第3章(5)

 その頃、標と夏芽は明羽と氷呂を目の端に捉えてはいたがあることに気を散らされていた。

「さすがにこう、しつこく見られてると鬱陶しいな」

「そうね」

「お前は面倒臭いのに目を付けられやがって」

「面倒臭いか分からないじゃない」

「何日も後を付けてこっちを見てるだけの連中なんて面倒臭いに決まってる」

「それにしてもこれじゃあ。明羽ちゃんと氷呂ちゃんに集中できないわね」

「話をすり替える……。まあ、いいけどよ。氷呂の前にこっちをどうにかするか」

 明羽の元から少女が去って行くのを確認して標と夏芽は明羽に近付いた。

「明羽。用事ができた。すぐに済ませるつもりだが。どうした?」

「なんでもない」

 明羽は顔を上げずに答えた。明羽の様子がおかしいことに標と夏芽は顔を見合わせる。

「明羽?」

「明羽ちゃん。氷呂ちゃんと何か……」

 明羽は首を横に振る。

「用事ができたんでしょ? さっさと済まそう。何するの?」

「うん……」

 標はひとまず頭を切り替えることにした。

「夏芽の後を付けて来る奴らを片付ける」

「うん。分かった」

「よし。じゃあまずは」

「私が囮ね」

 夏芽の提案に標が眉間に皺を寄せる。

「わ、た、し、ね」

「……後から付いてく」

「ええ。よろしく」

「炙り出すってことでいいの?」

「ああ」

 明羽の覇気のない声に標は頷いた。それから夏芽を見据える。

「ひとりで戦おうなんて思うなよ」

「私に戦闘力なんてないわよ。頼りにしてるわ」

「ん。分かってるならいい」

「じゃあ、私は今から人気の無いところに向かうわね。行ってきます」

 夏芽が軽い足取りで歩き出すのを見送って標は呟く。

「心配だ」

 明羽と標は夏芽を見失わない距離を保ちながら後を付いて行く。夏芽はカモフラージュなのかチラリチラリと店舗を覗きながら次第に人気のない方へ。すっかり人気がなくなり、周りを壁に囲まれた袋小路に夏芽が足を踏み入れるとその背後にひとりの男が現れる。ウェイター姿の優男は夏芽に向かって人当たりのいい笑顔を向けた。

「お嬢さん。もしかして迷子じゃないですか? 大通りまでご案内しますよ」

「ご親切にどーも」

 続いてガラの悪い男達がぞろぞろと物陰から現れた。ウェイター姿の男も含めて総勢四名。全員が下卑た笑いを夏芽に向ける。

「多少、年はいってるがこの容姿ならそれなりの値段が付く」

「品定めどーも。後ろに気を付けた方がいいわよ」

「は?」

 悪漢四人のうちひとりが夏芽の横を通り過ぎたかと思うと袋小路に激突した。残った三人が振り返るとそこには紫黒の髪、闇色の瞳の青年が仏頂面で立っている。標は悪漢ひとりを蹴り飛ばした長い足を下ろした。標に危ないから少し離れたところにいるよう言われた明羽は袋小路を囲む建物の屋上から標と夏芽と悪漢達を見下ろす。万が一にも標が負ける要素が見受けられない光景に明羽はつまらなそうに息を吐き出した。分かり切った結末をわざわざ見る必要はないと明羽は眼下から顔を上げる。屋上からの景色は下を歩いている時に見る景色とは一変する。開ける視界に太陽の光を反射して真っ白に輝く洗濯物が屋上という屋上にはためいていた。明羽は村の広場で視界一杯に洗濯物を干した時のことを思い出す。村の皆と氷呂と協力して洗濯をした時のことを思い出す。

「氷呂……」

「言動から見るにお前らがここ最近続いてる少女行方不明の犯人か?」

 聞こえてきた標の声に明羽は眼下に目線を戻した。

「若い女の子達ばっかりって聞いてたけど。なんで私?」

 夏芽の言葉に人買いが舌打ちする。

「チッ。ひとりになるところを狙ってたってのに。俺らの方が誘い出された訳か。事は焦るもんじゃねーな」

「お嬢さんはなかなか隙を見せなかったからな。随分焦らされた。昼間はいつも人の多いところにいるし」

「夜は何故か見つからないし」

「気配を消すのは得意なのよ」

 夏芽の発言に標が蟀谷を押さえた。人買い達は未だ自分達の方が人数的に優位だと油断しているのか喋り続ける。

「俺らだってできればまだ世俗に塗れてないかわいい子が良かったさ」

「なんか癪に障る言い方ね」

「あんたらを初めて目にした時は驚いたぜ。危うくガキを轢き殺しかけた時、こっちを見てただろう」

 人混みの中、クラックションをけたたましく鳴らしながら走り去って行った車のことを明羽と標と夏芽は思い出す。運転手と目が合った時の恐怖心を思い出して明羽は自身の肩を抱いた。

「あの時、既に目を付けられてたって訳か。それなら……」

 明羽と氷呂の方がこいつらの目的には合致していたのではと標は思う。

「あの時にはもうそれなりの収穫もあったし、隠れ蓑も引き払ってそろそろお暇しようかと思ってたところだったんだよ。けどな、トンデモねえ上物をみすみす見逃して行くなんざできなくてよう。機会を窺ってたのにあの後何故かお前らあっと言う間にオアシスから出て行っちまいやがって。あの時の俺らの落胆っぷりを見せてやりたかったぜ」

「知らねえよ」

 標は投げ遣りに答えていた。

「だが、お前らは戻って来た! もしかしたらなんて希望を抱いてリスクを負って粘った甲斐があったぜ! 隠れ蓑のアルバイト探しは勤務態度が悪いとかっていつの間にかブラックリストに載ってて新しいのを探すのが大変だった!」

「アルバイト?」

 人買いが何やってるんだと夏芽は呆れるがふと思い出す。

「勤務態度が悪い……。ねえ。もしかして、あんた達の誰か楽器屋で調律師やってたりした?」

 三人のうちふたりがウェイター姿の男を指差した。

「なるほどね。音楽のおの字も分かってなさそうなポンコツ顔」

「音なんか全部一緒だろうが!」

 夏芽はため息をついて首を左右に振った。夏芽の態度にウェイター姿の男はイラついた顔になるがすぐに余裕の笑みを取り戻す。

「まあ、いい。何にせよお前達は戻って来た。青い髪の美少女とそこの女だけだったのも好都合だった!」

 標の眉がぴくりと反応する。

「しかも、日暮れ直前に別行動始めて。このチャンスを逃したら大馬鹿野郎だと俺達はすぐに青い髪の美少女の元へ走ったぜ! 足の速さには驚いたし、オアシスを半周する程逃げられたのにも驚いたが地の利はこっちにある。袋小路に追い込むのに時間は掛からなかった! けど、その後も裏道に積まれてた木箱だの角材だのを足場に器用に上に逃げられてな。結構面倒だったんだぜ。けど、俺達は諦めなかった! ここまで来て諦められるか! もう少しってところで、落ちたんだ」

 その時、氷呂が明羽の名を呼んだのだと、明羽は動けない寝床の上で聞いた氷呂の声を思い出す。

「ヤバいと思ったぜ。顔に傷なんかついたら売り物にならねえからな。下を覗き込んだら美少女はピクリとも動かねえし。俺達も降りようとしたら、女が裏口から出て来たんだ。俺達は被服屋の屋上に立ってた。女は被服屋の女主人だった。そしたらその女、どうしたと思う? あろうことか美少女を店の中に運び込んじまったんだ! こうなったら今夜中は無理だと諦めて帰りかけたら今度はそこの美人さんが歩いてやがる。急遽予定を変更したぜ! けど、これまた難航しやがる! こうなったらってこっちも意地になってな!」

「なるほど?」

 被服屋の女主人が何故氷呂を姪と偽っているのか疑問は残るが、氷呂が記憶を失うに至った原因は間違いなく目の前の男達の所為だと分かって標が拳を握る。

「覚悟しろよ。お前ら。俺は今加減ができそうにな……」

 悪漢達の上に影が落ちた。急な影に何事だと、悪漢達だけでなく標と夏芽も空を見上げる。屋上から飛び降りた明羽が三人のうちのひとりの上に着地した。

「ぐえっ」

 潰れた悪漢から声が漏れる。

「明羽!? 離れてろって……」

 標の言葉が終わらぬうちに明羽の足は目の前の悪漢に吸い込まれた。ボキッという音が響くと悪漢が声もなく倒れる。

「あのブーツ。鉄板でも仕込んでたっけか?」

「いや、普通のブーツだった筈だけど……」

 標と夏芽が言葉を交わしている間に明羽は残ったひとりに近付いて行く。近付いた明羽に悪漢は尻餅を付いた。明羽を見上げて動けない悪漢に明羽は片足を上げる。踏み潰すつもりだと気付いて標は明羽を止める。

「明羽。落ち着け。そこまでにしとけ!」

 明羽を夏芽に放り投げて、標は今まさに明羽に踏み潰されそうになっていた悪漢の腕を捻り上げる。

「イテッ! 痛い! イタタタタタタ!」

「標。こいつらどうするの?」

 夏芽がまだ踏み潰すのを諦めていない明羽を押さえながら問い掛ける。

「そうだな。全員ふん縛って人目に付くところに置いておこう。こいつらが人買いですって張り紙して。そしたら誰かが役人に通報してくれるだろ」

「そう。そうね。直接連れてって色々追求されても面倒だものね。そうしましょう」

 そして、標はそこら辺に無造作に積んであった角材などに紛れていた荒縄を拝借した。


 時刻は午後の書き入れ時に差し掛かっていた。通報を受けた役人がやって来る。普段なら人通りは多くないが全くないという訳ではない通りの一角に人集りができていた。

「応援に呼ばれてすぐに犯人確保か。タイミングいいんだか悪いんだか」

 人集りより頭ひとつ分背が飛び出ている白い制服に身を包んだ役人、スズシロはため息をついた。人集りからこのオアシスに常駐するふたりの役人が縄に縛られた四人の男を連行する。四人の男の額には『人買いです』と書かれた張り紙が漏れなく全員に張り付けられていた。スズシロが同僚に声を掛ける。

「お疲れ」

「お疲れ。折角南の町から来てくれたのに悪かったな」

「いや。無事捕まって良かった。それに、まだ尋問があるだろ。手伝うぞ」

「助かる。ところでお前の相棒はどうした? どっかの貴族の子息だっていう」

「近くにいるとは思うが。あ、いた。テン!」

 近くのベンチにテンは悠々と座っていた。

「コラー。勤務中だぞ!」

「シロ。うるさい。面倒臭い」

 スズシロが震える拳を握るのを見てオアシスの役人がその肩を叩いた。

「大変だな」

 オアシスの役人は人買い達を連行し、スズシロは相棒のテンを連行して行く。スズシロはその場を離れる際、ある軽食屋に目が吸い寄せられた。そこには長身の黒髪の男。色白の美しい女。緑を帯びた黒髪の少女が座っていて「目立つ三人組だ」とスズシロは思うだけ思って職務に戻る。尋問を受けた人買い達は暫く「自分達は人買いじゃない。騙されたんだ」と宣っていたが間もなく行方不明となっていた少女達が一台のトラックの中から見つかって、少女達の証言から男達はお縄となった。トラックを定期的に移動させることで見つかりにくくしていたらしい。人買い達を人知れず捕まえた者については色々な噂が飛び交った。もしかしたらその中には真実も含まれていたかもしれないがどれが真実かなんて噂をしている者達にはどうでもいい。役人達はその謎の人物、または人物達を探そうにも人買い達は自分達をコテンパンにした者達に恩賞が入ることを拒むように頑なに語らなかった。根も葉もない噂を役人が当てにする訳にもいかずその正体は謎のままとなった。そして、人買い達が連行されて行く時、その功労者である筈の三人は軽食屋のテーブルで三人揃って頭を抱えていた。

「これからどうする?」

「どうするっつってもなあ……」

 標と夏芽がため息をつく。ふたりがチラと横に目を向ければ、明羽が死人のように机に突っ伏していた。

「明羽ちゃんはどうしたのかしら? 氷呂ちゃんと別れてから明らかに元気ないわよね?」

「人買い達に対してのあれは氷呂を陥れようとした奴らへの怒りだったと思うが、若干八つ当たりも入ってたような気もする」

「人買いに気を取られて会話を聞き逃していたのが悔やまれるわ」

 ふたりは再びため息をつく。

「手詰まりだな」

「手詰まりよね」

 氷呂の記憶が戻れは話は早いのにと標と夏芽も思わずにはいられない。何もできずに時間ばかりが過ぎていく。明羽は突っ伏した頭を少し動かし、薄くできた視野から人混みを眺める。人混みの中に無意識に青い髪の少女を探す。

「氷呂……」

 名前を呼んでも答えてくれる人は側にいない。明羽が目を瞑って無気力にしているのを標と夏芽は見つめるしかない。どれくらいの時間が経ったか。短かったような気もするし長かったような気もする。ふと視線を感じた明羽が目を開くと視界の中央に青い髪の少女が映った。普通ならお互いに目が合ったことすら分からなそうなのに少女はハッとして目を反らし、歩き去って行く。

「うう~~」

 明羽は唸った後、勢いよく立ち上がる。

「ふん!」

 急なことに標と夏芽が目を丸くした。

「行こう! その被服屋に!」

「お、おう! そうだな!」

「とりあえずここでうだうだしているよりはいいわね!」

 明羽の宣言に標と夏芽も立ち上がる。予め調べておいた場所を確認して三人は歩き出す。ずんずん先を歩く明羽に標と夏芽はホッとした。


 青い髪の少女がとある被服店の扉を開ける。

「ただいま帰りました。叔母様」

「おかえり。ルナ。今日は寄り道しないで帰って来たね」

 店の女主人のホッとした顔に少女は困ったように笑う。

「ごめんなさい。でも、もう大丈夫。遅れることはもうないから」

「そうかい? 何だか表情が暗いね。悩み事があるならお話よ。ちゃんと聞くから」

「叔母様。……あの」

「うん」

「友達ができたと思ったんだけど。私が先走っちゃったみたいで……」

「……友達?」

「はい。人を探してる子で。その子の探し人が私にすごく似てるらしいの」

 女主人の息を呑む気配に少女は顔を上げる。

「叔母様?」

「そ、それで、どうしたんだい?」

「友達になりたかったけど、私はあの子の探し人じゃない。だから、お別れしたの」

「そ、そうかい」

 女主人は明らかにホッとする。そして、優しく少女を抱き締めた。

「ルナ。私のかわいい……姪っ子。あんたはどっかにいなくなったりしないでちょうだいね」

「どうしたの、叔母様? 私はどこにも行かないわ」

 少女はくすぐったくて笑った。この時、少女は女主人が罪悪感で一杯の顔になっていたことなど知る由もない。

「叔母様。私、奥で布を仕上げて来るわ。早く一人前にならなくちゃ。叔母様と叔父様の優しさに報いなくっちゃ」

「ああ。ルナ。楽しみしているね」

 機織り機の置いてある部屋に消えていく少女の姿を女主人は見送った。二階に続く階段から静かに男が降りて来る。女主人はその男の顔を見る。

「あんた……」

 女主人の悲しそうな顔にその夫も悲しそうな顔になる。

「お前。やっぱりあの子は返してあげるべきじゃないか?」

「でも、あの子は……」

「私達の娘はもういないんだ。娘と同じように布を織るのが好きでも、あの子は私達の娘じゃない」

「分かってる。分かってるよ。でも、でも……。もう少しだけ」

 震える女主人の肩を夫は優しく抱いた。青い髪の少女はカタカタパタパタカラカラと軽快に機織り機を操った。少女はこの音が大好きで、どうしたら想像通りに模様を浮かび上がらせることができるか考えに没頭するのが好きだった。この時間が大好きだった。もうすぐまた、新しい布が織り上がる。

「叔母様。喜んでくれるかしら」

 次はどんな模様にしようかと少女は楽しみで頬を緩めながら出来上がった布の糸の端を結ぶ。少女は意気揚々と店内へと続く扉を開けた。扉の向こうでは女主人が脚立の一番上に座って商品棚の整理をしているところだった。女主人の元へ少女は駆け寄っていく。

「叔母様。見て! 出来たの! 自信作だよ」

 興奮気味の少女に苦笑しながら、女主人は脚立に乗ったまま少女から布を受け取った。

「どれどれ? あらあら、これは」

 女主人のどこか諦めた顔に少女の表情が曇る。

「叔母様。私、失敗したかな?」

「いやいやいや!」

 女主人は慌てて顔の前で手を横に振る。そして少女に聞こえないように呟く。

「私の娘はここまで立派なものは織れなかった」

「叔母様?」

「何でもないよ。ルナ。素晴らしい出来だ。さあ、これに値段を付けないとね」

「うん!」

 女主人が脚立を降りようとした時、少女は女主人の身体が傾ぐのを見た。

「叔母様!」

 少女は足を踏み外した女主人の身体を支えようと両腕を伸ばす。店内に青い光が迸った。伸ばした両腕に重みを感じず、少女は正体不明の光に閉じてしまった目蓋を開く。少女の目の前で女主人は宙に浮いていた。女主人は透明度の高い冷たく澄んだ水の塊に支えらえていた。

「え? なに、これ?」

 少女は女主人を支えようと伸ばしていた腕を引っ込めた。途端、女主人を支えていた水は消え、女主人が床の上に落ちる。

「うっ」

 衝撃に呻いた女主人に少女は慌てて近寄ろうとする。

「叔母様! 大じょ……」

「ひいぃいぃぃっ!」

 女主人は手をブンブンと振りながらのたうつように後退った。

「あ、亜種!」

 先程までの優しい眼差しが嘘のように女主人は恐れに満ち満ちた目を少女に向けていた。

「お、叔母様?」

 訳が分からないと混乱する少女の背後でカタンと音がする。少女が振り返ると女主人の夫が侮蔑に満ちた目を少女に向けていた。見たこともない叔父の顔に少女は首を傾げる。

「……叔父様?」

「わ、私の妻に近寄るな! ば、化け物!」

 少女は今一度床に這い蹲る女主人に目を向ける。すっかり腰が抜けてしまったのか女主人は立つことができないようだった。

「あ、ああああああ、亜種! なんてこと!?」

「叔母様……」

「ひいいいいいい! 近寄るな! 殺さないで!」

「妻に近寄るな! 近寄るんじゃない!」

 妻に近寄るなと言っているのか自分に近寄るなと言っているのか。さっきまであんなに優しかった女店主とその夫の豹変ぶりに少女は困惑する。

「叔母様、叔父様……」

「わ、わわわわ、私はお前の叔母なんかじゃない! お前はたまたまっ、ウチの裏に落ちてきただけだ!」

 少女は今まで信じて来たものが崩れ落ちる音を聞く。少女は自分の顔を両手で覆った。

「私、私は誰……?」

「知らないよ! 亜種だなんて知ってたら助けなかった! さっさと出て行っとくれ! 出て行け!」

 もう少女を見ることすらせず女主人は叫び続ける。少女の背後から木の箱が投げ付けられる。それはどこからともなく現れた水の塊によって阻まれ少女に届くことはなかった。地面に落ちた箱が鈍い音を立てる。少女に怯える男と女がビクリと身体を震わせた。不安に視界が真っ暗に侵食されていく中、少女は一筋の光を見る。緑を帯びた黒髪を左耳の後ろでひとつに束ねた少女の姿を少女は思い出す。人を探していると言っていた少女。青い髪をなびかせて少女は走り出していた。少女が側を通り過ぎる際、女主人が肩を震わせたが少女は振り返ることなく被服店を飛び出した。


 明羽は気合十分にズンズンと歩いていく。その後を標と夏芽が続く。

「明羽。一応聞いていいか」

「何?」

「何か策とか……」

「なるようになるさ!」

「まあ、前向きなのはいいことか」

「うふふ。鬱々とされるよりずっといいわ」

 迷いなく通りを歩く三人の前方が何やら騒がしくなる。

「なんだ?」

 標が明羽を背後へ押しやった。三人は立ち止まって様子を見る。

「ごめんなさい。通して……」

 人々の波から抜け出そうとする青い髪の少女の姿を明羽は見つける。

「氷呂?」

 明羽が呟くと青い髪の少女が明羽をその瞳に捕らえた。その顔がくしゃりと歪む。

「あなた……明羽!」

 明羽は駆け出していた。人の波から抜け出した少女もまた駆け出す。

「氷呂! あ、いや、ルナ! どうしたの? 何かあった?」

「分からない! 分からない……」

 明羽の前に辿り着いた少女は涙に濡れる顔を覆う。

「ただひとつ分かるのは、私は、私はルナじゃない! 私は誰!?」

「氷呂は氷呂だよ」

 明羽は当然のように少女を抱き締めた。その耳に囁く。

「氷呂は聖獣で、この世で最も美しくて、私の大切な友達」

 少女と向き合って明羽はニコッと笑った。明羽の笑顔を見た少女の中から一切の不安が掻き消える。少女の脳裏で光が弾けた。青い水を湛えた湖面に光が反射している情景が浮かぶ。それはきらきらキラキラ、なんて眩しくてなんて美しい光景か。

 通りの騒ぎがますます大きくなっていた。

「明羽ちゃん!」

 夏芽に呼ばれて明羽は少女の手を掴んで走り出す。少女は抵抗することなく明羽に付いて走り出した。次第にこちらに迫ってくる騒ぎの声が明羽の耳にも意味をなして聞こえてくる。

「亜種が……」

「亜種が出たらしい」

「まあ! 亜種が!?」

「捕まえたのか!?」

「それが逃げたらしい」

「人買いが捕まってやっと安心だと思った矢先に!」

「早く! 役人に通報しろ!」

「亜種の特徴は?」

「なんでも絶世の美少女らしい」

 明羽と共に走り出していた標がスピードを落として明羽の隣に並ぶ。

「標?」

「抱えるぞ」

「へ?」

 次の瞬間には明羽は標の腕の中だった、

「ちょっと!?」

「夏芽!」

「はいはい。氷呂ちゃん!」

 明羽に変わって夏芽が少女の手を掴む。三人の走る速度がいや増した。明羽は自分の足の遅さを認めざるを得なくて歯ぎしりする。

「このままじゃ目立つばっかりだな」

「囮が必要ね!」

「……何で楽しそうなんだよ」

「道行く人達の目を明確に違う方に向けなくちゃ!」

「だから、なんで楽しそうなんだよ」

「私達がちゃんと逃げ切れるように考えて言ってるのよ」

「……どんな策があるって?」

 夏芽は標に耳打ちする。走りながら器用なものだと明羽は思う。

「本気かよ」

「本気よ!」

「ハア……。分かった。だが、明羽と氷呂をオアシスの外、安全なところまで行って降ろしたら俺は戻って来るからな」

「心配性ねえ」

 標が夏芽を睨む。

「ごめんなさい」

「……捕まるなよ」

「もちろんよ。まっかせて!」

 夏芽は三人から離れるとずっと隠していた尻尾をひらりと出した。それはすぐに人の目に付き、誰かが叫ぶ。

「亜種だ!」

 あっと言う間にそっちに人々の意識が向いた。追いかけて来る人間達をひらりひらりと交わしていく姿はまるでダンスでも踊っているかのように軽やかで、容易く人々の目を奪っていく。

「気配消すのも得意だけど。目立つのも得意なのよ」

 夏芽の姿が明羽達の視界から消える。

「やりすぎだ……」

「何するのかと思ったら。すごいね。夏芽さん」

「あんまり褒めんなよ。調子乗るから。まあ、いい。行こう。氷呂。付いて来いよ」

「あ、あの……」

 少女が不安そうな顔で標を見上げた。

「標。私、走るよ」

「どの口が言う」

「夏芽さんが気を引いてくれた今なら、い、行けるんじゃないかな? せっかく作ってくれた時間を使っちゃうのは忍びないけど」

 明羽の目が少しだけ泳いだ。標は一瞬だけ考えて明羽を下ろす。

「走るぞ」

「うん! 行こう。氷呂」

 明羽は改めて氷呂の手を取った。明羽は標の後に付いて走り出す。その手に引かれて走り出した少女の目の前で束ねられた緑を帯びた黒髪が揺れる。少女は酷く懐かしさを覚えた。同時に呼び覚まされる光景。見慣れた町並みは南の町の光景だ。学校に遅刻しそうになって明羽とふたりで走ったことがあった。ああ、そうだと少女は思う。あの時はまだ明羽は髪飾りをしていなかったと。結び目から揺れる涙型の緑色の石は氷呂の手首を飾る青い石ととてもよく似た形をしている。

「……明羽?」

 控えめなその声に明羽は軽く目を見開いて少しだけ振り返る。青色の瞳が何故か不思議そうに明羽を見つめていた。明羽はその瞳にただただ微笑んだ。車に辿り着くと標は毛布をひっぱり出し、それを氷呂に被せる。明羽と氷呂を後部座席に乗せ、標は運転席に乗り込んだ。荷物満載のもう一台は置きっぱなしにして標は車を発進させた。夜中に張っていた幌は取り払ってしまっていたのでオープンな状態で車は走る。騒ぎがオアシス中に広がり切る前に三人はオアシスから脱出することに成功した。オアシスの影と形が見えなくなっても標は車を走らせ続けた。生き物の気配が本格的にしなくなって来た頃、小さな無人のオアシスに辿り着く。明羽と氷呂を車から降ろし、標は運転席から身を乗り出す。

「俺はこれから夏芽を迎えに行く。お前達は少しここで待っててくれ。日が完全に沈む前には戻って来たいと思ってる。お前達をふたりだけにして置いてくのは心苦しいんだが」

「大丈夫だよ」

 明羽が明るい声で言った。その手は隣で少し呆けたようにしている氷呂の手をしっかりと握っている。標もどこかホッとした顔で微笑んだ。

「そうか。むしろふたりだから大丈夫か」

「そう!」

「じゃ、行ってくる。絶対にここから動くなよ」

「うん! 任せた!」

 明羽の元気いっぱいの声に標は苦笑して車を発進させた。

「ちゃんと夏芽さん連れて帰って来てね!」

 標は手を上げることで返事をしてオアシスへと戻って行く。小さくなる車を明羽はまっすぐに見送る。ヒヤリとした風が吹いた。西の空から群青色が広がり始めていた。

「明羽」

 振り返れば氷呂が明羽を見つめている。

「氷呂」

「うん」

 明羽は零れそうになった涙を堪えた。

「氷呂!」

「うん」

 氷呂は表情に乏しいまま頷いたが明羽は両手を広げていた。

「氷呂! やっぱり、記憶が戻ったんだ!」

 明羽の喜びように氷呂は苦笑する。

「うん。でも、なんか色んな映像が急に頭の中に浮かんで来て、それを整理するのにちょっと、混乱してる」

「それは大変だ。私になんか手伝えることある?」

「そうだね。じゃあ、昔話に付き合って」

「昔話?」

「そう、一番最初から。私達が南の町でおばさん達に拾ってもらったところから。記憶の整理を手伝って」

「なるほど。喜んで!」

 標と夏芽を待ちながら、ふたりはひとつずつ、思い出せるだけ、お互いの記憶を照らし合わせていく。

「それでおばちゃんがさあ」

「あはは。そうだったね」

 ふたりの間で言葉は途切れることなく次から次へと溢れる。

「それで謝花が」

「そうだったっけ?」

「え?」

「ふふ。冗談だよ」

 少しずつ、氷呂の記憶と現実の時間のズレはなくなっていく。氷呂が空を見上げた。

「そう、そうだった。追い掛けられて、逃げて、簡単に撒けると思ったんだけど存外しつこくて」

 氷呂は自身の後頭部を撫で、小さく息を吐き出した。

「ごめんね。明羽。私が明羽のことを忘れるなんて。あってはならないことなのに」

「でも、思い出してくれた」

 明羽が笑い、氷呂が微笑む。

「明羽は天使で、私の友達で、家族で、ずっと一緒にいたね」

「これからも一緒だよ」

「うん」

 氷呂が明羽の手を握った。その手が震えていて明羽はその手を握り返した。

「明羽」

「うん」

「明羽」

「うん」

 氷呂が明羽の肩に額を乗せる。

「座ろうか」

「うん」

 氷呂をリードして明羽はその場に座り込んだ。氷呂がすっかり明羽にその身を預ける。明羽はその震える体を抱き締める。

「怖かった……、怖かった! 私が人間じゃないと分かった瞬間、あんなに優しかった叔母様と叔父様がっ……」

 氷呂の喉が詰まる。それは明羽の知らない氷呂だけの時間の話。聞こえてきた嗚咽に明羽は氷呂の肩を撫でる。撫でながら明羽は腹の底に溜まるような痛いような苦しいような、心臓が煩く鳴っているような感情を覚えた。今までに覚えのないその感情が他人に向けた感情であることだけは確かで明羽は考える。では、一体誰に向けた感情なのかと。明羽は分かっていた。明羽から一時でも氷呂を奪っておきながら氷呂を泣かす原因を作った人間達。

「明羽?」

 明羽は膨れ上がった暗い感情を押さえ込んで氷呂に目を向ける。濡れて潤む青色の瞳が明羽を見つめていた。明羽は氷呂を安心させるように微笑む。微笑んだ明羽を氷呂は黙って抱き締めた。


   +++


 時間は少し遡る。

 標が戻ったオアシスは大混乱に陥っていた。

「なんだこりゃ?」

 大勢の人々が通りに入り乱れ、あっちに行ったりこっちに行ったり。右を差す人がいれば左を差す人もいる。とても車で奥まで乗り入れることができず、道端に車を駐車すると標は走って夏芽と別れた場所を目指す。

「くそ。とんでもない時間のロスだな」

 なんとか目的の場所まで辿り着き、荷物で満載の車の無事も確認し、標は辺りに目を向ける。

「亜種はあっちだ!」

「いーや! あっちに行った!」

「向こうだよ!」

 ギャーギャーワーワーと主張と怒号が飛び交うオアシスの中で人々は驚く程に統率が取れていなかった。標は巻き込まれないように車の影に隠れるように移動する。

「何がどうしてこんなことに……」

「標」

 夏芽の声がして標は振り返る。しかし、そこに夏芽の姿はない。辺りを見回すとまた夏芽の声が聞こえてくる。

「どこ見てるのよ。ここよ」

 先程よりもずっと近くから聞こえた声に標が顔を向けてみればそこにいたのは帽子を目深に被った小柄だが少年というには背の高い男だった。標は訝しんで一歩後退ろうとして気付く。

「夏芽?」

「ご明察」

 帽子を軽く上げてウインクしたのは紛れもなく夏芽だった。

「おま……その……」

「あら、微妙な反応。割といい線いってると思うんだけど」

 夏芽は男物の長ズボンに男物の羽織り、目深に被った帽子の中に後ろ髪を隠し、一見しただけではとても女性とは分からない風貌になっていた。麗しの美青年という言葉が相応しいその完成度に標は絶句する。

「追っ手を撒くのに少し手間取っちゃって、混乱に乗じて一式拝借しちゃったわ。申し訳ないとは思うけどこのまま行こうと思う」

「あ、ああ。分かった。俺が乗ってきた車は人の数が多すぎてこっちまで乗って来れなかった」

「じゃあ、あんたはまず車の回収ね。こっちはこっちで何とか外に向かってみる。この混乱で外に逃げてる商人とか旅行者とかも結構いるみたいだからそれを見習ってみるわ。と、いう訳で、外で合流しましょ」

「え」

 標に有無を言わさず夏芽は車に乗り込むとエンジンを掛けて走り出した。人でごった返す中をタイミングを計って器用に抜けていく手腕は見事としか言いようがない。置いてきぼりを食らった標は慌てて来た道を駆け出す。

「あの、馬鹿。いや、車を別に置いて来た以上仕方がないのか?」

 標は夢中になって叫んでいる人々の間を必死に駆け抜けた。息切れしながら車に戻り、オアシスを出てからも暫く車を走らせた標は見る。オアシスが地平線に乗って見える場所で停車した車の中から夏芽が手を振った。

「明羽ちゃんと氷呂ちゃんはどこに置いて来たの?」

「もうちょっと行ったところにものすごく小さい無人のオアシスがある。付いて来い」

「了解」

 二台の車は赤く染まり始めた砂漠に長い影を伸ばしながら走り出した。


   +++


 明羽は偶に風が吹いて砂が転がる音が聞こえるだけの砂漠を眺めた。明羽の膝を枕にしていた氷呂が目蓋を薄らと開く。次の瞬間氷呂はパッと身体を起こした。

「ごめん。明羽。私、寝てた?」

「少しだけね。気分はどう? 氷呂」

 氷呂は自身の胸に手を置く。

「うん。もう、大丈夫」

「良かった」

 氷呂の落ち着いた声に明羽は笑う。

「標さんと夏芽さん。まだなんだね」

「うん。でも、まだ日、沈んでないし」

 砂漠を赤く染め上げる太陽は座した目線の高さまで降りて来ていた。長く伸びる影をふたりで眺めていると氷呂が顔を上げた。

「氷呂?」

「エンジン音が」

 明羽の耳にも聞こえてくる。少し警戒しながら明羽と氷呂は近付いてくる二台の車を観察する。

「明羽ちゃーん! 氷呂ちゃーん!」

 夏芽の声がするも明羽と氷呂は目を瞬く。運転席から大きく手を振っているのは知らない美青年だ。

「あの男の人から夏芽さんの声がする。なんで?」

「つまりあの人が夏芽さんなんだよ」

「つまり夏芽さんが男の人の格好してるってこと?」

「多分、そう」

 二台の車は緩やかに明羽と氷呂の前で停車した。

「待たせたな。ふたり共」

「遅い。太陽もう半分沈んでる」

「生意気な」

 標が明羽の頭を掴んだ。それを見た氷呂がクスクスと笑う。男装の夏芽はハッとして恐る恐る氷呂に近付いた。

「……氷呂ちゃん?」

「はい。夏芽さん、標さん。ご心配お掛けしました」

「氷呂ちゃん!」

「苦しいです。夏芽さん」

 抱き締められた氷呂は笑っていた。

「よかったよかった。記憶が戻ったのね。よかったよかった、よかったわあ」

「苦しいです」

「ああ。ごめんね。嬉しくって」

 夏芽は鼻を啜る。その姿さえ美しい。

「それにしても、その格好はどうしたの? 夏芽さん」

「ふふふ。よく聞いてくれました。これはね」

「話し込む前に準備しようぜ。今日はここで一泊する。なんか疲れた」

「ああ、そうね。私も今日は疲れたわ」

 テキパキと準備を始めた標と夏芽を明羽と氷呂は手伝う。完全に真っ暗になる前に火を起こし、保存食で夕飯を済ます。標と夏芽は疲れたと言ったが食後に一服していると話に花が咲いた。

「だからね。私を追って来た人達の目を一瞬だけ私から逸らせればよかったの。その一瞬で私はこの服一式を拝借して着替えて。後は私を見失って混乱する人達の中に紛れて、みんなに聞こえるように偽の情報を流し続けたの。「あっちに亜種が出たぞ!」って。誰が言ったか分からないように場所を都度変えながらね。そうやって嘘の情報をどんどんばら撒いて、オアシス中を巻き込む大混乱を引き起こしたの。その間に私は標と合流したのよ。うまく行ってよかったわ」

「さすが夏芽さん!」

「すごいです」

「だから、褒めるなって。調子乗るから」

 妹分に褒められて鼻高々な夏芽と、その夏芽に惜しみない拍手を送る明羽と氷呂に標の言葉は届かない。標は「まあ、いいか」と息をついた。

「あの大混乱の元凶はお前だった訳だな」

「元凶って言い方はないんじゃない? まあ、少しばかり予想以上に騒ぎが大きくなっちゃって怖かったけど。この服だって悪いことしちゃったわ。気付いたお店の人が怒ってないといいけど。大事に使うので許してください」

 夏芽は自分の着ている服に手を合わせた。ひとしきり手を合わせると夏芽は標にお茶をせがむ。差し出されたカップに標はお茶を注いだ。ついでに明羽と氷呂にもおかわりの有無を聞き、それぞれが温かいカップを両手で包んで一息つく。夏芽は空を見上げた。漆黒に浮かぶ小さな星々は冷たいようでその身に纏う熱量を固辞するように瞬き続ける。

「今日はなんだか一段と綺麗に見える気がするわ」

「いつもより空気が冷え込んでる気がしますね」

「寒いよねえ」

「寒いのは俺だ」

 ご多分に漏れず四人の中で標だけがひとり、毛布を幾重にもまとってもこもこになっている。明羽と氷呂といつもの服に着替えた夏芽はと言えば、気持ち毛布を一枚羽織っているだけだ。夏芽が毛布の前を合わせる。

「宿の受付の女の子にももう一度くらい会いたかったけど。もう無理ね。当分あのオアシスには近付かない方がいいだろうし。情報を集めるの手伝ってくれたおじさん達にも結局まともにお礼、言えなかったのよね」

 夏芽はため息をつくも気持ちを切り替えて氷呂に向き直る。

「さて、氷呂ちゃんちょっといいかしら」

「はい?」

 夏芽は両手で氷呂の首筋を包んだ。カップで温められた指は冷たくはなかったが、

「くすぐったいです。夏芽さん」

「我慢」

 ふたりは可笑しそうに笑う。そんなふたりを見て明羽は氷呂の手を握っていた。ギュッと握っていた。

「明羽?」

「あら、やだ。明羽ちゃん。私に嫉妬?」

「ち、違う!」

 夏芽はニヤニヤと笑い、明羽は顔を真っ赤にした。それでも氷呂の手は離さなかった。賑やかな女三人を眺めながら標はお茶を啜る。

「平和だ」

「脈拍正常。どこか痛いとか、違和感とかない? 例えば頭とか、指先に痺れとか、感覚が鈍いとか」

「打った後頭部はもう全然。大丈夫です」

「そ?」

 夏芽は言って氷呂の目尻に軽く触れる。氷呂は恥ずかしそうに俯いた。その瞬間、明羽は先程押さえ込んだ感情が再びふつふつと煮え出すのを感じた。どす黒い澱にも似たそれが頭をもたげた時、標と夏芽が勢いよく明羽を見た。その目の鋭さに明羽がビックリする。

「な、なに?」

「いえ、なんでも……なんでもないわ」

「おう」

 夏芽が明羽に近寄ってその瞳を覗き込む。真剣に覗き込む。その間標は黙ってお茶を啜っていた。

「夏芽さん。私は別に悪いところないよ? 知ってるでしょ?」

「そうね。そうなんだけど。何かあったらすぐに言うのよ。分かった?」

「うん」

 夏芽が離れて明羽はほっと胸を撫で下ろす。氷呂が明羽の手を握った。明羽に身を寄せてその肩に頭を乗せる。明羽はそれを受け入れる。安堵する重さと温かさに明羽の口から欠伸が零れた。

「もう寝ましょうか」

「うん」

「先に車に入ってて。火の始末をしてから行くわ」

「はい」

 既に後部座席を倒してフラットになっている車の中に明羽と氷呂は寄り添って寝転がる。ふたりはすぐに静かな寝息を立て始めた。それを確認して、夏芽は火の始末を始めている標の元に戻る。

「ふたりともあっと言う間に寝ちゃったわ」

「そうか。ここ最近色々立て続いたからなあ。無理もない」

「ねえ。さっきの明羽ちゃん。あんたも気付いてたわよね」

「そうだな。あれは、憎しみとか、殺意という感情だろう」

「やっぱり、そうよね。明羽ちゃんは自覚してないみたいだったけど」

「氷呂も別段感じ取ってはいないみたいだったな。割と驚いた」

「同じ気持ちで良かったわ。私達にだって人間と同じように喜んだり悲しんだり怒ったりする感情はある。嫉妬もするし羨ましいとも思う。村の子供達だってよく喧嘩するし。でも、人間ほど苛烈にそういう感情を持つことはとても稀だわ」

「中でも憎しみや他人を害するという考えはないと言っていい」

「何かを奪ってまで他人を落とし入れようなんて考えないわ」

「村の連中の殆どは人間との間の子だ。それでも、明羽のアレは人間に近過ぎる気がする」

「明羽ちゃんは天使よね?」

「翼が生えてるんだから間違いないだろう。ただ、片翼の天使だ」

「……何が言いたいの」

「明羽が天使と人間の間の子の可能性はゼロだと思うか?」

「人間と、天使ぃ?」

 夏芽が妙な顔になった。

「限りなく確率の低い話をしているのは分かってる。その顔ヤメロ」

「村の子供達を引き合いに出して、間の子でも感情面は私達よりだって言ったのはあんたよ」

「そうなんだが。純血よりは可能性高いんじゃないかと思ってさ」

 夏芽は何ひとつ納得のいっていない顔で腕を組む。

「何にせよ。ここで私達が議論したって答えは出ないわ。氷呂ちゃんだって記憶が戻ったといっても十年より前の記憶は戻ってないでしょうし。答えは明羽ちゃんだって知らないわよ」

「そうだな。この話はこれで終わりにしよう。ただ、俺達は明羽と氷呂に気を配っていく」

「それには同意してあげるわ」

 標と夏芽は拳をぶつけ合った。


   +++


 フロントガラスから真っ白な光が差し込んで明羽は目を覚ます。

「眩しい……」

「おはよう。明羽」

 その声に明羽は完全に目を覚ます。

「おはよう! 氷呂」

 毛布を畳みながら氷呂が苦笑した。

「いい朝だね」

「うん!」

「そういえば、夢を見たことを思い出したよ」

 妙な言い回しに明羽が首を傾げる。

「夢を見たんじゃなくって?」

「そう。「君は、忘れてはいけないことを忘れている」て。叱責された。ありがたい忠告も空しく、私はそれだけでは思い出せなかった訳だけど。それを言ってくれた人を私、知ってる気がして」

「顔は覚えてる?」

「それが逆光だったんだよね。ただ、間違いなく聖獣だった。獣の姿だった」

 獣の姿の聖獣と言えは明羽にとって思い当たる人はひとりしかいない。

「村長?」

「村長より一回り小柄だったんだよね」

「へえ、誰……だろう?」

 わざわざ氷呂に忠告しに来るのだ氷呂にまるで関係がない訳がないと明羽は腕を組む。本格的に悩み始めた明羽に氷呂は両手を振った。

「夢の話だから」

 けれど忘れてはいけないと、忘れるべきではないと、氷呂はその情景を自分の胸の奥へと大事に仕舞う。

「あ、そうだ」

「どうしたの?」

 氷呂は袋状になってる袖に手を突っ込んだ。取り出されたのはごく小さな布の袋で氷呂は明羽に手を出すように促す。明羽は促されるままに手の平を見せた。その上に氷呂は袋の中身をひっくり返す。転がり出て来た小さなたくさんの粒。明羽はそのうちの一粒を摘まむ。

「種?」

「そう! 綿花の種。機織り機とか買った後に残ったお金で買ったの。村で栽培できれば村で

糸が作れるようになるでしょう?」

「……これ買いに行って人買いに追い掛けられた?」

「そう!」

 氷呂は力強く頷いた。そんなことは重要ではないと言わんばかりに。

「で、これを育てるのって」

「明羽でしょう?」

 氷呂の瞳がキラキラと輝いていた。

「帰ったら畑の一角貰えるか聞いてみるよ」

「うん!」

 氷呂の幸せそうな顔に明羽はしょうがないと肩を竦めた。

「朝飯にするか」

 会話の切れ目を見計らっていたのか運転席で標が伸びをする。三人が車から降りると荷物満載のもう一台で一泊した夏芽が先に起きて火を起こしていた。

「おはよう。明羽ちゃん。氷呂ちゃん」

「おはようございます。夏芽さん」

「おはよう。夏芽さん」

「それと、標」

「俺はついでな。おはようさん。ぅぶっ」

 標の顔に夏芽があるものを投げつけていた。その顔は悪戯好きの少年のようで期待に満ち満ちた瞳が爛々と輝く。標は顔の上に乗ったものを取る。

「これは……」

「あんた夜用の外套は持ってても昼用の日除けのマフラーは持ってなかったでしょう。喜びなさい! それをあげるわ!」

「子供服買いに行ったんじゃなかったのか?」

「ついでよ!」

「そうか。ありがとな」

 標はしれっと赤の濃いピンク色のマフラーを首に巻く。

「おお、悪くないな」

「ちっがーう!!!!!」

 夏芽の叫び声が朝の砂漠に響いた。

「そんな反応を期待してたんじゃない! もっと嫌そうな顔しなさいよ。そんな派手な色!」

「えー。でも俺の為に選んでくれたんだろう」

 確かに夏芽は標の嫌がらせの為に必死に選んでいた。

「そうだけど!」

 ふたりのやり取りに明羽は笑いが止まらない。

「あはは、あははははは! 標、似合ってるよ!」

「そうだろう」

「もういいわ!」

 思惑通りに行かなかったのが余程悔しかったのか夏芽は肩を怒らせながら荷物満載の車に引っ込む。

「夏芽。朝飯ー」

 返事はない。

「しょうがない。氷呂、後で持ってってやってくれ」

「了解です」

 食事の用意ができて氷呂が夏芽の分を持って行く。夏芽は出て来なかったが氷呂は持って行っていないものを手に戻って来る。

「それ」

「明羽が持ってた方がいいんじゃないかって」

「そうだったね。これもあったんだっけ」

 明羽は氷呂からそれを受け取った。六本弦のうちの一本を弾く。ピーンと軽やかな音が伸びた。

「いい音だね」

「調律師さん戻って来てくれたんだね」

 村に帰り着くまでの間、明羽はずっとその楽器を爪弾いた。

 どこまでも続く平らな砂漠。視界の隅に消える地平線。頭上に覆い被さるように高く広がる真っ青な空には太陽と月が寄り添い合って浮かんでいた。幌の張られていない一台の車が走る。美しい音色を響かせながら。

                                  了

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