第5章・黒い獣(3)

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 昨夜は炒め物だったが今朝はスープになった野菜類と出来合いのパンを掻っ込んで明羽は立ち上がる。

「行ってきます!」

「おー。気を付けてな。あんまり遅くなるなよ」

「うん!」

 三人での朝食を終えて明羽は翼を広げる。顔を上げれば乱立していた筈の木々がまた整然と並んでいる箇所があった。

「ありがとう。黎ちゃん」

「ん」

 明羽は黎の作ってくれた道をまっすぐに飛んでいく。道の終わりに辿り着くとそこかしこに苔の剥がれた幹、地面が確認できて明羽は恥ずかしい気持ちになった。ここが昨日、皐奏と一緒にいた訓練場であるのは間違いない。明羽は皐奏の姿を探す。周りを見渡しても見つけられず、明羽は初めて皐奏の姿を見た時のことを思い出す。見上げれば程高い枝から明らかに自然物ではないひらひらとしたものが垂れ下がっていた。明羽は翼を広げて音もなく飛び上がる。枝の上を覗き込むと皐奏が幹に寄り掛かって静かな寝息を立てていた。

「美人だ」

 氷呂も大人になったこんな感じになるのだろうかと明羽は夢想する。軽くウェーブのかかった亜麻色の髪の皐奏と直毛の青色のロングヘアの氷呂。まるで違うのだが落ち着いている雰囲気に憧れてしまう。起こすのもすっかり忘れて明羽がその寝顔に見入っていると皐奏の瞳が薄らと開く。まだ覚醒していない瞳が明羽を捉えると皐奏は顔を綻ばせた。

うた

「うた?」

 皐奏が目を見開く。明羽の顔を両の眼にしっかりと捉えてから両膝を抱えた。うんともすんとも言わなくなった皐奏に明羽は聞いちゃまずいものだったかと話題を変える。

「ええっと。おはよう、皐奏。昨日、昨日の約束。練習しに来たんだ。今日も色々教えて? よろしくお願いします」

 皐奏が思い出したと言わんばかりに顔を上げた。

「そうだったわね。始めましょう」

 翼を広げて降りた皐奏の後を明羽も追って行く。「謡」とは人か物か、はたまた違う何かか、明羽は気にはなったがその究明は今は必要ないと結論付けて頭の片隅に置いておく。苔生した大地に皐奏は手の平にすっぽり収まる大きさの石を置いた。置かれた石と同じぐらいの大きさの石を手に明羽の元に戻ってくる。

「置いた石にこの石を投げてみて」

 明羽は言われた通りに振りかぶって石を投げる。勢いよくまっすぐに明羽の手から放たれた石は置いてあった石をも跳ね飛ばしてそれぞれ逆方向へ飛んでいく。

「……お見事」

 明羽は得意気にガッツポーズする。皐奏は飛んでいった石の代わりを新たに置いて今度は木片を明羽に差し出す。

「次はこれ」

 手の平大の軽い木片だった。ただ投げたら空気抵抗を受けてまともに飛ばないだろう。けれど明羽はそれを軽く手の中で回すと皐奏が新たに置いた石に向かってこともなげに投げ付ける。木片は吸い込まれるように地面に置かれた石に当たって跳ね返って落ちた。明羽はグッと親指を立てる。

「あなた。器用ね。でも、そうゆうことじゃないのよ?」

 無感動だった皐奏がニッコリと笑った。

「石は重さがあるから簡単にまっすぐ飛ぶでしょう。けど、木片はまっすぐ飛ばないからそれを風でうまく操って……て言いたかったんだけど。まあ、いいわ。とにかく風を使ってこの木片を石に向かって飛ばす」

 皐奏が胸の前に木片を翳すと風が吹いた。風を受けて木片がくるくると回りながら置かれた石の上へ飛んでいく。飛んでいった木片は音もなく石の上に乗っかった。

「すごい……」

「これは力を狙ったところに吹かせたり止まらせたりする練習。これができればほぼ自由自在だわ。でも、さすがに石の上に乗せるまではまだできないでしょうからとりあえずは当てることを目標にしましょう」

 場所を譲ってくれた皐奏の側に立ち、明羽は皐奏の真似をして木片を掲げた。風を呼び、木片から手を放す。木片は音もなく明羽の足元へ落ちた。

「あれ!?」

 慌てて足元の木片を拾い上げ、明羽は再度試みるが先程と同じことを何度も繰り返す。

「木片に狙って風を当てる練習から始めた方が良さそうね」

 明羽はガックリと肩を落とした。ちょうど良い高さの枝に木片をぶら下げ、明羽は木片に向かって風を送る練習を繰り返す。それができるようになってやっと木片を石へ飛ばす練習を始める。木片に風を当て、飛ばせるようにもなったのだからと明羽は自分を励まして練習を続ける。しかし、木片は本当に飛ぶようになっただけで地面に置かれた石に掠りもしない。試行錯誤するがなかなかうまく行かなくて必死に考えを巡らせる明羽を皐奏は黙って見つめ続ける。明羽の頭が煮詰まって考えがまとまらなくなって来た頃、黙っていた皐奏が動いた。

「少し休憩しましょう」

「でも」

「今の状態で練習を繰り返してもうまくなんて行く訳ないでしょう。気分転換。歩くわよ」

 さっさと歩き出した皐奏の後を明羽は緩慢に付いて行く。ふたりは暫く黙って森の中を歩く。

「深呼吸しなさい。身体の中の空気を全部入れ替えるの」

 振り返らずに言った皐奏に明羽は言われた通りにこれ以上は無理というぐらいに息を吐き、ゆっくりと新しい空気を吸い込む。胸を反らすと目に入って来た眩しい光に明羽は思わず息を呑む。大地の起伏が少ない場所だった。今まで見て来た巨木が乱立する場所とは違う、背だけはやたらと高い細めの木々が並ぶそこは少し先まで森の中を見通すことができた。遥か遠い頭上に枝葉が茂るのに変わりはないが差し込む光の細かさと数が違った。

「ふわ―――! 皐奏! 皐奏! すごい! 初めて森に入って来た時も光の帯がすごいと思ったけど、ここは光が雨みたい!」

「そうね」

 皐奏が微笑んでいた。明羽は皐奏の新たな一面に見惚れながら再び歩き始めたその背を追い掛ける。

「そういえば森の中って全然暑くないよね」

「太陽の熱を根こそぎ生い茂る葉が遮っているからかしらね」

「でも、夜は暖かいよね」

「そこまでは知らないわ」

 急につっけんどんな物言いになった皐奏に明羽は笑う。森の中は砂漠の埃っぽさもなく快適と言えた。ひとつ難点を上げるとしたら水分を多く含んだ空気が肌にまとわり付いて時折気になるぐらいか。暫く行くと再び巨木が乱立してくる。明羽の背丈程もある木の根を乗り越えた時だった。水の流れる音が聞こえてくる。皐奏は水の流れる音が聞こえる方へ歩いていく。明羽は皐奏を追い掛けて見えたものに口を半開きにした。

「水が、落ちて来てる」

 明羽と皐奏の背を優に超えて壁と化す木の根の上から滔々と水が流れ落ちてきていた。

「どっから来てるんだ? この水?」

「さあ」

 そして落ちてきた水は地面の苔の上を滑って明羽と皐奏の足元を流れて木々の合間に消えていく。

「どこ行っちゃうんだろう。なんだかもったいないな。泉とか湖みたいに溜まっててほしいんだけど」

「それは私も思うわね。どこまで行くのかと辿ってみたんだけど段々と先細りして行っていつの間にかなくなっているのよね。多分最終的に全部地中に染み込んで行ってるんでしょうけど」

「はあ」

「詳しく知りたいならあの魔獣に聞きなさい。あなたは知り合いなんでしょう」

「知り合いだけど。あれ、皐奏は黎ちゃん知ってるの?」

「遠目に一度見ただけ。追い出さないでいてくれて助かってるわ。何故かは分からないけど」

 黎は接触していないと言っていたがお互いの姿は見てたんだなと明羽は思う。

「ねえ。皐奏。今日は一緒に寝ない?」

「断るわ」

「ありゃ」

「何も音沙汰がないから居座らせてもらっているけれど魔獣からしてみれば不法侵入もいいところでしょう。今更挨拶になんて行けないし。怖いし」

 無表情で怖いという皐奏に明羽は思わず笑ってしまう。

「お腹に響く低い声はちょっと怖いよね」

「そうなの?」

「あ、そっか」

 言葉は交わしていないのだから皐奏が黎の声を知っている筈がなかった。

「でも、良い人だよ」

「あなたは危機感が無さすぎるわ」

 いつだったか盗賊と行動を共にしなくてはいけなくなった時にお頭に似たようなことを言われたなと明羽はその時のことを思い出す。あの時は緊張感だったかと。けれど思い出しただけだった。

「あなたに聞いたらすべての人を良い人って答えるんじゃないかしら」

「そんなことないよ」

「もっと警戒しなさい。目の前の、しかも出会って間もない相手にそうも懐くなんて」

 黎の話をしていたのにいつの間にか皐奏の話に取って代わっている。皐奏が自分を抱えるように腕を抱いた。

「皐奏?」

「休みなさい」

「休む?」

「座って、水を飲んで、頭を空っぽにするの」

「うん。そしたらまた練習だね」

「急いてるわね。そんなに根を詰めなくてもいいんじゃない?」

「うーん。標に、あ、標って言うのはここに連れて来てくれた人で。いつまでここにいるか聞きそびれちゃったんだよね。戻ったら聞くつもり。だから、いつまでここにいられるか分からないから。できる時にできるだけやっておきたいと思って」

「そうなの」

 明羽は昨日の寝る間際に考えていたことを思い出す。

「ねえ。皐奏。この森は黎ちゃんの家でずっとここにいる訳じゃないんだって。私は森のことを今まで聞いたことがなかった。こんな大きなものが砂漠のど真ん中にあったら人間が見つけてない筈がない。それなのに私は町にいた時、オアシスの話は聞いても森の話は聞いたことがなかった。もしかしたら知ってる人もいたかもしれないけど殆どの人間は森を知らないと思う。つまりそれって黎ちゃんが、魔獣が森ごと移動してるか魔獣がそこにいないと森もなくなっちゃうってことで。そしたら、皐奏はどこに行くのか、聞いてもいい?」

 皐奏は黙っている。

「ねえ。皐奏さえ良かったら私達と一緒に」

「町に住まないかって?」

 皐奏が自嘲気味に笑った。

「あ、いや。今は違うんだ。皐奏も聞いたことないかな。人間以外の種族だけが住む村の話」

 明羽の言葉に皐奏が目を見開いた。

「私達そこから来たんだ。だから、行くところがないんだったら皐奏も」

「ダメよ」

「皐奏?」

 低く固い声で拒否した皐奏は小さく震える。明羽が一歩近付こうとすると皐奏は同じだけ後退った。

「ダメよ。私は行かない」

 それは明確な拒絶だった。皐奏は震える手で自身の首に巻かれた首輪を掴む。忌々しそうにそれを握り込む皐奏に明羽はそれ以上踏み込めない。完全に拒絶されることだけは避けたいと明羽は口を噤む。苦しそうな皐奏を見つめる。あの首輪をどうにかできれば皐奏は頷いてくれるのだろうか? と明羽は考える。

「休憩は終わりよ。練習に戻りましょう」

 未だ小さく震えていたが気丈に言った皐奏に明羽は頷いた。練習場所に戻ると皐奏の指導に熱が入る。

「いい? 私自身が教えてもらったことを全部あなたに叩き込むから」

 その言葉から皐奏も誰かに教わってあそこまでの力の制御を会得したことが分かる。それが誰かを明羽に考える隙を与えることなく皐奏は始める。

「違う。違う。どうしてできないの?」

 聞こえてくる皐奏の言葉に明羽はずっとてんてこ舞いだった。そして、その瞬間は突然訪れる。

「今日はここまでにしましょう」

 地面に寝転がっていた明羽は全身を支配する倦怠感けんたいかんに何とかあらがって立ち上がった。

「……ありがとう、ございました」

「明日には仕上げに入るから」

「え!? もう!?」

「何? 明日には最後にしてあげるって言ってるのにもっとしごいてほしいの?」

 明羽は反射的に首を横に振っていた。けれどすぐに「しまった」と後悔する。この苦しまぎれに始まった関係性もこのまま終わってしまったら皐奏はもう二度と会ってくれないような気が明羽はしていた。何とか説得する時間を稼がなければと必死に頭を回す。けれど、時間切れだった。

「さあ。お迎えよ。帰りなさい」

「……黎ちゃん」

 木々の合間に道ができていた。明羽はチラと皐奏を見る。皐奏は感情の見えない瞳で明羽をジッと見返した。明羽はがっくりと肩を落として翼を広げる。飛び立ってから振り返りたい気持ちをグッと堪えて明羽はまっすぐに飛ぶ。


 標は夕食の準備を整えていた。

「そろそろ明羽が戻ってくるよな」

「俺の作った道を無視していなければな」

「あはは」

 標がフライパンを振るのを黎は木の根元で悠々寝そべりながら眺めていた。鼻先がピクピクと動く。

「腕を上げたな」

「今言うか!? 昨日から披露してるってのに」

「昨日はまぐれかもしれなかったからな。繰り返し見て今確信した」

「つまり、一応昨日からそう思ってはくれてたんだな」

「ふん」

「相変わらず慎重だなあ」

 標はフライパンを振るう。森の中にかぐわしい匂いが広がっていく。出来上がった物を皿に移し、手の平大の木の実を大き目の葉で覆うと焚火の中に投げ入れる。火の番をしながら明羽が戻ってくるのを待ちつつ、パチパチと薪が弾けるのを聞きながら標は空を覆う枝葉を見上げた。傾いてきた太陽にいち早く影が落ち始めていた。

「やっぱり、落ち着くんだよなあ」

「なんだ。何が言いたい?」

「ここに来る前に明羽と氷呂におっさんの話をしたんだよ。その時にさ、明羽に言われたんだよ。「偶に里帰りしてるの」って。俺の里はもう村だっていうのにさ」

「そうだな。ここに貴様の居場所は既にない」

 標は苦笑する。

「分かってるよ。分かってる。でも、ここに来て、おっさんに久しぶりに会って、この森の空気を懐かしいと思う。もう俺の家じゃなくても帰ることはなくても、ここが大事な場所であることに変わりはないんだなと」

「ふん」

「なあ、おっさん。これからも偶に立ち寄るぐらい、いいよな」

「勝手にしろ」

「あはは。あんがとな。おっさん」

「しーなー」

「お、戻って来たな。明羽。飯できてるぞ」

「ありがとう! でも、その前に!」

 一瞬ご飯に意識をすべて持って行かれそうだったが明羽は何とか自身を立て直す。

「ちょっと相談がね」

「相談?」

「標。明日、暇? 暇だよね? ここに来てから何にもやることないもんね」

「なかなか酷い言われようだ、が。おっさんに近況報告終わって日がな一日散歩に明け暮れていた身としては反論できないな」

 標の言葉に明羽は休憩中に皐奏に付いて行って辿り着いた場所を思い出す。それだけでも森の中は場所によって顔が違うことを目の当たりにしていた明羽は標に羨ましそうな顔を向けていた。

「いいな。楽しそう」

「楽しかったです」

「違う!」

 本題を思い出した明羽に標はビックリする。

「標! 明日、皐奏に会いに行かない?」

 標はすぐに返事をしなかった。

「標?」

「ああ、うん。まあ、帰る前に挨拶ぐらいしたいとは思ってたが。いいのか? もう見られても恥ずかしくないぐらい飛べるようになったのか?」

 明羽は凍り付いた。

「い、いや。でも、標、会いたがってたじゃん?」

「まあ、そうだが。なんかあったのか? 昨日の今日で意見が変わるなんて」

「うん。その。なんて言えばよいのか」

 皐奏の首にあるものをなんと説明すればいいのか分からなくて明羽は黙り込む。明羽がなかなか喋り出さないので標は先に伝えようと思っていたことを伝えることにする。

「明羽。今の感じだと明日もその皐奏さんに会いに行くんだよな」

「え? うん」

「言い忘れてたんだが当初の予定だと明日には帰るつもりだったんだ」

「え!?」

「でも、明羽は明日も約束があるようだし伝え忘れてた俺も悪いので、一日伸ばそうと思う」

「それでも、明日一日しかないじゃん」

「来るのに時間掛かってるし。あんまり帰るの遅くてもみんなに心配掛けるし」

「うぅ……」

「うん。それでだな。明羽。お前、夏芽に採集頼まれてなかったか?」

 明羽の目が点になる。次いで真っ青になった。

「わす、わす、忘れてた! 貰ったメモも車に置いたままだ。どうしようっ」

「明羽の用事が急ぎじゃないなら俺が代わりに採集してくるが」

 明羽は熟考する。皐奏のことは急ぎだ。急ぎなのだが、

「出る時には絶対挨拶したいと思ってる。その時じゃダメか?」

「頼んだ!」

 その一瞬にすべてを託すことに明羽は決めた。そうと決まって安心したのか明羽のお腹が鳴った。

「お腹空いた」

「できてるぞ」

「わーい」

 三人で標特製の夕食に舌鼓を打つ。お腹いっぱいになって明羽は黎に抱き付いた。黎は諦めたように一度だけ尻尾で苔の上を払う。標は火の始末をしながら明羽と黎を見た。

「お、いいな。俺もガキの頃はおっさんにくっついて丸くなって寝てたんだぜ」

「そうなんだ」

「おっさん温かいだろ」

「うん」

「毛並みいいだろう」

「うん!」

「ははは。昔から変わんねんだな」

「標も一緒に寝る?」

「いや。さすがにこの年になってくっついて寝るのは気色が悪い」

「同感だな」

 黎の尻尾が今度は大地を叩く。

「えー。でも、標ひとりになっちゃうよ」

「今朝既にその状態だったんだが? 目え覚ましてビックリした自分にビックリしたわ」

 標が毛布の準備をしていると黎が急に声を張る。

「フハハハハ! どうだ、標。若い娘に添われてる俺が羨ましいだろう」

「悪乗りしてんじゃねえよ」

「チッ」

「その舌打ちは何の舌打ちだよ」

 標が明羽に毛布を手渡す。明羽はそれを広げた。

「おやすみなさい」

「おう。おやすみ」

「ふん」

 辺りが静寂に包まれる。明羽は黎を枕に空がある筈の場所を見つめた。森の中で見る夜空は真っ暗闇だった。何物も呑み込んでしまいそうな、落ちて来そうな暗闇だった。砂漠の上ではあんなに明るく見えた星の光も高く生い茂る枝葉に遮られてここまで届かない。けれどその代わりと言わんばかりにヒカリゴケの放つ柔らかな光が森の中の夜を彩っていた。ふわふわとした光に明羽は瞬きを繰り返す。

「綺麗だね」

「そうだろう」

「でも、ちょっと眩しいかな」

「昨日は言わなかったことを」

 黎が文句を言っている間に光が少しばかり弱くなる。明羽は苦笑する。

「本当にこの森は黎ちゃんが作ってるんだね」

「ああ。そうだ」

「黎ちゃん。そのうち移動するんだよね?」

「貴様達が出て行ったらな」

「そんなすぐに?」

「ああ。そのつもりだ」

 明羽の脳裏に皐奏の姿が浮かぶ。

「黎ちゃんがいなくなったらこの森どうなるの?」

「管理者がいなくなった森は緩やかに枯れていく。だが、俺は解体していくからな。跡形も残らないぞ」

「そうなんだ」

 緩やかに下りて来た睡魔に明羽は目蓋を閉じた。


   +++


 日が昇り、朝食を終えると明羽は今日も元気に飛んでいく。

「よし。俺も行くか」

 標はまず夏芽のメモを取りに行く為に車を止めている場所へ向かって歩き出した。黎はふたりを見送ると自身で広げた森を今一度把握する為にその場で感覚を研ぎ澄ませる。そして、歩き出す。


「皐奏! おはよう!」

「……おはよう」

 昨日と同じ枝の上で皐奏は不機嫌そうな声を出した。

「あなた。朝から元気ね」

「うん! 元気だよ!」

 皐奏は膝を抱き寄せて顎を乗せる。

「はあ。お腹空いた」

 明羽はその事実に硬直する。

「そ、そういえば。皐奏。ご飯、ご飯どうしてたの?」

 自分ばかりお腹一杯になっていたかもしれない事実に明羽がショックを受けているとその慌てように皐奏は寝起きだったこともあって不覚にも吹き出してしまう。

「大丈夫よ。あなたが必死こいて練習してる間に適当にその辺から木の実を取って食べてたから。あなたは全然気付いてなかったけど。大した集中力だわ」

 不意打ちの皐奏の笑顔に明羽は胸を打たれる。ドキドキしている明羽に気付いて皐奏は我に返った。

「さあ。仕上げていきましょう」

「はい! よろしくお願いします! 急なことだけど明日帰ることになったので!」

「そう」

 皐奏が明らかにホッとした顔になった。明羽は言わない方が良かったかもしれないと不安になる。昨日と同じように緑の大地に石が置かれる。明羽は昨日と同じようにその石に向かって風に乗せた木片を飛ばす。木片は石の近くの地面で跳ね返ることが多くなってきていた。

「近付いて来てる近付いて来てる」

 明羽はブツブツ呟きながら同じ動きを繰り返す。石にこそ当たってはいないが手の中の木片に風を当てることは既に苦も無くできるようになっていることに明羽は気付いていない。それを知る皐奏は明羽が休憩してる間も見て学ばせようと石に向かって木片を飛ばした。皐奏が幾つも置いた石の上に同時に複数の木片を乗せるのを見た時はさすがの明羽も嫌な顔になった。

「私、本当に皐奏みたいにできるようになるのかな?」

「できるようになるわ。この私ができるようになったんだもの」

「まるで皐奏がダメダメだったみたいな言い方」

「ダメダメだったわよ。あなたは石に向かって木片を飛ばす時、どこを見ればいいか持ち前の運動神経も相まって知っていたでしょう。私はどこを見ればいいかも分からなかった。私はそこからだったのよ。そこから教わった」

「どこって、石……だよね」

「そう。それが私には分からなかった」

「そ、そうなんだ」

「馬鹿にしてるでしょう」

「してないよ!」

 明羽はにやけた口を慌てて隠した。皐奏がそっぽを向く。

「同じ片翼でも謡とはやっぱり違うわね。謡はいつだって優しかった。いつだって……」

 俯いた皐奏の顔を明羽はそっと覗き込む。

「皐奏?」

 皐奏の頬を一筋の涙が流れて皐奏はそれに自身で驚いて顔を隠した。そのまま明羽から離れる。

「いつまで休んでるつもり? 再開よ」

「でも、皐奏」

「明日には帰るんでしょう。今日中に当てられるぐらいにはなっておきたいでしょう」

「うん。皐奏が教えてくれてるんだ。皐奏が見てるところでできるようになっておきたい。でも、皐奏。泣いてる人が側に居るのに、それを放っておいて集中なんてできないよ」

「……泣いてないわ」

「声が震えてるよ? 肩も」

 明羽が皐奏に手を伸ばすと皐奏は勢いよく翼を広げた。明羽を拒絶するように。そのまま飛び立った皐奏を追って明羽も飛び立つ。

「皐奏!」

 皐奏は止まらない。

「すごい」

 泣いていても皐奏は巨木の間をすいすいと飛んでいく。速度の落ちない皐奏に明羽は森に来た日のことを思い出す。あの時は追い付けなかった。あの時は皐奏が木にぶつかった明羽に気付いて戻って来てくれた。

「私はもうあの時の私じゃないぞ。皐奏にみっちり教えてもらったんだから」

 明羽は速度を上げた。目の前に何度となく迫る幹に何度もヒヤッとしながら風の流れを意識して飛ぶ。飛び続ける。

「皐奏!」

 真後ろから聞こえた声に皐奏が驚いて振り返った。明羽が勢いのままに皐奏に飛び込んでいく。そのまま皐奏に明羽が抱き付くとバランスを崩したふたりは錐もみ状態になって地面に墜落した。

「ごめん」

 皐奏の頭を胸に抱えた格好で倒れたまま明羽は謝った。一歩間違えれば大惨事だったと苔まみれの明羽は身震いする。

「皐奏?」

 胸の中で身じろぎひとつしない皐奏に明羽は心配になって手の力を抜く。

「うぅ……」

 皐奏の口から嗚咽が漏れたかと思うと皐奏は肩を縮こまらせた。明羽が慌てて起き上がる。

「ごめん! 皐奏! ごめん。怖い思いさせてっ」

「違う……違う! 涙が止まらない。私に泣く資格なんてないのに!」

 声を押し殺して泣き続ける皐奏に明羽はどうしたらいいか分からなくて迷った末に抱き締めた。

「皐奏」

「う、うぅ! ああ!」

「わっ」

 皐奏は身体を起こしたかと思うとそのまま明羽に抱き付いた。

「謡! 謡! ああ、どうして! 私だけ!」

 皐奏の泣き叫ぶ声が森中に響き渡る。ぎゅうぎゅう抱き締められて苦しかったが明羽は身体を預けてくる皐奏の頭や背をそっと撫でた。皐奏が落ち着くまでずっとそうしていた。

「ふ……う……。ぐすっ」

「皐奏」

 短かったような長かったような時間が経って皐奏は明羽から離れた。ずっと胸にあった熱量が消えたことに明羽は少し寂しさを覚える。

「皐奏。だいじょ」

「明羽」

 こんな状況だが初めて皐奏に名前を呼ばれて明羽の胸は高鳴る。

「うん」

「逃げなさい」

「え」

 目尻を涙に赤く腫れさせた皐奏のその瞳は至って真剣だった。

「に、げる?」

「まだ、間に合う。間に合ってほしい」

 皐奏が明羽の腕を握る。

「明羽。あなたは薄々気付いていたでしょう。この首輪。この首輪はある人間が私に着けたもの。私は人間に飼われた天使なのよ」

 黒い首輪が機械であることは分かっていた。けれど皐奏の告白は明羽の予想だにしないものだった。明羽は南の町にいた頃学校で聞いたある話を思い出す。

『北の町では亜種を見世物にしている』

「……皐奏。皐奏は逃げてきたの?」

 皐奏は顔を強張こわばらせた。

「私、私は……」

 皐奏の顔が歪む。皐奏が身体を小刻みに震わせる。泣いていた時とは違う、筋肉に力を入れ過ぎて震えている。

「私は……」

「皐奏?」

「片方に四枚の翼を持つ天使を探してくるように命令されてここにいる」

「え」

「命令されてここにいるのよ!」

 皐奏が苦しそうに自身の肩を抱いた。

「待って……待って、皐奏。私がここに来たのは偶然だ。偶然だよ?」

「そう、偶然よ。私、私……命令されたけど。命令されてここまで来たけど。探している天使の居場所なんて命令した主人さえ知らなかった。道楽よ。そう、私の主人の道楽だわ。少し前にちまたを賑わした噂があった。結局、眉唾ものだったと消えた噂だったけど。けれど興味を持っていた主人は当事者の狩人を見つけ出すと、わざわざ屋敷に招いて話を聞いた。最初は話を聞いていただけだった。でも、その狩人があまりに必死に弁解するものだからその気になったのでしょうね。それに、主人は私に飽きてきていた。私は何代も前からあの家に飼われていた。当主が入れ替わるのを何度も見てきた。今の当主は生まれた時からいる私を見飽きていたんでしょう。狩人の話に夢を見たのよ。期待をしたの。宝の地図を見つけたような気分だったのだと思う。実際にあるか分からないものを探してみようと。たまったものじゃないわ! 天使同士なら何か引き合うものがあるかもしれないなんて、そんな理由で、それだけの理由で私は外に出された。ああ、でも、焦がれた自由だった! 久しぶりの空は美しくて、ずっと飛んでいたかった。飛ぶのに限界が来ると風を操って滑空を繰り返した。それにも限界が来た時にここに辿り着いたの。天使同士だからなんて馬鹿げた理由で違う天使を探すなんてできる訳がない。私はここで翼を休めながら帰りたくないけど帰らなければいけないことを鬱々と考えていた。そこにあなたがやって来てしまった」

 皐奏が顔を覆う。

「あなた達が森に入り込んで来た時、道に迷った人間が入り込んだのかと思った。でも、人間じゃないのはすぐに分かった。魔獣が現れて、あなた達が目的を持ってここに来たのが分かったから。明羽。あなたが私を見上げた時、とても驚いたのよ。驚いて思わず逃げたの。そしたら、あなた追い掛けて来て。驚いた。本当に驚いた。目の前の事実が恐ろしかった。どんな運命の悪戯だと。私は必死に逃げた。逃げたのに……あなた、あんまりにも飛ぶのが下手なんだもの」

「ご、ごめんなさい」

 皐奏がくすりと笑う。皐奏は笑うことができている自分に少し驚いた。皐奏が明羽を見ると明羽は鮮やかな緑色の瞳でまっすぐに皐奏を見つめ返す。

「ああ、本当にどうして、こんな子供だなんて思わなかった。私達は数を減らした。もう、きっと随分と長いこと新しい天使なんて生まれていない筈なのに」

「皐奏」

「明羽」

「あ、はい」

「この首輪は発信機なの。私の居場所は主人が把握している。だから私は逃げられない。それどころか帰りの遅い私を追い掛けて来ているかもしれない。だから、明羽。お願いだから今すぐ逃げて」

 明羽は両腕を広げると皐奏を抱き締めた。

「何をしているの」

「何してるんだろ」

「ふざけてる場合じゃないのよ」

「ふざけてないよ」

 明羽は皐奏の背中を撫でる。

「こんな状態の皐奏を置いて私だけ逃げられないよ」

「こんな?」

「鼻真っ赤だよ。皐奏」

 皐奏がくっついている明羽を引き剥がした。鼻を押さえて皐奏は明羽を睨む。怒っている皐奏が可愛くて明羽は笑った。

「前に水場まで散歩したよね。取り合えず顔洗う?」

 皐奏は不本意極まりないという顔をしながらも立ち上がった。

 明羽と皐奏の背より高く張る木の根から零れ落ちる水は冷たく、皐奏は火照った顔を洗う。明羽が皐奏に手拭いを差し出した。

「ちゃんと新しい奴だよ」

「別に気にしてないわ」

 皐奏が顔を拭きながら言った。

「どうしたら逃げてくれるのかしら……」

「皐奏のことが大好きだから無理かな」

「謡と同じようなこと言うのね」

「謡」

 皐奏は少し目線を落とす。水の流れる音だけが響く。

「謡は、明羽。あなたと同じ片翼の天使だった」

 明羽は目を見開く。けれど黙って皐奏の次の言葉を待つ。

「同じと言っても片方に一枚だけの典型的な片翼の天使だった。力も私の半分で呼べる風も弱くて。けど、私なんかよりずっと飛ぶのも風の使い方もうまかった。謡が言うには「力の弱い僕は技術を身に着けるしかなかった」って。私は謡に飛び方も力の使い方も教わった」

「皐奏を見てればその人がどれぐらいすごいのかすぐ分かるね」

 皐奏は笑う。少し寂しそうに。

「まだ、まだ少しは時間があるかしら? 明羽。聞いてくれる? 思えば随分遠くまで来たものだわ。昔の話になる。これは私の懺悔の話。聞いてくれる? 明羽」

 明羽は頷く。皐奏は語り出す。

「時代としては、そうね、はっきり何年前とはもう覚えていない。あの頃は人間に狩られてどの種族も数を減らしていた。天使の数もかなり減っていた。それでも集まった仲間で身を寄せ合って私達はひっそりと暮らしていた。何とか生きていた。何日も食べなくても平気と言えば平気だったけれどまったくの飲まず食わずという訳にはいかなかった。仲間で水を分け合って食べ物を分け合って生きていた。どこかで他の種族が殺されたと伝え聞けばその夜は不安で眠れなかった。でも、そうじゃない日はそれなりに幸せだった。そんなささやかな日々を人間達が一瞬でぶち壊した」

 皐奏がその時の光景を見るかのように遠くへ目を向けた。


   +++


「逃げろ!」

 情報収集によく外へ出掛けていた仲間だった。

「動物に乗って人間がこっちに来て、ぎゃあ!」

 仲間の胸を槍がつらぬいていた。

「案内ご苦労」

 角が生えた長毛に覆われた太い四本脚の動物に乗った男が仲間の身体から乱暴に槍を引き抜くと真っ赤な血飛沫が舞った。男が手綱を操り、動物が一歩足を踏み出すとそこにあった天使の亡骸を容易く踏みしだく。骨が砕ける音が響いて天使達はやっと悲鳴を上げて逃げ出した。

「皐奏! こっち!」

「謡!」

 幼い皐奏は同い年の少年に手を引かれるまま住処にしていたオアシスの中を駆け抜ける。

「謡! 空、空に逃げよう?」

「ダメだ! 上には翼を持った動物に乗った奴が待ち構えてる。もう……もう、何人もやられた!」

「そんな!? どうして? 私達の速さがあれば逃げられない筈ないのに!」

「奴らの持ってる武器が前より比べ物にならないぐらい強くなってる。空に逃げた仲間は飛び立ったところを撃ち落とされたんだ」

「そんな……」

 逃げ場のない絶望感に皐奏の足が鈍る。少年は皐奏を茂みの中に引っ張り込んだ。茂みの中でふたりは息を潜める。皐奏はこのまま見つからずにやり過ごせないかと夢想する。皐奏は自分が震えているのを自覚していた。少年が抱き締めてくれる。と、少年もまた震えていることに皐奏は気付く。この状況から生き残るのは不可能だと子供でも分かることだった。それでもふたりは抱き締め合ってお互いを支えにする。

「これで全部か?」

 聞こえてきた声にふたりはビクリと震えた。

「いいやー。まだ隠れてるのがいるだろう。そうだ! 最後に残った一匹は生かしてやろうぜ!」

「なんだそりゃ。生かしといてどうするんだよ?」

「飼う」

「馬鹿じゃねえの」

「いやいやいや。亜種の中でも天使は最近とみに数を減らしてるだろう? 将来的に持ってればステータスになると思うんだよなあ」

「本気でそう思うのか?」

「思うね! 賭けるか?」

「イヤだね。お前と賭けをして勝てた試しがない」

 声が皐奏と少年の上で止まったかと思うとふたりの上に光が降り注ぐ。茂みを掻き分けてふたりを見下ろす男がニッコリと笑う。

「見ーっけ!」

 茂みから引きずり出されたふたりは先程逃げ出した場所に連れ戻される。そこに広がる光景に皐奏は息を呑んだ。砂の上に染み込み切らない血だまりができていた。その中にあって尚、折れても、まだらに染まっても、太陽の光を受けて白く輝く翼が幾つも幾つも地面に倒れ伏していた。皐奏の目から涙が零れる。胃の辺りがチリチリと痛み気持ち悪さが込み上げてくる。

「皐奏。大丈夫?」

 皐奏は首を横に振る。大丈夫な訳がなかった。立っているのが自分でも不思議なぐらいだった。

「それで最後か」

 槍を持った男が睨みを利かす。

「多分そーでーす」

「多分?」

 恐らくここにいる人間達を統率している槍を持った男に凄まれて皐奏と少年を見つけた男は背筋を伸ばした。

「最後です」

「では殺せ」

「あーと。ちょっと待ってくださーい」

「なんだ?」

 皐奏と少年を見つけた男は自分の考えを得意気に話し出す。槍を持った男は最初こそ難色を示したが最終的には許可を出した。

「亜種を飼ってることが後にアドバンテージになる? 貴様の言っていることは良く分からんが、まあいい。好きにしろ。ただし、一匹だけだ」

「分かってますよー。ありがとうございまーす。さあて、どっちにしようかな?」

 それは生かす方のことか殺す方のことか。ふたりを見下ろす男が腰にぶら下げるホルスターから銃を引き抜いた。

「皐奏。ひとりは生き残れる」

 聞こえた呟きに皐奏が顔を上げると少年が笑っていた。

「謡? 何、何考えてるの?」

「皐奏。僕は君のことが大好きだから、何があっても生きていてほしいと思う」

 少年は走り出していた。叫び声を上げながら皐奏を残してその場から離れるように走り出していた。

「ありゃ。ちょいとー。追い掛けるのももう面倒だわ」

 男が少年の背に銃口を向ける。男が引き金を引くのと少年の背に翼が広がったのはほぼ同時だった。

「げっ。片翼じゃん。珍しいのにもったいねえ」

 男が銃をホルスターに仕舞う。

「君も片翼なんておいしい話はないよねえ?」

 男は皐奏の腹を容赦なく蹴りつけた。小さな皐奏の身体は簡単に吹き飛ばされ砂の上を転がった。男は立ち上がれない皐奏の髪を掴んで持ち上げる。

「で? どうなのよ?」

 皐奏は隠していた翼を広げた。

「あー。やっぱり普通の天使か。残念」

 男が手を放すと皐奏の頭が砂の上に落ちる。皐奏はもう起き上がる気力を失くしてしまっていた。皐奏は意識を手放す直前に見る。空気に舞い上がり視界を覆うように空に解ける金色の粒子を。

「あー。亜種はどの種族も死ぬと跡形も残らないんだよなー」

「天使の翼とかははく製にしてもいいかなとか思うんだけどな。残らねえからな」

 残念だ残念だという人間の言葉を聞きながら皐奏の意識は暗転した。


   +++


「それ以来、私はずっと、私を捕まえた男の一族に代々受け継がれる所有物なのよ」

 明羽は掛ける言葉を見つけられなくて黙り込んでしまう。謡の死は皐奏の所為じゃないと明羽は言いたかった。けれど、きっと皐奏はその言葉を受け入れないだろう。何も言えない自分に明羽が苛立っていると皐奏が口走る。

「ねえ。明羽。おかしいと思わない?」

「へ?」

「伝承よ。人間達が代々伝えている昔話」

「昔話」

「知ってるわよね。町にいたことがあるって言ってたものね。嫌でも聞いたことがある筈」

「うん。―――世界には七つの種族が存在している」

「そう。―――かつて、世界は混沌としていた」

「―――人間以外の六種族は長い長い、それは長い間争い続けていた」

「おかしいでしょう?」

「え」

「この伝承は人間に都合が良すぎる。私達は決して争ったりしない。争っているのは人間だけじゃない。あんなの全部嘘っぱちよ。人間なんて、大っ嫌い……」

 皐奏が悔しそうに悲しそうに自身の顔を覆った。涸れた筈の涙が再び押し寄せて来たようだった。明羽は何も言うことができなくて寄り添うことしかできなくて皐奏の肩を抱く。皐奏の小さな嗚咽を聞きながら明羽はオニャやキナやおじさん達、アサツキ先生、東の町近くの石のオアシスの白髭のじい様、お頭率いる盗賊「西の風」、南の町近くの湖のあるオアシスで夏芽を助けてくれた人達のことを思い出す。南の町から逃げ出す原因になった狩人のことは嫌いだけれど、明羽は概ね人間のことが好きだった。皐奏の肩が小さく震えている。

「明羽……明羽。お願い……。謡のようにならないで。逃げて……。お願いだから」

 皐奏の声を聞きながら明羽はひとつの決断を下す。

「皐奏。私と一緒に行こう!」

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