第4章・運の良い男(人間)(1)
幸い村の周辺は酷い嵐でもなく四人は無事に村に帰り着くことができた。誰かの耳に届いたのか四人が村の入り口で荷物の整理をしていると村人達が押し寄せる。
「帰りが遅いからどうしたのかと思ったよ」
「
「四人とも無事でよかった」
「明羽ちゃんなんて氷呂ちゃんがいなくてピーピー泣いてたよ!」
「ちょっと待った! 今誰が嘘ついた!?」
大人と子供が入り乱れる中、明羽の怒鳴り声に子供達がわーっと散り散りになった。
「誰だー!?」
子供達の姿は既にない。残された大人達は笑い合う。下手人が分からないまま明羽が立ち尽くしていると
「明羽。氷呂。おかえりなさい。帰りが遅いから何かっあったんじゃないかって、心配してたんだよおおおおおおぉぉぉぉ!」
最初こそ笑顔だった謝花だが途中から勢いよく明羽と氷呂に抱き付いた。謝花の全力にふたりで堪えて、明羽と氷呂はわんわん泣く謝花の背中や肩を撫でる。ひとしきり泣くと謝花パッと明羽と氷呂から離れた。
「でも、みんな無事に帰って来たね! 何があったか後ででいいから教えてね!」
明羽と氷呂は揃って固まった。氷呂の記憶喪失や人買いに襲われた話なんてしたら謝花はほぼ確実に卒倒するだろう。明羽と氷呂の心情など露知らず、謝花は大きく手を振って去って行った。
「できるだけ刺激のない話し方をしよう」
「そうだね」
明羽と氷呂は少し重いため息をついた。
「畑が潤ってるっていいよねえ」
畑の一角で作業をしながら明羽は持っていた小さな袋をひっくり返す。氷呂に託された綿花の種を明羽は丁寧に撒いた。
「よし。がんばろう」
決意新たに立ち上がる。嵐のただ中にあるとは思えない程柔らかな風が吹いた。
明羽が畑に没頭する間、村の中ではとあるものが一大ブームを巻き起こしていた。それは
「……んがぁ!! 指が! 指が動かないんだよう!」
危うく楽器を地面に投げ出しそうになって明羽は慌ててそれを抱え込んだ。ため息が零れる。
「これじゃダメだ……」
明羽がすっかり落ち込んだ状態で中央広場に差し掛かると子供達が謝花の青空教室に集まっている、いつもの光景が広がっていた。ただ、今日は謝花だけでなくもうひとり、見慣れない人物が子供達の前に立っているのを明羽は見る。謝花とほとんど変わらない背丈、それはつまり明羽と氷呂とも同じぐらいの背丈ということ。綺麗な白い短髪が柔らかそうに風に揺れる。心なしか謝花ひとりの時より子供達の目が真剣なように明羽には感じられた。
「お、明羽。楽器の練習か。どうだ。上達したか?」
明羽は標の問いに答えず青空教室に向かって指を差す。
「標! あの人、誰!? 知らない人がいるよ!」
明羽自身想像以上に大きな声が出て、広場にいた村人達の注目が集まる。青空教室の面々も例外ではなく謝花が明羽に向かって大きく手を振る。明羽が開き直って謝花に負けず劣らず大きく手を振り返すと謝花の隣に立っていた白髪の少年が明羽を手招いた。明羽は駆け寄る。
「こんにちは!」
「こんにちは。明羽」
その声を聞いて明羽は硬直した。明羽は背後に付いて来ていた標を恐る恐る振り返る。
「標。この人から村長の声がするんだけど……」
「村長だからな」
あっけらかんと言った標に明羽はまだ信じられなくて少年の顔を改めて見る。
「この格好で会うのは初めてだったかな?」
人の姿の村長が少し恥ずかしそうに笑った。明羽は間近にして分かる。まとう空気は酸いも甘いも堪能しつくしたというように落ち着いていて、柔らかな物腰はとても子供のそれではなく、見透かされるような薄紫色の瞳は間違いなく村長のものだった。
「村長だ」
「うん」
村長が聖獣本来の獣の姿の時と変わらない笑顔を見せる。
「偶にはこの姿にもならないと歩き方を忘れてしまうから。どうかな? 変なところとかないかな?」
「いつもと変わらないですよ」
「それは、いい意味で?」
「え? も、もちろんです!」
聞き慣れない標の敬語と村長のやり取りを見ながら明羽は違うことを考えていた。
「ジジイじゃない」
標が無言で明羽の頭を叩いた。
「痛い」
「悪い。条件反射だ。明羽。でも、村長をジジイ呼ばわりするのはやめてくれ」
「あい」
涙目になりながら明羽は頷いた。明羽が頭を押さえていると少年の手が明羽の頭を優しく撫でた。同じ目線にある薄紫色の瞳に明羽が妙な気分になっているとその瞳が微笑んだ。
「明羽には私がどんな風に見える?」
「同い年ぐらいの男の子に見える」
「そうか」
「村を作った人だっていうから村長の人の姿はてっきりこう、髭をたくさん蓄えたおじいちゃんとか」
「聖獣の本来の姿はあくまで獣の姿の方だよ。人の姿はどこまで行っても仮の姿だから。それに、人間の価値観には当てはまらないかな」
「あ、そっか」
明羽にはまだ実感がないが人間以外の種族は人間より遥かに丈夫で長く生きるのだ。素直な明羽に村長は皺ひとつない顔で老人然と笑う。それは幼い子を見守る老人の顔だった。
「村長ー。もっとお話聞かせて!」
「ああ。すまない。途中だったね」
「ごめん。邪魔しちゃったよね」
「いやいや」
子供達が村長の手を引く。
「そんちょう」
「村長」
「はいはい」
村長が子供達に引っ張られて歩き出そうとすると転びこそしなかったがたたらを踏んだ。そんな村長に明羽は顔を青くする。側にいた謝花の手を掴む。
「村長をお願いね」
村長と自分を前にした時の子供達の様子の違いに謝花は思うところがあったようだったが明羽の言葉に大きく頷いた。
「任せて!」
+++
緩やかに時間は流れる。穏やかな日々。その日、村の上空は珍しく晴天に見舞われていた。青い空から白く突き刺さるような太陽の光が降り注ぐ。人間ならばとても長く外には出ていられないような真っ昼間。それでも村人達は当然のように出歩いているのがいつもの光景なのだが今、村の中央広場には家から家に縄が張られ、隙間なく干された洗濯物がはためいていた。どこかに誰かが潜んでいてもすぐには分からないだろう迷路のような中、明羽は洗濯物の隙間から空を見上げた。時々、洗濯物の間を駆ける子供達の笑い声と足音だけが聞こえてくる。
「いい天気だ」
手に持っていた物を抱え直す。ピンと張られた弦を爪弾いていく。
「上達したわね。明羽ちゃん」
「本当にそう思う?」
洗濯物の影から現れた夏芽に明羽は納得していない顔を向ける。
「ええ。間違いなく上達してるわよ。私の耳を疑うの?」
明羽は苦笑する。調律師のいない村で楽器の調律をしているのは夏芽だった。
「でもね、夏芽さん。斜め向かいに住んでるおばちゃん……料理長の方がいい音出してるんだよ?」
それは明羽と氷呂の家の斜め向かいに住んでいる聖獣と人間の間の子で独身のちょっと恰幅のいい村の女性陣の相談役にもなっているおばちゃんだった。食材が充実してきた今、時々皆に手料理を振る舞っていることもあり、それがべらぼうにおいしいことから料理長と呼ぶ人も少なくないのだ。明羽もそのひとりだった。
「努力は人と比べる物じゃないと思うのよ。明羽ちゃん」
「でもでもぉ……」
夏芽が諭すが明羽は悔しさを隠せない。
「そういやあ。この間の飲み会で棟梁が一発芸で速弾き披露してたな」
いつの間にか標が明羽の後ろに立っていた。ちなみに棟梁とは言わずもがな村の建物の修繕を一手に引き受ける男達を束ねている悪魔と人間の間の子の、よく日に焼けた小麦色の肌に筋骨隆々の普段は寡黙だが酒に滅法弱く飲むと途端に陽気になるおっちゃんのことである。ちなみに氷呂の手の平サイズの水筒を手掛けたのもこの人なのは知っての通り。
「ベロンベロンに酔ってたにも拘らず、しかもあの武骨な指で見事な演奏を披露したもんだからまあ、盛り上がって」
「標」
「ん?」
夏芽に促されて標が見たのは明羽のショックにひしゃげた顔だった。
「あ、あれ? 村で話題になってる弾き手の話をしてたんじゃないのか?」
明羽の目から涙が零れ始めて標はあまりに予想外のことに言葉を発せなくなる。明羽は俯いて低い声で言う。
「飲み会なんてやってたの?」
明羽が意図的に変えた話題に標と夏芽は全力で乗っかる。
「そう! そうなんだよ! 明羽と氷呂が来る前は空腹を紛らわす為に毎夜みんなでお茶なんぞ飲んでたが。ふたりのお蔭で気持ちにも懐的にも余裕ができて、少しばっかり酒も買うようになったんだ」
「そうそう。自給自足の形ができて金銭的に余裕ができたからね。嗜好品としてお酒も買い足すようになったのよ。ほんの少しだけどね」
「なんなら夜だけじゃなく集まったりして飲んだりな。ハハハ」
「そうそう夜に集まって時々飲んだりしてるのよ。ん?」
「あ」
標がしまったと目線を泳がせるのを夏芽は見逃さない。
「まさか、昼間から飲んでるの?」
「えーと。折角酒が飲めるようになったんだし大目に……」
「余裕ができたとはいえ贅沢ができる程じゃないのよ!?」
「だからみんなでチビチビと……」
「あんたは飲んでないわよね?」
「飲んでない! 飲んでない!」
「まあ、いいわ。なんにしたって没収よ! 没収!」
夏芽の号令を待っていたかのように洗濯物の影から村の女が三人歩き出して行った。
「通りで最近ウチのが」
「隣の若いのが昼からコソコソと」
「男共には困ったもんだね!」
なんて話しながら去って行く三人の後ろ姿を標と夏芽は黙って見送った。明羽はすっと顔を上げる。
「頑張る」
これから酒が飲めなくなる男達の無念を思って俯いてはいられないと明羽は顔を上げた。風が吹き抜けた。少し強めの風に洗濯物がはためき、明羽は目を瞑る。目を瞑った明羽に反して夏芽は顔を上げていた。目を大きく開き、その頬を紅潮させる。その喜びに満ちた顔に標はこれから何が起こるかを察した。標が明羽の腕を掴んでを引き寄せる。
「ほあ?」
先程まで明羽がいたところを突っ切って夏芽が駆け出した。
「夏芽さん?」
「歌が聞こえる!」
振り返ることなくそれだけ言って夏芽はあっと言う間に明羽と標の前から走り去る。
「歌?」
明羽が標を見上げると標はどこか悩ましげな顔になっていた。
「標?」
「あ? ああ、いや。夏芽を追い掛けるか」
「明羽。標さん」
「氷呂!」
洗濯物の影から現れた氷呂に明羽が顔を輝かせる。
「機織り機の調子はどう?」
「上々だよ。もうすぐちょっとしたのができるよ」
「楽しみだねえ」
氷呂の嬉しそうな顔に明羽もまた嬉しそうに笑う。
「ところで今風に乗って歌が聞こえて来てるんだけど。聞こえる?」
「夏芽さんも言ってたけど……」
明羽は首を横に振った。明羽に見上げられた標も首を横に振る。
「実は今、聖獣の血を引く村人達が村の入り口に向かってるんです。歌が聞こえるって」
「そうか」
「標さん。どうかしたんですか?」
「なんでもない」
「でも、顔色悪いよ?」
「気にすんな。俺達も行ってみよう」
標の様子は気がかりだったが明羽と氷呂は標と一緒に村の入口に向かった。村の入り口では村中の聖獣達が集まって同じ空を見上げていた。その先頭に夏芽と謝花がいて、夏芽はその瞳をキラキラと輝かせ始める。
「お母さん!」
夏芽が嬉々と叫んだその先に明羽は目を奪われた。空から現れたその人は日の光を透過する肌、優しさと憂いのどちらの色も持つ瞳、大地に降り立っても足は地面に着くことはなく、重力など物ともせず常にふわふわと浮いていた。生き物というより自然に近いものだと明羽は直感的に理解する。
「精霊だ」
「せいれい?」
「標さん。夏芽さんがお母さんって」
「ああ、夏芽の母ちゃんだからな。そうか、前来た時からもうそんなに経つんだなあ」
「すごい!」
明羽は両手を広げて叫んでいた。
「ね、ね! 氷呂! 精霊だって! 初めて会ったよ!」
「そうだね。明羽。でも、興奮しすぎだよ」
「そんなこと言って。氷呂だって内心ワクワクな癖に!」
明羽が軽く体当たりすると、
「やめてよ。明羽」
取り繕ったすまし顔で氷呂は言う。かつて村の皆に天使だと知られて興奮される側だった明羽が興奮する側になっている状況に標は可笑しくて笑う。
「ところで標さん。さっき、もうそんなに経つんだって言ってましたよね。夏芽さんのお母様って以前にも村に来たことがあるんですか?」
「ん。ああ。夏芽の母ちゃん、
「何で村に住んでないの?」
「精霊はひとつところに留まれない体質だからな」
「体質?」
「本人に聞いてみたらどうだ? こっちに来てるし」
「へ?」
見れば夏芽が精霊の手を引いて明羽達の方へ向かって来ていた。
「え、嘘。待って待って。まだ心の準備がっ」
「どうしようどうしようっ。明羽っ」
「明羽ちゃん。氷呂ちゃん」
夏芽の笑顔が眩しくて明羽は思わず目を細めた。
「ふたりに私の母を紹介させて。お母さん。このふたりがさっき紹介した謝花ちゃんの次に最近村に仲間入りしたふたりよ。緑色の瞳の子が明羽ちゃん。青い瞳の子が氷呂ちゃん。氷呂ちゃんは純血の聖獣で明羽ちゃんはなんとビックリ、天使なのよ!」
「は、ハジメマシテ」
「どうぞ、お見知りおきを」
緊張するふたりを前に精霊が軽く目を見張った。そして敬意を払うように礼をする。
〈初めまして。明羽さん。氷呂さん。夏芽の母の春華です〉
その声は耳の奥に直接響く、とても不思議な声色だった。ポカンと見上げる明羽と氷呂に春華はクスリと笑ってから標に目を向ける。
〈お久しぶりです。標〉
「お久しぶりです。春華さん」
〈変わりありませんか?〉
「色々ありましたよ。色々変わりました。もちろん良い方に。ゆっくり見て回ってみてください」
〈ありがとう。楽しみです〉
標がニッコリ笑って黙った。標らしからぬ行動に明羽がその顔を覗き込もうとした時、春華が声を潜める。
〈標。やっぱり私の声は……〉
「大丈夫です。本当に。ゆっくりしていってください。夏芽が喜びます」
春華は控えめに微笑む。
〈標。優しい悪魔の子。どうか、これからも夏芽のことをよろしくお願いします〉
「もちろんです」
「よろしくしてあげてるのは私の方よ。標のことは放っておいて行きましょう。じゃあ、明羽ちゃん、氷呂ちゃん。またね」
夏芽は春華を伴ってサッサとその場を去って行く。明羽と氷呂はほぼ同時に標の顔を覗き込んだ。
「なんだ?」
口を押さえる標の顔色は悪い。
「大丈夫?」
「具合悪そうですね」
「大丈夫だ。少し酔っただけだ」
「酔う?」
「精霊の声は悪魔と相性悪いみたいでな。個々の体質によっても多少違いはあるようだが」
話しながら標は自分の首の後ろを揉んでいた。
「そうなんだ」
「標さん。夏芽さんは標さんの体調を思って離れたんだと……」
「氷呂。知ってる」
標が苦笑し、氷呂も笑った。
「おら、明羽。春華さんに聞くんじゃなかったのか?」
「ん? あ、そうだった」
「行ってこい」
「標、置いてって平気?」
「お前らに心配される程弱っちゃいねえよ」
「分かった。じゃ! 行こう。氷呂」
「うん」
ふたりはチラッと標を振り返ってから解散する村人達の中を縫って走り出した。
「明羽。こっち」
広場に戻って来ると明羽は氷呂に誘われるまま洗濯物で視界の聞かない中を進む。洗濯物のカーテンを抜けると井戸に腰掛ける夏芽と春華の姿があった。春華が口ずさむ歌が明羽にも聞こえてくる。
「歌が……」
呟きかけて明羽は口を閉じる。あまりに綺麗な歌声に散開した筈の聖獣の血を引く村人達がまた集まり出した。夏芽はうっとりと春華の歌に耳を傾けてるのを見て、明羽は隣にいる氷呂を窺う。明羽の視線に気付いた氷呂が口パクする。
「綺麗な歌だね」
そう言った氷呂は明羽から見て、皆程聞き惚れてはいるようには見えなかった。標が個々の体質の話をしていたように、同じ聖獣でも聞こえ方が違うのかもしれないと明羽は思う。春華の歌が終わって夏芽が明羽と氷呂に手招きした。集まっていた村人達の気配が広場から消えていく。
「どうしたの? ふたり共。標は、いないわね」
よしよしと夏芽は頷いた。
「ごめんね。夏芽さん。親子水入らずのところ」
「別にいいわよー。で? 何かあった?」
「何かあった訳じゃなくて聞きたいことがあって。えーと、なんだっけ。あ、そうだ。なんで春華さんは村に住んでないのかなって」
明羽の言葉に夏芽が少し、ほんの少しだけ眉を顰めた。本当にほんの少しだけだったが明羽も氷呂も見逃すことはなく、ふたりは身を寄せ合う。
「ど、どうしよう。氷呂。聞いちゃいけないことだったのかな」
「そ、そうだね。立ち入っちゃいけないことだったのかも」
ふたりが今の質問をなかったことにしようと口を開き掛けた時、それを夏芽が遮る。
「気にしなくて大丈夫よ。もう。私の前で内緒話なんて」
そうだったと明羽は反省する。氷呂は自分も聖獣であるのにそれに思い至らなかったことに明羽よりもショックを受けていた。ふてくされた顔をする夏芽の頭を春華が苦笑しながら撫でる。夏芽はふてくされながらも話し出す。
「私だってお母さんと一緒にいたかったわ。でも、私とお母さんは違い過ぎた。まず、食事の問題でしょ。私もお母さんと同じように日の光と空気があればそれなりに平気だけどまるっきり他が必要ない訳じゃない。それから移動の仕方。お母さんは空を飛べるけど私は飛べないのよ。それでも、私が小さかった頃は一緒に旅をしてたのよ」
どこか愚痴るような夏芽の話は初めて聞くことばかりで明羽と氷呂は前のめりになって聞く。
「精霊は常に移動していないと体調を崩してしまう。私とお母さんはひとつところに留まらないように旅をしていたけれど、それでもお母さんには不十分だった。私は分かってるつもりで分かってなかった。精霊にとってそれは生死に関わる重要なことだったのに」
〈夏芽はそんなことで体調を崩したりしないものね。分からなくてもしようがないわよ〉
「そんなことでもなければしょうがなくもないから」
夏芽の不機嫌な声に春華は困ったように笑う。
「お母さんが倒れた時は本当に肝が冷えた。私は危うく、私の所為でお母さんを死なせてしまうところだった。本当に急に倒れて……」
その時のことを思い出した夏芽が鼻を啜る。
「お母さんは〈大丈夫、大丈夫……〉って繰り返し言ってたけど。もう、うわ言だったもの。そんなになるまで私は気付けなかった。ショックだったわ。風に流されるまま、気の向くまま、時に天気を読み天災を避けながら流れて行く。精霊とはそういう種族だと知っていた筈なのに。当時から村の噂は私の耳にも聞こえてたけど。私は行く気がなかった。他より安全といってもお母さんが留まれない以上意味がなかったから。でも、その考えを改めた。私はお母さんと一緒にいるべきではない。もっと早く気付ければよかったんだけど、そうなって初めて私は決心したの。村に行くことを。お母さんから薬草の知識とかはずっと教わってたし旅の最中にも色々学ぶ機会があったから、それを糧に村の医者になることを決めたのよ」
「そうだったんだ」
明羽は夏芽が常に村の皆のことを細やかに見逃さないように一生懸命な理由を知った。
「村に着いてお母さんと泣く泣くお別れをした。でも、私がここにいるって分かってるから、お母さんは定期的に会いに来てくれて。お別れした後にお母さんと再会できた時は本当に嬉しかった。本当。会いに来てくれるなんて……」
夏芽はその時のことを思い出して涙ぐむ。
「うん。そうね。私、現状割と満足してるわ」
何やらすっきりした顔で夏芽は頷いた。春華が夏芽の頭を撫でる。夏芽が話し出す前からずっと撫でている。
〈ごめんね。夏芽〉
「なんでお母さんが謝るの!? お母さんが謝ることじゃないわ!」
〈うふふ〉
大きな声を出す夏芽に春華は穏やかに笑う。そんな仲の良い母娘の姿に明羽は氷呂に手を握り返されるまで氷呂の手を握っていたことに気付かなかった。
「行こうか。明羽」
「うん。夏芽さん。春華さん。不躾な質問に答えてくれてありがとう。今度こそ私達、退散するね」
〈あ! 待って待って! 待ってくださいな!〉
背中を向けようとした明羽と氷呂を春華が呼び止める。
「お母さん? どうしたの?」
〈どうしたの? じゃないわよ。夏芽! だって、天使よ、天使なんでしょう? 明羽さん。私、天使に会うの初めてなのよ。夏芽ばっかりずるいわ〉
「ずるいって」
夏芽は苦笑する。
「え? えっと?」
指名された明羽は急な春華の勢いにタジタジしながらも先程まで自分も春華に興奮していたのを思い出して小さく吹き出した。
〈え、何? 私、何かしたかしら?〉
「ううん。違う、違う。私事で。ごめんなさい」
明羽は浮かんだ涙を拭う。
「それで、私はどうすればいい?」
春華の顔がパアッと輝く。
〈翼を見せて欲しいの〉
「お安い御用!」
「あ、待って! 明羽!」
「へ?」
氷呂の制止も空しく、明羽が意気揚々と広げた左側にのみ生える四枚の翼に洗濯物がものの見事に引っ掛かった。
「あらら」
夏芽が立ち上がって手を伸ばすが一番外側、一番上の翼に引っかかった洗濯物にその手は届かない。
「む。明羽ちゃん、悪いんだけど屈んでもらっても……」
「はい」
〈大丈夫よ〉
屈もうとした明羽の上に薄い影が落ちた。中身の揺れる影に明羽の目は釘付けになる。翼に引っ掛かった洗濯物の感覚が消えて明羽が顔を上げると春華がふわりと降りてくる。村の入り口では降りてくるところだけを見ていた明羽の口から思わず言葉が零れる。
「本当に飛べるんだ……」
〈うふふ〉
仕組みは違えど、明羽は初めて見る自分以外の空を飛ぶ人に気持ちが高揚するのを押さえられない。
「すごいすごい!」
〈すごいのは明羽さんです!〉
「へ?」
〈ふわふわでした!〉
春華の目がキラキラと輝いていた。
〈もっと触ってもいいですか?〉
「へい! どうぞ!」
割と遠慮なく翼に触る春華に「くすぐったいです」なんて明羽が返しているとそれを見ていた夏芽が軽く顔を顰めた。
「なんか、嫌ね」
明羽に嫉妬した夏芽は前に飛び出す。
「お母さん! 私の尻尾はいいの!?」
〈もちろん撫でるわ!〉
即答した春華は明羽に礼を言って去った。母を取り戻した夏芽はどこまでも満足げな顔になる。そんな母娘に明羽と氷呂は今度こそその場を後にする。夏芽の尻尾を撫でながら春華は去って行く明羽と氷呂の背中を見つめた。
〈明羽さんと氷呂さんが並んでいると、なんだか目を引くわね〉
「お母さんもそう思う? 本人達はまるで自覚してないみたいなんだけどね」
〈あら、そうなの?〉
母娘は楽しそうに笑った。
それから数日の間、子供のようにはしゃいで母の手を引きながら村の中を行く夏芽の姿を村人達は温かい目で見守った。けれど、子供達が擦り傷などを作るとすぐに駆け行って、いつもの夏芽が顔を出す。春華が畑を見に来た時は明羽が畑について説明をした。村の中を一通り回り終えると夏芽と春華は中央広場で過ごすことが多くなる。その姿を村人達は見守る。明羽と氷呂も例外ではなく話し込む夏芽と春華の姿を中央広場の端にふたりは並んで眺めながら話す。
「じゃあ、氷呂のところにも行ったんだ。春華さん」
「うん。機織り機を興味深げに見てたよ。謝花に聞いたんだけど石窯の方にも行ったみたい。前にお菓子を焼いて以来、みんな色々作ってたから。それで、春華さんに自信を持ってご馳走したって」
「精霊って食べなくても平気って聞いたけど食べられないって訳でもないんだね」
「みたいだね。それで、最後に村長の家に立ち寄ってお話ししたみたい」
「氷呂」
「ん?」
「なんだか楽しそうだね」
「そう? うふふ。実は春華さんが私の織った布を褒めてくれたんだ。もう嬉しくって」
「そっか」
氷呂が幸せそうに笑っているのを見ているだけで明羽も幸せな気持ちになる。
「ね。あ、そうだ。明羽。私春華さんに「綿花が育つのが楽しみですね」って言われて「はい!」って答えたからね」
「え? あ、うん。そっか! 分かった!」
「期待してる」
急なプレッシャーに明羽は背筋を伸ばした。氷呂は始終楽しそう微笑んでいた。標が何日か振りに中央広場の石畳を踏むと井戸に腰掛ける夏芽と春華の姿が目に入る。夏芽が笑い、春華が微笑む。標は距離を取ってその光景を眺めた。
春華が村に馴染むかという頃合いに村人達が村の入り口に集まる。村人達の視線を一身に集めて春華は少し寂しそうに微笑んだ。
〈少し長居してしまいました〉
村人達の先頭に立つ夏芽は春華を前に口を引き結び、白い尾を垂れ下げる。その隣に村長が歩み出る。
「また、いつでも尋ねておいで」
〈ありがとうございます。―――様〉
聞き取れなかった言葉に明羽は春華が村長に礼をしている姿をより良く見ようと覗き込む。風が吹いて聞き取れなかった言葉を必死に探すが残っている訳もなく。
「ねえ。氷呂。今、春華さん。村長のこと」
「え? 何?」
どこか緊張した面持ちの氷呂の手には一枚の布から丁寧に縫い起こされた小さな飾りが握られている。明羽は首を横に振った。
「ううん。なんでもない」
「そう? ちょっと行ってくるね」
氷呂が春華の前に歩み寄る。
「春華さん。試し織りの布で作ったコサージュです。受け取ってもらえると嬉しいです」
〈まあ。ありがとう〉
氷呂からコサージュを受け取った春華は本当に嬉しそうに笑った。明羽は急に自分も何か渡したくなってサッと翼を広げ、羽根を一枚引っこ抜く。
「春華さん! 良かったらこれも! お守りになるんだって」
氷呂のコサージュに明羽の羽根を添えて春華はそれを胸に飾った。
〈ありがとうございます。明羽さん。氷呂さん。……夏芽〉
呼ばれても夏芽は返事をしなかった。ただ、尻尾が一振り揺れる。
〈夏芽。私のかわいい子〉
春華は夏芽を抱き締める。
〈大丈夫。また会えるわ〉
「……うん」
夏芽が春華を抱き締め返し、母娘はお互いの気持ちを確かめ合った。
〈皆さん。大変お世話になりました〉
間を置いて、空を見上げた春華に釣られて明羽も空を見上げていた。いつかの青空はもうそこにはなく、いつもの風に砂舞う茶色い空が広がっていた。
〈どうか、気を付けて。北から災いがやってきます〉
突然もたらされた不吉な予言にその場にいた誰もが呆気に取られる。そんな村人達の顔を春華の憂いに満ちた瞳が見つめていると白い獣が半歩前へ出る。
「それは、どういう?」
〈分かりません。ただ、落ち着かないのです。ですが、どうか、世迷い毎と仰らず……〉
「精霊の予言を蔑ろにはしないさ。気を付けるよ」
春華は目を伏せ、夏芽を見る。
〈またね〉
「うん。お母さんも気を付けて」
名残惜しそうに夏芽を見つめながら春華は砂と風が波打ち渦巻く空へと消えていった。夏芽は暫くその場から動かない。標が夏芽に近付こうと一歩踏み出すが側に行く前に夏芽は顔を上げた。
「充電完了!」
その大きな声に明羽と氷呂、その場にいた皆がビクリと身体を震わせた。
「お母さんの言ってたことは気になるけど。ひとまずは普段の生活に戻らなくちゃね」
「いつもの夏芽さんだ」
「夏芽さん」
「なあに? 氷呂ちゃん」
「春華さんとお揃いです」
氷呂が差し出したのは色味は少し違うが先程春華の手に渡ったコサージュと同じデザインの飾りだった。それを見た明羽は翼から羽根を一枚引っこ抜き、氷呂の手の中にある飾りに添える。
「夏芽さん」
「夏芽さん」
明羽と氷呂が差し出す飾りを夏芽は大事に受け取った。
「ありがとう。明羽ちゃん。氷呂ちゃん」
ここ数日の夏芽のはしゃぎ様を見ていた村人達が夏芽を励まそうと囲み始める。
「もう、大丈夫だったら!」
普段なら村人達に頼られることの多い夏芽が村人達に構われる姿は中々に新鮮な光景だ。
「夏芽さんの知らなかった一面が見れて楽しかったな」
「そうだね。初めて尽くしの数日だったね」
集団から弾き出された明羽と氷呂は端に寄っていた。夏芽が村人達を散らして行く。明羽は氷呂の手を握っていた。氷呂は当然のように握り返す。
「素朴な疑問だけどさ。春華さんが精霊ってことはお父さんの方が聖獣ってことだよね」
「そうだね」
「お父さんの話は一切出てこなかったけど。なんでだろう?」
「そういえばそうだね。子供の頃にお母さんと旅してたって言ってた時もお父さんの話は出てこなかった。つまり、一緒じゃなかったってことだよね。もしかしたら、それこそ避けた方がいい話だったり……」
「でも、大した理由もないかもしれない。聞いてみないと分からない」
「ええ……。う~ん。夏芽さんの反応見て判断する?」
氷呂が迷いながらもゴーサインを出したことに明羽は意外に思う。大分村人の捌けた夏芽に向かって明羽と氷呂は歩き出す。氷呂が止めなかったことで内心焦った男がふたりを止めに入る。
「やめとけやめとけ。それは触れない方がいいことだ」
「標」
「標さん」
「その言い草だと標は知ってるの?」
標は黙り込んだ。
「知ってるね」
「ノーコメント!」
明羽はジッと標を見上げてからサッと夏芽に向かって走り出した。
「明羽! お前は自分の足の遅さを自覚しろ! ん!?」
標は手を伸ばすが何故かその手は明羽を捕まえることができなかった。確実に届く距離であるのにも拘らず。足は遅いが持ち前の運動神経で明羽は標の手をのらりくらりとすり抜けた。
「夏芽さーん」
「明羽ちゃんまで私を励ますって言うならお断りよ! 本当に大丈夫なんだから!」
「それは心配してないよ!」
「じゃあ、なあに?」
「聞きたいことがあって。夏芽さんのおと……」
「そこまでだ!」
標が明羽の口を押さえた。
「むむ~!」
「ちょっと、何?」
夏芽が怪訝な顔になる。
「なんでもない。気にするな」
「夏芽さんのお父さんはどんな方なんですか?」
明羽で手一杯だった標が驚いて氷呂を振り返る。夏芽がキョトンとした。
「お父さん? お父さん……お父さんねえ。私、お父さんのこと知らないのよね」
「へ?」
標の手から逃れた明羽が声を上げる。
「夏芽さん。お父さんに会ったことないの?」
「ないのよー」
「春華さんは何か言ってなかったんですか?」
「もういいだろ」
標が止めに入るが明羽と氷呂はそれを無視する。
「夏芽さんから尋ねたことはなかったの?」
「う~ん。興味なかったのよね。お母さんが話してくれたら聞いてたと思うけど。お母さんからそれらしい話が出たこともなかったし。何より、私はお母さんがいればそれで良かったし」
夏芽の最後の言葉にここ数日の夏芽と春華の行動を見守っていた明羽と氷呂は納得できてしまう。
「じゃあ、今私達が話題に出したことで興味が出たり……」
「はいはい! もう本当にそこまでな!」
標が本気で止めに掛かったので明羽と氷呂は口を噤んだ。しかし、夏芽が見逃さない。
「なんか、怪しいわね」
「そういえば標はなんか知ってそうだったよね?」
標が驚いて明羽を見下ろした。
「へえ~?」
夏芽が標を覗き込むが標は口を引き結ぶ。夏芽は腕を組んで標を見据える。
「まあ、いいわ」
「いいの? 夏芽さん」
「隠し事をされているのは癪だけど。私、本当にお父さんのことはどうでもいいのよね。だって、必要な事なら絶対お母さんが話してくれてるもの」
「そういうものなんですね」
「そういうものなのよ。だから、あんたが話してもいいかって思ったら話しなさいよね」
夏芽が標の肩を軽く小突く。
「じゃ、私は診療所に戻るわ」
夏芽が歩き去り、標は肩から力を抜いた。
「標」
「標さん」
「お前らに話すことなんて何もねえよ」
ため息をついて歩き出した標に明羽と氷呂は本当に標は話す気がないのだと理解する。
「気になる。けど」
「これ以上の詮索は無粋だね」
「ああー。でも、やっぱり気になるー」
「明羽」
「分かってるよ。無理に聞き出すなんてしないよ。当人達の問題だって重々承知してるよ」
明羽は標と夏芽がそれぞれに歩き去った方を見てから氷呂と共に日常に戻る為に歩き出す。
標はひとり俯き加減になりながら倉庫側を歩いた。かつて、体調を押して春華と話をした時のことを思い出す。あの頃はまだ春華とも知り合ったばかりで自分の不調で人を避けるのは失礼だと無理をしたのだ。自分を押し殺すことは相手の為にならないこともあるのだと今では教訓にしている。教訓にする程に骨身に染みる出来事だった。かつて標は明羽と氷呂が夏芽に尋ねたことを春華に尋ねたことがあった。
+++
「夏芽のお父さん。つまり、春華さんの旦那さんはどんな人なんですか?」
〈何故、そんなことを尋ねるのです?〉
春華は心底不思議そうに首を傾げていた。
「一切話しに出てこないので。ちょっとした好奇心です」
その好奇心は持つべきものではなかったと現在の標は後悔している。
標の問いに春華はニッコリと笑った。本当に清々しい程影のない笑顔で春華は言い放つ。
〈他に女性を作って私から去って行きました〉
標は両手で顔を覆った。
「それ、夏芽も知ってます?」
春華は質問の意図が分からないというように首を傾げた。
〈そういえば、話していませんね。そもそも、話す必要があるんでしょうか? 私もすっかり忘れていたことを〉
「忘れてた?」
〈今、標に聞かれて思い出しました〉
破顔する春華に標は恐れに似たものを覚える。春華の言葉には嘘も虚言も見受けられない。それはつまり、本当に自分と子供を捨てた男のことをすっかり忘却していたということに他ならない。子供をこさえるぐらいには情を傾けた筈の相手をさっぱり忘れることなどできるのだろうか。二の句が継げない標に春華は、精霊は続ける。
〈ああ、そうですね。なんだか思い出して来たような。そう、最初こそ、寂しかったような? ですが、諦めて、受け入れた。好きだった。ええ、とても愛していた。でも、あの人が他の人を好きになって私から心が離れてしまった。そんなあの人を私が引き止めるのもおかしな話ですよね? 私にあの人を縛る権利なんてないんですから。そんなことより〉
そんなことと春華は言う。
〈夏芽が私を呼ぶんです。お母さんって、駆け寄って来るんです。かわいい、かわいい私の娘。他には何も必要なかった。そう、夏芽がいる。それが全て。側にいることはもうできないけれど、十分。十分です。あの子の幸せが私の全て。あっ。標! 大丈夫ですか? やっぱり私の声は……〉
春華の声が遠退いていくのを聞きながら身体的に限界の来た標はそこで意識を手放した。
+++
その後、春華に呼ばれた夏芽が標を介抱したのは言わずもがな。目を覚ました標に夏芽が「お母さんの心労になるようなことしてんじゃないわよ!」と鉄拳を食らわしたのだがそれは余談だろう。とにもかくにも精霊とは情に厚く、非情な種族なのだと標は思ったのだ。
「まあ、俺の心情はいいとしても俺からすべき話じゃないし。できるかってんだ」
標はこの話を墓まで持って行くことを決めている。その決意は固い。
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