第5章(4)

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 明羽がひとつの決意を固めた頃。嵐が渦巻く只中に在る村はいつものように薄暗い。そんないつもと変わらない筈の村の中で耳を垂れ、尻尾を垂れ、氷呂は空よりも重くどんよりとした空気をまとっていた。最初こそ見られ慣れていない姿をみんなに見られるのを恥ずかしいと閉じ籠っていたがまるで人の姿に戻る気配が見られず、これ以上閉じ籠っているのも限界で氷呂は今中央広場の井戸の側で丸くなっていた。

「はあ……」

「氷呂! 元気出して! 大丈夫。村に来て初めてなんだもん。それできっとちょっと感覚がズレちゃってるだけだよ! ちゃんと人の姿に戻れるよ!」

「ありがとう。謝花」

 謝花の励ましにも氷呂は重いため息をつく。そんな氷呂の暗い心中とは裏腹に謝花は今、内なる衝動と戦っていた。薄暗いとはいえ氷呂の身体を覆う白い体毛はキラキラと輝き、柔らかな産毛のようにふわふわと風に揺れている。抱え上げて抱きしめたいという衝動を謝花は必死に堪えていた。

「氷呂」

 村長が一歩一歩ふたりに近付く。氷呂が弱弱しく村長を見上げる。

「村長」

「随分悲愴な顔をしているね。そんなに深刻な状態なのかい? 意識しても人化できない?」

「村長……」

 氷呂が項垂れる。

「私、意識して人化したことないんです。突然こうなるのと同じように数日経ったらいつの間にか人の姿になってるんです。いつもならもうなっててもおかしくないのに」

「そ、そうか」

 だんまりになってしまった氷呂の側に村長は座る。

「僕がコツを教えてあげるよ」

「……本当ですか?」

「うん。それに今覚えておけばきっとこれから役に立つ」

「はい!」

 氷呂と村長は立ち上がった。大小体躯の違う白い獣が並ぶのを見て謝花は呟く。

「なんだか親子みたい」

 井戸の側で氷呂は村長の言葉一言一句を聞き逃さないように真剣に耳を傾ける。村長の言葉を受けて集中していたのに氷呂はふと村の外に目を向けていた。

「氷呂? どうした?」

「いえ! なんでも!」

 慌てて意識を戻そうとするが氷呂の胸中はどうにもざわついて落ち着かない。

「明羽?」

 氷呂の脳裏に数日会えていない友人の姿が過ぎった。


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 黎は森の中で立ち止まっていた。苔生した足元をジッと見つめる。森から地続く外の砂漠へと意識が飛んでいく。

「何か近付いてくるな。良くないものが近付いてくる」


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 どこまでも平らかに広がる砂漠の上をちっぽけな影が走っていた。ずんぐりむっくりな四つ足の動物が自分より一回り大きな箱を引いていた。箱はただの箱ではなかった。タイヤとそりが付いていてやたらと無駄に煌びやかに装飾されていた。その箱の横に付けられた窓から小太りな男が身を乗り出す。

「もっと速く走れんのか!」

 動物に乗り、操る男を怒鳴りつけた。怒鳴りつけられた男は炎天下で汗だくの顔で小太りの男を振り返る。

「あんた、貴族の癖になんで自動車のひとつも持ってねーんだよ!」

「あれは下層民の乗り物だろうが! この大貴族である高貴な儂が何故そんなもんに乗らねばならん! 安物しか手に入れられない輩と同じ土俵に立つなど片腹痛いわ!」

「お貴族様の普通なんか俺が知る訳ねえ!」

 王に仕える貴族達は王城のある北の町から外に出ることがない。それどころか城下にさえ出ることはない。金に物を言わせて必要な物はすべて取り寄せる仕組みがとうの昔から出来上がっていた。どうしても出掛けなければいけない時は希少な動物に箱を引かせるのが通例だった。権力を固持するように。そして常日頃から動物を扱っているのは狩人だけである為、その場合護衛も兼ねて狩人が組合から派遣される。だが、組合関係なく今回は個人的に貴族に呼び出された狩人、グリフィスが貴族の乗った箱を引っ張っていた。

「クソッ。なんでこんなことに」

「法螺吹き呼ばわりされていた貴様の話を信じてやったのはどこの誰だと思ってる? この儂だろうが! 信じたのも今となっては後悔しているがな! 貴様の所為で代々継承してきた大事なコレクションのひとつが戻って来んわ!」

「だから今あんたに言われるまま『馬』を走らせてやってるんだろーが! つーか天使探すのに天使飛ばしたのはあんただろう! 俺の所為にすんじゃねえよ!」

「貴様の所為だ。貴様の所為だ! 貴様の所為だろうがっ!! 貴様があまりに必死に天使の存在を語るから信じまったんだろうが! この大噓付きが! 恥を知れ!!」

「嘘じゃねえ!!」

「黙れ! 狩人風情が! 天使同士なら引き合うものがあるかと思って飛ばしたが結果はどうだ? 片羽四枚の天使が本当なら一対の翼の天使など目ではないと、手に入ったら古いものは廃棄するつもりだったが。ああ、腹が立つ腹が立つ。信じた自分に腹が立つ!」

 箱の中で小太りの男が床を踏みしだいた。誰かを貶めなければ気が済まないのか男はグリフィスにこれでもかと罵りの言葉を吐く。

「貴様のような狩人が一時でも一流しか乗れない翼ある動物に乗っていたなど信じられないな!」

 狩人は空を飛ぶ翼ある動物を『鳥』と呼び、大地を駆ける動物を『馬』と呼ぶ。中でも『鳥』に乗る狩人は一流と言われていた。実際実績のある者が『鳥』に乗る権利を与えられるのだが乗るかどうかは狩人の自由であり『馬』に乗りながら功績を上げている狩人もいる。けれど『鳥』から『馬』に乗り換えるものはいないと言っていい。つまり『鳥』から『馬』に変わった狩人は一目で降格したものだと周知されるのだ。

「どうせ偶然かお零れの栄光だったのだろう? え? どうなんだ!」

 グリフィスは唇を噛み締める。

「なんだ。図星か!? おお、おお。そうかそうか。だがまあ、運も実力の内と言うし? あ、その運も尽きたのだったな。ハハハハハハ!!」

 馬鹿にされるのを黙って聞き流すのにも限界でグリフィスが怒鳴り返してやろうと振り返った時、

「間もなくだな」

 グリフィスは息を呑んだ。

「やっと、やっとか! くそっ、くそ! 何日走らされた?」

「おお、嬉しいか。良かったなあ。帰りも頼むぞ。狩人」

 汗をかいてはいるが庇の中にいるというだけで余裕綽綽の小太りの男にグリフィスは舌打ちする。炎天下の元、グリフィスの流す汗は拭き出す側から蒸発していた。小太りの男の指示の下、グリフィスが尚も動物を走らせ続けると地平線の向こうから迫り出してくる影があった。近付く程に質量と重量感を増していく影にグリフィスは今までとは違う汗が噴き出してくるのを感じる。

「話にしか聞いたことがねえ。でも、間違える筈もねえ。あれは魔獣の住処だ」

 前に進む足を緩めるグリフィスに小太りの男が箱の床を踏みしだく。

「おい! 何をしている? 反応はあの中からだ。進まんか!」

「バカ言え! あんたは知らねえかもしれないがあれは魔獣の住処だ。何の準備もせず飛び込めるか! 殺されるぞ!」

「ハッ。貴様。それでも狩人か? 魔獣と言えば天使の次に伝説級じゃないか。欲しい。魔獣はまだ見たことがない! 貴様とて名を上げるチャンスではないか。狩人なら喜び勇んで進まんか!」

 血気盛んな狩人ならば間違いなく嬉々としてオアシスとは似ても似つかないあの巨木の森に突っ込んで行くことだろう。

「クソッ!」

 グリフィスは何度目かの悪態をついた。

「俺が魔獣を捕まえて俺を馬鹿にした奴ら全員見返してやる!」

「その意気だぞ! 狩人よ!」

 グリフィスの誘導で動物は荒い息を吐きながら再び走り始める。目の前に覆い被さるようにそそり立つ重い影に向かって。


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 皐奏は明羽を見つめる。

「行くって、どこへ?」

「私と一緒に村に帰ろう」

「村って……」

 皐奏は首を横に振る。

「無理よ。言ったでしょう。私の首にあるこれは発信機。これがある限り私は逃げられない。このままあなたに付いて行ったら私があなた達の大切な場所を人間に教えることになる。そんなことできないわ」

「これからその発信機をどうにか外せないか考えよう。標にも黎ちゃんにも一緒に考えてもらってさ。そしたらきっとなんかいい考えが浮かぶ筈だから。だからさ」

「明羽」

 明羽は言葉に詰まる。明羽を見つめる皐奏の亜麻色の瞳があまりに美しかったから。

「皐奏?」

「あなたを見ていると謡を思い出す」

「片翼、だからかな?」

「そうね。それもあるわね。でも、それだけじゃない。とても明るくて、人の前に立って先導するような。見る者が後を付いて行きたくなるような頼りにしたくなるような魅力がある」

「そ、それは言い過ぎでは?」

 皐奏が微笑んだ。それはまた美しい微笑みだった。それが明羽を不安にさせる。

「皐奏」

「明羽」

「皐奏!」

「明羽。聞いて。私は謡を犠牲にここまで生きてきた。もう、十分。十分でしょう? 私ずっと「なんで?」って思ってた。なんで謡は私を置いていったの? どうして私も一緒に連れていってくれなかったの? ……分かってる。分かってるわ。あの極限状態で、その後のことなんて考えられなかった。まして私達は子供だった。目の前の一瞬の救いに希望を見出してしまった。でも、それが間違い。間違いだったのよ。私、私ね。明羽。私、ずっと謡に会いたいと思ってる。ずっと思ってるの。どれだけ時が流れてもこの思いは変わらなかった。私だって謡のことが好きだった。好きだったのよ」

「皐奏!」

 明羽は皐奏の両腕を掴んでいた。


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 黎は森の中を疾走していた。高く張り出た根の上で立ち止まる。中空を睨み付けて舌打ちする。

「二手に分かれたか!」


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 標は夏芽のメモと袋の中身とを見比べた。

「よし。こんなもんかな。予定より早く終わったなあ」

 余った時間をどう過ごそうかと辺りを見渡すと少し離れた幹の影からずんぐりむっくりな動物が現れる。標とグリフィスはお互いを見止めて目を見開いた。

「狩人!?」

「お前! あの時の悪魔!? なんで!?」

 ふたりは身構えるが一拍置いて標は首を傾げていた。

「誰だっけ? 狩人に知り合いはいなかった筈だが」

「テメエ! 俺の顔を見忘れたなんて言わせねえぞ!」

 叫ぶグリフィスに標は想定外の状況に自身が混乱していることを自覚する。自覚した上で標は頭の中を整理する。悪魔であることを断定される状況などそうそうありはしない。けれど一度だけそういう状況に陥ったことがあったことを思い出す。

「明羽と氷呂を追って来た狩人か」

 標は警戒する。

「なんであんた、こんなところにいるんだ?」

「それはこっちのセリフっ……セリ、フ……。お前がいるってことはあの天使もここにいるってことか!?」

 狂喜に歪んだグリフィスの顔に標は指に力を込めた。指の関節が鳴り、グリフィスの顔が一瞬で恐怖に慄く。手綱が引かれたのかグリフィスの恐怖に呼応するように一歩二歩と動物が後退った。グリフィスの脳裏には少し前まで行動を共にしていた、あの時は後輩だと思っていた男の姿が浮かんでいた。親指と人差し指で輪を作ったぐらいの大きさしかない真っ黒な球体に呑まれるルインの姿がグリフィスの脳裏にフラッシュバックする。その後元気に戻って来たとはいえ、消える瞬間の光景はグリフィスにとってトラウマ以外の何ものでもなかった。

「どうした? 来ないのか? ならさっさと帰ってほしいんだが」

「帰る?」

 グリフィスは手綱を強く強く握り締める。

「手ぶらでなんて帰れっか! 俺はお前も魔獣もぶっ殺して手柄を立てる!」

「そうかい」

 標は腰の鞘に収められているナイフの柄を握った。あの時は距離があり力を使わねば対応できなかったが対象が目の前にいる以上、標は大体に勝つ自信があった。今目の前にいる狩人には特に負ける気がしなかった。グリフィスが銃を抜き、標が一歩目を踏み出そうとした時、

「双方、そこまでだ」

 空気を支配する重低音が響いた。標は瞬時に両手を上げていた。

「俺は何もしてません!」

「は、はあ!? 何だってんだ!?」

 グリフィスは辺りを見回して突如降って来た声の正体を探し出す。闇を落とし込んだような漆黒の毛並み、長い尾、三角形の耳の後ろからは頭蓋を守るように前方へ太く鋭い角が伸び、森に満ちる緑より深い緑色の瞳が静かにグリフィスを見下ろしていた。

「ここは俺の領域内だ。俺の領域で好き勝手暴れられると思うなよ」

「……魔獣?」

「ふん。初めて見るか? 標。こんなのに構ってる暇はないぞ。明羽の元へ向かう」

「他にも侵入者がいるのか?」

「こっちだ。そいつが付いて来ても面倒だ。道は造らないぞ。はぐれるな」

「おっさんの足に付いてけって? 無茶言う」

「では置いていく」

「わー。待ってくれー」

「え? お、おい! 俺を無視するな!」

 黎が慣れた足取りで木の根の上を飛び越えて行く後を標が追って走り出していた。グリフィスはふたりに銃を向けるがふたりの姿は乱立する巨木にあっと言う間に見えなくなる。

「くそっ!」

 グリフィスは手綱を引いて見失ったふたりの向かった先へ動物の頭を向けた。

 黎は標が追って来ているかどうか確認することなく前だけを見て走り続ける。起伏や障害物の多い中を軽いフットワークで駆け抜ける。標は息を切らせながらその後を段々と遅れながら付いて行く。

「ひえぇ。手心なしだな。おっさん。そんなにヤバい状況なのか?」

「チッ。聖獣の足を羨ましいと思うことなどそうそうないというのに」

 聞こえてきた舌打ちに標はことの緊急性を認識する。

「おっさん! 俺のことは気にしないで先に行ってくれ!」

「貴様のことなど最初から気にしとらんわ!」

 そんな口論をしているとふたりが向かおうとしている先から空気が不自然に波打ち、後方へ抜けて行く。標と黎は足を止めていた。

「な、なんだ?」

「まずい!」

「おっさん?」

 黎が毛を逆立てる。

「止めなければ!!」

「おっさん!?」

 走り出した黎の後を標が慌てて追い掛ける。しかし、先を走る黎に標はその後ろ姿を見失わないように追い掛けるのが精一杯だった。


   +++


 その頃氷呂は村長に人化のコツを懇切丁寧に教えてもらっているというのに全く感覚を掴めない自分に酷く落ち込んでいた。今は村長が設けてくれた休憩時間。氷呂はしこたま落ち込んだら戻るつもりで広場の端に積まれた木箱の影に丸くなっていた。しおしおと垂れていた三角形の白い耳がピコンと立ち上がる。氷呂は顔を上げていた。

「明羽?」

 村長は井戸の側で謝花と話をしながら氷呂が戻ってくるのを待っていた。端の木箱の影に隠れているのは知っていたし、それなりに気にしていた筈なのだが、村長は不意に緩みなく張った糸が揺れる感覚を覚える。

「氷呂?」

 少し気が逸れただけなのに木箱の影に氷呂の姿はなく、村長は村の外に目を向けた。

「氷呂!?」


   +++


 少し時は遡る。大地から張り出した人の背を優に超える木の根の上に小太りの男が立っていた。小太りの男は望遠鏡を覗き込み興奮したように鼻息を荒くする。

「なんてことだなんてことだなんてことだ!」

 男が覗く望遠鏡のレンズに切り取られた丸の中には左背にのみ四枚の翼を背負う天使の姿があった。

「あの狩人の言っていたことは本当だったのか! 片羽四枚の天使! 間違いない間違いない見間違いじゃない! ひいひい爺さんの代から飼ってる天使を使ったのは正解だった! こんなところまで足を運んだのは無駄じゃなかった!」

 小太りの男は持参のボウガンに矢をつがえる。

「しかしあの狩人、強運なんだかそうじゃないんだか良く分からん男だな。ここに入るなり魔獣を探しに行くと姿を消したが天使はこちらにいるときたもんだ。まあいい。儂にとっては好都合だ。あの天使は儂ひとりの物だ!」


   +++


「皐奏……」

 皐奏は明羽の呼び声にただ美しく微笑んでいる。

「皐奏!」

 もうどれだけの言葉を掛けても皐奏の考えが変わらないことが分かって明羽は瞳に涙を浮かべる。

「皐奏」

 明羽が何度目かの皐奏の名を呼んで俯いた時、皐奏は明羽の向こうに刺すような光を見た。

「明羽!」

「え?」

 皐奏は明羽を思い切り横に付き飛ばしていた。緑色の地面に倒れ込んだ明羽は何が起こったのかと顔を上げる。明羽は皐奏の身体が仰向けに傾ぐのを見る。その胸から先程までなかった筈の銀色の棒が生えていて明羽は何が起こったのかすぐに理解することができなかった。明羽が銀色の棒が矢であることを理解した時、皐奏が地面に倒れ込む。

「皐奏!」

 明羽が皐奏に駆け寄る。

「皐奏? 皐奏!?」

 皐奏の胸から赤い液体が溢れ出す。緑の大地に見る見るうちに血溜まりが広がっていった。皐奏の真っ白な翼がじわじわと赤色に染まっていく。止まらない血に明羽は咄嗟に矢の刺さっている皐奏の胸を両手で押さえていた。明羽は両手を真っ赤に染めながら手の平から皐奏が浅くか細い呼吸を繰り返しているのを感じ取る。

「皐奏、皐奏っ。なにこれ? なにこれ!? 私どうすればいい!?」

「あ、はね……」

「皐奏!」

 皐奏の口から息が零れる。

「なに? なに!?」

 色が失われていく皐奏の唇が動く。「にげて」と皐奏は言った。

「こいつはしまった!」

 突如聞こえてきた芝居がかった声に明羽は顔を上げる。小太りの男が明羽に近付いて来ていた。

「誰?」

「興奮のあまり麻酔針を使うつもりが実弾をつがえてしまったよ。だがしかし観賞用の人形が実にいい働きをしてくれた! 命令通りに片羽四枚の天使を見つけ出し、私の失敗までカバーしてくれた。その上自ら廃棄処分されてくれるとは。手間が省けるというものだ。素晴らしい働きだ。褒めてやろう!」

「なに? 何言ってんの?」

「亜種は本当にバカだなあ」

 小太りの男が明羽の顔を覗き込む。

「新しいものが手に入ったら古いものは捨てるのが当然だろう?」

 明羽には目の前の男が何を言っているのかまるで理解できなかった。理解できなくて恐ろしくて身体が震えた。

「うん? 震えているのか? 怖がらなくていい。お前はこれから儂と共に屋敷へ帰るんだからな。綺麗な服を着て、毎日うまいものを食わせてやる。どうだ? 素晴らしいだろう! 長く長く可愛がってやるぞ。さあ、大人しく儂に付いて来い」

 明羽は動かない。動かない明羽に小太りの男は首を傾げた。

「どうした? これ以上ない好待遇だろう。専用の部屋だって用意してやるぞ」

 付いて来ない方がおかしいと言わんばかりの男の態度に明羽は動くことも言葉を発することもできなかった。小太りの男は更に明羽に近付こうとして足元に倒れる皐奏に気付く。

「邪魔だな」

 小太りの男に蹴られて皐奏の身体が地面を転がった。あまりのことに明羽は硬直する。皐奏の翼が形を失い赤と白に斑に染まった羽根が舞い散った。

「おお。これは美しい光景だ」

 小太りの男が何か言ったが明羽はうまく聞き取れなかった。それどころではなかったのだ。転がった皐奏の身体からだらりと腕が力なく垂れていた。明羽は自分の両の手の平を見下ろす。真っ赤だった血が赤黒く変色し始めていた。明羽はゆっくりと立ち上がる。

「おお。やっとその気になったか。亜種は頭の回転が遅くて困る。だが貴様は特別だ。許容してやろう。さあ、帰るぞ」

 明羽が小太りの男をまっすぐに見た。小太りの男が目を瞬く。

「金色?」

 緑色だった明羽の瞳は今、金色に燃え上がっていた。明羽を中心に空気がたわみ、波のように広がっていく。空気に押されて小太りの男は踏ん張り切れずに尻餅を付いた。小太りの男は自身の額をぺチンと叩く。

「いかんいかん。そうだった。片翼の天使と言えど四枚の翼を持つ天使だった。油断してはいけなかったな。いやしかし、素晴らしい力だ。これも儂の物とは、鼻が高い。まったくあの狩人は何をやっとるんだ。亜種との戦闘は奴らの専売特許だろうが。貴様も貴様だぞ。抵抗したって意味がないことがどうして分からんのか。貴様らが人間に勝てないことは今の世界が証明しているというのに」

 くどくどと文句を垂れながら立ち上がった小太りの男は見る。左側にのみ生える四枚の翼。そして、右側に鏡写しのように空気の歪みができているのを。

「四対の、翼?」

 小太りの男は喜びに口角を上げた。

「ハハハ……ハハハハハハ!! なんだそれは? 見せかけか? だが、素晴らしい! 見せかけでもいいな! 四対の翼を持つ天使など今まで誰も」

 小太りの男の身体が突然弾き飛ばされる。苔生した巨木の幹に叩き付けられた男の口から「ぐえ」と潰れたような声が洩れた。そして、重力に従って地面へと落ちる。敷き詰められた分厚い苔が衝撃の殆どを吸収する。だが、小太りの男は立ち上がれない。

「な、なんだ? あの天使がやったのか? あり得ないあり得ないあり得ない……。まさか本当に四対の翼の?」

 それが事実だった場合、翼の枚数によって力が変動する天使にとってそれがどれほどのものになるか計り知れないことに小太りの男はやっと気付く。地面にへばり付いたままぶつぶつと呟く小太りの男に明羽が一歩近づくと小太りの男は飛び起きた。

「ま、待ってくれ! 情報、情報をやる! 交換条件だ。それぐらい馬鹿な亜種でも分かるだろう! 狩人だ。狩人の情報をやる。多くの仲間を殺されて憎いだろう。その狩人がどこにいるか教えてやるから儂は助けてくれ!」

 明羽の金色の瞳が細められる。それが笑顔に見えたのか小太りの男は希望に顔を明るくした。その顔に向かって明羽が人差し指を向ける。その指先に空気が引き寄せられ風になり圧縮され、目に見える程に歪んでいく空気に小太りの男は顔は引き攣らせた。明羽は槍と化した空気を放つ。

「やめろ! 明羽!!」

 明羽の放った空気の前に黎が滑り込む。黎は額を前に出し角から衝撃波を放った。空気の槍を相殺することはできたが黎は前足を折った。

「これ程とは……。標!」

「へ、あ、おう!」

 息を整える間もなかったが標は黎の背後で這ってでも逃げようとしていた小太りの男の後ろ首に手刀を落とす。動かなくなった小太りの男を背後に黎は明羽に向き直る。

「明羽。ここは俺の森だ。俺の家だ。勝手に暴れることも破壊することも許さん」

「黎ちゃん」

「この男を殺しても何もならん。やめておけ」

「でも、黎ちゃん」

 明羽の顔が歪む。

「許せない! 許せないんだ!」

 明羽の感情に揺さぶられるように空気が波打ち、緑を帯びた黒髪が乱れ、左耳の側で涙型の緑色の石が揺れる。重くのしかかってくる風に標と黎がうめいた。

「おっさん。こんな時にあれなんだけどさ。俺、明羽の瞳が金色に見えるんだけど」

「安心しろ。俺にもそう見える」

「それから……それからさ。明羽は左側に四枚の翼を持つ片翼の天使だと思ってたんだけど。右側にも翼っぽいのが見えるのは俺の目がおかしいのかな?」

「安心しろ。俺にも見える」

 標は見間違いであってほしかったと言わんばかりに両手で顔を覆った。標は足元で伸びている男と明羽の向こうで倒れて動かない亜麻色の髪の女を見る。そして、冷静さを欠いている明羽へ目を向ける。標の見知っていた筈の少女は今やその様相を様変わりさせている。

「おっさん。明羽、止められるよな」

「分からん」

 黎の言葉に標は目を見張る。

「マジ?」

「標。貴様、俺より明羽と付き合いが長いだろう。弱点のひとつやふたつ、知らないか?」

「弱点?」

 標は瞬時に青い髪の少女の姿を思い浮かべる。

「あるにはあるが」

「が?」

「今ここにいない。呼びに行ってる時間はない」

「そうか」

 黎が覚悟を決めたように背筋を伸ばした。一歩前に出て意識を角に集中する。黒い毛並みが逆立ち金色に輝き始める。

「明羽! 怒りを治めてはくれないか! これは命令じゃない。お願いだ! 年寄りの願いを聞き届けてくれ!」

「ほら、明羽! おっさんが下手に出てるぞ。すっごく珍しいぞ!」

「標。貴様は少し黙っていろ」

「はい」

 標が一歩後ろに下がった。

「明羽。願いを聞き届けてもらえないなら俺は貴様を力づくで止めなけりゃならん。老体にはちと厳しい。どうだ?」

 明羽はすうっと黎に、と言うより黎の後ろに転がっている小太りの男に向かって人差し指を向けた。

「ぬん!」

 先手必勝と黎は衝撃波を放つ。それを明羽は片腕で払い飛ばした。

「弱すぎたか」

 黎が再び角に意識を集中する。集中した側から力は掻き消され黎は正面から風を受けて吹き飛ばされる。苔生した地面を何度か跳ねるが意識的に転がって勢いを殺し、黎は立ち上がる。

「くそっ。標! その男を連れてひとまず逃げろ!」

「おっさん……」

「迷ってる暇はないぞ、標!」

 標は男を担ぎ上げた。歩き出そうとしたら腕にヒヤリと何かが触れて標は目線を下ろす。そこには明羽が立っていた。一瞬で音もなく回り込んで来た明羽に標の額から冷や汗が流れる。

「標」

 金色の瞳に見つめられて標は唾を飲み込む。

「そいつ、私にちょうだい?」

「明羽……」

 震える標に明羽の目が座った。吹き飛ばされて標が黎の側に落ちる。

「いてえ……」

「標」

「おっさん。頼む。明羽を……。おっさんに賭けるしかないんだ。俺に今の明羽を止めるのは到底無理だ」

 黎は明羽を見る。明羽は未だに目を覚まさない小太りの男を見下ろしていた。明羽の時間だけゆっくりになってしまったかのようにその動きは至極ゆっくりで。傍から見ているともどかしいほどゆっくりと明羽は小太りの男へと手を伸ばす。

「ふ、ふふふ」

「おっさん?」

「仮に四対の翼を持つ天使か。まったく勝てる気がせんな。くっくっくっ」

「おっさん。若干諦めてるだろ」

「分かるか?」

 標が歯を食い縛る。

「そんな顔をするな。標。明羽は至って冷静だ」

「な、に?」

「俺達を排除するのに一切怪我がないように配慮してくれた。これだけ木々が乱立する中、苔の上を転がるように俺達を吹き飛ばしたんだ。至って冷静だろう」

「……」

「だからこそ恐ろしい。四対の翼か。本気だったらこんなものではないな」

 黎が寝そべりながらため息をつく。

「なあ。標。生き物というのは必ず死ぬものだ。その運命が見えたなら抗うことなどせず受け入れるのもありだと思わんか?」

「なに言ってんだよ。おっさん。明羽があの男を殺すのを止める必要はないって言いたいのかよ!」

「無駄に疲れることをしなくてもいいんじゃないかと思ってなあ」

「おっさん。頼むよ。頼むからそんなこと言わないでくれよ。俺は明羽に人殺しなんてさせたくない。誰かの為に怒ったり悲しんだりできる優しい子なんだ。なんか既に知らない人みたいだけど。まだ、間に合う。間に合う筈だ。連れ戻したい」

 黎は標を横目に見て呟く。

「あれが背負う役目も知らないで」

「え? なに、何か言ったか?」

「いいや」

「おっさんがやらないなら。俺がやる」

 標が立ち上がるのを見て黎は鼻から息を吐いた。

「貴様では歯が立たんと、自分でさっき言ってなかったか」

「ああ、言ったよ。俺以外にいないなら俺が行くしかないだろ」

「俺が行くと言ってるんだ」

 標が黎を見下ろすと黎が立ち上がる。

「おっさん」

「偶には弟子にいいところを見せてやるさ」

 標はこの魔獣から生きる術をすべて教わった。弟子と言うのもあながち間違ってはいないだろう。標は苦笑する。

「おっさんはいつだって格好いいよ」

「ふん」

「お願いしといて悪いが無理はしないでくれ」

「余計な世話だな」

「頼んだぜ。師匠」

「うぅ……」

 聞こえた呻き声に標と黎が見ると明羽の伸ばした手の先で小太りの男が目を覚ましたところだった。

「まずいな」

 黎が呟くのとほぼ同時に小太りの男が目の前に立つ明羽の姿に気付き悲鳴を上げた。立ち上がることができず尻を地面に着けたままズルズルと後退る。

「待て! 待て! わしが何をしたというんだ! あの天使を処分したことが気に入らなかったのか? 同族意識か? 分からんでもないがその怒りを俺に向けるのはお門違いもいいところだぞ! あの天使は儂の所有物だった。儂の物を儂がどうしようと自由だろう!」

「自由?」

 明羽が首を傾げる。

「お前のものになると皐奏が了承した? あなたに従うと皐奏が言った?」

「あーす?」

 小太りの男の尻上がりの声に明羽の眉がぴくりと動く。

「あ? ああ、あの天使の名前か? 確かそんな名だったか? ああ、そんなことはどうでもいい。天使の名などどうでもいい。とにかく儂は何も悪くないんだ。何故貴様にこんなに追い込まれなければならないのか!」

「私は……私は! お前のそういうところが許せないんだ! 人を、その心を踏みにじりやがって!」

 小太りの男は心底訳が分からないという顔をする。

「と、とにかく、儂は死にたくない。死にたくないんだ! 助けてくれ! 欲しいものがあるなら何でもくれてやる。叶えたい願いがあるなら叶えてやる。そうだ、儂にできないことなど何もない! どうだ?」

「ほ、しい、もの? ねがい……? ふふふ。あはは、あははははははははははははははは!」

 明羽を取り巻く風の勢いが増す。

「ひいいいぃいぃぃ」

 小太りの男が吹き飛ばされてはたまらないと近くの幹や石に手を伸ばす。近付こうとしていた黎がいや増す風に吹き飛ばされはしないが前に出るのも難しくなって顔をしかめた。

「ぐぅ……」

「明羽! 明羽!」

 標が必死に明羽の名を呼び続ける。けれど明羽には届かない。

「明羽……」

「明羽!」

 標は目を見開いた。聞こえた声はこの場に居る筈のない者の声だった。明羽を中心に標と黎の立ち位置とは真逆の位置に肩を大きく上下させ、息を乱し、額に大粒の汗を浮かせた青い髪の少女が立っていた。

「明羽」

 氷呂はその朝の澄んだ空を落とし込んだような青い瞳で明羽を見つめる。

「走って来たのか……」

 標はその偉業にただただそら恐ろしさを覚えながら感嘆の息を吐く。

「あの娘が、氷呂か」

「おっさん?」

「そうか。今尚……」

 一度だけ瞬きをしたかと思うと黎の身体から緊張が解ける。

「明羽」

 氷呂が手の平で額の汗を拭って一歩前に出る。明羽の風が僅かに凪ぐ。

「明羽。私の声。聞こえてるよね?」

 氷呂は早くも呼吸を整え始める。明羽は氷呂を見ない。見ないまま唇を震わせる。

「……氷呂」

「そこの娘! 良く分からんがよく来た! 儂を助けろ!」

「黙りなさい」

 燃え盛るような明羽とは裏腹に氷呂の声は重く冷え切っていた。地面に張り付き戯言を抜かした小太りの男はそのあまりの冷たさに閉口する。実際、周囲の気温が下がり始めていた。森の木々が放ち、空気中に満ちていた水分が氷呂の感情に答えるようにその温度を下げていく。急激な気温の変化に小太りの男が小さく震え、自身の両腕を抱いた。氷呂は明羽に近付く。

「明羽」

 氷呂が近付く程に明羽を中心に吹き荒んでいた風がゆっくりとその勢いを弱めていく。

「明羽」

 弱まった風の中、氷呂は俯いたまま顔を上げない明羽のその頭を抱き寄せる。氷呂の手首に巻かれた青い石と明羽の髪に飾られた緑色の石がぶつかって小さな音が鳴った。明羽は震える手で氷呂を抱き締め返す。

「私の、欲しいものなんて、微々たるものだ……」

 いつだってみんなが笑ってくれていたらいいと明羽は思う。

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