第1章(4)

「なるほど。つまり、ふたりの学校の先生が助けてくれたんだね。そして、あんな怪我をして今に至ると」

 白い獣と目が合って明羽は俄かに緊張した。

「怖がらなくても大丈夫」

 それは相手を安心させる優しい声色だった。

「すまないが夏芽。お茶を淹れてくれるかい?」

「もちろんです」

 夏芽は白い尾を振り、奥の台所へと向かっていく。

「さ、ふたり共、楽にしてくれ」

 囲炉裏の周りには何枚もの反物が敷いてあり、囲炉裏を挟んで明羽と氷呂、向かいに白い獣が鎮座し標と夏芽は空いたところに席を取る。緊張が少し解けて来て明羽は背中に違和感を覚え始めていた。

「明羽。私に寄り掛かっていいよ」

「うん」

「大丈夫か? 俺に寄り掛かった方が氷呂も楽じゃないか?」

「大丈夫です。明羽は軽いので」

 食い気味に拒否されて標は軽くたじろぐ。

「そ、そうか」

「セ・ク・ハ・ラ~」

「なんでだよ……」

 お盆に人数分の湯飲みを乗せて戻ってきた夏芽はとても楽しそうに笑っていた。

 明羽がチラと氷呂を見ると氷呂は目を反らし、明羽は苦笑する。

「自己紹介が遅れてしまったね。一応僕がこの村の村長です。と言っても僕が作った村だから村長に収まってるだけなんだ。よろしくね」

「村長は間違うことなき村長です」

「そうですよ」

「あはは」

 標と夏芽は至って真剣だったが村長も分かっているのか笑っている。和やかな雰囲気に明羽は少し気が緩んだ。

「よろしくお願いします。明羽でゅす」

「私は氷呂です。よろしくお願いします」

「くっくっ……」

「ぶふっ……」

 堪えられなかったらしい標と夏芽の笑い声が聞こえてきて明羽は赤面していることを自覚する。

「標。夏芽」

「はい」

「すみません」

 村長に窘められて標と夏芽は背筋を伸ばした。

「このふたりとはもう自己紹介は済ませているかな。夏芽は村唯一の医者。標は村では珍しく外に出ることを、人間に会うことを苦にしていなくてね。度々村にないものを外に調達しに行ってくれてるんだ。ふたり共村にとって重要な人物だ。みんな頼りにしている。君達も何かあったらふたりを頼るといい」

「怪我したらすぐに私のところにいらっしゃいね」

「俺にできる範囲のことならやってやらないこともない」

「何よ。その偉そうな言い方は」

「俺にだってできないことはあるからな」

 言い合いながらも言い切ったふたりに明羽と氷呂は村長の言葉にもみんなに頼りにされるというのにも頷けるのだった。

「はい。明羽ちゃん。氷呂ちゃん。どうぞ」

 夏芽が湯飲みを差し出す。

「ありがとう。夏芽さん」

「いただきます」

 その湯飲みからは芳しい香りが立ち上り鼻腔をくすぐった。一口含めば花が咲いたような錯覚を起こす。

「おいしい!」

「本当。いい香り」

 氷呂の同意も得て、明羽は何度も大きく頷いた。

「おいしい冷茶でしょ。標が茶葉を仕入れてきてくれたの。水でもお湯でも淹れられて、この数日はこのお茶のおかげでみんな助かってるわ」

「そうなんだ」

「さて、一息付いたところで。人間にこの村の所在を知られているかもしれないという件について僕の見解を言おう」

 標と夏芽が固唾を飲む。

「まあ、大丈夫じゃない?」

「村長……」

「そんな軽くていいんですか……」

「謝花も似たような言い分だったんだろう? アサツキという人物について」

 夏芽が頷く。

「そうです」

「三人から聞いた印象が同じならその先生の人柄は疑わなくても大丈夫だろう」

 村長の言葉に明羽と氷呂はホッと胸を撫で下ろす。

「それに、分かっていたことだろう? 人間の間に噂が流れている。僕達の村があること。それはこの村の存在を信じない者にとっては聞き流されるだけのただの噂だ。だが、信じる者にとってはこの村がどこにあるか思案もするだろう。場所の手掛かりについては一切洩らさなかったんだから」

「それは、そうですが……。大まかでも場所を特定されているとしたらやってくる人間もいるかもしれませんよ」

「その為の自然の防壁だろう。ほぼ毎日この村は嵐に見舞われている。村の上に青空が広がっていても周囲では砂嵐が円を描いている事も珍しくない。この砂嵐の中で人間は生きられない。方角を見失い、地に果てるだろう。砂嵐を避け、幾度かに分けて進もうとしても前に来たところを把握することもできない。人間がここを訪れるのは極めて難しい事だ。もし、訪れる者がいるとすれば運良く迷い込んだ者だけだよ。余程の強運の持ち主だね」

 標の渋い顔に村長は重ねて言う。

「それになにより、噂を流し始めたのは僕達なんだし」

 思わぬ言葉が飛び出して明羽は目を丸くした。

「ええ!? そうなの!!」

 標が肯定する。

「まあな」

「噂を信じた仲間がひとりでも多くここに辿り着いてくれればと思ってね。標にそれとなく買い出しに出た時に流して貰ってたんだ」

「ちょっと触れ回っただけであっと言う間に広まったから最近は発信してないけどな」

「村の現状を思うとちょっと浅はかだったかな、とは思ってしまうけどね」

 村長は苦笑する。

「噂が……そうだったんだ。あれ、でも、場所のヒント一切なしでどうやってみんながここに辿り着くって思えたの?」

「まあ、確かに無謀だったかもしれないわね。賭けに近いわ。でも、長い時間を掛けて虱潰しに探せば辿り着けないこともないでしょう?」

 夏芽の言葉に明羽は納得できない。

「そんな、気の長い……。それに何だか、人間以外の種族は砂嵐の中でも生きられるみたいに聞こえたんだけど……」

 明羽の言葉に標と夏芽、村長が顔を見合わせた。

「……何?」

「明羽ちゃん。ちょっと、確認したいんだけど」

 夏芽の改まった声に明羽はちょっと畏まって頷く。

「うん」

「人間とそれ以外の種族で違いがあるのは知ってるわよね?」

「え? えっと……翼が生えてて空を飛べる、とか?」

「明羽ちゃん、というか天使の場合はそうね。それ以外には?」

 氷呂も答える。

「疲れにくいとは思います。人間に比べて体力はありますよね。私も明羽も少し走ったぐらいでは息切れひとつしないし」

「それ、以外には?」

 夏芽がさっきよりも詰め寄って来て、明羽と氷呂は顔を見合わせた。それを見た夏芽の目が混乱したように標と村長の顔を何度も往復する。

「落ち着け。夏芽」

「ちょっと聞いてみようかな?」

「……はい」

 村長の優しい声が今や、明羽にはなんだか怖く聞こえてしまう。自分達は何か間違っていただろうか、おかしなことを言っただろうかと不安になる。手に触れるものがあって見れば、氷呂が明羽の手を握っていた。明羽はそれだけですっかり安心して村長に向き直る。

「君達ふたりは南の町から来たんだったね。謝花もいた南の町の南門側の商店街だったかな」

「うん」

「生まれた時からずっとそこに? そういえば、ご両親は……」

「あ、私達両親はいなくって」

「おばさん達……人間に拾われて、育てて貰ってたんです」

「ええ!?」

「へえ。人間と暮らしてたのか」

 夏芽と標が驚く。

「い、イジメられたりとかしなかった?」

 夏芽の言葉に明羽はムッとした。

「おばちゃん達はそんな人達じゃないよ」

 露骨に不機嫌な声を出してしまった明羽を氷呂がフォローする。

「私達、本当に良くして貰ってました」

「あ……」

「夏芽。落ち着け。人間だってそんな人達ばっかりじゃないのはお前だって知ってるだろ」

「そ、そうね。ごめんなさい。今のは私が悪かったわ」

 夏芽が落ち込むのを見て、明羽も露骨過ぎたと内心反省する。

「いつから……人間と一緒に暮らすように?」

「えっと……?」

「十年程前からです」

 すぐに答えられなかった明羽に代わって氷呂が答える。

「私達は十年程前に南の町の南門の前に辿り着きました。気付いたら砂嵐の中で。酷い砂嵐だったけれど門番の人が気付いてくれて私達は南の町に入りました。それからです。おばさん達と暮らし始めたのは。私は呉服屋に。明羽は八百屋に」

「氷呂……」

「うん? どうかした? 明羽」

「いや、覚えてるんだと思って。私はその時のことあんまり覚えてないから。おばちゃんから聞いたから記憶にあるような気がするだけでさ」

「覚えてなくてもいいと思うよ」

「いや、でもさ。だってさ……そこからが私達の、記憶の始まりな訳でしょう?」

「そうだけど」

「ちょ~っと待ってくれる? ふたり共」

 呼ばれて明羽と氷呂は顔を上げた。

「はい?」

「どうしたの? 夏芽さん」

「どうしたのじゃないわよ。ふたりだけで完結しないでちょうだいな」

「そこが記憶の始まりってどういうことだ?」

「ああ」

 夏芽と標に明羽は頷いた。

「私達。十年より前の記憶がないんだ」

「さっきの話し方だとふたり揃ってないように聞こえたんだけど……」

「うん。ふたり揃って」

 当然のように明羽は頷くが標と夏芽は目を瞬く。

「それはまた……不思議な偶然? もあるもんだな」

「そんなに不思議なことかなあ?」

「いやいやいや不思議だろ。意図的な何かが働いてんじゃないかって疑いたくなるぐらいの不自然さだよ。村長。村長もそう思いませんか? ……村長?」

 標が振り返ると何やら俯いていた村長がゆっくりと顔を上げた。

「ああ……そうだね」

「村長。どうかしましたか?」

「いや。何でもないよ」

 村長はそう言ったが夏芽と標はひそひそと囁き合う。

「やっぱり、村長。疲れてるんじゃないかしら」

「そうだよなあ。水の心配がなくなったとはいえ、食料の方は片付いてないしな」

「早めにお開きにした方が……」

「大丈夫だよ」

 標と夏芽が背筋を伸ばした。

「僕の前でひそひそ話なんて。意味のないことを」

 夏芽がばつの悪そうな顔になる。

「そうでした……」

「ですが、村長……」

「本当に大丈夫だよ」

 村長に説き伏せられて標と夏芽は黙り込む。

「話の続きをしよう」

 明羽と氷呂は標と夏芽が説き伏せられないのを自分達がどうこう言うのもおかしな話なので村長に向き直る。

「ふたり共、十年より前の記憶がないとのことだったが本当に何も覚えていないのかな?」

「う~ん」

 問われて明羽は考えてみるが、

「うん。本当に何にも思い出せない。覚えてない。氷呂は?」

「そうだね。物の見事にぽっかりないんです」

「そうか。質問を変えよう。過去のない君達は自分達のことをどのようにして認識したのかな?」

「私が人間じゃなくて天使で」

「私が聖獣であるということを、ということですか?」

「そうだ」

 明羽はまた考える。

「最初から、知ってたような……」

「そうだね。私もそんな気がする」

「教えてくれる人は誰もいなかったのに?」

 村長のそれはどこか挑発的な物言いだった。

「天使である。聖獣であるということはまあ、人間でも種族特有の特徴を見れば分かることだ。天使なら翼。聖獣なら本来の獣の姿。氷呂。君は自分が純血の聖獣だと思うかい?」

「はい。間違いなく」

 村長の問い掛けに氷呂は即答した。

「気に掛かるのはそこだな。君は確かに純血の聖獣だ」

「ええ。間違いないですね。でも、それのどこに気掛かりが?」

 夏芽が村長に同意してから首を傾げた。

「氷呂が純血の聖獣であることは私達から見て分かることだ。傍から見て人間に分かるとは思えない。なにより氷呂の人化は完璧だ。純血の聖獣にしかない飾り文様だって人間の中で知る者は少ないだろう」

 氷呂は思わず自身の項に手をやっていた。狩人はこれを見て氷呂を純血の聖獣だと判断した。子供の頃、伸びてきた髪をキナが切ろうかと提案したのを氷呂は頑なに拒否した過去を思い出す。自分は確かに知っていた。誰に教えられなくとも、この文様の意味も自分の血の濃さも。

「私……」

「私はどっちだろー」

「へ?」

 あまりに能天気な声に氷呂は隣に顔を向ける。明羽がより一層氷呂に体重を掛けてきた。

「ちょっ……明羽っ。バランスが、ああ……」

「おう?」

「明羽っ!」

「氷呂ちゃん!」

 倒れ込んだふたりに標と夏芽が慌てて立ち上がる。明羽は明羽で背中に激痛が走って真っ青になった。

 明羽は標に抱き起こされ、次いで自力で起き上がった氷呂に明羽は脂汗の浮かぶ顔でウインクして見せた。

「もう、明羽ったら……」

 標から明羽を受け取って氷呂は明羽を軽く抱き締める。体勢が整うと夏芽がすかさず明羽にデコピンした。

「痛い……」

「無理しない」

「ごめんなさーい」

「反省してるんだかしてないんだが……」

 標が明羽の顔を覗き込む。

「しっかし、分からないって? 氷呂ははっきり自覚してるようだってのに」

「う~ん。自覚はないなあ。正直どっちでもいいかなって」

「どっちでもいいかなって……。自分のことだろう」

「ん~。片翼だし。混血かな?」

「天使にとって片翼であるということは混血であるという証明にはならないよ」

 皆の視線が村長に集中する。

「まあ、片方にだけ四枚あるというのはとても珍しいとは思うが。天使に関しては僕も見ただけじゃ分からないな」

「村長にも分からないことがあるんですね」

「僕にだって分からないことはあるよ。夏芽は僕のこと信用し過ぎだと思うなあ」

「あら。私だけじゃないですよ。標だって」

「ああ。そうだな。村の中で村長を信頼してない者なんていません」

「うわー。なんでここでプレッシャー掛けて来るかな」

 村長がため息をつくのを見ながら標も夏芽も笑っていた。そこにあるのは間違うことのない信頼関係だった。

「でも、村長。しんどい時は本当に言ってくださいね」

「できることは自分達でするんで」

「もちろん。頼りにしてるとも。さて、天使の性質上混血はないと思うが、ないと言い切ることもできないんだなこれが。難しい問題だ」

「村長って物知りなんだね」

「村長だからね」

 何故か夏芽が胸を張っていた。

「分からない中ひとつだけはっきり言えることはあるんだ。天使は翼の枚数によって力の強さが変わる」

「力?」

「村長それって……」

 明羽が首を傾げるのを余所に夏芽が前のめりになる。

「明羽は確か左翼が四枚ある片翼の天使だったね?」

「見る?」

「明羽ちゃん!!」

 夏芽の本気の怒鳴り声に明羽は今度ばかりは本当に縮み上がった。

「ご、ごめんなさい……」

 震える明羽の頭を氷呂が優しく撫でる。

「つまり、明羽は対の翼をもつ天使の二倍の力を持っているということになる」

「まあ!」

 村長の言葉に夏芽は目をキラキラと輝かせた。

「すごい話になって来たなあ」

 標は表情にはあまり出さなかったが興味はあるのか明羽をしげしげと見つめた。

「すごいわねえ。明羽ちゃん。初めて村に向かえた天使ってだけでアレなのに何だか特別感半端ないわね」

「夏芽さん。盛り上がってるところ悪いんだけど……」

「なあに?」

「力って、何?」

 夏芽が雷に打たれたような顔になった。

「それも分からないの!? 人間と私達の違いが分からないのは環境の所為だったと理解できたとはいえ。なんとなく、ほら、なんとなく! こう! 教えられなくても不意に出ちゃうことあるもんじゃないの! ねえ、氷呂ちゃん! あなたは分かるわよね! 村に来てすぐみんなの目の前で使ったって聞いたわよ!」

「ええっと……」

「落ち着け。夏芽」

 標が夏芽を宥めようとするが夏芽は止まらない。

「人間の中で生活していたからって自分達が人間じゃないことはふたり共自覚してたんでしょう? それなのに? それなのに!?」

「落ち着けって……」

「すみません」

「ごめんなさい」

「いや、明羽も氷呂も謝ることじゃねえから。空気に呑まれんな」

 標が明羽と氷呂の頭をぐるぐると撫で回す。

「つまり、それこそが人間と僕達との最も大きな違いなんだよ」

 少しぼさついた頭で明羽と氷呂は村長に目を向ける。薄紫色の瞳がふたりを見据えていた。

「我々は人間が持たない力を持っている。聖獣は水を操り、悪魔は闇を友とし、精霊は自然そのものであり、魔獣は大地を知る者だ。そして、天使は風を読み、操る。動物はあの大きな身体で地上を、空を駆け巡ることができる。それから、我々は人間に比べて寿命が長い。それゆえに君達が言ったように少しばかり丈夫な造りになっている」

 明羽は恐る恐る手を上げていた。

「丈夫、というのは……?」

 氷呂は「疲れにくい」と言ったのだ。それに、明羽も同意見だった。けれど、村長の物言いは明らかにそれ以上の何かを含んでいた。村長はあっさりと答えてくれる。

「死ににくいということだよ」

「……そうですか」

 明羽はガックリと項垂れた。明羽は夏芽の驚きをやっと理解した。自分達は本当に自分達のことを何も分かっていなかった。知って良かったような知りたくなかったような。実感は未だにないし。それでも、これからも自分として生きていく以上受け入れて行かなくてはいけない事実だと明羽は顔を上げる。

「ええっと、つまり? 村長の言葉通りなら私は風を操れるってことだよね」

「そうだよ」

「しかも、対の翼を持つ天使の二倍? の力って話だったよね」

「その通り」

「うう~ん。今までそんな気配感じたこともないんだけど」

「まあ、必要がなかったからと考えられなくもないかな」

 明羽は首を傾げた。

「本来の種族としての生活では普通に使うものだが君達はその力を必要としない場所にいたということかなと。人間は他の種族が扱うような力を一切持っていない種族だ。そして、力を持って相手を跳ね除けることも、逃げることも、自分の身を守る必要もない安全な場所にいた。そういうことなんじゃないかと僕は推測するよ」

「ふたりが居たのは南の町の南門の近くだって言ってたものね」

「思えば北から最も離れた場所か」

 夏芽と標が頷く。

「南の町って北の町から離れてるから人間の王や権力者の目が届かないのよね。だから規律は厳しくないし、役人の数も少ない。でも、治安は安定していて。そう思うと、私達にとっても割りといいところかしら」

「そういう場所で育ったんなら。お前らのそののんびりした性格も頷けるかもな」

「ちょっと。明羽ちゃん氷呂ちゃん? さっきから黙ってるけど。世界のあり方まで知らないなんて言わないでよ?」

「地理ハ……ニガテ」

「何でカタコト?」

「世界の形については理解しているつもりです。北、南、西、東に四大都市があって、その他に世界各地に点在するオアシス。オアシスは機械や石や鉱石や農耕や布など他にも様々に特化していて、それぞれにまつわる技術が集約していると」

「その通りよ。氷呂ちゃん、さすがね」

「いえ、このぐらいは……」

「それにしても不思議よねえ。人間の王がいる世界の中心、北の町が世界で一番繁栄しているのは分かるけど、そこから真反対の最も離れた場所にある南の町が世界で二番目に繁栄してるんだから」

「え、そうなの?」

 氷呂が明羽の脇腹を黙って小突いて明羽はその脇腹をさすった。

「いたい……」

「授業でもやってたし、おばさん達やご近所の人達の話を聞いてれば嫌でも分かることだよ」

 氷呂の溜め息にはさすがに明羽も傷付いた。

「そんなこと言われたって……」

「一応……一応さらっとくか?」

 明羽があまりにも可哀相に見えたのか標が遠慮がちに説明する。

「この世界は最も繁栄する北の町を起点に南の町、東の町、西の町の四大都市とその他世界各地に点在する大小様々のオアシスから成り立ってる。さっき氷呂が言った通り、オアシスはそれぞれに特産となる物、技術などに特化していて、その特徴から「東の町よりの石のオアシス」やら「南の町よりの布のオアシス」とか呼ばれる訳だ。ただ、不思議なことにこのオアシスも何故か北側に多く、北の町が繁栄しているのはそれも要因のひとつだな。他は割とばらけているので南の町が世界で二番目に繁栄しているのは本当に謎だ。三番目に繁栄していると言える東の町は石の町だ。東側は良質な岩石が多く採れる為、その周辺のオアシスも石に特化したものが集中してる。そして西の町だが、ここも四大都市のひとつとして数えられてはいるがこれに関してはただ人口が多いからだ。実際のところ繁栄しているというなら、その周辺のオアシスの方が遥かに繁栄していると言える。あの町は恐らく世界で最も治安が悪い場所だろう。貧富の差も激しく、あの町には砂避けの壁すらない」

「そう、なんだ……」

 世界にはそんな場所もあるのだと、世界のことにあまりにも無頓着だった自分に明羽は氷呂の溜め息に少し納得してしまった。

「そんな場所、私からしたらさっさと出て行っちゃえばいいと思うんだけどね」

 夏芽が肩を竦めた。

「先立つものがないんだ。オアシスを経由して町から町の間を行き来する巡行バスもあの町は避けて通る傾向がある。砂漠を渡り歩く術を用意するのには大金がいる。それに何より自分が生まれ育った町に愛着のある人も多いみたいだ」

「……なるほど」

 夏芽は膝に視線を落としたかと思うと床をそっと指先で撫でる。夏芽がこの場所に、この村に愛着があるのは明白で、その行動は「その気持ちは分かる」と言っているようだった。

「少し話がズレたな。世界の在り様はざっとこんなもんだ。少しは賢くなったか? 明羽」

「うん」

「いや、今のは冗談……」

 素直に頷いた明羽に標は軽く頭を掻いた。

「まあ、なんだ。人の話聞いただけで分かることなんて微々たるもんだ。興味が出たならその内自分の目で見てくるといいさ」

掛けられた言葉に明羽は標を見上げていた。

「うん」

 目に光を宿し、しっかり頷いた明羽に、

「今は駄目よ」

 夏芽が釘を差した。見れば村長と氷呂も頷いている。

「標あぁ……」

 夏芽に睨まれて標がちょっと身構えた。

「な、なんだよ」

「なんだよじゃないわよ。その気になった明羽ちゃんがお散歩気分で村の外に出ちゃったらどうするのよ」

「さすがに飛び出していくようなことはしねえだろ。そこまで馬鹿じゃねえだろ」

「私は馬鹿だと思われているらしい。まだ出会って間もないのに」

「明羽。今のは言葉の綾だ。聞き流せ」

「明羽ちゃんも氷呂ちゃんも狩人に追われて命からがら逃げて来たのよ。そうだったわよね? 氷呂ちゃん」

「はい。そうです」

「独りは純血の聖獣。もうひとりは左側にのみ四枚の翼を持つ片翼の天使。今頃人相書きが世界中に出回ってるわよ。それなのにあんたは明羽ちゃんを唆すようなことを言って」

「だから、そこまで馬鹿じゃねえだろって」

「また馬鹿って言った」

「明羽。後でたんまり謝ってやるから今はちょっと黙っててくれ」

「もう、明羽」

「えへへ」

 面白がってるのを言外に氷呂に窘められて明羽は笑う。

「おっほん」

 重厚な咳払いに場が静まり返った。四人が村長に顔を向ける。村長は一度瞬きすると明羽と氷呂の顔を、その瞳をジッと見つめた。

「な、なに、か?」

「いや」

 村長は目を伏せた。

「話が長くなったね。そろそろお開きにしようか。話を聞く限り特に問題はないようだし。明羽もまだまだ本調子には程遠いだろう。歓迎するよ。明羽、氷呂。ようこそ、僕達の村へ。気に入ってくれると嬉しい」

 ここへ辿り着く道すがら明羽と氷呂はすっかりこの村でこれから過ごすものだと思っていたが、今それが正式に決まってふたりはお互いの手を握り合う。

「うん。これから、よろしくお願いします。村長」

「お世話になります」

 標が明羽を再び抱え上げる。それを見ながら氷呂が嫉妬で渋い顔をするのを見て明羽が笑う。夏芽が空になった湯飲みを片付け終えて戻って来る。と、四人を見送る為に立ち上がった村長がぽつりと呟いた。

「君達は自分達が何者なのか、どこから来たのか、気にはならないのだろうか」

 明羽と氷呂が顔を見合わせた。

「私は、氷呂が私のことを見ててくれて知ってくれてるから。それで十分かな。自分の証明なんて」

「私も。明羽が私の側に、目の届くところ手の届くところにいてくれるなら、私の存在する意味には十分なので」

 言い切るふたりに村長は頷いた。

「そうか」

 家を出てからも村長は言葉をくれる。

「力を使う練習もしてみるといい。きっと、できるようになるよ」

 標に抱えられたまま明羽は村長に手を振った。その時、背中が痛んで少しばかり顔を顰めた明羽に村長は苦笑する。明羽と氷呂、標と夏芽の四人が去って行く背中を眺めて、村長の薄紫色の瞳が潤んだ。

「私はかつて、君達を見たことがあるよ」

 今、村長の眼前に広がるのは遠い昔に見た景色。今はもう見ることのできない、遠い遠い昔の情景。地面を覆い尽くす程に白い花の咲き乱れる景色の中。そこに佇むのは真っ白な五対の翼を持つ天使の後ろ姿だ。

「……」

 村長は記憶の風景から目を背けるように踵を返し、村の見回りに行く為に歩き出す。


 明羽は診療所に戻るとすぐに熱を出し、寝込むこととなった。標と夏芽が「やっぱり無理があったか」と反省したり、氷呂が付きっきりで明羽の看病をしたり、謝花も心配して何度も様子を見に来たり。村長も来たような気がしたがそれは明羽には朧気な記憶としてしか残っていない。

 暫くの後、診療所の前。鮮やかな緑色の丸い瞳は開かれる。明羽は空に向かって伸びをした。真っ青な空とは程遠い、砂嵐で煙る薄日の差し込む空だったがそれでも、明羽は晴れやかな気分で宣言する。

「完! 全! 復! 活! 私!!」

「完全じゃないから」

 夏芽が明羽の後頭部を叩いた。

「痛いよ。夏芽さん」

「無茶されちゃ困るからね。肝に銘じなさい。まだ! 飛んじゃダメよ」

「はい……」

 それでも、反っても曲げても捻ってももうどこも痛くないことに明羽は嬉しくてしようがない。

「うおおぉぉ! 今、無性に走りたい気分!」

「良いわよ。走るだけなら」

「!」

 夏芽の許しが出て明羽は嬉々として走り出した。診療所の前を行って帰って……。

「ゼッ……ハッ……」

「ずっと寝てたんだから体力が落ちてるのは当然よね。大人しく、少しずつ、体力回復に励みなさいな」

「夏芽さんの……イジワル……」

 さっきまでの無敵感、解放感はどこへやら。なけなしの体力を使い切って明羽は地面に寝転がりたい気分だったが何とかそれだけは堪えて膝に手を付くだけに留まる。笑う夏芽へのせめてもの抵抗だった。

「それにしても氷呂ちゃんが止めなかったのは以外ね」

 夏芽の隣では氷呂が一緒に明羽の感情の落差を眺めていた。

「明羽は言われただけじゃ分からないので。自分の今の状態を分かってもらうには実感してもらった方が早いと思って」

「氷呂もヒドイ……」

「これは明羽のことを思ってのことだよ」

「そうよね。愛よね。愛」

「アイ……」

「さて、明羽ちゃんが自分の状態を把握したところで。案内するわ。ふたり共付いて来て」

「案内ですか?」

「どこか行くの?」

「これからも診療所で寝泊まりする訳にはいかないでしょう?」

 歩き出した夏芽の後を明羽と氷呂は追い掛けた。

「準備出来たって連絡来てね。とは言っても軽い掃除と寝床用の掛布を洗濯しただけだけど」

「これから、わ、私達が住む家ってことだよね?」

「そうよ」

 少し緊張してどもってしまった明羽に夏芽は笑う。

「明羽ちゃんと氷呂ちゃん、ふたり一緒で良かったわよね。と言っても村では家に余裕がないから基本的にみんな誰かしらと一緒に住んでるの。だから、嫌と言われても困るけど」

「嫌なんて言わないよ」

「言わないです」

「ふふ。ふたりはそう言うと思ったわ」

「でも、余裕がないなら私達が住む家にも誰か住んでたんじゃないの?」

 誰かの家を取ってしまったのではないかと心配する明羽を余所に夏芽はあっけらかんと言う。

「いいのよ。これであの子も決心ついたみたいだし」

「あの子?」

「決心ですか?」

「お互い好き合ってるのにどうにも自信がなかったみたいでね。さっきはみんな誰かしらと住んでるって言ったけどその子はずっとひとりだったのよね。誘われても一緒に暮らすことに自信がなかったみたいで。その後押しを明羽ちゃんと氷呂ちゃんがしてくれたの。気にすることないわ」

「それは……本当に大丈夫だったの?」

「大丈夫よ。もう一緒に暮らし始めて「もっと早く一緒に暮らしてれば良かった!」って本人が言ってるんだから」

「ああ。そうなんだ」

 明羽は心の底からホッとする。夏芽は村長の家が面する井戸のある広場を通らず、狭い路地を通っていく。村の中はとても静かだった。

「はい。着いたわよ」

 夏芽が立ち止まったそこには小さな一軒家が建っていた。同じような土造りの四角い建物が密集して立ち並ぶうちの一件。夏芽が木戸を開ける。中を覗き込めば天井近くにある明り取りの窓から光が差し込んで部屋の中を浮かび上がらせていた。入ったところすぐが土間で端に大きな甕と火が焚ける場所があり、食器類が入っている棚が備え付けられていた。土間から少し高くなったところが生活空間で、一番奥の更に一段高くなった、ふたりが寝るには十分な広さの寝床にはカラフルな掛布が幾枚も乗せられていた。その側には食器棚とは違い空のチェストが置いてある。いわゆる1Kの物件だった。

「すごい」

「だね」

「水瓶が空っぽね。夜に備えて火種も貰ってこないとね」

 家の外で夏芽が指を差す。

「村に井戸はひとつだけよ。この前見たわよね」

「はい」

 氷呂が返事をする。

「ここを少し進むとね、少し広い道に出るの。その道に沿って歩くと井戸のある広場に着くわ。この村はあの井戸を中心に広がっていてね。外側に行く程家が密集して路地になるんだけど、村の中を貫くように十字に広めの道が作ってあって、井戸に行くにはその道に出てから向かうのが早いから。慣れるまでは広場に出てから移動するといいわ。診療所の場所も広場からなら分かるわよね」

「はい」

「何かあったらすぐに来るのよ」

「何から何までありがとうございます」

「いいのよ。これから長い付き合いになるわ。遠慮なんてしてられないわよ。それから、今食べ物は配給制でね。朝だけ……」

 諸々の説明が終わると夏芽は明羽と氷呂と水汲みに向かう。隣家の聖獣の間の子だという老夫婦から火を分けてもらい、三人は白湯で一服した。

「後であの茶葉分けてあげる。ふたりは少し新しい家でゆっくりして。じゃ、また後でね」

 夏芽が明羽と氷呂の新居を後にする。

「これからはここが私達の帰ってくる場所になるんだね」

「そうだね」

 明羽が寝床に腰を下ろしている間、氷呂はキッチンの点検に精を出す。

「私が診療所で寝てる間、氷呂はどこで寝泊まりしてたの?」

「謝花のところにお邪魔してたの」

「おお」

「ご両親と三人。本当に幸せそうだったよ」

「そっか」

 明羽は少し目を伏せる。謝花の本質は変わらない。謝花は南の町にいた頃から明るく、太陽のように笑う女の子だった。けれど、南の町にいた頃は暗い顔で俯いていることが多かったのだ。それが今はあの頃よりずっと明るく奔放に笑っている。

「そうか」

 明羽は微笑む。微笑んでからふっとその笑みは引っ込んだ。

「明羽」

「ん?」

「少し村の中を歩いてみない?」

 きっと氷呂だって同じことに考え至っていただろうに気に掛けてくれたことに明羽は立ち上がる。

「うん。行こう。あ、でも夏芽さんがまた来てくれるんだっけ」

「まだ時間はあるよ。きっと。根拠はないけど。入れ違いになったら謝ろう」

 氷呂の物言いに明羽は笑う。明羽と氷呂は家の外へ出た。

「それにしても配給かあ。食料不足なんだっけ。村長は歓迎してくれるって言ったけど村的にはそんな中、人が増えるのはあんまりいい顔されないような気もするよね」

「実際村の人に会ってみないことには分からないね」

「畑を作ってる人がいるって言ってたよね」

「言ってたね」

「ちょっと行ってみようよ。意味もなくぶらぶら歩くよりさ」

「そうだね。じゃあ、そうしようか。村の外れって夏芽さん言ってたよね」

「村の外れ……って?」

「村の外れ」

 明羽が復唱して氷呂は頷いた。ふたりは当てどなく歩き出す。踏みしめられて固くなった砂の上を歩きながら明羽は空を見上げる。そこに広がっているのは時々うねっては濃淡が変わるだけの茶色の空だった。

「初めて聞いた時はピンと来なかったけど、本当にこの村基本的に嵐の中なんだね」

「みたいだね。明羽と一緒に村長と話をした日以来ずっとこんな感じだから」

「でも、村の中あんまり風強くないよね。砂も殆んど飛んでないし」

「そうだね」

「なんでだろう?」

「不思議だね」

 明羽と氷呂は暫し黙る。

「分かんないことは考えても分かんないや。やめよう」

「そうだね」

「しっかし、ここはどこだろう……」

「どこだろうね……」

 ずっと同じような建物が並ぶ上に人ひとりともすれ違わない。明羽と氷呂は見事に道に迷っていた。

「夏芽さんは小さな村って言ってたけど……」

「見ず知らずの私達にとっては道二本も行けば未知の世界だったね」

「お、ダジャレ」

「ぐ、ぐうぜん……」

 氷呂の赤面は珍しい。明羽はこんな状況だが少し得した気分になってしまった。

「と、とにかく夏芽さんの助言通り少し広い道を探しましょう。そして、広場に出て仕切り直そう」

「そだね」

「さ、行こう。明羽」

「あ、待ってよ。氷呂」

 再び歩き出したふたりはすぐに立ち止まることとなる。行った先に人影があったのだ。ひとりのご婦人が道を歩いていた。

「すみません!」

 思わず大きな声になってしまって明羽自身ビックリしてしまう。案の定ご婦人もビックリした顔でこちらを振り返っていた。

「す、すみません……。急に大きな声出しちゃって……」

「いいえ。確かにびっくりしたけど大丈夫よ」

 笑って許してくれたご婦人に明羽はホッと胸を撫で下ろす。道を聞こうとして口を開き掛けた時、先にご婦人が口走っていた。

「ねえ。あなた達もしかして、明羽ちゃんと氷呂ちゃんじゃない?」

「え? はい。そうですが」

「知ってるの?」

「知ってるわよう! もちろんよ! 井戸の話! 氷呂ちゃんは村の救世主でしょ!」

 氷呂が言葉もなく明羽の陰に一歩隠れるように後退した。

「で、どっちが氷呂ちゃん?」

 明羽は氷呂を押し出した。

「この子です」

「明羽!?」

「私の自慢の友達です」

「あなたが!」

 ご婦人は氷呂の手を両手で握るとブンブンと縦に振る。

「ありがとうね。ありがとうね。村に来てくれて本当にありがとう!」

 ご婦人の興奮が収まった頃を見計らって明羽は畑の場所を聞いてみる。瞬間、ご婦人の顔が固まった。

「畑? 畑に行きたいの?」

「え? うん」

 ご婦人はとても言い辛そうに自分の手を揉んでからある方向を指差した。

「あっちよ。村の端の一角になるわ。でも、本当に行くの? あんまりおススメしないわよ?」

 あまりの言いように明羽は思わず唾を飲み込んでしまう。

「何かあるの?」

「あるというか、ないというか……。氷呂ちゃんのお蔭で水不足が解消して随分村の空気は軽くなったのよ。あの絶望感からの解放は正に希望の光。でもね、あそこは酷いものだわ。行くのは構わないけど、当てられないようにね」

 ご婦人にお礼と別れを告げて、目的地のハッキリした明羽と氷呂は再び歩き出す。

「私はすっかり次いでだったね。くふふ」

「笑い事じゃないよ」

「でも、そのお陰で厄介者扱いされないで済みそうじゃん。良かった良かった」

「明羽。面白がってるでしょう……」

「あはは」

「もう」

 不機嫌になりながらも一緒に目的地に向かってくれる氷呂と共に明羽は歩く。そして、あのご婦人の言葉の意味を思い知ることになる。その光景を前に明羽は黙り込んだ。

「明羽」

「あ、うん」

 氷呂に肘で小突かれて明羽は正気を取り戻す。

「そう言えば頓挫してるとか言ってたもんね。夏芽さん」

「言ってたね」

 目の前に広がるの小さな畑だった。村の端に設けられた一角。本当に小さな一角。そこには、畝があるから畑だと辛うじて分かるような情景が広がっていた。緑はないに等しい、砂色ばかりが広がる一角だった。そして、その砂色の中央に立つひとりの男性。その男性は握る鍬を支えに可視化する絶望を振り撒きながら辛うじて立っていた。

「明羽」

「あ、はい」

 再び氷呂に小突かれて明羽は正気を取り戻す。

「あの絶望は危険だ。あの人の言った通り当てられそうだ」

「もう、当てられてるよね」

「なんで氷呂は平気なの」

「畑作りに精を出したことがないからかな」

「なるほど」

 明羽はゆっくりと呼吸した。

「なんとかしたい……。なんとかせねば……。この畑はさすがに見てるの辛い」

 本当に軽い気持ちでちょっと見に来るだけのつもりだった明羽は今や畑の縁にしゃがみ込んで砂の感じを確かめていた。畑の中央で絶望を吐き出していた男性がいつの間にやらそこにいる明羽と氷呂に気付く。

「あー、君達……。勝手に畑に入らないで欲しいんだが……」

 明羽は畑に植わって畝にへばり付くようにへたっていた苗に眉を顰めるとそれを徐に引っこ抜いた。

「ちょ!? 何やってるのキミ!?」

「飾り棚」

「へ?」

「飾り棚が必要」

「カザリダナ?」

 明羽は手に持った苗を男性に突き出して言う。

「これは吊るして育てる野菜です!」

 瞬間、男性は雷に打たれたような顔になった。


 ザワザワという声に夏芽は誘われるようにそこに足を踏み入れた。

「何事?」

 つい最近まで、なんなら今日の朝まで閑散としていた畑に人集りができていた。

「ああ、夏芽! こっち! こっち来て! 見てごらんなさいな!」

 おばちゃん村人が夏芽を人集りの中へと引き込んでいく。

「なになに? なんなの?」

「いいから見てごらんなさいよ。驚くから!」

「これは……」

 閑散として茶色ばかりが目立っていた畑に僅かに、本当に僅かにだが緑が見えていた。

「どうゆう……」

 言いかけて夏芽はそこに最近知り合ったばかりのふたりの少女の姿を見つける。

「あの子達。家にいないと思ったらこんなところに……」

「すごいのよ!」

「え、え? なに?」

 おばちゃんが夏芽の腕をグイグイと引っ張る。

「あの子が言った通りにしたら見る見る畑の苗の様子が変わってね!」

 おばちゃんの話を要約すると、畑の発案者の男性が慌てた様子で村唯一の棟梁の元に駆け込んで「畑の一角に小さくていいから飾り棚を作ってくれ」と言ったところから始まり、勢いに呑まれて棟梁が貴重な木材を掻き集めて畑の一角に小さな飾り棚を作ると見慣れない少女が飾り棚に苗をぶら下げ始めた。何事かと思いながら棟梁が見ている間にぶら下げられた苗は僅かだがシャンとし、少女が自ら用意していたのか器に入った水を苗に振り掛けると苗は見る見るシャキッとし始めた。何が起きたのかと棟梁が目を見張っていると少女が「まだ間に合う。もっと水が必要だ」と言い、畑の発案者の男性はバケツを持って井戸へと駆け出したという。発案者の行動に気付いた村人達が何事かと畑に向かうと見慣れない少女が鍬を持って畑を耕し直している。何をやっているのだと眺めていると発案者が戻って来て少女が苗を植え直したところに水を掛けたり掛けなかったり……すると、少女が手を加えたところから苗は見る見る様相を変えていき、話を聞き付けた村人達が集まり今に至ると。

「へえ」

 夏芽は感嘆の声を上げた。

「八百屋の娘は畑作りにも精通してたってこと?」

 しかし、その肝心の少女は今、畑の端でぐったりと魂の抜けたような顔で座り込んでいた。

「畑仕事は病み上がりにはそりゃ無茶よね」

 なけなしの体力を使い切った明羽に変わって、今鍬を持って畑の中にいるのは氷呂だ。その氷呂が夏芽に気付く。

「夏芽さん」

 そして、畑の修復に没頭して時間が経っていることに氷呂は今更になって気付く。

「探したわよ~」

「すみません。ちょっと村の中を見て回ってすぐに戻るつもりだったんですけど」

「まあ、いいわ。明羽ちゃんはあんな様子だけど。氷呂ちゃんは大丈夫? 無理しちゃダメよ」

「私は全然大丈夫ですよ」

「まったく知らないところに来て、しかも日が浅い。しかも注目も浴びている。大変じゃない訳ないわ」

 氷呂は夏芽の優しさに嬉しそうに笑う。

「ありがとうございます。何かあったらすぐに夏芽さんのところに行きますね」

「ええ。そうしてちょうだい。さて、明羽ちゃんを回収した方がいいわね」

「私なら大丈夫ですよ~……」

 いつの間にやらヨレヨレながらも明羽が氷呂と夏芽の側にまで来ていた。

「あら。明羽ちゃん。歩けるなら上等ね。そのままお帰んなさい。今日はもう大人しくしてること。お茶を飲んで休む! いいわね」

「はい」

「は~い……」

 茶筒を振って見せる夏芽に明羽と氷呂は笑った。

 夏芽が集まっていた村人達に帰るように促し始め、明羽と氷呂も歩き出そうとすると声が掛けられる。

「待って、待ってくれ!」

「お兄さん」

 引き止める声に振り返れば畑の発案者の男性が駆け寄って来ていた。男性は明羽の手を握るとボロボロと涙を零し始める。

「わっ! ちょ、ちょっと!? どうしたの?」

「ありがとう……。ありがとう! 本当にありがとう! 君の言った通りに続けてみるよ。また、見に来てくれると嬉しい!」

 涙を流し、鼻の頭を赤くしながら笑う男性に明羽は少し恥ずかしさを覚えながらもその手をしっかりと握り返す。

「うん。また来るよ。じゃんじゃんバンバン見に来るから!」

「頼もしい!」

 男性に手を振って畑を後にした道すがら氷呂が鼻歌を歌う。

「嬉しそうだね。氷呂」

「そうだよ。すごく嬉しいの。明羽が認められたことがとても嬉しいの」

「そんなに?」

「そう!」

 今にも踊り出しそうな氷呂に明羽は苦笑する。空気がオレンジ色に染まり始めていた。ゆっくりと気温が落ちてくるのを肌ではっきりと感じられる時間。昼の灼熱の暑さに反比例するようにこれから夜にかけて気温は下がり、真夜中には極寒になる。冷たい風が吹いて明羽は肩を震わせた。

「冷えて来たね。明羽」

「だね。早く帰ろう」

 帰ろうと言って、少しの違和感を覚えたのを明羽はグッと心の奥へ押し隠す。温かいものが頬に触れて明羽が顔を上げると明羽の頬に両手を伸ばしたまま氷呂が微笑んだ。小さな家に着いて夏芽から貰ったお茶で一服する。

「疲れた」

 明羽は寝床の上に大の字に寝転がり、その側に氷呂が腰掛ける。

「少し歩くつもりが結構な運動量になったもんね」

 見慣れない天井を明羽はジッと見つめる。

「すごく、不思議な気分だ」

「うん?」

「私達、少し前までここじゃないところにいた。あそこにいるのが当然だと思ってた。まだ、そんなに経ってない筈なのにすごく昔のことのような気がする」

「この数日初めてのことばかりだったから」

「先生……。アサツキ先生に伝えたいよね。私達、今元気だよって。先生の言った通りだったよって。いい人だったよね。私達が人間じゃないって知っても黙っててくれた。先生のお蔭で……」

 黙った明羽の顔を氷呂は覗き込む。

「明羽」

「氷呂。……おばちゃん達、大丈夫かな? 私達の所為で酷い目に合ったりしてないかな?」

 氷呂は瞳を閉じ、グッと眉間に力を入れてからふっと力を抜く。

「明羽。変なこと考えないでね。飛び出して行ったりしないでね。おばさん達のことが心配なのは分かるけど」

「氷呂」

「おばさん達のことは私だってすごく気になる。でもね。明羽。明羽に何かあったら……私はそっちの方が怖い」

 氷呂に見つめられて明羽は目を伏せることしかできなかった。

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