第5章(2)

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 明羽と標が村を出て数日が経っていた。氷呂は寝床の中で小さなため息をつく。白い三角形の耳が、細い髭がピクピクと動く。いつも側で泣いたり笑ったり、緑色のハッキリとした瞳の印象的な、時々後先考えず突っ走るところのある友人とこんなに離れるのは初めてで、

「寂しい」

 呟いて氷呂は違和感を覚えた。自分は本当に寂しいのだろうか? という疑問が頭をもたげる。どちらかと言うと、気持ちが落ち着かない、居心地が悪い、本当にここにいていいのだろうかという不安感に自分がいるべき場所はここではないような感覚に陥る。

「明羽」

 日がな一日寝床の中でも謝花が気に掛けてくれているので何不自由ない。氷呂は謝花に感謝しつつ目蓋を閉じた。再び目を開いた時、部屋の中は真っ暗だった。氷呂はゆっくり寝床から這い出る。いつもより高く感じる寝床。いつもより近い地面。氷呂は尻尾を振った。二本の足で立っている時にはない感覚。歩き出すと普段よりも自分を軽く感じる。玄関の戸を頭で押し開ける。冷たい空気に氷呂は身震いした。けれど次の瞬間にはケロッと外へ飛び出す。村の中は静かだった。寝静まっている村の中を氷呂は駆け抜ける。南の町では味わうことなどあり得なかった疾走感に氷呂は高揚する。一番古い記憶にある自分の姿さえ人の姿なのだ。ずっと明羽の側で人の姿で生きてきた。氷呂は村の中を走る。中央広場に近付くと人の気配に慌てて方向転換した。酒の入った村人達の笑い声が遠ざかって行く。村の入り口に辿り着く。不意に空から光が差し込んだ。嵐に切れ目が入りそこから星空が覗く世にも奇妙な光景に氷呂は目を瞬いた。ふと自分の足元に浮かんで来た影をまじまじと見つめてしまう。

「氷呂?」

 突然の声に氷呂は飛び上がった。慌てて物陰に飛び込む。

「すまない。驚かせてしまったね。氷呂? まだそこにいるかい?」

 柔らかな声色だった。けれど、氷呂は身体が委縮してしまって物陰から出ることができない。

「珍しいこともあるものだ。嵐に切れ目ができている。けど、こういう現象はすぐに消えてしまうのが常だ。そんな特別な一瞬を誰かと共有できるなんて素敵なことだと思わないかい? 氷呂。僕はそう思うよ」

 氷呂は空を見上げる。早くも僅かに見える星空は小さくなり始めていた。氷呂はそろっと物陰から顔を出す。そこにいたのは星の光に毛並みを銀色に輝かせたひとりの獣。氷呂は一歩一歩村長に近付いた。普段見上げることのない村長を見上げて、氷呂はその存在をいつも以上に大きく感じる。

「散歩日和だね」

「はい。なんだか不思議な気分です」

「僕は新鮮だなあ」

「新鮮、ですか?」

「ここには他にも純血の聖獣はいるけど常にこの姿でいるのは僕だけだからね。僕以外でこの姿の聖獣を目の前にするのが新鮮で。皆、人型でいることに慣れてしまっている。まあ、皆同じ姿の方が生活するのに便利だから分からなくもないのだけど。僕が生まれた頃はこの姿でいるのが当たり前だった。時代は変わったなあ」

「そうなんですねえ」

 氷呂はその時代を知る由もない。聖獣達が獣の姿で闊歩する光景など見たこともない。けれど不思議と羨望も感嘆もなく氷呂は村長の話をすんなりと受け入れた。

「興味なかったかな?」

「へ? いいえ!」

 氷呂は首を横に振ってから首を傾げた。興味がなかった訳ではない。知らない時代、見たことのない光景の話に質問のひとつも出てよいものなのに何ひとつ出てこないのは聞く必要がないからだ。では、何故そう思ったのか。氷呂は首を傾げる。何度も首を傾げる氷呂に村長は目を伏せる。

「明羽が早く帰ってくるといいね」

「はい!」

 氷呂の耳がピンと立った。

「まだ体調は戻りそうにないかい?」

「体調が悪い訳ではないんですけどね。まだ、もう少し掛かりそうです」

 立った耳が萎れた。

「謝花には手を煩わせてしまって」

「そうかい? 毎日楽しそうだけど」

「それは、嬉しいような嬉しくないような」

「あはは。さあ、もう夜も遅い。これから明け方にかけて更に冷え込んでくる。散歩はここまでにしよう」

 氷呂は真っ暗な部屋の中を思い出す。明羽とふたりでいる時は気にしたことなどない暗闇だった。けれど今、あそこに明羽はいない。

「……あの。村長」

「うん?」


 ふたりの白い獣は束の間の星明りも既にない村の中を歩く。

「広場の集まりももうお開きになってる頃だろうから、人に見られることはないと思うよ」

「すみません。わがまま言って」

「構わないよ」

 村長の言う通り、中央広場は静かになっていた。篝火も消されひんやりとした空気が石畳の上を滑る。

「さ、氷呂。どうぞ」

 広場に面する一軒の家の戸を村長が押し開ける。氷呂は戸の隙間にその身を滑り込ませた。

「お邪魔します」

 外気の遮断された家の中の温かな空気に筋肉の緊張が解れる。

「さ、囲炉裏の側で眠るといい。温かいよ」

 村長が示したのはいつも村長が座る村長の定位置だった。

「村長は?」

「僕は反対側で眠るよ」

 そう言って村長が寝ころんだのは囲炉裏の側であることには間違いないのだが玄関側で。氷呂はジッと村長を見つめてしまう。

「どうかしたかい?」

「いえ、あの。村長。そっち寒くないですか?」

 村長はちょっと考えてからニッコリと笑った。

「温かいよ」

「嘘ですよね」

「いや、嘘ではないよ」

「でも、こっち側よりは寒いですよね」

「……」

「村長! 私がそっちで眠るので村長はこちらへ!」

「いやいや。聞けないよ」

「私がわがまま言ってお邪魔してるんです。私がそっちで眠るのが当然かと」

「困ったな」

 村長も譲る気はなかったが氷呂も譲る気はなかった。

「さ、村長」

 氷呂が回り込んで村長の身体を全身を使って押そうとするがビクともしない。

「うーん!」

「どうしたものか」

 村長は背中を押されながら考えた末に立ち上がる。氷呂が軽く転ぶがホッとした面持ちで立ち上がるとその首根っこを村長は咥えた。

「あ、あれ? 村長」

 村長はいつもの定位置に着くと氷呂を下ろす。

「こんなおじさんと一緒に寝るのを我慢してもらわないといけないな」

 村長はこれで拒否されたらそれはそれでショックだなと思いながら、そうなったら氷呂には大人しくこちら側で寝てもらおうと思う。しかし、氷呂は目をぱちくりさせたかと思うとちょっと恥ずかしそうにしてからその場に寝転がった。

「村長がこちらで寝てくれるのなら!」

 村長は恐る恐る氷呂の側に寝転がる。自分で言っておいて何故自分の方が緊張しているのかと小さく息を吐く。氷呂が大きな欠伸をした。目をしぱしぱさせて急に眠そうな氷呂に村長は声を掛ける。

「おやすみ。氷呂」

「おやすみなさい。……お父様」

 氷呂のゆっくりと深い呼吸を聞きながら村長は少し遠くへ目を向ける。

「君のお父さんは今どこで何をしているんだろうね」

 ふと屋根の向こう、凍える程の空気に星々が煌めく夜空に意識を集中する。

「気のせいか」

 重ねた手の上に頤を乗せ、村長もまた目蓋を閉じた。


 朝が来て村の中は俄かに騒がしくなる。

「氷呂がいないの!」

 謝花の焦り、取り乱す声が聞こえてきて氷呂は目を覚ます。

「すまない。謝花。実は……」

 なんて村長の声も外から聞こえてきて氷呂は今自分がどこにいるかを思い出す。広場からの村長と謝花のやり取りを聞きながら氷呂は頭を抱えた。

「ごめん……。謝花」

 氷呂はそのまま暫く囲炉裏の側で小さくなっていた。


   +++


 氷呂が村でそんなことになっている頃、明羽は走る車の助手席でうんざりした顔になっていた。

「標。まだ着かない?」

「もうすぐだ。多分」

「多分かあ……。お尻が痛いんだけど」

「踏ん張りどころだぞ。もうすぐだからな。多分」

「私が踏ん張ったところでなあ」

 明羽はガックリと項垂れる。ここまで予想していたのなら言ってくれればいいのにと夏芽に対する恨み言が浮かんできて明羽は頭を振った。あくまで標に付いて行くことを決めたのは自分自身だと反省する。

「ふう」

 気分を変えようと外に目を向けるが時々現れるオアシス以外代わり映えのない景色。砂紋を眺めるのもこう何日も続くと飽きてしまっていた。話すことも既になく車内は静まり返る。エンジン音と舞い上げられる砂の音だけが響く。

「明羽! 明羽!」

「いたたたたたた! 何!?」

 何ともなく景色を見流していた明羽は突然背中をバシバシ叩かれて驚いた。振り返ればそこには前方に目を釘付けにして猟奇的に笑う標の横顔があった。目的地のハッキリとしない道中、延延と車を運転していたのは標だったと明羽は座っているだけの自分が不満たらたらであったことを反省する。

「ごめん。標。考えが足りなくって。私、黙ってるね」

「あ? 何言ってんだ? いいから見ろ!」

 標が指差す方を明羽は見る。地平線の上に黒い影が乗っていた。オアシスかと思ったがそうではないことはすぐに分かった。密度が違う。濃さが違う。その影は近付く程に存在感を主張する。近付く程に明羽はポカンと見上げる羽目になる。オアシスなど比べ物にならない。目の前に迫りくる緑が空を覆い尽くしていく。

「な、な、なん……」

「七日で着いてやったぞ、このヤロー!」

 誰に向かって言っているのか嬉しそうに悪態を付きながら標は笑っていた。尚も近付くがまだその足元にも辿り着かないそれに明羽は横の窓から身を乗り出して見る。巻き上がった砂に反射的に目を瞑るが再び目を開けた時、目の前に迫りくるのはオアシスに生えていたものともまるで違う、見たこともない巨木が群生する。標の運転で車はそれを回り込んでいく。空だけでなく太陽と月まで覆い隠し、影に入るとその暗さにそれの質量と重量が目に見えるようだった。太い幹と幹の間に隙間を見つけると明羽と標の乗る車は乗り入っていく。遠い遠い空に届いているのではという高さに長く伸びる枝と黒々と緑の濃い葉が折り重なり太陽の光が遮られるその中は昼だというのに涼しかった。

「明羽。首引っ込めとけ。あと歯食い縛っておけ」

「歯?」

 言った瞬間、ガッタンと車は何かを乗り越え、明羽は後頭部をぶつけた上に口の中を噛んだ。

「だから言ったじゃねえか」

「もっと、早く言ってほしかった……」

「口閉じて大人しく座っとけ」

 明羽は素直に応じる。応じている間もまたガッタンと車体が揺れた。オアシスでも木々の根が大地から飛び出していることはあったがそれとは比べ物にならない太さ、固さの根を幾つも乗り越えていく。僅かな水平を見つけると標は車のエンジンを切った。幹という幹に乱反射していたエンジン音が消え、耳が痛くなる程の静寂が降りる。明羽は車から降りられない。車が乗り込んだ時は暗く感じていた中も今はそんなこともなく、普段は見えない太陽の光が帯となって天上から降り注ぐ光景はあまりに幻想的だった。ただ、その光が浮かび上がらせる目の前に広がる景色はすべて緑色に覆い尽くされている。砂に覆われている筈の大地も乱立する木々の幹も緑に染め上げられている。見たことのない景色に明羽は足がすくんでいた。

「やっと……」

 運転席から呟かれた声に明羽は標を見る。

「やっと着いた―――――――――!!!」

 標が車のドアを蹴り開けた。ドアが軋み、車体が揺れ、明羽はビックリしてますます外に出られなくなる。開け放たれた運転席のドアの向こうで標が緑の上でゴロゴロとひとしきり寝返りを打つのを明羽は眺めた。標が大の字になって深呼吸するのを見て明羽はやっと助手席のドアに手を掛ける。ドアを開けて目に入って来た足元の真緑に明羽は分かっていたにも拘らずビックリする。光を受けている部分がキラキラとしていて覗き込むが判然としない。ブーツの爪先で突いてみる。地面を覆う緑は刺激されてもなんの反応も示さない。明羽は両足を下ろしてみた。靴底をしっかりと付け立ち上がる。砂とは違う柔らかさを靴底に感じ、息を吸い込んだ瞬間、明羽は咳き込んでいた。

「大丈夫か? 明羽」

「標。ごほっ。なんかここ、空気が重い」

 明羽は車を回り込んでいく。歩く度にふかふかと緑色の地面が弾んだ。

「空気中に含まれてる水分量が違うんだ。明羽は初めてだもんなあ。鼻でゆっくり息吸え」

 言われた通りに明羽はゆっくりと鼻で息を吸う。呼吸に慣れると明羽は自分を包む見慣れない環境に不安感よりも好奇心が強くなった。

「標、標。これ、これ何?」

「これ?」

 標は起き上がる。明羽は足元を指差していた。

「この足元の緑色! なんかふかふかしてるけど砂と違って逃げてかない。跳ね返してくる」

「それは苔だな」

「コケ?」

「苔」

「こけ」

「湿気の多い場所に生息する植物だよ」

「しっけ?」

「そこからかあ」

 標が腕を組んだ。

「さっきも言ったがこうゆう空気に水分量が多い状態のことを湿気ってるって言うんだが。まあ、水気のことだよ」

「みずけ」

「……。湖の側の空気感」

「あ、うん。似てるかも」

「あの感じがこの中では普通なんだ」

「え? え? でも、湖は水が側にあったから分かるけど、ここには水ないじゃん」

「木と苔から出てるんだよ」

「……。そうなんだ!」

「お前考えるのやめたな。まあでも、いんじゃね。俺も説明するのめんどいし」

「じゃあ、木の幹が緑色なのも苔が付いてるからなの?」

「そうだ。苔をがせば木の幹が見えるぞ」

「剥げるんだあ」

「幹の表面に生息してるだけだからなあ」

「なるほどー?」

 明羽の分かってるんだか分かってないんだか良く分からない返事に標は可笑しくて笑う。

「折角だから、もう少し掘り下げとくか」

「掘り下げる?」

「ここがオアシスと違うのは分かるよな」

「うん。全然、違うよね」

「こうゆう大きな木が密集して、日を遮り、空気中に多くの水分を含む場所のことをな。森って言うんだ」

「モリ」

「森。明羽はオアシスも知らなかったもんなあ」

「なん!?」

 明羽は口を尖らせる。

「確かに町を出るまではオアシスを見たこともなかったけど。あるっていうのは知ってたよ! でも、モリは聞いたこともなかったから! ビックリというかなんというか!」

「ま、そうだよな。森はオアシスと違って自然に出来上がるもんじゃない。知らないのも無理はない」

 自然に出来上がるものではないならそれを造っている人がいるということだ。明羽は当初の目的を思い出す。

「標。ここが目的地なんだよね」

「ああ。そうだ」

「私達、標の育ての親っていうおじさんに会いに来たんだよね」

「おうよ」

「常に移動してるっていう」

「おう」

 この壮大な森が移動するとは到底思えなかったがつまりはそう言うことなのだろう。

「その、おじさんって何者?」

 明羽が問うと標が嬉しそうにニッと笑った。その質問を待っていたと言わんばかりに。

「よくぞ聞いてくれた! おっさんはな」

 標が仰々ぎょうぎょうしく両腕を広げた瞬間、周囲の空気が急にシンと冷え込んだ、ように明羽には感じられた。背筋に一筋の汗が流れ明羽は小さく喉を鳴らす。自分に向けられたものが殺気だと気付いて明羽は周りを見渡す。

「ほう、動けるか」

 内耳を震わす重低音。明羽は極近くで囁かれた気がして思わず耳に触れるがその姿は見えない。木々の合間。根が盛り上がり小高くなった大地の上に一匹の黒い獣が立っていた。明羽と標が立っている場所に決して近くはない。そこからこちらを見下ろすのは全身を覆う闇を落とし込んだ漆黒の長毛、長い尾、三角形の耳の後ろから側面を回り込んで前方へ伸びる太く鋭い角、森に満ちる緑よりも深い緑色の瞳が明羽と標を見据えていた。威風堂々、何者にも支配されない力強さを象徴するような立ち姿はあまりに美しく、明羽は先程感じた恐怖心など忘れて見惚れていた。大の大人と変わらない体躯の黒い獣が目を細める。

「なんだ。貴様か」

 獣が明羽と標から顔を背け、ため息をつくと殺気が掻き消えた。先程、明羽の耳元で聞こえたように感じた声の主だった。

「おっさああああぁぁぁん!!」

 甲高い声に明羽は一瞬それが誰の声か分からなかった。標が獣に向かって駆け出したかと思うと獣は標の上を軽々と飛び越えて明羽の側に着地する。

「子供まで連れて来おって」

 獣が明羽を見上げて明羽は先程よりもずっと近くで其の深い緑色の瞳を見る。自分のものと似て非なるその色をまじまじと見返してしまう。獣もまた、何かを確かめるように明羽の瞳を見つめていた。

「天使か」

 明羽はビックリする。思わず自分の左背に手をやって翼を出していただろうかと確認してしまうが手は空虚を掴むばかりだった。

「さっすがおっさん! 分かるんだな」

「まあな」

 標が駆け戻って来る。

「おっさん。紹介する。明羽だ。村に来た初めての天使だ。で、明羽。この人が俺の育ての親のれい!」

 この人がと明羽は思う。

「俺の出生の話をしたらおっさんに会ってみたいって言ってくれたから連れて来たんだ。本当はもうひとり、氷呂っていう女の子も連れて来たかったんだがちょっとタイミング悪くてな」

「そうか。黎だ」

「明羽でぇっす」

 自己紹介は苦手だと明羽は落ち込む。明羽が居た堪れない気持ちでいると黎が小さく笑った。それは見間違いではないかと思ってしまいそうな微かな微笑みだったが明羽は見逃さない。

「よく来た。ゆっくりして行け」

 森の主たる威厳を持って森の奥へと歩き出した黎の背に向かって明羽は問いかける。

「あなたは聖獣……ではないよね?」

「俺は魔獣だ」

 感動に口を押さえた明羽を見て標は悪戯好きの子供のようにニッと笑った。黎の後を追って歩き出した標に明羽は高揚感冷めやらぬまま走り出そうとして、目の前に落ちてきた白い羽根に目を見張る。自分の見たものが信じられなくて明羽は反射的にそれを掴んでいた。手の中にあるそれを明羽はとてもよく見知っていた。見間違える筈もない。明羽は頭上を見上げる。比較的低い枝の上に真っ白な翼が見えた。それを背負うのは軽くウェーブのかかった亜麻色の髪、白い肌、髪と同じ色の瞳を持った女が明羽を見据えていた。そこにいたのは間違いなく対の翼を持った天使だった。明羽はポカンと口を半開きにして女を見上げる。目の前で起きた出来事が現実かどうかを頭で考える前に明羽は自身の翼を広げていた。左側にのみ生える四枚の翼。明羽が飛び立とうとすると枝の上の天使が翼を広げる。

「あ。ま、待って!」

 遠ざかって行く天使の姿に明羽は地面を蹴っていた。


   +++


 苔の上に下ろされた黒い前足が止まる。

「……接触したか」

「おっさん?」

 ふいと宙を見上げた黎に釣られるように標は辺りを見回す。

「あれ!? 明羽!?」

 標はこの時になって始めて明羽が付いて来ていないことに気が付いた。

「どこ行った? 探さねえと」

「落ち着け。この森の中にいる限りは俺が把握している」

「そ、そうか……」

 頷きはしたがまだ心配そうに辺りを見回す標に黎は欠伸でもしそうな程のんびりと言う。

「やれやれ。貴様もすっかり誰かの保護者という訳か。あのチビ助がデカくなったもんだ」

 黎の物言いに標は苦笑する。

「さすがにおっさんと一緒にいた頃と変わらない訳にはいかねえだろ」

「ふん。まあ、いい。あの緑っ子」

「明羽な」

「問題ない。少し前に迷い込んできた天使がいてな。お互いのことを認識したようだ」

「俺達以外にこの森に誰かいるのか? 珍しい。いつもなら一歩踏み入れられただけで問答無用で追い払ってるのに……って。天使!?」

「外周囲に留まり奥まで入って来なかったからな。何をするでもなかったし、放っておいたんだ」

「今っ! 今、天使って言ったか!?」

「言ったが?」

「ああ、もう! おっさんじゃなくてジジイって呼ぶぞ。俺達と感覚が違い過ぎる! ここに明羽以外の天使がいるってことだよな?」

「呼んでみろ。目を覚ました時には次の日の今ぐらいの時間だ。世界と一日ズレた生活を送らせてやる」

「ゴメンナサイ。イイスギマシタ」

「ふん」

「にしても、天使か。マジか。俺も会ってみたい」

「機会があったら会えるだろうよ」

「ええー。案内してくれないのかよー」

 黎は標を無視して歩き出す。

「明羽は会ってるってことだよな」

 標は想像する。明羽と見たこともないもうひとりの天使の姿を。村に悪魔は標以外にもいるので標は少なからず同族に会ったことがあった。明羽は正真正銘自分以外の天使に会うのは初めてだろう。天使水入らず。

「そうだな。今じゃないか」

 標は黎の後を追って歩き出した。


   +++


「待って!」

 明羽は必死に追い掛けていた。先を行く天使を見失わないように。けれど、密集した巨木に幾度も行く手を阻まれる。幹を避けた先に幹が現れ思うように飛べないもどかしさに明羽は憤る。先を行く天使は飛ぶのに慣れているのか乱立する巨木も難なく交わして飛んでいく。広がる距離に明羽は焦り始めていた。

「待って、待って。自分以外の天使に会うのは初めてなんだ」

 明羽は諦めきれずに速度を上げる。速度を落とさずに目の前の巨木を避ける。巨木の影から現れた巨木に明羽は勢いを殺し切れず、避け切れないと瞬時に判断を下す。明羽は頭を庇って背中から巨木の幹に激突した。

「うぐっ!」

 衝撃に息が詰まり、崩れたバランスを取り戻せる訳もなく明羽は落下する。地面に落ちた時の衝撃を想像して明羽は目をギュッと瞑ることしかできなかった。しかし、予想に反して衝撃は訪れず柔らかな感触に包まれる。ふわふわと浮いている感覚に明羽が恐る恐る目を開けると、目の前に見えたのは自分のではない腕だった。首を回すと亜麻色の瞳と目が合う。明羽を受け止めた天使は諦めたように小さなため息をついた。天使はゆっくりと明羽を抱えたまま降下する。地面に足が付くと明羽は天使の腕を掴んでその瞳を見つめた。

「初めまして!」

 天使が目を丸くする。

「あ、いや。先にありがとうか。ありがとう! あいててて」

 思い切り打った背中が痛んでも手を放さない明羽に天使は静かに眉を顰めた。天使が身を引いても明羽は放さない。

「私、明羽。あなたは?」

 天使が今度はハッキリと不快を前面に出して眉を顰める。明羽はそれに気付いていたが縋るように天使の腕を掴む指に力を込める。

「な、名前を……。それから、話……話を……」

 必死になり過ぎて明羽は頭の中をこんがらがらせる。ふと天使の着ている服が目に入った。そこそこ良い布ではあったがあちこち薄汚れ、解れ、手が行き届いていないのが見て取れる。顔は綺麗だが肌にも細かい傷が新しいものから古いものまであちらこちらに見え隠れする。その細い首には不釣り合いな、装飾品と言うにはゴテゴテとゴツイ黒い首輪が巻かれていた。明羽の目線に気付いた天使が明羽の手から逃れようと腕を引いた。明羽はそれでも放さない。

「ごめん。でも、あの。私、自分以外の天使に会ったの初めてで! 少し、本当に少しでいいから。話を……」

「初めて? あなた。自分以外の天使に会ったことがないの? 本当に?」

 綺麗な声が聞けて明羽はパアッと顔を輝かす。

「うん! そうなんだ。だから……」

「本当に子供なのね」

 天使の顔が憐みに満ちた顔になった。天使が再び明羽から身を引こうとする。明羽はその腕を何度でも掴み直す。

「あの、えっと。私に飛び方を教えて!」

「え」

「そう、あなたの言う通り私、子供なので!」

「これっぽっちも思ってないわよね」

 明羽は顔を真っ赤にする。黙り込んだ明羽に天使はため息をついた。今度こそ本当の本当に諦めたため息だった。

「分かったわ。だから、手を放して」

「……どっか行っちゃわない?」

「行かないわ」

 明羽に解放された腕を天使は摩る。

「ところで、連れに置いていかれてるけど。いいの?」

「あ!?」

 明羽は辺りをキョロキョロと見回してから何も言わずに標から離れてしまった事実に震える。震えながら言う。

「多分、大丈夫」

「そう」

「今はお姉さんを優先したい。どうせ、すぐには帰らないだろうし。後で説明すれば分かってくれる、筈。多分」

「そう」

 多分を連呼する明羽に天使は目を伏せ、翼を広げた。バランスの良い一対の真っ白な翼。

「……。私は片翼ではないからうまく教えられるとは思えないけど。ただ、力の使い方次第でうまく飛べるようになるのは間違いないから。コツが掴めるまで付き合ってあげるわ」

「お願いします!」

 天使を引き止める為に咄嗟に出たお願いだったが予想以上に身に付ければ役に立ちそうな予感に明羽は気を引き締める。怪我の功名とはきっとこういうことを言うのだろう。

「自分で風の流れを作るの。それに乗ればいいのよ」

「なるほど?」

「……」

「や、やってみるね!」

 明羽は天使から巨木の乱立する景色に目を移す。振り返ればそこに天使がいる。

「どこにも行かないでね!」

「分かってる。ほら、早く」

 明羽は集中する。風を呼べるようになったのは最近のことだ。自信はなかったが空気が流れ始める。明羽は翼を広げた。背中が痛む。顔を顰めた明羽に天使が気付かない筈もない。

「やめた方がいいんじゃない?」

 明羽は首を横に振った。狩人に翼を射抜かれた時に比べれば大したことのない痛みだった。明羽は地面を蹴る。

「あれ? あれれ? あれ!?」

 明羽は激突しそうになった幹を避け苔生した地面に落下した。

「風に乗ればいいってものじゃないのよ。言ったでしょう。流れを作るの。それに乗る。一方的に吹かせればいい訳じゃないのよ。あと、風が強すぎる」

 天使が腕を水平に上げるとそれが合図であるかのように柔らかな風が吹く。目に見えなくてもその風が木々の間を抜けて行くのが明羽にも分かった。天使が翼を広げたかと思うとその風に乗って飛んでいく。風の流れが変わったかと思うと天使が戻ってくる。

「こうよ。やってみなさい」

 天使に見惚れていた明羽は我に返って立ち上がる。自分もあんな風に飛びたいと翼を広げる。しかし、

「ギャ―――――!」

 何度も極太の幹に体当たりを食らわし、

「あーれー!?」

 何度も天高い枝葉に突っ込み、

「ぎゃふん!」

 何度も地面に激突した。

「痛い……」

「あなた丈夫ね」

 ひとえに一面柔らかな苔に覆われているお陰だろう。苔まみれになった明羽は軽く擦り剥いた膝を気にする。その膝を天使も覗き込む。

「あなた。力の使い方下手くそね」

 明羽は言葉もなく項垂れた。

「翼が四枚もあるから力の使い方もさぞ上手いのかと思ったら。強いばかりでコントロールができてない。力は強いに越したことはないと思ってたんだけど、そうでもないのかしら。飛ぶ練習の前に力のコントロールの仕方を覚えた方がいいわね」

「……はい」

「でも、今日はおしまい。連れのところに戻りなさい」

「へ!?」

 焦り不安そうな顔をする明羽に天使は付け加える。

「明日、続きをやりましょう」

 明羽の頬に朱が差した。

「うん!」

 無邪気に笑う明羽に釣られて天使の頬が緩む。それに気付いた天使が自分の口を押さえた。

「早く行きなさい」

「うん。また明日! おね」

 明羽はハッとする。

「私、まだお姉さんの名前聞いてない!」

 期待に満ちた目を向けられて天使は目を反らす。明羽は黙って待っている。根負けした天使が答える。

「……皐奏アース

「あーす!」

「呼び捨てなのね」

「だ、ダメかな?」

 不安そうな顔をする明羽を皐奏は横目に見る。

「呼び捨てでいいわ。思えば敬称付けて呼ばれたことなんてなかった」

「そうなんだ? 私のことも呼び捨てでいいからね。皐奏」

「……」

「明羽だよ」

「分かってるわよ」

 明羽はニコニコと笑う。

「またね。皐奏」

 何度も何度も振り返って去って行く明羽を皐奏は黙って見送った。その姿が見えなくなって皐奏は生い茂る枝葉に見えない空を見上げた。


 日が落ちてきたのか暗くなり始めた森の中を明羽はゆっくりと飛ぶ。

「……どこに行けばいいんだ?」

 今更その事実に気付いて明羽はその場で制止した。制止して後悔する。目に見える速さで闇が降りて来る光景に明羽は焦り始める。真っ暗闇にひとり取り残されるのを想像して肝が冷える。けれど、そこかしこからぼんやりと光が浮かび出し、見れば苔が疎らに光を発していた。森を覆う苔の中には発光する種類が混ざっているらしい。明羽はホッとする。すると水が流れるのに似た音が聞こえ始める。ジッとしていなければ聞こえないような微かな音。水の流れではなく辺りを覆い付くす植物達の気配だと察た明羽はその生命力に惚ける。

「すっごぉい……」

 感嘆したのも束の間、その中にあって自分だけが異質なものであることに気付いた明羽は急に恐怖心と不安感を覚えた。

「標」

 呟いた時、乱雑に生い茂っていた筈の巨木が整然と並ぶ箇所を見つける。そこだけ他と比べて光も多いようだった。

「道?」

 先程までなかったその道を明羽は恐る恐る進んで行く。道の先に苔の光ではない炎の橙色が見え、その側に標が立っていた。

「明羽」

「標!」

「遅いぞ」

「だから心配などせんでもいいと言っただろう」

「心配なんてしてねえし」

 巨木の根元に寝そべる黎と標のいる温かな空間に明羽は着地する。

「聞いて! 標、黎ちゃん!」

「れ……何!?」

 呼ばれ慣れない呼び方に黎が動揺するが明羽も標もそれを聞き流す。

「おう。なんだどうした?」

「私、初めて自分以外の天使に会ったよ! すごくいい人だった。明日も会いに行くんだ」

「そうかそうか。明羽が世話になってるなら俺も挨拶に行かないとな。で、なんで連れて来なかった?」

「へ? だって皐奏には皐奏の家が……あれ?」

 ここは黎の森。黎の家。

「皐奏は何でここにいるんだろう?」

 明羽は黎を見る。

「黎ちゃんは知ってる?」

「さあな。迷い込んだのか目的があるのか数日前から留まっている。存在を把握はしていたが接触はしてないんでな」

「そっか」

 明羽は森の中へ目を向ける。この場は火も在り、他と比べても明るかったが周囲はほんのりと発光する苔の光だけがぼんやりと見えるだけだった。足が外へ向いた明羽を黎が呼び止める。

「明日にしろ。ヒカリゴケがあるとはいえ森の中は暗い」

「連れてくるだけ」

「どこにいるか分かるのか?」

「む」

「俺には分かるぞ」

「え!? だったら教えてよ」

「イヤだ」

「え? ん?」

「何故俺の家に見ず知らずの者をわざわざ迎え入れねばならんのだ」

「私は?」

「貴様は標の連れて来た客人だからな」

「じゃあ、皐奏は私の客人として」

「ふん」

「鼻で笑ったあ!? 酷いや黎ちゃん!」

「あはは。魔獣は群れるのを嫌う種族だからな」

 標が大き目の葉に何かを包むとそれを焚火の中に投げ入れた。火掻き棒でそれの位置を整える。

「それにおっさんは人嫌いでもある」

「人嫌い」

「ま、ここではおっさんがルールだ。従おう」

「ええ~」

「その天使に動きがあったら教えてくれるさ。な、おっさん」

「まあ、それぐらいならしてやらんこともない」

「と、いう訳で。明羽はとりあえず飯を食え。そして寝ろ。その天使、皐奏さんとは明日も会う約束してるんだろ」

「うん」

「じゃ、すべてはまた明日だ。そして、明日になったら俺も一緒に」

「ダメ」

「あれ!?」

 明羽の拒否が予想外だったのか標が頓狂とんきょうな声を出した。

「え? ダメ? なんで?」

「私、皐奏に飛び方教えてもらってるんだ。まだ全然下手くそで、見られたものじゃないので」

「そ、そうか。でも、挨拶ぐらい」

「ダメ」

「そうか……」

 標が落ち込むと焚火の中からパリッと何かが割れる音が聞こえてくる。標が火掻き棒で焚火の中から真っ黒になった何かを取り出した。包んでいた真っ黒になった葉を火掻き棒で器用に剥がすと香ばしい香りが漂ってくる。明羽の腹が思い出したように鳴った。

「何これ?」

「この森で採れた果実だ。外皮に割れ目ができてるのが見えるだろ?」

「うん」

 先程パリッと聞こえた正体だろう。

「この割れ目から更に割って中身を食う。火傷に気を付けろ」

「うん。アチチ」

 手の平大の見慣れない果実に明羽が手こずっていると標が手伝ってくれる。中から現れた黄金色に感動しながら明羽は恐る恐るそれを口にした。外側同様アツアツの中身をハフハフと口の中で冷ます。ホロットロッフワッとした食感、口の中に広がる甘味。初めて食べた果実は大変な美味だった。

「こっちの小さい果実はそのまま食べられる。それから野菜類の炒めものな。冷めちまったから温め直す。ちょっと待ってろよ」

「うん」

「ここで採れる野菜類はアク抜きするのがコツでな」

「ほう」

 野菜と言う言葉に明羽は標のうんちくに目を輝かせて耳を傾けた。しかし、話を聞けば聞く程ここで採れる野菜を村で栽培するのは無理だと諦める結果になった。

 標が火の始末を終える。

「さ、寝るべ寝るべ。あー。久しぶりにゆっくり寝られる」

 標が明羽に向かって筒状に縛られた毛布を投げた。明羽がそれを受け取ると標は早くも苔の上に大の字に寝転がる。毛布一枚だけで寝転がる標に明羽は今になって気付く。真夜中だというのに森の中は温かい。明羽も毛布を広げて寝転がるとふかふかの苔の気持ち良さに驚いた。案の定標が早くも寝息を立て始め、明羽も釣られるように目蓋が重くなる。

「ああ、どれくらいここにいるのか標に聞きそびれちゃったな」

 うとうとしながら明羽は皐奏のことを考える。皐奏に帰る場所はあるのだろうかとか、どうしてここにいるのだろうかとか。不釣り合いなあの黒い首輪が明羽の脳裏を過ぎる。似た物を見たことがあると明羽は思った。南の町で明羽と氷呂を捕まえようとした狩人。あの狩人が腕に巻いていた機械。人間じゃない種族を見つけ出す為に人間が作り出した道具。明羽は目を開く。あの首輪は間違いなく機械だと確信する。明羽はゆっくりと起き上がった。のろのろと標同様寝入り始めている黎に近付いて明羽は抱き付いた。

「な、なんだ!?」

 驚いたもののしがみ付いて顔を埋めてくる明羽に黎は尻尾で軽く地面を打った。低い声が明羽の耳に響く。

「なんだ? どうした?」

「黎ちゃん。ここは黎ちゃんの家なんだよね」

「そうだ」

「全然想像できないけど、移動するんだよね?」

「そうだ」

「その時、皐奏は? どうなるんだろう?」

「……そうだな」

 黎に答えられないことは明羽にも分かっていた。それでも聞かずにはいられなかったのだ。明羽は黎の毛並みを撫でる。ツヤツヤとした黒い毛は滑らかで柔らかく、温かな体温がとても気持ち良い。明羽はそのまま目蓋を閉じる。自分の上で寝始めてしまった明羽に黎は不満そうに尻尾を振り続けた。

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