第3章(3)


 日は変わって、夜明けと共に氷呂は目覚める。まだひんやりと冷たい空気の中、隣でぐっすり眠る明羽の頬に触れて熱がぶり返したりしていないことを確かめる。

「よし」

 服を着替え、髪を結い、朝食の準備を始めようとして、氷呂は玄関脇の棚の上に乗っている、見慣れないけれどどこかで見た覚えのある缶に気が付いた。

「あ」


 夏芽は人目もはばからず大きな欠伸をする。出歩く人の姿は皆無だった筈の早朝の村の中に人影があることに気付いて夏芽は眉根を寄せる。

「ん?」

「あ。夏芽さん」

「氷呂ちゃん?」

 道の向こうから氷呂が夏芽に駆け寄った。今の欠伸を見られたかと夏芽は少し恥ずかしい気持ちになったが氷呂の手に抱えられているものに気付く。

「あら。それ」

「はい。すみません。明羽のことでごたごたしてすっかり忘れてました」

 氷呂が傾けると缶の中でコインが動き、カシャンと音を立てた。

「何故かウチにあって」

「……何故か?」

「これ、夏芽さんに渡せばいいですか? それとも標さんか、村長か……」

「なーに言ってるんだか」

「え?」

 キョトンとする氷呂に夏芽が肩を竦める。

「それは明羽ちゃんと氷呂ちゃんが稼いだお金でしょうが」


 標は机に地図を広げて次の採掘にはどこに行こうかと考えを巡らしているところだった。ガタガタと玄関の戸が鳴って開いたと思ったらそこにいたのは先程診療所に向かうと出て行った筈の夏芽だった。

「どうした? 忘れものか?」

「忘れ物なんてある訳ないでしょ。全部診療所に置いてあるんだから」

「そうだよな。じゃあ、なんで……」

 標は夏芽の後ろにいる氷呂に気付く。

「お、おはようございます。標さん」

「おはよう。早いな。で?」

「あんたからも言ってやって!」

 標は呆れた顔になる。

「まず、説明を……」

「氷呂ちゃんったらこの前オアシスで歌った時の投げ銭、村に寄付するっていうのよ!」

「あの、あのっ。寄付っていうか。これは村のものでは……」

「あー、なるほどな」

「標さん?」

「夏芽が言いたのは、それは明羽と氷呂が正当に得た報酬だからお前達が使いたいように使うべきだってことだな」

「え……え? いえ、でも。私も明羽も欲しいものなんて、多分なくて。それだったら村の為に使った方が有益だと」

「有益って」

「てゆうか本当に? 本当に欲しいものないの?」

「欲しいものなんて……」

 氷呂はその時、オアシスで見た種や機織り機のことを思い出して、その映像を振り払うように頭を振った。

「これはあるわね」

「あるな」

「な、無いです! お忙しいところお邪魔しました!」

「あ、氷呂ちゃん」

「行っちゃったな」

 標と夏芽の家を飛び出して、氷呂は一目散に明羽の寝る家に逃げ帰る。缶を抱えたまま寝床の縁にドスッと腰を下ろした。

「んあ?」

「あっ。ごめん、明羽。起こしたね」

「うんにゃ。大丈夫。おはよう。氷呂」

「おはよう。明羽。声、昨日より全然良くなってる」

「んん。本当だ」

 まだ寝ぼけ眼の明羽がへらっと笑う。そんな明羽に氷呂は近付く。

「ねえ、明羽」

「ん?」

「明羽。何か欲しいもの、ある?」

 明羽は少し考える。

「いや。特に」

「そうだよね!」

 鼻息荒く安堵した氷呂を明羽は見る。

「でも、氷呂はあるよね」

「え!? な、ない、よ?」

 そう言った氷呂に明羽は起き上がろうとするが身体に全く力が入らず断念して寝っ転がったまま問い掛ける。

「何かあったの?」

 氷呂は抱えている缶を握り締めて、先程あったことをぽつりぽつりと語り出す。

「なるほど」

「明羽も、このお金は村で使うべきだと思うよね!」

「うーん。でも、標と夏芽さんはいいよって言ってくれたんでしょう?」

「わかった。村長に聞いてくる」

「へ? あ、氷呂」

 氷呂が出て行って半開きになったままになった戸を見つめて明羽はため息をついた。


 起き始めた村のあちこちで朝の挨拶が聞こえてくる。村長は自身の家の前で伸びをした。

「おはようございます。村長」

「おはよう」

 井戸に用のある村人達が通り掛かる度に村長に挨拶をし、それに村長が返していると、

「村長」

「ああ、おはよう。氷呂」

「おはようございます!」

「……なんだか今日は落ち着きがないね」

 氷呂は目を見開き自身のスカートの裾を払った。

「すみません……」

「謝まられることでもないけどね。なにかあったのかい?」

「聞きたいことがありまして」

 氷呂と村長の様子に村人達がなんだなんだと注目する。

「かくかくしかじかでこの缶の中身の使い道について」

「ふむ。そうゆうことなら標と夏芽が言ったように明羽と氷呂で使うのがいいと思うけど」

 氷呂が困ったように眉尻を下げた。

「でも、でも、村の為に使った方がみんな助かる……」

「うーん。今、村はそんなに困窮していないからなー。なあ、みんな」

 村長が問い掛けると話を聞いていた村人達が穏やかな顔で頷いた。

「そうですね」

「怖いことも不安なことも今は特に」

「水は今日も澄んでるし」

「ご飯の心配もないし」

「足りないものは今のところないわよね」

 村人達が頷き合う。

「それもこれも、君と明羽のお蔭だということを分かっているかい?」

「え」

「君達が来て、村は救われた」

 村長の言葉に氷呂は首を横に振った。

「それは、違います。みんなが私達を受け入れてくれたから。助けられたのは私達で……」

「も~。ぐだぐだうだうだとー」

 いつの間にか氷呂の背後に夏芽が立っていた。

「氷呂ちゃんがそんなだとは思わなかったわ。こうなったらハッキリ言ってあげる! 私達はそれを明羽ちゃんと氷呂ちゃんに使って欲しいの!」

 それは他人の気持ちを決め付けるような言動だったが村人達は笑う。

「そだねー」

「そうそう」

「ま、そういうことだ」

「標さんまで……」

 氷呂はそこにいる人々の顔を見渡して缶を抱え直す。

「ありがとうございます。私……。今、私には欲しいものがあります」

 氷呂の宣言に広場にパラパラと拍手が沸く。氷呂は安堵に肩から力を抜いた。

「よーし。そうと決まれば出掛けましょう!」

「え」

 夏芽のやる気に氷呂が戸惑う。

「い、今ですか?」

「善は急げよ。準備してくるわ」

 颯爽と歩き出してしまった夏芽を慌てて追い掛けようとした氷呂を標が引き止める。

「待った。氷呂。俺が話してくる。寝てる明羽を置いてはいけないだろう」

「そう。そうなんです」

「行ってくる」

 標が夏芽を追って広場を後にした。ご機嫌で歩く夏芽に追い付いて標は歩幅を合わせる。

「何考えてんだ?」

「何って何よ」

「氷呂が寝てる明羽を置いてく訳ないだろう」

「村長も言ってたじゃない」

「何?」

「痛い目までとは行かなくても、ちょっとはひとりにされる気持ちが分かればいいんじゃないかと思って」

「出掛けるなら氷呂は明羽に話すだろ。明羽の時と同じにはならないぞ」

「だから、ちょっと分かればなっていうアレよ。それに、氷呂ちゃんもねえ。自覚してるんだかしてないんだか。ちょっと、引き離してみようかと思ってね」

「それ、俺意味ないと思う」

「そう? ま、という訳で。留守番は任せたわよ。標」

「ん? 俺も行くんじゃないのか?」

「あんたには見張り役兼最終防衛ラインとしては稼働して欲しいのよ」

「あんだって?」

「謝花ちゃんのことを信用してない訳じゃないのよ? でも、今まで明羽ちゃんへのお見舞いを制限してきた分、回復してきた今、みんなが押し寄せるかもしれない。そうなった時、謝花ちゃんじゃ押し切られちゃうと思うのよね」

「じゃ、明羽が元気になってから行けよ」

「それじゃ意味ないでしょ。明羽ちゃんが動けない今だから行くのよ」

「つーか。それならお前じゃなくて俺が氷呂と行くんでもいいんじゃねえの? お前、診療所もあるし」

「とにかく頼んだわよ」

「おーい。人の話を……。ああ、もう」


「明羽。明羽」

「んん?」

 明羽は薄らと目を開けて、何度か瞬きを繰り返してから瞳を向ける。どこか不安そうな氷呂の顔があった。

「どうしたの?」

「夏芽さんが……」

「夏芽さんが」

「出掛けようって……」

「出掛けよう」

「缶の中身は私達が使うことになったんだけど」

「氷呂が欲しいと思ってる物を買いに行くってこと?」

「多分。私、何が欲しいとは言ってないんだけど……」

「行っといでよ」

「え」

「折角連れてってくれるって言ってくれてるんでしょ?」

「連れ……?」

「あれ? 違うの?」

「ちが……わないと思、う?」

「?」

「と、とりあえず夏芽さんは一緒に行ってくれるみたい」

「そっか、いつ行くの?」

「すぐにでもって」

「そっか。気を付けてね」

「……」

「氷呂?」

「今の明羽を置いて行けないよ」

「私は平気だよー。もう、後は回復するだけだもの」

「……」

「氷呂」

 明羽は俯く氷呂の降りてきている髪を梳く。絡まりなんて一切ない髪に指を通す。

「早く帰って来てね」

「うん。ありがとう。明羽。行ってきます!」

 戸を通り抜ける際に一度だけ振り返った氷呂を見送って明羽は掛け布をたくし上げる。その瞳からほろりと涙が零れた。

「うう……。寂しい」

 そして、氷呂と夏芽は出掛けて行った。


 その日の夜も更ける頃。標は自室で伸びをした。朝から度々眺めていた地図を仕舞う。

「明羽の様子でも見てくるか」

 標は明かりも持たずに玄関を出た。今日も今日とて村の上空は砂嵐に見舞われている為、星の淡い光は一切地上に届いていない。そんな真っ暗闇でも、標には建物の形も並びも支障がないぐらいに見えている。

「寒……」

 外套の首から忍び込んで来る冷気を遮断するように手で押さえて、明羽が寝ている家の前まで来て標は立ち止った。

「……謝花を呼んでこよう」

 謝花一家の家からは明かりが漏れ、楽しそうな声も漏れ聞こえてきていた。この時間、寝静まっている家が多い中、標は家の前で暫し呆けたように立ち尽くす。いつまでも突っ立ってる訳にも行かないので戸を叩く。

「はーい」

 人が近付いてくる気配がして顔を覗かせたのは謝花だった。

「標兄様?」

「こんばんわ。謝花。家族団らん中悪いな」

「こんばんわ。何かありました?」

 謝花の顔が不安そうに曇る。

「いや、ちょっと明羽の様子を見に行こうと思ってな。一緒に来てくれないか」

「明羽の? ……。分かりました。お母さん、お父さん。標兄様と明羽のところに行ってくる」

 標は謝花を送り出すご両親に会釈して、謝花は自分用に持って来たランタンに火を灯す。

「悪いな。付き合ってもらって。でも、もう寝てるかもとも思ってたから助かった」

「お役に立てるならこんな時間まで父、母と話し込んでるのも悪くなかったですね。それにしても」

 謝花はうふふと笑う。

「明羽と言えば。昼間は大変でしたね」

標も思い出したように苦笑する。

「そうだな。明羽の見舞いに行きたい奴があんなにいるとは思わなかった」

 氷呂と夏芽が村を出ると、見計らっていたかのように大人も子供も関係なく村人達が謝花に詰め寄ったのだ。夏芽がいない間、代わりに明羽を看るのは謝花であることをみんなが知っていた。その現場に出くわして、標が止めに入ったのだった。

「畑を作ってる奴らは特に気にしてたんだなあ」

「ですね。標兄様がいてくれて良かったです」

「夏芽の想定通りでビビった。そういえば、謝花も夏芽に頼まれるまで明羽に会うのは止められてたんだろ? 今日久しぶりに顔合わせてどうだった?」

「はい。正直、随分良くなってるって聞いてたから割と軽い気持ちで行ったんですけど。まだ、全然顔色悪くってビックリしました」

「そうだったか」

「まあ。私が期待し過ぎちゃっただけなんですけど……。まだ、起き上がるのも難しいみたいだったし」

「そうか。俺も帰って来てからは明羽に会ってないもんだから」

「そうなんですか?」

「俺も夏芽に止められてたからな。俺は明羽の面倒を看るように頼まれた訳じゃないが防壁を仰せつかった身としては様子見に行くぐらいいいかと思ってな」

「そうですね。でも、標兄様。わざわざ私に声掛けて一緒に行く意味あったんですか?」

「……女の子がひとりで寝てるところに男がひとりで忍び込むのもどうかと思ってな」

「そんなこと気にしてたんですか? まったく知らない人って訳でもないですし。標兄様に限って何かあるなんて誰も思いませんよー」

「謝花は俺のこと信じてくれてるんだなー」

 謝花は首を傾げる。

「当然じゃないですか」

「俺がひとりで行ったって夏芽に知られたら確実に殴り飛ばされる」

「ああ」

 謝花にはその光景が容易に想像できてしまった。

「という訳で、ありがとな。謝花」

「いえ! お役に立てて光栄です!」

 謝花が腕を振るのに合わせてふたりの影が揺れた。そうこうしている内にふたりは明羽がひとりで寝ている家に辿り着く。

「明羽」

 呼ばれて明羽は薄目を開けた。

「? 氷呂?」

「ごめんね。私。謝花だよ」

「……ああ、謝花か。どうしたの?」

 明羽は少し視線を回す。

「まだ夜みたいだけど」

「昼に一度見に来ただけだから、一応ね。調子はどう?」

「んー。変わらず」

「そっかあ。ちょっと触るね」

 そう言って、謝花は明羽の手首に指を添える。

「うん。異常なし」

「ありがとー。謝花。気に掛けてくれて」

「友達だもん。当然でしょ。それに今回は私だけじゃないんだ」

「?」

「よ。明羽」

「あれ? 標だ。幻? 幻覚? 氷呂と夏芽さんと一緒に行ったんじゃ?」

「留守番を言い渡されたもんでな」

「へえ。なんでだろ?」

「呑気なもんだなあ」

「本当ですね!」

 意気投合する標と謝花に明羽は疑問符を浮かべるしかない。謝花の横から標は腕を伸ばした。明羽の額に手の平を乗せると明羽の顔半分がすっぽりと収まってしまう。

「ちっせえ頭だなあ」

「悪かったね」

「あ、いや。今のは悪い意味じゃない」

「じゃあ、どういう意味さ」

「物理的な意味だ」

「ぶはっ!」

 明羽と標が謝花を振り返る。

「す、すみませんっ」

 謝花はそれだけ言うとひとしきり腹を抱えて笑い、明羽と標はそれを聞き流す。

「熱はないな」

「んー。ねえ、標」

「ん?」

「氷呂。早く帰って来ないかなあ」

「おいおい。まだ一日も経ってないぞ」

「送り出したはいいけどやっぱり寂しい……」

 こっちはこっちで夏芽の思惑通りで標は呆れる。

「ま、すぐ帰って来るさ。謝花。そろそろお暇するか」

「はい! 標兄様。じゃあ、明羽。また明日。夜が明けたらまた来るね」

 明羽は病床から手を振り、謝花がそれに振り返す。ふたりの姿がなくなって、明羽は再びゆっくりと暗闇に意識を沈ませていった。

 青く柔らかな光が揺蕩っている。その光を見ているとなんだかゆらゆらと水の揺り籠に抱かれているようでとても心地が良かった。明羽は幸せな気持ちで寝返りを打つ。しかし、その光が一瞬陰った。明羽は自分の名を呼ばれた気がして目を覚ます。

「……氷呂?」

 起き上がろうとするも身体は重く、起き上がることができない。

「うう……」

 明羽が起き上がれるようになるまでもう数日掛かることとなる。


 薄茶色の空から柔らかな光が村に降り注いでいた。常に嵐の只中に在る村としては天気がいいと言っても差し支えがない日。明羽は村長の家の屋根の上で膝を抱えていた。重い重いため息をつく。

「氷呂が帰って来ない……」

 広場では謝花が子供達相手に青空教室を開いている。だが、子供達の視線は謝花の授業ではなく、膝に顔を埋める明羽に向いていた。

「明羽ちゃん。元気ないね」

「まだしんどいのかなあ」

「久しぶりに会えた時は嬉しかったけど」

「ずっと寝てた所為で身体が重いって泣いてたもんね」

「大丈夫かなあ?」

 子供達が全く自分の話を聞いていないことに謝花はがっくりと肩を落とした。振り返って明羽を見上げるが明羽はそんな謝花と子供達の目線に全く気付かない。見兼ねた標が梯子を持って来て村長の家の屋根に上がった。

「明羽」

「標」

「調子はどうだ?」

「身体の方ならもう全然」

「そうか。ならいいけどな。子供達が心配してこっち見上げてるぞ」

 明羽は眼下を見下ろす。標の言葉通り子供達が心配そうにこちらを見上げていた。明羽は慌てて立ち上がった。

「大丈夫大丈夫! 私は元気だよ」

「本当に?」

 声を張る子供達に明羽は大げさなぐらいに大きく頷いた。

「本当! 本当! 本当に!」

「じゃあ、一緒に遊ぼう!」

「え」

「その前に今日の分のお勉強だよ! 遊ぶのはそれからね!」

 謝花のお説教に子供達は拍子抜けするぐらい素直に返事をした。明羽が元気だと分かって気に掛けることがなくなったようだ。氷呂や謝花のようには子供達と接することができない明羽はホッと胸を撫で下ろす。心の中で謝花に感謝も忘れない。

「じゃ、降りるか」

「うん」

 標はもちろん梯子で降りることを考えていたのだが、目の端で明羽が屋根の縁から飛び降りて標は度肝を抜かれる。

「明羽っ」

 標の心配も余所に明羽は一階建ての屋根から飛び降りるなどお茶の子さいさいだと、翼を広げるまでもないと着地する。

「おっととと……」

 着地によろけて明羽は自分の体力がまだ完全に戻ってないことを再認識した。ため息をつくのと子供達に突撃されるのはほぼ一緒だった。

「明羽ちゃん!」

「大丈夫!?」

「明羽!!」

 謝花までにも責められてもみくちゃにされている明羽を見下ろして、標は自業自得だと息を吐き出した。明羽から空に目を移す。薄茶色が広がる空は舞い上がる砂の波まではっきり見えた。

「確かに、遅すぎるか」

 標は少し考えながら梯子を下りる。

「明羽」

「ふぁい?」

「……明羽。情けない声を出すな」

「な、情けない声なんて出してないやい!」

「涙目だぞ。お前」

 標は明羽の乱れた髪を撫で付ける。明羽は自分の情けなさに顔を覆った。そんな明羽を見下ろしながら標は切り出す。

「まだ気にしておきたいところはあるが、明羽。概ね良好と見て、お前を連れて氷呂と夏芽を迎えに行こうと思う」

 明羽がパッと顔を上げた。

「あいつらさすがにのんびりし過ぎだ。幸い今トリオも村にいて、もう一台の車がある。いいか?」

「うん!」

 明羽が力強く返事をしたところで村の見回りに行っていた村長が広場に戻って来た。

「行くのかい?」

「うん」

「気を付けて行っておいで」

「うん! いってきます!」

 明羽の動きに合わせて左耳の側で涙型の緑色の石が揺れた。


 明羽と標の乗った車は砂漠の上を疾走する。向かうのは中心に青い湖を湛え栄えるあのオアシスだ。

「なんかもうあのオアシスにいたのがすごく前のような気がする」

 明羽の呟きはエンジンの唸る音と風切り音に消えた。緑のトンネルを抜け、明羽はその瞳に青い湖の姿を映す。あの時と変わらず、湖はキラキラと輝いていたがあの時と違い今、明羽の隣に氷呂はおらず、明羽は重い息を吐き出した。あの時感じた高揚感は今や影も形もない。氷呂を迎えに来た。氷呂に会える。というのに、明羽の胸中には何故か言い知れない不安が漂っていた。

「さて、氷呂と夏芽。すぐに見つかるといいんだが」

 標が運転しながらそう言うのを明羽は後部座席で聞いていた。車の外には行き交うたくさんの人、車の行き交いも多く、路駐も数台、目に付く中、明羽はそのうちの一台にすうっと目が引き寄せられた。正確には車にではなく、車の側に立つ色白の美しい女の姿に引き寄せられた。

「夏芽さん!」

「何!?」

 標が思わずブレーキを踏み込んだ。後続車がクラックションを鳴らしながら明羽と標の乗る車を追い越して行く。標は周囲の安全確認をして車を脇に寄せた。車が止まると明羽はすぐさま車を降り、夏芽の姿を見た方へと走り出す。

「夏芽さん!」

「明羽ちゃん!?」

 走り寄って来る明羽の姿に夏芽が目を丸くした。

「よう、夏芽。帰りが遅いから迎えに来た」

「標まで……」

 ふたりの顔を見て夏芽はとても居心地の悪そうな顔になった。明羽と標は顔を見合わせる。ふたりはとりあえず夏芽を置いておいて側の車の中を見た。幌の取り払われた後部座席には幾つかの布の袋と組み立てると何かになりそうな角材の束が積まれていた。

「買い物は終わってるみたいだな。ん?」

 標は角材と座席シートの間に収まっていた半球形状のものを見つけ、手を伸ばす。引っ張り出してみたそれには短い棒が刺さっており、それには六本の糸が張られていた。それはとても見覚えのある楽器だった。

「……何でこれがここにあるんだ?」

「あの楽器屋の前を通り掛かることがあって……。いらないって言ったんだけど押し付けられたのよ」

「買ったんじゃないのか」

「ねえ。これ組み立て式の機織り機だよね? すごいね。こんなに大きいの。高かったでしょう」

 角材に触れる明羽に夏芽の頬が引き攣る。

「それは……。氷呂ちゃんの交渉の賜物で……」

「その氷呂はどこ?」

「……」

「夏芽?」

 明羽と標に見つめられた夏芽は観念したように息を吐き出し、辛そうな悲しそうなどうしたらいいか分からないというような困窮めいた顔になった。

「説明、するけど。その前に付いて来て。見て貰った方がきっと早い」

 そう言うと夏芽は荷物満載の車に乗り込みエンジンをかけた。その車は助手席にもうひとりぐらいだったら乗れそうだったが、とてもふたりは乗れそうになかった。

「明羽。夏芽と一緒に行け。俺は乗ってきた車を回してくる」

「分かった」

 標の運転する車が合流してくるのを待って三人は夏芽の案内の下、湖の外周を走り、先程とは丁度真反対に当たるところまでやって来る。そこは人の行き来はあるが雑然とした賑やかさはなく、外から来るものを選ぶような、少し近寄りがたい雰囲気が漂っていた。

「なんか、さっきまでいたところと空気違うね」

「こっちは高級品を扱う店が多いから」

「なんでこんなところ来たんだ?」

 夏芽は標の質問に答えず空を見上げる。

「そろそろ来る頃かしら」

 首を傾げながら明羽も空を見上げる。太陽は天頂を通り過ぎ、地平線へと向かっている最中だ。目の端に青色がなびくのを見て、明羽はそちらに勢いよく目を向けた。見えたのは青く滑らかな腰まである長い髪。明羽は駆け出していた。

「氷呂!」

 けれど、人影は振り返らない。

「氷呂! 氷呂! 氷呂!」

 何度呼んでも振り返らない。明羽は何とかその背中に追い付きその肩を掴み。振り返った少女は驚いたように目を見開いた。朝の空のように澄み切った綺麗な青色の瞳。見間違いようのない、良く知っているその色に明羽は安堵の笑みを零す。

「……氷呂」

「人違いをされていますよ?」

「へ?」

 青い髪の少女はニコッと笑う。

「失礼します」

 少女は丁寧に頭を垂れ、明羽に背を向けた。一度も振り返ることなく歩き去って行く。標と夏芽はそれを少し離れたところから見ていた。

「どういうことだ?」

「見た通りよ」

 夏芽が蟀谷を押さえた。ふたりはとりあえず呆然自失で立ち尽くす明羽を引っ張り、手近な軽食屋に向かう。外に置かれたテーブルに着くと途端に明羽が机に突っ伏した。標と夏芽が取り合えず飲み物を注文する。

「で、どうゆうことだ? 他人の空似な訳ないし」

「私が氷呂を見間違える訳ないじゃん!」

 明羽が突っ伏したまま抗議の声を上げた。

「手首に明羽ちゃんお手製の手首飾りを確認済みよ。あれは間違いなく氷呂ちゃん」

「だから言ってるじゃん! ああああぁぁ……」

「何が起こってる?」

「分からないから困ってるんじゃない」

「氷呂がいない世界で生きてなんていけない」

 魂の半分抜け掛けた明羽を見ながら標は夏芽と出掛ける前にした会話を思い出す。夏芽の考えに意味ないと答えたことに標は少し考えを改めた。

「明羽は少し氷呂離れした方がいいな。さて、あれが氷呂で間違いないのは確かだとして。何が起こってるんだ? まるで明羽のことを知らないような。あれじゃ、俺が声掛けても同じ反応されそうだが」

「同じこと言われるでしょうね。私もそうだったから」

「そうだったか。で? 分からないばっかりの中、分かってることもあると思っていいのか? 説明するって言ってたよな」

「それなんだけど」

「聞く……」

「ん?」

「氷呂に直接聞いてくる!」

 立ち上がった明羽の首根っこを標が掴む。

「ぐえっ」

「落ち着け、明羽。まず、氷呂がどんな状況か確認しないことには」

「状況? 状況って何?」

「そうだな。俺らが関わって氷呂自身に危険はないかとか」

「……どうゆうこと?」

「想像力を働かせろ。例えどんなにあり得なさそうなことでも想定しておけ。危機回避能力は俺達にとって必須だぞ」

「明羽ちゃん。とりあえず座ってちょうだい。私もあの状態の氷呂ちゃんと出くわしてから情報収集して。で、あんた達が来るまで途方に呉れてた訳だけど」

「途方に呉れる?」

「情報によれば、氷呂ちゃんには今、記憶がない」

「あ? 記憶がないにしちゃ元気そうだったが」

 夏芽が目線を落とした。自信を失ったような、自分を責めるような顔をする夏芽に標はため息をつく。

「とりあえず、ここに来てから何をしたのか話してくれ」

「うん」

 夏芽はぽつりぽつりと語り始める。

「私と氷呂ちゃんはこのオアシスに着いて、当初の目的だった機織り機のお店に行ったわ。前来た時、明羽ちゃんと氷呂ちゃんが覗いていたお店ね。そこで、氷呂ちゃんの値切り交渉に感動して。その後、残りのお金で氷呂ちゃんは糸を何色か買ってたわ。氷呂ちゃんの買い物が終わって、私の買い物に付き合ってもらって」

「お前の買い物?」

「子供達の服とかちょっと傷んできたから幾つか新調しようと思ったのよ!」

「ああ、うん」

 情緒不安定の夏芽に標は口を閉じる。

「買い物が終わる頃には大分日が傾いてた。だから、早々に宿を取って一泊してから帰りましょうね。なんて、氷呂ちゃんと話したんだけど。氷呂ちゃん、もう一軒寄りたい店を思い出したって。じゃあ、私もちょっと薬屋に行って薬草でも物色してこようかしらって」

「別行動したのか?」

「こんなことになるって分かってたらしなかったわよ!」

「ああ、うん。口挟んで悪かった。続けてくれ」

 夏芽の記憶は前後する。何がいけなかったのだろうと、今一度自身の行動を振り返ってしまう。

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