第2章(1)

 日が落ちて、満天の星が夜空を彩る程に大地は深い闇に閉ざされる。そんな闇の中に対の光を浮き上がらせて一台の車が走っていた。

「またどこかで一泊できたらと思ったんだけど。こう暗くっちゃあ、もうどこ走ってるか分からないわね」

「寒い……」

 夏芽なつめがチラと見ればしなが助手席で幾枚もの毛布に包まって丸くなっている。

「しょうがない。砂漠のど真ん中になっちゃうけど幌を張って車中泊しましょう。標。気張りなさい。明日、夜が明けたらすぐに村に向かうから。明羽あはねちゃん氷呂ひろちゃん。手伝ってちょうだい」

「うん」

「はい」

 車を降りると夏芽がフレームを組立て、車内に畳んで置いてあった幌を三人で広げる。

「そっち引っ張って」

「こう?」

「そうそう」

 手早く作業を終えていく夏芽の手も借りながら明羽と氷呂は慣れない作業を終えていく。

「後部座席を倒して標を寝かせるわ」

「はい」

「いや、そこまでしなくても俺は大じょ……」

「よっ」

 標を無視して夏芽が後部座席の背もたれを倒すと少し狭いが寝転がるぐらいはできるフラットな空間ができた。

「はい。標こっち来て。腕を固定するから。それからこれ飲んで」

「コレってなんだよ……」

「痛み止めよ! 黙って飲みなさい!」

「うぐっ」

 無理やり口の中に含ませられた薬を標が呑み込んでいる間にも夏芽はテキパキと標の腕に包帯を巻いていく。腕に腕を固定させるように標の上半身がぐるぐる巻きになっていく。明羽と氷呂は目を瞬く。夏芽の早ワザと、標の状態はそんなにも悪かったのかとふたりは少し不安になる。

「はい。出来上がり。どう?」

「出来上がりって……。物みたいに。まあ、少しは楽になった」

「後はずっと安静にしてなさい。さ、明羽ちゃん、氷呂ちゃん。私達はお茶にでもしましょうか」

「……好きにしてくれ」

 標の言葉は夏芽がさっさと閉じる幌のジッパーの向こうに消えた。

 星が降りしきる中、闇に沈む大地の上で薪の弾ける音が響く。湯気の上がるカップに何度も息を吹きかけてから明羽はそっとカップに口を近付けた。

「アチッ」

「気を付けて。明羽」

「十分に気を付けたつもりなんだけどね」

「うふふ」

 ふたりのやり取りに夏芽が笑う。かじかみそうになる指をお茶の入ったカップを包み込むことで温めながら明羽は背後の車をチラと見る。

「夏芽さん。いつも救急セット持ち歩いてるの?」

「出掛け先でなんかあった時に手当てできるように基本、車には一式乗せてあるのよ。私が個人的に持ち歩いてる物もあるけど」

「ちゃんと備えてあるんですね」

「もちろんよ」

「標の怪我ってそんなに酷いの?」

「私達の所為ですよね……」

 落ち込む明羽と氷呂に夏芽は首を振る。

「あれは怪我とはちょっと違うのよ。あれはどっちかって言うと疲労が行き過ぎちゃった感じでね。十分休めばさっさと治るものだから。ふたりがそこまで気にすることないわよ」

「私、標にお茶持ってく」

「明羽。私も行く」

 肩に掛けていた毛布が落ちても気にせず立ち上がった明羽に氷呂も続いて立ち上がる。空のカップと火に掛かっているポットに無造作に手を伸ばして、明羽は触れたポットの熱さに一瞬で手を引込めた。変わりに氷呂が布巾を手にポットを持ち上げる。幌のジッパーを開けて車に乗り込む明羽と氷呂の姿を見ながら夏芽は茶を啜った。

「どうやって飲ませるつもりかしら?」

 流れ込んできた冷たい空気に寝転がっていた標は眉間に皺を寄せた。

「んん?」

「標!」

「ぬお!? なんだ!?」

「お茶持って来た」

「具合はどうですか?」

 目の前に迫って来るふたりの少女に標は目を何度か瞬く。

「茶?」

 明羽は頷く。

「お茶」

「明羽……気持ちはありがたいがこの腕なんだが」

「うん。だから飲ませたげる」

「いやいやいや」

「標さん。寒くないですか? もっと毛布持って来ましょうか? 標さん、暑いのも寒いのも苦手ですもんね」

「氷呂……俺がっていうか種族的にな。それから気持ちはありがたいがこれ以上の毛布は積んでなかっただろう」

「私は暑いのより寒い方が平気なので良ければ私のを使ってください」

「いやいやいや」

「両手に花で浮かれてんじゃないわよ」

「浮かれてねえよ」

 幌を少しだけ開けた隙間から覗き込むように夏芽が立っていた。

「恥ずかしさと情けなさで一杯だよ」

「あら、そう。まともで良かったわ」

「俺はいつだってまともだよ」

「あはは」

 夏芽が笑う。標と夏芽の掛け合いに明羽と氷呂は思わず温かい気持ちになる。和んだ空気に不意に欠伸が出た。

「眠い……」

「明羽」

「あらあら。火の後始末をして私達ももう休みましょうか。その前にちょっと変わってくれる?」

 夏芽が上がって来たので明羽と氷呂は変わるように車外へ出る。

「火の始末は私達がしておきます。後で確認お願いしますね」

「氷呂ちゃんはしっかりしてるわね。分かったわ」

 明羽は自分よりも氷呂の方が俄然しっかりしていることを自覚しているので何も言わない。明羽と氷呂が降りたのを確認して夏芽はふたりが置いて行ったお茶を手に取る。

「ほら」

「マジかよ」

 夏芽が口に近付けてきたカップの縁に標は口を付ける。絶妙に傾けられるカップから標はひと口ふた口とお茶を飲んだ。

「悪かったわね。無理をさせたわ」

「ん?」

「明羽ちゃんと氷呂ちゃんは自分達の所為みたいに言ってたけど実際焚き付けたのは私だものね」

「急にしおらしくなるな。調子狂うだろ」

「悔しいのよ。私には誰かを守る力がない。……ボーガンでも持とうかしら」

「ヤメロヤメロ。人間の使う武器なんて俺らが持つもんじゃねえよ。そもそも、俺とお前じゃ役割が違う。夏芽は夏芽の役割をちゃんと果たしてるだろ」

「……そうね」

 夏芽は標の肩を思いっきり叩いた。

「……痛いんだが」

「腕じゃないだけいいでしょ」

「腕まで響いて痛いんだが」

「あら、そう。ごめんなさい?」

 そう言いながらまた手の平を見せる夏芽に標は身構える。

「頼りにしてるわ」

 今度は叩くのではなく、拳を軽く標の肩に当てた。

「だから調子狂うって。それに、言われなくたって分かってる」

 標の言葉に夏芽はニッと笑った。氷呂が始末する焚火の残り火を見つめながら明羽は物思いにふけっていた。

「強くなりたいなあ……」

「明羽。思ってることが零れてる」

「ハッ!」

 恥ずかしさに口をもごもごさせてから明羽は心を決めて氷呂を見た。

「守られてばっかりじゃダメだよね。逃げてばっかりもダメだと思うんだ。強くなりたい。誰かを守れるぐらいになんて言わないから。せめて、自分の身ぐらい守れるようになりたい」

「そうだね」

 残り火もしっかりと消して、立ち上がりながら氷呂は言う。

「そう言えば明羽。あの時、風を呼んでたよね」

「……どの時?」

「狩人が乗る鳥に掴まってた時」

 明羽は目をぱちくりさせた。思い出す。狩人の乗っていた鳥の横腹に殴り付けるように吹いた突風のことを。

「私がやったの、か? あれ……」

「やっぱり意識してじゃなかったんだね。あれが狙ってできるようになればいいね。なんて」

 明羽は村長の「練習もしてみるといい」という言葉も思い出す。

「頑張る」

 新たな目標ができて明羽は頷いた。車から夏芽が降りて来て火がちゃんと消えているのを確認すると夏芽は運転席に、明羽と氷呂は助手席に乗り込んだ。フロントガラス越しに満天の星を瞳に映し、明羽は毛布を顎までたくし上げた。


 フロントガラスから容赦なく入って来る真っ白な光に明羽は目を覚ます。

「う~ん。イテ」

 聞こえてきた声に明羽が顔を向ければ夏芽が伸びをする為に伸ばした腕をフレームにぶつけていた。明羽はしょぼしょぼする目を擦って欠伸をする。側で身じろぎする気配に見れば氷呂が顔の前に手をかざしていた。

「ん、眩しい……」

「おはよう。氷呂」

「おはよう。明羽」

「おはよう。明羽ちゃん。氷呂ちゃん。一服してから出発しましょう」

 夏芽に挨拶を返して明羽と氷呂は車から降りた。夜の残したヒヤリと冷たい空気に目が覚める。澄んだ青い空に向かって明羽は思い切り伸びをした。氷呂と夏芽がお茶の準備を終えると夏芽が幌のジッパーを開けて車の中へ入る。

「標! 朝よ! ほら薬!」

「飲む! 飲むって!」

 外まで聞こえてくる声を聞きながら明羽は「今日もいい天気だなあ」なんて思った。

 幌を張ったままその古めかしい黒い車は走り始める。後方に砂の帯を引きながら明るくなった砂漠の上をまっすぐに走っていく。村を取り巻く嵐は出て来た時とほぼ変わらないやる気の無さで夏芽の運転する車は難無く村に辿り着く。

 夏芽は車から降りるとボンネットに手を付いた。

「着いた……。着いたわ……。疲れた……。長時間の運転とか……。標、あんたいつも……凄いわ……」

「そりゃ、どうも……」

 素直に夏芽が褒めるのはとても珍しいのだが標もいっぱいいっぱいでその一言を返すのが精一杯だった。昼間だろうが静まり返っている倉庫街。そこに人程の大きさの白い獣が足音静かに現れる。

「おかえり。明羽。氷呂。標。夏芽」

「村長。ただいま!」

「ただいま帰りました」

「村長……。ただいまです……」

「村長ぅ……。ただいまぁ」

 普段村長に対しては常に敬語を使っている標と夏芽だったが今はその余力もない。

「標、夏芽。随分疲れているね。何か……。標。君、力を使ったのか?」

「あー。ええ。まあ……」

「狩人に見つかっちゃって!」

 億劫そうな標に変わって明羽が慌てて答える。氷呂もフォローしながら村長に伝えていく。オアシスに狩人がいたこと。その狩人が南の町で明羽と氷呂を捕まえようとした狩人だったこと。標と夏芽に助けられたこと。

「そうだったのか。大変だったね。ふたりは改めて見つかってしまった訳だけど、また狩人に目を付けられたかな?」

「それは、大丈夫だと思います。ドンパチしたのはオアシスから離れてからでしたし。標が思いっきり脅したので」

「そうか。ともかくみんな無事でよかった。車は僕が車庫に戻しておくから。標も夏芽も休みなさい」

 瞬間、夏芽は疲弊していたのが嘘のように目をカッ開く。

「ありがとうございます! 村長! 助かります。ほら! 標、診療所行くわよ」

「ぉおう……」

 ふたりの後ろ姿がどんどん小さくなっていく。

「僕は休めと言ったんだが。まあ、標がアレじゃあしょうがないか。治療を優先しない夏芽なんて夏芽じゃないものね」

「村長……」

「うん?」

 村長が振り返ると明羽が少し落ちこんでいる。

「夏芽さんは大丈夫って言ってたけど標の腕は本当に大丈夫なのかな?」

「夏芽がそう言ったのなら大丈夫だよ。疑う必要はない」

「いや……。疑ったんじゃなくって……」

 小さく手を振って否定する明羽に村長は小さく笑う。

「標のことは夏芽に任せて大丈夫だよ。ともかく君達が無事でよかった。久しぶりの遠出で疲れただろう。明羽と氷呂も少しお休み」

 見上げてくる薄紫色の瞳が優しくて明羽はうっかり熱くなった目頭を揉んだ。

「うん。ありがとう。村長」

「ありがとうございます。村長」

 明羽と氷呂は見送ってくれる白い獣に手を振った。小道を暫く行って明羽はふと疑問に思ったことを口にする。

「村長、車庫に車戻しておくって言ってたけどどうやって戻すんだろう?」

「どうって……人型になってでしょう」

 氷呂の呆れた声に明羽はまじまじと氷呂の顔を見つめてしまう。

「……そうか。そうだよね。村長も聖獣だもんね。人の姿も持ってるんだ」

 明羽はつい振り返るが白い獣の姿は建物の影に隠れて既に見えない。

「えー。どんな姿だろう。いつか見れるかなあ」

 未だ知らないその姿を見れる日に思いを馳せながら明羽は空に向かって伸びをした。


   +++


 その日もまた、太陽と月が共に天頂を目指している時間にも関わらず、村の上空は砂色に染められていた。明羽は手に持ったものの皺を伸ばすように勢いよく払う。今日は村総出で溜まった洗濯物を洗い尽くすと皆で予め決めていた日。中央広場には家々の間に縦横無尽に紐が張られ、そのうちの一本に明羽は今皺を伸ばしたばかりの洗濯物を引っ掛ける。村の中を吹き抜ける柔らかな風が干された洗濯物を揺らしていく。

「気持ちいいなあ。カラッと晴れてたらもっと気持ち良かっただろうに」

「明羽。ぼーっとしてないで手を動かして。次の持って来たよ」

「ぼーっとしていた訳じゃないよー」

 明羽の側に袖をまくり上げた氷呂が絞られた洗濯物で一杯の盥を持っていた。

「明羽! 氷呂!」

 ふたりが振り返れると謝花じゃはなが広場に駆け込んで来るところだった。明羽と氷呂の前まで駆けて来た謝花は息ひとつ乱していない。氷呂と言い謝花といい「さすが聖獣」と明羽は思う。

「おはよう。謝花」

「おっはよう。謝花」

「あ、うん! おはよう!」

「遅刻だよ」

 氷呂にやんわりと窘められて謝花は「しまった!」という顔になる。

「そうなの! ごめんね。寝坊しちゃって。今すぐ持ち場に……じゃなくって! ああ……じゃなくもないんだけど。ふたり共、外に出てる時に狩人に会ったって!!」

「ああ、うん」

 何ともなく頷いた明羽に謝花は少しばかり顔を青くした。

「大丈夫? 怪我とかしてない? 元気?」

「平気平気。元気だよ。謝花」

「私達は大丈夫だから。落ち着いて」

「本当に? 本当の本当の本当に!?」

「本当の本当の本当に」

「標さんと夏芽さんと一緒に行ったんだから」

 笑って頷く明羽と氷呂に謝花はやっと肩の力を抜いた。

「呼んだか?」

 突如降ってきた声に三人の少女が飛び上がる。

「標!?」

「標さん?」

「標兄様!」

「おう」

 そこには紫黒の髪に闇色の瞳の長身の青年が立っていた。その表情は至って平常だったのだが両腕を上半身に巻き付けるように包帯で固定されている様は至って異様だった。

「……なんか酷くなってない?」

「夏芽が大げさに巻くんだよ。良くなってるっていうのに」

 標がため息をつく。

「みんなの視線が痛い……」

「そうですよね」

「大人しく引き籠ってようかな……」

「その方がいいよ」

 明羽と氷呂に促されて標は人目を避けるように干された洗濯物の間を縫うように去って行った。

「なんか私達にできることがあったら言ってね!」

「おう。頼りにしてる」

 洗濯ものの向こうから返ってきた声に明羽は「本当かな?」と懐疑的に腕を組んでしまった。気を取り直して明羽が洗濯物に手を伸ばすと真っ青な顔になってる謝花に気付く。

「謝花?」

「どうかした?」

「……ねえ。本当に大丈夫だったの?」

 標の腕を見て謝花の心配性が再び顔を覗かせてしまったらしい。しかも、先程よりずっと強く出てしまったようだった。

「標兄様があんな状態だなんて聞いてない! 明羽、氷呂。私、もう友達と会えなくなるのは嫌んだよおおおおおぉおぉぉぉ!」

「うん。謝花! 本当に私達は大丈夫だから!」

「何ともないから! ね!」

 明羽は先程まで心配していたのに「謝花がいない時に来て欲しかったっ!」と標に対して小さな恨み言を内心で呟いてしまった。謝花を何とか宥めすかし、持ち場に送り出して明羽と氷呂は一息つく。

「疲れた……」

「そうだね……」

「……今日中に洗濯物乾くかな?」

「風があるから大丈夫だよ」

 ちょっと面倒だが自分達のことを思ってくれる友達に明羽と氷呂は小さく微笑んだ。


「この大仰な腕どうにかならないか?」

「ならないわ」

 診療所の中。夏芽に一刀両断された標がため息をついた。それを見た夏芽は薬の調合途中だった手を止めて標に向き直る。

「何よ。何か文句ある? あるなら聞くけど?」

「聞いたところで……」

「ん?」

「いや、うん……」

「明羽ちゃんと氷呂ちゃんには疲れが行き過ぎちゃっただけとは言ったけど。ちょっと何かが触れただけで裂けるような痛みが走るんでしょう? 外せる訳ないじゃない」

「いや。外してくれと言ってる訳じゃ……」

「ん?」

「ナンデモナイデス」

「過ぎたことブツブツ言わないでよ。物理的に無理だったんだから」

 それは標が、というか悪魔が力を使う際には対象物と自身との距離が重要で、それによって後の症状の重、軽が変わるという話。あの時、明羽を捕まえた狩人が乗り操る鳥が標と夏芽が乗る車より早い以上追い付くことは無理だった。だからあれ以上距離が開かない内に標は力を使う必要があったのだ。

「とにかく安静にしてなさい。痛みが引いても完全に治るまで絶対、ソレ、外さないから」

 標は諦めたように頷く。

「そうだな。暫く引き籠るか。悪かった。時間取らせたな」

 診療所の戸が完全に閉じたのを見届けて夏芽はひとり項垂れる。それでも、あの時はあれが最善だったと顔を上げた。診療所を背にして標は一度立ち止まる。

「気にしてねえといいけど」

 呟いて歩き出す。


  +++


 明羽は夢を見ていた。いつも見る青い光の夢ではなく草原に白い花が咲き乱れている。柔らかく温かな風が吹くと白い花弁が舞い上がり、日の光が反射してキラキラと輝く。眩しくて目を細めた時、明羽は遠くに人影を見た気がした。

「明羽。起きて。畑に行くんじゃなかったの?」

 明羽は目を開いた。すっかり見慣れた天井が目に入る。

「おはよう。明羽」

「おはよう。氷呂」

「どうしたの?」

「夢を見てた」

「夢?」

「すごく綺麗な夢だった。でも……」

 明羽はその情景をうまく思い出すことができなかった。

「起こさないほうが良かった?」

 氷呂が本気で後悔し始めそうな顔になったので明羽は慌てて起き上がった。

「そうだ! 私、畑に行かないといけないんだった!」

「明羽。また後でね」

「うん!」

 駆け足で畑に辿り着いた明羽は収穫予定だった野菜を無事に収穫してにんまりと笑う。それを見た畑発案者の男性が手を止めてる。

「嬉しそうだね。明羽ちゃん」

「そりゃあね。これとこれが収穫できたらアレを作ろうって話になってたから。という訳で、私はちょっくら行ってきます!」

「いってらっしゃい。僕も頃合いを見て行くよ。広場でだったよね」

「うん!」

 明羽は籠いっぱいの野菜を手に畑から駆け出していく。向かう先は畑から少し行ったところ。近付く程に話し声が聞こえて来て明羽は駆け込んだ。

「お待たせ! お!?」

 そこには明羽が想定していたよりも大人数が集まっていた。

「明羽。こっち」

「氷呂。なんか集まってるね」

「私達が想像してたよりずっとみんな楽しみにしてたみたい」

「明っ羽ー!」

「謝花! 謝花も来てたんだ」

「もちろんだよう。で? で? それ? それが例の?」

 明羽の持っている籠の中を覗き込んで来る謝花の瞳は期待にキラキラと輝いていて明羽は苦笑する。

「そうだよ。これが、塩菜と砂糖菜です!」

 満を持して発表すると集まっていた村人達から歓声が上がった。

「明羽ちゃん明羽ちゃん。さあ! それをこっちに! 他の準備は万端なのよ!」

 調理担当の女達が明羽から籠を受け取って作業台に移動する。と、その手元を覗き込んで来るギャラリーを物ともせず女達は作業を始めていく。役目を終えた明羽はずっと気になっていたものに近付いた。

「これが……」

「明羽はまだ見てなかったっけ」

「うん。そうなんだ」

 明羽は氷呂と並んでそれを覗き込んだり眺めたりした。それは石窯だった。建てられてまだ日の浅い、まだ試験的に数度使われただけの新しい石窯。畑から小麦が取れるようになったので「パンを焼きたい!」と村の女達に頼まれて棟梁が造った石窯だった。

「棟梁って本当に器用だよね」

「そうだね」

「パン以外も焼けるかな?」

「うまく出来るといいね」

 氷呂の言葉に明羽はにんまりと笑った。

「楽しみだなあ」

「じゃ、私も手伝ってくるから」

 女達と既にその中にいた謝花に氷呂が交じっていく。どったんばったんと作業の進む光景を明羽は暫く眺めていたが、まだまだ出来上がりには時間が掛かりそうだったので一足先に広場に向かう。


 腕を曲げたり伸ばしたり、両の手を軽く握ったり開いたりする。

「よし」

 頷いた標のその足元には解かれた包帯の山ができていた。その足で広場に行くと頭に白い耳、背中に揺れる白い尾、片方だけに捻じれた細い角、はたまた見た目には何の特徴も見られない子供達が鞠程の大きさのボールで遊んでいた。そのボールが子供達の手をすり抜けて標の足元に転がって来る。

「標兄ちゃん! なーげーてー」

「おう」

 標は足元のボールに手を伸ばした。布を巻いただけの少し歪なボールに指先が触れる。握ろうとした瞬間、指先から腕にビリッと痺れが走って標は動けなくなった。

「標兄ちゃん?」

 顔を見合わせる子供達に標は内心焦る。焦るが掴めないものは掴めない。いや、無理をすれば行けるかと、カッコ悪いところは見せたくないと標が覚悟を決めた時、

「何やってるの。標?」

「……明羽」

 標の目の前に明羽が立っていた。標が来た道とは違う道から広場に来た明羽が首を傾げると髪に飾られた涙型の緑色の石が揺れて光った。

「どうし……」

 明羽が改めて尋ねようとした時、足元に転がるボールが目に入る。何も考えずに拾い上げると背後から子供達の声が聞こえて明羽は振り返った。

「明羽ちゃーん。なげてー」

 子供達がこちらに手を振っているのが見えて明羽は腕を振りかぶる。

「いよっ」

 明羽の投げたボールは綺麗な放物線を描き子供達の中に吸い込まれていった。歓声を上げて子供達がボールを取り合う。

「明羽ちゃーん。ありがとー!」

 明羽はぎこちなく手を振り返す。そんな明羽の陰に隠れながら標は自嘲気味に笑った。

「助かった……」

「ところで、標。包帯取れたの?」

 黙り込んで目を泳がせる標に明羽の目が座った。

「標?」

「おう……」

「標!!!」

 明羽と標が飛び上がった。広場に突如響いた声に見れば夏芽が広場に入って来たところだった。その手にはヒラヒラとなびく包帯の束が握られていた。

「やべ。片付けてくんの忘れてた」

「片付け……?」

「標ああぁ!!!」

 あまりの剣幕で近付いてくる夏芽に明羽は思わず一歩二歩と後退る。瞬く間に近付いて来た夏芽が標の胸倉を掴み上げた。

「誰が外していいって言った!? 言ってみろ!」

「ダ、ダレモイッテナイデス……」

「あら本当?」

 先程の剣幕が嘘のように夏芽が恐ろしい程美しい顔で微笑む。

「じゃあ、なんで解いたのかしら? いい訳があるなら聞いてあげるけど?」

「……」

「完全に治るまで外さないって言ったでしょう! 今朝だって注意したっていうのに! アンタの耳は節穴か!? 来なさい! 二度と自分で外せないように巻き直してあげるから!」

「そ、それはちょっと勘弁……ああぁぁ……」

 標を引き摺りながら夏芽が広場から去って行く。

「……今朝?」

 取り残された明羽が首を傾げる。と、

「明羽ちゃん。知らないの?」

「おぉっ?」

 いつの間にそこにいたのか子供達が明羽を見上げていた。

「し、知らないって、何が?」

「標兄ちゃんと夏芽姉ちゃん一緒に暮らしてんの」

 衝撃の事実に明羽の思考が止まる。

「聞いてない!」

 明羽が声を上げるのとほぼ同じくして多くの村人が喧騒と共に広場へと入って来る。

「みんなー。おやつだよー。ここにいない人を呼んできて」

「おやつ!?」

 明羽の側にいた子供達が一斉に振り返っていた。火に近付くと危ないので今日のことを教えられていなかった子供達は現れた大人達に駆け寄っていく。

「なんか甘い匂いするよ!」

「こらあ。ここにいない人を呼んで来てって言ったでしょう?」

 謝花に怒られて子供達が広場から散っていく。怒られたがその顔は皆一様に明るかった。和気藹々とした雰囲気の中、明羽は謝花と隣だって歩く氷呂に駆け寄っていた。

「氷呂! 標と夏芽さん一緒に暮らしてるんだって!」

「知らなかったの?」

「知ってたの!?」

 目を向ければ謝花も当然知っていたようで、自分だけ知らなかった事実に明羽は天を仰いだ。

「え? なに? どういうこと?」

「別に不思議な事なんてないでしょう。村ではみんなシェアハウスしてるんだから」

「それで納得しちゃっていいもんなのか……」

「何もないなんてことはないと思うよ! 私は!」

 謝花の目が嬉々と輝く。

「あのふたりがくっついたらビッグカップルだよね!」

「どうだろうね?」

「ノーコメント!」

 明羽と氷呂ははぐらかした。

 そうこうしているうちに広場にぞくぞくと村人達が集まって来る。敷物を敷いてその上でくつろぎ始めるみんなに配られたのは、ひと口大の大きさに成形されてサクッと焼き上げられた焼き菓子だ。幾つか少し焦げが見えるのはご愛嬌。まだ焼き上がったばかりの焼き菓子からは湯気と共に香ばしい香りが立ち上る。

「お、おいしそう……」

 想像以上のものが出て来て明羽はゴクリと唾を飲み込んでいた。

「すごい、すごいね。食べていいかな?」

「どうぞどうぞ」

 氷呂が言いながらお茶まで出してくれる。至れり尽くせりだった。明羽が手に取った焼き菓子はとても軽い。小麦粉を練った生地に砂糖菜と少々の塩菜が混ぜ込まれている為その見た目はほんのり緑色。明羽はそれをパクッと口に含む。サクッと噛むとほろっと解けて口の中いっぱいに甘い香りが広がった。

「お、おいしい!」

 あちらこちらからも感嘆の声が聞こえてくる。滅多にない甘味に村人達のテンションは高い。会話も弾むようで色々な声が聞こえくる。

「畑の収穫量が安定して来て調味料系の野菜も育て始めたとは聞いてたが」

「こんなものまで食べられるようになるとは思わなかったわあ」

「これから少しずつ蓄えもできるようになる予定だよ」

「それはすごい!」

 聞こえてきた畑発案者の男性と村人達の会話に氷呂がどこか楽しそうに明羽を見た。

「そうなの?」

「うん!」

 明羽は自慢げに自信に満ちた顔で頷いた。

「おいしいものはみんなと一緒に」

「素晴らしい考えだわ」

「また機会を見てやりたいわねえ」

「やりましょうよ!」

 村の女集の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

「初めて作った石窯で勝手が分からなかったが取り合えず形になって良かった。これからもっと研究して、改良していくつもりだ」

 棟梁の意気込みも聞こえてくる。

 みんなが楽しそうで明羽もまた上機嫌で焼き菓子の食感と味を堪能しながら氷呂の淹れてくれたお茶を啜る。

「キャアアァ――――――――――!」

 突然の悲鳴に明羽はお茶を吹き出していた。

「なにごと!?」

 口を拭いながら振り返る。小さな子がわんわんと泣いていた。その前では泣いている子より少し年上の子がふてくされた顔で立っていた。

「あら。大変」

 氷呂が明羽の吹き出したお茶が掛からないように持ち上げていた菓子皿を置いた。家族と一緒に過ごしていた謝花と連れ立って子供達の元へ。

「どうしたの?」

「兄ちゃんがっ。兄ちゃんがボクのとったあああぁぁ!!」

「こうゆうのは早い者順なんだよ! 遅いお前が悪い!」

 どうやらお菓子を巡って争っていたようだ。兄と呼んでいたがふたりの子供は見るからに種族が違う。泣いている方は白い尾を垂らし、もうひとりの頭には片方だけの角が生えている。けれど謝花も言う。

「もう、お兄ちゃんなんだから。譲ってあげなさい」

「兄ちゃんだから兄ちゃんだからって、なんで俺ばっかり我慢しなきゃいけないんだよう!」

 男の子まで泣き始めてしまう。先程までの和やかな雰囲気はどこへやら。他の村人達も子供達の元へ集まるが子供達は泣き止む気配を一向に見せない。それどころか泣き声でも勝負しているかのように片方の声が大きくなればもう片方もさらに大きく泣き叫ぶ。

「ああ、もう。どうしよう……」

「どうにか他のものに気を反らせないか?」

「残ってる菓子を集めてみるかい?」

 聞こえてきた提案に声を掛け合って村人達は子供達の前に残っている菓子を集めてみる。

「ほら。残ってるのやるから。お前ら泣き止め」

「いらない!」

「あっ!」

 弾かれた菓子が石畳の上に散らばった。

「こら……」

「コラアアアアァァアァァァ――――――!!!」

 誰かが怒るよりも先に少し離れたところから様子を伺っていた明羽が叫んでいた。

「食べ物を粗末にするとはなにごとか! どんな理由があろうと食べ物を粗末にしていい理由にはならないからなあ!! 生産者に謝れ! というか私に謝れ!」

 男の子は驚きのあまり口をパクパクさせることしかできない。周りにいるどの村人も同じような状態だったが。

「謝らんかい!」

 明羽は翼を広げていた。左側にのみ生える四枚の翼。石畳を蹴って男の子の襟首を掴むと明羽は広場の上空へと飛び立つ。

「うっ……重い」

 やや正気に戻り掛けたがもう後戻りはできないので明羽は行けるところまで行って空中で静止する。

「反省したか?」

「た、高い……」

「反省した!?」

「し、した! 反省した!」

「復唱! 二度と食べ物を粗末にしたりしません!」

「に、二度と食べ物を……そ? そまつ? にしたりしません!!」

「よし!」

 確約させて明羽は半泣きの男の子共々ゆっくりと降下を始める。

「兄ちゃん……。いいなあ」

 聞こえてきた声に明羽が見れば先程までわんわん泣いていた子がキラキラした目でこちらを見上げていた。

「あはねちゃん! あはねちゃん! つぎボクも!」

「じゃあ、その次、ワタシい!」

「!?」

 わらわらと集まってくる子供達に明羽は降りるのを躊躇してしまった。が、今持ち上げている男の子がもう限界なのでゆっくりと降下する。駆け寄って来る子供達に四方からぎゅうぎゅう押されて明羽は助けを求めて氷呂の姿を探す。見つけた氷呂は謝花と共に血の繋がりのない兄弟に改めて言い含めているところだった。氷呂が明羽の視線に気付くと口パクで何か告げてくる。その口はこう言っていた。

『もう少し頑張って』

「……」

「あはねちゃん! あはねちゃん!」

「分かった、分かったからっ! ひとりずつね!」

 明羽は代わる代わる子供達を抱えては上空へ。二、三人も持ち上げればもう背中の筋肉が感覚を失くし始めていた。毎日の畑仕事で、なんなら町にいた頃より体力がついていると思っていたが明羽は飛ぶことに関して著しく体力がないことを自覚する。今までずっと飛ばない、飛べない生活をしていた。その為そもそも意識になかった。明羽はじんわりとかいてきた汗に子供達の扱いに慣れている氷呂と謝花はまだかと見れば、いつの間にかふたりの側には白い獣が。今までどこにいたのか、みんなが団らんしている間、村長も広場のどこかにはいた筈なのだが何にせよ。先程まで静観していた村長の言葉に真剣に耳を傾けている兄弟の姿が目に入る。何を話しているかはこちらからでは聞こえないし分からない。それでも、兄弟がお互いの手を握り合って村長の話をきいているのを見て、万事丸く治まったことだけは明羽にも分かった。そろそろか? まだか!? と明羽がヒイヒイ言いながら再び上昇しようとした時、今更広場に入って来る人影があった。他の村人達も気付いて、広場は俄かにざわついた。子供達は静まり返る。広場に入って来たのは標と夏芽だった。腕を組みふんぞり返るような夏芽に対し、上半身が一回り大きく見える程に包帯ぐるぐる巻きの標は哀愁さえ漂わせる。見るに見かねて明羽が目を反らすと謝花の姿が目に入る。謝花は何故か微妙に嫌そうな顔をしていた。いつもの謝花だったらあんな状態の標を目にしたら心配を爆発させていただろうに、どうしたのだろうと明羽は思う。お茶会がお開きになってから明羽は謝花に聞いてみた。

「標兄様を引き合いに子供達に言い聞かせてるところだったんだ。標兄様は独り占めしたりしないし、分け隔てない。嘘もつかない。みんなで幸せになる方法をいつだって考えてる、と思うって。だからみんなに信頼されるし頼りにされてるって。だからあんなにカッコいいんだぞって。なのに……」

 確かにあの包帯ぐるぐる巻きの姿はどう見たって格好良くはなかった。謝花の重いため息に明羽と氷呂は謝花の肩を叩いた。そして、それ以降、標は包帯が取れるまで村の皆から憐みの目で見られこととなった。


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