第1章(5)
真っ青な光が降り注いでいた。いつも近くに感じる優しく、柔らかく、揺蕩いながら明羽に降り注ぐ光。
目を開けば暗い部屋の中、明かり取りの窓に伏せた木戸の隙間から白い光が差し込んでいた。隣を見れば絶世の美少女の寝顔がある。その滑らかな青い髪を撫で、明羽は掛布から這い出る。と、まだ残る夜の寒さに縮こまった。
「さっむ……」
まだ、外は空が白んでいる時間帯だろう。空気の冷たさがそれを物語っている。もう間もなくすれば太陽が顔を出し、大地も空気も次第に温められる。けれど、明羽はそれを待たずに立ち上がった。
「明羽」
「氷呂。ごめん。起こしちゃった?」
氷呂は首を横に振って体を起こす。
「どこに行くの?」
氷呂に見つめられて明羽は首を横に振った。
「どこにも行かないよ」
「本当に?」
「本当だよ」
「……ごめんね。明羽」
「え?」
明羽は氷呂の突然の謝罪に慌てふためく。
「え? なになに? なんで謝ってるの」
「明羽のやりたいと思うことを私がさせないようにしてるから」
「……」
「おばさん達のことをあの日以来ずっと気にしてるでしょう」
明羽がひとりで歩けるようになって、この家をあてがわれてから数日が経っていた。その間、明羽は体力回復を兼ねて畑に毎日のように顔を出し、氷呂は村の女達に交じって村のルールを教えて貰ったり、謝花と一緒に子供達の遊び相手になったり勉強を教えたり、朝の配給の手伝いなどに精を出すようになっていた。ふたり揃って村に受け入れられ、村に馴染んできたと実感でき始めていた。
「確かに……そうだけど」
明羽は目を泳がせる。ふとした時にどうしても思い出してしまう。勘付かれないようにしていたつもりだが氷呂にはお見通しだったらしい。
「ごめんね。明羽。それでも私は明羽を引き止め続けるから」
「氷呂……」
「おばさん達のことは私だってとても心配。でもね、明羽。私にとっては明羽が一番なの。明羽が一番大事なの。何かあったら困るんだ」
氷呂は明羽の手を強く強く握っていた。それはまるで懇願しているようだった。
「……氷呂。氷呂?」
氷呂が壁に目を向けていた。
「氷呂?」
明羽は首を傾げる。今一度名を呼ぶが氷呂はジッと一点を見つめて微動だにしない。さすがに不安になって明羽は氷呂に手を伸ばした。
「氷呂?」
氷呂の寝巻の裾を掴む。
「明羽。エンジン音が聞こえる」
「エンジン音?」
裾から手を離して明羽も耳をそばだててみるが何も聞こえない。
「近付いて来てる」
「この家に?」
「この距離感なら村に、だね」
氷呂は村の外から聞こえるエンジン音を聞いていると言った。明羽は信じられないものを見るように目を瞬かせる。
「き、聞こえるんだ?」
「聖獣は他の種族より耳がいいみたいだね。前からもしかしたらとは思ってたけど、この村に来てから確信に変わった」
そういえばと明羽は思う。村長の家に初めて案内された時、扉に耳を付けた夏芽は標には聞こえない音を聞いているようだった。村長もまた標と夏芽のひそひそ話に対して「意味のないこと」と言っていた。
「知らなかった」
「言ってなかったっけ?」
氷呂はあっけらかんと言ったが十年、恐らくは十年以上一緒にいて、まだ知らないことがあったことに明羽は軽くショックを覚える。
「氷呂。氷呂って私にまだ言ってないこととかある?」
「言ってないこと?」
「私が知らない氷呂のこと」
「え……どうだろう?」
そもそも本人が自覚していないことを他人が知るのはそれこそ不可能というものだろう。
「行ってみる?」
「行ってみよう」
明羽と氷呂はエンジン音の正体を突き止める為に家の外へ出た。空は覆い被さるような茶色が渦巻いていた。
「こんな天気でも光って届くんだから、すごいよね」
「そうだね」
ふたりはまだ冷たい空気の中を歩き出す。氷呂の耳に聞こえる音を頼りに明羽は歩く。早朝の村は静まり返っていた。その静寂を割るように響き始めるエンジン音が明羽の耳にも聞こえ始める。
「村の中に入ったみたい」
「この辺って、倉庫なのかな?」
明羽達はいつの間にか窓のほぼない土壁の建物が数棟並ぶ区画に踏み込んでいた。エンジン音はどんどん大きくなり、自分達が近付いていることが分かる。けれど、エンジン音は糸が切れるように唐突に消えてしまった。ふたりは慌てて音の発信源に向かって走り出す。辿り着いた場所は村の端も端。倉庫に囲まれて少し開けたその場所の向こうにはもう建物は見えず、茶色の砂が風に巻き上げられて渦巻いているのが見えた。そして、その開けた場所には後部座席を幌で覆った年季の入った一台の黒い車が止まっていた。
運転席のドアが開き、明羽と氷呂は慌ててどこかに隠れようとしたが降りてきた人物を見て冷静になる。その人物も明羽と氷呂に気付いた。
「明羽と氷呂じゃないか。どうした? わざわざ出迎えに来てくれたのか?」
「……標」
「標さん……」
ふたりの様子に標が首を傾げる。
「あれ?」
「標さん。出掛けてたんですか?」
ふたりの言葉に標は絶句し、眉間を揉み、小さく息を吐き出した。
「……俺も大概、存在感が薄いんだな」
「ご、ごめん! 畑に取り掛かりっぱなしだったから!!」
「そう! そうなんです! 私も村の人達に色々教えてもらってて! 村に早く慣れたくて! 謝花が子供達の面倒を見ていて私も混ぜてもらったり」
「そうそう!」
「今度は明羽も子供達の遊びに誘おうとか考えててっ」
「え!? い、いや。私はごえんりょし…たい……と………」
ごにょごにょと語尾を小さくする明羽にそれだけで標は明羽が子供を苦手としていることが分かってしまった。
「ぶふっ」
吹き出した標を明羽は目をかっ開いて仰ぎ見る。
「あ、いや。悪い。ふたりともすっかり村に馴染んだもんだと思って」
「嘘だ……。今のは私を笑ったんだ……」
「何を馬鹿なことを」
明羽の肩に標は手を置く。
「村の救世主様達を俺が笑う訳ないだろう」
「……救世主様、達?」
明羽は聞き返してしまっていた。
「片や水不足、片や食料不足。打開策を見いだせなかった村の二大問題にみんなはこの村を捨てることも考えてた。そんなタイミングでやって来たふたりの少女がこのふたつの問題を瞬く間に解決してみせた。救世主と仰ぎたくもなるだろう」
「たまたまだよ」
「たまたまです」
居心地の悪そうなふたりに標は笑う。
「で? ふたりはこんな朝早くになんだってこんなところにいるんだ? 俺を迎えてくれた訳じゃないんだろう? 俺がここ数日、村にいなかったことにも気付いてなかったんだから」
最後のは皮肉だった。
「それは、ごめん」
明羽は素直に謝った。
「で、なんで私達がここにいるかって話だったよね。えっと……」
「車のエンジン音が聞こえてきたので」
「ああ。氷呂の耳には聞こえたか」
「はい。村にも車があったんですね」
「そうか。俺が連れて来た時、お前らふたり共意識なかったもんな」
明羽が気付いたというようにポンと手を打つ。
「そうだったそうだった。標が私達をあの砂嵐の中から助けてくれたんだったね。標は私達の命の恩人だね」
「救世主ですね」
ニッコリ笑って言ったふたりに標は何とも言えない表情になる。
「……悪かった。もう言わない。いや、しかしお前らの命の恩人と言うなら夏芽だろう」
「そうですね。夏芽さんも命の恩人です。救世主です」
「そうだね。夏芽さんも救世主って仰がなくっちゃ」
うんうん頷く明羽と氷呂を見て標は救世主と呼ばれてものすごく嫌そうな顔になる夏芽を容易く想像できた。そして、そう呼ばれるに至った原因が自分にあると分かった時の夏芽の仕返しも容易く想像できて仏頂面になる。
「この話はやめよう。な。車の話だったな」
明らかに話を反らした標に明羽と氷呂は可笑しくて笑う。
「村では車を二台保有してるんだ。一台は……そういやまだ帰って来てないな。換金用の採集やら採掘やらに出てるんだが。まあ、ひとまず置いておいて、もう一台が俺が基本的に使ってるこの一台だな。村のみんなは外に出たがらないし。ああ、夏芽が薬草取りに出ることもあるか。ま、そうゆうことで村には車が二台ある」
「そうなんだ」
「高かったんだぜ。でも、あるとやっぱり便利だからな。二台目をと考えた時は相当悩んだが頑張って良かった。二台あれば同時進行で別のことできるしな。今実際そうだし」
「便利」
「行動範囲も広がる」
「行動……。例えば南の町とか?」
「おう。南の町ぐらいなら余裕……ん? 南の?」
「明羽!」
氷呂が明羽の腕を強く引いていた。
「痛いよ。氷呂」
明羽は氷呂と目を合わせない。
「どうしたどうした」
「なんでもないんです」
氷呂は否定するがふたりの様子は只事ではない。
「なんでもないってことはなさそうだが」
「明羽。お願いだから……」
暫し俯いていた明羽だったが意を決したように標を見上げる。
「標。お願いがあるんだ。一度でいい。私を南の町まで連れてってくれないかな」
「明羽!」
「……なるほど」
「標さん!?」
氷呂の甲高い声に対し、標は片手を上げて制す。
「明羽。それは、分かった上で言ってるんだろうな」
明羽は不安そうに目線を足元に落としたが標は構わず畳みかける。
「どうなる可能性があるか分かってて言ってるんだよな?」
「……分かってる。でも、どうしても、おばちゃん達のことが心配で。私達の所為で酷い目に合ってないかとか。私達の所為で……」
「明羽……」
明羽だけでなく氷呂までが泣きそうな顔になる。
「すごく、すごくいい人達なんだ。優しい人達なんだ。だから……」
「ダメだ」
明羽は怪訝そうに、氷呂は驚いたように見上げてくるふたりに標は言い聞かせるように言う。
「お前達の育ての親はお前達を人間じゃないと分かった上で育ててた筈だ。だったら、万が一を想定していない筈がない。明羽が言うようにいい人達なら尚更だ。それとも、いい人だったけどそんな覚悟もないまま人間の生活に他の種族を引き入れるようないい加減な人達だったのか?」
「違う! そんなことない! 酷いよ……。標」
標は腕を組んだ。静かに、まっすぐに明羽を見据える。
「いいか。明羽。心配なのは分かる。よく、分かる。けど、行かせる訳にはいかない。お前達は特殊過ぎた。世界中で噂になってる。片や純血の聖獣。片や左にのみ四枚の翼を持つ片翼の天使。狩人や役人だけじゃない。一般人まで目を光らせてるような状態だ。お前達が逃げ切ったから幸い噂の域を出てないが本当の眉唾になるまで、お前達を村から出す訳にはいかない。眉唾になってもお前達を南の町に連れて行くことはできないが」
「なんで!?」
「ダメなんだよ。明羽。知り合いがいる以上。お前は二度と行っちゃいけないんだ。自分の為にも、お前が大事だと思う人達の為にも」
明羽は本格的に言葉を失くし俯いた。その拍子に落ちた滴が明羽の足元に小さな染みを作る。それらは砂の大地に吸い込まれてすぐに消えていく。
「いや、違うな」
標は頭を掻いた。
「そうじゃなくって……。そうだな……。お前の、その、おばちゃんは……。明羽。お前を相当大切に育てたんだろう。お前を見てれば分かる。なら、お前がどうしていればおばちゃんが喜んでくれるか、お前が一番よく知ってるんじゃないのか?」
明羽は大きく目を見開いていた。脳裏に過ぎったのは狩人から逃れて南の町の上を飛んでいた時のこと。南門へ向かっていた時、下方に見えたオニャが明羽に向かって叫んだ言葉。
『飛べ! 明羽! 振り返るんじゃないよ!』
その力強い言葉に背を押されて明羽は今、氷呂と共にここにいる。
「自分の育ての親を信じろ」
潤んで光る緑色の瞳が標を見上げ、
「うん」
しっかりと頷いた。袖で涙を拭う明羽に標は内心ホッとため息をつく。
「戻る」
「おう。気を付けて帰れ」
背を向けて歩き出した明羽を少し見送ってから氷呂が標を振り仰いだ。
「標さん。ありがとうございます」
氷呂はそう言うと標が何かを言う前に背を向けて走り出す。氷呂が明羽に追い付くとふたりはお互いの手を取り合い、寄り添いながらその場を去って行った。そんなふたりの少女の後ろ姿を見送って標は大いに脱力した。
「……良かった」
飛び出していくようなことにならなくて本当に良かったと標は心の底から安堵のため息をついた。
畑に実りが付き始める頃、明羽と氷呂は揃って中央広場に差し掛かる。
「明羽ちゃんと氷呂ちゃんだ!」
「おわ!?」
飛び掛かって来た子供達に驚いた明羽は思わず腕の中の物を抱え直す。広場の中程で教鞭を持ったまま固まっている謝花と目が合った。謝花が子供達相手に青空とは名ばかりの茶色い空の下、青空教室を開いていたところを明羽と氷呂が邪魔してしまったらしい。
「もう、明羽と氷呂が来たから勉強どころじゃなくなっちゃった」
「ごめんごめん」
「すぐにいなくなるから」
わざとらしく口を尖らせる謝花に明羽と氷呂は笑う。
「まあ、いいんだけどね。子供達の集中力も切れて来たところだし。今日はもうお開き」
「終わり?」
「終わり? 謝花ちゃん!」
「そう。今日はここまで! 解散!」
謝花の号令に子供達が歓声を上げた。
「今日は新しい遊びを開発するぞ!」
「いっくぞー!」
「キャー!」
「危ないことはしちゃダメだからねー」
「ハーイ!!」
はしゃぐ子供達が走り去って行く。
「で、明羽の持ってるそれは何?」
「うん」
明羽が少し誇らしげに持っていた籠の中身を見せると謝花は大げさに驚く。
「こ、これはっ!」
「村で初めて収穫された野菜です!」
謝花はパアッと顔を輝かせた。
「すごいね! 明羽!」
自分のことのように喜ぶ謝花に明羽は苦笑する。
「大げさだよ」
「そんなことない! そんなことないんだよ!」
「分かった分かった」
「これをこれから村長に見せに行くところなんだ」
「そっか!」
「日照不足で発育があんまりよくないけど他の作物もちゃんと育ってる。豊作とまで行くことはここでは多分無理だけど。でも、不自由ないぐらいには村に行き渡るようにするから」
「頼もしい……」
謝花の本気の感嘆の声に明羽はちょっぴり照れ臭くなった。
「じゃ、じゃあ。謝花。私達はこれで」
「うん。気を付けて行ってらしゃい!」
何にと苦笑しつつ明羽は答える。
「うん。行ってきます」
その時、村の中を風が吹き抜けた。急に外から吹き込んだ風は広場に達すると地面から上空へと駆け上がる。
「キャッ」
「おわっ」
「明羽」
明羽は籠を抱え込み、氷呂が明羽を支える。
「……私のことは誰も気に掛けてくれない」
謝花の顔に掛かったふわふわの黄色い髪の毛を明羽と氷呂が直しているとため息が聞こえてくる。
「あれはもうムリだよぅ」
三人が振り返ると子供達が途方に呉れたように空を見上げていた。その目線を明羽と氷呂と謝花も追うと村の上空にくるくると舞う影があった。明羽は目を凝らす。それは髪をまとめたりする時に使う飾り布のようだった。子供達の中のひとりの少女が今にも泣き出しそうな顔になる。
「お母さんにもらったのなのに……」
上空を舞う飾り布は落ちてくる様子を見せず、それどころか風に乗って更に上空へ運ばれそうだった。
「氷呂。持ってて」
「明羽?」
明羽は籠を氷呂に渡して駆け出す。地面を蹴って肩甲骨の辺りに集中する。翼を広げる久しぶりの感覚に自分で少し驚きながらも明羽は迷うことなく、うまく飛べるかなんて不安もなく飛び立っていた。左にのみ生える四枚の翼。真っ白な羽根が広場にいた村人達の上に舞い落ちる。明羽は手を伸ばした。ひらひらと舞い逃げる飾り布に手間取りながらもなんとかそれを掴み取る。喜んだのも束の間、そのまま止まれれば良かったのだが明羽は勢い余って更に上空へと飛び出した。
「おっとと。お?」
水程の抵抗はなかったが何か薄い膜を通り抜けたような感覚を明羽は覚える。次の瞬間、
「おおお!?」
とてつもない強風と大量に舞う砂に晒されて明羽は目を瞑った。明羽は自分が重力に従って落下を始めたのが分かった。急転直下。そして、また何か薄い膜を通り抜ける感覚。その瞬間、風は弱まり打ち付けてくる砂の感覚もなくなった。明羽は翼を広げた。
「明羽!」
氷呂の切羽詰まった声と聞こえる複数の悲鳴。明羽は地面一歩手前で何とか体勢を立て直して華麗に着地した。内心心臓バクバクで座り込み掛けたが何とか踏ん張って立ち続ける。
「明羽!」
「ひ、氷呂……」
駆け寄った氷呂は明羽にずいっと迫ると明羽にしか聞こえない声で、けれどはっきりと言う。
「笑って! 子供達が見てる!」
「!」
氷呂の言う通り、子供達が真っ青な顔で明羽を見ていた。明羽は自分の手の中にあるものを思い出す。小さく深呼吸して手が震えないように、声が震えないように腹に力を入れながら子供達に近付いて、ひとりの少女の前で片膝を付く。
「はい。君のだよね?」
「……うん」
受け取ろうと伸ばされた少女の手の方が震えていた。明羽はその手を握り、精一杯の虚勢を張って笑う。
「大事な物。もう手放しちゃダメだよ」
若干カタコトっぽくなってしまったが明羽は押し切った。
「うん。ありがとう! 明羽ちゃん! 明羽ちゃんは大丈夫?」
安心したのか声を大きくして詰め寄ってくる少女に明羽は胸を張った。
「全然大丈夫だよ。落ちたように見えたかも知れないけど、えっと……ワザとだから! パフォーマンスだから!」
「いや、ゼッタイワザとじゃないでしょ」
「黙らっしゃい!」
子供達の追求に明羽が喝を入れたところで広場に笑いが零れた。緊迫した空気が薄れて笑いが波のように広がって、一先ず窮地は脱したと明羽は胸を撫で下ろす。そして誰かが思い出したように呟いた。
「それにしても、天使だ」
ん? と明羽が思ったのも束の間、次の瞬間には村人の視線が明羽に集中していた。
「そうだ。天使だ……」
「本物の天使だ」
「天使……」
「天使だ!」
「本物……本物だっ!」
「天使だ!」
「天使だ!」
「本物だ!」
「えっ。なに? 何!?」
詰め寄ってくる村人達に明羽はあっと言う間に取り囲まれた。人集りの外から氷呂が明羽を呼ぶ。
「明羽!」
「氷呂!」
「明羽! 天使だったの!?」
「え? うん!」
見れば謝花までもが村人達に混ざって明羽に詰め寄っていた。
「はい。みんなちょっと落ち着いて」
それはとても落ち着いていたが抗い難い声だった。皆が振り返る。そこには大人ひとり程の大きさの白い獣が立っていた。薄紫色の瞳が皆を見据える。自然と明羽と村長の間に道ができる。
「村長」
「すまないね。明羽。そういえばみんなに君が天使であることをすっかり伝え忘れていたよ」
「村長……」
「ところでさっき村の外に出たかい?」
「へ?」
突然の話題転換に明羽は戸惑いながらも答える。
「出たというか、ちょっと勢い余って……」
「そうか。怪我とかしてないかい?」
「大丈夫」
「なら良かった。気を付けて。僕がびっくりするから。はい。みんなあんまり興奮しないように。幻と言われる天使に興味津々なのも分かるけど。これからいくらでも見られるんだから」
村長に言われて村人達はひとまず納得したが、それでも興味を引かれずにいられないのか明羽に好奇の目を向けていた。暫くはその目に晒され続けそうだと覚悟を決めながら、明羽はみんなが見慣れるまでの辛抱と自身に言い聞かせた。
「それにしても、なんで村長がびっくりするんだろう?」
疑問に思いつつも明羽は広場に来た当初の目的を思い出す。籠いっぱいの野菜を持って村長宅にお邪魔していると話を聞き付けた夏芽が駆け込んだ。
「明羽ちゃん! 飛んだって、飛んだって本当!? もう大丈夫なの!? もう飛んで大丈夫だった!?」
この時、明羽は既に翼を仕舞っていたのだが夏芽の鬼気迫る剣幕に再び翼を広げて見せる。
「大丈夫だったよ。ほら、もうこの通り! 飛ぶ習慣がなかったから今までちょっと私も忘れてたけど」
そしたら夏芽は明羽の左にのみ生える四枚の翼に取り付いてその場で往診を始めた。
標は空に向かって大きく伸びをした。
「トリオも帰って来たし、石の選別も終わったし、また売りに行くかね」
なんて独り言を呟きながら中央広場に差し掛かると井戸の側でそわそわと落ち着きのない謝花が目に入った。
「おーい。謝花。どうした?」
「標兄様!」
近付いてくる標に気付いた謝花はパッと両手を背に隠す。
「な、何でもありませんよ!」
明らかに何かあると言っている謝花の背を標は何度か覗き込もうとする。だが、謝花は驚くことに標相手に鉄壁の守りを見せる。謝花があまりに真剣なので標はこれ以上は止めておこうと諦めた。
「で、何してるんだ?」
「えっと……。明羽と氷呂を待ってるんです。今、畑のことで村長に会いに行ってて」
「ああ。そういえば初めての収穫ができたとか言ってたな」
標は朝早くに大喜びで報告に来た畑の発案者の顔を思い出す。
『標が信じて種や苗を仕入れて来てくれたお陰だよ。何度も何度も失敗したのに……。誰ももう期待してなかったのに……。ありがとうありがとう! もう無駄にしないで済む。明羽ちゃんの功績だけど。グスッ……。ありがとう、ありがとうな。標』
思い出して標は小さく微笑む。
「標兄様?」
「うん。良かったなと思ってさ」
「そうですね」
なんだか嬉しそうな標に釣られて謝花も微笑む。サッと標が謝花の背を覗き込むが謝花はそれを見事に回避した。標はそこで本当に諦めた。
「報告に行っただけならすぐに出てきそうだな」
「いえ、それが……さっき夏芽姉様が駆け込んで行ったので長くなるかもしれません」
「ああ……」
明羽の翼を診つくした夏芽は呟く。
「ふわふわだわ」
「そう?」
「綺麗なものねえ」
「……そう?」
「明羽は自分のことなので良く分かってないんです。私は夏芽さんに全面同意しますよ」
「そうよね!」
意気投合する氷呂と夏芽が明羽の翼を撫で回す。
「くすぐったい」
「それにしてももう本当に良くなったみたいね。痛みもないんでしょう?」
「うん。とゆうか飛んで初めてそれを確認できたというか」
「そうよね。そろそろ大丈夫かしらとは思ってたけど。できれば私が確認してから、私がいる場所で、安全を確保した上で、様子を見がてら、飛んで欲しかったけれど」
「ごめんなさい」
「傷があったところに少し痕が残ってるけど飛行に問題はなかった?」
「気にならなかったなあ」
「そう。付け根の辺りにも違和感はない?」
明羽は肩甲骨辺りに意識を集中して翼を動かして見る。
「うん。大丈夫」
「そう。いいわ。もう大丈夫でしょう。明羽ちゃんの治療は終わり!」
医者から完治のお墨付きを貰って明羽は顔を輝かせた。
「やった。これで飛び放題!」
「あ、でも。急に無理しちゃダメよ。翼を動かす筋肉もまた落ちてる筈だから。ゆっくりね。少しずつ戻していくのよ」
「はい」
明羽は暫くお世話になっていた診察台から卒業した日のことを思い出す。拳を作ってしっかり頷く明羽に夏芽もまた頷く。
「ちゃんと経験が身になってるわね」
「村の中を少しずつ飛び回るようにします」
「みんなにすごく注目されそうね」
言われて明羽は先程の広場での村人達の目を思い出す。村人達の目に付かないように飛ぶ練習をするにはどうすればいいだろうかと明羽は腕を組んだ。人目が付かない上空まで……。とか思ったところで明羽は飾り布を追って村の上空まで飛び上がった時に触れた膜のようなものを思い出す。
「そう言えばさっき上まで飛んだ時、なんか水? の膜? みたいなのに触れた気がするんだけどさ」
「あらやだ、明羽ちゃん。超えちゃったの?」
「夏芽さん。知ってるの?」
「知ってるも何も。この村は基本いつも嵐に見舞われてるでしょう。だから村全体を外からの風や飛び交う砂から守る為に村長が常に結界、という程のものではないけど薄ーい水の膜を張ってるのよ。村の周りがこれだけ砂嵐だっていうのに今まで疑問に思わなかったの?」
「いや、ちょっとは気にしたことも、あった……かな?」
「嘘っぽい」
夏芽は笑う。
「ま、とにかく。村長のお蔭でこの村は砂嵐の只中に在りながらも維持できているの。でも、代償は大きいわ」
「代償?」
「ですか?」
神妙な口調になった夏芽に一体何を犠牲にこの村は成り立っているのか明羽と氷呂は不安になる。
「ここを村として維持している限り、村長はここから動くことができないのよ」
「僕はそれを苦にしたことはないけどね」
村長が囲炉裏の側で寝転がりながら言った。夏芽は明羽と氷呂をキリッと見て言う。
「大きな代償でしょう!?」
「うん! そう思う!」
「そう思います!」
「はいはい」
「だから村長は凄いのよ!」
「そうだね!」
「だからみんな村長を敬うの。大好きなの!」
「はい! 分かります!」
「はいはい」
盛り上がる三人を軽く受け流しながら村長は小さく微笑んだ。
「お、出てきた」
「明羽! 氷呂!」
「謝花。標さんも」
「どうし……」
「明羽!!」
「はい!」
両手を握って迫って来る謝花に明羽も思わず大きな声で返事をする。
「明羽。明羽明羽明羽!」
「はい! ハイ! ん? うん!」
「落ち着いて、謝花。明羽も」
仲裁に入る氷呂は驚くほど冷静だった。
「なんか知らんがずっとそわそわしてたぞ」
そう言った標を見上げてから明羽は謝花に目を戻す。
「謝花?」
少しは落ち着いたのか謝花が深呼吸した。
「……明羽。私ね」
「うん」
「確認したいことがあるの」
「うん。……うん?」
明羽には思い当たる節がなくて首を傾げる。
「聞いて!」
「あ、はい」
謝花の瞳がまっすぐに明羽の瞳を見つめる。
「明羽。やっぱり、天使だったんだね」
謝花は徐に袋状になっている袖の中に手を入れるとそこから一枚の大きな白い羽根を取り出す。
「それ」
「覚えてる? 私が町を出る時に明羽がくれた羽根だよ」
明羽はしっかりとその時のことを覚えている。それは謝花がご両親と南の町を密かに出て行った日のこと。太陽が地平線から顔を出す前の空は真っ白で、空の白さに対してそびえ立つ南門は真っ黒で。その落ち込むような黒はそれを背に立つ謝花とご両親の不安を表しているかのようだった。
「まだ、持っててくれたんだ」
あの時は殆ど言葉も交わせなかった。せめて何か渡せるものはないかと捻り出した答えが今謝花が持っている一枚の羽根だった。
「今ならはっきり分かる。明羽の羽根だよね」
「うん。そう。今生の別れになるかもしれないのにそんな物しかあげられなくて……」
俯く明羽の心情とは裏腹に謝花は明るい声で言う。
「明羽。知ってた?」
「何?」
「天使の羽根って、幸運のお守りなんだって。私もお父さんに聞くまで知らなかった。私、あの時、明羽が人間じゃないってことは知ってたけど天使だとは知らなかったから。お父さんがこれは天使の羽根じゃないか? って言った時、まさかって思った。だから、さっき明羽が飛ぶのを見て驚いちゃった。南の町を出てから、この羽根は当てもなく砂漠を歩く私達の励みだった。今でも大切なお守り。本当にありがとう。これからも持っていていい?」
「もちろん!」
謝花が頬を朱色に染めて笑う。明羽は自分の行いが誰かの励みなったことに目頭が熱くなるのを感じた。
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