第3章(1)

「昨日の流星群すごかったね!」

 明羽あはね達の乗る車は日に照らされ真っ白に輝く砂漠を走っていた。

「あんなの初めて見ました」

「あそこまでのはなかなかないわよー。思わず車の外に出て眺めちゃったものね」

「ねー。しなもちゃんと見れてた?」

「見れてた見れてた。フロントガラス越しに見てた」

 巻き上がる砂で帯を引きながら車はまっすぐに走り続ける。まっすぐまっすぐ脇目も振らず走り続けて、四人の乗った車は見慣れた嵐の起き続ける地帯を目の前に停止する。明羽あはね氷呂ひろしな夏芽なつめは車の中からジッと前方を見つめていた。四人が見つめる先にあるのは件の嵐地帯なのだが轟轟という音がまだ距離があるにも関わらずはっきりと聞こえてくる。ここまで届く強風に、天を突き唸る真っ黒な壁に四人は言葉を失っていた。

「無理ね」

「無理だな」

 標と夏芽が決断を下す。標が頭を抱えた。

「どうすっかなあ」

「村は大丈夫かな?」

「村は村長が守ってるから大丈夫よ」

 夏芽があっけらかんと言い、明羽は助手席に身を乗り出す。

「村長がって、村を包んでるあの膜があるから大丈夫ってこと?」

「そうよ」

「あんな薄っぺらいので大丈夫?」

「明羽。思ってもないこと言うのはやめた方がいいよ」

「えへへ」

 氷呂の呆れ声に明羽は笑う。夏芽が少し悲しそうに目を伏せる。

「村長のすごさはそうそう目に見える物じゃないから伝わり辛いのよね」

「村のみんなを見てれば分かるよ!」

 明羽の慌てたフォローに他の三人は思わず笑っていた。

「え、何?」

「いいえ。分かってもらえてるならいいわ」

「さて、ここでいつまでも嵐を眺めててもしょうがない。少し戻ってどっかのオアシスで嵐が弱まるのを待とう」

 そうと決まれば標はすぐにギアを入れ替えた。


 明羽は走る車の中から青い空と左右に伸びる地平線しか見えない景色を眺める。

「明羽」

「ん」

 氷呂が明羽に身を寄せた。

「あっちは南の町がある方だね」

「うん」

 ふたりは暫し同じ方角をじっと眺める。

「おばちゃん達元気かな?」

 明羽の呟きに氷呂は答えられなかった。


 四人を乗せた車は走り続ける。変わり映えのしない景色に時間感覚が軽くマヒして来た頃、

「見えて来たぞ」

 標の声に明羽が顔を上げれば地平線に緑が浮かび上がっていた。

「おお」

 遠くから見ているとその大きさが良く分からなかったが近付く程にその大きさが実感できて明羽は目を見張る。そして、それはオアシスに入ってからも続くのだった。明羽は先程からずっと車の側を流れ続ける並木を眺めていた。後方に流れても流れても途切れることのない木々に圧倒され続ける。隣を見れば氷呂も目を瞬いて黙りこくっていた。

「ねえ。ここすごく広いよね?」

「まあ、そこそこな」

 意を決して声を出した明羽に対して標は事も無げに答える。「そこそこ!? そこそこって!?」なんて明羽の心情は伝わらない。以前、石を売りに行ったオアシスも広いと思ったのに今の時点でそれより遥かにこのオアシスは広かった。木漏れ日と影が不意に途切れる。

「ぅ、わぁ」

 目の前に広がった景色に明羽は感嘆の声を上げていた。すり鉢状になった地形の縁を明羽達は走る。対岸が僅かに霞むすり鉢のもっとも深いところに湛えられるのはまっさらな太陽の光をキラキラと反射した青い水。青を囲むように見慣れた土造りの建物が隙間なく並ぶ光景は美しく、整備された道を車が行き交い、並ぶ商店に人々が行き交っていた。そこはもう町と遜色ない賑わいを見せるオアシスだった。

「氷呂! すごい。すごいよ!」

「そうだね。明羽! すごいね。本当にオアシスかな?」

「本当にオアシスよ。木々が至る所に見えるでしょう?」

 疑い始めた氷呂に夏芽が笑う。

「さあて、宿探すか。嵐が弱まるのが先か手持ちの金が尽きるのが先かって感じなんだが。……聞いてるか?」

「ふふ。聞いてないわね」

 通り過ぎるもの通り過ぎるもの明羽と氷呂は指差していく。その表情はとても楽しそうで、車体から身を乗り出すふたりに、

「落ちるなよー」

 と標は伝わるのをあまり期待せずに声を掛けた。

 車はオアシスの中央へと向かっていく。地面を踏むタイヤの感じが変わって明羽は地面を見下ろした。

「砂じゃなくなった!?」

「このオアシスは中に行く程石畳が敷かれてるからな」

「氷呂! なんかもう意味分かんないね!」

「そう? すごいとは思う」

 氷呂の声は急にトーンを落としていた。

「あれ?」

 明羽と氷呂の急な温度差に夏芽がひとり声を上げて笑った。ひとりしきり笑ってから夏芽は標に顔を向ける。

「それにしても何でここまで下りて来たのよ。中央付近の宿は大概満室じゃなかったっけ?」

「まあ、そうなんだが。折角来たんだ。近くで見せてやりたいじゃないか」

 夏芽は振り返る。そこには未だ楽しそうに周囲を見回す明羽と氷呂がいる。

「そうね。明羽ちゃん。氷呂ちゃん。あの水溜まりは湖っていうのよ」

「湖!」

「本で読んだことだけはあります」

「あの湖があるからこのオアシスはここまで栄えてるのよ。ここまで大きくなると色々なものが集まるからこのオアシスは特段何かに特化してるとか言えないんだけど。ただね。このオアシスには世にも珍しい特産物があるのよ」

「特産物?」

「なんですか?」

 明羽と氷呂は想像もつかない。

「この湖ではね、捕れるのよ。魚が!」

「さかな?」

「本で見たことだけはあります」

「魚な。あれはなかなかうまいよな」

「うまい!?」

 明羽は運転席に身を乗り出した。

「うまいって何? 食べ物なの?」

「危ないからちゃんと座ってろ」

 標に言われて明羽は座席に戻って氷呂を見る。

「氷呂。さかなって何?」

「水の中を泳ぐ生き物だね。でも、私が呼んだ本にも食べることまでは書いてなかったな」

「……本当に食べるの?」

「お? 疑ってんな」

「ね! ね! 信じられないわよね!」

「とにかく宿探すぞー」

 興奮した夏芽に耳元で叫ばれた標がちょっと身を仰け反らせた。車は緩やかに湖に向かって下って行く。

 日が傾いてくる。何軒もの宿を渡り歩いた末、四人は未だに車の中にいた。

「想定以上だったな」

「ここまで空部屋がないとは私も思ってなかったわ」

「このまま宿見つからなかったら?」

「オアシスで車中泊」

「ええ……」

「最悪の場合の話ね。とにかくもう一軒寄って見ましょう!」

「そうだな。それでダメだったら。外周に戻ってみよう。この時間になってくるとそっちも怪しいが」

 気を取り成し、車は再び走り始める。


 とある宿屋に四人組の男女が駆け込んだ。

「悪いんだが! 一部屋でいい、空いてないか!?」

 駆け込んだひとり、長身黒ずくめの青年を前に女将に受付を任せれていた少女は恐怖した。しかし、反射的に仕事は熟す。

「一部屋なら空いていますが!」

 それを聞いた青年の顔が安堵に綻んだ。先程の鬼気迫る相貌とは裏腹な少年のような笑顔になった青年に少女は不覚にときめく。

「やった!」

 青年の後ろでガッツポーズをしたのは色白の美しい女だ。少女はときめいたことなど一切おくびにも出さずにニッコリと営業スマイルを作って鍵を差し出す。

「どうぞ。二階の一番奥の部屋です。夕食はどうしますか? 料金追加でお部屋にお届けすることもできますが」

「いや、近くに食堂はあるか?」

「当宿と同じオーナーが経営している食堂が隣接していますよ」

 宿の中を通って直接行けるというのでその道順を教えてもらって、青年は鍵を受け取った。

「二階の一番奥だったな」

「はい」

「よし! 明羽、氷呂。行くぞ」

「うん」

「はい」

 黒い服の青年と白い肌の女の後をふたりの少女が追い掛けて行く。男と女は恋人同士として、あのふたりの少女は他のふたりとは一体どういう関係なのだろうと受付の少女は四人を見送りながら思った。


 階段を上がって一番奥の部屋の扉を開けて、標は部屋の中を見回した。

「四人寝れるだけのスペースがあれば十分だよな。うん」

 部屋の一番奥には窓がひとつあり、その下に小さな寝床がひとつ備え付けられている。壁には衣紋掛けが直接かけられる仕掛けがあり、実際そこには空の衣紋掛けがひとつ掛けられていた。それら全てがこの部屋がひとり用の部屋であることを示していた。

「寝床、小さいね」

「宿屋だからな。しかし、明羽と氷呂が並んで寝るのも難しそうだな」

「固い床で雑魚寝。明日きつそうだわ……」

「そうですね……」

 それぞれが感想を言ったところで部屋の扉がノックされ、標が返事をする。

「はい?」

「失礼します。追加のお布団を持って来たんですけど、開けて貰ってもいいでしょうか?」

 声からそれが受け付けで対応してくれた少女であることが分かった。扉を開けると視界一杯の布、布、布。

「失礼します」

 その布がゆっくり迫って来て、明羽と氷呂は横に避けた。

「四人だとお三方は床で寝ることになりますよね。これ使ってください」

「ありがとう!」

 夏芽が誰よりも先にお礼を言った。少女が床に布を広げるのを明羽と氷呂も手伝う。

「華奢に見えるのに力持ちなんですね」

「えっ」

 自分と同い年ぐらいだが長い睫毛に縁取られた美しい青い瞳に見つめられて、少女はドギマギする。

「な、慣れてますから。ウチは基本おひとり様用の宿屋なんですが宿代の節約なのか相部屋を希望するお客様も多くて。四人で一部屋を希望したお客様は初めてですが」

 少女は目の前の四人の顔を順繰りに見回し、我慢できなくて聞いてしまう。

「あの~。お客様方はどうゆうご関係なんですか?」

「え」

 聞かれた四人はお互いの顔を見合わせた。友人知人、同郷、命の恩人、その関係性を表すのに最も適切な表現は何か。

「どうゆう……。そうだな。兄妹、みたいなもんか?」

 標の返答に明羽は思わず口元が緩んでいた。

「うん!」

「ご兄妹でしたか!」

 少女は色白の女性と青い髪の少女が姉妹だというのはとてもしっくりくると思った。そう言われて見れば黒ずくめの青年と緑色の瞳の少女もどことなく似ている気がする。

「では、ごゆっくりお過ごしください」

 安心した顔になって少女は深々と礼をすると部屋を出て行く。

「なんかすごく納得された気がするんだが」

「そだね」

「ちょっと、標。今私のことも妹扱いしなかった?」

 夏芽が至極不満そうな顔をしていたがその一言に目を丸くしたのは明羽と氷呂だ。

「夏芽さん。標より年上なの?」

「正確なところは分からないわ。でも、初めてあった時は私の方が背が高かった!」

 夏芽が胸を張って豪語するのを見て、明羽と氷呂は思わず標を仰ぎ見る。現在、標と夏芽の身長差は拳ひとつ分といったところか。夏芽より背の低い標が想像できなくて明羽と氷呂はふたりの出会いがとても気になった。

「本当、いつの間に……」

「お前の目の前で少しずつデカくなった筈なんだがな」

 悔しそうに言う夏芽に標が呟いた。

「飯食いに行こうぜ」

 標が言って四人はすっかり寝れる準備の整った部屋を出る。階段を降りてあらかじめ聞いていた廊下を行くと食堂と描かれた看板と矢印が目に入る。それに従って進むとザワザワと賑やかな声に近付いていく。暖簾の掛かった入り口を潜るとむせ返る程の熱気と明るさが四人を襲った。想像以上の賑わいに四人は立ち尽くす。

「いらっしゃいませ!」

 入り口で立ち尽くす明羽達に気付いたお姉さんが机の間を縫って入り口まで駆けて来る。

「四名様ですね!」

 店の中の喧騒に負けない元気な声に屈託のない笑顔。

「ああ」

 標が応じるとお姉さんは笑みをさらに深くした。

「四名様ご案内!」

 店中に響いた声に忙しそうに働いていた他の店員達がこれまた良く通る声で返事をした。

 店内は広く、隅々まで人で埋め尽くされる中を明羽と氷呂、標と夏芽の四人はお姉さんに案内されるままに歩く。酒の回った大人達が周りの目も憚らず大口を開けて笑う姿はとても楽しそうだった。案内された席に着いて標がお姉さんに適当に注文をする。注文を受けたお姉さんが去り、暫くすると周りの喧騒はあまり気にならなくなる。

「すごい賑わいだね」

「仕事終わりの宴会に被っちまったみたいだな」

「みんなすごく楽しそうですね」

「お酒ってそんなにおいしいのかな?」

「頼んでみるか?」

「本気で言ってんの?」

 どすの聞いた夏芽の声に明羽と氷呂が目を瞬いた。

「……冗談です」

 標が神妙に頷いた。なんて話している間に店の中の客は激しく入れ替わっていく。

「お待たせしました!」

「え、もう?」

 料理を持って現れたお姉さんに明羽が目を丸くした。そんな明羽にお姉さんは楽しそうに笑う。

「お客様を待たせないのが当店の自慢です! 回転率も上がるしね。おっと、でも? 手抜きなんて一切してないよ。さあ、召し上がれ!」

 そう言ってお姉さんが置いていった大皿の上に乗っているものを明羽はマジマジと見てしまう。そこにあるものは明羽が未だかつて見たことがないものだった。氷呂は実物を見るのは初めてで、夏芽は苦虫でも噛み潰したような顔になっている。

「目があるよ?」

「取り分けるから皿貸せ」

 明羽は言われるままに自分の前に置かれた小皿を標に差し出す。標が匙と箸で身を解すとふわっと上がる湯気に食欲をそそる芳しい香り。明羽は思わず唾を飲み込んだ。

「これ、何?」

「よくぞ聞いた。これが、魚だ! 正確には焼き魚の野菜あんかけ」

「こ、これが……」

 標が明羽に返した皿の上に乗るのはカリカリに焼き目の付いた皮に艶やかな白い身が覗き、その上にとろりとした餡状に炒められた色とりどりの野菜がたっぷりかかった代物だった。先程より間近に感じる香りと湯気に明羽は再び唾を飲み込んだ。

「おい、おいしそうだけどっ」

「内臓は抜いてあるし、解して原型なくなっちまえば怖くもないだろ」

 そう言いながら標は魚の頭に齧り付いている。さすがの明羽もその光景にはちょっと引いてしまった。明羽が尻込みしている間に氷呂は覚悟を決める。

「いただきます!」

「氷呂!?」

「氷呂ちゃん!?」

 もぐもぐと口を動かす氷呂に明羽は先程とは違う理由で唾を飲み込む。

「氷呂が行くなら。私も行かねば」

「明羽ちゃん!?」

 使命感を得て、明羽も魚を口に含む。ふたりは揃ってもくもくと租借し、こくりと呑み込んだ。そして、目を輝かせる。

「おいしい」

「おいしいね」

 そのおいしさを知ってしまった明羽と氷呂にはもう次の箸を止める理由はなかった。もりもりと食べ進める明羽と氷呂、標の三人に対しただひとり、夏芽だけが最後まで渋い顔で沈黙を貫く。後から焼きたてのパンもやって来て、まだ残っていた魚の身と野菜のあんをパンに挟んで食べるとそれもまた格別で、明羽と氷呂は大皿を綺麗に平らげる。パンが来てからはパンのみに齧り付く夏芽を標が見兼ねる。

「夏芽。それだけで大丈夫か?」

「大丈夫よ。野菜の餡だって魚の細かくなった身が混ざってるかもしれないと思ったらとてもとても食べられないしっ」

「食後酒なんていかがですか~?」

 皿が空になるのを見計らっていたのか席に案内してくれたお姉さんがいつの間にかボトルとグラスを手に持って立っていた。夏芽が慌ててパンで口を塞ぐ。夏芽の言葉が聞こえていたのかいなかったのか、お姉さんは笑顔で何も言わないので分からない。それがますます夏芽の猜疑心に拍車をかけた。

「あー。いや。悪いが酒は……」

「いいえ! いただきましょう!」

「え……」

 標が夏芽を信じられないものを見る目で見る。

「ありがとうございます。軽めの果実酒ですが女性にも男性にも楽しめる逸品となっております。今日のおススメです。もちろん一本からお売りしていますが一杯からでもお楽しみいただけますよ」

「じゃあ、一杯」

「いやいやいや。待て、夏芽……」

「あんたも飲んでいいわ。許す!」

「ええ~……」

 食前では乗り気だった標と、そうではなかった夏芽の意見がすっかり逆転していた。

「標。折角夏芽さんがそう言ってくれてるんだし」

「今日はもう車も運転しないですし。いいんじゃないですか?」

「いや、そういう問題じゃないんだよ」

 明羽と氷呂は自分達が飲んでしまうことを危惧して夏芽は反対していたのかと思ったのだが標の様子を見るにどうやらそういう訳ではないらしい。

「え、何? 標、酒癖悪かったりするの?」

「指摘されたこともないからそんなことはないと思うが。なんで楽しそうなんだ? 明羽」

「いや~。笑い上戸だったり? 泣き上戸だったり? それならそれで見てみたいなって」

「すみません。標さん」

 面白がる明羽に変わって氷呂が謝った。

「俺がどうのというよりな。なんと言えばいいのか……」

 明羽と氷呂は首を傾げる。標は悩んだ末になみなみと酒の注がれたグラスを手に取った。

「じゃあ。お言葉に甘えさせてもらって。飲むぞ。夏芽」

「ええ!」

 標と夏芽がグラスを軽く打ち鳴らす。チンッという音が鳴ってそれぞれ口に運ぶ。夏芽が目を見開いた。

「おいしい!」

 悩んでいることを忘れるぐらいにおいしかったらしく、夏芽はすぐに二口目を口に運ぶ。

「え、どうしよう。本当においしい。一本買って帰ろうかしら」

「そんなに?」

 明羽はちょっとぐらい貰えないかなと夏芽を見つめて見るが夏芽はお酒に夢中で明羽の視線に気付かない。同じものを飲んでいる筈の標が静かなことに明羽は振り返る。

「標」

「ん?」

 その瞬間、明羽は大きく目を見開いていた。

「ん? んんん?」

「うん」

 標はそうなることを知っていたと言わんばかりのすまし顔。ガンッという音が響き、明羽と氷呂がびっくりした。

「な、夏芽さん?」

 氷呂が恐る恐る俯く夏芽を覗き込む。夏芽は先程の上機嫌が嘘のように青い顔で握りこぶしを卓上に乗せていた。

「ああっ! 覚悟してたのに。やっぱりダメだった!」

「お前がゴーサイン出したんだからな」

「うわっ」

「喋んな!」

 明羽が身を引き、夏芽が両耳を塞いで突っ伏する。

「な、なにそれ!」

 明羽の声は存外店内に響いたがすぐに喧騒に掻き消される。

「耳が……」

「夏芽は全然耐性なくってなあ。明羽も良くなさそうだな」

「む、ムズムズする」

 標がチビチビと飲むのを見ながら明羽は意味もなく自分の耳を揉んだ。

「標の声なのに標の声じゃないみたい。ねえ。氷呂」

「え?」

 氷呂が明羽を見て、明羽はそれを見返した。

「え?」

「えっと……。そうだね」

「思ってもないことを口にするなって氷呂は言ったけど、氷呂も大概だと思う」

「そうだね。ごめん」

 氷呂が素直に謝った。

「氷呂ちゃん平気なの?」

「そうですね。明羽や夏芽さんみたいに反応する程変な感じはしないです」

 氷呂の様子に喜んだのは標だった。

「この声聞いて平気でいてくれるのはありがたいな。今まで一緒に飲める奴って言ったらトリオぐらいだったからな。そのうち氷呂も一緒に飲めるといいな」

「その時は是非」

「えー。いいなー」

「ダメよ」

 明羽の声に被せて夏芽が低い声を出した。

「何がダメ?」

「私なら本当に平気ですよ」

「悪魔の飲み会になんて参加しちゃダメよ」

 夏芽は声だけでなく身まで低くして言った。明羽も釣られて身を低くする。

「なるほど。こうなるのって標の体質じゃなくて悪魔の体質なんだ」

「そうゆうこと。正しく悪魔の囁きよ。ひとりでもこんななのにこんなのが何人も集まったら倍々ゲームで増幅するわよ」

 夏芽の言葉を受けて氷呂はニッコリと笑った。その張り付けたような笑顔を標に向けて言う。

「やめておきます」

「そうか。残念だな」

 標はさほど残念そうでもなく、それどころかどこか楽しそうな顔で言った。

標の声にぞわぞわと背中を何かが駆け抜けて明羽は自分の前髪を撫で付ける。ふと見ると標の背後の席に着いていた女性客がチラチラと標を振り返っているのが見えた。その表情を見れば分かる。酒を含んだ標の声は人間にとっては甘美なものに聞こえるに違いない。

「悪魔の囁きかあ」

「ん? どうした。 明は……」

「あああぁ! もう限界!」

 夏芽が勢いよく立ち上がった。

「あんたもう喋んな」

「ええ~」

「喋んなって言ったの」

 夏芽の目は本気だった。

「返事!」

「はい」

「お会計!」

 八つ当たり気味の夏芽の叫びにお姉さんが慌てて駆け寄って来た。食堂を後にし、宿への廊下を戻っているとその先に受付の少女の姿を見つける。少女も四人に気付くと会釈した。

「おかえりなさい。どうでしたか? お口に合いました?」

「すごくおいしかったよ!」

 全力で答えた明羽に少女は笑う。

「良かったです。あ、そうだ。宿に宿泊なさってるお客様が食堂でお食事なさるとお食事代が半額になるんですけど……」

 言って、少女は最初に言っておくべきだったと四人の顔を見て思った。それほどに衝撃的な顔をしていたのだ。主に標と夏芽が。

「どうにかならないか!?」

 標が詰め寄ると瞬間少女は耳まで真っ赤になった。

「返金いたしましょう!」


 部屋に戻ると夏芽が標を振り返る。

「あんたの声も役に立つ時があるのね」

「そりゃどーも」

 その声はほぼほぼ普段の標の声に戻っていた。

「お酒もう抜けちゃったの?」

「一杯だけだったし。そんなに強い酒じゃなかったからな」

 あんなのが何日も続くような状態を想像して、標にはお酒をほどほどにしてもらおうと明羽は思う。明羽は思うだけに止まったが夏芽は叫んでいた。

「冗談じゃないわよ!」

 力が入ったのか隠していた尻尾がピョンと飛び出す。

「次の日に残るような飲み方したら私があんたを殺すからね!」

「俺は酒を飲むのも命懸けだな」

「今日はもう寝るわよ。明羽ちゃん、氷呂ちゃん」

「おい。誰が寝床で寝るんだ?」

 尻尾を元に戻していた夏芽が標に軽蔑し切った目を向けた。

「あんたに決まってるでしょう? 何? 明羽ちゃんと氷呂ちゃんを両手に抱えて寝たいの? それとも私?」

「俺が悪かった」

 標は備え付けの寝床に乗る。

「足出っ張っちゃてるね」

「まあ、問題ないさ」

 肩を竦める標に明羽は笑う。既に床に敷かれた布に足を突っ込んでいる夏芽と氷呂の側に膝を付いた。

「じゃあ、明かり消しますね」

 氷呂がランタンの火を吹き消す。一瞬部屋の中が真っ暗になるが目が慣れてくると窓や扉の隙間から忍び込んでくる外の篝火か星の光か、ぼんやりと室内の輪郭を浮かび上がらせた。明羽が見慣れない天井を見つめていると仄かに聞こえてくる水音。

「水が流れてる?」

「湖から聞こえて来てるのよ。あれだけ大きくなると波が立つから。夜になると結構遠くまで聞こえたりするのよね」

「へえ」

 明羽は天井を見つめる。

「湖。見に行きたいな」

「今行っても真っ暗なだけだよ。明羽」

「明日にしましょうね」

「うん! 明日!」

 楽しみだと、待ちきれないと言わんばかりに明羽は軽く足をばたつかせた。

「もう、明羽。遠足じゃないんだから」

「楽しみだね。氷呂」

 氷呂がチラリと明羽の顔を見る。

「そうだね」

 小さく笑った氷呂に明羽はえへへと笑った。


 夜明けと共に目を覚ました四人は湖を見に行く為に受付に降りて来ていた。まだ、ひんやりと冷たい空気の中、少し厚着をした少女が早起きな客の為に受付に待機していた。

「おはようございます。観光ですか?」

「ああ、湖を見に行ってくる」

 標が差し出した鍵を少女は手の平の上に乗せたまま、ポカンと標の顔を見上げた。

「何か?」

「は、へっ? いいえ! なんでも! 今日もご利用ですね?」

「ああ。そのつもりなんだ。よろしく頼む」

「はい。承知いたしました。いってらっしゃいませ!」

 四人の姿が見えなくなって少女は営業スマイルを引っ込める。

「昨日の夜はあんなに魅力的に見えたのに……」

 呟いて少女は首を左に右に傾げるのだった。


 明羽は石畳を軽快に駆ける。家々の隙間に見え隠れする青色が差し込んできた太陽の光にキラキラと輝いているのが見える。早朝のオアシスは静まり返っていた。店舗が両脇に建ち並ぶ広い道に出てもどの店もまだ固く戸が閉じている。しかし、その前に差し掛かれば中で人が動く気配が感じられる。どの店も開店準備を進めていた。明羽は懐かしい気配に身震いする。明羽はくるっと振り返った。

「ねえねえ。このまま下って行ったら湖の側に出られるかな?」

「そうだな。基本的にどこからでも近付けたと思……」

「行ってくる!」

 標が言い終わる前に明羽は走り出していた。けれどそれに追いすがり氷呂が明羽の首根っこを掴む。明羽は強制的に急ブレーキを掛けられた。

「ぐえ」

「あ、ごめん。明羽」

「だ、大丈夫」

 氷呂が手を放す。

「ひとりで走って行かないで。はぐれると困るから」

「はい」

 立ち止まった明羽と氷呂に標と夏芽がゆっくり追い付く。四人で歩き始めるかと思ったのも束の間。

「湖まで競争よ!」

 夏芽は急に走り出した。

「え……ええ!? 夏芽さん?」

「よっしゃ! 負けないよ!」

「明羽!?」

 夏芽を追い掛けて明羽も走り出し、氷呂が慌ててふたりを追い掛けて駆け出す。

「おーい。あんまりはしゃぐなよ。近所迷惑……」

 途中まで言って標は諦めのため息をついた。腕を組み、先を行く三人を眺める。

「……明羽。足遅いなあ」

 暫く眺めてから標も走り出した。明羽を追い抜きがてらエールを送る。

「ほーら。明羽。頑張れ頑張れ」

 明羽の悔しそうな声を無視して標はさっさと先へ行く。


 真っ白なきめの細やかな砂浜に透き通った水が打っては返す。

「なんで、俺が、一番、疲れてんだ?」

「はあ。走ったー」

「いい運動になりましたね」

 日が少しずつその高度を上げ始めていた。標は膝に手を付き肩で息をする。夏芽は額に浮かんだ汗を拭い、氷呂は涼しい顔で湖から吹いてくる柔らかな風に髪をなびかせた。そんな涼しい顔の氷呂の足元で明羽がひとり倒れ込んだままジタバタと手足を振り回す。

「うあああぁぁ、もう! なんでみんな私を置いていくんだよー! 悔しい! 飛んだら私が一番……」

 標が目にも止まらぬ速さで明羽の顎を鷲掴む。

「今自分がどこにいるか忘れた訳じゃないよな? 言葉には細心の注意を払え」

「ごふぇんなさい」

 標の闇色の瞳の中の赤色が見える距離で凄まれて明羽は素直に謝った。湖から風が吹く。砂漠のカラッと乾いた風とは違う湿り気のある風に明羽は不思議な気分になる。昇って来た太陽の光を受けて湖はますますキラキラと輝いていた。湖には小舟が何艘も浮いていて、水面に向かって網が投げ込まれる光景が繰り返される。

「何やってるんだろう」

「漁だな。魚を捕ってるんだ。気温が上がると魚は影に隠れるからな。今が漁をするには一番いい時間なんだ」

 魚と言われて明羽は昨日食べた大皿の上のこんがりと焼けた魚を思い出す。思い出していると透明度の高い湖の中に動く影があって明羽の意識がそちらに向く。砂地の見える浅瀬に漂っている影が良く見えた。それは正しく、今思い出していた皿の上の似姿だった。ただ、今水の中で元気に動くそれの目は白く濁ってはおらず、生き生きと瑞々しい。

「っっっ!? こ、こ、これ! さかっさかなっ!」

 呂律の回らない明羽の指差す先を標が覗き込む。

「ああ。魚だな。昨日俺達が食ったのもこの湖で採れた奴だからな」

 明羽は水際にガックリと膝を付く。

「ごめん、ごめんよ。私は昨日、君の仲間を食べてしまったよ……」

 けれど魚は尾ヒレをひらめかせ、明羽に何ひとつの関心も示さないまま無表情に湖の中心へと泳いで行ってしまう。

「動いてる……。泳いでる……。生きてる……。うーん……」

 明羽は何とも表現し難い気持ちで魚が去って行くのを見送った。未だ四つん這いの明羽の前に手が差し出される。明羽が見上げれば氷呂が微笑んでいた。明羽はその手を取って立ち上がる。氷呂の頬に水紋の影が映り揺れていた。反射した光は瞳の中にまで映り込んで氷呂の美しさに拍車をかける。何とも幻想的な光景だった。

「私、思うんだ」

「ん?」

 氷呂が明羽を見る。

「世界で一番美しい生き物は聖獣だと思う」

「……そう」

「うん。氷呂が世界で一番綺麗だと思う」

「いきなりどうしたの?」

「思ったから言っとこうと思って」

「そう」

 氷呂は特段いつもと表情を変えなかったが自身の髪をクルクルと指に巻き付けた。氷呂にそんな癖はない。

「いいわねー。私も一度は言われてみたいわー」

 明羽の後ろに夏芽が立っていた。標が夏芽の顔を見る。一度口を開いて、閉じて、もごもごしてから項垂れる。

「悪い……。夏芽。俺の口からはとても……」

「別にあんたに言って欲しいなんて思ってないわよ」

 夏芽は腰に手をやって大きなため息をついた。

「はあ。嵐、早く弱まらないかしら」

 明羽はなんとなく村の方角に目を向ける。風が吹き抜けた。髪の結び目から下がった緑色の石が揺れる。

「……う~ん。まだ、かなあ?」

「明羽ちゃん?」

「へ?」

 明羽が振り返ると氷呂、標、夏芽の三人が明羽を見つめている。

「な、なに?」

「なに? はこっちのセリフよ」

「明羽。分かるのか?」

「明羽?」

 氷呂に手を握られて明羽は首を傾げた。

「あ、あれ? 私、なんでそう思ったんだろう?」

「まあ、いいわ。折角来たんだし。情報収集はこれからよ。お店もそろそろ開き始めてるんじゃないかしら。見に行きましょう!」

 明羽と氷呂の目が輝く。

「でも、手持ちはあまりないからよっぽどじゃないと買い物はしないわよ。そのつもりでね」

「ハーイ」

「はい」

 明羽と氷呂は元気よく返事する。四人は湖を後にした。

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