第3章・湖のオアシス(2)

 先程まで人っ子ひとり歩いていなかった大通りは四人が湖を眺めている間に見渡す限りの黒山の人集りに変貌へんぼうしていた。

「い、いつの間に」

「はぐれるなよ」

「うん」

 前を夏芽なつめに、背中をしなに守られながら明羽あはね氷呂ひろは人混みの中を歩き出す。歩き出すとすぐに商売っ気の強い商人達が目を光らせて夏芽なつめに声を掛け始める。

「そこの別嬪べっぴんさん! どうだい? 新鮮な果物をひとつ! 美しい肌を保つのにはやっぱりこれだろう!」

「お嬢さん! 一反いったん買ってかないか? お嬢さんに合わせて仕立てりゃ最上級品間違いなしだよ!」

「このイヤリングの石を見てごらん! いい色だろう? 娘さんに掛かっちゃあこの大振りの宝石もかすんじまうんだろうけどな! ハッハッハッ!」

「おや? 美人姉妹だね! どうだいおそろいで? 姉妹割引するよ!」

 夏芽なつめの白い肌も氷呂ひろの整った容姿も、ここでは声を掛ける為のいい口実でしかないらしかった。最初こそ通り過ぎ様にやんわり断っていた夏芽なつめだったが次々と掛けられる声に根負けしたのか次第に生返事になり歩幅がにぶっていく。

「安くするよ!」

 なんて言われて、

「う~ん」

 と悩むようになっていた。

夏芽なつめ。最初の決意を思い出せ。手持ちは少ないぞ」

「だってー」

明羽あはね。俺から離れるな」

 しな夏芽なつめに理性をうったえながらキョロキョロしていた明羽あはねの腕を引く。突然けたたましくクラックションが鳴らされ、明羽あはねはビックリする。

「なに?」

 人でごった返しているにも関わらず大通りに一台の車が走り込んできていた。激しく何度もクラックションが鳴らされる。しなが嫌そうな顔になる。

たまにいるんだよな。ああいう輩。人出の多い時間帯のこういう商店の多い通りは車で通るのは避けるのが暗黙の了解だってのに」

「何ちんたらしてやがる! 邪魔だ! き殺すぞ!」

 車の前でひとりの少女が買ったばかりらしい布の束をばらいていた。前に出ようとした明羽あはねの腕をしながガッチリつかむ。

しな

こらえろ」

 明羽あはねうつむく。

「オアシスによってはこんなに人まで雰囲気が違うんだね」

 明羽あはねは左耳の側でれる緑色の石に触れた。

「そうだね」

 隣で同意した氷呂ひろもまた手首でれる青い石に触れていた。

「何見てやがる!」

 周囲に向かって怒鳴どなり散らす運転手に人々が委縮いしゅくする中、その目がぐるりと一周して明羽あはねに向いた。目が合った気がして明羽あはねは小さく息を呑む。女の子が荷物を拾い終えてその場からいなくなると、車はその間に出来た隙間をクラクションを鳴らしながら走り去って行った。少しばかり騒然とするが通りはすぐに先の騒ぎが嘘だったように元のひぎわいを取り戻す。

「行きましょう」

 夏芽なつめが歩き出し、明羽あはね氷呂ひろしなが付いて歩き出す。

明羽あはね

「ん?」

 氷呂ひろがとある店の前で立ち止まった。

明羽あはねたまにはスカート穿かない?」

 明羽あはねは首を横に振った。

「そう? 明羽あはねいつもズボンにブーツでしょう? たまにはどうかなって思ったんだけど」

「これが一番動きやすい服装だから。それに」

「それに?」

「スカートは氷呂ひろの方が似合う」

「それ、明羽あはねがスカート穿かない理由にならないから」

 氷呂ひろが歩き出し、明羽あはねはその後を追う。最も混雑していた場所を通り抜けたのか人の行き交いが少しまばらになる。少しばかり見通しがくようになって夏芽なつめしな明羽あはね氷呂ひろから少し距離を取った。その姿を見失わない位置からふたりを見守る。

「楽しんでるかしら」

「見てる分にはそれなりに楽しそうだけどな」

 氷呂ひろがまた違う店の前で足を止める。

明羽あはね。見て。これ、何か分かる?」

「んー?」

 明羽あはね氷呂ひろが指差している先をのぞき込む。

「種、かな?」

「正解! これは綿花めんかの種」

「じゃあ、これを植えたら綿花めんかができて糸が作れるんだ」

「そう。村で栽培できないかな?」

 氷呂ひろの期待に輝く瞳に明羽あはねは自信なさげに返事する。

綿花めんかか……。私、野菜しか作ったことないからなあ」

「そっか。でも、まあ、これを買うことはきっとないから。忘れて。明羽あはね

「え? なんで?」

「だって、糸はお腹の足しにならないでしょう」

 氷呂ひろが少し残念そうに見つめる先を明羽あはねも見る。その店頭に置かれた机の上には中を細かく仕切られた箱があり、小さく仕切られた部屋の中には形も色も様々な種が並べられていた。

たと綿花めんか栽培さいばいできても糸をつむぐのにも道具が必要だし。布を織るには機織はたおり機が必要になる」

「ああ、それにはすごくお金が掛かりそう……」

 明羽あはねはぐるりと辺りを見回した。

「それにしてもこのオアシス、色々あるけど布系の割合が多いような」

「昔はそれが特産のオアシスだったのかもしれないね」

 氷呂ひろが未練を断ち切るように背筋を伸ばした。歩き出そうとする氷呂ひろ明羽あはねは引き止める。

「ねえ、氷呂ひろ

 明羽あはねは知っている。南の町で、キナの呉服屋ごふくやで、氷呂ひろは毎日のように布を織っていた。大きな機織はたおり機の前に座って日々、どうやったら望む文様を織り出せるかを研究しながらカタンカタンと布を織っていた。その軽やかな音を明羽あはねはまた聞きたいと思う。すぐには無理でも。

機織はたおり機。見るだけ見てみようよ」

 明羽あはねの顔を見て氷呂ひろは嬉しそうに笑った。歩き出した明羽あはね氷呂ひろの後をしな夏芽なつめが追いかける。近場に機織はたおり機の店を見つけ、明羽あはね氷呂ひろはその中に足を踏み入れる。店内には明羽あはね氷呂ひろの身長をはるかに超える大きさのものから卓上たくじょうに置ける小さなものまであり。明羽あはね機織はたおり機と一口に言ってもこんなに種類があるのかと目をしばたく。氷呂ひろはといえば始終しじゅう目を輝かせていた。

卓上たくじょうぐらいなら買えないかな?」

しなさんと夏芽なつめさんの負担になるような買い物はできないよ」

 明羽あはねの提案にも氷呂ひろは首を横に振る。結局、本当に物色しただけで何も買わないまま、四人は大通りのはずれまで来た。喧騒けんそうからはずれて辿たどり着いた小さな広場にはゆったりとした時間が流れていた。

「休憩するにはいい場所ね」

「ちょっと座るか」

 四人はオアシス特有の大きな葉がしげる木の下に並んで座る。大きな葉の形の影が落ちてやわらかにれる。

「いい風ね。あら?」

夏芽なつめさん?」

「どうかしましたか?」

 夏芽なつめの目線の先を明羽あはね氷呂ひろが追い掛ける。

めずらしい。楽器屋だわ」

「あ!」

明羽あはねちゃん!?」

 突然走り出した明羽あはね氷呂ひろしな夏芽なつめの三人が腰を上げる。

「これ! 氷呂ひろ!」

 楽器屋の前で明羽あはねはそこに置いてあるものを指差した。氷呂ひろしな夏芽なつめも楽器屋の前にやって来る。

「どうしたの? 明羽あはね?」

 明羽あはねは店頭に置いてあったひとつの楽器を手に取って見せた。それは抱えて持てる大きさの弦楽器だった。半球型の胴、胴より伸びるやや短めのさおには六本の弦がピンと張られている。明羽はその楽器を抱え、その弦を軽く爪弾つまびいた。軽やかな音が鳴る。驚いたのはしな夏芽なつめだ。

明羽あはね。お前、けるのか?」

「意外だわ」

 驚きを隠せないしな夏芽なつめを気にせず、明羽あはね爪弾つまびき続ける。一通りき終わると氷呂ひろが小さく拍手した。

「南の町にいた頃、氷呂ひろが人前で歌う機会があって」

氷呂ひろちゃんが?」

「はい」

 氷呂ひろが少し照れ臭そうに笑う。

「それでね。氷呂ひろが歌うのに、誰かに伴奏をやらせるぐらいなら私がやるって猛特訓したんだ」

「執念だな」

 明羽あはねしなを見上げ、神妙しんみょうにこくりと頷いた。

明羽あはね、本当にすごいんですよ。言っては何ですが、その……お世辞にもとても才能があるとは言えなくて……」

 段々と声を小さくして目を泳がせた氷呂ひろ夏芽なるめは問わずにはいられない。

「それで、どうしたの?」

「それでも、つたないながらも最終的には間に合わせたんです」

「執念だなっ」

 先程より声を大きくしたしな明羽あはねは黙って大きくうなずいた。

「その努力にむくいるためにも。ちょっと貸してちょうだい」

 明羽あはねは持っていた楽器を夏芽なつめに渡した。受け取った楽器のげん夏芽なつめは一本一本きながらこまの位置を変え、糸車いとぐるまひねっていく。

「音が少しズレてたのよね。これでヨシっと」

 楽器を返された明羽あはねは再び爪弾つまびいてみる。

「うん。私には分からない!」

「あらー」

 夏芽なつめが残念そうに笑った。

「でも、夏芽なつめさんを信じてる。夏芽なつめさんがそういうなら間違いない」

「そうだね」

「嬉しいこと言ってくれるじゃない」

 夏芽なつめ微笑ほほえんでいるのを見てしなはハッとする。それを氷呂ひろは見逃さない。

しなさん?」

「ん? しながどうしたの。氷呂ひろ

 明羽あはねが見るとしなが首を横に振った。その表情は「お前らのいた種だ。俺は何も出来ん」と言外ごんがいに言っていた。

「ふっふっふっふっ」

 明羽あはねしなに向けていた怪訝けげんな顔を引っ込めて夏芽なつめを振り返る。声にたがわず不敵な笑みを浮かべている夏芽なつめ明羽あはねは思わず抱えていた楽器をさらに抱え込んだ。

「な、夏芽なつめさん?」

「お姉さん。かわいい子にはつい意地悪いじわるしたくなっちゃうのよね」

「はい?」

「聞かせて欲しいな。明羽あはねちゃんと氷呂ひろちゃんの演奏と歌声」

「へ? へい!?」

「いいな。俺にも聞かせてくれ」

しなさん!?」

 不干渉ふかんしょうを決め込もうとしていたはずしなの思わぬ追撃に明羽あはね氷呂ひろは目を白黒させた。せまって来る大人ふたりに明羽あはね氷呂ひろは圧倒されながらも勇気をしぼって首を横に振る。

「無理! 無理無理無理無理無理! そうだ! 氷呂ひろだけ歌いなよ!」

明羽あはね!?」

 氷呂ひろの裏切られたと言わんばかりの顔に明羽あはねは自分の口から発した言葉を後悔する。

「そんなに嫌なの?」

 ふたりの様子を見た夏芽なつめの声が少しやわらかくなる。考えを改めてくれたのかと明羽あはね氷呂ひろは期待するがその期待は裏切られる。

「じゃあ、人を呼びましょう」

「……はい?」

「これから明羽あはねちゃんと氷呂ひろちゃんがいて歌いますって、大きな声で宣伝するわ」

 明羽あはね氷呂ひろの顔が見る見るうちに青ざめていく。

夏芽なつめ。さすがにやり過ぎじゃないか?」

しな。あんたさっき一瞬でも私の考えに乗ったこと忘れたの?」

「すまん。明羽あはね氷呂ひろ

「もっと頑張ってよ! しなぁ!」

「すまん!」

 謝るしなの横で夏芽なつめの目が爛々らんらんと輝いているのを見て、「あ、この人本気だ」と明羽あはねは思った。

夏芽なつめさん。面白がってる! 面白がってるでしょう!」

「ええ! さあ、明羽あはねちゃん、氷呂ひろちゃん。私達の前で歌うか、大勢の前で歌うか。ふたつにひとつよ!」

 明羽あはね氷呂ひろの顔を見た。明羽あはねの顔を見た氷呂ひろが察する。

「本当にやるの? 明羽あはね

「大勢の前でやるよりはっ」

「分かったわ。でも、付いて来れる?」

随分ずいぶん無沙汰ぶさただったからな。でも、食らい、つく、ので……っ」

 半泣きの明羽あはね氷呂ひろはその決意に答えるようにうなずいた。明羽あはねは店頭に並ぶ楽器の台になっていた椅子をひとつ拝借はいしゃくしてそれに座る。明羽あはねの指先からつたない演奏が流れ始める。それを聞いてしな夏芽なつめは子供達のお遊戯ゆうぎ会をながめるような気持ちになる。


『歌を歌いましょう』


 氷呂ひろが歌い出した途端、しな夏芽なつめは目を見開き、ポカンと口を半開きにしていた。

 風が吹き抜ける。大地から天へと駆け上がる風だ。


『太陽と月が共に昇り、夜の闇を吹き払う

 青い空から金の瞳と銀の瞳が見つめている

 緑におおわれた大地、白い花が咲き乱れる

 この美しい世界で私達は今、共にある

 私は願う、この世界が永久とわに続きますように』


 間奏に入り氷呂ひろ明羽あはねを振り返った。明羽あはね眉間みけんしわを寄せ、げん爪弾つまびくのに必死の形相ぎょうそう。歌と音はズレてはいなかったから大丈夫、なんて氷呂ひろの心配を余所よそ明羽あはねがチラと氷呂ひろ目配めくばせする。それは、ちゃんと氷呂ひろの声も聞こえているという明羽あはねの意思表示だった。氷呂ひろ微笑ほほえんだ。氷呂ひろが息を吸うのに合わせて、明羽あはねは次の音にみ込む。


『闇が世界をおおい、幾万いくまんの星がまたたいている

 漆黒に金の瞳も銀の瞳もないけれど

 風は歌う、水は静まり、大地は眠る

 この美しい世界で私達はいつまで共にあるだろう

 私は願う、風が世界をくその日まで……』


 アップテンポの曲調。透明度の高い氷呂ひろの声は風に乗って天高く伸び上がり、その場の空気を支配した。夏芽なつめが言葉をこぼす。

「……この歌。こんな綺麗な歌だったかしら。もっと、こう、おどろおどろしいような印象があったんだけど」

「おどろおどろしい……? それは良く分からんが。歌い手によってこうも印象が変わるもんなんだなとは思った」

「誰と比較ひかくしてんの?」

「育ての親」

「ああ、あの人」

たまに歌ってたんだよな。なつかしむみたいに。夏芽なつめは誰が歌ってるの聞いてそんな印象になったんだ? イッテ! なんだよ!?」

 急にり飛ばされた太股ふとももさすりながらしな夏芽なつめを見る。夏芽なつめはそれはそれは不服そうな顔でしなにらみ付けていた。しな合点がてんのいった顔になる。

「お前、音痴おんちだもんな」

 再びのり。明羽あはね伴奏ばんそうが終わるとワアッという歓声かんせい拍手はくしゅき起こった。いつの間にか明羽あはね氷呂ひろを中心に楽器屋の前に人集ひとだかりができていた。

「結局、人集まっちゃったわね」

「なかなか良かったぞお! お嬢ちゃん達!」

 前に進み出てきたおっちゃんは手に何かをにぎめていた。おっちゃんは地面に何かを探す。

「なんだあ? 金を投げ入れる入れ物も用意してねえじゃねえか。しょうがねえ嬢ちゃん達だ!」

 そう言うとおっちゃんはどこからともなく空き缶を取り出して明羽あはね氷呂ひろの前にドンと置いた。そこにチャリンとコインが投げ入れられる。

「また聞かせてくれ!」

 それを皮切りに群衆が次々とその缶にカランカランとコインを投げ込んでいく。

「感動したよ!」

「美しい歌声だった!」

「今日は素晴らしい日だ!」

「楽器はもっと練習した方がいいな。次に期待してるぜ!」

 缶の中はあっと言う間に一杯になった。明羽あはねはそれを恐る恐る持ち上げる。ずっしりとした重さを両手に感じて唖然あぜんとする。

「ひとかせぎしちゃったわね」

 なんて言う夏芽なつめ明羽あはね氷呂ひろは何か言いたげに見つめてしまった。何も言えなくて、せめてもの抗議こうぎ明羽あはねが口をとがらせていると、目の端に白い羽根が一枚舞った気がして明羽あはねは目を向ける。けれど、そこには羽根の影も形もない。

明羽あはね。お疲れ様。どうかした?」

「ううん。何でもない。氷呂ひろもお疲れ様」

 明羽あはね氷呂ひろがお互いをねぎらっているとパチパチパチと手を打ち鳴らす音が楽器屋の奥から聞こえてくる。見るとそこには眼鏡をかけた小柄な男がひとりで一生懸命に拍手はくしゅしていた。

素晴すばらしい! 素晴すばらしいです! ウチの楽器でこのような素晴すばらしい演奏をしてくださるなんて。感無量かんむりょうです!」

「ごめんなさい! 勝手に!」

「いいんです!」

 あわてて謝る明羽あはねを男はさえぎった。これ以上の喜びはないと言わんばかりの笑顔で明羽あはね氷呂ひろに近付く。

「あなた様がいきなり楽器を持ち上げられた時はどうなさるおつもりだろうと冷や冷やいたしましたが。演奏を始められて驚きました!」

 明羽あはねは目をしばたく。夏芽なつめ明羽あはねの後ろから身を乗り出した。

「ずっと見てたってことかしら?」

 男がうなずく。

「お姉様が「あら? 珍しい。楽器屋だわ」とおっしゃっていたところからでございます」

「そんなところから!? それなりに離れてたわよ? それに人影なんて見えなかった!」

「隠れておりました」

「隠れ……。なんで?」

「恥ずかしかったからでございます」

 商売向いてないんじゃない? という言葉を夏芽なつめかろうじてみ込んだ。そして、その考えが思い違いであることをすぐに知る。

「あなた様が、お姉様が、妹様の手にした楽器の調律がうまく行っていないことをズバリ言い当てられて私、ドキリといたしました」

 男は四人を兄妹だと思い込んでいるようだったが訂正するのも面倒だったので誰も指摘しない。

「音のズレている楽器を店頭に並べていることを知られ、私は恥ずかしかったのでございます」

「でも、出て来たわね」

「出て来ずにはいられませんでした! 感動したのでございます。妹様のあの歌声に!」

 男に手で示された氷呂ひろ明羽あはねの背に隠れる。

「こちらの妹様のつたない演奏をおぎなうに余りある歌声でございました。もちろん! あなた様も頑張っておられましたよ!」

 男のフォローに明羽あはね項垂うなだれる。

「ああ、うん……。それは自分でも認める」

「ありがとうございます。これで決心が付きました」

 急に何の話だと四人は男の顔を見つめた。男は勝手に語り出す。

「実は先日。新しい調律師をやとったのです。私にはずっと長いこと一緒にやって来た調律師がいたのですが彼はもう高齢ということで耳がかなくなっていたのでございます。それで、もう、引退いんたいすると。彼の決意は固く、私もいたし方ないと新しい調律師を探すことにしたのですが私も彼も新たな調律師のてはなく。一般公募をしてみたのですがやって来た男は若く、ポンコツでございました」

 あまりにさらりと言ったので聞き流してしまいそうだったが男はハッキリとポンコツと言った。それだけ、素人しろうとから見ても役立たずだったということらしい。

「勤務態度もすこぶる不真面目で。しかし、他に申し込んできてくれる者もおらず、どうしたものかと思っていたところだったのです。引退いんたいした彼には申し訳ありませんがまた、一緒に働いてもらえないかお願いしてみます」

「そうだったんだ。戻って来てくれるといいね」

 明羽あはねの言葉に男は決意を持ってうなずく。

「ありがとうございます」

「ところでその若い調律師は? 今いないの?」

「今日はまだ来ておりません。無断欠勤です。ですが、二度と来なくて良いと思っております」

「そ、そう……」

 店の中を覗き込んでいた夏芽なつめは身を引いた。

「ところでその楽器」

「これ?」

「とても良いものですよ。持って行かれませんか?」

「え」

 言葉に困る明羽あはねに男はニコニコと笑う。

「とても素晴らしい感動と決心をいただきました。なので、半額にいたします。いかがですか!」

「え、え……?」

「えーと。申し出はありがたいんだけど……」

 夏芽なつめが助けぶねを出す。しかし、男は前に出て来た夏芽なつめに鼻息荒く詰め寄る。

「そうだ! お姉様! あなた様は素晴らしい耳をお持ちだ! ウチで働きませんか?」

「ええ!?」

「どうです? お姉様が引き受けてくださるというならさらに割引いたしますよ!」

「いやいやいや! 今さっき引退いんたいした人に戻って来てもらうって言ってたじゃない!」

「もちろん、彼にはこれからも共に働いてもらいたいと思っております。しかし! 彼の耳がおとろえてきているのは事実! 募集は掛け続けるつもりでございますれば。さあ、いかがです!?」

「いかがですって言われても!」

「これを手にすれば妹様は毎日練習ができて、練習できれば腕が上がることは間違いありません! さすれば、さらにあの歌にはくが付くとは思いませんか?」

「う」

「ぬう」

 明羽あはね夏芽なつめの気持ちがれた時、しなが男の首根っこをつかんだ。

「およ? やややっ。お兄様っ。何をなさいます!」

「こうゆうところはさすが商売人と言ったところか。残念だが、俺達はこのオアシスの住人じゃないし、楽器を買うふところの余裕はないんだ」

「そうでしたか。それでは、お姉様のことはあきらめましょう。しかし、値段のことなら相談に乗れると言っているじゃありませんか。それに先程、妹様方がひとかせぎしていたじゃありませんか!」

 しなは男の言葉を無視して店の中へと歩き出す。様々な楽器が並ぶ中を奥へ奥へと進んで行く。一番奥まで行くと楽器に囲まれて外からは見えない位置に小さな丸椅子が置いてあった。恐らく男はずっとここに座って外の様子をうかがっていたのだろう。しなは男をその椅子に座らせた。

「悪いな」

 と肩をポンポンと叩く。明羽あはねは借りた椅子を元に戻し、その上に楽器を戻す。戻した弦楽器を明羽あはねは少しだけ見つめた。去って行く四人の後ろ姿に店の中から男はつぶやく。

「残念でございます」

 男はひとり、心の底からしょんぼりと項垂うなだれた。


 楽器屋を後にして四人は石畳を歩いていく。

「それにしても明羽あはねちゃんと氷呂ひろちゃんの新しい一面が見れて嬉しいわ。それに、ふたりのお陰であの歌に対する苦手意識も薄れた気がするし」

「苦手?」

夏芽なつめさんもあの歌知ってるんですか?」

「もちろんよー。むしろ知らない人なんていないんじゃないかしら。種族とか関係なく昔から歌われてきた歌でしょう」

「そうなの?」

「南の町では聞いたことないです」

「南の町で歌う機会があったから練習したって言ってなかったっけ?」

「あの時は選曲も任されちゃって」

「あれには困りました。私達はこの歌しか知らなかったので」

氷呂ひろの声のお陰でおおむね好評だったけど、変わった歌だねえ。とか言われちゃったよね」

「そうだったの。私的には凄く馴染なじみ深い歌なんだけど。人間の間じゃあもう歌われてないのかしら」

 夏芽なつめは首をかしげた。

「つーか。南の町で聞いたことないならお前達はどこでその歌覚えたんだ?」

 しなの何気ない疑問だった。けれど、明羽あはね氷呂ひろは大きく目を見開く。

「どこで……どこでって……。誰かが、歌ってて……」

「そう……。とても、綺麗な声が歌ってて……」

 明羽あはね氷呂ひろの様子にしな夏芽なつめはふたりの記憶が十年程前からしかないことを思い出す。夏芽なつめしな脇腹わきばら小突こづいた。

「痛い……」

「ま、いいじゃない。無理に思い出さなくったって。大事なことならきっとそのうち思い出せるわ」

「そうですね」

「うん」

 明羽あはね氷呂ひろ釈然しゃくぜんとしないままうなずいた。その時、突風が吹いた。本当に突然の強風にあおられて舞い上がった砂に四人は目をおおう。風が止んで、突風で飛ばされた色々を拾い集める周囲の声がさわがしい。夏芽は服をはたきながら空を見上げた。

「なんだか今日は空に向かって風が吹いてるわね。段々強くなってるような気もするし。ん?」

 夏芽なつめは見る。空に影が落ちている。

「どうしたの? 夏芽なつめさん」

 明羽あはね夏芽なつめが見ている空を見上げた。そこには黒いもくもくとしたものが浮いていた。

「ん?」

 その黒は見る見るうちに大きくなり、時折内側に光を走らせながらオアシスをおおう程の大きさにあっと言う間に成長していく。

「な、なにあれ?」

「積乱雲だわ」

「せきら?」

 また風が吹いた。昼とは思えないその冷たさに明羽あはねはビックリする。

「なになに? 何が起こってるの? 冷たっ」

 鼻の頭ではじけた、風とはまた違う冷たさに明羽あはねは自分の鼻に触れる。

「水?」

「雨だ!」

 誰かが叫んだ。次の瞬間、ポポッと地面に小さな染みができたと思ったらドッと真っ黒な空から水が降ってくる。断続的だんぞくてきに降りそそぐそれに阿鼻叫喚あびきょうかんさわぎになるが、地面に叩き付けられる水の音でそれは掻き消された。明羽あはねはいきなりのことにつむってしまった目蓋をゆっくりと開ける。雨の滴が大地ではじけてシャンシャンと鈴の音のように軽やかな音を立てていた。オアシスをおおう暗雲の向こうには普段と変わらない青い空が広がっていて、落ちて来る滴は遠くの光を透かしてキラキラと輝く。キラキラキラキラ、光が大地で何度もはじける。幻想的げんそうてきな光景に明羽あはねは両手を広げていた。氷呂ひろしな夏芽なつめあわてて側の商店に駆け込んでいた。中はすで雨宿あまやどりの人でごった返している。氷呂ひろ明羽あはねがいないことに気付いて振り返った。雨の中、両手を広げてくるくると回る明羽あはねがいた。

明羽あはね!」

 その怒号にも似た声にしな夏芽なつめが振り返る。

明羽あはね! 何やってるの!?」

氷呂ひろ。見て、綺麗だよ!」

明羽あはね!」

 氷呂ひろが駆け出していく。

「え? え? 氷呂ひろちゃん?」

 夏芽なつめが戸惑っている間に氷呂ひろ明羽あはねを引っ張って戻る。

しなさん。夏芽なつめさん。何かくもの持ってませんか?」

「そう言われてもな……」

 屋根の下には入ったが四人ともずぶれのねずみで、たとえ何か持っていたとしても使い物にならなかっただろう。

「どうしたの? 氷呂ひろちゃん。何をそんなにあせってるの?」

明羽あはね。雨にれると身体壊すんです。今までに二回ほど南の町で降られたことあるんですけど二回とも高熱で寝込んで。なのに、分かってるのにっ! 自分かられに行くところがあって!」

「一生に何度か出くわせば大したもんなのに既に三回目か。すごいな。お前達」

「感心してる場合?」

 夏芽なつめしな小突こづこうかという時、明羽あはねが小さなくしゃみをした。明羽あはねが目を何度かしばたいたかと思うとおもむろに自身の身体を抱える。

「寒い……」

 小刻こきざみに震えだしたかと思うと明羽あはねはふらりとよろめいた。

明羽あはね!」

 氷呂ひろ明羽あはねを抱き止める。顔を真っ赤にして浅い呼吸を繰り返す明羽あはねしな夏芽なつめはことの重大さに気付く。

「これ、使っておくんな」

 あわてふためくしな夏芽なつめにお店の人が大判の布を差し出してくれる。それで明羽あはねくるんでも明羽あはねの様子は一向に変わらず。

「えーとえーとっ……。ちょっと待って! 体温の上昇が急すぎるっ」

氷呂ひろ! 前にこうなった時はどうしたんだ?」

「とにかく動かさないようにして、水分補給とか欠かさないようにして。熱が下がるのに三日、その後動けるようになるまで七日は掛かりました」

「そんなに、ここには泊まっていられないわね」

 宿の少女に頼み込めばあるいは助けてくれるかもしれないが……。

「……村に帰ろう」

「でも、しな。嵐が」

「この状況でそんなこと言ってられねえだろ」

「……そうね」

明羽あはね……。本当にバカ!」

 氷呂ひろにじむ涙をこらえて明羽あはねを抱き締めた。


 宿に戻ってしなは受付の少女に引き払うむねを伝える。

「世話になった」

「え? え?」

 今夜も泊まると言っていたお客の急な変更に少女は戸惑う。戸惑っている間に四人の姿は見えなくなっていた。


 一台の車が壊れるんじゃないかというスピードで砂漠を疾走しっそうする。進む程に車に張ったほろが風を受けてバタバタと鳴った。車の進行方向に見えてくるのは昨日見た時と何ら変化の見えない暴風と巻き上げられた砂で形成された、天を突く程にそびえ立つ真っ黒な壁。

「突っ込むぞ!」

 しなはアクセルを踏み込んだ。ハンドルを取られないように強く握り込む。飛び交う砂がほろに当たってバチバチと痛々しい音を立てる。横風をいなしながらしなは車を走らせた。しかし、恐ろしい横風に車体が大きくかたむく。

「クソッ」

 しながハンドルを切り、後部座席で意識のない明羽あはねを支える氷呂ひろ夏芽なつめも重心を戻そうとするも車はかたむいていく。車がかたむいていく中、しな夏芽なつめは車が使えなくなったらどうするべきか、脳を高速で回転させる。急に風がいだ。ほろの波立ちが収まる。四輪のタイヤがゆっくりと砂をとらえて衝撃が車体を震わせた。

「……なん、だ?」

「なにが……?」

 しな夏芽なつめしばし呆然としたが、

「今! 今のうちよ。しな!」

「お? あ、ああ! そうだな!」

 しなはアクセルを踏み込む。いだ風は車が進む程に少しずつその威力を取り戻し始めていた。しなかくアクセルを踏み込み続けた。


 白い獣が空を見上げていた。薄暗い村の中。村長は中央広場で太陽の光が届かない程の茶色に染まる空を見上げていた。白い三角形の耳がぴくりと動く。村長は駆け出していた。村の入り口に一台の黒い車が停車していた。

明羽あはね氷呂ひろしな夏芽なつめ

 村長が駆け寄っている途中で車のドアが開き、四人が降りてくる。

「四人とも無事……明羽あはね?」

 夏芽なつめが布にぐるぐる巻きになっている明羽あはねを抱えているのを見て村長は目を丸くした。

「何があった?」

「村長。すみません。また後で報告に行きます」

 かろうじてしながそう返して、四人はその場を後にする。取り残された村長は再び空を見据みすえ、四人の後を追った。飛び出して行った明羽あはね氷呂ひろ、その後、ふたりを追って行ったしな夏芽なつめが帰って来たことはすぐに村中に知れ渡る。村中が安堵に包まれたのもつか明羽あはねの不調もまたすぐに村中に知れ渡り、不安が伝播でんぱしていった。明羽あはねの熱は二日ってやっと下がり始める。

明羽あはね。生きてる?」

「……生きてる」

 氷呂ひろの問いに答えるその声は耳を口元まで近付けなければ聞こえない程に弱弱しい。明羽あはねはなんだか久しぶりに見る天井を見上げた。そこに氷呂ひろの顔が割り込んでくる。

「三回目。三回目だよ。明羽あはね

 明羽あはねまたたきを繰り返す。

「聞・い・て・る・の?」

「聞いてます! 聞いてます!」

 氷呂ひろ仄暗ほろぐらい瞳が近付いて来て、明羽あはねは声を張り上げた。けれどかすれる声。出辛でづらい声を明羽あはねは必死にしぼり出す。

「ごめん。氷呂ひろ。分かってるんだけど。何度見ても、すごく綺麗で。我慢できなくて」

「それを分かってないって言うんだよ」

 氷呂ひろの声は低い。そっぽを向く氷呂ひろの服のすそを明羽はまんだ。

「ごめんね。氷呂ひろ。心配してくれて、ありがとう」

 氷呂ひろはまだムッとしていたがしばらくして肩の力を抜いた。

「もうしばらく寝てて。明羽あはね。本調子には程遠いんだから」

「うん」

 言われるままに目を閉じた明羽あはねはすぐに静かな寝息を立て始める。それを確認して氷呂ひろはその場から離れた。


しな兄様! 夏芽なつめ姉さま!」

 明羽あはねの様子を見に行こうとしていたしな夏芽なつめが振り返ると子供達を引き連れた謝花じゃはなしな夏芽なつめに駆け寄る。

明羽あはね明羽あはねの様子はどうですか? 熱は下がったんですよね?」

 謝花じゃはなだけでなく子供達までもが不安そうな顔でしな夏芽なつめを見上げた。夏芽なつめは子供達を安心させるようにニコッと笑う。

「大丈夫よ。とうげは越えたわ。後はもう回復するのを待つだけよ」

 子供達から歓声が上がった。謝花じゃはながボロボロと涙をこぼし始める。

「良かった。良かったよ~」

 しな夏芽なつめがその肩といわず背といわず、ポンポンと叩いた。

「あ! 氷呂ひろちゃんだ!」

 子供の指差した方に皆が顔を向けると、皆がいる方へ向かって歩いてくる氷呂ひろの姿があった。

氷呂ひろちゃーん」

 夏芽なつめが声を掛けると氷呂ひろ微笑ほほえむ。

「みんな、集まってどうしたんですか?」

明羽あはねちゃんの様子を見に行こうと思って」

「あ、すみません。明羽あはね。今、丁度ちょうど寝たところで」

「あら。じゃあ、出直すわ」

氷呂ひろちゃん!」

氷呂ひろちゃん。明羽あはねちゃん、大丈夫?」

 寄ってたかってすがりりついて来た子供達に氷呂ひろは言う。

「ありがとう。みんな。明羽あはねは大丈夫だよ」

氷呂ひろちゃんは大丈夫?」

「え」

 思わぬ言葉に氷呂ひろは目を丸くした。

「私は、大丈夫だよ?」

「でも、元気ないよね」

「落ち込んでるよね」

「ハキがない」

「オーラがかげってる」

 断定してくる子供達に氷呂ひろは黙ってしまう。

「そう言えば少し顔色が悪いような」

「そんなことないよ」

 謝花じゃはなに笑ってそれだけ返した氷呂ひろの顔を謝花じゃはなは見つめた。

謝花じゃはな……。近い」

「どれ、氷呂ひろちゃん。こっちを御覧ごらんなさい」

 氷呂ひろの頬を包むようにしながら夏芽なつめは何気なくその顔色を観察し、白い首筋から脈を取る。

「脈は正常。体温も平熱。でも、そうね。顔色が少し悪いかしら。身体的な不調じゃないなら精神的なものだと考えられるけど」

 氷呂ひろは何度かまばたきしてから目線を落とした。

「そう、ですね。私に明羽あはねの行動を制限する権利なんてないのは分かってるんです。あの子は自由だから。私自身、明羽あはねにはそうであってほしいと思ってる。でも、今回のことは本当に反省してもらいたいと思ってて。みんなにもたくさん迷惑かけて、心配かけて、私の気持ちとか、もっと自分のことも大事にして欲しいし、感情的に動き過ぎるところとか、そもそも考えなしなところもあって……」

 段々と止まらなくなる氷呂ひろ愚痴ぐちをその場にいた皆が黙って聞いた。そこに村長が通り掛かる。

「どうしたんだい? みんな集まって」

「あ、ええっと……」

 なんと説明したものかと夏芽なつめが答えあぐねていると氷呂ひろが村長をキッと見た。

明羽あはねが自由過ぎるんです!」

 その一言に村長はひとつ頷いた。

「そうだね。明羽あはねには言っても分からないところがある気がするから。氷呂ひろに甘えてばかりいると痛い目を見るって、そのうち思い知らせてあげるといい」

「はい!」

 せきを切ってあふれ出していた氷呂ひろ愚痴ぐちがスパッと止まり、その場にいた皆は村長への尊敬の念をますます強めた。

「ところで、氷呂ひろしな夏芽なつめ。聞きたいことがあるんだが」

 名指しされた三人が背筋を伸ばす。

「時間が経ってしまっていて申し訳ないんだが。君達が帰って来た時のことを聞きたいんだ」

「帰って来た時、ですか?」

「あの時、村の周りはひどい嵐だっただろう」

「ああ! 確かに、ひどい嵐でした」

「無理があったのは分かってたんですが。一瞬、死を覚悟しましたね」

「一時的にだが風がいだりしなかったかい?」

 しな夏芽なつめが目を見開く。

「そうです、そうです。そうなんです!」

「幸運でした」

「アレを君達は自然現象だと思うかい?」

「え」

 しな夏芽なつめが顔を見合わせる。

「まあ、不自然と言えば不自然に感じなくもないですが」

「村に着いた途端、ぶり返したものね」

人為的じんいてきだとして、あれ程の風を制御する程の力を持つ者なんて……。それに、そんなことをして誰にメリットがあるのか。俺達は助かりましたけど」

明羽あはね

「へ」

明羽あはねは有り得ないかい? 明羽あはねが君達を守るために力を使ったとは考えられないかと思って」

明羽あはね。ですか……」

 夏芽なつめはチラと氷呂ひろに目を向ける。

明羽あはねではないです。あの子、まだ、まともに練習も始めていないですし。それに風を操る力を使えたとしても、とてもそれができるような状態ではありませんでした」

「そうか。そうだよな。やはり、偶然かな。すまない。妙なことを聞いた」

「いえ」

「早く元気な姿を見せてくれるように明羽あはねに伝えておいてくれ」

「はい」

 白い獣は長い尾をらしながらその場から歩き去った。

「村長。あんまりに落ちてないみたいだったわね」

「でも、俺達に言えることなんて、さっき話したことぐらいしかないよな」

しなさん。夏芽なつめさん」

 しな夏芽なつめが振り返るとすっきりした顔の氷呂ひろがいた。

「ありがとうございました。愚痴ぐちに付き合ってもらってしまって」

「ああ」

「いやいや。いいのよ」

謝花じゃはなも、みんなもありがとう」

 見たものを骨抜きにする笑顔を置き土産みやげ氷呂ひろは歩き出す。子供達は氷呂ひろの後ろ姿に嬉しそうに手を振った。


 明羽あはねは目を開ける。先程まで真っ白だった視界が真っ暗なことにしばし中空を見つめてしまう。先程まで目の前に広がっていた真っ白な景色が夢であったことに思い当たり、今部屋の中が暗いのは夜になったからだと思いいたる。視界のすみでちらりとやわらかなだいだい色の光がとも明羽あはねは目を向けた。枕元にあるランプに氷呂ひろが火をともしていた。氷呂ひろ明羽あはねの視線に気付く。

「ごめん。起こしちゃったね」

「ううん。氷呂ひろ

「ん?」

 明羽あはねの聞き取りづらい声にも氷呂ひろはちゃんと反応する。

「あのね。花って、どんなだろう?」

「花?」

「うん。歌に出てくる」

「ああ。オアシスで歌った」

「うん」

「ちょっと待って」

 氷呂ひろ寝床ねどこの側の棚をあさる。戻った氷呂ひろの手には一冊の書物が抱えられていた。

「それ、どうしたの?」

「村長に借りたの。村長に本はありますかって聞いたら少しだけならって。そしたら貸してくれて」

「いつの間に」

「割と最近だけどね。明羽あはねが飛び出す前の話」

「う……。こ、高価なものなのにね」

「ええ。だから本当に数冊あるうちの一冊だよ。それでね。私、南の町で似たような本を貸本屋さんで借りたことがあって」

「え? 同じ本?」

「ううん。内容は似てるけど別の本だね」

「そうだよね。本って基本一点ものだもんね」

「それでね。明羽あはね。見て。この本、挿絵さしえに花の絵がってるの」

 氷呂ひろが寝ている明羽あはねにも見やすいように枕元に置いてくれた本を明羽あはねのぞき込む。そこにえがかれていたのは大振りの三枚の花弁かべんに細く短いくき、ひとつの株から複数伸びる花を支えるように花と花の間から肉厚の葉がのぞく。

「これが、花」

「うん。今はもうどこにもないけど、大昔はきっとたくさん咲いていたんだろうね。それこそ、大地をおおう程、群生ぐんせいして……」

 明羽あはねするど既視感きしかんを覚えた。夢で見たからではない。氷呂ひろも同じ気持ちであることが手に取るように分かって明羽あはねはその腕に触れる。

氷呂ひろ

「うん」

 明羽あはねの手に氷呂ひろは手を重ねた。

明羽あはね

「うん」

明羽あはね……」

「うん」

明羽あはね。お願いだから……」

「うん。氷呂ひろ

「お願いだから無茶をしないで。行動を起こす時は一歩立ち止まって良く考えて。お願いだから、ひとりでどこかに行ったりしないで」

「うん」

「……言っても、分かんないだろうけど」

「ええ!? いや、今回のことは本当に反省してるよ?」

 氷呂ひろはチラッと明羽あはねの顔をななめに見る。見て、ため息をついた。それに明羽あはねがショックを受ける。

「そ、そんなに私って信用なかった?」

「信じてるよ。明羽あはねのことは信じてる」

「だったら……」

「それとこれとは別なの」

「どれとどれ!?」

 氷呂ひろの考えていることが全然分からなくて明羽あはねはうんうんうなった。けれど熱が下がったばかりの頭はすぐにを上げた。

「寝る……」

「うん。おやすみ。明羽あはね

「おやすみ。氷呂ひろ

 氷呂ひろ明羽あはねの前髪をいた。とろんとしてきた思考で明羽あはねつぶやく。

氷呂ひろ

「うん?」

「いまいち伝わってないような気がするから言っとくね。氷呂ひろが私のこと大事に思ってくれてるようにね。私だって、氷呂ひろのこと、大事だと思ってるからね。一番、何より……」

 明羽あはねは静かな寝息を立て始める。氷呂ひろはそれを見つめて、

「知ってるよ?」

 とつぶやいた。

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