第5章・黒い獣(5)

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 真っ暗闇の中を皐奏は走っていた。背中に翼はなく、皐奏は息を切らしながら必死に走っていた。

「明羽っ。明羽っ。ああ! あの子だけは助けなくちゃ。私の所為で、私の所為でっ。あの子だけは!」

 拭っても拭っても止まらない涙を流し続けながら皐奏は走る。足がもつれて前のめりに転ぶ。

「うぅ……」

 走り続けた足にはもう感覚がなく皐奏は立つことができなかった。転んだままの格好のまま泣くことしかできない。皐奏が顔も上げられず泣いていると一歩一歩皐奏に近付いていく人影があった。その人影は皐奏の前で止まると膝を付く。皐奏は気配に気付いて少しだけ顔を上げた。色の薄い柔らかな瞳の青年が皐奏に手を差し出していた。皐奏は訝しむ。皐奏はその青年を知らなかった。知る筈もなかった。皐奏を助ける為に犠牲になった幼馴染は青年になることなくその生涯を終えている。

「謡?」

 青年が微笑んだ。皐奏は青年に抱き付いていた。

「謡! 謡、謡、謡、うた、ウタ! 私、私ずっと、ずっとあなたに会いたかった!」

 皐奏は弾けんばかりに叫び泣く。謡はそんな皐奏の肩を抱き、背を撫でる。皐奏が落ち着いてくると謡は一点を指差す。謡の指差した方に皐奏が目を向ければ暗闇の中に丸い縁のない窓ができていた。そこには氷呂に抱き締められ、抱き締め返す明羽の姿があった。

「明羽……。良かった。あなたにはちゃんとあなたを受け止めてくれる人がいるのね」

 皐奏は謡に身体を預けながら全身から力を抜いた。その耳元で謡が囁く。

「皐奏。ひとりにしてごめんね」

「いいわ。謡。許してあげる。こうして迎えに来てくれたんだもの」

 ふたりは手を繋いでゆっくりと歩き出す。皐奏は少しだけ窓を振り返った。

「明羽。ごめんなさい。ありがとう」


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「お開きだ」

 黎が尻尾を振り地面を打つ。黎の足元が波打ったかと思うと遠くから男の叫び声が普通ではありえない速度で近付いて来た。かと思うと標と黎の前にひとりの男とずんぐりむっくりな四つ足の動物が投げ出される。グリフィスはその体躯に似合わず機敏きびんに立ち上がって辺りを見回す。

「何が起こった!?」

 動物はと言うと不満そうな泣き声を上げて一歩、二歩と太い足をしっかりと地面に着けて重い体をゆっくりと持ち上げた。不機嫌そうに首を振る。グリフィスは角を生やした黒い獣と紫黒の髪の長身の青年、青い髪の少女と緑を帯びた黒髪の少女の姿を見止めて身構えた。が、誰もが敵意を向けて来ない異様な状況にじりじりと後退あとずさる。

「狩人よ」

 黎の低い声にグリフィスはビクリと肩を震わせた。

「その男を連れて今すぐにこの場を去れ」

 コソコソとこの場から逃げようとしていた小太りの男の肩が跳ねた。グリフィスは見る。小太りの男とその向こう、血溜まりの中に沈む女の亡骸なきがらを。グリフィスは拳を握り締めた。少女ふたりは悲しみに暮れている。魔獣と青年はどこか疲れた顔。小太りの男はと言えば、

「おい、狩人! 狩人ならばそいつらを全員ぶち殺せ!」

 震えながらわめき散らしている。グリフィスは唇を噛み締めた。

「俺にとって……」

「あ?」

「俺にとって狩人はヒーローだったんだ! 俺の地元じゃ狩人は悪い亜種共から人々を守る英雄だった。そんな狩人に憧れて俺はそうなったのに実際にはどうだ? 仲間には馬鹿にされ、肝心かんじんの亜種共は人間を襲うどころか抵抗すらしてこねえ! 俺は、一体何をやってるんだ?」

「何をぐちゃぐちゃと言っている! さっさとやらないか! 戦狂いの狂人共! それが貴様ら狩人の存在価値だろうが」

「ああ、そうだ。俺は何も知らない田舎者だったのさ! 世界的に見れば狩人はヒーローどころか嫌われ者だ! 一般人は誰もがこの標章を見て眉をひそめる。なら、その通りになってやろうって、ご期待に応えてやろうってさあ、思ったんだよ!」

「何をごちゃごちゃと言うとるか! 貴様が何を思い行動しているかなんざ、どうでもいいんだよ!」

 小太りの男がギャアギャアと喚いているのを無視してグリフィスは動物の手綱を掴む。動物はそれに抗うように手綱を引き返す。

「くそっ。何年やっても動物はなつかねえし。メメには向いてねえって言われるし!」

 溢れ出したら止まらなくなってしまった悪態を付きながらグリフィスは手綱を強く引く。動物は渋々グリフィスに近付いた。グリフィスはあぶみに足を掛けひらりと動物の背にまたがる。グリフィスは動物に走るように命令を出す。その命令を何度か繰り返し、やっと動物がゆっくりと前進を始めると小太りの男が頬を引きらせた。

「おい。何をしている? 何故こちらに向かてくる!?」

 グリフィスの操る動物は段々と加速する。グリフィスは寄り添い合うふたりの少女もこちらを見続ける黒い獣と青年も振り返ることなくまっすぐに走る。擦れ違い様に小太りの男の首根っこを掴んで引き上げると小太りの男が「ぐえっ」と首を絞められてうめき声を上げた。けれどグリフィスは気にすることなく小太りの男を荷物のように背後に投げ乗せてそのまま走り去った。森の中に静寂が訪れる。明羽の嗚咽おえつだけが聞こえ始めると標は明羽に掛ける言葉が見つけられずにうつむいた。その視界の隅に金色の粒が舞い込んでくる。

「なんだ?」

 標の声に明羽と氷呂も顔を上げた。森の中に金色の粒が緩やかに舞い上がっていた。

「皐奏」

 明羽の視線に釣られて氷呂、標、黎は見る。皐奏の亡骸が金色の粒子に変わっているところだった。

「天使は死すればその身体は光へ還るのだ」

「光?」

 明羽が力なく反復すると巨木が左右に避け、遥か頭上を覆っていた枝葉がザワザワと四方へ避けていく。青い空が顔を覗かせ、まぶしい真昼の太陽の光が降り注いだ。その眩しさに明羽は目を細める。久しく見る気がするその光はあまりに力強く肌に刺さるようだった。

「標」

「え?」

「天使をこちらへ」

「ああ」

 黎に言われて標が皐奏の亡骸を軽々と抱き上げる。皐奏から赤い滴が零れ落ちるがその滴は落ちる側から金色の粒子に変わっていく。より太陽の光が降り注ぐ場所へ向かう標に明羽は手を伸ばす。

「標、標っ。待って」

「明羽」

 氷呂が明羽を呼び止める。氷呂を振り返った明羽の顔がくしゃりとゆがむ。その瞳から大粒の涙がこぼれ出す。ボロボロと明羽の頬を滑り落ちていく。

「わっわた、しっ……私……。あ、あっす……皐奏っ。たすっけ、たかった、っだ……」

 明羽の叫ぶような泣き声が木々の合間に木霊こだまする。明羽の周囲で金色の粒子が舞い踊った。標が太陽の光で真っ白に輝く中に立つと、真っ白な光に照らされて皐奏の身体は急速にその形を失っていく。

「皐奏!」

 明羽は駆け出していた。

「皐奏!」

 明羽が標の腕に取り付くがそこには既に皐奏の姿はなく、最後の粒子が散っていくところだった。太陽に温められて起こった上昇気流が金色の粒子を上空へと運んでいく。一杯の光に金色の粒子が空気に溶けていく。標の腕を強く掴みわんわん泣く明羽を標は抱き締めていた。

「明羽」

 標の腕の中にいる明羽に氷呂が近付く。泣き止まない明羽に氷呂と標がずっと寄り添っていた。


   +++


 氷呂は苔生こけむした大地の上で膝の上に乗る明羽の頭を優しく撫でる。包み込むように柔らかく慈愛に満ちた手で撫で続ける。黎の寝所で休む明羽と氷呂に標が近付いていく。

「やっと落ち着いたな」

「はい。泣き疲れて眠っちゃいました」

 標が氷呂の膝の上の明羽の顔を覗き込む。閉じられた目蓋は真っ赤に腫れ、眉間にはわずかにしわが浮かび、少し疲労の見える肌。手を伸ばしかけて標はその手を途中で止める。あの時あの瞬間、氷呂が現れなければどうなっていただろうと、自分の無力さを痛感して標は自己嫌悪におちいる。

「標さん?」

「なんでもない」

「貴様が氷呂だな」

 青色の瞳と深い緑色の瞳が交差する。

「初めまして。氷呂です。標さんからお噂は兼ねがね」

「さて、どんな噂だか」

 氷呂と黎の冗談めかした問答に標が頭を掻く。

「森に侵入したと思ったら瞬きの間に目の前に現れた時は驚いた」

「急いでいたもので」

「そうだな」

 黎が氷呂の膝の上の明羽を見つめる。

「明羽を助けて下ってありがとうございます」

「よせ。俺は何もできなかった。礼を言うならそこの不詳の弟子に言ってやれ」

 黎の振りに標が嫌な顔になった。

「標さんもありがとうございます」

「いや。俺だって何もできなかった」

「ふたりがいたから私は間に合うことができたんです」

 確かに時間稼ぎぐらいにはなったかと標と黎は思う。微々たる時間稼ぎにはなったかと。

「氷呂はどうやってここに来たんだ?」

「明羽の声が聞こえたので。恐怖や怒り、疑問、苦しさ、辛さ、色々、聞こえたので」

「そうか、明羽と氷呂は本当に見えない何かで繋がってんだな」

「そうなんです」

 自信満々に言う氷呂に標は苦笑する。

「話は変わるんだが。氷呂。来たばっかりで悪いんだが俺達は明日帰る予定を立ててた。こんな状態だが予定通り帰ろうと思う」

「そうだったんですね。分かりました」

「疲れてるのに悪いな」

「いいえ。大丈夫ですから。気にしないでください」

「せめて今日はゆっくり休んでくれ。な、いいよな。おっさん」

「ダメだと言ったら従うのか?」

「おっさんはダメだなんて言わねえだろ」

「言わんがな」

「じゃ、俺はこれから夕飯用の食材と水汲みに行ってくる」

「お気を付けて」

「おう」

 標の気配が遠退いていくのを確認して黎は氷呂に近付いた。

「俺を覚えているか?」

「え?」

 氷呂がキョトンとする。

「いや。なんでもない。妙なことを聞いた」

「いいえ、いいえ。おじ様。私が覚えていないだけで、もしかしたら会ったことはあるのかもしれません」

 黎はちょっと眉根を寄せる。

「……覚えていないとは?」

「私と明羽の記憶は十年程前からしかないんです。それ以前の記憶は霞がかったように思い出せない。もし、十年より前に出会っていたとしたら申し訳ありません。私達には分からないんです」

「そうだったか。唐突に悪かったな」

「いいえ。お気遣いありがとうございます。おじ様」

 黎は前足で軽く地面を踏む。踏んだ地面を暫し見つめてから意を決したように黎は顔を上げた。

「その、おじ様というのは?」

「標さんがそう呼んでいるので」

「確かに呼んでいるが……」

 同じ意味でも呼び方によってこうもニュアンスが違うものかと黎は悩む。悩んだ末に、

「まあ、なんだ。好きに呼べ」

「はい。おじ様」

 氷呂は黎の不器用な優しさに微笑んだ。黎が明羽と氷呂の側に寝転がる。黎の背が氷呂の太股に触れていてその温かさに氷呂は思わず涙ぐんだ。心の内でずっと張り詰めていたものが解けていくのを氷呂は感じた。


   +++


 明羽が目を覚ました時、視界の先は真っ黒な闇が覆い被さっていた。対照的に自分の周囲は柔らかな光に包まれていて明羽は自分がどこにいるかを思い出す。明羽は瞬きをする。目蓋は重くて鈍くてもったりとして思うように動かない。何かが明羽の視界を遮った。腫れぼったい目蓋に被せられたヒヤリとしたそれが何とも気持ちいい。

「気持ちいい……」

 思わず呟くと明羽の視界に光が戻ってくる。明羽を覗き込んで来る影を見返すとそこにあるのは明羽がこの世で最も信頼している顔があった。

「夢じゃない?」

「夢じゃないよ」

 氷呂が明羽の前髪を梳く。

「氷呂の手、冷たくて気持ちいい」

「明羽。少し熱っぽかったから」

「うん」

 明羽は一度目を閉じる。再び開けると視界が滲む。

「うん……」

「綺麗だね。明羽」

 氷呂の視線を追って明羽が目を向けると一面ふわふわとした光に照らし出されて巨木の影ぼんやりと浮かび上がっていた。

「うん」

 同意した明羽の視界の隅に黒いものが見えて明羽は何だろうとそれを引っこ抜いた。キャン! という甲高い鳴き声が上がり黒い毛がブアッと逆立つ。振り返った黒い獣が叫ぶ。

「何をする!」

 明羽は目を丸くした。黒色の正体とその声のギャップに最初こそ驚いたが可笑おかしくて笑い出す。

「あははっあはははは! 黎ちゃん。声……ぶふっ! あはははははは!」

「そうか。面白いか。まあ、いいさ。笑えるなら笑っておけ」

 不機嫌そうに黎は尻尾を振った。ひとしきり笑ってから明羽は次第に声のボリュームを落としていく。自分が笑えていることが明羽はとても不思議だった。あんなに辛かったのに、今も辛いのに。皐奏の姿を思い出して口を引き結ぶ。頭を撫でてくれる氷呂の手に明羽は目を細めた。

「氷呂。私どれぐらい寝てた?」

「半日ってところかな。標さんが明日帰るって」

 明羽は中空を見つめる。これがここで最後に過ごす夜なのだと思いを馳せる。

「氷呂。ずっと膝枕してくれてたの?」

「そうだね」

「今どくよ。足伸ばして」

「ありがとう。でも、私のことは置いておいて。明羽。お腹空いてない?」

「……空いてる」

 氷呂がニコッと笑う。

「お夕飯。明羽の分残ってるよ」

 明羽は体を起こそうとするが背中やのどに痛みを覚え、さらに全身に広がる倦怠感にさいなまれた。氷呂が明羽を支える。

「明羽。起きられる?」

だるい……でも、起きる」

「うん。分かった」

 氷呂が明羽を支え起こす。起こしたうえで氷呂は明羽を自身に寄り掛からせた。何も言わず側に居てくれる氷呂に明羽は遠慮なく甘えさせてもらう。

「ちょっと待ってね。最後の仕上げをすればすぐに食べられるようにしてあるから」

 そう言うと氷呂は手の平大の果実を葉に包んだものを焚火の中に放り込んだ。明羽は首を傾げる。標にも食べさせてもらったあの果実ではないかと。しかし、氷呂は焚火の中の果実を火掻き棒でコロコロと回すと間もなく火から下ろした。

「はい。明羽。熱いから気を付けて食べてね」

 手渡されるまま明羽は受け取る。火傷に注意して真っ黒に焦げた葉を剥がすと中の果実の外皮は既に割れていて以前は丸ごと齧り付いていた果実は刻まれ、野菜類と一緒に炒められたものが割れ目からとろりと零れ出した。温かな湯気と食欲をそそる香りが鼻腔をくすぐる。明羽はゴクリと唾を飲み込んだ。

「野菜類の中に幾つか香りの違う香草と塩気のあるものがあったからそれで調整してみたんだ。どうかな? はい。スプーン」

「ありがとう。氷呂。いただきます」

 明羽はスプーンを受け取って葉っぱから零れ落ちないようにすくって口に含む。標が調理してくれた果実の丸焼きと野菜類の炒め物もおいしかったが刻んで野菜類と炒めた果実は食感も違って鼻に抜ける香草の香りも相まって明羽の食は進む。お腹が満たされると心まで満たされていく。

「おいしかったー。ごちそうさま」

「お粗末様そまつさまでした。標さんが戻って来て見せてくれた食材は見たことないものばっかりでビックリしたよ」

「そういえばずっと膝枕してたって言ってたのにどうやって料理したの?」

「実は料理したのは私じゃなくて標さんなんだ。私は横から指示出ししたというか案出ししたというか茶々入れしてたというか」

「そうだったんだ」

 氷呂が火の始末をするのを眺めながら明羽は手足を投げ出して寝転がる。火の始末が終わると氷呂は明羽の側に身を寄せた。黎はといえばふたりに付かず離れずの位置でずっと寝そべっている。

「標の姿が見えないんだけど。どこにいるの?」

「標さんは荷物整理の為に車の方に行ってる」

「そっか」

「明羽。ずっと寝てたから眠れないんじゃない?」

「そうかも」

「じゃあ、私の話を聞いて」

「話?」

「そう。明羽がいない間、私が村でどんな風に過ごしてたか。聞いて」

「私はいいけど。氷呂は疲れてるんじゃないの?」

「私も今は寝たい気分じゃないの。なに? 私の話は聞きたくないって?」

「そんなこと言ってない」

 明羽が真剣に返すと氷呂がニコッと笑う。

「明羽がいない間、私的に大変だったんだから」

 そして、氷呂は優しい声で話し始める。

「あはは」

「あ。明羽。笑ったね」

「だってさあ。謝花に頼んでおいて村長の家に居たって。謝花、可哀相。あはは」

「笑い事じゃないよ。本当に焦ったんだから。後で平謝りだよ。それになかなか人化できなくて。それにも随分ヤキモキしてた」

「でも、それでしびれを切らして獣の姿のまま、みんなの前に出られるようになったんでしょう?」

「まあね。謝花にも良くしてもらったのに結局ね。村長にも気を遣ってもらって。結局練習も投げ出してきちゃった。帰ったら改めてお願いしなきゃ。やっぱりその技術は必要だと思うから」

「そう?」

「当然といえば当然だったのかもしれないけど獣の姿の方が速く走れるみたいなの。今回のことで良く分かった。明羽が辛い時に助けが必要な時にいち早く駆け付けられるようにしておきたい。今回は明羽の辛い時に一緒に居られなくて、ごめんね」

「なんで氷呂が謝るのさ」

「私。ずっと明羽の側に居るからね」

「氷呂。そこまで私に尽くさなくていいんだよ。氷呂にもやりたいことあるだろうし」

「私がそうしたいの。ねえ、明羽。良かったら私がいなかった間、こっちで明羽が何をして過ごしてたか教えてくれる?」

 氷呂の瞳がまっすぐに明羽の瞳を捉えた。

「うん」

 明羽は氷呂の手を握って、より鮮明な記憶を掘り起こす為に目を伏せた。


   +++


 明羽は夢を見る。優しい青い光。いつも自分を包み込んでくれる柔らかな光。その光を確かに近くに感じて、明羽はその光に手を伸ばす。そして、目を覚ます。

 目蓋を開いて明羽の目に飛び込んできたのは白い肌、青みがかった長い睫毛、聞こえてくる静かな寝息。指に触れる感触は細いが柔らかく、温かく、滑らかなその指を明羽は触れている指で軽く撫でる。青みがかった睫毛が震えた。

「おはよう。氷呂」

「おはよう。明羽」

 氷呂が微笑む。それは大変整っていて見る者すべてに幸福感を与える美しい微笑みだった。ふたりの上に影が下りる。黎が明羽と氷呂を覗き込んでいた。

「何やってるの? 黎ちゃん」

「なに、俺達の存在に気付いているのかと思ってな」

「忘れてないよー」

「そうか。朝飯だ。起きろ。ふたり共」

 黎が歩き出し、明羽と氷呂は起き上がる。黎の姿を目で追うと黒い尾が揺れ、枝葉の隙間から光が降り注ぎ、向こうに焚火の側で作業する標の姿があった。

「標」

「おはようございます。標さん」

「おう。はよー。明羽。氷呂。こっち来い」

 明羽はぼんやりと立ち尽くす。

「なんだ? 明羽。どうした?」

「いや。なんだか……」

 昨日と今日で世界が変わってしまったような感覚に明羽は陥っていた。

「何をぼんやり突っ立っている。飯だ飯。朝飯だ」

「イタタッ! ちょっ、黎ちゃん! 角先が当たって痛い。歩く、歩きますう!」

 先を行っていた筈の黎がわざわざ明羽の背後に回って来てその背をせっ付いていた。明羽が歩き出しても黎はせっ付き続ける。

「俺は腹が減っている」

「分かったってば!」

 氷呂はクスクス笑いながらふたりの後を付いて行った。焚火の側に着くと標が氷呂に木べらを差し出す。

「氷呂。仕上げを頼んでいいか?」

「私ですか?」

「氷呂が仕上げた方がうまいからな」

「そんなことないですよ」

 氷呂がやんわり断ろうとしても標は木べらをほぼ押し付ける形で氷呂に手渡した。氷呂は仕方がないと鍋の仕上げに入る。


   +++


 後部座席を覆う幌に緩みがないか標が最終確認するのを明羽と氷呂は黎の横に並んで待つ。

「ねえ。黎ちゃんは人化しないの?」

「聖獣と一緒にするな。似たような外見だとは不覚にも思うが俺は魔獣。人化などせん」

「角もそのままですよね。標さんは普段は隠してるけどおじさまはそのまま」

「人化しない以上どうやったって人間に似などしないからな。隠す理由もない」

「なるほどー」

「が」

「が?」

 黎の角が一瞬だけ消えて一瞬だけ黒いだけの獣になった。

「できないこともない」

「おお~」

 明羽と氷呂が拍手する。黎の鼻がちょっと得意気に高くなった。

「しかし、何故急に人化などと?」

「何故って」

 明羽はチラと氷呂を見る。

「黎ちゃんが人の姿になったら渋くて無駄にカッコイイおっちゃんになりそうだったから」

「無駄に……」

「あはは」

「明羽ったらそんなこと想像してたんだ?」

「してた」

「村長の時といい。お前は」

 いつの間にか近くにいた標がため息をつく。

「何の話だ?」

「私も後から聞いたんですけど」

 氷呂が黎に説明する。と、黎が大口を開けてゲラゲラと笑い始める。

「ふははははははははは! いや、明羽。貴様は間違っていないぞ。あれは間違いなくジジイだからな!」

「おいコラ、おっさん。自分のことは棚に上げて」

「何を言う。ジジイであることは構わんのだ。ジジイなのにあの姿になるからおかしいのだ」

「ああ、そうかい……」

 笑い転げる黎に標は不服そうに口をひん曲げた。村長のことも黎のことも尊敬している標としてはどちらを立てることも下げることもできない複雑な心境なのだった。

「さ、車に乗れ。明羽。氷呂」

「うん」

 明羽は黎の前に膝を付く。腕を伸ばし、その首を抱き寄せた。

「黎ちゃん。お別れだね」

「縁があればまた会える」

「うん」

 明羽は閉じた目蓋に力を込める。

「うん。そうだよね。またね。黎ちゃん」

「ああ。またな」

 明羽が離れると変わって氷呂が黎に身を寄せた。

「おじ様」

「貴様とはすぐに分かれることになってしまったな」

「はい。でも、十分です。また、お会いできるのを楽しみにしています」

「ん」

「じゃあな。おっさん」

「ああ。気を付けて帰れ」

 標に対してはそれで十分だと言わんばかりに黎は素っ気なく言った。明羽は助手席に近付いて立ち止まる。頭上を見上げるがそこには太陽の光を遮るように伸びる枝葉があるだけだった。助手席のドアを開けて明羽が乗り込むと運転席に乗り込んだ標がその頭を撫でた。明羽と一緒に座る氷呂の頭も撫でる。

「ちょっと待っててくれ」

 標が乗ったばかりの車を降りた。

「おっさん!」

 森の奥に戻ろうとしていた黎が振り返る。

「どうした? 忘れものか?」

「いや。少し、聞いてほしい……かと思って」

「どうにも歯切れの悪い言い方だな」

「その、悪い。明羽のことなんだが」

「なんだ? 不安か?」

 言い当てられたと思って標は軽く目を見張る。

「そう、そうだな。不安なんだと思う。はっきりとそうだとはどうにも言い難いんだが、それに近いと思う。以前、似たようなことがあったんだ。明羽が人間に対して憎しみを向けたことがあった。その時、対象は目の前にいなかったし、何かを失った訳でもなかったが。その時、俺は思ったんだ。明羽の持つ感情は人間に近いんじゃないかって。もしかしたら明羽は天使と人間の間の子なんじゃないかって」

「ふん。あり得ない話だな」

「おっさんは断言するんだな」

「あれは七種族の中でも俺達魔獣と感覚が近い。他と交わることはない」

「ああ、飛んだ思い違いだった」

「あのふたりが大切か?」

「え? ふたり?」

「守りたいか?」

「そりゃ。今となっちゃ可愛い妹みたいなもんだ」

「なら、目を放すな。よく見ていてやれ」

「言われなくても」

 黎は標を一瞥すると振り返ることなく森の奥へと消えていった。

 明羽は幌に設けられている車の背後を確認するためのビニール窓から標と黎が対峙しているのを見ていた。黎は去り、標が戻ってくる。

「何の話してたんだろ?」

「さあ」

「氷呂。ふたりの話聞こえてた?」

「明羽。私、人様の会話をむやみやたらに盗み聞きするようなことしないよ」

「そうだね」

「私達に関係ある話なら標さんからしてくれるよ」

「そうだね」

 運転席のドアが開いて標が乗り込む。

「待たせたな。ふたり共」

「標。忘れ物でもしたの?」

「明羽。なんでおっさんと同じこと言うんだ? 俺はそんなにおっちょこちょいに見られてるのか?」

「そんなことないですよ。標さんはとっても頼りになるお兄さんです」

「あんがとな。氷呂」

 実際、頼られる兄貴分で居たい標は今回の明羽の件で自信を失っていることや不安に駆られていることなどおくびにも出さない。理想を意地でも保ってやろうと標は気を張り直した。

「じゃあ、黎ちゃんと何話してたの?」

「明羽」

 氷呂が明羽を窘める。

「うんちょっとな」

「そう」

 誤魔化した標に明羽は少し残念そうに俯いた。

 標がギアを入れ替えて車は走り出す。苔生した大地に出っ張った太い根を乗り越え、時にその下を潜り、流れる木漏れ日のカーテンの中をゆっくりと明羽と氷呂、標を乗せた車は走る。そして、前方の木々の合間に見えてくる真っ白な光。その光に車はまっすぐに進んで行く。眩む視界に明羽は目を瞑っていた。明羽が再び目を開いた時、視界に遮るものは一切なく、どこまでも続く平らな砂漠、視界の隅に消える地平線。天を染める青には一点の曇りもなく、太陽と月だけが浮かんでいた。明羽はその景色を酷く懐かしいと思う。

「口開くなよ」

 標はそう言うとアクセルを踏み込んだ。Gが掛かって明羽と氷呂は座席に軽く沈む。ぐんぐん車のスピードは上がっていき明羽は目を瞬く。それはまるで後ろから迫ってくる何かから逃げるようなスピードの上げ方で明羽の頭の中は疑問符で一杯になる。氷呂が明羽の腕に触れた。

「明羽。外」

 氷呂に促されるまま明羽は窓にへばり付く。後方が良く見えず明羽は窓を開けて身を乗り出した。後方に遠ざかって行く巨木の森が音を立てて崩れ始めていた。乱立していた巨木が根元といわず幹といわず割れ、砕け、落ち、砂塵を上げる。遠くに聞こえていた音はいつしか轟音となり車に迫る。明羽はあれだけの存在感を放っていたものが一瞬で跡形もなくなる様に幻でも見ているような気分になる。

「そろそろ窓閉めろ。来るぞ」

 標の言う通り、音に遅れて、舞い上がった砂煙が車の背後から押し寄せて来ていた。

「明羽」

 氷呂が明羽を車内に引っ張り込む。窓が閉められるとすぐに車は砂煙の只中となった。暫く車は砂煙の中を走る。視界が晴れると明羽は再び窓を開けた。窓の外へ身を乗り出して見ても、落ち着いてきた砂煙の向こうにはもうあの巨影を見ることはできなかった。明羽は昨日の出来事なのにそれを証明するものがもう自分の記憶の中にしかないことに酷く心許なくなる。本当にあったことなのかと不安になる。

「皐奏……」

 その存在が失われることに明羽は恐れを覚えた。今はまだ覚えている。けれど時間が経つ程に思い出せなくなることを、忘れていくことを腹の底が冷え込む程に恐ろしいと思う。

「明羽」

「氷呂」

 明羽は氷呂の手を握った。


   +++


 七日掛けた道のりを標は四日で走破する。村の入り口で停車した車から明羽と氷呂が降りるとすぐに村の中に続く道から夏芽と村長と謝花の三人が駆けて来る。

「明羽! 氷呂!」

 謝花が氷呂の顔を見て明らかにホッとした。その瞳に涙が浮かぶ。

「氷呂! 黙っていなくなるなんてどういうこと? すごく心配したんだからね!」

「ごめん。謝花。私、どうしても行かなくちゃいけなくて」

「どうしてもって何!? それって私達に一声掛けることもできないことだったの?」

 氷呂が責められて謝っているのを見て明羽は責任を感じる。

「謝花」

「明羽もなんか言って! 氷呂のことだから明羽のところかもと思ってはいてもやっぱり一言……。明羽?」

 謝花は気付く。明羽の暗い表情に。

「なに? どうしたの?」

「ごめん。謝花。氷呂の行動は私の所為だ。だから、あんまり氷呂のこと責めないでほしい」

「明羽の所為ってどういうこと? 説明して? してくれるよね?」

 説明と言われて明羽の脳裏に浮かんだのは軽くウェーブのかかった亜麻色の髪が風に揺れる光景だった。あの場所であったことを語るには明羽はまだ記憶も気持ちも整理が追い付いていなかった。

「ごめん。謝花。すぐに説明できそうにない」

「そんなの納得できないよ!」

「謝花ちゃん」

 夏芽が謝花の肩に手を置いた。

「落ち着いて。謝花ちゃん」

「夏芽姉様」

「考えてみて。明羽ちゃんも氷呂ちゃんもイタズラにみんなを不安にさせるような子達じゃないでしょう。ちゃんと理由がある。その理由を今言えないのにも必ず理由がある。謝花ちゃんは知ってる筈でしょう? ふたりをもっとちゃんと見てあげて」

 言われて謝花は改めて明羽と氷呂を見た。疲れの見える顔、気力は見るからに乏しく力なく。しかも、ふたりに限らず標までもが似たような空気をまとっていた。謝花は俯く。

「明羽。氷呂。いつかちゃんと聞かせてね」

「うん。謝花」

「ありがとう。謝花。たくさん心配してくれて」

 謝花は零れそうになった涙をグッと堪えた。

「当然でしょ! おかえり! 明羽。氷呂」

「ただいま」

「ただいま」

 抱き合う三人を微笑ましく見つめてから夏芽は標に近付く。標はといえば積まれた荷物を下ろすでもなく車の側にぼんやりと立っていた。

「おかえり」

 夏芽が声を掛けると標が夏芽を見る。

「おう。ただいま」

「何があったか。私はあんたから聞いていいかしら?」

「ん。分かった」

「すぐじゃなくていいから」

「そうか。助かる。さすがに今回は疲れた」

「いつも以上に?」

 標は苦笑する。それから車の中からひとつの袋を取り出す。

「ほら、夏芽。お前が明羽に頼んでたやつ」

「あら。ありがと」

 夏芽は中身を軽く確かめてひとつ頷いた。

 ハグから解放された氷呂は皆を見守るように立っていた村長にゆっくりと近付いていく。

「村長。ただいま戻りました。あの、私……申し訳」

「おかえり。君達がみんな無事で良かったよ」

 薄紫色の瞳が優しく細められる。

「村長」

「人化も無事できているようだし」

「はい。ですがこれも意図的に行えた訳じゃないんです。だから、村長。図々しいお願いだとは思います。でも、できれば、またご指導ご鞭撻のほど」

「いいとも。でもとりあえず今は休みなさい」

 氷呂は瞳を伏せる。

「はい。ありがとうございます」

「標も、後はやっておくから君も一先ず休みなさい」

 またもぼんやりしていた標が顔を上げる。

「いや。大丈夫ですよ」

 その肩というか腕というかを夏芽が叩いた。

「痛いんだが」

「いいから。村長の言う通りにしなさい。私も手伝うし。遠慮しない」

「……そうか。そうだな。じゃあ、任せる。すみません。村長。後頼みます」

「頼まれた」

 標が歩き出し、それに付いて行くように明羽と氷呂も自分達の家へと歩き出した。

                                  了

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