第3章(2)

 先程まで人っ子ひとり歩いていなかった大通りは四人が湖を眺めている間に変貌していた。見渡す限りの黒山の人集りが広がっていた。

「い、いつの間に」

「はぐれるなよ」

「うん」

 前を夏芽に、背中を標に守られながら明羽と氷呂は人混みの中を歩き出す。歩き出すとすぐに商売っ気の強い商人達が目を光らせて夏芽に声を掛け始める。

「そこの別嬪さん! どうだい? 新鮮な果物をひとつ! 美しい肌を保つのにはやっぱりこれだろう!」

「お嬢さん! 一反買ってかないか? お嬢さんに合わせて仕立てりゃ最上級品間違いなしだよ!」

「このイヤリングの石を見てごらん! いい色だろう? 娘さんに掛かっちゃあこの大振りの宝石も霞んじまうんだろうけどな! ハッハッハッ!」

「おや? 美人姉妹だね! どうだいお揃いで? 姉妹割引するよ!」

 夏芽の白い肌も氷呂の整った容姿も、ここでは声を掛ける為のいい口実でしかないらしかった。最初こそ通り過ぎ様にやんわり断っていた夏芽だったが次々と掛けられる声に根負けしたのか次第に生返事になり歩測が鈍っていく。

「安くするよ!」

 なんて言われて、

「う~ん」

 と悩むようになっていた。

「夏芽。最初の決意を思い出せ。手持ちは少ないぞ」

「だってー」

「明羽。俺から離れるな」

 標は夏芽に理性を訴えながらキョロキョロしていた明羽の腕を引く。突然けたたましくクラックションが鳴らされ明羽はビックリする。

「なに?」

 人でごった返しているにも関わらず大通りに一台の車が走り込んできていた。激しく何度もクラックションが鳴らされる。標が嫌そうな顔になる。

「偶にいるんだよな。ああいう輩。人出の多い時間帯のこういう商店の多い通りは車で通るのは避けるのが暗黙の了解だってのに」

「何ちんたらしてやがる! 邪魔だ! 轢き殺すぞ!」

 車の前でひとりの少女が買ったばかりらしい布の束をばら撒いていた。前に出ようとした明羽の腕を標がガッチリ掴む。

「標」

「堪えろ」

 明羽は俯く。

「オアシスによってはこんなに人まで雰囲気が違うんだね」

 明羽は左耳の側で揺れる緑色の石に触れた。

「そうだね」

 隣で同意した氷呂もまた手首で揺れる青い石に触れていた。

「何見てやがる!」

 周囲に向かって怒鳴り散らす運転手に人々が委縮する中、その目がぐるりと一周して明羽に向いた。目が合った気がして明羽は小さく息を呑む。女の子が荷物を拾い終えてその場からいなくなると、車はその間に出来た隙間をクラクションを鳴らしながら走り去って行った。少しばかり騒然とするが通りはすぐに先の騒ぎが嘘だったように元の賑わいを取り戻す。

「行きましょう」

 夏芽が歩き出し、明羽と氷呂、標が付いて歩き出す。

「明羽」

「ん?」

 氷呂がとある店の前で立ち止まった。

「明羽も偶にはスカート穿かない?」

 明羽は首を横に振った。

「そう? 明羽いつもズボンにブーツでしょう? たまにはどうかなって思ったんだけど」

「これが一番動きやすい服装だから。それに」

「それに?」

「スカートは氷呂の方が似合う」

「それ、明羽がスカート穿かない理由にならないから」

 氷呂が歩き出し、明羽はその後を追う。最も混雑していた場所を通り抜けたのか人の行き交いが少し疎らになる。少しばかり見通しが利くようになって夏芽と標は明羽と氷呂から少し距離を取った。その姿を見失わない位置からふたりを見守る。

「楽しんでるかしら」

「見てる分にはそれなりに楽しそうだけどな」

 氷呂がまた違う店の前で足を止める。

「明羽。見て。これ、何か分かる?」

「んー?」

 明羽は氷呂が指差している先を覗き込む。

「種、かな?」

「正解! これは綿花の種」

「じゃあ、これを植えたら綿花ができて糸が作れるんだ」

「そう。村で栽培できないかな?」

 氷呂の期待に輝く瞳に明羽は自信なさげに返事する。

「綿花か……。私、野菜しか作ったことないからなあ」

「そっか。でも、まあ、これを買うことはきっとないから。忘れて。明羽」

「え? なんで?」

「だって、糸はお腹の足しにならないでしょう」

 氷呂が少し残念そうに見つめる先を明羽も見る。その店頭に置かれた机の上には中を細かく仕切られた箱があり、小さく仕切られた部屋の中には形も色も様々な種が並べられていた。

「例え綿花が栽培できても糸を紡ぐのにも道具が必要だし。布を織るには機織り機が必要になる」

「ああ、それにはすごくお金が掛かりそう……」

 明羽はぐるりと辺りを見回した。

「それにしてもこのオアシス、色々あるけど布系の割合が多いような」

「昔はそれが特産のオアシスだったのかもしれないね」

 氷呂が未練を断ち切るように背筋を伸ばした。歩き出そうとする氷呂を明羽は引き止める。

「ねえ、氷呂」

 明羽は知っている。南の町で、キナの呉服屋で、氷呂は毎日のように布を織っていた。大きな機織り機の前に座って日々、どうやったら望む文様を織り出せるかを研究しながらカタンカタンと布を織っていた。その軽やかな音を明羽はまた聞きたいと思う。すぐには無理でも。

「機織り機。見るだけ見てみようよ」

 明羽の顔を見て氷呂は嬉しそうに笑った。歩き出した明羽と氷呂の後を標と夏芽が追いかける。近場に機織り機の店を見つけ、明羽と氷呂はその中に足を踏み入れる。店内には明羽と氷呂の身長を遥かに超える大きさのものから卓上に置ける小さなものまであり。明羽は機織り機と一口に言ってもこんなに種類があるのかと目を瞬く。氷呂はといえば始終目を輝かせていた。

「卓上ぐらいなら買えないかな?」

「標さんと夏芽さんの負担になるような買い物はできないよ」

 明羽の提案にも氷呂は首を横に振る。結局、本当に物色しただけで何も買わないまま、四人は大通りの外れまで来た。喧騒を外れて辿り着いた小さな広場にはゆったりとした時間が流れていた。

「休憩するにはいい場所ね」

「ちょっと座るか」

 四人はオアシス特有の木の下に並んで座る。大きな葉の形の影が柔らかに揺れる。

「いい風ね。あら?」

「夏芽さん?」

「どうかしましたか?」

 夏芽の目線の先を明羽と氷呂が追い掛ける。

「珍しい。楽器屋だわ」

「あ!」

「明羽ちゃん!?」

 突然走り出した明羽に氷呂、標、夏芽の三人が腰を上げる。

「これ! 氷呂!」

 楽器屋の前で明羽はそこに置いてあるものを指差した。氷呂と標と夏芽も楽器屋の前にやって来る。

「どうしたの? 明羽?」

 明羽は店頭に置いてあったひとつの楽器を手に取って見せた。それは抱えて持てる大きさの弦楽器だった。半球型の胴、胴より伸びるやや短めの棹には六本の弦がピンと張られている。明羽はその楽器を抱え、その弦を軽く爪弾いた。軽やかな音が鳴る。驚いたのは標と夏芽だ。

「明羽。お前、弾けるのか?」

「意外だわ」

 唖然としている標と夏芽を気にせず、明羽は爪弾き続ける。一通り弾き終わると氷呂が小さく拍手した。

「南の町にいた頃、氷呂が人前で歌う機会があって」

「氷呂ちゃんが?」

「はい」

 氷呂が少し照れ臭そうに笑う。

「それでね。氷呂が歌うのに、誰かに伴奏をやらせるぐらいなら私がやるって猛特訓したんだ」

「執念だな」

 明羽は標を見上げてこくりと頷いた。

「明羽、本当に凄いんですよ。言っては何ですが、その……お世辞にもとても才能があるとは言えなくて……」

 段々と声を小さくして目を泳がせた氷呂に夏芽は問わずにはいられない。

「それで、どうしたの?」

「それでも、拙いながらも最終的には間に合わせたんです」

「執念だなっ」

 先程より声を大きくした標に明羽はただ黙って大きく頷いた。

「その努力に報いる為にも。ちょっと貸してちょうだい」

 明羽は持っていた楽器を夏芽に渡した。受け取った楽器の弦を夏芽は一本一本弾きながら駒の位置を変え、糸車を捻っていく。

「音が少しズレてたのよね。これでヨシっと」

 楽器を返された明羽は再び爪弾いてみる。

「うん。私には分からない!」

「あらー」

 夏芽が残念そうに笑った。

「でも、夏芽さんは信じてる。夏芽さんがそういうなら間違いない」

「そうだね」

「嬉しいこと言ってくれるじゃない」

 夏芽が微笑んでいるのを見て標はハッとする。それを氷呂は見逃さない。

「標さん?」

「ん? 標がどうしたの。氷呂」

 明羽が見ると標が首を横に振った。その表情は「お前らの蒔いた種だ。俺は何も出来ん」と言外に言っていた。

「ふっふっふっふっ」

 明羽は標に向けていた怪訝な顔を引っ込めて夏芽を振り返る。声に違わず不敵な笑みを浮かべている夏芽に明羽は思わず抱えていた楽器を更に抱え込んだ。

「な、夏芽さん?」

「お姉さん。かわいい子にはつい意地悪したくなっちゃうのよね」

「はい?」

「聞かせて欲しいな。明羽ちゃんと氷呂ちゃんの演奏と歌声」

「へ? へい!?」

「いいな。俺にも聞かせてくれ」

「標さん!?」

 不干渉を決め込もうとしていた筈の標の思わぬ追撃に明羽と氷呂は目を白黒させた。迫って来る大人ふたりに明羽と氷呂は圧倒されながらも勇気を振り絞って首を横に振る。

「無理! 無理無理無理無理無理! そうだ! 氷呂だけ歌いなよ!」

「明羽!?」

 氷呂の裏切られたと言わんばかりの顔に明羽は自分の口から発した言葉を後悔する。

「そんなに嫌なの?」

 ふたりの様子を見た夏芽の声が少し柔らかくなる。考えを改めてくれたのかと明羽と氷呂は期待するがその期待は裏切られる。

「じゃあ、人を呼びましょう」

「……はい?」

「これから明羽ちゃんと氷呂ちゃんが弾いて歌いますって、大きな声で宣伝するわ」

 明羽と氷呂の顔が見る見るうちに青ざめていく。

「夏芽。さすがにやり過ぎじゃないか?」

「標。あんたさっき一瞬でも私の考えに乗ったこと忘れたの?」

「すまん。明羽。氷呂」

「もっと頑張ってよ! 標あ!」

「すまん!」

 謝る標の横で夏芽の目が爛々と輝いているのを見て、「あ、この人本気だ」と明羽は思った。

「夏芽さん。面白がってる! 面白がってるでしょう!」

「ええ! さあ、明羽ちゃん、氷呂ちゃん。私達の前で歌うか、大勢の前で歌うか。ふたつにひとつよ!」

 明羽は氷呂の顔を見た。明羽の顔を見た氷呂が察する。

「本当にやるの? 明羽」

「大勢の前でやるよりはっ」

「分かったわ。でも、付いて来れる?」

「随分ご無沙汰だったからな。でも、食らい、つく、ので……っ」

 半泣きの明羽に氷呂はその決意に答えるように頷いた。明羽は店頭に並ぶ楽器の台になっていた椅子をひとつ拝借してそれに座る。明羽の指先から拙い演奏が流れ始める。それを聞いて標と夏芽は子供達のお遊戯会を眺めるような気持ちになる。


『歌を歌いましょう』


 氷呂が歌い出した途端、標と夏芽は背筋を伸ばしていた。風が吹き抜ける。大地から天へと駆け上がる風だった。


『太陽と月が共に昇り、夜の闇を吹き払う

 青い空から金の瞳と銀の瞳が見つめている

 緑に覆われた大地、白い花が咲き乱れる

 この美しい世界で私達は今、共にある

 私は願う、この世界が永久に続きますように』


 間奏に入り氷呂は明羽を振り返った。明羽は眉間に皺を寄せ、弦を爪弾くのに必死の形相。歌と音はズレてはいなかったから大丈夫、なんて氷呂の心配を余所に明羽がチラと氷呂に目配せする。それは、ちゃんと氷呂の声も聞こえているという明羽の意思表示だった。氷呂は微笑んだ。氷呂が息を吸うのに合わせて、明羽は次の音に踏み込む。


『闇が世界を覆い、幾万の星が瞬いている

 漆黒に金の瞳も銀の瞳もないけれど

 風は歌う、水は静まり、大地は眠る

 この美しい世界で私達はいつまで共にあるだろう

 私は願う、風が世界を裂くその日まで……』


 アップテンポの曲調。透明度の高い氷呂の声は風に乗って天高く伸び上がり、その場の空気を支配した。夏芽が言葉を零す。

「……この歌。こんな綺麗な歌だったかしら。もっと、こう、おどろおどろしいような印象があったんだけど」

「おどろおどろしい……? それは良く分からんが。歌い手によってこうも印象が変わるもんなんだなとは思った」

「誰と比較してんの?」

「育ての親」

「ああ、あの人」

「偶に歌ってたんだよな。懐かしむみたいに。夏芽は誰が歌ってるの聞いてそんな印象になったんだ? イッテ! なんだよ!?」

 急に蹴り飛ばされた太股を摩りながら標は夏芽を見る。夏芽はそれはそれは不服そうな顔で標を睨み付けていた。標は合点のいった顔になる。

「お前、音痴だもんな」

 再びの蹴り。明羽の伴奏が終わるとワアッという歓声と拍手が湧き起こった。いつの間にか明羽と氷呂を中心に人集りができていた。

「結局、人集まっちゃったわね」

「なかなか良かったぞお! お嬢ちゃん達!」

 前に進み出てきたおっちゃんは手に何かを握り締めていた。おっちゃんは地面に何かを探す。

「なんだあ? 金を投げ入れる入れ物も用意してねえじゃねえか。しょうがねえ嬢ちゃん達だ!」

 そう言うとおっちゃんはどこからともなく空き缶を取り出して明羽と氷呂の前にドンと置いた。そこにチャリンとコインが投げ入れられる。

「また聞かせてくれ!」

 それを皮切りに群衆が次々とその缶にカランカランとコインを投げ込んでいく。

「感動したよ!」

「美しい歌声だった!」

「今日は素晴らしい日だ!」

「楽器はもっと練習した方がいいな。次に期待してるぜ!」

 缶の中はあっと言う間に一杯になった。明羽はそれを恐る恐る持ち上げる。ずっしりとした重さを両手に感じて唖然とする。

「ひと稼ぎしちゃったわね」

 なんて言う夏芽を明羽と氷呂は何か言いたげに見つめてしまった。何も言えなくて、せめてもの抗議に明羽が口を尖らせていると、目の端に白い羽根が一枚舞った気がして明羽は目を向ける。けれど、そこには羽根どころか何もなかった。

「明羽。お疲れ様。どうかした?」

「ううん。何でもない。氷呂もお疲れ様」

 明羽と氷呂がお互いを労っているとパチパチパチと手を打ち鳴らす音が楽器屋の奥から聞こえてくる。見るとそこには眼鏡をかけた小柄な男がひとりで一生懸命に拍手を打っていた。

「素晴らしい! 素晴らしいです! ウチの楽器でこのような素晴らしい演奏をしてくださるなんて。感無量です!」

「ごめんなさい! 勝手に!」

「いいんです!」

 慌てて謝る明羽を男は遮った。これ以上の喜びはないと言わんばかりの笑顔で明羽と氷呂に近付いてくる。

「あなた様がいきなり楽器を持ち上げられた時はどうなさるおつもりだろうと冷や冷やいたしましたが。演奏を始められて驚きました!」

 明羽は目を瞬く。夏芽が明羽の後ろから身を乗り出した。

「ずっと見てたってことかしら?」

 男が頷く。

「お姉様が「あら? 珍しい。楽器屋だわ」と仰っていたところからでございます」

「そんなところから!? それなりに離れてたわよ? それに人影なんて見えなかった!」

「隠れておりました」

「隠れ……。なんで?」

「恥ずかしかったからでございます」

 商売向いてないんじゃない? という言葉を夏芽は辛うじて呑み込んだ。そして、その考えが思い違いであることをすぐに知る。

「あなた様が、お姉様が、妹様の手にした楽器の調律がうまく行っていないことをズバリ言い当てられて私、ドキリと致しました」

 男は四人を兄妹だと思い込んでいるようだったが訂正するのも面倒だったので誰も指摘しない。

「音のズレている楽器を店頭に並べていることを知られ、私は恥ずかしかったのでございます」

「でも、出て来たわね」

「出て来ずにはいられませんでした! 感動したのでございます。妹様のあの歌声に!」

 男に手で示された氷呂は明羽の背に隠れる。

「こちらの妹様の拙い演奏を補うに余りある歌声でございました。もちろん! あなた様も頑張っておられましたよ!」

 男のフォローに明羽は項垂れる。

「ああ、うん……。それは自分でも認める」

「ありがとうございます。これで決心が付きました」

 急に何の話だと四人は男の顔を見つめた。男は勝手に語り出す。

「実は先日。新しい調律師を雇ったのです。私にはずっと長いこと一緒にやって来た調律師がいたのですが彼はもう高齢ということで耳が利かなくなっていたのでございます。それで、もう、引退すると。彼の決意は固く、私も致し方ないと新しい調律師を探すことにしたのですが私も彼も新たな調律師の充てはなく。一般公募をしてみたのですがやって来た男は若く、ポンコツでございました」

 あまりにさらりと言ったので聞き流してしまいそうだったが男はハッキリとポンコツと言った。それだけ、素人から見ても役立たずだったということらしい。

「勤務態度もすこぶる不真面目で。しかし、他に申し込んできてくれる者もおらず、どうしたものかと思っていたところだったのです。引退した彼には申し訳ありませんがまた、一緒に働いてもらえないかお願いしてみます」

「そうだったんだ。戻って来てくれるといいね」

 明羽の言葉に男は決意を持って頷く。

「ありがとうございます」

「ところでその若い調律師は? 今いないの?」

「今日はまだ来ておりません。無断欠勤です。ですが、二度と来なくて良いと思っております」

「そ、そう……」

 店の中を覗き込んでいた夏芽は身を引いた。

「ところでその楽器」

「これ?」

「とても良いものですよ。持って行かれませんか?」

「え」

 言葉に困る明羽に男はニコニコと笑う。

「とても素晴らしい感動と決心をいただきました。なので、半額にいたします。いかがですか!」

「え、え……?」

「えーと。申し出はありがたいんだけど……」

 夏芽が助け舟を出す。しかし、男は前に出て来た夏芽に鼻息荒く詰め寄る。

「そうだ! お姉様! あなた様は素晴らしい耳をお持ちだ! ウチで働きませんか?」

「ええ!?」

「どうです? お姉様が引き受けてくださるというなら更に割引いたしますよ!」

「いやいやいや! 今さっき引退した人に戻って来てもらうって言ってたじゃない!」

「もちろん、彼にはこれからも共に働いてもらいたいと思っております。しかし! 彼の耳が衰えてきているのは事実! 募集は掛け続けるつもりでございますれば。さあ、いかがです!?」

「いかがですって言われても!」

「これを手にすれば妹様は毎日練習ができて、練習できれば腕が上がることは間違いありません! さすれば、さらにあの歌に箔が付くとは思いませんか?」

「う」

「ぬう」

 明羽と夏芽の気持ちが揺れた時、標が男の首根っこを掴んだ。

「およ? やややっ。お兄様っ。何をなさいます!」

「こうゆうところはさすが商売人と言ったところか。残念だが、俺達はこのオアシスの住人じゃないし、楽器を買う懐の余裕はないんだ」

「そうでしたか。それでは、お姉様のことは諦めましょう。しかし、値段のことなら相談に乗れると言っているじゃありませんか。それに先程、妹様方がひと稼ぎしていたじゃありませんか!」

 標は男の言葉を無視して店の中へと歩き出す。様々な楽器が並ぶ中を奥へ奥へと進んで行く。一番奥まで行くと楽器に囲まれて外からは見えない位置に小さな丸椅子が置いてあった。恐らく男はずっとここに座って外の様子を伺っていたのだろう。標は男をその椅子に座らせた。

「悪いな」

 と肩をポンポンと叩く。明羽は借りた椅子を元に戻し、その上に楽器を戻す。戻した弦楽器を明羽は少しだけ見つめた。去って行く四人の後ろ姿に店の中から男は呟く。

「残念でございます」

 楽器屋を後にして四人は石畳を歩いていく。

「それにしても明羽ちゃんと氷呂ちゃんの新しい一面が見れて嬉しいわ。それに、ふたりのお蔭であの歌に対する苦手意識も薄れた気がするし」

「苦手?」

「夏芽さんもあの歌知ってるんですか?」

「もちろんよー。むしろ知らない人なんていないんじゃないかしら。種族とか関係なく昔から歌われてきた歌でしょう」

「そうなの?」

「南の町では聞いたことないです」

「南の町で歌う機会があったから練習したって言ってなかったっけ?」

「あの時は選曲も任されちゃって」

「あれには困りました。私達はこの歌しか知らなかったので」

「氷呂の声のお蔭で概ね好評だったけど、変わった歌だねえ。とか言われちゃったよね」

「そうだったの。私的には凄く馴染み深い歌なんだけど。人間の間じゃあもう歌われてないのかしら」

 夏芽は首を傾げた。

「つーか。南の町で聞いたことないならお前達はどこでその歌覚えたんだ?」

 標の何気ない疑問だった。けれど、明羽と氷呂は大きく目を見開く。

「どこで……どこでって……。誰かが、歌ってて……」

「そう……。とても、綺麗な声が歌ってて……」

 明羽と氷呂の様子に標と夏芽はふたりの記憶が十年程前からしかないことを思い出す。夏芽が標の脇腹を小突いた。

「痛い……」

「ま、いいじゃない。無理に思い出さなくったって。大事なことならきっとそのうち思い出せるわ」

「そうですね」

「うん」

 明羽と氷呂は釈然としないまま頷いた。その時、突風が吹いた。本当に突然の強風に煽られて舞い上がった砂に四人は目を覆う。風が止んで、突風で飛ばされた色々を拾い集める周囲の声が騒がしい中、夏芽は服を叩きながら空を見上げた。

「なんだか今日は空に向かって風が吹いてるわね。段々強くなってるような気もするし。ん?」

 夏芽は見る。空に影が落ちている。

「どうしたの? 夏芽さん」

 明羽も夏芽が見ている空を見上げた。そこには黒いもくもくとしたものが浮いていた。

「ん?」

 その黒は見る見るうちに大きくなり、時折内側に光を走らせながらオアシスを覆う程の大きさにあっと言う間に成長していく。

「な、なにあれ?」

「積乱雲だわ」

「せきら?」

 また風が吹いた。昼とは思えないその冷たさに明羽はビックリする。

「なになに? 何が起こってるの? 冷たっ」

 鼻の頭で弾けた風とはまた違う冷たさに明羽は自分の鼻に触れる。

「水?」

「雨だ!」

 誰かが叫んだ。次の瞬間、ポポッと地面に小さな染みができたと思ったらドッと真っ黒な空から水が降ってくる。断続的に降り注ぐそれに阿鼻叫喚の騒ぎになるが地面に叩き付けられる水の音でそれも掻き消された。明羽はいきなりのことに瞑ってしまった目蓋をゆっくりと開ける。雨の滴が大地で弾けてシャンシャンと鈴の音のように軽やかな音を立てていた。オアシスを覆う暗雲の向こうには普段と変わらない青い空が広がっていて、落ちて来る滴は遠くの光を透かしてキラキラと輝く。キラキラキラキラ光が大地で何度も弾ける。幻想的な光景に明羽は両手を広げていた。氷呂と標と夏芽は慌てて側の商店に駆け込んでいた。中は既に雨宿りの人でごった返している。氷呂は明羽がいないことに気付いて振り返った。雨の中、両手を広げてくるくると回る明羽がいた。

「明羽!」

 その怒号にも似た声に標と夏芽が振り返る。

「明羽! 何やってるの!?」

「氷呂。見て、綺麗だよ!」

「明羽!」

 氷呂が駆け出していく。

「え? え? 氷呂ちゃん?」

 夏芽が追い掛けようか悩んでいる間に氷呂が明羽を引っ張って戻る。

「標さん。夏芽さん。何か拭くもの持ってませんか?」

「そう言われてもな……」

 屋根の下には入ったが四人ともずぶ濡れの濡れ鼠で、たとえ何か持っていたとしても使い物にならなかっただろう。

「どうしたの? 氷呂ちゃん。何をそんなに焦ってるの?」

「明羽。雨に濡れると身体壊すんです。今までに二回ほど南の町で降られたことあるんですけど二回とも高熱で寝込んで。なのに、分かってるのにっ! 自分から濡れに行くところがあって!」

「一生に何度か出くわせば大したもんなのに既に三回目か。すごいな。お前達」

「感心してる場合?」

 夏芽が標を小突こうかという時、明羽が小さなくしゃみをした。明羽が目を何度か瞬いたかと思うと徐に自身の身体を抱える。

「寒い……」

 小刻みに震えだしたかと思うと明羽はふらりとよろめいた。

「明羽!」

 氷呂が明羽を抱き止める。顔を真っ赤にして浅い呼吸を繰り返す明羽に標と夏芽はことの重大さに気付く。

「これ、使っておくんな」

 慌てふためく標と夏芽にお店の人が大判の布を差し出してくれる。それで明羽を包んでも明羽の様子は一向に変わらず。

「えーとえーとっ……。ちょっと待って! 体温の上昇が急すぎるっ」

「氷呂! 前にこうなった時はどうしたんだ?」

「とにかく動かさないようにして、水分補給とか欠かさないようにして。熱が下がるのに三日、その後動けるようになるまで七日は掛かりました」

「そんなに、ここには泊まっていられないわね」

 宿の少女に頼み込めば或いは助けてくれるかもしれないが……。

「……村に帰ろう」

「でも、標。嵐が」

「この状況でそんなこと言ってられねえだろ」

「……そうね」

「明羽……。本当にバカ!」

 氷呂が滲む涙を堪えて明羽を抱き締めた。


 宿に戻って標は受付の少女に引き払う旨を伝える。

「世話になった」

「え? え?」

 今夜も泊まると言っていたお客の急な変更に少女は戸惑う。戸惑っている間に四人の姿は見えなくなっていた。


 一台の車が壊れるんじゃないかというスピードで砂漠を疾走する。進む程に車に張った幌が風を受けてバタバタと鳴った。車の進行方向に見えてくるのは昨日見た時と何ら変化の見えない暴風と巻き上げられた砂で形成された、天を突く程に聳え立つ真っ黒な壁。

「突っ込むぞ!」

 標はアクセルを踏み込んだ。ハンドルを取られないように強く握り込む。飛び交う砂が幌に当たってバチバチと痛々しい音を立てる。横風をいなしながら標は車を走らせた。しかし、恐ろしい横風に車体が大きく傾く。

「クソッ」

 標がハンドルを切り、後部座席で意識のない明羽を支える氷呂と夏芽も重心を戻そうとするも車は傾いていく。車が傾いていく中、標と夏芽は車が使えなくなったらどうするべきか、脳を高速で回転させる。急に風が凪いだ。幌の波立ちが収まる。四輪のタイヤがゆっくりと砂を捉えて衝撃が車体を震わせた。

「……なん、だ?」

「なにが……?」

 標も夏芽も暫し呆然としたが、

「今! 今のうちよ。標!」

「お? あ、ああ! そうだな!」

 標はアクセルを踏み込む。凪いだ風は車が進む程に少しずつその威力を取り戻し始めていた。標は兎に角アクセルを踏み込み続けた。


 白い獣が空を見上げていた。薄暗い村の中。村長は中央広場で太陽の光が届かない程の茶色に染まる空を見上げていた。白い三角形の耳がぴくりと動く。村長は駆け出していた。村の入り口に一台の黒い車が停車していた。

「明羽。氷呂。標。夏芽」

 村長が駆け寄っている途中で車のドアが開き、四人が降りてくる。

「四人とも無事……明羽?」

 夏芽が布にぐるぐる巻きになっている明羽を抱えているのを見て村長は目を丸くした。

「何があった?」

「村長。すみません。また後で報告に行きます」

 辛うじて標がそう返して、四人はその場を後にする。取り残された村長は再び空を見据え、四人の後を追った。飛び出して行った明羽と氷呂、その後、ふたりを追って行った標と夏芽が帰って来たことはすぐに村中に知れ渡る。村中が安堵に包まれたのも束の間、明羽の不調もまたすぐに村中に知れ渡り、不安が伝播していった。明羽の熱は二日経ってやっと下がり始める。

「明羽。生きてる?」

「……生きてる」

 氷呂の問いに答えるその声は耳を口元まで近付けなければ聞こえない程に弱弱しい。明羽はなんだか久しぶりに見る天井を見上げた。そこに氷呂の顔が割り込んでくる。

「三回目。三回目だよ。明羽」

 明羽は瞬きを繰り返す。

「聞・い・て・る・の?」

「聞いてます! 聞いてます!」

 氷呂の仄暗い瞳が近付いて来て明羽は声を張り上げた。けれど掠れる声。出辛い声を明羽は必死に絞り出す。

「ごめん。氷呂。分かってるんだけど。何度見ても、すごく綺麗で。我慢できなくて」

「それを分かってないって言うんだよ」

 氷呂の声は低い。そっぽを向く氷呂の服の裾を明羽は摘まんだ。

「ごめんね。氷呂。心配してくれて、ありがとう」

 氷呂はまだムッとしていたが暫くして肩の力を抜いた。

「もう暫く寝てて。明羽。本調子には程遠いんだから」

「うん」

 言われるままに目を閉じた明羽はすぐに静かな寝息を立て始める。それを確認して氷呂はその場から離れた。


「標兄様! 夏芽姉さま!」

 明羽の様子を見に行こうとしていた標と夏芽が振り返ると子供達を引き連れた謝花が標と夏芽に駆け寄る。

「明羽、明羽の様子はどうですか? 熱は下がったんですよね?」

 謝花だけでなく子供達までもが不安そうな顔で標と夏芽を見上げた。夏芽は子供達を安心させるようにニコッと笑う。

「大丈夫よ。峠は越えたわ。後はもう回復するのを待つだけよ」

 子供達から歓声が上がった。謝花がボロボロと涙を零し始める。

「良かった。良かったよ~」

 標と夏芽がその肩といわず背といわず、ポンポンと叩いた。

「あ! 氷呂ちゃんだ!」

 子供の指差した方に皆が顔を向けると、皆がいる方へ向かって歩いてくる氷呂の姿があった。

「氷呂ちゃーん」

 夏芽が声を掛けると氷呂は微笑む。

「みんな、集まってどうしたんですか?」

「明羽ちゃんの様子を見に行こうと思って」

「あ、すみません。明羽。今、丁度寝たところで」

「あら。じゃあ、出直すわ」

「氷呂ちゃん!」

「氷呂ちゃん。明羽ちゃん、大丈夫?」

 寄って集って縋りついて来た子供達に氷呂は言う。

「ありがとう。みんな。明羽は大丈夫だよ」

「氷呂ちゃんは大丈夫?」

「え」

 思わぬ言葉に氷呂は目を丸くした。

「私は、大丈夫だよ?」

「でも、元気ないよね」

「落ち込んでるよね」

「ハキがない」

「オーラが陰ってる」

 断定してくる子供達に氷呂は黙ってしまう。

「そう言えば少し顔色が悪いような」

「そんなことないよ」

 謝花に笑ってそれだけ返した氷呂の顔を謝花は見つめた。

「謝花……。近い」

「どれ、氷呂ちゃん。こっちを御覧なさい」

 氷呂の頬を包むようにしながら夏芽は何気なくその顔色を観察し、白い首筋から脈を取る。

「脈は正常。体温も平熱。でも、そうね。顔色が少し悪いかしら。身体的な不調じゃないなら精神的なものだと考えられるけど」

 氷呂は何度か瞬きしてから目線を落とした。

「そう、ですね。少し落ちこんでいたかも。私に明羽の行動を制限する権利なんてないのは分かってるんです。あの子は自由だから。私自身、明羽にはそうであってほしいと思ってる。でも、今回のことは本当に反省してもらいたいと思ってて。みんなにもたくさん迷惑かけて、心配かけて、私の気持ちとか、もっと自分のことも大事にして欲しいし、感情的に動き過ぎるところとか、そもそも考えなしなところもあって……」

 段々と止まらなくなる氷呂の愚痴をその場にいた皆が黙って聞いた。そこに村長が通り掛かる。

「どうしたんだい? みんな集まって」

「あ、ええっと……」

 なんと説明したものかと夏芽が答えあぐねていると氷呂が村長をキッと見た。

「明羽が自由過ぎるんです!」

 その一言に村長はひとつ頷いた。

「そうだね。明羽には言っても分からないところがある気がするから。氷呂に甘えてばかりいると痛い目を見るとそのうち思い知らせてあげるといい」

「はい!」

 堰を切って溢れ出していた氷呂の愚痴がスパッと止まり、その場にいた皆は村長への尊敬の念をますます強めた。

「ところで、氷呂、標、夏芽。聞きたいことがあるんだが」

 名指しされた三人が背筋を伸ばす。

「時間が経ってしまっていて申し訳ないんだが。君達が帰って来た時のことを聞きたいんだ」

「帰って来た時、ですか?」

「あの時、村の周りは酷い嵐だっただろう」

「ああ! 確かに、酷い嵐でした」

「無理があったのは分かってたんですが。一瞬、死を覚悟しましたね」

「一時的にだが風が凪いだりしなかったかい?」

 標と夏芽が目を見開く。

「そうです、そうです。そうなんです!」

「幸運でした」

「アレを君達は自然現象だと思うかい?」

「え」

 標と夏芽が顔を見合わせる。

「まあ、不自然と言えば不自然に感じなくもないですが」

「村に着いた途端、ぶり返したものね」

「人為的だとして、あれ程の風を制御する程の力を持つ者なんて……。それに、そんなことをして誰にメリットがあるのか。俺達は助かりましたけど」

「明羽」

「へ」

「明羽は有り得ないかい? 明羽が君達を守る為に力を使ったとは考えられないかと思って」

「明羽。ですか……」

 夏芽はチラと氷呂に目を向ける。

「明羽ではないです。あの子、まだ、まともに練習も始めていないですし。それに風を操る力を使えたとしても、とてもそれができるような状態ではありませんでした」

「そうか。そうだよな。やはり、偶然かな。すまない。妙なことを聞いた」

「いえ」

「早く元気な姿を見せてくれるように明羽に伝えておいてくれ」

「はい」

 白い獣は長い尾を揺らしながらその場から歩き去った。

「村長。あんまり腑に落ちてないみたいだったわね」

「でも、俺達に言えることなんて、さっき話したことぐらいしかないよな」

「標さん。夏芽さん」

 標と夏芽が振り返るとすっきりした顔の氷呂がいた。

「ありがとうございました。愚痴に付き合って貰ってしまって」

「ああ」

「いやいや。いいのよ」

「謝花も、みんなもありがとう」

 見たものを骨抜きにする笑顔を置き土産に氷呂は歩き出す。子供達は氷呂の後ろ姿に嬉しそうに手を振った。


 明羽は目を開ける。先程まで真っ白だった視界が真っ暗なことに暫し中空を見つめてしまう。先程まで目の前に広がっていた真っ白な景色が夢であったことに思い当たり、今部屋の中が暗いのは夜になったからだと思い至る。視界の隅でちらりと柔らかな橙色の光が灯り明羽は目を向けた。枕元にあるランプに氷呂が火を灯していた。氷呂が明羽の視線に気付く。

「ごめん。起こしちゃったね」

「ううん。氷呂」

「ん?」

 明羽の聞き取り辛い声にも氷呂はちゃんと反応する。

「あのね。花って、どんなだろう?」

「花?」

「うん。歌に出てくる」

「ああ。オアシスで歌った」

「うん」

「ちょっと待って」

 氷呂は寝床の側の棚を漁る。戻った氷呂の手には一冊の書物が抱えられていた。

「それ、どうしたの?」

「村長に借りたの。村長に本はありますかって聞いたら少しだけならって。そしたら貸してくれて」

「いつの間に」

「割と最近だけどね。明羽が飛び出す前の話」

「う……。こ、高価なものなのにね」

「ええ。だから本当に数冊あるうちの一冊だよ。それでね。私、南の町で似たような本を貸本屋さんで借りたことがあって」

「え? 同じ本?」

「ううん。内容は似てるけど別の本だね」

「そうだよね。本って基本一点ものだもんね」

「それでね。明羽。見て。この本、挿絵に花の絵が載ってるの」

 氷呂が寝ている明羽にも見やすいように枕元に置いてくれた本を明羽は覗き込む。そこに描かれていたのは大振りの三枚の花弁に細く短い茎、ひとつの株から複数伸びる花を支えるように花と花の間から肉厚の葉が覗く。

「これが、花」

「うん。今はもうどこにもないけど、大昔はきっとたくさん咲いていたんだろうね。それこそ、大地を覆う程、群生して……」

 明羽は鋭い既視感を覚えた。夢で見たからではない。氷呂も同じ気持ちであることが手に取るように分かって明羽はその腕に触れる。

「氷呂」

「うん」

 明羽の手に氷呂は手を重ねた。

「明羽」

「うん」

「明羽……」

「うん」

「明羽。お願いだから……」

「うん。氷呂」

「お願いだから無茶をしないで。行動を起こす時は一歩立ち止まって良く考えて。お願いだから、ひとりでどこかに行ったりしないで」

「うん」

「……言っても、分かんないだろうけど」

「ええ!? いや、今回のことは本当に反省してるよ?」

 氷呂はチラッと明羽の顔を斜めに見る。見て、ため息をついた。それに明羽がショックを受ける。

「そ、そんなに私って信用なかった?」

「信じてるよ。明羽のことは信じてる」

「だったら……」

「それとこれとは別なの」

「どれとどれ!?」

 氷呂の考えていることが全然分からなくて明羽はうんうん唸った。けれど熱が下がったばかりの頭はすぐに音を上げた。

「寝る……」

「うん。おやすみ。明羽」

「おやすみ。氷呂」

 氷呂が明羽の前髪を梳いた。とろんとしてきた思考で明羽は呟く。

「氷呂」

「うん?」

「いまいち伝わってないような気がするから言っとくね。氷呂が私のこと大事に思ってくれてるようにね。私だって、氷呂のこと、大事だと思ってるからね。一番、何より……」

 明羽は静かな寝息を立て始める。氷呂はそれを見つめて、

「知ってるよ?」

 と呟いた。

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