第5章・黒い獣(1)

 数日かけた道のりをまた数日かけて、明羽あはね氷呂ひろしな夏芽なつめの四人を乗せた車は走る。

「そういえばさ」

「うん?」

「標と夏芽さんは五対の翼の天使のこと知ってるの?」

「急だな」

「急に思い出した」

 真っ白な太陽の光に照らされて真っ白に輝く砂漠とどこまでも曇りのない深く真っ青な空に

 二分する世界。明羽は運転席に身を乗り出す。

「ふたりは見たことあるの?」

「興味津々だな」

「だって五対の翼でしょ?」

「村長から話を聞いたことがあるんだよ」

「天使の始祖。始まりの七人がひとり。姿を見せなくなって幾久しく。まだ、どこかに存在しているのかいないのかも誰にも分からない」

「その始まりの天使が五対の翼を持っていたって話なんだよ」

「それを人間の王子が子供の頃に見たって言うんだから。 信じられないわよ」

「キジさんも信じてないみたいだったよね」

「夏芽さん。大丈夫ですか?」

 氷呂が覗き込んだ助手席では夏芽はくったりとシートに身を預けていた。

「ありがとう。氷呂ちゃん。大丈夫よ。明羽ちゃんが話し掛けてくれて気も紛れるってもんだわ」

 オアシスの惨劇から数日、夏芽は少し体調を崩していた。最初こそ気丈に振る舞っていた夏芽だったが今やその気力も尽きかけていた。明羽は夏芽を早く休ませてあげたいと思う。

「標」

「もうすぐだ」

 地平線から見慣れた茶色い壁が競り上がってくる。村を取り巻く嵐は相も変わらずだった。

「……引き返す? どっかオアシスに」

「いや。今日の嵐は機嫌がいい」

「へ?」

 標はアクセルを踏み込んだ。

「えええ!?」

 一台の黒い車がそそり立つ茶色い壁に突っ込んで行く。明羽は酷いことになることを覚悟したがハンドルを取られている様子もそれほどなく、車体が揺れることもそこまでなかった。危うい感じのないまま車は村へと到着する。

「な。今日の嵐は機嫌がいい」

 明羽には標の言っていることがまるで理解できなかったが、どうやら標には長年の経験から突っ込んで行っていい嵐とそうではない嵐の区別が付いているらしかった。

「おかえり」

 白い獣が立っていた。車から降りて村長の姿を見た夏芽がその場に膝から崩れ落ちる。

「夏芽さん!?」

 いつもなら「大丈夫」という夏芽の声が聞こえない。立ち上がれない夏芽を標が抱え上げた。

「村長の顔見て安心したな」

 標はあっけらかんと言ったが標の腕の中の夏芽は色白の顔を蒼白にして浅い呼吸を繰り返していた。こんなに酷い状態だと思っていなかった明羽も氷呂も言葉を失う。標が夏芽を運んで行くのを呆然と見送ってしまう。

「明羽。氷呂」

「……村長」

「何を見てきたか教えてくれるかい?」

 夏芽の様子に動揺していた氷呂は村長の顔を見て瞳を潤ます。その心情は先程の夏芽と同じだろう。氷呂は村長の前に膝を付くとその首を抱き寄せて顔を埋めた。明羽はその横で小さく頷いた。ふたりの話を聞いた村長は深刻な表情でゆっくりと目を瞑った。それはまるで亡くなった者達の冥福を祈るように。四人が見てきた光景は村長の口から村人達へと伝えられる。村人達の反応は標や夏芽が懸念していた通り、元々人間という種族に恐れを抱いている者の多かった中、村人達はその恐怖心と不安感を大きくした。


 人気のない中央広場で明羽は空を見上げる。明羽はすっかり見慣れた薄茶色の空をぼんやりと眺めていた。手に触れるものがあって見れば氷呂が明羽の手を握っている。

「氷呂」

「明羽」

 氷呂に寄り添われながら明羽は胸中にある不安が渦巻いていた。あの時と同じようにこの日常もある日突然何の前触れもなく壊される日が来るのだろうか。

「氷呂。夏芽さん大丈夫かな?」

「村唯一のお医者さんがずっと寝込んでちゃ、困っちゃうよね」

「……うん」

「あとでお見舞いに行こう」

「うん」


 長い睫毛に縁取られた目蓋が震える。薄青色の瞳が開かれ何度も瞬きを繰り返す。

「私の部屋?」

「案外早く目、覚ましたな。どうだ? 気分は?」

 眠る夏芽を見下ろす標の瞳はいつも以上に優しく、その顔には安堵の色が見える。夏芽は眉間に皺を寄せた。

「最悪。許可なく私のエリアに入るなんて」

「今回ばっかりは大目に見て欲しいな。運び込まなくちゃいけなかったし、面倒見なけりゃいけなかったし」

「最悪……。倒れちゃうなんて」

「生きてる以上そうゆうこともあるさ。まだ顔色が悪い。もう暫く寝てた方がいいな。つーか、寝てろよ」

「あんたに指図されるなんて」

「じゃあ、明羽と氷呂と謝花じゃはなの意見も聞こう」

「なんでその三人!?」

「お前が寝てる間しょっちゅう様子を見に来てくれたからな」

「……」

「あと村長にお前が目を覚ましたことも伝えに行かないと」

「私、どれぐらい寝てた?」

「三日ってところか」

「そう。みんなに迷惑かけちゃったわね」

「そんなでもないさ。お前の教え方が上手いのか謝花が気張ってくれたし、村のみんなは元気だ」

「そう」

 夏芽がゆっくりと長く息を吐き出した。

「疲れたか?」

「少し。癪だけどあんたの言う通りもう少し寝てることにする。後は頼んだわ」

「頼まれた」

 笑う標を夏芽は見つめる。

「あんたは大丈夫なの?」

「俺は悪魔だぜ? 闇には滅法強い。知ってるだろ」

「そうだったわね。羨ましい」

 布団をたくし上げようとするがうまく力が入らないのか苦戦する夏芽に標が変わって布団を引き上げる。不満げながらも夏芽は寝る態勢に入った。

「おやすみ。姉ちゃん」

「こんな時ばっかり!」

「ははは」

 標は自分のエリアと夏芽のエリアを隔てるカーテンを引いた。


   +++


 あのオアシスの惨劇を目の当たりにしてから数日が経っていた。広場に子供達の笑い声が響く。村にはいつもの日常が戻ってきていた。

「明羽」

「氷呂」

「楽器の方はどう? 上達してる?」

「うわー。嫌なこと聞くね。氷呂はどうなの? 布の方は出来上がりそうなの?」

「そんなすぐできる訳ないでしょう。綿花の方はどんな感じ?」

「それこそすぐにはできないよ」

 ふたりは笑う。それは楽しそうに。けれど少し寂し気に。日常を取り戻してもふたりはなかなか気持ちを切り替えられないでいた。それだけ、あの出来事は衝撃的だった。


   +++


「よし!」

 女は髪を整え、はっきりとしたくびれの下に小さなポーチが幾つも付いたベルトを締める。仕舞いに白い尾を一振りした。


 男は机の上に広げていた地図を畳み、大振りのナイフや金槌、のみなどの工具類が吊るされたベルトを腰に巻いた。


 夏芽がカーテンを引き開けて、標がその姿に声を掛ける。

「もう大丈夫なのか?」

「ええ! もう大丈夫よ!」

「そうか」

 夏芽の張りのある声にホッと胸を撫で下ろした標が小さく笑う。そんな標に夏芽ははっきりと言う。

「なんか気持ち悪いわよ」

「酷ーな」


 明羽と氷呂は広場の外れで子供達の笑い声を聞く。今日の青空教室はお休みなのか謝花が子供達と広場を走り回っていた。謝花に疲労の色が見え始め、こちらに矛先が向く前に畑へ向かおうかと明羽が思い始めた時、その場にいた村人達の殆どが一斉に一点へと目を向けた。そうでない村人達が何事だと、その目の先に自分達も目を向ける。明羽もそちらに顔を向けるが広場に面する通りの一本があるだけだった。

「夏芽さん」

 氷呂の呟きに明羽はその道の先を見つめる。そして現れたのは色白の白い肌、青灰色の髪を揺らし、薄青色の瞳の美人。

「あ、みんな……」

「夏芽!」

「夏芽姉さま!」

「夏芽ちゃん!」

「夏芽姉!」

「夏芽さん!」

 村人達が夏芽に駆け寄っていく。その勢いに夏芽は驚きながらも皆に笑い掛けた。

「みんな。心配かけちゃってごめんね。でも、もう大丈夫。完・全・復・活よ!」

 歓声が上がった。そんな中、ぐずぐずとすすり泣く声が聞こが響く。謝花がぼろぼろと大粒の涙を零していた。垂れてきた鼻水を啜る。

「夏芽姉様あああああああぁぁぁぁ!」

「うん! 謝花ちゃん! ありがとね!」

 夏芽がハンカチを取り出し、謝花の鼻を拭くと今度は笑い声が上がる。村人みんなで謝花を励まし、そんな穏やかな光景を明羽と氷呂は並んで眺めていた。

「夏芽さん。良かった」

「そうだね。これで本当に、元通り」

 明羽と氷呂はお互いの手を握り合う。そんなふたりに近付く影があった。

「明羽。氷呂」

「標」

「ふたりしてこんなところでどうした。行かなくていいのか」

「うーん。この光景を見ていたい」

「そうか」

「そういう標さんは行かないんですか?」

「俺は別にいいだろ。毎日顔見てたし」

「それはそうだろうけど」

 暫く三人で皆に囲まれる元気な夏芽を眺め、緩やかに村人達が捌け始めると標は腰に手を当てた。

「さて、明羽。氷呂」

「ん?」

「はい」

「色々あって遅くなっちまったが約束の時だ」

「約束? なんだっけ」

「えぇ……」

「私は覚えてますよ」

「さすが、氷呂」

「冗談だよ。私だって覚えてるよ」

 明羽が標を見上げる。

「準備できたの?」

「おう。おっさんに会いに行こうぜ」

 親指を立てる標に明羽の目がキラキラと輝く。

「氷呂! 氷呂?」

 喜色満面の明羽に対して氷呂は明らかに乗り気ではない顔になっていた。

「えーと。夏芽も回復したし。今から出るつもりだったんだが……」

 勢いの削がれた標の声に氷呂が申し訳なさそうに眉尻を下げた。黙り込んでしまう氷呂に標は考える。あんなことがあった後だし、そんな気分になれないのだろうかと。けれど、いつまでも囚われてる訳にはいかないだろうと標はもう一度誘いをかけようと口を開きかけるがそれより先に明羽が言葉を発する。

「もしかして、そんな感じがするの?」

 氷呂はチラと明羽の顔を見て小さく頷いた。なんだかもじもじし始めた氷呂を珍しそうに標は見る。その目に気付いた氷呂が明羽の背に隠れた。標は目を丸くした。氷呂のこんな反応は見るのは初めてだったからだ。

「これは一体」

「ごめん。標。日を改められないかな?」

「え?」

 標が驚いて見ると明羽が困ったように苦笑する。

「無理かな?」

「あー。悪い。今を逃すとおっさんの移動予測地点を立てるのが今以上に難しくなる。今回随分久しぶりだし」

「そっかー。残念」

 既に諦めモードの明羽に標は問わずにはいられない。

「理由を聞いてもいいか?」

「えーと。なんと言えはいいか」

 明羽はチラと背後を気にする。次の言葉がなかなか出てこない。

「一応確認な。ふたり共行きたくなくなった訳じゃないんだよな?」

「もちろん! すごく行きたいよ!」

「私も行きたいです……」

「でも」

 明羽は氷呂を気にする。標は頭を掻いた。

「しょーがない。今回は俺ひとりで行くか」

 標の言葉に明羽は未練たらたらの顔になった。標は内心どうしたらいいんだと腕を組む。氷呂が明羽の背後から服を引っ張る。

「明羽。明羽だけでも行ってきなよ」

「え、でも。氷呂ひとりになっちゃうよ」

「謝花がいる。謝花なら、私、多分大丈夫」

「謝花か。確かに謝花なら事情を話せば分かってくれそう」

「だから、明羽。私の分まで楽しんできて。私の分まで挨拶してきてほしい」

 明羽は少し逡巡した。けれど、氷呂が背中を押してくれている。

「分かった。行ってくる」

「本当に行く気なのねー」

 声に顔を上げれば夏芽が立っていた。堂々とした夏芽の立ち姿を間近に見て明羽と氷呂はここでやっと夏芽の全快を実感する。

「夏芽さん……」

「夏芽さんだあ」

「私よ。ま、私のことはもういいのよ。それより、氷呂ちゃんよ」

「え……」

 氷呂の顔が引き攣った。夏芽が明羽の背後に隠れる氷呂を覗き込む。

「大丈夫? どこか具合悪いの?」

「い、いえ……。あの……」

 ぐいぐい来る夏芽に氷呂がしどろもどろになる。夏芽の目から逃れようと氷呂が明羽の服を引っ張って方向転換するとその先には標が立っている。双方から見られて明羽の背だけでは隠れ切れないことに氷呂は追い込まれた。恐らく無意識だろう氷呂に服をぐいぐい引っ張られて明羽は標と夏芽に向かって両手を上げた。

「ごめん。夏芽さん。氷呂のこれは体調が悪いとかじゃなくて……」

 瞬間、氷呂の頭に白い三角形の耳がピョンと生える。次いでスカートの下から現れるふさふさの白い尾。氷呂は身をひるがえしていた。

「失礼します!」

 明羽の背から飛び出した氷呂は一歩を踏み出した次の瞬間には子供ほどの大きさの真っ白な毛に覆われた四つ足の獣に変貌していた。電光石火さながらに広場を駆け抜け、その姿を消す。

「謝花!」

「へ!? ハイ!?」

「追い掛けて! 私達の家、寝床に潜り込んでる筈だから!」

「わ、分かった!」

 明羽に叫ばれて謝花は走り出す。明らかに状況を理解できていないまま謝花は白い毛玉が消えた方へ走っていく。一瞬の出来事にその場にいた全員が呆然と立ち尽くした。

「……なにごと? 何が起こったの?」

「今の氷呂だよな?」

「そうだよ。もー。ふたりがプレッシャー掛けるから」

「説明してちょうだい」

 夏芽の不満そうな顔に明羽は説明する。

「うん。氷呂って純血の聖獣だけどいつも人型でしょう?」

「純血の聖獣だからこそあれだけ完璧な人化なのよね。え、今それが悪いことのように言わなかった? 明羽ちゃん」

「えーと」

 明羽は言葉を選ぶ。

「でも、聖獣の本来の姿は獣の姿な訳で」

「うん」

「でも氷呂は本当にいっつもあの姿なんだ。それこそ寝る時も」

「そうなのね」

「だからその反動なのか突然人化が解けちゃう時期が来るんだ。自分の意思に関わらず。ある程度の期間を空けて周期的に」

「周期的に」

「夏芽さん。そこまで興味持たれると怖いんだけど」

「おっと。ごめんなさい。ちょっと研究欲が」

 前のめりだった上半身を元に戻した夏芽に明羽は元気になったのは嬉しいが。と、ちょっと脱力する。

「その時期が近付くと氷呂にはなんとなく分かるんだって。本来の姿になっちゃえばそれはそれで安定するんだけどそうなる前はちょっとした気持ちの揺らぎで変身しちゃいそうになる不安定な状態だから、この時の氷呂にストレスを与えるのはダメなんだよ。静かにしてればもう少し大丈夫だったんだろうけど標と夏芽さんが刺激したから早まったんだと思う」

「そうだったの。でも、南の町にいた頃はともかくここでは隠す必要ないでしょうに」

「そうだね。その油断もあったんだと思う」

「ん? どうゆうこと?」

「南の町では絶対にバレちゃまずいでしょ。だから、少しでもその気配があったらすぐに引き籠ってたんだ。でも、ここならって、ね。でも、いつも人型で人前に出てる氷呂は見られ慣れてない獣の姿を見られるのはやっぱり恥ずかしかったみたい。ちなみに引き籠ってるっていたのは言葉通りで。おばちゃん達に見られるのは恥ずかしいからって自分の部屋から一切出て来なかったんだ。その間は私が、私だけが氷呂の側に近付けてたんだ」

 明羽はその特別が失われることに今更になって気付く。

「謝花に、取られる……」

「自分で追い掛けてもらっといて」

「明羽も追い掛けた方がいいんじゃないか?」

 呆れる標と夏芽に明羽は大いに悩んでから首を横に振った。

「氷呂が背中を押してくれた。私は行かなくちゃ」

「後悔はするなよ」

「ううぅ……。ない!」

「よし! 二言はなしだ! 氷呂の分まで気張っていくぞ!」

「あい!」

 標の鼓舞する声に明羽は精一杯の返事をした。


 謝花はそっと明羽と氷呂の家の戸を開く。日のある内は開けられている筈の明り取りの窓が閉められていて部屋の中は薄暗い。謝花は自然と忍び足になった。小さく膨らみのある寝床へと近付いていく。

「氷呂?」

「……謝花?」

 聞き漏らしてしまいそうな小さな声に謝花はそっと掛布をめくってその中を覗き込む。産毛うぶげのように柔らかな白い毛に覆われた朝の空のように澄んだ青色の瞳が謝花を恐る恐る見返していた。

「氷呂。時々思い出したように学校を何日か休んでたのって、こういうことだったんだね」

 優しい謝花の笑顔に氷呂は恥ずかしそうに目を伏せた。


「ああっ。あの氷呂の超かわゆい姿は今までずっと私だけのものだったのにっ」

「未練たらたらじゃねーか」

 村の入り口に止まっている車の側で嘆く明羽に標は目も呉れずに最後の積み込みを進める。

「後悔じゃないからいいんだよ」

 明羽はそれを気持ち手伝っていた。

「明羽ちゃーん」

「夏芽さん」

 村の方から夏芽が駆けてくる。その手に小さな紙切れを握って。

「はい。これ。約束の植物メモ」

 ああ、そうだったと明羽はその小さな紙を受け取った。その紙には見事に呪文のようにずらりと字だけが並んでいた。

「夏芽さん。これ私分かんない」

「だと思ってー」

 びらりと夏芽は短冊を大きくしたような紙を広げて見せた。そこには薬草のことが分からない明羽にも分かるように図解と特徴が事細ことこまかに書き込まれていた。

「おお」

「明羽ちゃんの意志は固いようなので。私も満を持してこれを託すわ」

 くるくると丸められたそれを明羽は受け取る。

「最初からそっちを渡せばいいじゃないか」

「うるさいわよ。標。さて、氷呂ちゃんのことを任された謝花ちゃんのことは任せて。気を付けていってらっしゃい」

「あはは。ありがとう。夏芽さん」

 夏芽が明羽の肩をがっしりと掴む。

「健闘を祈るわ」

「健闘?」

「そろそろ出発かい?」

 現れた村長に夏芽が少し恥ずかしそうに俯く。帰って来て早々村長の顔を見て倒れてしまったことを夏芽は気にしている。

「夏芽。すっかり大丈夫みたいだね」

「お恥ずかしいところをお見せしました」

「何を言ってるんだか。無事で何よりだよ」

 村長が明羽と標に向き直る。

「気を付けて。れいによろしく伝えておいてくれ」

「村長が会いたがってたこと。いつも通り伝えておきます」

「いや、そんなことは伝え……なくても。ぬうん……」

 ハッキリ否定しない村長に標は笑う。明羽は村長の言葉を繰り返す。

「れい」

「おっさんの名前だな」

「黎って言うんだ」

「呼び捨てかよ。怖いもの知らずだな」

「……まずい?」

 明羽は夏芽の時のことを思い出す。しかし、標は笑う。

「本人を前に呼んでみればいい」

「標。面白がってるでしょう」

「まあな」

 明羽は悩んだ末に本人を目の前にした時に決めようと考えるのを放棄した。

「よし。これで準備は万端だな。明羽。車に乗れ! 出発だ!」

「うん!」

 明羽は意気揚々としっかりと幌の張られた車の助手席のドアを開ける。乗り込もうとして夏芽の顔が視界の隅に映った。その顔があわれみに満ちているように見えて、明羽は確かめるように夏芽を振り返っていた。はっきりと夏芽の顔を捉えた結果見間違いなどではなく、夏芽は間違いなく明羽に憐みに満ちた目を向けていた。

「い、いってきます?」

「いってらっしゃい。幸運を祈ってるわ」

 健闘と幸運を祈られ憐みを染み込ませた笑顔を向けてくる夏芽に明羽は手を振った。明羽は気を引き締め直して助手席に乗り込む。心臓がドキドキと鳴っていたがそれが今となっては不安からなのか期待からなのか明羽には分からない。車が発進すれば後戻りはできない。すると気持ちは不思議と落ち着いてくるのだった。砂嵐の中に消えていく車を見送りながら夏芽は口元を押さえる。

「本当に行っちゃったわ」

「お遣い頼んでおいてそれはないんじゃないかい?」

「あら、見てたんですか? 村長」

「ここに来る道中聞こえて来てね。メモ、というかもうあれはリストだったね。それを渡しているところは見た」

「心配してるのは本当ですよ」

「分かってるよ」

 村長は苦笑する。

「ああ。それにしても、僕も黎に会いたかったなあ」

「大好きですもんね」

「いや、それは、うん、まあ」

 否定しようとして否定しきれない歯切れの悪い村長に夏芽は笑う。

「ところで氷呂はどうしたんだい? 一緒に行くって言ってなかったっけ?」

「それがですね」

 夏芽がかくかくしかじか先程あったことを説明する。

「そんなことになってたのか。広場の方が騒がしいとは思ってたが。僕が村の中の見回りをしている最中に」

「今は謝花ちゃんが様子を見てます。氷呂ちゃんの意思を尊重して感覚が元に戻るまではそっとしておいてあげたいんですけど」

「分かった。村のみんなには僕からも伝えておこう」

「ありがとうございます。村長の言うことならみんな間違いなく聞いてくれると思うので」

「キジさんの時はあんまり効果なかったけどね」

 自嘲気味に言う村長の目が死んでいる。夏芽は腰に手を当てる。

「あれは子供達が人間を肝試しに利用しちゃっただけです。今回は氷呂ちゃんだしみんな間違いなく聞いてくれます」

「それはつまり別に僕が言わなくても」

「聞いてくれます」

 夏芽の強引な物言いに村長は苦笑する。

「ありがとう。夏芽」

「……すみません。でも、みんな反省してます。みんな村長に甘えてしまったんです」

「そんなことはないさ。みんなに生かされているのは僕の方さ」

「じゃあ痛み分けということで」

「あはは。じゃあ、そういうことで」


   +++


 渦巻く砂嵐を抜けた後も幌を取ることなく標と明羽の乗る車は砂漠を走り続ける。

「いつもは最初から付けてないかすぐに取っ払っちゃうのに」

「今回はちょっと長丁場になるからな。体力は温存しておきたい」

「いつも無理してたの?」

 標はチラと明羽を見る。首に巻いている濃い桃色のマフラーの余った部分を後ろに投げながら標はふっと笑う。

「そんな訳ないだろう」

 本人がそういうならそう言うことにしておこうと明羽は黙っていることにした。まあ、意味もなく限界を超えてまで無理を通そうとするようなことはないだろうと標を信じることにする。倒れるようなことがないよう注意しておこうと思いながら。


 その日、標の運転する車は砂の海をずっと走り続けた。気持ち程度の休憩を取りながら日が完全に落ちる前に無人のオアシスに立ち寄り、野営の準備を始める。

「予定通りだ」

 と標が言うのを聞いて明羽は愕然とした。この強行軍が予定通りということはこれから目的地に着くまでずっとこれだと想像がついたからだ。今になって見送ってくれた夏芽の顔の意味を知る。そうすると次に気になったことを聞く為に明羽は手を上げた。

「お? なんだ? 明羽」

「聞くの忘れてたけどどれぐらいでそのおじさんのところに着く予定?」

「おお。言ってなかったか。七日で見つけられればいいなって思ってる」

 明羽は予定を聞かずに着いて行くのはこれきりにしようと明らかに遅すぎる覚悟を心に刻んだ。光のない闇に落ち込む大地に、相反するように夜空には一面の星が輝いていた。その輝きが美しい程に空気はキンと凍り付く。静かだった。生き物の気配がしないのは当然としても今夜は風までも息を潜めていた。火種だけがくすぶる薪の側に何枚もの毛布を羽織り、まるまるとなっている標と一枚だけ羽織った明羽は立っていた。

「本気か?」

「うん」

「マジかよ……」

「うん」

「分かった。俺は先に寝てるが。気が済んだら入って来いよ」

「うん」

「朝になって凍え死んでたなんてやめてくれよ」

「大丈夫だって。標はほら、無理しなくていいよ。車に入んなって」

 標は渋々車に向かう。一度明羽を振り返るがすぐに毛布を引き摺らないようにたくし上げて、標は背もたれを倒してフラットになっている後部座席に乗り込んだ。

「車中泊で横になるの久しぶりだな」

 間もなくやって来た眠気に標は身を任せた。

 明羽はひとりになった真っ暗のオアシスの畔で寝転がる。耳元で砂がさらさらと流れた。幅広の葉と枝を逆光にする程の光が夜空を彩っている。一定量を超えたら落ちてきてしまいそうな星々の光に明羽は気持ちが昂るのを感じた。明日もまた今日と変わらぬ強行軍になるだろう。備えて寝なくてはいけないのにまるで眠気はやって来なかった。何度見ても飽きない美しい光景に明羽は隣に目を向ける。しかし、そこにあるのは夜の闇に落ちた砂漠だけ。反対側に目を向ければ火種の燻る薪だけ。明羽は夜空に目を向けた。決して手の届くことのない光が広がっている。

 標はふっと目を覚ます。車外で動く人の気配に警戒する。警戒していたら勢い良く幌のジッパーが開けられ、冷たい空気が車中に流れ込んできた。その冷たさに標は身を縮めた。

「寒っ!」

「標!」

「明羽!?」

 飛び込んだ明羽は標の毛布に縋りつく。

「なんだ? どうした?」

「寂しい!」

 瞬間、標は脱力した。幌のジッパーをきっちりと閉め、冷たい空気を遮断した車の中。標は背中越しに明羽のしゃくり上げる声を聞きながらため息をつく。

「明羽。頼むから毛布を引っ張らないでくれ」

 するとますます引っ張られ、隙間から忍び込んで来る冷気に標はまたため息をつく。真夜中の静けさの中ひとりになって、いつもは隣にいる友人がいない寂しさに今更気が付いたらしい少女を突き放す訳にもいかず、標は腹を括る。その夜を根性で耐え抜いた。

 朝になってすっかり落ち着いた明羽は寝不足の標の顔を見て少し恥ずかしそうに俯いた。

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