第4章(3)

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 一夜明け、キジは虚ろな瞳で空を見上げていた。外に出てはいけないと言われていたのが昨日、標と少し打ち解けることができてその戒めは少し緩和していた。しかし、通りに村人達の姿は見えない。

「暗い……」

 朝になっても人の姿が見えない上に重く暗い空にキジは早くも鬱屈とした気分に陥ってきていた。仕事柄世界中を旅して来たが、時々嵐に見舞われることはあっても基本はどこに行っても青い空に真っ白な光が降り注ぐ。それがここはではどうしたことか、日がな一日嵐の只中だという。南の町より更に南に位置する場所には嵐が起きやすく、嵐の絶えない場所もあるにはあるがそんな場所に人が住める訳もないとキジは頭を振った。今考えなければいけないことに意識をシフトする。早くここから出て行かなくては。あまり長居しては村人達に迷惑を掛けてしまう。

「どうしたものか……」

「おはようございます」

「おはようご、ざっ!?」

 聞こえた挨拶に反射的に返そうとしたキジだったがそこにいた人物の顔を見て背筋を伸ばしていた。氷呂がニコリと笑う。

「昨日はゆっくり眠れました?」

「はい! はい! 標さんが布団から火鉢から用意してくれまして。お蔭さまでぐっすり眠ることができました。あ、自己紹介がまだでしたね。私、キジと申します。一介の商人です。以後、お見知りおきを」

「これはご丁寧に。私は氷呂。彼女は私の友達の明羽です」

 目が合って明羽とキジはお互いに苦虫を噛み潰したような顔になる。

「いたのかい」

「いたけど?」

 明羽と睨み合いながらキジの頭にふと疑問が浮かんだ。

「他の村人の姿は見えないのに君達は出歩いてていいのかい?」

「うん?」

「キジさんが迷い込まれた時は外に出ないように言われてたんですけど。今は特には」

「みんな自主的に引き籠ってるみたいだね」

「そうか……」

 キジがやはり自分の所為かと項垂れる。そんなキジに氷呂が声を掛ける。

「明羽がこれから畑に行くんです。収穫時の野菜があるって。キジさんも一緒にどうですか?」

「氷呂!?」

「畑があるんですか?」

 こんな日の届かない場所にとキジは思う。今、日が届いてないだけでやっぱり普段はそれなりに日が差しているのではと興味をそそられて頷く。

「是非。連れて行ってください」

「はい。案内します。ね、明羽」

「ええぇぇ!?」

「ね、明羽」

「うぅ……。氷呂が言うなら」

「行きましょう」

「はい!」

 歩き出すと氷呂の隣に並ぼうとするキジに気付いて明羽は落ち込んでいる場合ではないとふたりの間に割り込んだ。

「離れて歩いてよね! おっさん!」

「確かに私はおっさんだ! だからこそ、年長者に向かって敬意を払おうとは思わないのかね? 君! 氷呂さんを見習いたまえ!」

「尊敬できる人なら当然するさ! あんたは氷呂に色目を使ってる! 私の敵!」

「色目……っ!? 美しいものを美しいと愛でるのは悪いことか!?」

「氷呂が美しいのは認めるけどね。あんたはダメ!」

「うふふ」

 明羽とキジが氷呂を見る。

「氷呂。何で笑ってるの?」

「なんでもない」

 その顔はなんだか恥ずかしそうでいてとても嬉しそうだった。明羽は急に不安になる。キジに褒められて嬉しそうにしているとしたらこれほどショックなことはない。

「明羽?」

「なんでもない……」

 畑に着くと人間には会いたくないが折角実ったものが腐るのは我慢ならないと昨日のうちに明羽に相談に来た村人達が明羽より先に集まっていた。明羽達と一緒に現れたキジに村人達が少し委縮する。畑の外にいるキジとは距離があったので発案者の男性が勇気を振り絞って声を上げた。

「あ、明羽ちゃん。初めてもいいかなー」

「うん!」

 畑に駆け出そうとして明羽は振り返る。キジを睨み付けようとしたが肝心のキジは目の前に広がる畑に目を奪われていた。

「素晴らしい! 見事な畑だ! ここまでのものはなかなかないですよ。実っているものはどれも小振りのようだが下手なものよりずっといい」

 目を輝かせているキジに発案者の男性は嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとう! そう言ってもらえると頑張った甲斐がある。全部、明羽ちゃんのお蔭なんだ」

「ぬう!?」

 キジが明羽に目を向けた。

「君の事は気に入らないが良いものはいい!」

 胸を張って言ったキジに明羽はぷいっと目を反らした。

「んな!? なんと態度の悪いっ」

「照れてるんです」

 キジから一定の距離を保った場所に立つ氷呂が可笑しそうに笑った。

「あ! いた!」

 作業していた皆が顔を向けると標がこちらに向かってズンズンと歩いてくる。

「やあ。標さん。おはようございます」

「おはようございます。キジさん。勝手に出歩かないでくれ」

 標がキジの襟首を掴んだ。

「え、あ、あれ? 少しなら外に出てもいいって」

「俺と一緒ならって条件だった筈だが?」

「そ、そうだったっけ? あれ、あれれ」

 標は重そうなキジを片手で悠々と引き摺って行く。その場から問答無用で退場させられながらキジは未練がましく氷呂に手を伸ばす。

「ああ、氷呂さん!」

 氷呂はそんなキジに笑顔で手を振り、明羽はいい気味だと舌を出した。

 時間が経つほどに村人達の緊張感は薄れていく。キジには標が見張りに付くことが周知され、それに加えて畑での出来事なども広まって村人達は普段を取り戻していく。昼を回ると村の中の人出は普段とあまり変わらなくなっていた。中央広場の一角でキジが蹲る傍でその手元を子供達が興味深そうに覗き込む。玩具から出っ張っている摘まみをキジが回し終えるとそれは石畳の上をひとりでに走り始めた。走っていく車の形をした玩具に子供達は歓声を上げてその後を追い掛けて走り出す。キジはその光景に満足そうに頷き、額に滲む汗を拭った。

「すっかり子供達の人気もんだな」

「標さん」

 キジの側で標もまた顎に落ちてきた汗を拭う。

「しかし、暑いですな」

「そうだなあ」

 男ふたりで襟やら裾やらをパタパタさせていると広場に新たな人影が入ってくる。その人影に気付いたキジが目を見開いて駆け出した。

「あ、コラ。キジさん、待て!」

 標の制止も聞かずにキジは駆け寄っていく。

「氷呂さん!」

「止まれえい!」

 氷呂の隣にいた明羽が当然その行く手を阻んだ。

「邪魔だよ。君ぃ!」

「おっさんこそ!」

「氷呂さん氷呂さん! これからどちらへ向かわれるので? お荷物お持ちいたしましょう! お? もしや、私が寝所に借りているところに置いてある機織り機は氷呂さんのもので?」

「良く分かりましたね」

 氷呂は手に持っていた複数の杼のうちのひとつを目の高さに持って見せた。キジが目を輝かせる。

「そうなのですね! 納得がいきました。あれほど大切にされている機織り機を扱う人は美しい人に違いないと思っていたのです。私は間違っていなかった!」

 興奮気味に迫ってくるキジにさすがの氷呂も一歩後退る。

「そ、そうですか」

「近すぎる! 自分で言ったことも守れないんか! 朝から思ったけど、一定の距離を保て! それに氷呂の荷物持ちは私の役目だ! 誰にも譲る気はないよ!」

 叫ぶ明羽にどこで張り合っているのだと標は呆れる。しかし、当の本人達は至極真剣に睨み合う。

「何を馬鹿な。荷物持ちとは体力、筋力、胆力、持久力、忍耐力、精神力、すべてを持ち合わせて初めて成り立つ職業だぞ。君は身体も小さく、体力もなさそうだ。そんな細い腕で何が持てる!」

 衝撃を受けたように動けなくなった明羽を見てキジが勝ち誇ったように笑う。それを見た明羽は苦し紛れにキジを睨み上げる。

「氷呂との年齢差を考えろよ。現実を見ろ! お、じ、さ、ん!」

 今度はキジが衝撃を受けた顔になった。

「い、今はそんな話していないだろう! 卑怯だぞ! 君ぃ!」

「ふん!」

「ぬおおぉぅ!」

 段々ただの雄叫び大会になってきた明羽とキジの応酬に子供達は遠巻きにポカンとする。

「こうなったら氷呂さんに決めてもらおう!」

「は?」

 キジの提案にその場にいた誰もが次の展開を予想する。

「私と君、どちらが頼りになりそうか」

「そんなの」

 分かり切ったことだと明羽が言い終わる前に何故か自信満々のキジが氷呂に顔を向ける。

「氷呂さん! 私と彼女、どちらが」

「明羽」

 食い気味どころではない即答をされたキジがその場に頽れた。明羽はそれがこの世の理だと言わんばかりの顔でキジを見下ろす。

「氷呂に聞くなら私が負ける筈ないのに。ん?」

 頽れたまま動かなくなったキジがゆっくりと横に傾いでいった。

「え!? ちょっと!? おじさん?」

 倒れてぐったりと動かないキジに村人達が息を呑む。標が駆け寄ってその手首を握る。

「あ、これはまずいかもしれない。夏芽のところに行ってくる」

 キジの身体を小脇に抱え、「よっ」と立ち上がって安定した足取りで広場を後にする標の後を明羽と氷呂は追い掛けた。走りながら氷呂がチラと明羽を窺う。

「明羽の所為じゃないよ」

「分かってる。でも、あの人が人間だってことすっかり忘れてた」

 それだけ明羽の中でキジは警戒する必要のない相手になっていたということだった。

「夏芽さーん!」

 両手の塞がっている標に変わって明羽が診療所の戸を開く。診療所の中には椅子に座る夏芽とその側に謝花が立っていた。

「明羽。氷呂。それに標兄様、と……」

 最初こそ見慣れたメンバーに明るい顔だった謝花だが標の抱えるキジの姿を見て顔を曇らせる。サッと夏芽の影に隠れる。

「何かあったんですか?」

「キジさんが倒れた」

「あらまあ」

 標が診察台にキジを寝かせると夏芽が立ち上がる。夏芽がいなくなってその影に隠れていた謝花は明羽と氷呂に近寄った。近付いて来た謝花に明羽は笑い掛ける。

「話には聞いてたけど謝花が夏芽さんに付いて修行してるの、初めてちゃんと見た気がする」

「修行という程のものじゃ……。少しでも助けになれたらって思ってるだけで」

「でも、もう色々任せられてるんでしょう?」

 明羽と氷呂におだてられて謝花の不安が和らいだ。人間が怖いと南の町を出た謝花の家族にとって村に人間が来たことは本当に想定外のことだっただろう。子供達が言い付けを守らないで家から出たのを追いかけていた時だって本当は気が気じゃなかった筈なのだ。それでも逃げないで向き合っている。謝花は気丈に頑張っていると明羽と氷呂は心から思う。

「軽い熱中症ね。少し体温が高いけど痙攣もないし、体温下げて水分補給させて安静にしておけば大丈夫でしょう」

 夏芽の言葉に明羽がホッとする。

「あんたも水分補給しなさいよ。汗臭いわよ」

「ひでーな」

 標と夏芽のやり取りに明羽と氷呂、謝花は笑う。

「ふたりはどう? どこか具合悪いとかない?」

「元気」

「平気です」

「そ。でも、油断しないようにね」

「はーい」

 答えた明羽は少しばかり汗ばんではいたが氷呂と共に至って涼しい顔。黒い服に大きな染みを作っている標とは大違いだった。


   +++



 キジは重い目蓋を押し上げた。ぼんやりする頭でゆっくりと視界を巡らす。明り取りの窓から入る光は既にない。

「目が覚めたわね。ここがどこか分かるかしら?」

 聞き覚えのない女の声が聞こえて、見覚えのない女の顔がキジの視界に入る。青灰色の髪に色白の美しいその女にキジは無意識に声を発する。

「……美しい」

「あら、ありがとう」

 夏芽はキジの賛辞を素直に受け取った。

「ここは……?」

「あらあら。熱さにやられて記憶が飛んだかしら。ここはあなたが嵐に迷った末に辿り着いた村よ」

「ああ、そうでした。ところで、貴女は? 私はキジと……」

「あはは。口説き文句はもっとバリエーション増やした方がいいわよ。氷呂ちゃんになんて言って迫ったか聞いてるわよ」

「おお。もしや氷呂さんのお姉様で?」

「違うけど似たようなものね。私は夏芽。この村の医者よ。子供達の相手してくれるのはありがたいけど真昼間から無理しちゃダメよ。キジさん」

「はい」

 と返事はしたもののキジはこんな美しい人に介抱されるなら偶には倒れるのも悪くないかななんて思う。それを見透かしたかのように夏芽の笑顔にサッと影が差す。

「自分を大切にできない人が私、この世で一番嫌いなのよね。そんな人の為に伸ばす手を私は持っていないのでそのつもりでね」

「……はい」

 キジは顔を青くして頷いた。美しい人の笑顔は美しすぎるが故に凶器にもなるのだと思い知る。夏芽に促されるままキジは防寒具を何枚も羽織って診療所の外へ出た。随分と眠っていたようで日は既に沈んでいた。空気がひんやりと冷たい。

「こっちよ。あなたが目覚めたことを知らせに行かなくちゃいけないから。寒いと思うけど……キジさん?」

「あ、いや。行きます行きます」

 自分と違い昼間の格好にポンチョ一枚を羽織っているだけの夏芽にキジは誤魔化すように手を振る。夏芽について歩いて行く程に篝火の数が増えていく。

「これはなかなか幻想的な光景ですな。お?」

 辿り着いたのは最も篝火が焚かれ、煌々と明るい中央広場だった。多くの村人が集まって談笑している。さすがに子供の姿はなく大人達が手に持っているのは大半がお酒だった。

「お、キジさんだ」

「もう大丈夫かい?」

 まだ打ち解けたというには程遠い筈なのにキジの姿に気付いた数人の村人がキジに手を振る。キジは反射的に手を振り返した。この凍える程の気温の中、そこにいる村人達の殆どが夏芽と同様に薄着であることにキジは良い言い訳が思いつかない。違和感は初めからあったのだとキジは空を見上げる。星は見えない。夜になっても昼間と変わらずこの村の周りでは嵐が吹き荒れているのだろう。嵐の中でも静か過ぎる村の中。真昼も夜も平然と出歩く村人達。角のある子供、大人。時々目の端に映る白。キジは息を吐き出した。

「キジさん。あんたがこの酒を売ってくれたんだって? すごくおいしいよ」

「あんたも早くこっちへいらっしゃいな」

「昼間は子供達と遊んでくれてありがとう」

「その前に、まずは村長に報告よ」

 夏芽が先を行き、村人達が笑っている。

「まったく。美しい人達だなあ」

 呟いて、キジは夏芽の後に付いて村人達の団欒の輪に足を踏み入れた。


   +++


 二本の足で立ちながら村長は自宅の前で早朝の空を見上げていた。砂煙る空に青色が見え隠れする。

「うん」

 集会所の戸を叩く音にキジは目を覚ます。キジが寝ぼけ眼で戸を開けるとそこには紫黒の髪の長身の青年と柔らかそうな白い髪の少年が立っていた。冷たい空気が室内に流れ込んで来てキジは身を縮こまらせた。標と村長は集会所の中に足を踏み入れて戸を閉める。

「キジさん。おはようございます」

「おはようございます。村長さん。標さん。何かあったんですか?」

「嵐が弱まっている。支度をしてください」

 村長の言葉にキジの目が覚めた。

「分かりました」

 手荷物をまとめたキジは集会所の外に出る。空を見上げれば昨日も一昨日も分厚い砂の壁に遮られて影も形も見えなかった太陽の光が薄ぼんやりと差し込んでいた。

「おお」

「晴天でなくて申し訳なのですが」

「いいえ! 十分ですとも」

 村の入り口に置きっぱなしになっていた自身のトラックの側に立ち、キジは村長と標に礼をする。

「二日間と短い間でしたがとても楽しかったです。ありがとうございました」

「村を出たらまっすぐ、嵐を抜けることだけを考えてください。うまく抜けられることを願っています。その後のことは」

「大丈夫です。その後は自分で何とかします」

 申し訳なさそうな顔をする村長にキジは自身の胸を打つ。それから村長と標の後ろに目を向けた。そこには子供達と、「人間相手でも一対一なら何とかなるな」とキジと親交を深めた数人の村人達が見送りに集まっていた。そして、明羽と氷呂、夏芽が立っている。

「正直、こんなに村に馴染むとは思ってなかった」

「それは、私も思うところだなあ」

 標とキジが笑う。

「悪かったな。商品幾つかもらっちまって」

「いいやいいや。お酒の方で稼がせてもらったし」

「うん? もしかして少し多めに吹っ掛けられたか?」

「ハハハハ。残念ながらどちらかと言うと赤字だな」

「……悪い」

 謝る標にキジは楽しそうに笑う。

「いいんだよ。燃料までもらってしまった」

「うん。それこそ無事に嵐抜けて欲しいからな。で、これからどこに向かうつもりなんだ?」

「当初向かう予定だったオアシスに向かうよ。南の町と東の町の間にあるオアシスのひとつなんだが。いつも同じ間隔で訪ねてたのに、すっかり遅れてしまった」

「へえ」

 キジと標の会話を聞きながら夏芽は南の町と東の町の間の方角に目を向ける。瞬間、夏芽の視界は撓んだ。身体の内に流れ込んで来た感じたことのない衝撃と息苦しさに夏芽は立っていることができなかった。

「夏芽さん!?」

 突然胸を押さえて地に手を付いた夏芽に明羽と氷呂が駆け寄る。

「夏芽?」

 異変に気付いた標が振り返る。

「夏芽。どうした?」

「だ、大丈夫……」

「大丈夫じゃねえだろ」

「大丈夫だってば!!」

 夏芽の怒号に明羽と氷呂は思わず手を引っ込めたが標は動じなかった。夏芽は標の静かな瞳を見る。

「……ごめん」

「ん。気にすんな」

 標は夏芽の動揺を感じ取っていた。けれど理由が分からない。夏芽は落ち着きを取り戻して自力で立ち上がる。けれどその顔色は悪い。標が口を開くより前に夏芽は急なことにこちらを不安そうに見ているキジを見た。

「キジさん。そのオアシスに私も連れて行って」

「へ?」

「夏芽? 何言ってんだ?」

 標が夏芽の腕を掴もうとするが夏芽はそれを振り払う。

「うるさいわね。私は行かなくちゃいけないの」

「理由を聞かせてくれよ」

「……」

「夏芽」

 ピリピリし始めた標と夏芽に集まっていた村人達は少なからず動揺し始める。何が起こっているのだと。その空気に堪えかねた明羽がふたりの間に入ろうと前に出る。

「夏芽さん。標。ちょっと落ち着こうよ」

 しかし、ふたりに声は届かない。

「夏芽!」

「ああ、もう! うるさいわね! お母さんならともかく、私は半分しか精霊じゃないの! だから生き物の死なんて今まで感じたことがなかった。なかったのに! それが今、こんな」

「夏芽!」

 空気を震わせる声に夏芽の身体がビクリと震える。恐怖心さえ覚えながらそちらに目を向ければ薄紫色の瞳が夏芽を見据えていた。

「落ち着きなさい」

「あ……」

 村長の側に困り切った顔のキジが立っていた。夏芽は目を反らす。村人達の視線は今やキジに集中していた。その不安そうな顔にキジは緊張して唾を飲み込む。

「ええっと……」

「キジさん」

「は、はい!」

 村長の声にキジは逃げ出したい気分になる。薄紫色の瞳がキジを見上げる。

「キジさん。あなた、僕達が人間じゃないことに気付いていましたね」

 キジは必死に首を横に振る。

「キジさん」

 村長の何ものをも見透かす瞳に見つめられてキジは観念した。

「……はい」

 村人達がざわつく。

「気付いていました! 気付いていました! けれど、無事にここから出られてもここで見たこと聞いたことを外で話すつもりはありませんでした! 誓って! ありません! それに疑念があるだけで私は確認するつもりはありませんでした。私はそうじゃないかと思ったけれど、疑念は疑念。疑念である以上私の妄想です。確かめないで、出て行くつもりだったんです。笑い話で誰かに話すつもりもありませんでした。本当です。信じてくださいと、言うことしかできませんが」

「あなたを疑ってはいない」

「ふえ?」

「あなたはいい人だ」

「そん、ちょ……」

 キジは目の前で起きたことが信じられなかった。白い髪の少年が瞬く間に白い毛に覆われた獣の姿に変わったのだ。白に見えた毛並みは風に揺れて時々錦に輝いている。

「……本当に。しかし、何故。村長さん。私にその姿を」

「信頼の証を」

 キジは足元に目線を落とした。嬉しいけれど、なんだか泣き出したい気分だった。

「そんな、もったいないことです」

「キジさん」

「はい」

「夏芽を連れて行ってやって欲しい」

「へ? えっと? 私は構いませんが」

「夏芽」

「はい」

 夏芽の声は少し震えていた。けれど、まっすぐに村長を見返す。

「僕は君を止めることができる。けれど、今そうしては、君はこれから先ずっと今日のことを澱として心のうちに残すだろう。行って、自分の目で確かめて、納得しておいで」

「はい」

「俺も行く」

「標」

「わ、私も行く!」

「明羽!?」

 氷呂が明羽の腕を強く引いた。

「何言ってるの。明羽。ダメだよ」

「でも、氷呂。なんだか胸騒ぎがするんだ」

「それでも。ダメ」

「氷呂?」

 明羽の腕を掴む氷呂の手が震えていた。

「明羽が来ることには俺も反対だ」

「私も、明羽ちゃんはここにいた方がいいと思う」

「標、夏芽さんも。でも、私……」

 明羽は震える氷呂の手をギュッと握り返した。

「氷呂も行こう」

 氷呂は唇をギュッと引き結ぶ。明羽の緑色の瞳を暫し見つめたが氷呂は目を伏せて小さく頷いた。

「え、氷呂ちゃん?」

「待て待て待て」

 予想外の出来事に標と夏芽が慌てる。

「連れて行ってあげなさい」

「村長!?」

「何かに導かれているのかもしれない」

「何かって……」

「あの……」

 キジが神妙な顔で皆を見つめている。

「取り込んでいるところ申し訳ない。私がこれから向かおうとしている先に一体何があるというのでしょう。あなた達には分かっているのだろうか」

「それは……」

「分からないよ」

 明羽は言う。

「それをこれから確かめに行くんだ」

 まっすぐキジの目を見て言った明羽にキジは唾を飲み込んだ。

「行きましょう」

 キジがそう言うと標はため息をついて自分達の乗る車の準備に向かった。


 荷台を幌で覆った小型の黒いトラックと後部座席をオープンのまま走る黒い車が一台。砂漠の上を走っていく。休憩もほどほどに寝る間も惜しんで走った先、最初に異変に気付いたのは明羽だった。

「何か変だ」

 進む程に空気が痛いように重いように感じられる。間もなく見えてきたのは青い空を裂くように地上から立ち上る黒い煙だった。風がないのか流れることもなくまっすぐに天高く伸びる黒。前を走っていたトラックがスピードを上げた。標も次いでアクセルを踏み込む。一台のトラックと一台の車が辿り着いた場所は黒一色に染め上げられていた。かつて青々とした葉を茂らせていただろう背の高い木々は地面から突き出る黒い棒と化し、低木は炭になって地面に散らばっている。その地面もまた黒く焼け焦げ、そこここに残る崩れた土壁がここに人の営みがあった面影を辛うじて残していた。端に小さな泉が湧く、とても小さなオアシスだった。小さくとも人の住むれっきとしたオアシスだった筈なのに、今や見る影もない。

「熱い……」

 太陽のもたらす熱さとは違う纏わり付くような熱さと酷い匂いに明羽は口を押さえていた。

 キジが膝から崩れ落ちる。

「こんな……酷い……」

 長時間の運転に蓄積していた疲労は既に限界だったのだろう。そこに精神面への負担が加わりキジの身体は限界を超えてしまう。動けなくなったキジに夏芽が駆け寄るがその手もまた震えていた。

「夏芽」

「大丈夫、大丈夫よ」

「無理すんな。明羽。氷呂」

「……え?」

 放心状態だった明羽が標を見る。

「お前達も無理するな。車に戻ってろ」

 明羽は返事をしようと口を開くがまるで言葉が出てこない。

「誰か……誰かいないのか!?」

「キジさん!」

 限界の筈なのに走り出したキジを夏芽は追い掛けようとする。けれど足は思うように動かずその場に手を付く。

「熱い……」

 地面に触れる手の平から伝わってくる熱に夏芽は砂を握り込んだ。元々はサラサラだった筈の砂がボロボロと指の隙間から崩れて落ちる。

「夏芽」

「追い掛けるわよ。私達も生存者を探す。連れてって」

「分かった」

 標が夏芽の腕を自分の肩に回した。

「明羽。氷呂。お前達は」

「行くよ」

「探す目は多い方がきっといいですよ」

 ふたりの言葉に標は黙って立ち上がった。明羽と氷呂は手を繋いで生存者は絶望的な黒の中を歩いていく。真っ青な明るい空と足元に広がる黒の対比が大き過ぎて明羽は目の前がチカチカするのを感じる。

「明羽」

「氷呂」

 氷呂の存在が明羽の正気を保っていた。

「これは一体何なんだろう。何があったらこんなことになるんだろう。火事じゃない。火事なんかじゃない。火事でこんなにはならない。これは」

 きっと人の手で起こったことだと、明羽はそれを口にすることも恐ろしくて言葉を呑み込む。同時に吸い込んだ空気に明羽は咳き込んだ。淀んだ空気が息苦しい。

「明羽」

「大丈夫」

 建物の残骸の向こうからキジの空虚に叫び呼び掛ける声が明羽にも聞こえてくる。燻る大地の上には顔の判別もできない真っ黒に焼け焦げた死体が幾つも転がっていた。形が定かでないものも身体の一部だと分かればそれが人間であったことが知れる。

「明羽……。明羽……」

 明羽の手を握る氷呂の手が震えていた。明羽の肩に顔を埋めて周りを見ることができない氷呂の手を明羽は強く握り返す。

「明羽……」

「うん。行こう」

 明羽は氷呂の手を引いてその場を離れた。標は生き残りがいないかと瓦礫を退かして行く。一緒に行動する夏芽が確認して首を横に振る。

「誰か! 誰かいないのか!」

 キジは手当たり次第に障害物を退けてはそこに何もないと時間が惜しいと言わんばかりに次に走っていく。足がもつれて派手に転んだ。頭を打って視界に星が弾ける。この短時間でボロボロになった服がさらに真っ黒になった。頭を打ち付けた大地は熱く、ここら一帯を焼いた炎の熱をまだ内包しているようだった。キジは浅い呼吸を繰り返す。正しく息ができていないキジに気付いた夏芽が駆け寄った。

「キジさん!」

 夏芽の足取りは先程よりしっかりしている。

「過呼吸だわ。標。紙袋持ってきて!」

「紙袋!? ちょっと待てっ」

 標は慌てて車に走った。

「キジさん。ゆっくり、ゆっくり呼吸して」

 キジは意識が朦朧とする中、子供の泣き声を聞いた気がした。空耳か幻聴か。ひとりでも助かっていて欲しいという強く願っているが故の妄想か。キジが薄らと目を開けるとこちらを覗き込む四人の顔があった。濃い緑色の瞳と澄んだ青色の瞳、薄青色の瞳に闇色の瞳がキジを見つめている。キジと目が合って八つの瞳が安堵に揺れた。

「良かった。目を覚ましたわね」

「キジさん。お水飲めますか?」

 氷呂が差し出した水筒の水をキジは一息に飲み干した。軽く咽ると標がその背を摩る。

「ありがとう。氷呂さん」

「いえ」

「明羽さん、標さん、夏芽さんもありがとう」

「キジさん。もうここから離れよう」

「待って。待ってくれ。声が。子供の声が聞こえた気がしたんだ」

「声?」

 氷呂と夏芽が反射的に耳を澄ます。

「氷呂?」

「夏芽?」

 ふたりは目を見開いて同じ方に顔を向けていた。

「氷呂ちゃん」

「はい。夏芽さん」

 ふたりは駆け出していた。その足の速さに明羽も標も追い付けない。それでも追い掛ける為に標はキジを見る。

「キジさん。肩を貸す」

「あ、ああ」

「行こう」

 明羽と標とキジが氷呂と夏芽を追って歩き出す。キジは殆ど標に持ち上げられる格好で歩き出す。

「氷呂さんと夏芽さんは、私のあんなうわ言を信じてくれたんだろうか」

「信じたというか、実際聞こえたんだろう」

「聞こえた?」

「おじさんが言うまで氷呂と夏芽さんには聞こえてないみたいだった。耳の良いふたりが聞き逃すような声を聞くなんて、人間って時々すごいね」

「明羽さん……。いや、しかし、空耳かも……」

「聞こえても自信がないんだ。不思議だなあ。でも、今回のことに関してはもう間違いないんだよ。氷呂と夏芽さんの行動が既に答えだもん」

 明羽の言葉にキジは未だに信じられない。自分でももう諦めているのだ。生存者はいないのだと。

「急ごう」

 標がキジを支え直した。

 氷呂と夏芽は壁だけが残る廃屋の中で瓦礫を退けていた。現れた床の一部に四角い戸が埋め込まれていた。引き開ける為の取っ手を夏芽が掴むが引っ張った瞬間、取っ手が砕ける。

「クソッ」

 勢い余って尻餅を付いた夏芽が夏芽らしからぬ低い声で苦々しく悪態をついた。

「夏芽さん。氷呂」

「明羽。鉄梃みたいなもの落ちてない? 急がなくちゃ」

 氷呂が辺りを見回して、明羽の目にも床に隙間なく填まっている木戸が映る。地面は未だに熱を内包している。熱せられた土の中に人がいることを想像して明羽はゾッとした。必死に戸をこじ開けられそうな道具を探す。そこに標とキジがやっと追い付いた。標は状況を一瞬で察する。

「キジさん。下ろすぞ」

「あ、ああ」

 標が戸に近付いていく。標は力任せに床と戸枠の間に指を立てた。

「標!? 指が!」

「怪我なら治る」

 バキバキと戸枠ごと戸が剥がされ、床下収納から助け出されたのは明羽や氷呂より幼い双子だった。ぐったりと正体のない双子の顔を見たキジが慌てて立ち上がろうとして失敗する。再び無様に顔面から転んだ。それでも這いずりながらキジは子供達に近付こうとする。夏芽が双子の脈を取る。

「泉へ。明羽ちゃんと氷呂ちゃんも来て」

 子供を両手に抱えた標がその場を歩き去る。その後を明羽と氷呂と夏芽が追い掛けて行く。自力で動けないキジだけがその場に取り残された。

「待ってくれ。待ってくれ……」

 キジは見る。明羽の髪の結び目から左耳の側で緑色の涙型の石が揺れていた。遠ざかって行く四人にキジは必死にもがく。しかし、身体は重く、全く前に進めない。悔しくて情けなくて泣くことしかできないでいると身体がふわりと軽くなる。

「キジさん。泣いてる場合じゃないぞ」

「標さん。戻って来てくれたのか」

「当たり前だろ。子供達が優先だった。後回しにして悪かった」

「いいや! いいんだ!」

「行くぞ」

「ああ。すまない。すまない。ありがとう」

 泉の水に触れる程側に寝かされた双子の身体に明羽と氷呂は少しずつ水をかけていく。夏芽はその側で車から取ってきた自分の鞄から必要な物を取り出して行く。

「熱中症に脱水症状。まずは体温を下げなくちゃ。それから水と塩分と……できれば風が欲しいわね」

「風?」

「無風で空気が滞ってる。新しい新鮮な空気が欲しい。それにこの子達にかけた水は蒸発する時に熱も持って行ってくれるから。この子達の上がり過ぎた体温を下げるのにひと役買ってくれる筈。ただ、冷やし過ぎてもいけないから水のかけ過ぎには注意して。子供達の顔が白くなったり唇が紫になってきたら冷やし過ぎ。そうならないように注意していて」

「うん。分かった」

「はい」

 明羽は双子の顔を見る。今双子の顔はのぼせたように赤く、目蓋は固く閉ざされ、苦しそうに口で浅い呼吸を繰り返していた。明羽は空を見上げる。全くの無風だった。ここまで風が吹かないのも珍しい。なんでこんな時に限ってと明羽は憤りを覚えずにはいられない。風よ。風よ。明羽は必死に願いながら双子の身体に水をかけていく。

「明羽?」

「え?」

 氷呂が明羽の顔を見つめていた。

「何?」

「……来るよ」

 遠くから何かが押し寄せてくる音が明羽の耳にも届く。

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