第1章・緑色の瞳の少女と青色の瞳の少女(7)

「お、戻って来た」

「どう? いいの出来た?」

 明羽あはね氷呂ひろ暖簾のれんくぐるとしな夏芽なつめが出迎える。カウンター席に座るしな夏芽なつめはとてもリラックスした風だったがその反対側、カウンターの内側では店の若いのふたりが真剣な顔で何かを覗き込んでいた。何だろうと明羽あはねが覗き込むと、ふたりがおおかぶさるようにして見ていたのはしなが持ってきて、若旦那が査定途中の原石達だった。

「何やってんだ。お前達」

 若旦那がいぶかしげな声を上げる。

「若旦那の査定を手伝おうと思って」

「俺達も少しは分かるようになってきたし!」

「ほほう?」

 若旦那の目が座る。

「ところでお前ら、今日のノルマはどうした?」

「終わりやした!」

「自信あります!」

「見せてみろ」

 ふたりは同じような箱を取り出す。その中にはみがかれた石といくつかの原石が並べられていた。若旦那に続いて店主が箱の中をのぞき込む。

「どれどれ?」

「値段はいくらにした?」

 若いのふたりは元気よく答える。

「やり直しだ」

「やり直しじゃぞい」

 やり直しを告げられたふたりは分かりやすくショックを受けた顔になる。ふたりはすごすごと工場へ引っ込んでいった。若旦那が先程さきほどまで若いのふたりが立っていた場所に立った。

「悪かったな。未熟者の相手させちまって」

 夏芽なつめは笑う。

「いいえ。結構面白かったわよ。まるで石に命があるみたいに話すの」

「石が光ってるように見える時があるとか言ってたな。そうゆう時はどんな形にけずればいいのか見えるんだって」

 しなに同意するように夏芽なつめうなずく。

「でも、本当にそう見えるのはたまにで、今は全然見えないってうなってたわね」

「ほう。ふたり共そう言ってたか?」

「いや。片方だけだな」

「もうひとりはそんなの見えたことないって言ってたわね」

「……そうか」

「でも、その子。この石の中ではそれが一番高いと思うって言ってたわよ」

「自信なさげなわりゆずらなかったよなあ」

 若旦那は夏芽なつめしなが示した小さな石を見下ろした。

「そうか」

 しな夏芽なつめは若旦那の顔を見て、その目利めききが正しかったことを知る。

「もっと優しくしてやったらどうだ? 期待の新人なんだろ」

「いやいや。ここで優しくしたって意味ねえよ。たまにとか、自信なさげに、じゃ商売にならねーだろ」

「まあ、そうよね」

 しな夏芽なつめと若旦那が楽しそうに話しているのを明羽あはね氷呂ひろは店の真ん中に置かれた丸テーブルに着いて聞いていた。

しな夏芽なつめさん、楽しそう」

「ね」

「私達だけで先に見せ合いっこしようか」

「そうだね」

「あ! 明羽あはねちゃん、氷呂ひろちゃん。ずるいわ。私にも見せて見せて」

 カウンター席を降りて夏芽なつめ明羽あはね氷呂ひろに突撃する。しなもそれに続いた。

「金具の不具合とかあったら言うてくれ。すぐに直すぞい」

 誰もいなくなったカウンター席に店主が腰を下ろした。

 ひっくり返されたふたつの布袋からそれぞれにコロンと飾りが転がり出る。

 明羽あはねの布袋からは、涙型の青色の石が細いチェーンの先にれる、ついの手首飾りが。

 氷呂ひろの布袋からは、涙型の緑色の石が複数の金色のチェーンと一緒にれる仕様の髪飾りが。

 机の上に置かれた涙型の石に光が透過して、緑と青の影が浮かぶ。

「石の形が一緒だな」

そろえたの?」

 しな夏芽なつめの言葉に明羽あはね氷呂ひろはお互いに石を見つめて目をしばたいた。決して、そうしようと話し合った訳でもなければ、自分達が石をけずっている間はとなりを見ることもなかった。

 明羽あはね氷呂ひろは声もなく笑う。可笑おかしくて笑う。

「え? なあに?」

「どうした? ふたりとも」

 明羽あはねは髪飾りごと緑色の石を持ち上げてかかげる。日がかたむいて、店内に太陽の光が差し込んできていた。

 差し込む太陽の光が緑色の石の中で集まり、炎のようにゆらりとらめく。

 氷呂ひろもまた、青色の石のひとつをまむと目の前に持ち上げた。

 赤く染まり始めた空に月が浮いていて、その月の光が石の中できらきらチラチラと火花のように散った。

「綺麗……」

「その手首飾りね。片手でも簡単に付けられるように、おじーちゃんと相談しながら加工してもらったんだ」

「へえ」

 明羽あはねの言葉を受けた氷呂ひろはその場でそれを実践じっせんする。氷呂ひろの手首で青い石がれた。

「うん。すごく付けやすい」

 最初の一度だけでも氷呂ひろの手首に手頭てずから飾りたいと思っていた明羽あはねは、自分の失言に目頭を押さえずにはいられなかった。気を取り直して、明羽あはね氷呂ひろがもう片方の手首飾りを巻いている間に、緑色の石の付いた髪飾りを自身の髪にしてみようとこころみる。……うまくいかなくて今一度、髪飾りを観察し、再度こころみる。

 明羽あはねは首をかしげた。

明羽あはね。貸して」

 手首飾りを巻き終えた氷呂ひろが笑顔で明羽あはねに向かって手を差し伸べた。明羽あはねあきらめて、髪飾りをそっと氷呂ひろに差し出す。氷呂ひろ明羽あはねの左耳の後ろにある結び目に髪飾りをし込んだ。氷呂ひろの手が離れると、明羽あはねの耳元で金の飾りと緑色の石がれる。

「うんうん。似合うわ。ふたりとも」

「イメージぴったりだな」

「華やかさがプラスされて可愛さ倍増ね!」

「うん。かわいいかわいい」

 しな夏芽なつめにべた褒めされて、明羽あはね氷呂ひろはややかしこまった。それでも嬉しかった明羽あはねは顔を上げて笑う。一切影のない明羽あはねの笑顔に、しなは連れてきて良かったと満足する。

「よし。しな。査定終わったぞ」

「早かったな」

「超特急で終わらせた。今回はこんなもんだな。持ってけ」

 そう言って若旦那がカウンターの上に置いたのはドシッという効果音が似合いそうな袋だ。

「多くないか?」

「いや。妥当だとうだろう」

 そう言ったのはカウンター席に座る店主だ。

「燃料石はいつもとまあ、変わらんが」

「原石類には珍しいのがいくつか交ざってた。それに」

「お嬢ちゃん達にモニターしてもらって問題点もいくつか見えて来た。これからやってくのにのに生かさせてもらうぞい」

「そうか。まあ、なんだ。くれるっていうのを返すのもな」

「そうそう」

「その通りだぞい」

「ありがとう。助かる」

 しなが礼を言った時、工場からバタバタという足音が近付いてきたかと思うと、奥へ引っ込んだ筈の若いのふたりが暖簾のれんを跳ね上げた。

「じー様! 若旦那! 大変だ」

「なんだ。さわがしいぞ」

「狩人が来てるらしい」

「狩人お?」

 店主がいぶかし気な顔になる。

「このオアシスに? 何しに? こんなところに亜種がいる訳ないだろうに」

 明羽あはね氷呂ひろは無意識にしな夏芽なつめの顔をうかがっていた。しな夏芽なつめは狩人という単語に何ひとつ変わった反応を見せない。話題が変わって丁度切りがいいと言わんばかりに立ち上がる。

「さて、用事も済んだし帰るか」

「ええ。そうね。長々とお邪魔するのも迷惑だわ。さ、明羽あはねちゃんと氷呂ひろちゃんも」

「ぅ、うん」

「はい」

「ええ? 今から帰るのか?」

「もう暗くなるぜ? まってけよー」

 若いのふたりは名残なごりしそうにしなを引き止めるが、そんなふたりに対し、しなは手をヒラヒラと振る。

「そういう訳にもいかねんだわ。また来る。じゃあな」

 明羽あはね氷呂ひろも店主と若旦那にお礼を言って、四人が店を出ると空は真っ赤に燃えていた。建物も行き交う人も赤く染まり、空気さえも赤く染まる。

「またおいで」

 と言ってくれた店主に、少し先を歩いていた明羽あはねは大きく手を振った。


   +++


 オアシスの中にある一軒の大衆食堂の中。人々がザワザワと思い思いにくつろいでいる店内でドンッと無粋ぶすいな音が響く。

 広い店内のごく中央に位置する丸テーブルにふたりの男が座っていた。

 ひとりは体格はいいがさちの薄そうな顔の男。もうひとりは前者の男よりずっと若く、小柄な男だった。前者の男はテーブルに突っ伏し、空になったさかずきをドンドンとテーブルに叩きつける。

畜生とくしょう! 組合の奴ら。この俺を法螺吹ほらふき呼ばわりしやがって。片羽四枚の天使は本当にいたんだ! なぁ! ルイン!」

「ああ! ひでぇよな! 俺だってグリフの兄貴と一緒に見たのにさ」

 ふたりの周りにはけるように人がいない。若く小柄な男ルインは兄貴と呼んだ男のさかずきになみなみと新しい酒をそそぐ。うなれていた男グリフことグリフィスは表面張力の働く、たっぷりと満たされたさかずきの中身を一息に飲み干した。ふたりの腰には楕円形だえんけいの黒い標章ひょうしょうれる。それはふたりが狩人であることを明示めいじする。

畜生ちくしょう。鳥まで取り上げられて、格が下がっちまった。俺は嘘なんか言ってねえ。畜生ちくしょう……あの嵐さえなけりゃ。とっつかまえて、今頃、俺は誰にも文句なんて言わせねえ最高位の狩人に……」

 ルインは小さくため息をつく。正直、愚痴ぐちばかりのグリフに、ルインはきし始めていた。

 グリフィスの言葉を適当に聞き流しながら店の外に目を向けたルインは目を見張る。もうじき世界は人間にはえがたいほどの寒さに包まれる。店の外は早足に歩く人が行き交う中、他と同じように足早に歩く四人組がいた。

 目立つ四人組だった。黒い服に身を包んだ背の高い男。通り過ぎる度に男も女も関係なく振り返る色白の美しい女。そして、ふたりの少女。見た目はどちらも十代なかば、ひとりは青く長い髪の驚くほど整った顔立ちの美少女で、もうひとりは緑がかった黒髪を左耳の後ろでひとつに束ねた少女。

 ルインがこのふたりの少女の顔を忘れる訳がなかった。ルインは向かいで机にするグリフィスに目を向ける。

「さすが……」

 グリフィスはルインの小さなつぶやきが聞こえたのか聞こえなかったのか、ただタイミング良く顔を上げる。

「兄貴! ほら、あそこ!」

 ルインが指差した先をグリフィスは見る。店の外、そこを歩く者の姿が視界に入った時、グリフィスは目を大きく見開く。目をこすり、今一度見る。グリフィスの目に映った四人組はふたりに気付く様子もなく店の前を通り過ぎて行った。

「い、い、い、今……」

「そうだよ、グリフの兄貴! 片羽四枚の天使だよ! 純血の聖獣ちゃんも一緒だったぜ!」

「生きてた……。生きてたんだ、あの嵐の中……」

「さすが亜種!」

「ああ! こうしちゃいられねえ。行くぞ! ルイン!」

おう!」

 机の上に無造作むぞうさに置いていた銃を持ち、グリフィスは駆け出す。店を出ようとするグリフィスとルインに気付いて店員のひとりが声を荒げた。

「ちょっと! お勘定かんじょうっ!」

「うるせぇ! 俺を誰だと思ってる!!」

 銃持ちの狩人グリフィスは振り返ることなく店を駆け出て行った。店員はしばしし立ちくしていたが、こぶしをぶるぶると震えるほど握り締めたのちえきれなくなって持っていた盆を思い切り床に叩きつけた。

「くっそ狩人が!」

 お客達がギョッとする中、他の店員達があわててその店員を押さえ込む。店員は我慢がまんならんと言いたげにまだ何か叫ぼうとするがその口を他の店員達が塞ぐ。押さえる店員のひとりがシィッと自らの口の前に人差し指を立てた。


   +++


 場所は白髭しろひげのじー様の店に戻る。

 白髭しろひげの店主と黒髭くろひげの若旦那と若い従業員ふたりが店仕舞みせじまいの準備を始めていた。

「あーあ。しな、帰っちまったな。もう日が暮れるのに」

「宿とって泊まればいいのにな。金掛かるの嫌なら泊めるのに」

 若いのふたりは手を動かしながら器用に口を動かす。

「夜の砂漠に野宿すんのかな? 信じられねぇ」

「つか、しなってどこに住んでんだ?」

「南の町じゃねぇの? 南から来てんだろ? 近場に住んでる感じじゃないし」

「妙な詮索せんさくはせんでいい」

 若いのふたりが振り返ると店主がふたりの側に立っていた。

「上客に変わりはないんだからな。お前達、もう帰っていいぞ」

「へーい」

「でも、気になるよな」

「今度来た時、根掘り葉掘り聞いてみようぜ!」

 帰り支度じたくをしながら楽しそうにそんな相談をするふたりの側にはいつの間にやら若旦那が立っていた。ニッコリ笑う若旦那が持っている物に気付いたふたりは見る見るうちに顔を青くする。若旦那はふたつの箱を抱えていた。ぎっしりと形も色も様々な石が詰められた箱。

「これ、宿題な。明日までに正しく査定して来い」

 明日までと言われてふたりは二の句がげない。その手に若旦那は有無うむを言わせず一箱ずつ抱えさせた。ずっしりと重い箱を抱えたふたりはさっきまで話していた事柄もすっかり忘れてふらふらと店を後にした。


   +++


 通りは家へ帰るためか、宿に向かうためか、オアシスの中へ中へと向かう人々でごった返す。ふとした瞬間、みんなとはぐれそうになった明羽あはねあわてて手を伸ばす。気付いた氷呂ひろがその手をつかむ。

氷呂ひろ

「離れないで。明羽あはね

「うん」

 明羽あはね氷呂ひろの側に落ち着くとしながその後ろに立ち、夏芽なつめが先頭を歩く。しばらく四人は黙って歩いた。人の波が少し弱まった頃。

「なんだかこのオアシス、石関係を扱っているお店が多い気がします」

「あら。良く気付いたわね。氷呂ひろちゃん。そうよ。ここは石のオアシスなの。前に話したわよね。オアシスにはそれぞれ特色があって」

「その話はまた後でな」

 しなさえぎられて夏芽なつめは少し不満そうだったが異論は唱えない。

「顔を知られていない限り見つかる可能性は低いと思うが、警戒するに超したことはないからな。のんびりはしてられないぞ」

 駐車場には歩くのに困らない程度に篝火かがりびかれていた。オアシスの中に比べて人の気配のない駐車場から明羽あはね達はすぐに出発する。砂漠に走り出した車の中から明羽あはねは遠い東の空に星がきらめき始めるのを見る。

「村には明日着くとして、来る時に寄ったオアシスのどこかでまた一泊するぞ」

「はーい」

「はい」

 どこかホッとしたような明羽あはね氷呂ひろの返事に少し笑ってからしなは西に浮かぶ赤い太陽に目を細める。

まぶしい……」

「ここまで来れば大丈夫かしらね」

 助手席に座る夏芽なつめが短パンに押し込んでいた尻尾を引っ張り出した。白い尾が自由を得てひらひらとれる。後部座席が空いたことで今、助手席には夏芽なつめ、後部座席に明羽あはね氷呂ひろが座っていた。しながハンドルから片手を離し、その手でもう一方の腕をさすった。

「気温が下がって来たな。一回どっかで停車してほろを張りたいが」

 しなの悩んでいる声に、遠くから地響きのようなドドッという音が混ざった気がして、夏芽なつめは車の後方を振り返る。後方は車が進む程に巻き上がる砂で何も見えない。それでも夏芽なつめはジッと背後をにらみ続けた。

夏芽なつめさん。今、何か……」

 氷呂ひろも後ろを振り向いたことで明羽あはねは何かが起こっていることに気付く。氷呂ひろ夏芽なつめの目線を追って明羽あはねも振り返るが、見えるのは巻き上がる砂ばかりだった。

しな。九十度進行方向を変えて」

「へ? 何?」

「いいから! 早く!」

 しなは慌てることなく夏芽なつめの言う通り車の進行方向を九十度変える。

 夏芽なつめは目をらす。地平線に乗っかるように見えるオアシスの影の側に黒い点がふたつあった。驚くことにその黒い点は徐々じょじょに車に近付いて来ていた。

「狩人だわ。どうしてバレたのかしら」

 明羽あはね氷呂ひろ夏芽なつめが見ている間に狩人はどんどん距離を詰める。距離が縮んだことで動物の背に乗る狩人の顔が見えた。明羽あはね氷呂ひろにとってその顔は忘れられるはずのない顔だった。

「あの狩人だ」

「ん? 明羽あはねちゃん?」

「南の町で私達を捕まえようとしてきた狩人です」

氷呂ひろちゃん。それって……」

「オアシスに来てた狩人って、あいつらだったんだ」

「あいつらは私達の顔を知っています。きっと、それで」

 明羽あはね氷呂ひろは狩人が車に追い付いて来た時のことを想像してゾッとする。

「そうだったの。よりによってね。運がいいのか間が悪いのか。でも、大丈夫よ。あの狩人は空を飛ぶ動物に乗ってないから」

 いたって落ち着いている夏芽なつめに、どういうことだろうと明羽あはね氷呂ひろそろって夏芽なつめを振り返る。

「この車はいろいろ改造してあるのよ。地を走る動物が追い付けないくらいのスピードは出るようになってるの。しな、スピード上げて。少し遠回りしてでも狩人をいてから帰りましょう」


 長い毛が全身を覆い、垂れた長い耳の後ろに太く短い角が生えている。四つ足の動物は長い毛を振り乱し、息を上げながら砂漠の上を走っていた。その背にまたがっているのは銃を持った狩人。前を走っていた車が急に方向転換をしたと思ったら、今度はスピードを上げるのを見て、グリフィスは舌打ちする。

「ちっ。スピード上げやがった」

 遠ざかっていく車に悪態あくたいを吐く。

「くそっ! またこれか! あの車改造してやがる。この『馬』じゃ追いつけねぇ!」

 余談だが狩人は移動手段に使っている動物を二種に分けて呼ぶ。空を飛ぶものを『鳥』、地を駆けるものを『馬』と。

「組合の奴等を見返せると思ったのによっ。くそっ、くそっ」

 グリフィスがすでに諦めモードに入る中、似たような動物だが毛の短い種にまたがっていたルインはつぶやく。

「『鳥』じゃないと追い付けないか」

 背後から突然響いた高い笛のに、前を走っていたグリフィスは驚いて振り返る。バサリとどこから現れたのか、人よりはるかに大きな鳥が頭上を飛んでいた。

「は?」

 グリフィスは間の抜けた声を上げた。頭上すれすれまで降りて来た鳥にルインは四つ足の動物の背に器用に立ち上がると易々やすやすと鳥に乗り移る。

「はえ……?」

 バサリと翼が空気を打つ。その光景をグリフィスはただただ見上げることしかできない。

「悪いね、グリフ。あの天使と聖獣は俺が貰うよ」

 グリフィスは豹変ひょうへんした相棒の態度に頭が追い付かない。

「お前……どうして……鳥に乗ってる?」

「俺には実績があるから」

「……は?」

「俺、今年で二十一だけど、狩人暦は十年近いんだよね」

「…………は?」

 ルインは大仰おおぎょうに両手を広げる。

「兄貴は本当にすごいよ。そもそも持ってる運の質が他人と違う。組合で初めて見かけた時は驚いたよ。こんな人間いるのかって」

 その言葉に嘘はないようにグリフィスには見えた。

「でもさ。あんた、技術がないんだよ。折角せっかくレアな亜種に相見あいまみえたとしても、それを狩るだけの技術がない。宝の持ち腐れって言うんだよ、そういうの。ああ、勿体無もったいないっ。勿体無もったいない! だったら俺が使ってやろうって思ったんだ」

 無邪気な笑顔を向けられてもグリフィスは口を開けたままルインを見上げることしかできない。何度か口を開閉して、つばをごくりと飲み込んで、やっと出た声はみっともなくかすれていた。

「なんで……。だって、お前。初めて会った時、新人だからって俺に付いてきて……」

「あはは。何言ってんの? 狩人はそもそも基本、単独行動だろう? どいつもこいつも利己的りこてきで、同じ狩人だからって協力できる訳がない。近付くのは利用する為だけだよ。年下だからって油断して、たかだか三年ぽっちの経歴しかないくせに」

 ルインは首を横に振った。

「兄貴。お別れだ! 目の前にはかつてないレア度MAXどころか振り切れてる大物! あんたはもう用済みだ!」

 翼を羽撃はばたかせてルインは鳥の高度を上げて行く。四肢ししで砂を蹴る動物と、翼で風を捕まえる鳥との距離が次第に、確実に、開いていく。

「ま、待てっ! 俺の獲物だぞ!」

 かつて兄貴と呼ばれていた狩人グリフィスは自分の乗る動物の足を速めようとするがそのスピードは一向に上がらない。

「くそ! くそっ! なんでだよ!」

 グリフィスは涙目になっていた。バカにされた悔しさと苦楽を共にしてきた筈の相棒に裏切られた空しさからあふれてきたものだった。


 少し時間はさかのぼる。ずっと後方の様子を見ていた夏芽なつめが異変に気付く。

「何?」

 甲高かんだかい笛の音が聞こえたと思ったら、上空から翼を持つ動物が一羽降りてきた。

「嘘でしょう……」

 徐々じょじょに開いていた距離が再び縮まってくる。

「まずいな」

 しなはそれをサイドミラーで確認した。

「どうしましょう」

「いざとなったら明羽あはね氷呂ひろだけでも逃がすか」

 そのつぶやきを聞いた時、明羽あはね氷呂ひろの脳裏が真っ白になった。

「何、言ってんの? しな!?」

「そんな事、私達しませんよ!」

 しなはふたりの言い分を聞いた上でそれを聞き流す。

夏芽なつめ。お前の足じゃ、逃げ切れないよな」

「ええ。無理」

 きっぱりと夏芽なつめは答える。そして、付け加える。

「でも、氷呂ひろちゃんなら逃げ切れるでしょうね」

 そのつぶやきに氷呂ひろは目を丸くして首を大きく横に振った。あまりに必死に振るので夏芽なつめは笑ってしまう。

氷呂ひろちゃん。聖獣の足はとても速いのよ。今まで本気で走った事がないのね。知らないだけよ。きっと、自分でびっくりするわ」

 夏芽なつめの言葉に氷呂ひろは何とも言えない顔をしていたが、明羽あはねはひとり納得していた。氷呂ひろは走っても走っても息を切らすことがない。きっと、そういう事なのだろうと。

「天使はどれぐらいの速さで飛べるんだろうな?」

「どうかしらね」

 夏芽なつめ明羽あはねの顔をジッと見る。

「片翼だしねえ……」

明羽あはねは南の町を出る時、狩人を振り切る勢いで飛んでました」

「え!?」

 氷呂ひろの言葉に何故なぜ明羽あはねが勢い良く氷呂ひろに顔を向けていた。

「そっか。明羽あはね。あの時、必死で飛んでたから」

「それ、鳥に乗った狩人?」

 夏芽なつめに聞かれて明羽あはね氷呂ひろうなずいた。

「あら、すごいじゃない。なら、いざという時は大丈夫ね」

 明羽あはね氷呂ひろは笑顔の夏芽なつめを見て不安に駆られる。まさか本当にしな夏芽なつめは自分達だけを逃がすつもりなんだろうかと。しなは背後の会話を聞きながらサイドミラーの奥で針を刺すように何かが光るのを見て咄嗟とっさに叫ぶ。

せろ!」

 しなは勢いよくハンドルを切った。助手席に膝立ちをして後部座席に体を向けていた夏芽なつめはバランスを崩すが、ドアのふちつかむことで何とかしのいだ次の瞬間、砂漠が爆発した。

「ななな、何!?」

 宙に吹き飛ばされた砂がバラバラと地に落ちる光景が後方に遠ざかって行く。しなが再びハンドルを切った。遠心力に勝てず、明羽あはねは隣の氷呂ひろに倒れ込む。

「ごめん。氷呂ひろ

「大丈夫」

 幾度いくどと砂漠は爆発を繰り返し、砂が巻き上がった。


 鳥にまたがるルインは足のみで器用にバランスを取り、両腕で大振りのボーガンを構えていた。

「どれ、もう一発」

 そう言うと鳥にくくり付けられていたたくさんの筒の中から、矢の先に爆薬が付けられた太めの一本を取り出す。砂漠の上で蛇行だこう運転を繰り返す黒い車の側に再度狙いを定める。


 しながすぐ側で噴水の様に噴きあがる砂に舌打ちする。

「野郎、当てる気は無いな。こっちのスピードを落とすのが目的か」

 しながハンドルをもう一度激しく切った時、ふっと車全体に影が落ちる。それは一瞬の出来事だった。

「う、わっ!」

明羽あはね!」

 明羽あはねは上へ引き上げられるような突然の感覚に目をつぶっていた。氷呂ひろ切羽詰せっぱつまった叫びが下方に聞こえ、奇妙な浮遊感に明羽あはねは混乱する。恐る恐る目を開けると半分群青色濃く、半分真っ赤に染まった空が見えた。何らかの力によって宙に放り出されたのだと分かった時、明羽あはね肩甲骨けんこうこつに力を入れていた。

「ダメよ! 明羽あはねちゃん!」

 強い力に体全体が持っていかれ、翼の付け根に激しい痛みが走り、背中の肉が引きつる感覚に明羽あはねの口からうめき声がれた。バサリという自分のものとは違う羽音に明羽あはねは首をひねってその正体を見る。

「わざわざつかみやすくしてくれて、ありがとう」

 明羽あはねの翼を人より大きな鳥の太い足がつかんでいた。その上で若い狩人が楽しそうに笑う。


 しなは急ブレーキを踏み、激しくハンドルを叩く。

「くそっ!」

 止まった車から狩人がどんどんと遠ざかって行く。

「追いかけ……」

 夏芽なつめが言葉を発するのと、ガチャリとドアが開く音がしたのは同時だった。氷呂ひろが砂を踏み締め走り出す。それを見た夏芽なつめの顔から血の気が引いていく。

「ちょ、ちょっと……。氷呂ひろちゃん! しな、早く追いかけて!」

「分かってる!」

 しなはアクセルを踏み込んだ。


「さて、本当は聖獣ちゃんも欲しかったんだけど。天使は捕まえたから。まぁ、良しとするか」

 明羽あはねは頭上から降ってくるルインの声を聞きながら拘束こうそくから逃れようと手足をバタバタしたり翼を動かそうとするが、鳥の太い足は明羽あはねの翼をがっちりとつかんでびくともしない。明羽あはねは暴れるのに疲れて手足から力を抜いた。文字通り、宙ぶらりんの状態になる。

明羽あはねっ」

 真下から聞こえてきた切羽詰せっぱつまった声に明羽あはねは目を丸くした。宙ぶらりんの明羽あはねの真下を氷呂ひろが走っていた。明羽あはねは自分の見ているものが信じられない。

氷呂ひろ……。来ちゃだめだ」

「あれ? 聖獣ちゃん追いかけて来てるじゃないか。いいね。さすが純血の聖獣。その足の強さと速さには感服するよ。このまま聖獣ちゃんにも付いて来てもらおう」

 ルインの笑い声に明羽あはねは必死に脳をフル回転させる。どうやったら氷呂ひろに追いかけるのをやめさせられるだろうかと。


 車で明羽あはね氷呂ひろを追いかけるしな夏芽なつめは無情にも狩人から距離を離されていく。

「……ダメだ。追いつけねぇ」

しな! 運転変わって!」

「はあ!? お前が運転したって変わんないぞ」

「分かってるわよ! あんたはあの鳥、撃ち落として!」

 ヒステリックに叫ぶ夏芽なつめしなはギョッと目を見開く。

「正気か!?」

「こんな時に冗談なんて言わないわよ!」

 そう夏芽なつめは言うが、しな夏芽なつめが正常な判断ができているとは思えなかった。

明羽あはねがくっついてるんだぞ?」

「何よ、その目は。分かってるわよ。無茶なことを言ってることぐらい。でも、隙ができるかもしれない。だから、構えるぐらいしなさいよ!」

 ふたりはしばしお互いの目の色を見つめ合う。

「分かった」

 しな夏芽なつめは車のスピードを落とさないようにしながらお互いの場所を入れ替えた。

「はぁ。大分遠いな」

 前方に点の様に飛ぶ鳥との距離を見てしなはため息をつく。

「こりゃ。かなり圧縮しないと届かないぞ」

「できないの?」

おおせのままに……」

 しなは深く息を吐き出し、吐き出し切ってから今度はゆっくりと息を吸い込む。靴を脱いで座席の上に立ち、両腕をまっすぐ前へ突き出す。指の間から狩人の乗る鳥を見据みすえる。いつの間にかしなの頭にはねじれた細い二本の角が生えていた。


 明羽あはねは眼下を走る氷呂ひろに向かって叫ぶ。

氷呂ひろ! 来ちゃダメだ!」

「イヤだ! 追いかけて欲しくなかったら早く降りてきて!」

「そんな……。できたらやってるよ……」

 明羽あはね氷呂ひろの無茶振りに悩むも、走りながら明羽あはねを見上げる氷呂ひろの瞳は真剣そのものだった。明羽あはねはその瞳をじっと見つめてうなずく。

「がんばる」

 明羽あはねは鳥の足に手が届かないかと試みるが変な風に自分の翼がねじれ、痛みをともなったので断念する。明羽あはねが変な動きをしたのを感じたルインが明羽あはねを見下ろす。そこで初めて明羽あはねの髪に緑色の石が飾られていることに気付く。

「あれ? そんな髪飾り付けてたっけ? 付けてなかったよね。でも、うん、悪くない。女の子は飾り付けると値段が跳ね上がるから」

 ルインの言葉に明羽あはねはカチンときた。腹の底から湧き上がってくるとても熱いものに突き動かされるように明羽あはねは叫ぶ。

「これは、そんなものの為に付けてるんじゃない!」

 突風が吹いた。ルインがまたがる鳥の横腹を殴り付けるように強く吹く。バランスを崩した鳥は態勢を立て直す為に幾度いくども翼を羽撃はばたたかせた。ルインが手綱たづなを引き、主導権を取り戻すと明羽あはね拘束こうそくしていた鳥の足から力が抜けた。明羽あはねはゆっくりと下降し始める。


「今!」

 夏芽なつめが叫ぶとしなは伸ばした腕の先に集中する。真っ黒いものが四方へ噴き出したかと思うと一瞬で収縮し、軽く握り込める大きさになった黒い球体が狩人へ向かって目にも止まらぬ速さで撃ち出された。撃ち出された一瞬だけしな夏芽なつめの周りから音が消える。


 ルインは言い知れぬ圧力を感じて振り返る。

「なっ……」

 ルインが肩越しに黒い球体を見た瞬間に明羽あはね氷呂ひろの前から狩人の姿は消えていた。確かに今の今までそこにいたはずなのに忽然こつぜんと姿を消した狩人に、明羽あはねは宙に静止したままポカンと狩人がいた筈の場所を見つめる。明羽あはねまばたきを繰り返し、今見た筈の事柄を頭の中で振り返る。黒い球体が狩人に触れた瞬間、闇が狩人をみ込んだ。狩人をみ込むと役目は果たしたと言わんばかりに闇も共に消えたのだ。

「い……たた」

 氷呂ひろが両耳を押さえて眉間みけんしわを寄せているのを見て、明羽あはねは慌てて側に着地する。

氷呂ひろ。大丈夫?」

「うん、大丈夫」

 氷呂ひろ眉間みけんからしわが消え、明羽あはねがホッと胸をで下ろすと、左背にのみ生える四枚の翼が霧散むさんして消えた。


「大丈夫か?」

 そうしなに聞かれて夏芽なつめは目を開けた。両耳から手を放す。

「ええ。大丈夫」

 しなが助手席からハンドルに手を添えていた。驚くことに夏芽なつめはハンドルから両手を離しているというのにアクセルは踏みっぱなしだった。その現状にしなはやや恐怖を感じたが感心もする。夏芽なつめはそれだけ明羽あはね氷呂ひろを案じている。

「大丈夫よ。明羽あはねちゃんと氷呂ひろちゃんをむかえに行きましょう」

 夏芽なつめがハンドルを握ったのを確かめてしなは添えていた手を離した。


 明羽あはね氷呂ひろは群青色の占める割合が多くなった空を見上げる。

「何が起こったんだと思う?」

「分からない」

 太陽は地平線に半分姿を隠していた。エンジン音が近付いてきて明羽あはね氷呂ひろは音のする方へ顔を向ける。ふたりの目の前に停車したのは年季の入った一台の黒い車。

「お待たせ。明羽あはねちゃん、氷呂ひろちゃん」

 夏芽なつめの顔を見て明羽あはね氷呂ひろはホッとする。助手席ではしなが座席に身を沈め、ぐったりとしていた。

「角だ!」

「本当だ」

 明羽あはねが大きい声を出し、氷呂ひろも目をしばたく。

「ああ、うん」

 しながそう言うとその頭に生えていた二本の角がふっとき消える。

「すごい……」

「ということは、さっきのはしなさんがやったんですか?」

「察しがいいわね。その通りよ。さ、ふたり共、乗って乗って。さっさとここから離れましょう」

 明羽あはね氷呂ひろが乗り込んだのを確認し、夏芽なつめは車を発進させようとする。

「なんだ、今のは!?」

 荒っぽい声に四人が顔を向けると、毛の長い四つ足の動物にまたがった狩人だった。グリフィスは肩で息をし、だくだくと汗をかく。髪が額に張り付いたその見た目はみすぼらしい。動物もぐったりとしていて首を垂れ、口でゼエゼエと息をしていた。

「そういえば、珍しくふたり組みの狩人だったわね」

 夏芽なつめが何事もなかったかの様につぶやく。

「何をしたんだ、テメエら! 消えたぞ、あいつ!」

「……うるせえな」

 酷く不機嫌な声だった。全員の視線が向けられた先でしながのそっと体を起こす。

「俺があいつを闇に落とした」

「や、闇……?」

「ああ、闇だ。その先にあるものが生か死か。自分の目で確かめに行ってみるか? 今すぐ同じ場所に落としてやるよ」

 しなが手をゆっくり上げるとグリフィスは動物の手綱たづなを引っ張り一歩二歩と後ずさった。

「お、覚えてろよ!」

 そんなありきたりな捨て台詞ぜりふを吐いてグリフィスは動物を方向転換させた。動物はノシッノシッと重そうに歩き出す。

「走れ!」

 グリフィスが命令してやっと動物はゆっくりと走り出した。走り出すが足元はおぼつかず。とても最高速には達していない。狩人が遠退とおのいて行くのを見ながら夏芽なつめはアクセルを踏み込んだ。狩人が去ったのとは逆の方へ走り出す。

 夏芽なつめは隣を見ずにため息をつく。

「もう、体力残ってないでしょうに」

「……腕が痛え」

「でしょうね!」

 暗闇に沈もうとする砂漠に夏芽なつめはヘッドライトのスイッチを入れる。標は腕を抱え直して再び助手席に埋没まいぼつする。明羽あはねは助手席を覗き込み、しなに何か言おうとして、今聞くべきことか悩んで口を閉ざす。

「どうした?」

 しなの声は狩人に向けられたものとは打って変わって優しかった。

「えっと。しなは結局、何の種族なの?」

「あら!? まだ、言ってなかったかしら?」

 夏芽なつめ頓狂とんきょうな声を上げた。

しなはね、悪魔よ。しかも、数少ない純血の」

「悪魔! へえ」

「じゃあ、あの角が」

 氷呂ひろも興味があるのか前のめりになる。

「そうね。悪魔の特徴と言えるわね。それから、存在する物なんでも呑み込んじゃう闇の塊みたいなものを作り出せるんだけど。空気も吸収しちゃうから一瞬音も聞こえなくなっちゃうのよね。音が急に消えると耳の奥が痛んじゃってねー」

 明羽あはねは狩人が姿を消した時、氷呂ひろが耳を押さえていたのを思い出す。夏芽なつめが色々説明してくれていたがその間、しなはただただ助手席に黙って埋まっていた。

「闇に落としたって言ってたけど……。殺しちゃったの?」

 もう身体を動かす気力もないのかしなは瞳だけを明羽あはねに向けた。

「いや、死んではいない筈だ。どこに行ったかは分かんねえんだけどな」

「分かんないの? だって、さっき……」

「そう。分からないんだ。さっきのはおどし。はったりだ。だが、生きてはいるはず。昔、俺がまだ力加減できなかった頃。うっかり知り合いを落としちまったことがあったんだが」

「え」

「俺が二週間探し回っても見つけられなくて。絶望し掛けて呆然としているところにその人は帰ってきた。ボロボロになってな」

「良かったね!」

 明羽あはねが声を明るくしたのに反してしなの声は低くなる。

「良かったと、言えるのか……。その後すっげぇ怒られたんだ。血走った目で『闇を見たぞ……』とか重低音で言われてみろ。普段口数少なくて威厳いげんという言葉の塊みたいな人が本気で怒ってた。縮み上がったぜ」

 その時の事を思い出したのかしなが身体を震わせた。どれほどその人が恐ろしいかをしなは語って聞かせたが、その言葉の端々はしばしに信頼と尊敬が見え隠れするので、明羽あはねは思わず笑ってしまう。

「……明羽あはね。なんで笑う」

「うん。ごめん」

「たく。お前、知らねぇから……」

 しなはブツブツまだ何か言っていたが明羽あはねは静かに後部座席に戻る。氷呂ひろ明羽あはねの隣に戻ってその手を握った。明羽あはねはその手を握り返すと、気が抜けたのか大きな欠伸あくびが出た。

「さ。後はもう帰るだけよー」

「うん」

 夏芽なつめの声に明羽あはねは眠気に半分負けながら答えた。気温が急速に下がってきていた。ひんやりとした風が吹き抜ける。空にはすでに多くの星がまたたいていた。

                                  了

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