第1章・緑色の瞳の少女と青色の瞳の少女(5)

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 明羽あはねは薄っすらと目を開く。

 真っ青な光が全身に降りそそいでいた。光を帯びたその青い光は揺蕩たゆたいながら、いつも、いつだって、明羽あはねを優しく、柔らかにつつみ込んでくれる。


 実際に目を開けば暗い部屋の中、明かり取りの窓を塞ぐ木戸の隙間から白い光が差し込んでいた。隣を見れば絶世の美少女の寝顔がある。そのなめらかな青い髪をで、明羽あはね掛布かけふからい出る。と、まだ残る夜の寒さにちぢこまった。

「さっむ……」

 まだ、外は空がしらんでいる時間帯だろう。空気の冷たさがそれを物語っている。もう間もなくすれば太陽が顔を出し、大地も空気も次第に温められる。けれど、明羽はそれを待たずに立ち上がった。

明羽あはね

氷呂ひろ。ごめん。起こしちゃった?」

 氷呂ひろは首を横に振って体を起こす。

「どこに行くの?」

 氷呂ひろに見つめられて明羽あはねは首を横に振った。

「どこにも行かないよ」

「本当に?」

「本当だよ」

「……ごめんね。明羽あはね

「え?」

 明羽あはね氷呂ひろの突然の謝罪にあわてふためく。

「え? なになに? なんであやまってるの」

明羽あはねのやりたいと思うことを私がさせないようにしてるから」

「……」

「おばさん達のことをあの日以来ずっと気にしてるでしょう」

 ふたりにこの家があてがわれてから数日がっていた。

 その間、明羽あはねは体力回復をねて畑に毎日のように顔を出し、氷呂は村の女達に交じって村のルールを学んだりと、それぞれに村人達と交流を深めていた。

 ふたりそろって村に受け入れられ、村に馴染なじんできたと実感し始めていたが、

「確かに……そうだけど」

 明羽あはねは目を泳がせる。ふとした時にどうしても思い出してしまう。勘付かれないようにしていたつもりだが氷呂ひろにはお見通しだったらしい。

「ごめんね。明羽あはね。それでも私は明羽あはねを引き止め続けるから」

氷呂ひろ……」

「おばさん達のことは私だって心配だよ。でもね、明羽あはね。私にとっては明羽あはねが一番なの。明羽あはねが一番大事なの。明羽あはねに何かあったら私……」

 氷呂ひろ明羽あはねの手を強く強く握っていた。それはまるで懇願こんがんしているようだった。

「……氷呂ひろ氷呂ひろ?」

 氷呂ひろが壁に目を向けていた。

氷呂ひろ?」

 明羽あはねは首をかしげる。今一度名を呼ぶが、氷呂ひろはジッと一点を見つめて微動びどうだにしない。さすがに不安になって明羽あはね氷呂ひろに手を伸ばした。

氷呂ひろ?」

 氷呂ひろの寝巻のすそつかむ。

明羽あはね。エンジン音が聞こえる」

「エンジン音?」

 すそから手を離して明羽あはねも耳をそばだててみる。しかし、何も聞こえない。

「近付いて来てる」

「この家に?」

「この距離感なら村に、だね」

 明羽あはねは目をしばたく。村は小さいとはいえ、この家が位置するのは村の中程なかほどだったと記憶していたからだ。

「き、聞こえるんだ?」

「聖獣は他の種族より耳がいいみたい。前からもしかしたらとは思ってたけど、この村に来てから確信に変わったの」

 そういえばと明羽あはねは思う。村長の家に初めて案内された時、扉に耳を付けた夏芽なつめしなには聞こえない音を聞いているようだった。村長もまたしな夏芽なつめのひそひそ話に対して「意味のないこと」と言っていた。

「知らなかった」

「言ってなかったっけ?」

 氷呂ひろはあっけらかんと言ったが十年、恐らくは十年以上一緒にいて、まだ知らないことがあったことに明羽あはんえは軽くショックを覚える。

氷呂ひろ氷呂ひろって私にまだ言ってないこととかある?」

「言ってないこと?」

「私が知らない氷呂ひろのこと」

「え……どうだろう?」

 そもそも本人が自覚していないことを他人が知るのはそれこそ不可能というものだろう。

「行ってみる?」

「行ってみよう」

 明羽あはね氷呂ひろはエンジン音の正体を突き止める為に家の外へ出た。空はおおかぶさるような茶色が渦巻うずまいていた。

「こんな天気でも光って届くんだから、すごいよね」

「そうだね」

 ふたりはまだ冷たい空気の中を歩き出す。氷呂ひろの耳に聞こえる音を頼りに明羽あはねは歩く。早朝の村は静まり返っていた。その静寂を割るように響き始めるエンジン音が明羽あはねの耳にも聞こえ始める。

「村の中に入ったみたい」

「この辺って、倉庫なのかな?」

 明羽あはね達はいつの間にか窓のない建物が数棟並ぶ区画に踏み込んでいた。エンジン音はどんどん大きくなり、自分達が近付いていることが分かる。けれど、エンジン音は糸が切れるように唐突に消えてしまった。ふたりはあわてて音の発信源に向かって走り出す。辿たおり着いた場所は村のはしはし

 倉庫に囲まれて少し開けたその場所より先に建物は見えず、茶色の砂が風に巻き上げられて渦巻うずまいているのが見えた。そして、その開けた場所には後部座席をほろおおった、年代物の黒い車が一台止まっていた。

 運転席のドアが開き、明羽あはね氷呂ひろあわててどこかに隠れようとしたが、降りてきた人物を見て冷静になる。

 その人物も明羽あはね氷呂ひろに気付く。

明羽あはね氷呂ひろじゃないか。どうした? わざわざ出迎でむかえに来てくれたのか?」

「……しな

しなさん……」

 ふたりの様子にしなは首をかしげる。

「あれ?」

しなさん。出掛けてたんですか?」

 ふたりの言葉にしなは絶句し、眉間を揉み、小さく息を吐き出した。

「……俺も大概たいがい、存在感が薄いんだな」

「ご、ごめん! 畑に取り掛かりっぱなしだったから!!」

「そう! そうなんです! 私も村の人達に色々教えてもらってて! 村に早く慣れたくて! 謝花じゃはなが子供達の面倒を見ていて私も混ぜてもらったり」

「そうそう!」

「今度は明羽あはねも子供達の遊びに誘おうとか考えててっ」

「え!? い、いや。私はごえんりょし…たい……と………」

 ごにょごにょと語尾を小さくする明羽あはねしなは吹き出す。

「ぶふっ」

 明羽あはねは心外だと言わんばかりに目をかっ開いた。

 にらまれたしな咳払せきばらいし、居住まいを正す。

「いや。悪い。ふたりともすっかり村に馴染なじんだもんだと思って」

「嘘だ……。今のは私を笑ったんだ……」

「何を馬鹿なことを」

 明羽あはねの肩をしなは叩く。

「村の救世主様達を俺が笑う訳ないだろう」

「……救世主様、達?」

 明羽あはねは聞き返してしまっていた。

「片や水不足、片や食料不足。打開策を見いだせなかった村の二大問題にみんなはこの村を捨てることも考えてた。そんなタイミングでやって来たふたりの少女がこのふたつの問題をまたたく間に解決してみせた。救世主とあおぎたくもなるだろう」

「たまたまだよ」

「たまたまです」

 居心地の悪そうなふたりにしなは笑う。

「で? ふたりはこんな朝早くになんだってこんなところにいるんだ? 俺を迎えてくれた訳じゃないんだろう? 俺がここ数日、村にいなかったことにも気付いてなかったんだから」

 最後のは皮肉だった。

「それは、ごめん」

 明羽あはね素直すなおに謝った。

「で、なんで私達がここにいるかって話だったよね。えっと……」

「車のエンジン音が聞こえてきたので」

「ああ。氷呂ひろの耳には聞こえたか」

「はい。村にも車があったんですね」

「そうか。俺が連れて来た時、ふたり共意識なかったもんな」

 明羽あはねひらめいたというようにポンと手を打つ。

「そうだったそうだった。しなが私達をあの砂嵐の中から助けてくれたんだったね。しなは私達の命の恩人だね」

「救世主ですね」

 ニッコリ笑って言ったふたりにしなは何とも言えない表情になる。

「……悪かった。もう言わない。いや、しかし、お前らの命の恩人と言うなら夏芽なつめだろう」

「そうですね。夏芽なつめさんも命の恩人です。救世主です」

「そうだね。夏芽なつめさんも救世主ってあおがなくっちゃ」

 うんうん頷く明羽あはね氷呂ひろを見て、しなは救世主と呼ばれてものすごく嫌そうな顔になる夏芽なつめ容易たやすく想像できた。そして、そう呼ばれるに至った原因が自分にあると分かった時の夏芽なつめの仕返しも容易たやすく想像できて仏頂面になる。

「この話はやめよう。な。車の話だったな」

 明らかに話をらしたしな明羽あはね氷呂ひろ可笑おかしくて笑う。

「村では車を二台保有してるんだ。一台は……そういやまだ帰って来てないな。換金用の採集やら採掘やらに出てるんだが。まあ、ひとまず置いておいて、もう一台が俺が基本的に使ってる、この一台だな。村のみんなは外に出たがらないし。ああ、夏芽なつめが薬草取りに出ることもあるか。ま、そうゆうことで村には車が二台ある」

「そうなんだ」

「高かったんだぜ。でも、あるとやっぱり便利だからな。二台目をと考えた時は相当悩んだが頑張って良かった。二台あれば同時進行で別のことできるしな。今、実際そうだし」

「便利」

「行動範囲も広がる」

「行動……。例えば南の町とか?」

「おう。南の町ぐらいなら余裕……ん? 南の?」

明羽あはね!」

 氷呂ひろ明羽あはねの腕を強く引いていた。

「痛いよ。氷呂ひろ

 明羽あはね氷呂ひろと目を合わせない。

「どうしたどうした」

「なんでもないんです」

 氷呂ひろは否定するがふたりの様子は只事ただごとではない。

「なんでもないってことはなさそうだが」

明羽あはね。お願いだから……」

 しばうつむいていた明羽あはねだったが意を決したようにしなを見上げる。

しな。お願いがあるんだ。一度でいい。私を南の町まで連れてってくれないかな」

明羽あはね!」

「……なるほど」

しなさん!?」

 氷呂ひろ甲高かんだかい声に対し、しなは片手を上げて制す。

明羽あはね。それは、分かった上で言ってるんだろうな」

 明羽あはねは不安そうに目線を足元に落としたが、しなは構わず畳みかける。

「どうなる可能性があるか分かってて言ってるんだよな?」

「……分かってる。でも、どうしても、おばちゃん達のことが心配で。私達の所為せいで酷い目に合ってないかとか。私達の所為せいで……」

明羽あはね……」

 明羽あはねだけでなく氷呂ひろまでが泣きそうな顔になる。

「すごく、すごくいい人達なんだ。優しい人達なんだ。だから……」

「ダメだ」

 明羽あはね怪訝けげんそうに、氷呂ひろは驚いたように、見上げてくるふたりにしなは言い聞かせるように言う。

「お前達の育ての親はお前達を人間じゃないと分かった上で育ててたはずだ。だったら、万が一を想定していないはずがない。明羽あはねが言うようにいい人達なら尚更なおさらだ。それとも、いい人だったけどそんな覚悟もないまま人間の生活に他の種族を引き入れるようないい加減な人達だったのか?」

「違う! そんなことない! 酷いよ……。しな

 しなは腕を組んだ。静かに、まっすぐに明羽あはね見据みすえる。

「いいか。明羽あはね。心配なのは分かる。よく、分かる。けど、行かせる訳にはいかない。お前達は特殊過ぎた。世界中で噂になってる。片や純血の聖獣。片や左にのみ四枚の翼を持つ片翼の天使。狩人かりゅうどや役人だけじゃない。一般人まで目を光らせてるような状態だ。お前達が逃げ切ったから幸い噂の域を出てないが、本当の眉唾まゆつばになるまで、お前達を村から出す訳にはいかない。眉唾まゆつばになってもお前達を南の町に連れて行くことはできないが」

「なんで!?」

「ダメなんだよ。明羽あはね。知り合いがいる以上。お前は二度と行っちゃいけないんだ。自分の為にも、お前が大事だと思う人達の為にも」

 明羽あはねは本格的に言葉をくしうつむいた。その拍子に落ちた滴が明羽あはねの足元に小さな染みを作る。それらは砂の大地に吸い込まれてすぐに消えていく。

「いや、違うな」

 しなは頭をいた。

「そうじゃなくって……。そうだな……。お前の、その、おばちゃんは……。明羽あはね。お前を相当大切に育てたんだろう。お前を見てれば分かる。なら、お前がどうしていれば、そのおばちゃんが喜んでくれるか、お前が一番よく知ってるんじゃないのか?」

 明羽あはねは大きく目を見開いていた。脳裏に過ぎったのは狩人かりゅうどからのがれて南の町の上を飛んでいた時のこと。南門へ向かっていた時、下方に見えたオニャが明羽あはねに向かって叫んだ言葉。

『飛べ! 明羽あはね! 振り返るんじゃないよ!』

 その力強い言葉に背を押されて明羽あはねは今、氷呂ひろと共にここにいる。

「自分の育ての親を信じろ」

 うるんで光る緑色の瞳がしなを見上げ、

「うん」

 しっかりとうなずいた。そえで涙を拭う明羽あはねしなは内心ホッとため息をつく。

「戻る」

「おう。気を付けて帰れよ」

 背を向けて歩き出した明羽あはねを少し見送ってから、氷呂ひろしなを振りあおぐ。

しなさん。ありがとうございます」

 氷呂ひろはそう言うとしなが何かを言う前に背を向けて走り出す。氷呂ひろ明羽あはねに追い付くと、ふたりはお互いの手を取り合い、寄り添いながらその場を去って行った。そんなふたりの少女の後ろ姿を見送って、標は大いに脱力した。

「……良かった」

 飛び出していくようなことにならなくて本当に良かったと、しなは心の底から安堵あんどのため息をついた。


 畑に実りが付き始める頃、明羽あはね氷呂ひろは揃って中央広場に差し掛かる。

明羽あはねちゃんと氷呂ひろちゃんだ!」

「おわ!?」

 飛び掛かって来た子供達に驚いた明羽あはねは思わず腕の中の物を抱え直す。広場の中程で教鞭を持ったまま固まっている謝花じゃはなと目が合った。謝花じゃはなが子供達相手に青空とは名ばかりの茶色い空の下、青空教室を開いていたところを明羽あはね氷呂ひろが邪魔してしまったらしい。

「もう、明羽あはね氷呂ひろが来たから勉強どころじゃなくなっちゃった」

「ごめんごめん」

「すぐにいなくなるから」

 わざとらしく口をとがらせる謝花じゃはな明羽あはね氷呂ひろは笑う。

「まあ、いいんだけどね。子供達の集中力も切れて来たところだし。今日はもうお開き」

「終わり?」

「終わり? 謝花じゃはなちゃん!」

「そう。今日はここまで! 解散!」

 謝花じゃはなの号令に子供達が歓声を上げた。

「今日は新しい遊びを開発するぞ!」

「いっくぞー!」

「キャー!」

「危ないことはしちゃダメだからねー」

「ハーイ!!」

 はしゃぐ子供達が走り去って行く。

「で、明羽あはねの持ってるそれは何?」

「うん」

 明羽あはねが少しほこらしげに持っていたかごの中身を見せると、謝花じゃはなは大げさに驚く。

「こ、これはっ!」

「村で初めて収穫しゅうかくされた野菜です!」

 謝花じゃはなはパアッと顔を輝かせた。

「すごいね! 明羽あはね!」

 自分のことのように喜ぶ謝花じゃはな明羽あはねは苦笑する。

「大げさだよ」

「そんなことない! そんなことないんだよ!」

「分かった分かった」

「これをこれから村長に見せに行くところなんだ」

「そっか!」

「日照不足で発育があんまりよくないけど他の作物もちゃんと育ってる。豊作とまで行くことはここでは多分無理だけど。でも、不自由ないぐらいには村に行き渡るようにするから」

「頼もしい……」

 謝花じゃはなの本気の感嘆の声に明羽あはねはちょっぴり照れ臭くなった。

「じゃ、じゃあ。謝花じゃはな。私達はこれで」

「うん。気を付けて行ってらしゃい!」

 何にと苦笑しつつ明羽あはねうなずく。

「うん。行ってきます」

 その時、村の中を風が吹き抜けた。急に外から吹き込んだ風は広場に達すると地面から上空へと駆け上がる。

「キャッ」

「おわっ」

明羽あはね

 明羽あはねかごを抱え込み、氷呂ひろ明羽あはねを支える。

「……私のことは誰も気に掛けてくれない」

 謝花じゃはなの顔に掛かったふわふわの黄色い髪の毛を明羽あはね氷呂ひろが直しているとため息が聞こえてくる。

「あれはもうムリだよぅ」

 三人が振り返ると子供達が途方とほうれたように空を見上げていた。その目線を明羽あはね氷呂ひろ謝花じゃはなも追うと、村の上空にくるくると舞う影があった。明羽あはねは目をらす。それは髪をまとめたりする時に使う飾り布のようだった。子供達の中のひとりの少女が今にも泣き出しそうな顔になる。

「お母さんにもらったのなのに……」

 上空を舞う飾り布は落ちてくる様子を見せず、それどころか風に乗ってさらに上空へ運ばれそうだった。

氷呂ひろ。持ってて」

明羽あはね?」

 明羽あはねかご氷呂ひろに渡して駆け出す。地面を蹴って肩甲骨けんこうこつの辺りに集中する。翼を広げる久しぶりの感覚に、自分で少し驚きながらも明羽あはねは迷うことなく、飛び立っていた。

 左にのみ生える四枚の翼。

 真っ白な羽根が広場にいた村人達の上に舞い落ちる。明羽あはねは手を伸ばした。ひらひらと舞い逃げる飾り布に手間取りながらも、なんとかそれをつかみ取る。喜んだのもつか、そのまま止まれれば良かったのだが、明羽は勢いあまってさらに上空へと飛び出した。

「おっとと。お?」

 水程の抵抗はなかったが、何か薄い膜を通り抜けたような感覚を明羽あはねは覚える。次の瞬間、

「おおお!?」

 とてつもない強風と大量に舞う砂にさらされて明羽あはねは目をつむった。明羽あはねは自分が重力に従って落下を始めたのが分かった。急転直下。そして、また何か薄い膜を通り抜ける感覚。その瞬間、風は弱まり打ち付けてくる砂の感覚もなくなった。明羽あはねは翼を広げた。

明羽あはね!」

 氷呂ひろ切羽詰せっぱつまった声と聞こえる複数の悲鳴。

 明羽あはねは地面一歩手前で何とか体勢を立て直し、華麗に着地した。内心、心臓バクバクで座り込み掛けたが何とか踏ん張って立ち続ける。

明羽あはね!」

「ひ、氷呂ひろ……」

 駆け寄った氷呂ひろ明羽あはねにずいっとせまると、明羽あはねにしか聞こえない声で、けれどはっきりと言う。

「笑って! 子供達が見てる!」

「!」

 氷呂ひろの言う通り、子供達が真っ青な顔で明羽あはねを見ていた。明羽あはねは自分の手の中にあるものを思い出す。小さく深呼吸して手が震えないように、声が震えないように、腹に力を入れながら子供達に近付いて、ひとりの少女の前で片膝を付く。

「はい。君のだよね?」

「……うん」

 受け取ろうと伸ばされた少女の手の方が震えていた。明羽あはねはその手を握り、精一杯の虚勢きょせいを張って笑う。

「大事な物。もう手放しちゃダメだよ」

 若干じゃっかんカタコトっぽくなってしまったが、明羽あはねは押し切った。

「うん。ありがとう! 明羽あはねちゃん! 明羽あはねちゃんは大丈夫?」

 安心したのか声を大きくして詰め寄ってくる少女に明羽あはねは胸を張った。

「全然、大丈夫だよ。落ちたように見えたかも知れないけど、えっと……ワザとだから! パフォーマンスだから!」

「いや、ゼッタイワザとじゃないでしょ」

「黙らっしゃい!」

 子供達の追求に明羽あはねかつを入れたところで広場に笑いがこぼれた。緊迫した空気が薄れて笑いが波のように広がって、一先ひとま窮地きゅうちだっしたと明羽あはねは胸をで下ろす。そして誰かが思い出したようにつぶやく。

「それにしても、天使だ」

 ん? と明羽あはねが思ったのもつか、次の瞬間には村人の視線が明羽あはねに集中していた。

「そうだ。天使だ……」

「本物の天使だ」

「天使……」

「天使だ!」

「本物……本物だっ!」

「天使だ!」

「天使だ!」

「本物だ!」

「えっ。なに? 何!?」

 詰め寄ってくる村人達に明羽あはねはあっと言う間に取り囲まれた。人集ひとだかりの外から氷呂ひろ明羽あはねを呼ぶ。

明羽あはね!」

氷呂ひろ!」

明羽あはね! 天使だったの!?」

「え? うん!」

 見れば謝花じゃはなまでもが村人達に混ざって明羽あはねに詰め寄っていた。

「はい。みんなちょっと落ち着いて」

 それはとても落ち着いていたがあらががたい声だった。皆が振り返る。そこには大人ひとり程の大きさの白い獣が立っていた。薄紫色の瞳が皆を見据える。自然と明羽あはねと村長の間に道ができる。

「村長」

「すまないね。明羽あはね。そういえば、みんなに君が天使であることをすっかり伝え忘れていたよ」

「村長……」

「ところでさっき村の外に出たかい?」

「へ?」

 突然の話題転換に明羽あはねは戸惑いながらも答える。

「出たというか、ちょっと勢い余って……」

「そうか。怪我とかしてないかい?」

「大丈夫」

「なら良かった。気を付けて。僕がびっくりするから。はい。みんなあんまり興奮しないように。幻と言われる天使に興味津々きょうみしんしんなのも分かるけど。これからいくらでも見られるんだから」

 村長に言われて村人達はひとまず納得したが、それでも興味を引かれずにいられないのか明羽あはねに好奇の目を向けていた。しばらくはその目にさらされ続けそうだと覚悟を決めながら、明羽あはねはみんなが見慣れるまでの辛抱しんぼうと自身に言い聞かせた。

「それにしても、なんで村長がびっくりするんだろう?」

 疑問に思いつつも明羽あはねは広場に来た当初の目的を思い出す。


 ニコニコ顔の村長にいざなわれるまま、明羽あはね氷呂ひろは村長宅にまねかれる。明羽あはねが改めて村初めての収穫物をお披露目ひろめしていると、戸が乱暴に開かれる。その大きな音に驚いて振り返ると、そこにいたのは夏芽なつめだった。広場でのさわぎを聞き付けて慌ててやって来たらしい。

明羽あはねちゃん! 飛んだって、飛んだって本当!? もう大丈夫なの!? もう飛んで大丈夫だった!?」

 この時、明羽あはねすでに翼を仕舞っていたのだが、夏芽なつめ鬼気迫ききせまる様子に再び翼を広げて見せる。

「大丈夫だったよ。ほら、もうこの通り! 飛ぶ習慣がなかったから今までちょっと私も忘れてたけど」

 そしたら夏芽なつめ明羽あはねの左にのみ生える四枚の翼に取り付いてその場で往診おうしんを始めた。


 しなは空に向かって大きく伸びをした。

「トリオも帰って来たし、石の選別も終わったし、また売りに行くかね」

 なんて独り言を呟きながら中央広場に差し掛かると、井戸の側でそわそわと落ち着きのない謝花じゃはなが目に入った。

「おーい。謝花じゃはな。どうした?」

しな兄様!」

 近付いてくるしなに気付いた謝花じゃはなはパッと両手を背に隠す。

「な、何でもありませんよ!」

 明らかに何かあると言っている謝花じゃはなの背をしなは何度か覗き込もうとする。だが、謝花じゃはなは驚くことに、しな相手に鉄壁の守りを見せた。謝花じゃはながあまりに真剣なのでしなはこれ以上はめておこうとあきらめた。

「で、何してるんだ?」

「えっと……。明羽あはね氷呂ひろを待ってるんです。今、畑のことで村長に会いに行ってて」

「ああ。そういえば初めての収穫ができたとか言ってたな」

 しなは朝早くに大喜びで報告に来た畑の発案者の顔を思い出す。

しなが信じて種や苗を仕入れて来てくれたお陰だよ。何度も何度も失敗したのに……。誰ももう期待してなかったのに……。ありがとうありがとう! もう無駄にしないで済む。明羽あはねちゃんの功績こうせきだけど。グスッ……。ありがとう、ありがとうな。しな

 思い出してしなは小さく微笑ほほえむ。

しな兄様?」

「うん。良かったなと思ってさ」

「そうですね」

 なんだか嬉しそうなしなに釣られて謝花じゃはな微笑ほほえむ。サッとしな謝花じゃはなの背をのぞき込むが謝花じゃはなはそれを見事に回避した。しなはそこで本当にあきらめた。

「報告に行っただけならすぐに出てきそうだな」

「いえ、それが……さっき夏芽なつめ姉様がけ込んで行ったので長くなるかもしれません」

「ああ……」

 

 明羽あはねの翼をつくした夏芽なつめつぶやく。

「ふわふわだわ」

「そう?」

「綺麗なものねえ」

「……そう?」

明羽あはねは自分のことなので良く分かってないんです。私は夏芽なつめさんに全面同意しますよ」

「そうよね!」

 意気投合する氷呂ひろ夏芽なつめ明羽あはねの翼をで回す。

「くすぐったい」

「それにしてももう本当に良くなったみたいね。痛みもないんでしょう?」

「うん。とゆうか飛んで初めてそれを確認できたというか」

「そうよね。そろそろ大丈夫かしらとは思ってたけど。できれば私が確認してから、私がいる場所で、安全を確保した上で、様子を見がてら、飛んで欲しかったけれど」

「ごめんなさい」

「傷があったところに少しあとが残ってるけど飛行に問題はなかった?」

「気にならなかったなあ」

「そう。付け根の辺りにも違和感はない?」

 明羽あはね肩甲骨けんこうこつ辺りに意識を集中して翼を動かして見る。

「うん。大丈夫」

「そう。いいわ。もう大丈夫でしょう。明羽あはねちゃんの治療は終わり!」

 医者から完治のお墨付きをもらって明羽あはねは顔を輝かせた。

「やった。これで飛び放題!」

「あ、でも。急に無理しちゃダメよ。翼を動かす筋肉もまた落ちてる筈だから。ゆっくりね。少しずつ戻していくのよ」

「はい」

 明羽あはねしばらくお世話になっていた診察台から卒業した日のことを思い出す。拳を作ってしっかりうなず明羽あはね夏芽なつめもまたうなずく。

「ちゃんと経験が身になってるわね」

「村の中を少しずつ飛び回るようにします」

「みんなにすごく注目されそうね」

 言われて明羽あはねは先程の広場での村人達の目を思い出す。村人達の目に付かないように飛ぶ練習をするにはどうすればいいだろうかと明羽あはねは腕を組んだ。人目が付かない上空まで……。とか思ったところで明羽あはねは飾り布を追って村の上空まで飛び上がった時に触れた、まくのようなものを思い出す。

「そう言えばさっき上まで飛んだ時、なんか水? のまく? みたいなのに触れた気がするんだけどさ」

「あらやだ、明羽あはねちゃん。超えちゃったの?」

夏芽なつめさん。知ってるの?」

「知ってるも何も。この村は基本いつも嵐に見舞われてるでしょう。だから村全体を外からの風や飛び交う砂から守る為に村長が常に結界、という程のものではないけど薄ーい水のまくを張ってるのよ。村の周りがこれだけ砂嵐だっていうのに今まで疑問に思わなかったの?」

「いや、ちょっとは気にしたことも、あった……かな?」

「嘘っぽい」

 夏芽なつめは笑う。

「ま、とにかく。村長のお陰でこの村は砂嵐の只中ただなかりながらも維持できているの。でも、代償だいしょうは大きいわ」

代償だいしょう?」

「ですか?」

 神妙な口調になった夏芽なつめに一体何を犠牲にこの村は成り立っているのか、明羽あはね氷呂ひろは不安になる。

「ここを村として維持している限り、村長はここから動くことができないのよ」

「僕はそれを苦にしたことはないけどね」

 村長が囲炉裏いろりの側で寝転ねころがりながら言った。夏芽なつめ明羽あはね氷呂ひろをキリッと見て言う。

「大きな代償だいしょうでしょう!?」

「うん! そう思う!」

「そう思います!」

「はいはい」

「だから村長はすごいのよ!」

「そうだね!」

「だからみんな村長をうやまうの。大好きなの!」

「はい! 分かります!」

「はいはい」

 盛り上がる三人を軽く受け流しながら村長は小さく微笑ほほえんだ。


「お、出てきた」

明羽あはね! 氷呂ひろ!」

謝花じゃはなしなさんも」

「どうし……」

明羽あはね!!」

「はい!」

 両手を握ってせまって来る謝花じゃはな明羽あはねも思わず大きな声で返事をする。

明羽あはね明羽あはね明羽あはね明羽あはね!」

「はい! ハイ! ん? うん!」

「落ち着いて、謝花じゃはな明羽あはねも」

 仲裁ちゅうさいに入る氷呂ひろは驚くほど冷静だった。

「なんか知らんが、ずっとそわそわしてたぞ」

 そう言ったしなを見上げてから、明羽あはね謝花じゃはなに目を戻す。

謝花じゃはな?」

 少しは落ち着いたのか謝花じゃはなが深呼吸した。

「……明羽あはね。私ね」

「うん」

「確認したいことがあるの」

「うん。……うん?」

 明羽あはねには思い当たるふしがなくて首をかしげる。

「聞いて!」

「あ、はい」

 謝花じゃはなの瞳がまっすぐに明羽あはねの瞳を見つめる。

明羽あはね。やっぱり、天使だったんだね」

 謝花じゃはなおもむろに袋状になっているそでの中に手を入れると、そこから一枚の大きな白い羽根を取り出す。

「それ」

「覚えてる? 私が町を出る時に明羽あはねがくれた羽根だよ」

 明羽あはねはしっかりとその時のことを覚えている。それは、謝花じゃはながご両親と南の町をひそかに出て行った日のこと。太陽が地平線から顔を出す前の空は真っ白で、空の白さに対してそびえ立つ南門は真っ黒で。凹凸がまるでない、何もかも飲み込むようなその黒は、それを背に立つ謝花じゃはなとご両親の不安を表しているかのようだった。

「まだ、持っててくれたんだ」

 あの時はほとんど言葉もわせなかった。せめて何か渡せるものはないかとひねり出した答えが、今、謝花じゃはなが持っている一枚の羽根だった。

「今ならはっきり分かる。明羽あはねの羽根だよね」

「うん。そう。今生こんじょうの別れになるかもしれないのにそんな物しかあげられなくて……」

 うつむ明羽あはねの心情とは裏腹に謝花じゃはなは明るい声で言う。

明羽あはね。知ってた?」

「何?」

「天使の羽根って、幸運のお守りなんだって。私もお父さんに聞くまで知らなかった。私、あの時、明羽あはねが人間じゃないってことは知ってたけど天使だとは知らなかったから。お父さんがこれは天使の羽根じゃないか? って言った時、まさかって思った。だから、さっき明羽が飛ぶのを見て驚いちゃった。南の町を出てから、この羽根は当てもなく砂漠を歩く私達のはげみだった。今でも大切なお守り。本当にありがとう。これからも持っていていい?」

「もちろん!」

 謝花じゃはなが頬を朱色に染めて笑う。明羽あはねは自分のおこないが誰かのはげみとなっていたことに、目頭が熱くなるのを感じた。

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