第3章・湖のオアシス(3)


 日は変わって、夜明けと共に氷呂ひろは目覚める。まだひんやりと冷たい空気の中、隣でぐっすり眠る明羽あはねの頬に触れて熱がぶり返したりしていないことを確かめる。

「よし」

 服を着替え、髪を結い、朝食の準備を始めようとして、氷呂ひろは玄関脇の棚の上に乗っている、見慣れないけれどどこかで見た覚えのある缶に気が付いた。

「あ」


 夏芽なつめは人目もはばからず大きな欠伸あくびをする。出歩く人の姿は皆無かいむだったはずの早朝の村の中に人影があることに気付いて夏芽なつめは眉根を寄せる。

「ん?」

「あ。夏芽なつめさん」

氷呂ひろちゃん?」

 道の向こうから氷呂ひろ夏芽なつめに駆け寄った。今の欠伸あくびを見られたかと夏芽なつめは少し恥ずかしい気持ちになったが氷呂ひろの手に抱えられているものに気付く。

「あら。それ」

「はい。すみません。明羽あはねのことでごたごたしてすっかり忘れてました」

 氷呂ひろかたむけると缶の中でコインが動き、カシャンと音を立てた。

何故なぜかウチにあって」

「……何故なぜか?」

「これ、夏芽なつめさんに渡せばいいですか? それともしなさんか、村長か……」

「なーに言ってるんだか」

「え?」

 キョトンとする氷呂ひろ夏芽なつめが肩をすくめる。

「それは明羽あはねちゃんと氷呂ひろちゃんがかせいだお金でしょうが」


 しなは机に地図を広げて次の採掘さいくつにはどこに行こうかと考えをめぐらしているところだった。ガタガタと玄関の戸が鳴って開いたと思ったらそこにいたのは先程診療所に向かうと出て行ったはず夏芽なつめだった。

「どうした? 忘れものか?」

「忘れ物なんてある訳ないでしょ。全部診療所に置いてあるんだから」

「そうだよな。じゃあ、なんで……」

 しな夏芽なつめの後ろにいる氷呂ひろに気付く。

「お、おはようございます。しなさん」

「おはよう。早いな。で?」

「あんたからも言ってやって!」

 しなあきれた顔になる。

「まず、説明を……」

氷呂ひろちゃんったらこの前オアシスで歌った時のせん、村に寄付きふするっていうのよ!」

「あの、あのっ。寄付きふっていうか。これは村のものでは……」

「あー、なるほどな」

しなさん?」

夏芽なつめが言いたのは、それは明羽あはね氷呂ひろが正当に得た報酬ほうしゅうだからお前達が使いたいように使うべきだってことだな」

「え……え? いえ、でも。私も明羽あはねも欲しいものなんて、多分なくて。それだったら村のために使った方が有益ゆうえきだと」

有益ゆうえきって」

「てゆうか本当に? 本当に欲しいものないの?」

「欲しいものなんて……」

 氷呂ひろはその時、オアシスで見た種や機織はたおり機のことを思い出して、その映像を振り払うように頭を振った。

「これはあるわね」

「あるな」

「な、無いです! おいそがしいところお邪魔しました!」

「あ、氷呂ひろちゃん」

「行っちゃったな」

 しな夏芽なつめの家を飛び出して、氷呂ひろは一目散に明羽あはねの寝る家に逃げ帰る。缶を抱えたまま寝床ねどこの縁にドスッと腰を下ろした。

「んあ?」

「あっ。ごめん、明羽あはね。起こしたね」

「うんにゃ。大丈夫。おはよう。氷呂ひろ

「おはよう。明羽あはね。声、昨日より全然良くなってる」

「んん。本当だ」

 まだ寝ぼけまなこ明羽あはねがへらっと笑う。そんな明羽あはね氷呂ひろは近付く。

「ねえ、明羽あはね

「ん?」

明羽あはね。何か欲しいもの、ある?」

 明羽あはねは少し考える。

「いや。特に」

「そうだよね!」

 鼻息荒く安堵あんどした氷呂ひろ明羽あはねは見る。

「でも、氷呂ひろはあるよね」

「え!? な、ない、よ?」

 そう言った氷呂ひろ明羽あはねは起き上がろうとするが身体に全く力が入らず断念して寝転ねころがったまま問い掛ける。

「何かあったの?」

 氷呂ひろは抱えている缶を握り締めて、先程あったことをぽつりぽつりと語り出す。

「なるほど」

明羽あはねも、このお金は村で使うべきだと思うよね!」

「うーん。でも、しな夏芽なつめさんはいいよって言ってくれたんでしょう?」

「わかった。村長に聞いてくる」

「へ? あ、氷呂ひろ

 氷呂ひろが出て行って半開きになったままになった戸を見つめて明羽あはねはため息をついた。


 起き始めた村のあちこちで朝の挨拶が聞こえてくる。村長は自身の家の前で伸びをした。

「おはようございます。村長」

「おはよう」

 井戸に用のある村人達が通り掛かる度に村長に挨拶をし、それに村長が返していると、

「村長」

「ああ、おはよう。氷呂ひろ

「おはようございます!」

「……なんだか今日は落ち着きがないね」

 氷呂ひろは目を見開き、意味もなく自身のスカートのすそを払った。

「すみません……」

「謝まられることでもないけどね。なにかあったのかい?」

「聞きたいことがありまして」

 氷呂ひろと村長の様子に村人達がなんだなんだと注目する。

「かくかくしかじかでこの缶の中身の使い道について」

「ふむ。そうゆうことならしな夏芽なつめが言ったように明羽あはね氷呂ひろで使うのがいいと思うけど」

 氷呂ひろが困ったように眉尻を下げた。

「でも、でも、村の為に使った方がみんな助かる……」

「うーん。今、村はそんなに困窮こんきゅうしていないからなー。なあ、みんな」

 村長が問い掛けると話を聞いていた村人達がおだやかな顔でうなずいた。

「そうですね」

「怖いことも不安なことも今は特に」

「水は今日もんでるし」

「ご飯の心配もないし」

「足りないものは今のところないわよね」

 村人達がうなずき合う。

「それもこれも、君と明羽あはねのお陰だということを分かっているかい?」

「え」

「君達が来て、村は救われた」

 村長の言葉に氷呂ひろは首を横に振った。

「それは、違います。みんなが私達を受け入れてくれたから。助けられたのは私達で……」

「も~。ぐだぐだうだうだとー」

 いつの間にか氷呂ひろの背後に夏芽なつめが立っていた。

氷呂ひろちゃんがそんなだとは思わなかったわ。こうなったらハッキリ言ってあげる! 私達はそれを明羽あはねちゃんと氷呂ひろちゃんに使って欲しいの!」

 それは他人の気持ちを決め付けるような言動だったが村人達は笑う。

「そだねー」

「そうそう」

「ま、そういうことだ」

しなさんまで……」

 氷呂ひろはそこにいる人々の顔を見渡して缶を抱え直す。

「ありがとうございます。私……。今、私には欲しいものがあります」

 氷呂ひろの宣言に広場にパラパラと拍手はくしゅく。氷呂ひろ安堵あんどに肩から力を抜いた。

「よーし。そうと決まれば出掛けましょう!」

「え」

 夏芽なつめのやる気に氷呂ひろが戸惑う。

「い、今ですか?」

「善は急げよ。準備してくるわ」

 颯爽さっそうと歩き出してしまった夏芽なつめあわてて追い掛けようとした氷呂ひろしなが引き止める。

「待った。氷呂ひろ。俺が話してくる。寝てる明羽あはねを置いてはいけないだろう」

「そう。そうなんです」

「行ってくる」

 しな夏芽なつめを追って広場を後にした。ご機嫌で歩く夏芽なつめに追い付いてしなは歩幅を合わせる。

「何考えてんだ?」

「何って何よ」

氷呂ひろが寝てる明羽あはねを置いてく訳ないだろう」

「村長も言ってたじゃない」

「何?」

「痛い目までとは行かなくても、ちょっとはひとりにされる気持ちが分かればいいんじゃないかと思って」

「出掛けるなら氷呂ひろ明羽あはねに話すだろ。明羽あはねの時と同じにはならないぞ」

「だから、ちょっと分かればなっていうアレよ。それに、氷呂ひろちゃんもねえ。自覚してるんだかしてないんだか。ちょっと、引き離してみようかと思ってね」

「それ、俺意味ないと思う」

「そう? ま、という訳で。留守番は任せたわよ。しな

「ん? 俺も行くんじゃないのか?」

「あんたには見張り役兼最終防衛ラインとして稼働して欲しいのよ」

「あんだって?」

謝花じゃはなちゃんのことを信用してない訳じゃないのよ? でも、今まで明羽あはねちゃんへのお見舞いを制限してきた分、回復してきた今、みんなが押し寄せるかもしれない。そうなった時、謝花じゃはなちゃんじゃ押し切られちゃうと思うのよね」

「じゃ、明羽あはねが元気になってから行けよ」

「それじゃ意味ないでしょ。明羽あはねちゃんが動けない今だから行くのよ」

「つーか。それならお前じゃなくて俺が氷呂ひろと行くんでもいいんじゃねえの? お前、診療所もあるし」

「とにかく頼んだわよ」

「おーい。人の話を……。ああ、もう」


明羽あはね明羽あはね

「んん?」

 明羽あはねうっすらと目を開けて、何度かまばたきを繰り返してから瞳を向ける。どこか不安そうな氷呂ひろの顔があった。

「どうしたの?」

夏芽なつめさんが……」

夏芽なつめさんが」

「出掛けようって……」

「出掛けよう」

「缶の中身は私達が使うことになったんだけど」

氷呂ひろが欲しいと思ってる物を買いに行くってこと?」

「多分。私、何が欲しいとは言ってないんだけど……」

「行っといでよ」

「え」

折角せっかく連れてってくれるって言ってくれてるんでしょ?」

「連れ……?」

「あれ? 違うの?」

「ちが……わないと思、う?」

「?」

「と、とりあえず夏芽なつめさんは一緒に行ってくれるみたい」

「そっか、いつ行くの?」

「すぐにでもって」

「そっか。気を付けてね」

「……」

氷呂ひろ?」

「今の明羽あはねを置いて行けないよ」

「私は平気だよー。もう、後は回復するだけだもの」

「……」

氷呂ひろ

 明羽あはねうつむいていることで目の前に降りてきている氷呂ひろの髪をく。からまりなんて一切ない髪に指を通す。

「早く帰って来てね」

「うん。ありがとう。明羽あはね。行ってきます!」

 戸を通り抜ける際に一度だけ振り返った氷呂ひろを見送って明羽あはねは掛け布をたくし上げる。その瞳からほろりと涙がこぼれた。

「うう……。寂しい」

 そして、氷呂ひろ夏芽なつめは出掛けて行った。


 その日の夜もける頃。しなは自室で伸びをした。朝から度々たびたびながめていた地図を仕舞う。

明羽あはねの様子でも見てくるか」

 しなは明かりも持たずに玄関を出た。今日も今日とて村の上空は砂嵐に見舞われているため、星の淡い光は一切地上に届いていない。そんな真っ暗闇でも、しなには建物の形も並びも支障がないぐらいに見えている。

「寒……」

 外套がいとうの首から忍び込んで来る冷気を遮断しゃだんするように手で押さえて、明羽あはねが寝ている家の前まで来てしなは立ち止った。

「……謝花じゃはなを呼んでこよう」

 謝花じゃはな一家の家からは明かりがれ、楽しそうな声もれ聞こえてきていた。この時間、寝静まっている家が多い中、しなは家の前でしばほうけたように立ち尽くす。いつまでも突っ立ってる訳にも行かないので戸を叩く。

「はーい」

 人が近付いてくる気配がして顔をのぞかせたのは謝花じゃはなだった。

しな兄様?」

「こんばんわ。謝花じゃはな。家族団らん中悪いな」

「こんばんわ。何かありました?」

 謝花じゃはなの顔が不安そうに曇る。

「いや、ちょっと明羽あはねの様子を見に行こうと思ってな。一緒に来てくれないか」

明羽あはねの? ……。分かりました。お母さん、お父さん。しな兄様と明羽あはねのところに行ってくる」

 しな謝花じゃはなを送り出すご両親に会釈えしゃくして、謝花じゃはなは自分用に持って来たランタンに火をともす。

「悪いな。付き合ってもらって。でも、もう寝てるかもとも思ってたから助かった」

「お役に立てるならこんな時間まで父、母と話し込んでるのも悪くなかったですね。それにしても」

 謝花じゃはなはうふふと笑う。

明羽あはねと言えば。昼間は大変でしたね」

 しなも思い出したように苦笑する。

「そうだな。明羽あはねの見舞いに行きたい奴があんなにいるとは思わなかった」

 氷呂ひろ夏芽なつめが村を出ると、見計みはからっていたかのように大人も子供も関係なく村人達が謝花じゃはなに詰め寄ったのだ。夏芽なつめがいない間、代わりに明羽あはねるのは謝花じゃはなであることをみんなが知っていた。その現場に出くわして、しなが止めに入ったのだった。

「畑を作ってる奴らは特に気にしてたんだなあ」

「ですね。しな兄様がいてくれて良かったです」

夏芽なつめの想定通りでビビった。そういえば、謝花じゃはな夏芽なつめに頼まれるまで明羽あはねに会うのは止められてたんだろ? 今日久しぶりに顔合わせてどうだった?」

「はい。正直、随分ずいぶん良くなってるって聞いてたから割と軽い気持ちで行ったんですけど。まだ、全然顔色悪くってビックリしました」

「そうだったか」

「まあ。私が期待し過ぎちゃっただけなんですけど……。まだ、起き上がるのも難しいみたいだったし」

「そうか。俺も帰って来てからは明羽あはねに会ってないもんだから」

「そうなんですか?」

「俺も夏芽なつめに止められてたからな。俺は明羽あはねの面倒をるように頼まれた訳じゃないが防壁をおおせつかった身としては様子見に行くぐらいいいかと思ってな」

「そうですね。でも、しな兄様。わざわざ私に声掛けて一緒に行く意味あったんですか?」

「……女の子がひとりで寝てるところに男がひとりで忍び込むのもどうかと思ってな」

「そんなこと気にしてたんですか? まったく知らない人って訳でもないですし。しな兄様に限って何かあるなんて誰も思いませんよー」

謝花じゃはなは俺のこと信じてくれてるんだなー」

 謝花じゃはなは首をかしげる。

「当然じゃないですか」

「俺がひとりで行ったって夏芽なつめに知られたら確実に殴り飛ばされる」

「ああ」

 謝花じゃはなにはその光景が容易よういに想像できてしまった。

「という訳で、ありがとな。謝花じゃはな

「いえ! お役に立てて光栄です!」

 謝花じゃはなが腕を振るのに合わせてふたりの影がれた。そうこうしている内にふたりは明羽あはねがひとりで寝ている家に辿たどり着く。


明羽あはね

 呼ばれて明羽あはねは薄目を開けた。

「? 氷呂ひろ?」

「ごめんね。私。謝花じゃはなだよ」

「……ああ、謝花じゃはなか。どうしたの?」

 明羽あはねは少し視線を回す。

「まだ、夜みたいだけど」

「昼に一度見に来ただけだから、一応ね。調子はどう?」

「んー。変わらず」

「そっかあ。ちょっと触るね」

 そう言って、謝花じゃはな明羽あはねの手首に指をえる。

「うん。異常なし」

「ありがとー。謝花じゃはな。気に掛けてくれて」

「友達だもん。当然でしょ。それに今回は私だけじゃないんだ」

「?」

「よ。明羽あはね

「あれ? しなだ。幻? 幻覚? 氷呂ひろ夏芽なつめさんと一緒に行ったんじゃ?」

「留守番を言い渡されたもんでな」

「へえ。なんでだろ?」

呑気のんきなもんだなあ」

「本当ですね!」

 意気投合するしな謝花じゃはな明羽あはね疑問符ぎもんふを浮かべるしかない。謝花じゃはなの横からしなは腕を伸ばした。明羽あはねの額に手の平を乗せると明羽あはねの顔半分がすっぽりとおさまってしまう。

「ちっせえ頭だなあ」

「悪かったね」

「あ、いや。今のは悪い意味じゃない」

「じゃあ、どういう意味さ」

「物理的な意味だ」

「ぶはっ!」

 明羽あはねしな謝花じゃはなを振り返る。

「す、すみませんっ」

 謝花じゃはなはそれだけ言うとひとしきり腹を抱えて笑い、明羽あはねしなはそれを聞き流す。

「熱はないな」

「んー。ねえ、しな

「ん?」

氷呂ひろ。早く帰って来ないかなあ」

「おいおい。まだ一日もってないぞ」

「送り出したはいいけどやっぱり寂しい……」

 こっちはこっちで夏芽なつめの思惑通りでしなあきれる。

「ま、すぐ帰って来るさ。謝花じゃはな。そろそろおいとまするか」

「はい! しな兄様。じゃあ、明羽あはね。また明日。夜が明けたらまた来るね」

 明羽あはね病床びょうしょうから手を振り、謝花じゃはながそれに振り返す。ふたりの姿がなくなって、明羽あはねは再びゆっくりと暗闇に意識を沈ませていった。


 青くやわらかな光が揺蕩たゆたっている。その光を見ているとなんだかゆらゆらと水のかごいだかれているようでとても心地が良かった。明羽あはねは幸せな気持ちで寝返りを打つ。しかし、その光が一瞬陰った。明羽あはねは自分の名を呼ばれた気がして目を覚ます。

「……氷呂ひろ?」

 起き上がろうとするも身体は重く、起き上がることができない。

「うう……」

 明羽あはねが起き上がれるようになるまでもう数日掛かることとなる。


 薄茶色の空からやわらかな光が村に降り注いでいた。常に嵐の只中ただなかる村としては天気がいいと言っても差しつかえがない日。明羽あはねは村長の家の屋根の上で膝を抱えていた。重い重いため息をつく。

氷呂ひろが帰って来ない……」

 広場では謝花じゃはなが子供達相手に青空教室を開いている。だが、子供達の視線は謝花じゃはなの授業ではなく、膝に顔を埋める明羽あはねに向いていた。

明羽あはねちゃん。元気ないね」

「まだしんどいのかなあ」

「久しぶりに会えた時は嬉しかったけど」

「ずっと寝てた所為せいで身体が重いって泣いてたもんね」

「大丈夫かなあ?」

 子供達が全く自分の話を聞いていないことに謝花じゃはなはがっくりと肩を落とした。振り返って明羽あはねを見上げるが、明羽あはねはそんな謝花じゃはなと子供達の目線に全く気付かない。見兼みかねたしな梯子はしごを持って来て村長の家の屋根に上がった。

明羽あはね

しな

「調子はどうだ?」

「身体の方ならもう全然」

「そうか。ならいいけどな。子供達が心配してこっち見上げてるぞ」

 明羽あはねは眼下を見下ろす。しなの言葉通り子供達が心配そうにこちらを見上げていた。明羽あはねあわてて立ち上がった。

「大丈夫大丈夫! 私は元気だよ」

「本当に?」

 声を張る子供達に明羽あはねは大げさなぐらいに大きくうなずいた。

「本当! 本当! 本当に!」

「じゃあ、一緒に遊ぼう!」

「え」

「その前に今日の分のお勉強だよ! 遊ぶのはそれからね!」

 謝花じゃはなのお説教に子供達は拍子ひょうし抜けするぐらい素直に返事をした。明羽あはねが元気だと分かって気に掛けることがなくなったようだ。氷呂ひろ謝花じゃはなのようには子供達と接することができない明羽あはねはホッと胸をで下ろす。心の中で謝花じゃはなに感謝も忘れない。

「じゃ、降りるか」

「うん」

 しなはもちろん梯子はしごで降りることを考えていたのだが、目の端で明羽あはねが屋根の縁から飛び降りてしなは度肝を抜かれる。

明羽あはねっ」

 しなの心配も余所よそ明羽あはねは一階建ての屋根から飛び降りるなどお茶の子さいさいと、翼を広げるまでもないと着地する。

「おっととと……」

 着地によろけて明羽あはねは自分の体力がまだ完全に戻ってないことを再認識した。ため息をつくのと子供達に突撃されるのはほぼ一緒だった。

明羽あはねちゃん!」

「大丈夫!?」

明羽あはね!!」

 謝花じゃはなまでにも責められてもみくちゃにされている明羽あはねを見下ろして、しなは自業自得だと息を吐き出した。明羽あはねから空に目を移す。薄茶色が広がる空は舞い上がる砂の波まではっきり見えた。

「確かに、遅すぎるか」

 しなは少し考えながら梯子はしごを下りる。

明羽あはね

「ふぁい?」

「……明羽あはね。情けない声を出すな」

「な、情けない声なんて出してないやい!」

「涙目だぞ。お前」

 しな明羽あはねの乱れた髪をで付ける。明羽あはねは自分の情けなさに顔をおおった。そんな明羽あはねを見下ろしながらしなは切り出す。

「まだ気にしておきたいところはあるが、明羽あはねおおむね良好と見て、お前を連れて氷呂ひろ夏芽なつめを迎えに行こうと思う」

 明羽あはねがパッと顔を上げた。

「あいつらさすがにのんびりし過ぎだ。幸い今トリオも村にいて、もう一台の車がある。いいか?」

「うん!」

 明羽あはねが力強く返事をしたところで村の見回りに行っていた村長が広場に戻って来た。

「行くのかい?」

「うん」

「気を付けて行っておいで」

「うん! いってきます!」

 明羽あはねの動きに合わせて左耳の側で涙型の緑色の石がれた。


 明羽あはねしなの乗った車は砂漠の上を疾走しっそうする。向かうのは中心に青い湖をたたえ栄えるあのオアシスだ。

「なんかもうあのオアシスにいたのがすごく前のような気がする」

 明羽あはねつぶやきはエンジンのうなる音と風切り音に消えた。緑のトンネルを抜け、明羽あはねはその瞳に青い湖の姿を映す。あの時と変わらず、湖はキラキラと輝いていたがあの時と違い今、明羽あはねの隣に氷呂ひろはおらず、明羽あはねは重い息を吐き出した。あの時感じた高揚感こうようかんは今や影も形もない。氷呂ひろを迎えに来た。氷呂ひろに会える。というのに、明羽あはねの胸中には何故か言い知れない不安がただよっていた。

「さて、氷呂ひろ夏芽なつめ。すぐに見つかるといいんだが」

 しなが運転しながらそう言うのを明羽あはねは後部座席で聞いていた。車の外には行き交うたくさんの人、車の行き交いも多く、路駐ろちゅうも数台目に付く中、明羽あはねはそのうちの一台にすうっと目が引き寄せられた。正確には車にではなく、車の側に立つ色白の美しい女の姿に引き寄せられた。

夏芽なつめさん!」

「何!?」

 しなが思わずブレーキを踏み込んだ。後続車がクラックションを鳴らしながら明羽あはねしなの乗る車を追い越して行く。しなは周囲の安全確認をして車をわきに寄せた。車が止まると明羽あはねはすぐさま車を降り、夏芽なつめの姿を見た方へと走り出す。

夏芽なつめさん!」

明羽あはねちゃん!?」

 走り寄って来る明羽あはねの姿に夏芽なつめが目を丸くした。

「よう、夏芽なつめ。帰りが遅いからむかえに来た」

しなまで……」

 ふたりの顔を見て夏芽なつめはとても居心地の悪そうな顔になった。明羽あはねしなは顔を見合わせる。ふたりはとりあえず夏芽なつめを置いておいて側の車の中を見た。ほろの取り払われた後部座席にはいくつかの布の袋と組み立てると何かになりそうな角材の束が積まれていた。

「買い物は終わってるみたいだな。ん?」

 しなは角材と座席シートの間に収まっていた半球形状のものを見つけ、手を伸ばす。引っ張り出してみたそれには短い棒が刺さっており、それには六本の糸が張られていた。それはとても見覚えのある楽器だった。

「……何でこれがここにあるんだ?」

「あの楽器屋の前を通り掛かることがあって……。いらないって言ったんだけど押し付けられたのよ」

「買ったんじゃないのか」

「ねえ。これ組み立て式の機織はたおり機だよね? すごいね。こんなに大きいの。高かったでしょう」

 角材に触れる明羽あはね夏芽なつめの頬がる。

「それは……。氷呂ひろちゃんの交渉の賜物たまもので……」

「その氷呂ひろはどこ?」

「……」

夏芽なつめ?」

 明羽あはねしなに見つめられた夏芽なつめは観念したように息を吐き出し、辛そうな悲しそうなどうしたらいいか分からないというような困窮こんきゅうめいた顔になった。

「説明、するけど。その前に付いて来て。見てもらった方がきっと早い」

 そう言うと夏芽なつめは荷物満載の車に乗り込みエンジンをかけた。その車は助手席にもうひとりぐらいだったら乗れそうだったが、とてもふたりは乗れそうになかった。

明羽あはね夏芽なつめと一緒に行け。俺は乗ってきた車を回してくる」

「分かった」

 しなの運転する車が合流してくるのを待って三人は夏芽なつめの案内の下、湖の外周を走り、先程とは丁度真反対に当たるところまでやって来る。そこは人の行き来はあるが雑然としたにぎやかさはなく、外から来るものを選ぶような、少し近寄りがたい雰囲気がただよっていた。

「なんか、さっきまでいたところと空気違うね」

「こっちは高級品を扱う店が多いから」

「なんでこんなところ来たんだ?」

 夏芽なつめしなの質問に答えず空を見上げる。

「そろそろ来る頃かしら」

 首をかしげながら明羽あはねも空を見上げる。太陽は天頂を通り過ぎ、地平線へと向かっている最中だ。目の端に青色がなびくのを見て、明羽あはねはそちらに勢いよく目を向けた。見えたのは青くなめらかな腰まである長い髪。

 明羽あはねは駆け出していた。

氷呂ひろ!」

 けれど、人影は振り返らない。

氷呂ひろ! 氷呂ひろ! 氷呂ひろ!」

 何度呼んでも振り返らない。明羽あはねは何とかその背中に追い付き、その肩をつかむ。振り返った少女は驚いたように目を見開いた。朝の空のように澄み切った綺麗な青色の瞳。見間違いようのない、良く知っているその色に明羽あはね安堵あんどの笑みをこぼす。

「……氷呂ひろ

「人違いをされていますよ?」

「へ?」

 青い髪の少女はニコッと笑う。

「失礼します」

 少女は丁寧ていねいこうべれ、明羽あはねに背を向けた。一度も振り返ることなく歩き去って行く。しな夏芽なつめはそれを少し離れたところから見ていた。

「どういうことだ?」

「見た通りよ」

 夏芽なつめ蟀谷こめかみを押さえた。ふたりはとりあえず呆然自失で立ち尽くす明羽あはねを引っ張り、手近な軽食屋に向かう。外に置かれたテーブルに着くと途端に明羽あはねが机に突っ伏した。しな夏芽なつめが取り合えず飲み物を注文する。

「で、どうゆうことだ? 他人の空似そらにな訳ないし」

「私が氷呂ひろを見間違える訳ないじゃん!」

 明羽あはねが突っ伏したまま抗議こうぎの声を上げた。

「手首に明羽あはねちゃんお手製の手首飾りを確認済みよ。あれは間違いなく氷呂ひろちゃん」

「だから言ってるじゃん! ああああぁぁ……」

「何が起こってる?」

「分からないから困ってるんじゃない」

氷呂ひろがいない世界で生きてなんていけない」

 魂の半分抜け掛けた明羽あはねを見ながらしな夏芽なつめと出掛ける前にした会話を思い出す。夏芽なつめの考えに意味ないと答えたことにしなは少し考えを改めた。

明羽あはねは少し氷呂ひろ離れした方がいいな。さて、あれが氷呂ひろで間違いないのは確かだとして。何が起こってるんだ? まるで明羽あはねのことを知らないような。あれじゃ、俺が声掛けても同じ反応されそうだが」

「同じこと言われるでしょうね。私もそうだったから」

「そうだったか。で? 分からないばっかりの中、分かってることもあると思っていいのか? 説明するって言ってたよな」

「それなんだけど」

「聞く……」

「ん?」

氷呂ひろに直接聞いてくる!」

 立ち上がった明羽あはねの首根っこをしなつかむ。

「ぐえっ」

「落ち着け、明羽あはね。まず、氷呂ひろがどんな状況か確認しないことには」

「状況? 状況って何?」

「そうだな。俺らが関わって氷呂ひろ自身に危険はないかとか」

「……どうゆうこと?」

「想像力を働かせろ。例えどんなにあり得なさそうなことでも想定しておけ。危機回避能力は俺達にとって必須ひっすだぞ」

明羽あはねちゃん。とりあえず座ってちょうだい。私もあの状態の氷呂ひろちゃんと出くわしてから情報収集して。で、あんた達が来るまで途方にれてた訳だけど」

「途方にれる?」

「情報によれば、氷呂ひろちゃんには今、記憶がない」

「あ? 記憶がないにしちゃ元気そうだったが」

 夏芽なつめが目線を落とした。自信を失ったような、自分を責めるような顔をする夏芽あつめしなはため息をつく。

「とりあえず、ここに来てから何をしたのか話してくれ」

「うん」

 夏芽なつめはぽつりぽつりと語り始める。

「私と氷呂ひろちゃんはこのオアシスに着いて、当初の目的だった機織はたおり機のお店に行ったわ。前来た時、明羽あはねちゃんと氷呂ひろちゃんがのそいていたお店ね。そこで、氷呂ひろちゃんの値切り交渉に感動して。その後、残りのお金で氷呂ひろちゃんは糸を何色か買ってたわ。氷呂ちゃんの買い物が終わって、私の買い物に付き合ってもらって」

「お前の買い物?」

「子供達の服とかちょっと傷んできたから幾つか新調しようと思ったのよ!」

「ああ、うん」

 情緒不安定な夏芽なつめしなは口を閉じる。

「買い物が終わる頃には大分日がかたむいてた。だから、早々に宿を取って一泊してから帰りましょうね。なんて、氷呂ひろちゃんと話したんだけど。氷呂ひろちゃん、もう一軒寄りたい店を思い出したって。じゃあ、私もちょっと薬屋に行って薬草でも物色してこようかしらって」

「別行動したのか?」

「こんなことになるって分かってたらしなかったわよ!」

「ああ、うん。口はさんで悪かった。続けてくれ」

 夏芽なつめの記憶は前後する。何がいけなかったのだろうと、今一度自身の行動を振り返ってしまう。

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