第3章・湖のオアシス(1)

「昨日の流星群すごかったね!」

 明羽あはね達の乗る車は日に照らされ真っ白に輝く砂漠を走っていた。

「あんなの初めて見ました」

「あそこまでのはなかなかないわよー。思わず車の外に出てながめちゃったものね」

「ねー。しなもちゃんと見れてた?」

「見れてた見れてた。フロントガラス越しに見てた」

 巻き上がる砂で帯を引きながら車はまっすぐに走り続ける。まっすぐまっすぐ脇目も振らず走り続けて、四人の乗った車は見慣れた嵐の起き続ける地帯を目の前に停止する。明羽あはね氷呂ひろしな夏芽なつめは車の中からジッと前方を見つめていた。四人が見つめる先にあるのはくだんの嵐地帯なのだが轟轟ごうごうという音がまだ距離があるにも関わらずはっきりと聞こえてくる。ここまで届く強風に、天を突きうなる真っ黒な壁に四人は言葉を失っていた。

「無理ね」

「無理だな」

 しな夏芽なつめが声をそろえて言った。

 しなが頭を抱える。

「どうすっかなあ」

「村は大丈夫かな?」

「村は村長が守ってるから大丈夫よ」

 夏芽なつめがあっけらかんと言い、明羽あはねは助手席に身を乗り出す。

「村長がって、村を包んでるあの膜があるから大丈夫ってこと?」

「そうよ」

「あんな薄っぺらいので大丈夫?」

明羽あはね。思ってもないこと言うのはやめた方がいいよ」

「えへへ」

 氷呂ひろの呆れ声に明羽あはねは笑う。対し、夏芽なつめは少し悲しそうに目を伏せ、わざとらしくため息をつく。

「村長のすごさはそうそう目に見える物じゃないから伝わり辛いのよね」

「村のみんなを見てれば分かるよ!」

 明羽あはねあわてたフォローに他の三人は思わず笑う。

「え、何?」

「いいえ。分かってもらえてるならいいわ」

「さて、ここでいつまでも嵐をながめててもしょうがない。少し戻ってどっかのオアシスで嵐が弱まるのを待とう」

 そうと決まればしなはすぐにギアを入れ替えた。


 明羽あはねは走る車の中から青い空と左右に伸びる地平線しか見えない景色を眺める。

明羽あはね

「ん」

 氷呂ひろ明羽あはねに身を寄せる。

「あっちは南の町がある方だね」

「うん」

 ふたりはしばし同じ方角をじっとながめる。

「おばちゃん達元気かな?」

 明羽あはねつぶやきに氷呂ひろは答えられなかった。


 四人を乗せた車は走り続ける。変わり映えのしない景色に時間感覚が軽くマヒして来た頃、

「見えて来たぞ」

 しなの声に明羽あはねが顔を上げれば地平線に緑が浮かび上がっていた。

「おお」

 遠くから見ているとその大きさが良く分からなかったが近付く程にその大きさが実感できて明羽あはねは目を見張る。そして、それはオアシスに入ってからも続くのだった。

 明羽あはねは先程からずっと車の側を流れ続ける並木をながめていた。後方に流れても流れても途切れることのない木々に圧倒され続ける。隣を見れば氷呂ひろも目をしばたいて黙りこくっていた。

「ねえ。ここすごく広いよね?」

「まあ、そこそこな」

 意を決して声を出した明羽あはねに対してしなは事も無げに答える。「そこそこ!? そこそこって!?」なんて明羽の心情は伝わらない。以前、石を売りに行ったオアシスも広いと思ったのに今の時点でそれよりはるかにこのオアシスは広かった。木漏こもれ日と影が不意に途切れる。

「ぅ、わぁ」

 目の前に広がった景色に明羽あはねは感嘆の声を上げていた。すり鉢状になった地形の縁を明羽あはね達は走る。対岸がわずかに霞むすり鉢のもっとも深いところにたたえられるのはまっさらな太陽の光をキラキラと反射した青い水。青を囲むように見慣れた土造りの建物が隙間なく並ぶ光景は美しく、整備された道を車が行き交い、並ぶ商店に人々が行き交っていた。そこはもう町と遜色そんしょくないにぎわいを見せるオアシスだった。

氷呂ひろ! すごい。すごいよ!」

「そうだね。明羽あはね! すごいね。本当にオアシスかな?」

「本当にオアシスよ。木々がいたる所に見えるでしょう?」

 疑い始めた氷呂ひろ夏芽なつめが笑う。

「さあて、宿探すか。嵐が弱まるのが先か手持ちの金が尽きるのが先かって感じなんだが。……聞いてるか?」

「ふふ。聞いてないわね」

 通り過ぎるもの通り過ぎるもの明羽あはね氷呂ひろは指差していく。その表情はとても楽しそうで、車体から身を乗り出すふたりに、

「落ちるなよー」

 としなは伝わるのをあまり期待せずに声を掛けた。

 車はオアシスの中央へと向かっていく。地面を踏むタイヤの感じが変わって明羽あはねは地面を見下ろした。

「砂じゃなくなった!?」

「このオアシスは中に行く程石畳が敷かれてるからな」

氷呂ひろ! なんかもう意味分かんないね!」

「そう? すごいとは思う」

 氷呂ひろの声は急にトーンを落としていた。

「あれ?」

 明羽あはね氷呂ひろの急な温度差に夏芽なつめがひとり声を上げて笑った。ひとりしきり笑ってから夏芽なつめしなに顔を向ける。

「それにしても何でここまで下りて来たのよ。中央付近の宿は大概たいがい満室じゃなかったっけ?」

「まあ、そうなんだが。折角せっかく来たんだ。近くで見せてやりたいじゃないか」

 夏芽なつめは振り返る。そこにはいまだ楽しそうに周囲を見回す明羽あはね氷呂ひろがいる。

「そうね。明羽あはねちゃん。氷呂ひろちゃん。あの水溜まりは湖っていうのよ」

「湖!」

「本で読んだことだけはあります」

「あの湖があるからこのオアシスはここまで栄えてるのよ。ここまで大きくなると色々なものが集まるからこのオアシスは特段何かに特化してるとか言えないんだけど。ただね。このオアシスには世にも珍しい特産物があるのよ」

「特産物?」

「なんですか?」

 明羽あはね氷呂ひろは想像もつかない。

「この湖ではね、捕れるのよ。魚が!」

「さかな?」

「本で見たことだけはあります」

「魚な。あれはなかなかうまいよな」

「うまい!?」

 明羽あはねは運転席に身を乗り出した。

「うまいって何? 食べ物なの?」

「危ないからちゃんと座ってろ」

 しなに言われて明羽あはねは座席に戻って氷呂ひろを見る。

氷呂ひろ。さかなって何?」

「水の中を泳ぐ生き物だね。でも、私が呼んだ本にも食べることまでは書いてなかったな」

「……本当に食べるの?」

「お? 疑ってんな」

「ね! ね! 信じられないわよね!」

「とにかく宿探すぞー」

 興奮した夏芽なつめに耳元で叫ばれたしながちょっと身をらせた。車はゆるやかに湖に向かって下って行く。

 日がかたむいてくる。何軒もの宿を渡り歩いた末、四人はいまだに車の中にいた。

「想定以上だったな」

「ここまであき部屋がないとは私も思ってなかったわ」

「このまま宿見つからなかったら?」

「オアシスで車中泊」

「ええ……」

「最悪の場合の話ね。とにかくもう一軒寄って見ましょう!」

「そうだな。それでダメだったら。外周に戻ってみよう。この時間になってくるとそっちも怪しいが」

 気を取り成し、車は再び走り始める。


   +++


 とある宿屋に四人組の男女が駆け込んだ。

「悪いんだが! 一部屋でいい、空いてないか!?」

 駆け込んだひとり、長身黒ずくめの青年を前に女将おかみに受付を任されていた少女は恐怖した。しかし、反射的に仕事はこなす。

「一部屋なら空いていますが!」

 それを聞いた青年の顔が安堵にほころんだ。先程の鬼気迫ききせま相貌そうぼうとは裏腹な少年のような笑顔に少女は不覚にもときめいてしまう。

「やった!」

 青年の後ろでガッツポーズをしたのは色白の美しい女だ。少女はときめいたことなど一切おくびにも出さずにニッコリと営業スマイルを作って鍵を差し出す。

「どうぞ。二階の一番奥の部屋です。夕食はどうしますか? 料金追加でお部屋にお届けすることもできますが」

「いや、近くに食堂はあるか?」

「当宿と同じオーナーが経営している食堂が隣接していますよ」

 宿の中を通って直接行けるというのでその道順を教えてもらって、青年は鍵を受け取った。

「二階の一番奥だったな」

「はい」

「よし! 明羽あはね氷呂ひろ。行くぞ」

「うん」

「はい」

 黒い服の青年と白い肌の女の後をふたりの少女が追い掛けて行く。男と女は恋人同士として、あのふたりの少女は他のふたりとは一体どういう関係なのだろうと受付の少女は四人を見送りながら思った。


   +++


 階段を上がって一番奥の部屋の扉を開けて、しなは部屋の中を見回した。

「四人寝れるだけのスペースがあれば十分だよな。うん」

 部屋の一番奥には窓がひとつあり、その下に小さな寝床ねどこがひとつそなえ付けられている。壁には衣紋えもん掛けが直接かけられる仕掛けがあり、実際そこには空の衣紋えもん掛けがひとつ掛けられていた。それら全てがこの部屋がひとり用の部屋であることを示していた。

寝床ねどこ、小さいね」

「宿屋だからな。しかし、明羽あはね氷呂ひろが並んで寝るのも難しそうだな」

「固い床で雑魚寝ざこね。明日きつそうだわ……」

「そうですね……」

 それぞれが感想を言ったところで部屋の扉がノックされ、しなが返事をする。

「はい?」

「失礼します。追加のお布団を持って来たんですけど、開けて貰ってもいいでしょうか?」

 声からそれが受け付けで対応してくれた少女であることが分かった。扉を開けると視界一杯の布、布、布。

「失礼します」

 その布がゆっくりせまって来て、明羽あはね氷呂ひろは横に避けた。

「四人だとお三方は床で寝ることになりますよね。これ使ってください」

「ありがとう!」

 夏芽なつめが誰よりも先にお礼を言った。少女が床に布を広げるのを明羽あはね氷呂ひろも手伝う。

華奢きゃしゃに見えるのに力持ちなんですね」

「えっ」

 自分と同い年ぐらいだが長い睫毛に縁取られた美しい青い瞳に見つめられて、少女はドギマギする。

「な、慣れてますから。ウチは基本おひとり様用の宿屋なんですが宿代の節約なのか相部屋を希望するお客様も多くて。四人で一部屋を希望したお客様は初めてですが」

 少女は目の前の四人の顔を順繰じゅんぐりに見回し、我慢できなくて聞いてしまう。

「あの~。お客様方はどうゆうご関係なんですか?」

「え」

 聞かれた四人はお互いの顔を見合わせた。友人知人、同郷、命の恩人、その関係性を表すのに最も適切な表現は何か。

「どうゆう……。そうだな。兄妹、みたいなもんか?」

 しなの返答に明羽あはねは思わず口元がゆるんでいた。

「うん!」

「ご兄妹でしたか!」

 少女は色白の女性と青い髪の少女が姉妹だというのはとてもしっくりくると思った。そう言われて見れば黒ずくめの青年と緑色の瞳の少女もどことなく似ている気がする。

「では、ごゆっくりお過ごしください」

 安心した顔になって少女は深々と礼をすると部屋を出て行く。

「なんかすごく納得された気がするんだが」

「そだね」

「ちょっと、しな。今私のことも妹扱いしなかった?」

 夏芽なつめ至極しごく不満そうな顔をしていたが、その一言に目を丸くしたのは明羽あはね氷呂ひろだ。

夏芽なつめさん。しなより年上なの?」

「正確なところは分からないわ。でも、初めてあった時は私の方が背が高かった!」

 夏芽なつめが胸を張って豪語ごうごするのを見て、明羽あはね氷呂ひろは思わずしなあおぎ見る。現在、しな夏芽なつめの身長差は拳ひとつ分といったところか。夏芽なつめより背の低いしなが想像できなくて明羽あはね氷呂ひろはふたりの出会いがとても気になった。

「本当、いつの間に……」

「お前の目の前で少しずつデカくなったはずなんだがな」

 くやしそうに言う夏芽なつめしなつぶやいた。

「飯食いに行こうぜ」

 しなが言って四人はすっかり寝れる準備の整った部屋を出る。階段を降りてあらかじめ聞いていた廊下を行くと食堂と描かれた看板と矢印が目に入る。それに従って進むとザワザワとにぎやかな声が聞こえて来て、四人はその声に近付いていく。

 暖簾のれんの掛かった入り口をくぐると、むせ返る程の熱気と明るさが四人をおそった。想像以上のにぎわいに四人は立ち尽くす。

「いらっしゃいませ!」

 入り口で立ち尽くす明羽あはね達に気付いたお姉さんが机の間をって入り口まで駆けて来る。

「四名様ですね!」

 店の中の喧騒けんそうに負けない元気な声に屈託くったくのない笑顔。

「ああ」

 しなが応じるとお姉さんは笑みをさらに深くした。

「四名様ご案内!」

 店中に響いた声に忙しそうに働いていた他の店員達がこれまた良く通る声で返事をした。

 店内は広く、隅々まで人で埋め尽くされる中を明羽あはね氷呂ひろしな夏芽なつめの四人はお姉さんに案内されるままに歩く。酒の回った大人達が周りの目もはばからず大口を開けて笑う姿はとても楽しそうだった。案内された席に着いてしながお姉さんに適当に注文をする。注文を受けたお姉さんが去り、しばらくすると、周りの喧騒けんそうはあまり気にならなくなる。

「すごいにぎわいだね」

「仕事終わりの宴会にかぶっちまったみたいだな」

「みんなすごく楽しそうですね」

「お酒ってそんなにおいしいのかな?」

「頼んでみるか?」

「本気で言ってんの?」

 どすの聞いた夏芽なつめの声に明羽あはね氷呂ひろが目をしばいた。

「……冗談です」

 しいな神妙しんみょううなずいた。なんて話している間にも店の中の客は激しく入れ替わっていく。

「お待たせしました!」

「え、もう?」

 料理を持って現れたお姉さんに明羽あはねが目を丸くした。そんな明羽あはねにお姉さんは楽しそうに笑う。

「お客様を待たせないのが当店の自慢です! 回転率も上がるしね。おっと、でも? 手抜きなんて一切してないよ。さあ、召し上がれ!」

 そう言ってお姉さんが置いていった大皿の上に乗っているものを明羽あはねはマジマジと見てしまう。そこにあるものは明羽あはねいまだかつて見たことがないものだった。氷呂ひろも実物を見るのは初めてで、夏芽なつめは苦虫でもつぶしたような顔になった。

「目があるよ?」

「取り分けるから皿貸せ」

 明羽あはねは言われるままに自分の前に置かれていた小皿をしなに差し出す。しなさじはしで身をほぐすと、ふわっと上がる湯気に食欲をそそるかぐわしい香りが広がり、明羽あはねは思わずつばを飲み込んだ。

「これ、何?」

「よくぞ聞いた。これが、魚だ! 正確には焼き魚の野菜あんかけ」

「こ、これが……」

 しな明羽あはねに返した皿の上に乗るのはカリカリに焼き目の付いた皮につややかな白い身がのぞき、その上にとろりとしたあん状にいためられた色とりどりの野菜がたっぷりかかった代物だった。先程より間近に感じる香りと湯気ゆげ明羽あはねは再びつばを飲み込んだ。

「おい、おいしそうだけどっ」

「内臓は抜いてあるし、ほぐして原型なくなっちまえば怖くもないだろ」

 そう言いながらしなは魚の頭にかぶり付いている。さすがの明羽あはねもその光景にはちょっと引いてしまった。明羽あはねが尻込みしている間に氷呂ひろは覚悟を決める。

「いただきます!」

氷呂ひろ!?」

氷呂ひろちゃん!?」

 もぐもぐと口を動かす氷呂ひろ明羽あはねは先程とは違う理由でつばを飲み込む。

氷呂ひろが行くなら。私も行かねば」

明羽あはねちゃん!?」

 使命感を得て、明羽あはねも魚を口にふくむ。ふたりはそろってもくもくと租借そしゃくし、こくりとみ込んだ。そして、目をかがやかせる。

「おいしい……」

「おいしいね」

 そのおいしさを知ってしまった明羽あはね氷呂ひろにはもう次のはしを止める理由はなかった。もりもりと食べ進める明羽あはね氷呂ひろしなの三人に対しただひとり、夏芽なつめだけが最後までしぶい顔で沈黙ちんもくつらぬいた。

 後から焼きたてのパンもやって来て、まだ残っていた魚の身と野菜のあんをパンにはさんで食べるとそれもまた格別で、明羽あはね氷呂ひろは大皿を綺麗に平らげる。パンが来てからはパンのみにかじり付く夏芽なつめしな見兼みかねる。

夏芽なつめ。それだけで大丈夫か?」

「大丈夫よ。野菜のあんだって魚のこまかくなった身が混ざってるかもしれないと思ったらとてもとても食べられないしっ」

「食後酒なんていかがですか~?」

 皿が空になるのを見計みはからっていたのか席に案内してくれたお姉さんがいつの間にかボトルとグラスを手に持って立っていた。夏芽なつめあわててパンで口を塞ぐ。夏芽なつめの言葉が聞こえていたのかいなかったのか、お姉さんは笑顔で何も言わないので分からない。それがますます夏芽なつめ疑心暗鬼ぎしんあんき拍車はくしゃをかけた。

「あー。いや。悪いが酒は……」

「いいえ! いただきましょう!」

「え……」

 しな夏芽なつめを信じられないものを見る目で見る。

「ありがとうございます。軽めの果実酒ですが女性にも男性にも楽しめる逸品いっぴんとなっております。今日のおススメです。もちろん一本からお売りしていますが一杯からでもお楽しみいただけますよ」

「じゃあ、一杯」

「いやいやいや。待て、夏芽なつめ……」

「あんたも飲んでいいわ。許す!」

「ええ~……」

 食前では乗り気だったしなと、そうではなかった夏芽なつめの意見がすっかり逆転していた。

しな折角せっかく夏芽なつめさんがそう言ってくれてるんだし」

「今日はもう車も運転しないですし。いいんじゃないですか?」

「いや、そういう問題じゃないんだよ」

 明羽あはね氷呂ひろは自分達が飲んでしまうことを危惧きぐして夏芽なつめは反対していたのかと思ったのだがしなの様子を見るにどうやらそれだけではないらしい。

「え、何? しな酒癖さけぐせ悪かったりするの?」

「指摘されたこともないからそんなことはないと思うが。なんで楽しそうなんだ? 明羽あはね

「いや~。笑い上戸じょうごだったり? 泣き上戸じょうごだったり? それならそれで見てみたいなって」

「すみません。しなさん」

 面白がる明羽あはねに変わって氷呂ひろが謝った。

「俺がどうのというよりな。なんと言えばいいのか……」

 明羽あはね氷呂ひろは首をかしげる。しなは悩んだ末になみなみと酒のそそがれたグラスを手に取った。

「じゃあ。お言葉に甘えさせてもらって。飲むぞ。夏芽なつめ

「ええ!」

 しな夏芽なつめがグラスを軽く打ち鳴らす。チンッという音が鳴ってそれぞれ口に運ぶ。夏芽なつめが目を見開いた。

「おいしい!」

 悩んでいることを忘れるぐらいにおいしかったらしく、夏芽なつめはすぐに二口目を口に運ぶ。

「え、どうしよう。本当においしい。一本買って帰ろうかしら」

「そんなに?」

 明羽あはねはちょっとぐらい貰えないかなと夏芽なつめを見つめて見るが夏芽なつめはお酒に夢中で明羽あはねの視線に気付かない。同じものを飲んでいるはずしなが静かなことに明羽あはねは振り返る。

しな

「ん?」

 その瞬間、明羽あはねは大きく目を見開いていた。

「ん? んんん?」

「うん」

 しなはそうなることを知っていたと言わんばかりのすまし顔。ガンッという音が響き、明羽あはね氷呂ひろがびっくりした。

「な、夏芽なつめさん?」

 氷呂ひろが恐る恐るうつむ夏芽なつめのぞき込む。夏芽なつめは先程の上機嫌が嘘のように青い顔で握り拳を卓上に乗せていた。

「ああっ! 覚悟してたのに。やっぱりダメだった!」

「お前が良いったんだからな」

「うわっ」

しゃべんな!」

 明羽あはねは身を引き、夏芽なつめが両耳を塞いでする。

「な、なにそれ!」

 明羽あはねの声は存外店内に響いたが、すぐに喧騒けんそうき消される。

「耳が……」

夏芽なつめは全然耐性たいせいなくってなあ。明羽あはねも良くなさそうだな」

「む、ムズムズする」

 しながチビチビと飲むのを見ながら明羽あはねは意味もなく自分の耳をんだ。

しなの声なのにしなの声じゃないみたい。ねえ。氷呂ひろ

「え?」

 氷呂ひろ明羽あはねを見て、明羽あはねはそれを見返した。

「え?」

「えっと……。そうだね」

「思ってもないことを口にするなって氷呂ひろは言ったけど、氷呂ひろ大概たいがいだと思う」

「そうだね。ごめん」

 氷呂ひろが素直に謝った。

氷呂ひろちゃん平気なの?」

「そうですね。明羽あはね夏芽なつめさんみたいに反応する程変な感じはしないです」

 氷呂ひろの様子に喜んだのはしなだった。

「この声聞いて平気でいてくれるのは有難ありがたいな。今まで一緒に飲める奴って言ったらトリオぐらいだったからな。そのうち氷呂ひろも一緒に飲めるといいな」

「その時は是非ぜひ

「えー。いいなー」

「ダメよ」

 明羽あはねの声にかぶせて夏芽なつめが低い声を出した。

「何がダメ?」

「私なら本当に平気ですよ」

「悪魔の飲み会になんて参加しちゃダメよ」

 夏芽なつめは声だけでなく身まで低くして言った。明羽あはねも釣られて身を低くする。

「なるほど。こうなるのってしなの体質じゃなくて悪魔の体質なんだ」

「そうゆうこと。正しく悪魔のささやきよ。ひとりでもこんななのにこんなのが何人も集まったら倍々ゲームで増幅するわよ」

 夏芽なつめの言葉を受けて氷呂ひろはニッコリと笑った。その張り付けたような笑顔をしなに向けて言う。

「やめておきます」

「そうか。残念だな」

 しなはさほど残念そうでもなく、それどころかどこか楽しそうだった。

 標の声にぞわぞわと背中を何かが駆け抜けて明羽あはねは自分の前髪をで付ける。ふと見るとしなの背後の席に着いていた女性客がチラチラとしなを振り返っているのが見えた。その表情を見れば分かる。酒をふくんだしなの声は人間にとっては甘美なものに聞こえるに違いない。

「悪魔のささやきかあ」

「ん? どうした。 は……」

「あああぁ! もう限界!」

 夏芽なつめが勢いよく立ち上がった。

「あんたもうしゃべんな」

「ええ~」

しゃべんなって言ったの」

 夏芽なつめの目は本気だった。

「返事!」

「はい」

「お会計!」

 八つ当たり気味の夏芽なつめの叫びにお姉さんがあわてて駆け寄って来た。食堂を後にし、宿への廊下を戻っていると、その先に受付の少女の姿を見つける。少女も四人に気付くと会釈えしゃくした。

「おかえりなさい。どうでしたか? お口に合いました?」

「すごくおいしかったよ!」

 全力で答えた明羽あはねに少女は笑う。

「良かったです。あ、そうだ。宿に宿泊なさってるお客様が食堂でお食事なさるとお食事代が半額になるんですけど……」

 言って、少女は最初に言っておくべきだったと四人の顔を見て思った。それほどに衝撃的な顔をしていたのだ。主にしな夏芽なつめが。

「どうにかならないか!?」

 しなが詰め寄ると瞬間、少女は耳まで真っ赤になった。

「返金いたしましょう!」


 部屋に戻ると夏芽なつめしなを振り返る。

「あんたの声も役に立つ時があるのね」

「そりゃどーも」

 その声はほぼほぼ普段のしなの声に戻っていた。

「お酒もう抜けちゃったの?」

「一杯だけだったし。そんなに強い酒じゃなかったからな」

 あんなのが何日も続くような状態を想像して、しなにはお酒をほどほどにしてもらおうと明羽あはねは思う。明羽あはねは思うだけに止まったが夏芽なつめは叫んでいた。

「冗談じゃないわよ!」

 力が入ったのか隠していた尻尾がピョンと飛び出す。

「次の日に残るような飲み方したら私があんたを殺すからね!」

「俺は酒を飲むのも命懸いのちがけだな」

「今日はもう寝るわよ。明羽あはねちゃん、氷呂ひろちゃん」

「おい。誰が寝床ねどこで寝るんだ?」

 尻尾を元に戻していた夏芽なつめしな軽蔑けいべつし切った目を向けた。

「あんたに決まってるでしょう? 何? 明羽あはねちゃんと氷呂ひろちゃんを両手に抱えて寝たいの? それとも私?」

「俺が悪かった」

 しなは備え付けの寝床ねどこに寝転がる。

「足出っ張っちゃてるね」

「まあ、問題ないさ」

 肩をすくめるしな明羽あはねは笑う。すでに床に敷かれた布に足を突っ込んでいる夏芽なつめ氷呂ひろの側にひざを付いた。

「じゃあ、明かり消しますね」

 氷呂ひろがランタンの火を吹き消す。一瞬部屋の中が真っ暗になるが目が慣れてくると窓や扉の隙間から忍び込んでくる外の篝火かがりびか星の光か、ぼんやりと室内の輪郭りんかくを浮かび上がらせた。明羽あはねが見慣れない天井を見つめているとほのかに聞こえてくる水音。

「水が流れてる?」

「湖から聞こえて来てるのよ。あれだけ大きくなると波が立つから。夜になると結構遠くまで聞こえたりするのよね」

「へえ」

 明羽あはねは天井を見つめる。

「湖。見に行きたいな」

「今行っても真っ暗なだけだよ。明羽あはね

「明日にしましょうね」

「うん! 明日!」

 楽しみだと、待ちきれないと言わんばかりに明羽あはねは軽く足をばたつかせた。

「もう、明羽あはね。遠足じゃないんだから」

「楽しみだね。氷呂ひろ

 氷呂ひろがチラリと明羽あはねの顔を見る。

「そうだね」

 小さく笑った氷呂ひろ明羽あはねはえへへと笑った。


 夜明けと共に目を覚ました四人は湖を見に行く為に受付に降りて来ていた。まだ、ひんやりと冷たい空気の中、少し厚着をした少女が早起きな客の為に受付に待機していた。

「おはようございます。観光ですか?」

「ああ、湖を見に行ってくる」

 しなが差し出した鍵を少女は手の平の上に乗せたまま、ポカンとしなの顔を見上げた。

「何か?」

「は、へっ? いいえ! なんでも! 今日もご利用ですね?」

「ああ。そのつもりなんだ。よろしく頼む」

「はい。承知いたしました。いってらっしゃいませ!」

 四人の姿が見えなくなって少女は営業スマイルを引っ込める。

「昨日の夜はあんなに魅力的に見えたのに……」

 つぶやいて少女は首を左に右にかしげるのだった。


 明羽あはねは石畳を軽快に駆ける。家々の隙間すきまに見え隠れする青色が、差し込んできた太陽の光にキラキラと輝いているのが見える。早朝のオアシスは静まり返っていた。店舗が両脇に建ち並ぶ広い道に出てもどの店もまだ固く戸が閉じている。しかし、その前に差し掛かれば中で人が動く気配が感じられる。どの店も開店準備を進めていた。明羽あはねなつかしい気配に身震いする。明羽あはねはくるっと振り返った。

「ねえねえ。このまま下って行ったら湖の側に出られるかな?」

「そうだな。基本的にどこからでも近付けたと思……」

「行ってくる!」

 しなが言い終わる前に明羽あはねは走り出していた。けれどそれに追いすがった氷呂ひろ明羽あはねの首根っこをつかむ。明羽あはねは強制的に急ブレーキを掛けられた。

「ぐえ」

「あ、ごめん。明羽あはね

「だ、大丈夫」

 氷呂ひろが手を放す。

「ひとりで走って行かないで。はぐれると困るから」

「はい」

 立ち止まった明羽あはね氷呂ひろしな夏芽なつめがゆっくり追い付く。四人で歩き始めるかと思ったのもつか

「湖まで競争よ!」

 夏芽なつめが急に走り出した。

「え……ええ!? 夏芽なつめさん?」

「よっしゃ! 負けないよ!」

明羽あはね!?」

 夏芽なつめを追い掛けて明羽あはねも走り出し、氷呂ひろあわててふたりを追い掛けて走り出す。

「おーい。あんまりはしゃぐなよ。近所迷惑……」

 途中まで言ってしなは諦めのため息をついた。腕を組み、先を行く三人をながめる。

「……明羽あはね。足遅いなあ」

 しばらながめてからしなも走り出した。明羽あはねを追い抜きがてらエールを送る。

「ほーら。明羽あはね。頑張れ頑張れ」

 明羽あはねの悔しそうな声を無視してしなはさっさと先へ行く。


 真っ白なきめのこまやかな砂浜に透き通った水が打っては返す。

「なんで、俺が、一番、疲れてんだ?」

「はあ。走ったー」

「いい運動になりましたね」

 日が少しずつその高度を上げ始めていた。しなは膝に手を付き肩で息をする。夏芽なつめは額に浮かんだ汗をぬぐい、氷呂ひろは涼しい顔で湖から吹いてくるやわらかな風に髪をなびかせた。そんな涼しい顔の氷呂ひろの足元で明羽あはねがひとり倒れ込んだままジタバタと手足を振り回す。

「うあああぁぁ、もう! なんでみんな私を置いていくんだよー! 悔しい! 飛んだら私が一番……」

 しなが目にも止まらぬ速さで明羽あはねあご鷲掴わしづかむ。

「今、自分がどこにいるか忘れた訳じゃないよな? 言葉には細心の注意を払え?」

「ごふぇんなさい」

 しなの闇色の瞳の中の赤色が見える距離ですごまれて明羽あはねは素直に謝った。湖から風が吹く。砂漠のカラッと乾いた風とは違う湿しめり気のある風に明羽あはねは不思議な気分になる。昇って来た太陽の光を受けて湖はますますキラキラと輝いていた。湖には小舟が何艘なんそうも浮いていて、水面みなもに向かってあみが投げ込まれる光景が繰り返される。

「何やってるんだろう」

「漁だな。魚を捕ってるんだ。気温が上がると魚は影に隠れるからな。今が漁をするには一番いい時間なんだ」

 魚と言われて明羽あはねは昨日食べた大皿の上のこんがりと焼けた魚を思い出す。思い出していると透明度の高い湖の中に動く影があって明羽あはねの意識がそちらに向く。砂地の見える浅瀬にただよっている影が良く見えた。それは正しく、今思い出していた皿の上の似姿だった。ただ、今水の中で元気に動くそれの目は白く濁ってはおらず、生き生きと瑞々みずみずしい。

「っっっ!? こ、こ、これ! さかっさかなっ!」

 呂律ろれつの回らない明羽あはねの指差す先をしなのぞき込む。

「ああ。魚だな。昨日俺達が食ったのもこの湖で採れた奴だからな」

 明羽あはね水際みずぎわにガックリとひざを付く。

「ごめん、ごめんよ。私は昨日、君の仲間を食べてしまったよ……」

 けれど魚は尾ヒレをひらめかせ、明羽あはねに何ひとつの関心も示さないまま無表情に湖の中心へと泳いで行ってしまう。

「動いてる……。泳いでる……。生きてる……。うーん……」

 明羽あはねは何とも表現しがたい気持ちで魚が去って行くのを見送った。いまだ四つんいの明羽あはねの前に手が差し出される。明羽あはねが見上げれば氷呂ひろ微笑ほほえんでいた。明羽あはねはその手を取って立ち上がる。氷呂ひろの頬に水紋の影が映りれていた。反射した光は瞳の中にまで映り込んで氷呂ひろの美しさに拍車はくしゃをかける。何とも幻想的げんそうてきな光景だった。

「私、思うんだ」

「ん?」

 氷呂ひろ明羽あはねを見る。

「世界で一番美しい生き物は聖獣だと思う」

「……そう」

「うん。氷呂ひろが世界で一番綺麗だと思う」

「いきなりどうしたの?」

「思ったから言っとこうと思って」

「そう」

 氷呂ひろは特段いつもと表情を変えなかったが自身の髪をクルクルと指に巻き付けた。氷呂ひろにそんなくせはない。

「いいわねー。私も一度は言われてみたいわー」

 明羽あはねの後ろに夏芽なつめが立っていた。しな夏芽なつめの顔を見る。一度口を開いて、閉じて、もごもごしてから項垂うなだれる。

「悪い……。夏芽なつめ。俺の口からはとても……」

「別にあんたに言って欲しいなんて思ってないわよ」

 夏芽なつめは腰に手をやって大きなため息をついた。

「はあ。嵐、早く弱まらないかしら」

 明羽あはねはなんとなく村の方角に目を向ける。風が吹き抜けた。髪の結び目から下がった緑色の石がれる。

「……う~ん。まだ、かなあ?」

明羽あはねちゃん?」

「へ?」

 明羽あはねが振り返ると氷呂ひろしな夏芽なつめの三人が明羽あはねを見つめている。

「な、なに?」

「なに? はこっちのセリフよ」

明羽あはね。分かるのか?」

明羽あはね?」

 氷呂ひろに手を握られて明羽あはねは首をかしげた。

「あ、あれ? 私、なんでそう思ったんだろう?」

「まあ、いいわ。折角せっかく来たんだし。情報収集はこれからよ。お店もそろそろ開き始めてるんじゃないかしら。見に行きましょう!」

 明羽あはね氷呂ひろの目が輝く。

「でも、手持ちはあまりないからよっぽどじゃないと買い物はしないわよ。そのつもりでね」

「ハーイ」

「はい」

 明羽あはね氷呂ひろは元気よく返事する。四人は湖を後にした。

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