第1章(6)
その日、村を取り巻く嵐はあまりやる気がないようで空の青が見え隠れしていた。
「よし」
見上げていた空から目を下ろし、標はひとつ頷いて村の外れへと向かう。
「明羽」
呼ばれて、畑仕事に精を出していた明羽は顔を上げた。畑には今、明羽と発案者の男性以外に数人の村人達がいた。畑に実りが付き始めて手伝いに来てくれるようになった村人達だった。そんな村人達がやって来た標になんだろうと注目する。
「標。どうしたの?」
「ちょっと出掛けないか?」
明羽は首を傾げた。
「……でかけ……?」
「あの後、何度か村の外に出たんだが噂の信憑性が本格的に疑われ始めてる。矛先が、いるかいないんだかはっきりしないお前達より、噂の出所になった狩人達に向かい始めた。責められる方にな。南の町には連れてはいけないが他のところなら連れて行ってやれそうだ。どうだ? 一緒に来るか?」
「……どこ行くの?」
「トリオが持って帰って来た鉱石類を売りに行く」
聞き慣れない言葉が出て来て明羽は思わず聞き返していた。
「とりお?」
「前に少し話しただろう。車の話をした時。その時一台無くてまだ帰って来てない奴らがいるって」
「複数形では言ってなかったと思うけど」
「とにかく頼りになる仲良し三人組がいるんだよ」
「その三人いつ帰って来たの? 私まだ会ってない気がする」
「三人揃って極度の人見知りだからな。まあ、その内会えるさ。で、行く気はあるのか? ないのか?」
明羽の答えは決まっていた。
「行く! ちょっと待ってて。氷呂呼んで来る!」
「おう。倉庫のところで待ってるからな」
「分かったー!」
明羽は既に走り出していた。明羽が畑をほっぽり出して行ってしまったことに標が気付いて畑を振り返ると発案者の男性と目が合う。
「悪い」
「構わないよー」
快く了承してくれた発案者の男性は走り去る明羽の後ろ姿を微笑ましく見送っていた。標も釣られて微笑むが積み荷満載の車を思い出して思わず呟く。
「乗れっかな?」
畑から離れて村の倉庫側。車の側で標が待っていると間もなく明羽が氷呂を伴ってやって来た。
「お待たせ! 標!」
「おう。よく来たな。明羽、氷呂。そして……なんでお前までいるんだ」
「何よ。来ちゃ悪いっての?」
夏芽は白い尾を左右に振りながら不満そうに言った。
「診療所は謝花ちゃんに任せてきたわ。最近よく手伝ってくれて大助かり。何よ。乗れないことはないでしょう? 車は色々改造して馬力はあるし。それに私、そんなに重くないわよ?」
「標さん。私、行くのやめましょうか?」
「いや、氷呂。お前はいいから」
暫し標と夏芽は睨み合う。標がガックリと項垂れた。
「分かった。乗り心地は最悪だと思うが。誰かが後ろに乗れよ」
「いいわ。私が乗るから。明羽ちゃんと氷呂ちゃんは助手席に乗って。少し狭いかもしれないけどふたりなら乗れるわ」
明羽は良く見ていなかったそこにある車を改めて見る。幌が取り払われてオープンになっている一台の黒い車。その車の本来後部座席にあたる場所には幾つもの箱が満載で座れるところなど一切なさそうだったが明羽の心配など余所に夏芽はヒラリと箱の上に飛び乗った。
「よーし。出発するぞ。明羽と氷呂も乗れ」
四人と大量の箱を乗せた車は重そうにエンジンを唸らせながらゆっくりと発進した。あの、薄い膜を通り抜けるような感覚を明羽は覚える。
「うぶ」
あの時程ではないとはいえ、明羽は吹く風と舞う砂に目を閉じていた。
「この一帯を抜けるまでの辛抱な」
「うん。うん?」
「うふふ。このまま乗ってればすぐに分かるわよ。今日は本当穏やかね」
「これで穏やかなんですね」
標と夏芽との感覚の違いに氷呂が戸惑う。暫くみんなだんまりで揺られていると不意にその瞬間は訪れた。パアッと急激に視界が真っ白な光に包まれて明羽と氷呂は目が眩む。
「何? 何ごと!?」
「明羽! 大丈夫?」
「あはは。ふたりとも落ち着きなさいな。ゆっくり目を開けてごらんなさい」
夏芽の笑い声に明羽と氷呂はゆっくりと目蓋を開く。目の前に広がるのは上下に世界を二分する広大な砂漠と真っ青な空だった。
「う、おう……」
「久しぶりに見たね……。明羽……」
そうだったと明羽は思う。南の町にいた時は砂避けの壁の上から何度となく見た光景。それを明羽は今、酷く懐かしく美しいと思った。
「本当だね。氷呂」
明羽は後方を振り返る。そこにあるのは風吹き荒び砂舞う光景があたかもそそり立つ壁のような砂嵐だ。
「すごい……。すごい光景だ」
「私達さっきまであの中を走ってたんだね」
「ね」
車が進む程に自然が作り出す世にも不思議なその光景はゆっくりと遠ざかっていく。遠ざかる程に明羽達を取り巻く風は穏やかになっていった。後方に流れゆく砂紋がなければ止まっているのではないかと錯覚してしまいそうな光景の中、車は後方に砂を巻き上げながら進んで行く。空には真っ白な太陽と寄り添い浮かぶ月が見えている。
「……暑い」
「日差しがすごいね」
明羽はじんわりと額に浮かんだ汗を拭う。
「お水飲む?」
氷呂が袋状になっている袖の中からとても小さな木製の水筒を取り出した。それは本当に小さな、カップ一杯分に足りるかどうかという大きさの水筒だった。
「おお。水筒だ。ちっちゃい。いつの間に?」
「棟梁が村の食器類とかも作ってるんだけどね」
「え? そうなの?」
「そうだよ。知らなかった?」
「知らなかった。器用だなあ。あのおっちゃん」
「それで、よく遊ぶ子供達の為に端材を使って水筒も作ってたらしいんだけど。これは作ったはいいけど小さ過ぎて使い勝手が悪いってことで端に置かれて忘れ去られてたのを先日私が見つけて、貰ったの」
「氷呂のコミュ力に脱帽。お呼ばれでもしたの?」
「そんなところ。でも、明羽だってもうみんなと仲良しでしょ」
「うーん。最近は畑と寝床の間を往復してだけだからな」
「で、お水飲む?」
「うん。欲しい」
氷呂が蓋を開けた水筒を明羽は受け取り、中身をちょっと口に含む。
「おお。冷たくておいしい」
「もっと飲んで大丈夫だよ」
「いや。大丈夫」
「そう? 標さんもどうですか?」
「本当か!?」
見れば標はだくだくと額から顎にかけて汗を流し、来ている黒いシャツに染みを作っていた。
「わあ。標大変だ」
「どうぞ」
氷呂から水筒を受け取ると標は何度も確認する。
「本当に飲んでいいんだな? 飲んでいいんだな?」
「大丈夫ですよ」
氷呂にお許しを貰って標はクッと水筒の中身を喉に流し込んだ。流し込む。流し込む……。
「減らないんだが……」
「不思議ですねえ」
氷呂がすっとぼけた。
「まさに無限に湧く泉ねえ。改めて見てもすごいわ」
後部座席から呟いた夏芽を氷呂は振り返る。
「夏芽さんは」
「私は大丈夫よー。私にとっては気持ちいい日差しだわ。風もあまりないし。とても気分がいいわ!」
夏芽の言葉を聞きながら標が仏頂面になったのは言うまでもない。
太陽が天頂を超えようかという時刻に差し掛かる頃、エンジン音が響く中、明羽は不意にあることに思い当たって標を仰いでいた。
「そう言えば私達どこに向かってるの?」
「今か!?」
予想外過ぎる問い掛けに標は思わず叫んでいた。
「鉱石類を売り行くとは聞いたけど具体的にどこに行くとかは聞いてなかったなと思って」
「そう言えば、言ってなかったか」
起伏のないまっ平らの砂漠に障害物など無いに等しいが標は前方から目を放さずに、または目印の殆ど無い砂漠の上、向かう先を見失わないように前方から注意を反らさずに語る。
「俺達が今向かってるのは東の町と南の町のちょうど間ぐらいに位置する小さなオアシスだ。そこに馴染みの店があって石はいつもそこに買い取ってもらってるんだ」
「へえ」
「けど、その前に」
明羽は何か見えた気がしてパッと前方に目を向ける。まだ遠い地平線の上、僅かに見え始める影。それは徐々に大きさを変え、色を変える。太陽に照らされて真っ白な砂漠の上に緑色が浮かび上がっていく。標が車のスピードを緩やかに落とす。緑の影の下、車のエンジンが止まると風に吹かれて緑が揺れてザワザワと音が響く。明羽と氷呂は頭上に、目の前に広がる光景にポカンと口を開けた。
「よし。ちょっと休憩な」
「了解」
車が止まると夏芽はすぐに箱の上から軽やかに飛び降りる。標は車から降りると大きく伸びをし、体を前に折ったり後ろに反らしたりした。首を回し、肩を回す。
「あー疲れる」
「労ってなんてあげないわよ」
「別に欲してねえよ」
夏芽が笑うのを見ながら標は軽くため息をついた。そして、乗車人数に対して降車人数が足りていないことに気付く。
「どうしたー。明羽、氷呂?」
呼ばれて明羽と氷呂はやっと、恐る恐る車のドアを開けた。
地面は見知った砂地だったが大きな葉に背の高い木々や地面近くにこんもりと茂る低木が群生している光景はあまりに見知ったものと違っていた。
「……知識としては知っていたけど」
葉と葉の隙間から光が降り注いでいる。風が吹くと形の変わる光と影。
「すごいね」
「本当に」
「世界にはこんな場所があるんだね」
「ね」
並んで木々の合間を見上げているふたりに、
「本当に来たことなかったのね。明羽ちゃんと氷呂ちゃん」
「そうだな。連れて来て良かった」
標と夏芽は頷いた。
「明羽。氷呂。これからの行程を軽く説明するぞ」
目の前の光景に見入っていた明羽と氷呂は分かりやすくハッとしてから標の元へ走っていく。
「目的地のオアシスにはここみたいな無人の小さなオアシスを何度か経由しながら目指す。一泊は野宿するからそのつもりでな」
「野宿!」
「初めてのことだらけだね。明羽」
「聞いてないんだけど!?」
まさに三者三様の反応だった。
「いや。村出るの昼前だったし。それぐらい予想しといてくれよ。どう考えても一泊は確実だろ」
「むう。確かに」
「偶にはいいだろ。ゆっくり行くのも」
「……ふーん」
「なんだよ」
「別にー?」
標は嫌な予感がして身構えた瞬間にバシッと肩を叩かれた。
「イッテ」
「良かったわね。明羽ちゃんと氷呂ちゃん。とっても楽しそう」
夏芽が少し意地の悪い笑顔をした。村から目的地のオアシスには確かに朝早くに出れば十分にその日のうちに到着できる道のりではあった。実際、標はいつもそうしていた。けれど今回は旅に慣れていない人物を誘って行くことを念頭にゆっくり行くことを決めていた。計画を立ててから声をかけた為、断られることも覚悟していたが行きたいというならきっと初めて見るものばかりだろうと。ただ、人数が増えたのは標にとっては想定外だった。特に三人目。伊達に長い付き合いをしていないとはいえ、こうも思惑を察せられるとばつが悪かった。その心情さえ察しているのかまでは分からないが夏芽は上機嫌に尾を振っている。
「明羽ちゃん。氷呂ちゃん。もう少し中の方歩いてみる? 案内するわよ」
「夏芽さん。ここ来たことあるの?」
「ええ。外へ出た時の経由地は大体決まっているから。私も何度か来たことあるの。標程しょっちゅう出かけている訳ではないから数える程だけど」
「付いて行きます!」
「お願いします」
「はーい。まずはこっちよー」
木々の合間を分け入っていく夏芽の後を明羽と氷呂が追い掛けて行く。小さいオアシスだから迷うことなどないとは思ったが標もその後に付いて行った。
四人は一列になって木々の合間を歩く。
低木の枝が足に当たるのが気になり明羽は振り返っていた。明羽自身はパンツにブーツで肌の露出がないから問題ないのだが氷呂はロングとはいえスカートだった。
「氷呂。大丈夫?」
「うん。まあ大丈夫」
裾が枝に引っかからないように持ち上げている氷呂に明羽は氷呂の歩く場所を少しでも楽にできないかと出っ張っている枝を押すも生木は生命力の強さを示すように跳ね返ってきた。
「平気だよ。明羽」
「うん……」
「明羽。夏芽に渡してくれ」
見兼ねたのか最後尾を歩いていた標が明羽にある物を手渡した。受け取った明羽は目を丸くする。
「重っ! え? なにこれ?」
「なにって、ナイフだよ」
そのナイフの大きさは鞘に収まっているとはいえ、明羽の指先から肘までの長さがあった。
「先頭歩いてる夏芽にこれで飛び出してる枝、切り落としてもらえ」
「呼んだ?」
振り返った夏芽は立ち止まった三人よりもやや先に行ってしまっていた。ちなみに当の夏芽はショートブーツに短パンであるにも拘らずその生足には傷ひとつできていない。
「ごめんねー。気付かなくて」
夏芽は手慣れたように低木の枝をバッサバッサと切り落としていく。正確に落とされた枝の切り口はあまりにも綺麗で、明羽はあの重いナイフを易々と扱う夏芽に尊敬の念とも畏敬の念とも言えないものを抱く。
「夏芽さんって結構鍛えてるのかな」
「医者ていうのは結構体力使うらしいからな」
明羽の呟きに標が答える。
「鍛えてるっていうより気付いたら鍛えられてたってとこか。集中力も体力も、日々研究も怠らない。あいつは偉いよ。本当に偉い。だから、細く見えるからって絶対に喧嘩は売らないようにな」
「妙に説得力あるね」
「なんか言った?」
ナイフ片手に振り返った夏芽に明羽と標が揃って首を横に振った。ふたりの間で氷呂がクスクスと笑う。そんな氷呂がふと顔を上げた。
「どうしたの? 氷呂」
「明羽。水の気配がする」
「さすが氷呂ちゃん。はい。とうちゃーく」
夏芽がナイフを鞘に納めて更に進むと小さく開けていて明羽の耳にもその音が聞こえてくる。葉擦れの音に交じるせせらぎの音。木の根元から湧き出した水が小さな段差を降りて小さな小さな水溜りを作っていた。
「綺麗な水」
「氷呂ちゃんが言うなら間違いないわね」
ふたりの言葉を受けて明羽は水溜りに近付こうと一歩を踏み出した。
「あ。明羽ちゃん」
夏芽が声を発するのとほぼ同時に明羽は派手に顔面から地面に倒れ込んでいた。
「そこ、木の根が出っ張ってるから気を付けてね。って、遅かったわね」
砂地だった為、そこまで体にダメージはなかったが心にダメージを受けた明羽はすぐに置き上がることができない。
「お約束だな。明羽」
「大丈夫?」
「うう」
明羽は氷呂の声に何とか顔を上げた。小さな水溜りの中で何かが光って明羽は見る。それはキラリと時に水の屈折でゆらりと光を放っていた。
「なんかある」
「え?」
明羽は立ち上がると服に付いた砂も落とさず水溜りに近付いてそっと指を差し込んだ。水はヒヤリと冷たかったが柔らかく、優しく、心地よい。指先に固いものが触れて明羽はそれを掴んだ。
「石だ」
「石!?」
石という単語に標が声を上げた。それは今までに聞いたことのない大きな声で明羽と氷呂がびっくりする。
「ちょっと見せてくれ」
詰め寄ってくる標に明羽が見せたのは表面のつるりとした手の平大の青い石。それを見た標は、
「見たことない石だ」
石を手にクルクルと回し四方から眺め回す。中を覗き込むように顔を近付けたり、離したり眺め回す。
「今まで何度もこの湧き水使ってたのに気付かなかった。もしや……この小さなオアシスには今まで気付かなかっただけでお宝が眠ってるのか!?」
青い石を明羽に返すと標はあっと言う間にその姿を木々の間に消してしまう。一瞬見えた標の顔は探検や冒険を前にした少年のようだった。
「標」
「標さん」
「スイッチ入ったわね」
「……スイッチ」
「ですか……」
頼りになる、と思っていたお兄さんの思わぬ一面に明羽と氷呂は黙り込む。
「今きっと車に道具取りに行ったわよ」
良く知っているのか夏芽は可笑しそうに笑っていて、その姿に明羽と氷呂は標の新しく知った一面を数秒後には受け入れることができた。暫くして、カーンと硬い石に金属が打ち付けられる甲高い音がオアシスの中に響き始める。
「標が始めたわね。休憩のつもりが長くなりそう。明羽ちゃん、氷呂ちゃん。これからどうする? 私、案内するって言ったけど。ここ本当に小さなオアシスだから正直見る物なんてもうないのよね」
「じゃあ。ちょっと歩き回ってみてもいい?」
「ええ。もちろん」
夏芽が持っていたままになっていた標のナイフを借りて、明羽と氷呂はその場を後にする。夏芽は手を振って明羽と氷呂を見送った。明羽は氷呂の前を歩いて夏芽のように枝を切り落とそうと試みるが重いナイフは狙ったところにまるで当たらず。それどころか気を抜くと振り下ろした瞬間に手からナイフがすっぽ抜けてしまいそうになって明羽はもっと筋力を付けようと心に誓う。ナイフをちょっと置いて右手をぶらぶらと振った。
「夏芽さんは、ひとり残ってどうするのかな?」
「え?」
明羽の手付きをハラハラしながら見ていた氷呂は急な質問にすぐに頭が追い付かない。
「えっと……そうね。でも、私達と違って夏芽さんはここに何度か来たことがあるって言ってたし。自分なりの暇潰しを持ってるんじゃないかな」
「なるほど。オアシスで楽しむ方法があるなら、教えてもらいたいよね。後で聞いてみようかな?」
そんなことを明羽と氷呂が話していた頃、このオアシス唯一の水源に残された夏芽は、
「さて、私はどうしようかしら。ここでできることなんて何もないのよね。明羽ちゃんと氷呂ちゃんに付いて行けばよかったかしら」
とため息をついていた。
明羽はじんわりと額に浮いてきた汗を拭う。出っ張っている枝を一本切り落とした時、その先に木が生えていないことに気が付いた。
「端っこだ」
重いナイフを振るのに一生懸命で前を全然見ていなかった。初めてのオアシスを見て回るつもりだったのにそれをすることをすっかり忘れていた。明羽は息を吐く。目の前に広がる砂漠には何もなかった。熱せられた空気で地平線がゆらゆらと揺れている。太陽に照らされて真っ白に輝く砂漠と光の遮られた日陰の下のこちら側。内と外の違い過ぎる空気に明羽は自分の立っている場所が分からなくなるような感覚に襲われて少し不安になった。
「明羽」
すぐ側から聞こえた優しい声に明羽はハッとする。
「氷呂」
「少し休憩しよう」
「うん」
オアシスと砂漠の境目でふたりは腰を下ろす。木洩れ日の下、明羽は拾った青い石を掲げる。その石は冷たくもなければ温かくもない。水の中に長くあったのか凹凸は少なく、不思議と手に馴染む石だった。掲げながら明羽は石の中を覗き込む。濁った石は光を通さない。
「標が石を売りに行くって言ってたけど。この石もいくらかになったりするのかな?」
「後で標さんに聞いてみる?」
「うん。そうしよう」
それから明羽と氷呂はふたりで少し景色を眺めてから、オアシスをもう一回りする。本当に小さなオアシスで、気付いたらふたりは車の止まっている場所に戻ってきていた。後部座席に箱を満載にした黒い一台の車の側には色白の美しい女がひとり、白い尾をゆっくり左右に振りながら立っていた。
「夏芽さん」
「あら、おかえり。明羽ちゃん、氷呂ちゃん。どうだった? 初めてのオアシスは」
「静かでいいところだね。昼間なのに涼しいし」
「木漏れ日がとても綺麗で。美しいところですね」
「ふふ。ふたりのいい思い出になったみたいで良かった」
夏芽が朗らかに笑った時、ガサガサと木々を掻き分けて黒い服に身を包んだ背の高い男が現れる。
「標」
「標さん」
「……何もなかった」
その落ち込みようはどう言葉をかけようか悩んでしまう程だった。
「標。えっと、この石なんだけどさ」
明羽が青色の石を差し出す。
「少しでも足しにならないかな?」
「ありがとな。明羽。着いたら聞いてみよう。とりあえずそれまでは明羽が持っててくれ」
「うん」
標は気を取り直すように一度深く息を吐き出した。
「よし。出発しよう」
それからは僅かな差異はあれど似たようなオアシスを幾つか経由して、その日最後に寄ったオアシスで一泊する為、車と木々の間にロープを張って簡単なテントを作る。凍える砂漠の夜。遮るもののない砂漠の上で明羽と氷呂は頭上を埋め尽くす幾万の光の粒に目を奪われて立ち尽くした。その後ろ姿を夏芽が見守り、標は薪の側でひとり何枚もの毛布に包まり寒さに耐えていた。
その日の朝も砂漠は快晴だった。車にあらかじめ積まれていた保存食の缶詰や乾燥したパンで朝食を取った後、四人を乗せた車は再び砂漠を走り始める。
一台の黒い車が砂漠の上を走っていた。後部座席には箱が一杯に積まれ、その上には色白の美しい女がひとり。運転手は黒い服に身を包んだ青年で、助手席には十代半ばと思われる少女がふたり。ひとりは緑を帯びた黒髪の少女。もうひとりは長い青い髪を風になびかせた見目麗しい少女だった。
「夏芽。尻尾隠しとけよ」
「分かってるわよ」
夏芽が短パンに尻尾を押し込んでいるのを見て、明羽は首を傾げた。車の進む先に明羽が目を戻した時、地平線の上に黒い影が浮かび始めていた。
「目的地?」
「ああ」
地平線の上の黒い影が大きくなっていく。近付く程に黒が緑に変わっていくのだが今まで立ち寄って来たオアシスとは比べ物にならない大きさのオアシスに明羽は言葉を失う。近付く程に緑の中に四角い明らかな人工物が見えて来て、それが建物だと分かった時、明羽は今向かっている場所が人間の住むオアシスであることを思い出す。忘れていた訳ではないのだが、ただ、ここに来るまでに立ち寄って来たオアシスは本当に小さくて生き物の気配を感じることはなかったものだから明羽は油断していた。
「標」
「ん?」
「標は、人間が怖くないの?」
突然の質問に標は明羽をチラと見た。
「怖いのか?」
標は明羽が狩人に追われて村に辿り着いていたことを思い出す。
「私はさ。私と氷呂はさ。人間に育てられたから。周りにいる人みんないい人だったし。私達のこと知らなかったからそうだったのかもしれないけど。でも、思うんだ。嫌な奴は誰が相手でも嫌な奴だって。だから、私は人間を怖いとは思わない」
明羽が氷呂に目を向けると氷呂は頷いた。
「村のみんなは人間を怖がってるでしょ?」
「ああ。そうだな。みんな村の外に出たがらない」
「でも、標と夏芽さんは違うようね。今一緒に出掛けてるし」
「俺は村の資金繰りの為だからなあ」
「でも、仕方なくとか嫌々じゃないでしょう?」
「まあ、な」
標が笑いながらハンドルを切る。オアシスを回り込んでいく。
「確かに好きでやってるな。俺はお前らと違って人間に育てられた訳じゃないが人間に追われて村に辿り着いた訳でもないからな」
「そういえば標が村に来た経緯は特異よねー」
夏芽が前に身を乗り出す。
「それを言うなら夏芽だってそうだろう」
言い合って何かを思い出したのか標と夏芽はどこか懐かしそうな顔になった。
「私はね、自分の意志であの村に留まることを決めたのよ。だけど標はある人に村に置いて行かれたの。アハハ!」
「笑ってんじゃねえ。俺の育ての親なんだがなー。まあ、その話はまた今度にしよう。今言えるのは俺も夏芽も人間を怖いとは思ってないってことだな」
「狩人は嫌いだけどね」
夏芽の最後の一言に明羽は何度も激しく首を縦に振り同意を示した。太陽が天頂に届き掛けていた。四人の乗った車がオアシスを回り込んでいった先に木々が途切れている箇所が見えてくる。そこにあったのは日光が車に直接当たらないように庇が掛けられた大きな駐車場。その入り口には小さな小屋が建っていて標の運転する車が近付くとひとりの男が出て来た。
「午前の客はあんた等が最後だな」
「そうか。これから昼休憩か?」
標がそんな世間話をしながら男に何かを手渡す。
「空いてるところに好きに止めてくれ」
「ああ。ありがとう」
標は車を発進させた。
「標。あのおっちゃんに何を渡してたの?」
明羽の問いに夏芽が答える。
「お金を払ってたのよ。この駐車場は利用料がかかるの。いい商売よねえ」
整然と並ぶ車はどれも同色で駐車場は黒一色で埋め尽くされていた。その黒の中をゆっくりと明羽達の乗る車は進む。駐車場の中は至って人工的だったがその周囲にはここに至るまでに立ち寄って来たオアシスで見て来たものと同じ種類の木々が生い茂る。
「ここも間違いなくオアシスなんだね」
「こんなに大きなオアシスもあるんだね」
「ここはオアシスの中でも中くらいの広さのオアシスだと思うわよ?」
「これで!?」
「私達、本当に何も知らないんだね……」
ふたりの反応に夏芽は笑わずにはいられない。
「夏芽さん。向こうに建物が見えますけど、何があるんですか?」
「色々あるわよ。宿屋とか定食屋とか土産物屋とか」
「町、みたいですね」
「そうね。小さい町みたいなものよ」
「じゃ、今から俺は店の人呼んで来るから。お前達はここでちょっと待っててくれ」
車を止めると標は駆け足でオアシスの中へと消える。明羽と氷呂と夏芽は車から降りて、長いこと座っていた体を解す。明羽はじんわりと額に浮かんだ汗を拭った。
「標はなんで荷物を運び入れないんだろう?」
「このオアシスには外から来た者は車を乗り入れてはいけないっていう決まりがあるの。車での乗り入れを許されてるのは住人だけなのよ」
「そうなんだ」
暫くすると黒の軽トラックがオアシスの中から駐車場へ入って来る。その荷台に標が乗っていた。標は明羽達に向かって手を振ってから運転席のドアを叩いて場所を指示する。三人の側で止まった軽トラックの運転席から白髪頭でぼさぼさの白い髭を蓄えた小柄な老人が降りる。ここに来る道中見えていた筈だが男は明羽と氷呂と夏芽を見ると目をカッと見開いた。
「どうした!? 標! 女の子三人も連れてくるとわ!」
広い駐車場の隅から隅まで響く大声だった。
「モテ期かっ。モテ期なのかっ!」
「えーと。この白髭のじーさんが俺らの持って来た石を買ってくれる筈の店の主だ」
店主に肩をグラグラ揺らされても標は物ともしない。
「で、俺が連れて来たのは……。あー、なんだ。……妹みたいなもんだ」
その耳慣れない言葉に明羽はなんだか照れくさいような、むず痒いような気分になるが、
「誰が妹よ」
夏芽はそんなことはなかったらしい。持って来た箱のひとつを標がバールでこじ開ける。その箱の中身を見て店主は頷いた。
「相変わらず良物を持ってくるな。標。採掘場を教えて欲しいもんだ」
箱の中にあったのは大量の黒い石。
「あの黒い石、何?」
「あれは燃料石よ。あれが車とかを動かす燃料になるの」
「へえ」
夏芽が答えてくれるのを明羽が聞いている間に標は箱をもうひとつ開けていた。その箱の中には先程とは打って変わって、色とりどりの石が敷き詰められていた。店主はその中の石をひとつ手に取るとルーペを取り出し、これでもかと顔を近付けて石の中を覗き込む。
「悪くねえ。細かい査定は店に戻ってからだが。悪くねえ。ようし、全部俺のトラックに移し替えるぞい」
標が一度肩を回してから箱を運び出すのを見て明羽も後部座席にある箱のひとつに手を伸ばしてみるがその重さにびっくりする。標があまりに軽々と持ち上げていたので手伝おうと思ったのだがひとりではとても持ち上がりそうにない。気付いた店主が明羽に声を掛ける。
「おう、お嬢ちゃん。無理するんじゃねぇぞ。そんな細腕でこんな重い荷、大変だぞい」
「うん……」
「明羽。私も手伝うよ。ふたりなら持ち上がるんじゃない?」
明羽は氷呂の顔を見て頷いた。少女ふたりが力を合わせてひとつの箱を持ち上げるのを見て、店主は小さく二回頷いた。明羽と氷呂がふたりでひとつの箱を運ぶ横を夏芽がひとりでひとつの箱を持って通り過ぎる。店主は目の前を横切った夏芽を目で追った。
「あの細腕でよく持ち上がるもんだ……」
そう呟いた目の前を箱を三つ抱えた標が通り過ぎて行く。
「よし。これで全部だな」
標がそう言うと店主がニッと笑った。
「さ、お嬢ちゃん達乗りな。俺っちの店に案内するぜい」
オアシスの中は多くの人が行き交っていた。狭い道だったが、
「おーい。通してくれー」
と店主が運転席から身を乗り出すと道を行く人々は店主を見て「白髭のじー様だ」と言って道を空けてくれる。土でできた見慣れた建物。けれど、建物の間には思い出した様に葉の大きな植物が転々と生えている。時々、木が数本固まって生えているところがあり、その下では必ず人が集まって楽しそうに談笑していた。
「狭い道だ」
「中に入る車を制限する訳だね」
駐車場に停まっていた車が全てオアシスの中に入ってしまってはたちまち往来は行き詰まってしまうだろう。通り過ぎる人通り過ぎる人がこちらを見てくるので荷台に座る明羽と氷呂は箱と箱の隙間にちんまりと隠れるように座っていた。対し、夏芽はというと積まれた箱の一番上で優雅に足を組んで座りながら風に髪をなびかせていた。
車の中では運転席に座る店主と助手席に座る標が言葉を交わす。
「今回も良い物を持ってきたな、標。あれなら高く買ってやれるぞい」
「助かるよ、じーさん」
明羽は遠ざかっていく景色を眺めていた。。
どんどんどんどん目の端から迫っては遠ざかっていく風景にふと自分が置いていかれているような錯覚を起こす。車がガタンといって止まった。
「着いたのかな?」
氷呂が立ち上がる。明羽は気持ちを切り替えるように深呼吸した。
「おじーちゃん。荷物降ろす?」
運転席から降りかけていた店主は荷台から身を乗り出す明羽に目を丸くした。緑の濃い瞳が印象的な少女。一瞬驚きはしたが店主はすぐに相貌を崩す。
「いやいや。こっから先は店の若いのにやらせる。お嬢ちゃん達は降りて店の中へおいで。軽い飲み物ぐらい出せるぞい」
その店の入り口は大きく開かれていた。中は外に比べて遥かに涼しい。車の音を聞き付けたのか店の奥から若い男がふたり駆け出して来る。
「標。久しぶりだな!」
「今回は随分時間が空いたな」
ふたりは最初こそ標を見ていたがその背後の人影に気付く。
「なんで女の子三人も連れてんの!?」
「小さい方のふたりは妹みたいなもんだ。手出したら殺すぞ」
「じゃあ、背の高い肌の白い子紹介してくれよ!」
「お前ら……見た目に騙されてるぞ」
夏芽が標の頭を叩く。
「こら、お前達! しっかり働け! 給料出さねぇぞ!」
そう言った店主の手にはいつの間にやら四つのカップを乗せた丸盆が握られていた。店の奥にはカウンターがあり、標と若いのふたりが話している間に用意したようだった。
「……じー様。盆持って叫んでも怖くねぇぞ?」
「黙って荷を運べい」
「へいへい」
「分かりやしたー」
標に手を振りながらふたりは店の外へ向かう。うちひとりが夏芽の横を取り過ぎる際、夏芽に向かってウインクをした。夏芽は目を丸くする。ふたりがいなくなってから夏芽は標を振り返る。
「モテ期かしら!?」
「知らねーよ」
落ち着きのなくなった夏芽を明羽と氷呂は意外そうに見る。
「夏芽さん。男の人に誘われたことないのかな?」
「美人だからモテそうなのにね」
店の中は広いということはなかったが狭いということもなく。広く取られた店舗入り口とは逆にあるカウンターの背後の壁には棚が設置され、酒場ならば酒がぎっしり並べられていそうなところに大小色とりどりの石が飾られ並んでいる。若いのふたりが出て来た店の奥へと続く入り口はそのカウンターの横にあり、その入り口には床近くまである長い暖簾が掛けられていた。店内には左右の壁沿いに陳列棚が並び、中央には四脚の椅子とセットになった丸テーブルがひとつだけ置いてあった。
明羽と氷呂は飲み物片手に陳列棚を覗き込む。中には色とりどりの石で飾られたアクセサリーがたくさん並んでいた。
「ここ、アクセサリーも作ってるんだ」
「綺麗だね」
ふたりの後ろを若いのふたりが黒い石の入った箱を持って通り過ぎて行く。人の気配に何ともなく明羽が振り返るとカウンター席に座る標が目に入った。カウンターの向こう側に立つ男と何か話している。明羽はカウンターの向こうにいつの間にか現れた男をまじまじと見てしまった。いつからそこにいたのか。本当に気付かなかったと明羽は思う。あれはいったい誰だろう。よく見れば白髭の店主と目鼻立ちが似ている。店主の髪は白く、髭もぼさぼさだったのに対し男は髪も髭も綺麗に整えられ何より黒かった。標と男が共に店の外へ向かう。すぐに戻って来たふたりだったが標の腕には色とりどりの石が入った箱が抱えられていた。まっすぐにカウンターへとふたりは戻る。明羽は自分の持っている青色の石を査定してもらう為にいつ切り出そうかとタイミングを計る。
「明羽」
標に呼ばれて明羽がカウンターに向かうとその後を氷呂が追い掛けた。
「明羽。あの青い石、査定してもらおう。この人はじーさんの息子でこの店の跡取りだ。みんなは若旦那って呼んでる」
「はじめまして。若旦那。私は明羽」
「こんにちは。氷呂です」
「燃料石はじーさんが、原石類は若旦那が査定してくれるんだ」
明羽は標と若旦那を見比べてしまった。明らかに若旦那の方が年上に見えるのに、このふたりが纏う雰囲気に殆ど変わりはない。むしろ標の方が深みのあるよな雰囲気を醸し出してるように明羽には見えた。
「どうした?」
「なんでもない」
明羽はとりあえず石を取り出して若旦那に見えやすいように前に出す。石を見た若旦那が一度瞬きをした。
「若旦那?」
「ああ。すまない」
標の声に若旦那は青い石を明羽の手から受け取って、見る。そして、また少し怪訝そうな顔になる。明羽は少し不安になって標を見た。標は明羽を安心させるように微笑む。標は明羽から若旦那に目を戻す。
「その石。何かあるのか?」
「いや。この色の感じと手触りがなあ。似たような石を最近手に入れたんだ。見たことのない石だったから、立て続けに二つも見るとは思わなくてな。少し驚いた」
「へえ」
「ちょっと待ってくれ。親父。親父!」
「なんじゃい。これから石を砕くところだぞい」
奥から暖簾を上げて店主が顔を出した。
「この前手に入った石があっただろう。見慣れなかったやつ。あれ、どこやったっけな」
「おお。あの石か。ちと待ってろ」
暖簾の奥へと消えた店主は大した時間もかからずに戻って来る。その手に握られていたのは手の平大の緑色の石だった。カウンターの上に並べられた青色の石と緑色の石を見た時、店主と若旦那は同時に目の前に座るふたりの少女に目を向けていた。そこにいるのは濃い緑色の瞳を持つ少女と澄んだ青色の瞳を持つ少女だ。若旦那は青い石と緑の石を手に取る。青色の石に対し緑色の石の方が若干小さい。若旦那は柄が細く長い小さな金槌でふたつの石を軽く叩いた。どちらも中身の詰まった音がする。
「適度な硬さのあるアクセサリー向きの石だ。親父。このふたりに試してもらわねーか?」
「ひっひっひ。同じこと考えてたわい」
楽しそうに笑う店主と若旦那に明羽と氷呂が首を傾げる。
「お嬢ちゃん達。石を削ってみる気はないかい?」
「石を?」
「ですか?」
「親父。説明が足りなすぎる」
「これからするんじゃい。実はな、おふたりさん。こちとら観光客向けに新しい商売を考えておってな。石を削る体験を売りにしてみようかと考えておったんだぞい」
「石を好きな形に削り出してもらって、客のイメージに合わせて俺達がアクセサリーに加工する。世界にたった一つの自分だけのアクセサリーを作ってみよう。っていうのがコンセプトなんだが」
「ははあ。なるほど。色々考えるもんだなあ。それで、売り出す前に明羽と氷呂に体験してもらって感想を聞こうってことか」
標の言葉に店主と若旦那が頷く。
「ああ。近所の子供達に頼もうかと思ってたんだが。外から来てくれた人の意見の方がよりいいと思った。俺達にとってもその状況に近い状態が再現できるからいいシミュレーションになると思ってな」
「モニターになってもらうことになるからお代は取らねえ。出来上がったもんはプレゼントするぞい。どうだいお嬢ちゃん達。やってみないか?」
明羽は氷呂の顔を見る。氷呂は明羽の顔を見返した。迷っている風のふたりに背後から声がかかる。
「やってみればいいじゃない。迷うってことは興味がない訳でもないんでしょう? それに、見て見なさいよ。そのふたつの石。まるで明羽ちゃんと氷呂ちゃんみたいじゃない」
丸テーブルに着いていた夏芽の言葉に店主と若旦那が大きく頷いた。背中を押された明羽と氷呂が頷く。
「うん。私、やってみたい」
「はい。私も」
「ありがたい。よーし、そうと決まれば緑は……」
「あ。おじーちゃん。私、青い方削ってもいいかな?」
「明羽が青い方を削るのか?」
標を振り返って明羽は頷く。
「うん。氷呂にプレゼントしたい」
「なるほど」
「じゃあ。私は明羽にお返ししなくっちゃ」
「え? あ、そんなつもりじゃなかったんだけど」
しどろもどろになる明羽を見て氷呂は笑う。緑色の石と青色の石を明羽と氷呂はそれぞれ手に持つ。店主に誘われてふたりは暖簾を潜った。暖簾の先は先程までいた店内より遥かに広い工場だった。天井も高く、明かり取りの窓がたくさんあってとても明るい。機械という物自体あまり見たことのなかった明羽と氷呂は大きな機械から小さな機械までたくさんある光景に圧倒される。
「すごい」
「ね」
「お嬢ちゃん達の身近にはないものだものなあ」
店主にそう言われて明羽は物珍しそうにキョロキョロしてしまったことに少し恥ずかしくなった。そして、工場の一角を占領するのは大きな機械。
「おじーちゃん。あれは何の為の機械?」
「あれは燃料石を均等な大きさに砕く機械だ。燃料石は掘り出したままの状態では大きさにバラつきがあってそのままではまともに動力に変換されない。同じ大きさにして初めて最も効率よく燃えて動力に変えることができるんだ。この作業がうまくいく程、燃費もよくなる」
「そうなんだ」
「標が持って来た燃料石を砕こうとしていたところだ。燃料石を使えるように加工したものをワシらはまた、違うところへ売りに出す」
「すぐに砕こうとしてたってことは、もしかして急いでた?」
「いやいや。納期に間に合えば問題ない。さあ、お嬢ちゃん達が今日使うのはこっちの機械だ」
店主が示した機械は黒い長方形に太いベルトを引いた、抱える程の大きさだがなんとも重そうな機械だった。ピンと来ていない明羽に店主はどこからか石を取り出す。
「見ててごらん」
スイッチを入れると機械に引かれていたベルトが回り出し、そのベルトに店主が石を押し付けると石からキメの細かい粉が舞い始める。暫くそうした後、店主が回るベルトから石を離すと面などなかった筈の石の一部がまっ平らに削られていた。削られた石を見て明羽と氷呂は口を半開きにする。
「こうやって石を削ってくんだ。この機械は電動ヤスリといって、ベルトのところがヤスリになっている。最初は荒いヤスリで形を整え、段々キメの細かいものに変えて磨いていく。簡単だろ?」
明羽と氷呂に説明をしている間、店主の声は始終楽しそうだった。
明羽が青い石からふたつ磨き出したいと言うと、店主は鑿と槌を使って石を割ってくれる。あまりに綺麗に真っ二つに割れた石に明羽はここまでの技術を手にするのにどれ程の時間とどれ程の努力を要するのだろうと思う。
「ささ。思い切って行こうぞい。丁寧さは必要じゃがちまちまやっていたらいつまで経っても終わらんからな」
明羽が機械の前で失敗しないようにと気合を入れる。氷呂はその横でザアアアアと思い切りよく緑色の石を削り始めた。
「あ、そうじゃった。粉は吸い込まないようにな」
今思い出したと店主が白い布を明羽と氷呂に手渡す。それを口と鼻を覆うように巻いて、氷呂は作業を再開し、明羽は角ができないように、つるりと手触りの良い石をイメージしながら削り始める。が、これがなかなかうまくいかなかった。店主にアドバイスをもらいながら何とかひとつを削り出す。もうひとつも同じ大きさ、同じ形になるように削らなくてはいけないことに気付いて明羽は店主に意見を頂戴しようと顔を上げた。店主は氷呂にアドバイスをしているところだった。明羽はそれが終わるのを大人しく待つ。終わったのを見計らって声をかける。仕上げに近付いて、明羽と氷呂は店主に声をかけることが多くなっていた。店主はふたり同時に相手にすることは無理だと悟る。
「ちと待っていてくれ。息子を呼んでくる」
店主は暖簾の向こうへ消え。そして、聞こえてくる声。
「おい。暇じゃろう」
「……今、標が持って来た石の査定してるところなんだが」
「暇じゃろう」
店主は若旦那に有無を言わせなかった。このふたりは親子以前に師弟の間柄なのだと明羽は思う。店主が明羽を、若旦那が氷呂を担当する。氷呂は若旦那を見上げた。
「すみません。お忙しいのに」
「いやいや。君が謝ることはないよ。むしろ、礼を言わせてくれ。俺達にとってはいいリハーサルになるし、何より親父が楽しそうだ」
「いやいや」の言い方が店主そっくりで氷呂は思わず顔を綻ばせていた。その不意の笑顔があまりに美しくて、若旦那は少々危機感を覚えてしまう。明羽がふたつ目を何とか形にした時、隣の緊張が和らいだのを感じて顔を向けると氷呂が立ち上がって若旦那と話している。
「どんなアクセサリーにするかイメージはできているかい?」
「はい。この石を一番長くして……」
話しながら工場の中をふたりは移動していく。
「え? あれ? もう磨き終わっちゃったの?」
「お嬢ちゃん。焦らない焦らない。気持ちが石に表れちまうぞい。あの子は勘がいい。集中が切れない状態になって上りが早くなったんだろう。それに、お嬢ちゃんはふたつ削ってるんだ。その分時間が掛かるに決まってら」
店主に諭され、明羽は自分の手の中の今は粉にまみれた石を見た。氷呂と若旦那は壁際にたくさんの棚が設置された作業台の側で話を突き詰めている。明羽は目の細かい電動ヤスリに変えてもらって、ふたつの石を更に磨きに掛かった。氷呂との距離が物理的に離れてなんだか酷く寂しいが明羽は何とか石を磨き上げる。手の平大だった青い石は随分小さくなった。涙型に削り出されたふたつの青い石。磨く前は濁って光を通さなかった石。けれど今は……。明羽は石の表面を指で拭った。その指も粉まみれだったがつるりとした表面が見えた。透明感のある青。今光に透かせばきっと石は光を透過するだろう。
「ようし。石と手を洗って、ワシらも飾りにする為の作業に入るぞい」
「うん! お願いします!」
達成感に明羽は顔に巻いた布の上からでも分かる満面の笑顔になった。
出来上がった物を小さな布袋に入れ、明羽と氷呂は店主と若旦那にお礼を言って工場を後にする。
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