出した標の後を追って明羽と氷呂も歩き出す。明羽と氷呂に手を引かれるまま夕菜もゆっくりと歩き出した。夕日に照らされて砂漠が真っ赤に染まっていた。遠ざかって行く小さなオアシスを背景に、来た時より乗車人数の一名増えた車が一台砂漠を走り去る。

「本当に精霊なの?」

 夕菜を中心に明羽と氷呂が後部座席に座る。

「うん」

「うはあ。マジか。言われて見れば少し気配が違うかな? アンナの時は割とはっきり分かったのに」

「精霊は身近にいないから気配が分かり辛かったのかも」

「なるほど」

「ねえ。夕菜。私達は嬉しいけど本当に一緒に来ちゃって良かったの? 帰る場所があるなら送って行けると思うんだけど」

 夕菜は首を横に振る。

「帰る場所なんてない。私の、帰る場所は……」

 夕菜の瞳からボロボロと大粒の涙が零れ出す。

「夕菜!? え、えっと?」

「明羽。落ち着いて」

「おと……さん。お父さん……」

 夕菜の口から零れる呟きに明羽は口を閉ざした。氷呂が夕菜の震える肩を優しく撫でる。

「夕菜。何があったか教えてくれる?」

「明羽」

「話したくなかったらいいんだけど」

 夕菜が首を横に振る。どちらの意味か図りあぐねて明羽は次の言葉を発することができない。黙っていると夕菜が涙を拭った。

「大丈夫。話せるよ。私、私は……」

「夕菜。無理しなくてもいいんだよ」

 氷呂の優しい言葉に夕菜は震えながらも首を横に振る。

「狩人が」

 狩人という言葉に明羽と氷呂は反応する。

「どこから聞き付けたのか狩人がやって来たんだ」

 夕菜は回想する。

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