第2章(2)

   +++


 場所は変わる。とあるカウンターでひとりの男がとぐろを巻いていた。その男の腰には一丁の拳銃と楕円形の黒い標章がぶら下がっていた。

「グリフ。その辺にしたらどうだ」

 グリフことグリフィスはマスターの言葉に顔も上げない。

「対して飲んでないだろうが……」

「飲みもしねえのにいつまでも居座ってるからいい加減にしろって言ってんだよ」

 そこは世界中に設けられた狩人達の駐屯所のひとつだった。酒場も兼業している為、情報交換をする者もいれば酒盛りばかりしている者もいた。奥のテーブル席から馬鹿にし切った笑い声が上がる。その者達の腰にもグリフィスの物と同じ標章がぶら下がっている。

「マスター。グリフの奴は金がねえんだよ! 大目に見てやれ! ゲラゲラ!」

「お探しの片羽四枚の天使は見つかりましたかあ? ゲラゲラ!」

「純血の聖獣もセットだったよな。そんなうまい話があるか! ゲラゲラ!」

「他の狩人を撹乱するにしてももうちっとマシな嘘つくんだったな。ああ、あんまりにも儲けが悪いもんだから妄想しちまったんか? ゲラゲラ!」

「お前らは飲み過ぎだ」

 グリフィスが拳を握り締め立ち上がって罵声を浴びせかけようとした時、先程まで下卑た笑い声を上げていた男達がそれまでが嘘のように静まり返った。グリフィスが首を傾げた時、

「やあ。グリフ」

 背後から聞こえてきた爽やかな声にグリフィスは椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がっていた。

「メ、メメ……」

 振り返ればガタイのいいグリフィスとは対照的な線の細い男が物腰柔らかく立っていた。砂色の髪に人当たりの良い笑顔を顔に張り付けている。男を前にグリフィスは一歩後退る。当たって倒れそうになった椅子をグリフィスは慌てて押さえた。笑顔に変わりはないが見下ろしてくる目には余りにも感情が無く、グリフィスはせめて目線だけでも優位に立とうと背を伸ばした。

「な、何か用か? メメ」

 けれど、目を合わせることはできず泳がせる。メメと呼ばれた狩人はグリフィスを見上げて、

「うん。用事という程のことでもないんだけどね」

「先生! なんとかっ、なんとかできましたよ! 先生に言われたこと、俺できました!」

 扉を勢いよく押し開けて酒場に入ってきたその声にグリフィスは聞き覚えがあった。

「……ルイン?」

「へ?」

「ルイン! お前無事だったのか!?」

 ボーガンを巧みに操る若い狩人はグリフィスの目の前で悪魔の力で姿を消して以来行方不明扱いになっていた。天使の一件以降、グリフィスの言葉を信じる者は皆無だったのでただの行方不明扱いだったが。

「グリフの兄貴! はい! 俺自身死んだと思ったんですがね。諦めかけた時、光が差したんです。そこに立っていたのは先生でした! 先生は元々俺の憧れだったんですが! 今や命の恩人ですよ!」

「元々ってお前……」

 グリフィスはルインと行動を共にしている間、メメの活躍を耳にする度ルインがメメを貶す言葉を吐くのをこれでもかと聞いてきていた。そんなグリフィスの言葉を遮るようにルインは声を大きくする。

「だから一生を掛けてこの恩を返すと俺は決めたんです! どこまでも付いて行きますよ! 先生!」

「と、いう訳で。引き取ってくれる?」

「……ん?」

 グリフィスの頭は大いに混乱した。ルインがメメに付いて行くと言った瞬間にメメはグリフィスにルインを引き取れと言った。グリフは混乱する。

「え、えっと……?」

「何言ってるんですか、先生! 俺は付いて行きますよー!」

 メメの無言の笑顔がグリフィスはただ怖い。

「移動中に砂漠から何かが出っ張ってたんだよ。普段はそんなことしないのに引っ張り出したらコレだよ。コレ。コレ、君と組んでたのでしょう。引き取ってくれるよね?」

 メメの笑顔がさらに深くなってグリフィスは冷や汗を流し始めた。

「え……っと……」

 グリフィスが答えられないでいるとメメは笑顔を引っ込めて考えるように口元に手を当てた。それを見たグリフィスは顔を青くする。

「あ、の……メメ。ちょっと待……」

「君」

「はい! 先生!」

「君はとても才能溢れる若者だ」

 ルインの顔がパアッと輝いた。

「僕の馬をちゃんと繋いでこれるなんて正直驚いた。一生できないと思ってたからね。君が店に入ってくることは万に一つもあり得ないと思ってた。本当に予想外だった。そんな君にお遣いを頼みたい」

「はい! 喜んで!」

「白い花を見つけて来て欲しい」

「白い……はな?」

 ルインの目が点になった。構わずメメは続ける。爽やかな笑顔を絶やさずに。

「そう。白い花だ。かつてこの世界のどこにでも群生していたという、今ではおとぎ話にも出てこない花。それが存在していたらしいことすら知る者は今や一部の人間だけ。けれど僕は信じてるんだ。未だにきっと世界のどこかに存在していると。それを、探して来てくれ」

「それが、先生の欲しいものなんですね?」

「ああ、そうだ。僕の信じるものを君は信じられないかな?」

「いってきます! 必ず見つけて戻ってきます!」

「ああ。見つかるまで戻って来ないでね」

「はい!!」

「ちょ、おい……」

 グリフィスが止める間も無くルインは元気に酒場から駆け出して行く。

「さて、と」

「ちょ、ちょっと待て! メメ……」

 グリフィスの引き止める声に振り返りもせず、メメは酒場を出て行った。グリフィスは意を決してその後を追う。酒場の裏に設けられている馬房に向かうとそこではメメがご機嫌斜めな自分の馬を宥めているところだった。メメの馬は狩人達が操る馬の中でも特段小柄な動物だった。小柄だが体格は良く、茶色の短毛、細い四本の足に二つに割れた蹄、盾のように大きな二本の角。馬は機嫌悪く鼻息を荒くして首を振っていたが大きな角で主人に怪我をさせないよう配慮をしているのが見て分かる。それは信頼と主従がはっきりしているのが分かる光景だった。

「メメ」

 聞こえない距離ではない筈なのだがメメは振り返らない。

「メメ!」

「なに?」

 声だけが返って来る。グリフィスはメメに近付いた。

「メメ! どうするんだ。あんなこと言って。あいつ一生戻ってこないぞっ」

「そうなるように言ったんだよ。分からなかった?」

 メメが笑う。これっぽっちも笑っていない目がグリフィスを見る。

「ああいうの本当に迷惑。ちゃんと手綱を引いててくれよ」

「手綱て……」

「ああ、君のことだからまた利用されたのかな?」

「ぐ……ぅ……」

 図星だったのでグリフィスは二の句が継げない。

「悪ぶっちゃって。何度も言った気がするけど、君、狩人向いてないよ」

「狩人は俺の夢だったんだ。想像してたのとは、ちょっと、違ったが……」

 グリフィスの尻すぼみになる言葉にメメの顔から表情が消える。既に興味を失っているようだった。

「メメ。えーと、つまり俺が何を言いたかったって……」

 グリフィス自身も良く分からなくなってきた時、グリフィスの視界がメメの馬の角で一杯になった。

「へ? ぐえっ!」

 肋骨に響く衝撃を受けてひっくり返る寸前、グリフィスはメメが目を丸くする世にも珍しい光景を見た。

「イッテええ……」

 青い空が浮かんだ涙に滲む。

「ふっ……ハハハ! アハハハハ! グリフ、君。相変わらずだね! 相変わらず動物に舐められてるのか!」

「……」

 響いた笑い声にグリフィスは痛む胸を押して上体を起こした。メメが笑っていた。先程までの張り付けただけの笑みとはまるで違う、心の底から可笑しいと笑うメメに、そのあまりに清々しい笑い声に痛む胸などまあいいかとグリフィスは思ってしまう。鞍に顔を埋めて笑う主人に馬も満足そうだった。ひとしきり笑うとメメは颯爽と馬に跨り、未だに地面に寝転がったままのグリフィスを見下ろす。

「じゃあね。グリフ。また、どこかで」

 人当たりの良い笑みを顔に張り付けたメメが去り、グリフィスは服に付いた砂を落としながら酒場に戻る。と、その場にいた狩人達がグリフィスを見て神妙な顔付きになっていた。

「なんだよ……」

 言いながらグリフィスはカウンター席に戻る。カランという音に目を向ければマスターがグリフィスの前に氷の浮かぶ茶色い液体がなみなみと注がれたグラスを置いていた。

「世界中で、お前の荒唐無稽な話が一度でも何故信じられたか、分かるか?」

「?」

 急になんの話だとグリフが疑問符を浮かべるとマスターが呆れた顔になる。

「片羽四枚の天使に純血の聖獣の話だよ」

「ああ……」

「何故信じられたかってな。あのメメが、狩人の中でも1、2を争う実力を持つあのメメが、お前の名前だけは憶えてるからだよ」

「俺の名前だけってことはねえだろ」

「気付いてねえのかよ」

 マスターに睨まれてグリフィスは眉をハの字にする。

「まあ、いい。お前を知ってる奴はお前がまるで実力なんてないのを知ってるから信じやしなかったが。お前を知らない奴はあのメメが名前を憶えてる奴が言うことならってことで、まことしやかにあの話は広まったんだよ。しかも、今の馬鹿笑い。あのメメが声上げて笑うなんて……。お前は一体何者なんだよ」

「何者って、別に……。俺は……ただの同期だよ」

 グリフィスはメメと初めて出会った時の情景を思い出す。試験場に集まったのは十代の若者ばかりでメメもその例外ではなく。その場ではその時三十になったばかりのグリフィスだけがただただ浮いていた。

 現在に意識を戻して、グリフィスは深いため息をついた。


   +++


 明羽は機会を窺っていた。畑で鍬を持っている時、中央広場で青空教室をしている謝花の様子を見に行った時、村のみんなと交流する氷呂を探して村の中を歩き回った時、明羽は砂色の空を幾度も見上げた。何日も何日も機会を窺っていた。


 明かり取りの窓を塞ぐ木戸の隙間から忍び込む朝日に明羽は身体を起こして伸びをした。

「ふわあぁ~。……明るい?」

 まだ冷え込んでいるであろう外気を気にせず明羽は玄関の戸を開けた。

「おお」

 パリッとした快晴には程遠かったが上空を舞う砂の量が普段に比べて明らかに少ない。

「ふむ」

「明羽?」

 明羽は戸を閉じながら振り返る。

「おはよう。氷呂」

「おはよう。明羽。朝だね。ご飯の準備するね」

 寝床から降りて着替えを始める氷呂に倣って、明羽も水汲み用の桶を引き寄せた。家事全般を氷呂に頼っている中、唯一毎朝の水汲みだけは明羽の仕事だ。そして、配給制だった食事は今、それぞれの家で作れるようにまでなっていた。畑で取れる量がまだまだ少ないので食材自体は配給制だったがそれでも大きな進歩に変わりはない。

「ご飯~ご飯~。今日のご飯は何かな~」

 明羽がワクワクしながら広場に着くと朝の水汲みの村人達で広場はごった返していた。いつもの光景だ。皆と挨拶を交わして、台所の水瓶が一杯になるまで水瓶と井戸を何度も往復する。水瓶が一杯になる頃にはご飯ができているという寸法だ。

「いいニオ~イ!」

「どうぞ召し上がれ」

 氷呂が敷布の上で準備万端の明羽の前に朝食を置いた。今日の朝食は氷呂特製の野菜たっぷりパンだ。オニャのものとはまた違う味わいに明羽は舌鼓を打つ。

「お~いし~」

「パンは作り置きのを温めただけだけど。良かった」

「絶妙な温め加減だよ!」

「それはどうも」

 氷呂は苦笑する。ご飯を食べ終わると氷呂は使った食器類を持って広場の端に設けられている洗い場へ向かう。明羽はそれを見送って畑へ向かう。ほぼ同じタイミングで畑に現れた発案者の男性に今日は休む旨を伝えて、明羽は倉庫に続く道を人の目を気にしながら歩く。

「誰もいない。誰もいない。よし」

「明羽ちゃん。なにやってるのー?」

「ふおぅっ!」

 明羽は振り返る。そこには白い尻尾をふりふり、明羽の半分の背丈しかない女の子が立っていた。

「え、ええーと……。何やってると思う?」

 我ながら酷い返答だと明羽は思う。しかし、女の子は目をキラキラと輝かせた。

「クイズ!? えっとえっと……。待って、ゼッタイ当てるから!」

 楽しそうに考える女の子に痛む胸を明羽は押さえる。

「分かった! かくれんぼでしょう! どう? 当たった? 明羽ちゃん!」

「うん! そう! 正解! すごいなあ。当てられちゃったなあ。そう! かくれんぼしてるんだ。だから私とここで会ったことは秘密にしといてね」

「わかった! がんばってね。明羽ちゃん!」

「うん! ありがとう!」

 去って行く女の子の姿が見えなくなるまで手を振り、明羽は深く息を吐き出した。純粋無垢な子供に嘘をついてしまったことに酷く酷く胸が痛んだが明羽はそれを振り切るように走り出す。倉庫の並びを抜けたその先にある村の出入り口に向かって走る。標、夏芽、氷呂と車に乗ってそこから村を出たのがつい昨日のことのように明羽の脳裏に思い出される。それだけ、あのお出掛けは刺激的なものだった。今回は違う意味で刺激的で明羽は緊張しながら建物の陰から向こう側を窺う。標辺りがもしかしたらいるかもしれないと思ったが少し開けたその場所には人っ子ひとりおらず、気配もない。明羽は胸を撫で下ろす。

「よし。行くか」

 明羽は翼を広げた。左側にのみ生える四枚の翼。髪の結び目に刺さっている髪飾りから伸びる涙型の緑色の石が左耳の側で揺れた。明羽が見据える先には薄く煙る砂漠だけが広がっていた。


   +++


 白い三角形の耳がピクピクと動く。自室の囲炉裏端で転寝をしていた村長が顔を上げた。

「明羽?」


   +++


 洗い場から戻って来た氷呂は部屋の中の空気に違和感を覚えて室内をぐるりと見回した。特に変わったところはない。

「明羽?」

 氷呂は食器類を一先ずその場に置いて家を出た。


   +++


 村長は頭で戸を押し開けて広場に出る。謝花が子供達に午前の青空授業をしているところだった。

「謝花」

「はい? あ、村長。どうしました? は! 私の授業うるさかったですか!?」

「いやいや。そんなこと一度も思ったことないから」

 勝手に慌てふためく謝花を村長は宥める。

「邪魔してすまないね。ちょっと確認したいことがあって。明羽……」

「あ、氷呂ちゃんだ」

 そう言葉を発した子供の目線を追って村長と謝花が目を向ける。氷呂がキョロキョロと辺りを見回しながら広場に入って来る。どこか不安そうにずっとキョロキョロしている氷呂に謝花は首を傾げた。

「なんか探してるのかな?」

「氷呂!」

 村長が呼ぶと氷呂が村長と謝花に駆け寄った。

「こんにちは。村長。謝花。あの、明羽を見ませんでしたか?」

「明羽?」

「……」

 謝花はキョトンとし、村長は少し目を丸くしてから眉間に皺を寄せた。

「やはり……」

「明羽ちゃんならかくれんぼしてたよ」

 授業に参加していた女の子が三人を見上げていた。

「かくれんぼ?」

 氷呂が問い返す。

「うん! 村の入り口の方で見掛けたんだー」

「誰……誰とかくれんぼしてたか分かる?」

 氷呂の言葉が少し震えていた。

「ダレと……。あれ~。そういえば。明羽ちゃん、ダレと遊んでたんだろう?」

「あ、あれ? 氷呂!? 氷呂ー!?」

 突然駆け出した氷呂の背に謝花は呼び掛けることしかできない。

「謝花。すまないが標と夏芽を呼んできてくれ」

「え?」

「すぐに!」

「は、はい!」

 謝花は駆け出し、村長は氷呂が走って行った方へ走り出す。突然いなくなった大人達に広場にはポカンとした顔の子供達が取り残された。


   +++


「氷呂! 待ちなさい!」

 村長は叫ぶが氷呂は止まらない。少しずつ距離が離されている事実に村長は独り言ちる。

「年には勝てないか……」

 氷呂はあっと言う間に村から駆け出して行ってしまった。村の外へ出られない村長は立ち止まる。

「氷呂……」

 呟いて中央広場へと取って返す。広場には村長の指示で謝花に呼び出された標と夏芽が待っていた。何が起きたのか村長から聞いた謝花は顔を青くし、標と夏芽は目を丸くする。

「何考えてんのあの子達は!?」

「すぐに追い掛けます」

「頼んだ」

 まもなく村から一台の黒い車が唸るエンジン音を響かせながら飛び出した。


   +++


 明羽は砂吹き荒ぶ中、殆ど目を閉じた状態で上へ上へ向かって飛んでいた。時々吹く突風に煽られながらも飛び続ける。いきなり視界が開けて明羽は上へ向かって飛ぶのをやめた。その場に留まって目を見開く。目に飛び込んできたものに瞬きを忘れる。

真っ青な空に太陽と月が浮かんでいた。いつもよりずっと近くに感じる太陽と月に明羽は来た道を振り返る。茶色い大気が渦を巻いていた。

「すごい……」

 柔らかな風が吹いた。ふうっと息を吹き掛けられるような柔らかな風だった。ひんやりと冷たいその風は軽く熱を帯びた肌には心地良く、明羽は暫くその辺りをくるくると舞う。静かだった。ここには明羽と明羽を見つめる太陽と月しかなく、不意に覚えた寂しさと不安感に明羽は舞うのを止め、横に飛び始める。渦巻く茶色い大気を眼下にまっすぐに飛ぶ。地平線が見えてきて、嵐の終わりに明羽は少しばかり高度を下げて飛び続ける。下方に見える景色が起伏の殆ど無い砂漠に変わり、空の青と砂漠の白に二分する視界の中を明羽は尚もまっすぐに飛び続ける。すると、白の上に転々と緑色が浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。

「オアシスだ」

 明羽は過ぎていく景色を眺めながら飛び続ける。明羽は飛びながら大きく手を広げた。空気抵抗に少しばかり速度が落ちる。明羽はあることを意識し始めていた。

「私、本当に今、自由に飛んでるんだ。自由に、飛んでもいいんだ」

きっかけは数日前の村の皆で焼き菓子をつついたあの日。何故か子供達にせがまれて子供達を代わる代わる抱えて飛ぶ羽目になったあの日。翼があるのに飛ぶことを考えなかった日々を思う。それでも不自由はなかった。不自由がなかったから自分が飛ぶことを考えていないことにも気付いていなかった。それに気付かされたあの日。村の中では狭すぎる。そうなったらもう外へ行くしかない。氷呂は絶対反対するだろう。だから明羽は機会を窺った。だから明羽はひとりで村の外へ出た。どうしても、気付いてしまってからというもの、向上心なのか好奇心なのか正直良く分からないが、そういう気持ちが膨れ上がって押さえることができなかった。そうして、明羽は今に至る。

 明羽は飛び続ける。


   +++


 青と白が二分する景色の中を走る一台の黒い車があった。後方に茶色い帯を引きながら走る車を運転するのは紫黒の髪、闇色の瞳の青年。助手席に座るのは青灰色の髪に透明感の強い薄青色の瞳の美しい女。

「あの子達どこ行ったのかしら」

「見当もつかないな」

「氷呂ちゃんは明羽ちゃんがどこにいるのかとか分かってるのかしら」

「どうだろうな。ただ、何故かふたりは間違いなく一緒にいる気がするんだよな」

「同感。そこだけは私も自信あるわ。自分でも謎だけど」

「まったくだな」

「ん?」

「どうした。夏芽?」

 夏芽は目を細める。真っ白な太陽の光を受けて何かが光ったような気がした。

「んん?」

 また光ったそれはひらひらと宙に舞っているようだった。翻る度に太陽の光を反射して閃く何かを夏芽は指差す。

「標。あっちに近付いてちょうだい」

「近付く?」

「あっちで何かが光ってるのよ」

「何か、な。了解。お前の勘を俺は信じるぜ」

「いいから早く」

「へいへい」

 標がハンドルを切る。夏芽はその正体を見る。

「……羽根だわ」

「羽根? って、まさか明羽のか!?」

「分からない。でも、不自然過ぎる。あの白さ、天使の羽根に間違いないと思うけど。なんか、ひらひらと……ずっとあのあたりをひらひらと……。不自然だわ。もっと近付いて」

「仰せのままに」

「もうちょっと……。ん?」

 その羽根はある程度近付くとふわりと離れて行った。近付くとまたふわり。

「何かしら。誘われてる?」

「どうする? 夏芽」

 夏芽は熟考した。

「いいわ。追い掛けてやろうじゃない。標、あの羽根を追うわよ」

「根拠は?」

「勘よ!」

「上等!」

 標はニッと笑って、ひらりふわりと車の前方を行く羽根の後を追ってアクセルを踏んだ。


   +++


 明羽は痺れているのに熱く感じる背中を心地よく感じながらよろよろと砂の上に着地した。

「ふう。はあ。これ以上は無理。限界」

 額の汗を拭い。満足そうに伸びをする。

「うう~ん。よし。帰るか!」

 元気よく言って明羽は数秒前に自分が発した言葉との矛盾に気が付いて両手と両膝を地に着いた。

「飛べないのにどうやって帰るんだよ……」

 調子に乗っていたと明羽は反省する。反省しながら顔を上げて、この反省が次に生きる時は来るのだろうかと目の前に広がる砂漠を見て思う。カラッと乾いた暑い風が吹いた。砂が少しばかり舞う。

「干乾びるかな。へ、へへへ……」

 自嘲して笑い、自分の愚かさを呪う。考えなしであったことを呪う。心の内で一通り自分に悪態をついて明羽は顔を上げた。

「オアシスを探そう」

 明羽の計画はこうだ。木陰で休憩して体力の回復を図って帰る。水があれば尚よし。水という単語から氷呂の顔が思い浮かぶ。

「……」

 明羽は気持ちが沈みそうになるのを頭を振って振り払った。

「は、初めのいーっ歩!」

 カラ元気を振り絞って明羽は一歩を踏み出した。翼が霧散して消える。途端、明羽の耳が音を捉えた。音というよりは振動だった。お腹というか肺というかに響いた気がしたそれは最初こそ気の所為かと思う程小さかったが次第に大きくなり、はっきりと振動と共に近付いてくる。明羽は見る。地平線に浮かんだかと思うとあれよあれよという間に近付いて来たそれを、目の前で止まったそれを、明羽はただただ見上げることしかできなかった。トラックだった。それもかなり大きなトラックだ。人ひとりとかふたりとそんなレベルの大きさではない。ドッドッドッドッという規則的な重低音が空気を震わせ、明羽の内臓までをも震わせる。そして、そのトラックは大小の車を何台も引き連れていた。明羽の目の前で止まったトラックに倣うように数多の自動車が明羽を取り囲む形で止まっていく。明羽の額から冷や汗が流れた。運が悪いのか間が悪いのか。とにもかくにもひとりの少女が委縮するには十分な威圧感を目の前のトラックと鉄の群れは放っていた。バコンッという音が聞こえて明羽は飛び上がる。見ればトラックが引くコンテナの側面に設けられた扉が開いていた。まず足が見え、扉の下に備えられていた小さな梯子を降りて来た男は目付きの酷く悪い男だった。眼鏡を押し上げ不躾に明羽を観察してくる。黒い服に身を包んだ目付きの悪い男に明羽は標を連想してしまう。見た目の年齢が近い所為もあっただろう。だからなのか明羽はジロジロと見られたがあまり嫌な気分にはならなかった。明羽が見返していると、

「女の子だ」

 斜め上から声が降ってくる。見れば開きっ放しだったコンテナの扉からこちらを覗き見る子供がひとりいた。子供の言葉にコンテナの中が俄かにざわつく。そのざわめきの多さに明羽は目を丸くする。コンテナに乗せられているのは大勢の人のようだった。この集まりは一体どういう集まりなのか。なんて明羽が思っていると扉の向こうから顔が代わる代わる外を覗き見ては引っ込んでいく。その顔ぶれは子供と老人ばかりで、成人した若者はこのトラックには乗っていないようだった。目付きの悪い顔の男が渋いものに変わる。

「いい加減にしろ。出て来るな。中で大人しくしていろ」

「副団が怒った~」

 丁度こちらを覗き込んでいた子供が笑いながら扉の奥へ引っ込む。目付きの悪い男がため息をつき、改めて明羽を見据える。

「亜種だな」

 明羽は目を丸くした。何を持って目の前の男はそう断言したのだろう。分からなくて思わず明羽は半歩下がってしまう。

「その態度は肯定と受け取るが?」

 鈍る思考を明羽は必死に回す。疲労困憊の翼では到底飛んで逃げることなど不可能で、打開策を見つけられないまま立ち尽くしているとギシッという軋む音。見れば未だ開きっ放しだったコンテナの扉に今度はひとりの男が立っていた。ぼさぼさの髪によく日に焼けた肌。目付きの悪い男よりも背は高いがその顔には幼さが残る。けれど、眼光鋭い意志の強そうな瞳、何より纏っている雰囲気が目付きの悪い男とは明らかに違っていた。よく日に焼けた背の高い男は梯子を使わず目付きの悪い男の側に飛び降りる。羽織っていた黒いマントが翻った。

「亜種か」

「間違いないでしょう。こんなところに独り。周囲には移動用の乗り物どころか人の気配もない。置いて行かれたにしては落ち着き過ぎている。自らの足でここまで来たのでしょう」

 足じゃないけどね。と明羽は腹の中でツッコミを入れる。

「外見だけではどの種族かまでは分かりませんが」

「ふむ」

 意志の強そうな目が近付いてきて、明羽はその瞳を間近で見返す羽目になる。

「どうしますか? お頭」

 目付きの悪い男の発した言葉から明羽は、今正に明羽の顔を興味と好奇心の見え隠れする瞳で覗き込んでいるこの男がこの集団のリーダーであることを知る。目付きの悪い男の言葉遣いが丁寧なものに変わっていることには気付いていたが明羽は若いボスだなと能天気に思った。

「そうだな」

 お頭が背筋を伸ばした。その瞳から解放されて明羽はちょっと胸を撫で下ろす。

「いくらで売れっかな?」

「種族が分からないことには何とも」

「そうだよな」

 胸を撫で下ろしたのも束の間、明羽はこの瞬間になって初めてこの異様な集団が盗賊である可能性に気付いたのだった。さっきまでの能天気はどこかへ消えた。明羽は再び頭をフル回転させる。なんなら目付きの悪い男に人間ではないと言い当てられた瞬間よりずっと必死に脳を回す。

「明羽!」

 明羽は空耳だと思った。焦る頭が響かせた幻聴だと。

「明羽!」

 先程よりも近くにはっきりと聞こえた声に明羽は息を呑む。振り返るとそこには膝に手を付き肩で息をする氷呂の姿があった。

「ひ、氷呂……?」

 聖獣である氷呂が息を切らせている光景に明羽は開いた口が塞がらない。

「おいおいおい」

「どこから……」

 突然目の前に現れた青い髪の少女にお頭と目付きの悪い男が目を見張る。

「明羽!」

「はいっ!」

 睨み付けられて明羽は背筋を伸ばした。氷呂の呼吸はまだ少し掠れていたがそれでももう殆ど落ち着き始めていて。こんな状況だったが明羽は「さすが氷呂!」なんて思いを胸中に走らせる。

「明羽! どういうつもり? 私に何も言わずこんなところまで!」

 飛んできた詰問に明羽は先程伸ばした背筋を縮こまらせた。

「ご、ごめんなさい……。反対されると思って……」

「反対? 私が? 明羽の決めたことを? 見くびられたもんだね。私はいつだって明羽を肯定するの。私はいつだって明羽の味方なの。分かった?」

「それはそれで、ちょっと……」

「分かった?」

 凄まれて明羽はキリッと頷く。

「はい!」

「まあ。あんまり危ないことをするようなら全力で止めさせてもらうけどね」

「……」

「とにかく。黙ってどっか行っちゃうのだけはヤメテ。せめて一言ちょうだい。そうしないと賛成も反対もできないんだから」

 良く見れば氷呂の握り締められた手が震えている。明羽は俯いた。

「ごめん。氷呂。私、本当に考えなしで……」

「分かればよろしい。さあ、帰ろう」

 氷呂が明羽の手を掴んで来た道を戻ろうとすると、いつからいたのか周囲の車から下りて来たらしい、揃いも揃って黒い服に身を包んだ者達がふたりの行き先を塞いだ。目付きの悪い男といい、これがこの集団の制服なのか。立ち止った明羽と氷呂の背後からパンパンパンと手を打ち鳴らす音が聞こえてきた。振り返るとふたりと目の合ったお頭がニッコリと笑う。

「いや~。驚いた。だが、まあ。品が増えたと捉えよう」

 品という言葉に明羽は眉間に皺を寄せる。自分の所為で氷呂まで危険な目に合わせてしまっている事実に明羽は氷呂の手を引いた。

「氷呂。氷呂。走れる? 走れるようなら氷呂だけでも逃げ」

 氷呂が明羽の頬を思い切り摘まんだ。

「いひゃい」

「冗談言わないで。明羽を置いて私が帰る訳ないでしょう。何の為に私が来たと思ってるの」

「……ごめんなひゃい」

 解放された頬を明羽は摩る。氷呂がお頭へと向き直った。

「あなたがリーダーですね。明羽と私は帰ります。お騒がせして申し訳ありませんでした。あの方達に道を開けてもらえるよう言って貰えないでしょうか」

「その言い分が本当に通ると思ってるのか? 本気で思ってるなら大した脳みそだな」

 明羽はムッとする。氷呂を侮辱されて黙っていられる筈もなく、明羽が口を開き掛けたところを当の氷呂が明羽の前に出ることで遮った。氷呂とお頭が睨み合う。先に口火を切ったのはお頭だ。

「ふたりをコンテナに乗せろ」

「お頭」

「そう目くじら立てるなって。俺が直々に見張るってだけだ」

「その必要性を……」

「俺の決定が不服か?」

 笑いながら言うお頭に目付きの悪い男がため息をつく。

「どうなっても知ったこっちゃありませんからね」

「俺が間違えたことあるか?」

「たくさんありますねえ」

 お頭は苦笑する。

「でも、最後には全部丸く収めて来ただろ」

 目付きの悪い男が今度は諦めのため息をついた。

「ふたりを乗せて出発する!」

 黒服達が俄かにざわついたが最終的にはお頭と目付きの悪い男の決定に声を揃えて応じた。明羽は氷呂の手を引く。

「氷呂。とりあえず今は従おう。そんで。隙を見て逃げよう」

 明羽を見返した氷呂は唇を噛み締めていたが肩から力を抜いた。疲労困憊の明羽と同様にここまで駆けて来た氷呂もまた、傍目には回復したように見えてももう体力の限界だった。明羽と氷呂はお頭に促されるままコンテナの小さな梯子に足を掛けた。


   +++

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