第1章・緑色の瞳の少女と青色の瞳の少女(4)

「なるほど。つまり、ふたりの学校の先生が助けてくれたんだね。そして、あんな怪我をして今に至ると」

 白い獣と目が合って明羽はにわかに緊張した。

「怖がらなくても大丈夫」

 それは相手を安心させる優しい声色だった。

「すまないが夏芽なつめ。お茶をれてくれるかい?」

「はっ! すみません! 気付きませんでっ」

 夏芽なつめは白い尾を振り、奥の台所へと走っていく。

「さ、ふたり共、楽にしてくれ」

 囲炉裏いろりの周りには何枚もの反物たんものが敷いてあり、囲炉裏いろりはさんで明羽あはね氷呂ひろ、向かいに白い獣が鎮座つんざし、しな夏芽なつめは空いたところに席を取る。緊張が少しほどけて来ると、明羽は背中に違和感を覚え始めていた。

明羽あはね。私に寄り掛かっていいよ」

「うん」

「大丈夫か? 俺に寄り掛かった方が氷呂ひろも楽じゃないか?」

「大丈夫です。明羽あはねは軽いので」

 食い気味に拒否されてしなは軽くたじろぐ。

「そ、そうか」

「セ・ク・ハ・ラ~」

「なんでだよ……」

 お盆に人数分の湯飲みを乗せて戻ってきた夏芽なつめはとても楽しそうに笑っていた。

 明羽あはねがチラと氷呂ひろを見ると氷呂ひろは目をらし、明羽あはねは苦笑する。

「自己紹介が遅れてしまったね。一応、僕がこの村の村長です。と言っても僕が作った村だから村長に収まってるだけなんだ。よろしくね」

「一応ではないです。村長は間違まごうことなき村長です」

「そうですよ!」

「あはは」

 しな夏芽なつめは至って真剣だったが村長も分かっているのか笑っている。なごやかな雰囲気に明羽は少し気がゆるんだ。

「よろしくお願いします。明羽あはねでゅす」

「私は氷呂ひろです。よろしくお願いします」

「くっくっ……」

「ぶふっ……」

 こらえられなかったらしいしな夏芽なつめの笑い声が聞こえてきて、明羽あはねは赤面する。

しな夏芽なつめ

「はい」

「すみません」

 村長にたしなめられてしな夏芽なつめは背筋を伸ばした。

「このふたりとはもう自己紹介は済ませているかな。夏芽なつめは村唯一ゆいいつの医者。しなは村ではめずらしく外に出ることを、人間に会うことを苦にしていなくてね。度々たびたび、村にないものを外に調達しに行ってくれてるんだ。ふたり共、村にとって重要な人物だ。みんな頼りにしている。君達も何かあったらふたりを頼るといい」

「怪我したらすぐに私のところにいらっしゃいね」

「俺にできる範囲のことならやってやらないこともない」

「何よ。そのえらそうな言い方は」

「俺にだってできないことはあるからな」

 言い合いながらも言い切ったふたりに明羽あはね氷呂ひろは、ふたりが頼りになるという村長の言葉にうなずけるのだった。

「はい。明羽あはねちゃん。氷呂ひろちゃん。どうぞ」

 夏芽なつめが湯飲みを差し出す。

「ありがとう。夏芽なつめさん」

「いただきます」

 その湯飲みからはかぐわしい香りが立ち上り、鼻腔びこうをくすぐった。一口ふくめば花が咲いたような錯覚さっかくを起こす。

「おいしい!」

「本当。いい香り」

 氷呂ひろの同意も得て、明羽あはねは何度も大きくうなずいた。

「おいしい冷茶でしょ。しなが茶葉を仕入れてきてくれたの。水でもお湯でもれられて、この数日はこのお茶のおかげでみんな助かってるわ」

「そうなんだ」

「さて、一息ついたところで。人間にこの村の所在しょざいを知られているかもしれないという件について僕の見解けんかいを言おう」

 しな夏芽なつめ固唾かたづを飲む。

「まあ、大丈夫じゃない?」

「村長……」

「そんな軽くていいんですか……」

謝花じゃはなも似たような言い分だったんだろう? アサツキという人物について」

 夏芽なつめうなずく。

「そうです」

「三人から聞いた印象が同じなら、その先生の人柄はうたがわなくても大丈夫だろう」

 村長の言葉に明羽あはね氷呂ひろはホッと胸をろす。

「それに、分かっていたことだろう? 人間の間にまことしやかに噂される、僕達の村の存在。僕達の村が世界のどこかにあるかもしれないということ。それはこの村の存在を信じない者にとっては聞き流されるだけのただの噂だ。だが、信じる者にとってはこの村がどこにあるか思索しさくもするだろう。場所の手掛かりについては一切洩らさなかったんだから」

「それは、そうですが……。大まかでも場所を特定されているとしたら、やってくる人間もいるかもしれませんよ」

「その為の自然の防壁だろう。ほぼ毎日この村は嵐に見舞われている。村の上に青空が広がっていても、周囲では砂嵐が円を描いている。この砂嵐の中で人間は生きられない。方角を見失い、地に果てるだろう。砂嵐をけ、幾度いくどかに分けて進もうとしても、以前に来たところを把握はあくすることもできない。人間がここをおとずれるのは極めて難しいことだ。もし、おとずれる者がいるとすれば、運良く迷い込んだ者だけだよ。余程よほどの強運の持ち主だね」

 しなの渋い顔に村長は重ねて言う。

「それになにより、噂を流し始めたのは僕達なんだし」

 思わぬ言葉が飛び出して明羽あはねは目を丸くした。

「ええ!? そうなの!!」

「まあな」

 しなが肯定する。

「噂を信じた仲間がひとりでも多くここに辿たどり着いてくれればと思ってね。しなにそれとなく買い出しの時とかに流して貰ってたんだ」

「ちょっと触れ回っただけであっと言う間に広まったから最近は発信してないけどな」

「村の現状を思うとちょっと浅はかだったかな、とは思ってしまうけどね」

 村長は苦笑する。

「噂が……そうだったんだ。あれ、でも、場所のヒント一切なしでどうやってみんながここに辿り着くって思えたの?」

「まあ、確かに無謀むぼうだったかもしれないわね。賭けに近いわ。でも、長い時間を掛けて虱潰しらみつぶしに探せば辿たどり着けないこともないでしょう?」

 夏芽なつめの言葉に明羽あはねは納得できない。

「そんな、気の長い……。それに何だか、人間以外の種族は砂嵐の中でも生きられるみたいに聞こえたんだけど……」

 明羽あはねの言葉にしな夏芽なつめ、村長が顔を見合わせた。

「……何?」

明羽あはねちゃん。ちょっと、確認したいんだけど」

 夏芽なつめの改まった声に明羽あはねはちょっとかしこまる。

「うん」

「人間とそれ以外の種族で違いがあるのは知ってるわよね?」

「え? えっと……翼が生えてて空を飛べる、とか?」

明羽あはねちゃん、というか天使の場合はそうね。それ以外には?」

 氷呂ひろも答える。

「疲れにくいとは思います。人間に比べて体力はありますよね。私も明羽あはねも少し走ったぐらいでは息切れひとつしないし」

「それ、以外には?」

 夏芽なつめがさっきよりも詰め寄って来て、明羽あはね氷呂ひろは顔を見合わせた。それを見た夏芽なつめの目が混乱したようにしなと村長の顔を何度も往復する。

「落ち着け。夏芽なつめ

「ちょっと聞いてみようかな?」

「……はい」

 村長の優しい声が今や、明羽あはねはなんだか怖かった。

 自分達は何か間違っていただろうか、おかしなことを言っただろうかと不安になる。手に触れるものがあって見れば、氷呂ひろ明羽あはねの手を握っていた。明羽あはねはそれだけですっかり安心して村長に向き直る。

「君達ふたりは南の町から来たんだったね。謝花じゃはなもいた南の町の南門側の商店街だったかな」

「うん」

「生まれた時からずっとそこに? そういえば、ご両親は……」

「あ、私達、両親はいなくって」

「おばさん達……人間に拾われて、育ててもらってたんです」

「ええ!?」

「へえ。人間と暮らしてたのか」

 夏芽なつめしなが驚く。

「い、イジメられたりとかしなかった?」

 夏芽なつめの言葉に明羽あはねはムッとした。

「おばちゃん達はそんな人達じゃないよ」

 露骨ろこつに不機嫌な声を出してしまった明羽あはね氷呂ひろがフォローする。

「私達、本当に良くしてもらってました」

「あ……」

夏芽なつめ。落ち着け。人間だってそんな人達ばっかりじゃないのはお前だって知ってるだろ」

「そ、そうね。ごめんなさい。今のは私が悪かったわ」

 夏芽なつめが落ち込むのを見て、明羽あはね露骨ろこつ過ぎたと内心反省する。

「いつから……人間と一緒に暮らすように?」

「えっと……?」

「十年程前からです」

 すぐに答えられなかった明羽あはねに代わって氷呂ひろが答える。

「私達は十年程前に南の町の南門の前に辿たどり着きました。気付いたら砂嵐の中で。酷い砂嵐だったけれど門番の人が気付いてくれて、私達は南の町に入りました。それからです。おばさん達と暮らし始めたのは。私は呉服屋ごっふくやに。明羽あはね八百屋やおやに」

氷呂ひろ……」

「うん? どうかした? 明羽あはね

「いや、覚えてるんだと思って。私はその時のことあんまり覚えてないから。おばちゃんから聞いたから記憶にあるような気がするだけでさ」

「覚えてなくてもいいと思うよ」

「いや、でもさ。だってさ……そこからが私達の、記憶の始まりな訳でしょう?」

「そうだけど」

「ちょ~っと待ってくれる? ふたり共」

 呼ばれて明羽あはね氷呂ひろは顔を上げた。

「はい?」

「どうしたの? 夏芽なつめさん」

「どうしたのじゃないわよ。ふたりだけで完結しないでちょうだいな」

「そこが記憶の始まりってどういうことだ?」

「ああ」

 夏芽なつめしな明羽あはねは説明する。

「私達。十年より前の記憶がないんだ」

「さっきの話し方だとふたりそろってないように聞こえたんだけど……」

「うん。ふたりそろって」

 当然のように明羽あはねは頷くがしな夏芽なつめは目をしばたく。

「それはまた……不思議な偶然? もあるもんだな」

「そんなに不思議なことかなあ?」

「いやいやいや不思議だろ。意図的な何かが働いてんじゃないかってうたがいたくなるぐらいの不自然さだよ。村長。村長もそう思いませんか? ……村長?」

 しなが振り返ると、何やらうつむいていた村長がゆっくりと顔を上げた。

「ああ……そうだね」

「村長。どうかしましたか?」

「いや。何でもないよ」

 村長はそう言ったが夏芽なつめしなはひそひそとささやき合う。

「やっぱり、村長。疲れてるんじゃないかしら」

「そうだよなあ。水の心配がなくなったとはいえ、食料の方は片付いてないしな」

「早めにお開きにした方が……」

「大丈夫だよ」

 しな夏芽なつめが背筋を伸ばした。

「僕の前でひそひそ話なんて。意味のないことを」

 夏芽なつめがばつの悪そうな顔になる。

「そうでした……」

「ですが、村長……」

「本当に大丈夫だよ」

 村長にせられて、しな夏芽なつめは黙り込む。

「話の続きをしよう」

 明羽あはね氷呂ひろは村長に向き直る。

「ふたり共、十年より前の記憶がないとのことだったが本当に何も覚えていないのかな?」

「う~ん」

 問われて明羽あはねは考えてみるが、

「うん。本当に何にも思い出せない。覚えてない。氷呂ひろは?」

「そうだね。物の見事にぽっかりないんです」

「そうか。質問を変えよう。過去のない君達は自分達のことをどのようにして認識したのかな?」

「私が人間じゃなくて天使で」

「私が聖獣であるということを、ということですか?」

「そうだ」

 明羽あはねはまた考える。

「最初から、知ってたような……」

「そうだね。私もそんな気がする」

「教えてくれる人は誰もいなかったのに?」

 村長のそれはどこか挑発的な物言いだった。

「天使である。聖獣であるということはまあ、人間でも種族特有の特徴を見れば分かることだ。天使なら翼。聖獣なら本来の獣の姿。氷呂ひろ。君は自分が純血の聖獣だと思うかい?」

「はい。間違いなく」

 村長の問い掛けに氷呂ひろは即答した。

「気に掛かるのはそこだな。君は確かに純血の聖獣だ」

「ええ。間違いないですね。でも、それのどこに気掛かりが?」

 夏芽なつめが村長に同意してから首をかしげた。

氷呂ひろが純血の聖獣であることは私達から見て分かることだ。はたから見て、人間に分かるとは思えない。なにより氷呂ひろの人化は完璧だ。純血の聖獣にしかない飾り文様だって、人間の中で知る者は少ないだろう」

 氷呂ひろは思わず自身のうなじに手をやっていた。狩人はこれを見て氷呂ひろを純血の聖獣だと判断した。子供の頃、伸びてきた髪をキナが切ろうかと提案したのを、氷呂ひろかたくなに拒否した過去を思い出す。自分は確かに知っていた。誰に教えられなくとも、この文様の意味も自分の血の濃さも。

「私……」

「私はどっちだろー」

「へ?」

 あまりに能天気な声に氷呂ひろは隣に顔を向ける。

 明羽あはねがより一層氷呂ひろに体重を掛けた。

「ちょっ……明羽あはねっ。バランスが、ああ……」

「おう?」

明羽あはねっ!」

氷呂ひろちゃん!」

 倒れ込んだふたりにしな夏芽なつめあわてて立ち上がる。

 明羽あはねは背中に走った激痛に真っ青になった。

 明羽あはねしなに抱き起こされ、次いで自力で起き上がった氷呂ひろ明羽あはね脂汗あぶらあせの浮かぶ顔でウインクして見せた。

「もう、明羽あはねったら……」

 しなから明羽あはねを受け取って、氷呂ひろお明羽あはねを軽く抱き締める。体勢が整うと夏芽なつめがすかさず明羽あはねにデコピンした。

「痛い……」

「無理しない」

「ごめんなさーい」

「反省してるんだかしてないんだが……」

 しな明羽あはねの顔をのぞき込む。

「しっかし、分からないって? 氷呂ひろははっきり自覚してるようだってのに」

「う~ん。自覚はないなあ。正直どっちでもいいかなって」

「どっちでもいいかなって……。自分のことだろう」

「ん~。片翼だし。混血かな?」

「天使にとって片翼であるということは混血であるという証明にはならないよ」

 皆の視線が村長に集中する。

「まあ、片方にだけ四枚あるというのはとてもめずしいとは思うが。天使に関しては僕も見ただけじゃ分からないな」

「村長にも分からないことがあるんですね」

「僕にだって分からないことはあるよ。夏芽なつめは僕のこと、信用し過ぎだと思うなあ」

「あら。私だけじゃないですよ。しなだって」

「ああ。そうだな。村の中で村長を信頼してない者なんていません」

「うわー。なんでここでプレッシャー掛けて来るかな」

 村長がため息をつくのを見ながらしな夏芽なつめも笑っていた。そこにあるのは間違うことのない信頼関係だった。

「でも、村長。しんどい時は本当に言ってくださいね」

「できることは自分達でするんで」

「もちろん。頼りにしてるとも。さて、天使の性質上混血はないと思うが、ないと言い切ることもできないんだなこれが。むずかしい問題だ」

「村長って物知りなんだね」

「村長だからね」

 何故か夏芽まつめが胸を張っていた。

「分からない中、ひとつだけはっきり言えることはあるんだ。天使は翼の枚数によって力の強さが変わる」

「力?」

「村長それって……」

 明羽あはねが首をかしげるのを余所よそ夏芽なつめが前のめりになる。

明羽あはねは確か左翼さよくが四枚ある片翼の天使だったね?」

「見る?」

明羽あはねちゃん!!」

 夏芽なつめの本気の怒鳴どなり声に明羽あはねは今度ばかりは本当にちぢみ上がった。

「ご、ごめんなさい……」

 震える明羽あはねの頭を氷呂ひろが優しくでる。

「つまり、明羽あはねは対の翼をもつ天使の二倍の力を持っているということになる」

「まあ!」

 村長の言葉に夏芽なつめは目をキラキラとかがやかせた。

「すごい話になって来たなあ」

 しなは表情にはあまり出さなかったが、興味はあるのか明羽あはねをしげしげと見つめた。

「すごいわねえ。明羽あはねちゃん。初めて村に向かえた天使ってだけでアレなのに、何だか特別感半端ないわね」

夏芽なつめさん。盛り上がってるところ悪いんだけど……」

「なあに?」

「力って、何?」

 夏芽なつめが雷に打たれたような顔になった。

「それも分からないの!? 人間と私達の違いが分からないのは環境の所為せいだったとしても。なんとなく、ほら、なんとなく! こう! 教えられなくても不意に出ちゃうことあるもんじゃないの! ねえ、氷呂ひろちゃん! あなたは分かるわよね! 村に来てすぐみんなの目の前で使ったって聞いたわよ!」

「ええっと……」

「落ち着け。夏芽なつめ

 しな夏芽なつめなだめようとするが夏芽なつめは止まらない。

「人間の中で生活していたからって自分達が人間じゃないことはふたり共自覚してたんでしょう? それなのに? それなのに!?」

「落ち着けって……」

「すみません」

「ごめんなさい」

「いや、明羽あはね氷呂ひろも謝ることじゃねえから。空気にまれんな」

 しな明羽あはね氷呂ひろの頭をぐるぐるとで回す。

「つまり、それこそが人間と僕達との最も大きな違いなんだよ」

 少しぼさついた頭で明羽あはね氷呂ひろは村長に目を向ける。薄紫色の瞳がふたりを見据みすえていた。

「我々は人間が持たない力を持っている。聖獣は水をあやつり、悪魔は闇を友とし、精霊は自然そのものであり、魔獣は大地を知る者だ。そして、天使は風を読み、あやつる。動物はあの大きな身体で地上を、空を駆け巡ることができる。それから、我々は人間に比べて寿命が長い。それゆえに君達が言ったように少しばかり丈夫なつくりになっている」

 明羽あはねは恐る恐る手を上げていた。

「丈夫、というのは……?」

 氷呂ひろは「疲れにくい」と言ったのだ。それに、明羽あはねも同意見だった。けれど、村長の物言いは明らかにそれ以上の何かをふくんでいた。村長はあっさりと答えてくれる。

「死ににくいということだよ」

「……そうですか」

 明羽あはねはガックリと項垂うなだれた。明羽あはね夏芽なつめの驚きをやっと理解した。自分達は本当に自分達のことを何も分かっていなかった。知って良かったような知りたくなかったような。実感はいまだにないし。それでも、これからも自分として生きていく以上受け入れて行かなくてはいけない事実だと明羽あはねは顔を上げる。

「ええっと、つまり? 村長の言葉通りなら私は風をあやつれるってことだよね」

「そうだよ」

「しかも、対の翼を持つ天使の二倍? の力って話だったよね」

「その通り」

「うう~ん。今までそんな気配感じたこともないんだけど」

「まあ、必要がなかったからと考えられなくもないかな」

 明羽あはねは首をかしげた。

「本来の種族としての生活では普通に使うものだが、君達はその力を必要としない場所にいたから。人間は他の種族が扱うような力を一切持っていない種族だ。そして、君達は、力を持って相手を跳ねけることも、逃げることも、自分の身を守る必要もない安全な場所にいた。そういうことなんじゃないかと僕は推測すいそくするよ」

「ふたりが居たのは南の町の南門の近くだって言ってたものね」

「思えば北から最も離れた場所か」

 夏芽なつめしなうなずく。

「南の町って北の町から離れてるから人間の王や権力者の目が届かないのよね。だから規律はきびしくないし、役人の数も少ない。でも、治安ちあんは安定していて。そう思うと、私達にとっても割といいところかしら」

「そういう場所で育ったんなら。お前らのそののんびりした性格もうなずけるかもな」

「ちょっと。明羽あはねちゃん氷呂ひろちゃん? さっきから黙ってるけど。世界のり方まで知らないなんて言わないでよ?」

「地理ハ……ニガテ」

「何でカタコト?」

「世界の形については理解しているつもりです。北、南、西、東に四大都市があって、その他に世界各地に点在するオアシス。オアシスは機械や石や鉱石や農耕や布など他にも様々に特化していて、それぞれにまつわる技術が集約していると」

「その通りよ。氷呂ひろちゃん、さすがね」

「いえ、このぐらいは……」

「それにしても不思議よねえ。人間の王がいる世界の中心、北の町が世界で一番繁栄はんえいしているのは分かるけど、そこから真反対の最も離れた場所にある南の町が世界で二番目に繁栄はんえいしてるんだから」

「え、そうなの?」

 氷呂ひろ明羽あはねの脇腹を黙って小突こづいて、明羽あはねはその脇腹をさすった。

「いたい……」

「授業でもやってたし、おばさん達やご近所の人達の話を聞いてれば嫌でも分かることだよ」

 氷呂ひろのため息にはさすがに明羽あはねも傷付いた。

「そんなこと言われたって……」

「一応……一応さらっとくか?」

 明羽あはねがあまりにも可哀相かわいそうに見えたのか、しなが遠慮がちに説明する。

「この世界は最も繁栄はんえいする北の町を起点に南の町、東の町、西の町の四大都市とその他世界各地に点在する大小様々のオアシスから成り立ってる。さっき氷呂ひろが言った通り、オアシスはそれぞれに特産となる物、技術などに特化していて、その特徴から「東の町よりの石のオアシス」やら「南の町よりの布のオアシス」とか呼ばれる訳だ。ただ、不思議なことにこのオアシスも何故か北側に多く、北の町が繁栄はんえいしているのはそれも要因のひとつだな。他は割とばらけているので南の町が世界で二番目に繁栄はんえいしているのは本当に謎だ。三番目に繁栄はんえいしていると言える東の町は石の町だ。東側は良質な岩石が多くれる為、その周辺のオアシスも石に特化したものが集中してる。そして西の町だが、ここも四大都市のひとつとして数えられてはいるが、これに関してはただ人口が多いからだ。実際のところ繁栄はんえいしているというなら、その周辺のオアシスの方がはるかに繁栄はんえいしていると言える。あの町は恐らく世界で最も治安が悪い場所だろう。貧富の差も激しく、あの町には砂避けの壁すらない」

「そう、なんだ……」

 世界にはそんな場所もあるのだと、世界のことにあまりにも無頓着むとんちゃくだった自分に明羽あはね氷呂ひろのため息に少し納得してしまった。

「そんな場所、私からしたらさっさと出て行っちゃえばいいと思うんだけどね」

 夏芽なつめが肩をすくめた。

「先立つものがないんだ。オアシスを経由して町から町の間を行き来する巡行バスもあの町はけて通る傾向けいこうがある。砂漠を渡り歩くすべを用意するのには大金たいきんがいる。それに何より自分が生まれ育った町に愛着のある人も多いみたいだ」

「……なるほど」

 夏芽なつめは膝に視線を落としたかと思うと床をそっと指先ででる。夏芽なつめがこの場所に、この村に愛着があるのは明白で、その行動は「その気持ちは分かる」と言っているようだった。

「少し話がズレたな。世界の在り様はざっとこんなもんだ。少しはかしこくなったか? 明羽あはね

「うん」

「いや、今のは冗談……」

 素直すなおすなずいた明羽あはねしなは軽く頭をいた。

「まあ、なんだ。人の話聞いただけで分かることなんて微々たるもんだ。興味が出たならその内、自分の目で見てくるといいさ」

 掛けられた言葉に明羽あはねしなを見上げていた。

「うん」

 目に光を宿し、しっかりうなずいた明羽あはねに、

「今は駄目よ」

 夏芽なつめくぎを差した。見れば村長と氷呂ひろうなずいている。

しなあぁ……」

 夏芽なつめにらまれて、しなはちょっと身構えた。

「な、なんだよ」

「なんだよじゃないわよ。その気になった明羽あはねちゃんがお散歩気分で村の外に出ちゃったらどうするのよ」

「さすがに飛び出していくようなことはしねえだろ。そこまで馬鹿じゃねえだろ」

「私は馬鹿だと思われているらしい。まだ出会って間もないのに」

明羽あはね。今のは言葉のあやだ。聞き流せ」

明羽あはねちゃんも氷呂ひろちゃんも狩人かりゅうどに追われて命からがら逃げて来たのよ。そうだったわよね? 氷呂ひろちゃん」

「はい。そうです」

「ひとりは純血の聖獣。もうひとりは左側にのみ四枚の翼を持つ片翼の天使。今頃、人相書にんそうがきが世界中に出回ってるわよ。それなのにあんたは明羽あはねちゃんをそそのかすようなことを言って」

「だから、そこまで馬鹿じゃねえだろって」

「また馬鹿って言った」

明羽あはね。後でたんまりあやまってやるから今はちょっと黙っててくれ」

「もう、明羽あはね

「えへへ」

 面白がってるのを言外ごんがい氷呂ひろたしなめられて明羽あはねは笑う。

「おっほん」

 重厚じゅうこう咳払せきばらいに場が静まり返った。四人が村長に顔を向ける。村長は一度、まばたきすると明羽あはね氷呂ひろの顔を、その瞳をジッと見つめた。

「な、なに、か?」

「いや」

 村長は目をせた。

「話が長くなったね。そろそろお開きにしようか。話を聞く限り、特に問題はないようだし。明羽あはねもまだまだ本調子には程遠ほどとおいだろう。歓迎かんげいするよ。明羽あはね氷呂ひろ。ようこそ、僕達の村へ。気に入ってくれると嬉しい」

 ここへ辿たどり着く道すがら、明羽あはね氷呂ひろはすっかりこの村でこれから過ごすものだと思っていたが、今それが正式に決まったらしい。

 ふたりはお互いの手を握り合う。

「うん。これから、よろしくお願いします。村長」

「お世話になります」

 しな明羽あはねを再びかかえ上げる。それを見ながら氷呂ひろ嫉妬しっとで渋い顔をするのを見て明羽あはねが笑う。夏芽なつめが空になった湯飲みを片付け終えて戻って来る。と、四人を見送る為に立ち上がった村長がぽつりとつぶやいた。

「君達は自分達が何者なのか、どこから来たのか、気にはならないのだろうか」

 明羽あはね氷呂ひろが顔を見合わせた。

「私は、氷呂ひろが私のことを見ててくれて、知ってくれてるから。それで十分かな。自分の証明なんて」

「私も。明羽あはねが私の側に、目の届くところ、手の届くところにいてくれるなら、私の存在する意味は十分なので」

 言い切るふたりに村長は頷いた。

「そうか」

 家を出てからも村長は言葉をくれる。

「力を使う練習もしてみるといい。きっと、できるようになるよ」

 しなかかえられたまま明羽あはねは村長に手を振った。その時、背中が痛んで少しばかり顔をしかめた明羽あはねに村長は困ったように苦笑する。

 明羽あはね氷呂ひろしな夏芽なつめの四人が去って行く背中を眺めて、村長の薄紫色の瞳がうるんだ。

「私はかつて、君達を見たことがあるよ」

 今、村長の眼前に広がるのは遠い昔に見た光景。今はもう見ることのできない、遠い遠い昔の情景。地面をおおくす程に白い花の咲き乱れる景色の中。そこにたたずむのは真っ白な五対の翼を持つ天使の後ろ姿だ。

「……」

 村長は記憶の風景から目をそむけるようにきびすを返し、村の見回りに行く為に歩き出す。


 明羽あはね診療所しんりょうじょに戻るとすぐに熱を出し、寝込むこととなった。しな夏芽なつめが「やっぱり無理があったか」と反省したり、氷呂ひろが付きっきりで明羽あはねの看病をしたり、謝花じゃはなも心配して何度も様子を見に来たり。村長も来たような気がしたが、それは明羽あはねには朧気おぼろげな記憶としてしか残っていない。

 しばらくの後、診療所しんりょうじょの前。あざややかな緑色の丸い瞳は開かれる。明羽あはねは空に向かって伸びをした。真っ青な空とは程遠い、砂嵐でけむる薄日の差し込む空だったが、それでも、明羽あはねは晴れやかな気分で宣言せんげんする。

「完! 全! 復! 活! 私!!」

「完全じゃないから」

 夏芽なつめ明羽あはねの後頭部をはたいた。

「痛いよ。夏芽なつめさん」

「無茶されちゃ困るからね。きもめいじなさい。まだ! 飛んじゃダメよ」

「はい……」

 それでも、っても曲げてもひねっても、もうどこも痛くないことに明羽あはねは嬉しくてしょうがない。

「うおおぉぉ! 今、無性むしょうに走りたい気分!」

「良いわよ。走るだけなら」

「!」

 夏芽なつめの許しが出て明羽あはね嬉々ききとして走り出した。診療所しんりょうじょの前を行って帰って……。

「ゼッ……ハッ……」

「ずっと寝てたんだから体力が落ちてるのは当然よね。大人しく、少しずつ、体力回復にはげみなさいな」

夏芽なつめさんの……イジワル……」

 さっきまでの無敵感、解放感はどこへやら。なけなしの体力を使い切って明羽あはねは地面に寝転がりたい気分だったが、何とかそれだけはこらえて膝に手を付くだけにとどまる。笑う夏芽なつめへのせめてもの抵抗だった。

「それにしても氷呂ひろちゃんが止めなかったのは以外ね」

 夏芽なつめの隣では氷呂ひろが一緒に明羽あはねの感情の落差をながめていた。

明羽あはねは言われただけじゃ分からないので。自分の今の状態を分かってもらうには実感してもらった方が早いと思って」

氷呂ひろもヒドイ……」

「これは明羽あはねのことを思ってのことだよ」

「そうよね。愛よね。愛」

「アイ……」

「さて、明羽あはねちゃんが自分の状態を把握はあくしたところで。案内するわ。ふたり共、付いて来て」

「案内ですか?」

「どこか行くの?」

「これからも診療所しんりょうじょで寝泊まりする訳にはいかないでしょう?」

 歩き出した夏芽なつめの後を明羽あはね氷呂ひろは追い掛けた。

「準備出来たって連絡来てね。とは言っても軽い掃除と寝床ねどこ用の掛布かけふを洗濯しただけだけど」

「これから、わ、私達が住む家ってことだよね?」

「そうよ」

 少し緊張してどもってしまった明羽あはね夏芽なつめは笑う。

明羽あはねちゃんと氷呂ひろちゃん、ふたり一緒で良かったわよね。と言っても村では家に余裕がないから基本的にみんな誰かしらと一緒に住んでるの。だから、嫌と言われても困るけど」

「嫌なんて言わないよ」

「言わないです」

「ふふ。ふたりはそう言うと思ったわ」

「でも、余裕がないなら私達が住む家にも誰か住んでたんじゃないの?」

 誰かの家を取ってしまったのではないかと心配する明羽あはね余所よそ夏芽なつめはあっけらかんと言う。

「いいのよ。これであの子も決心ついたみたいだし」

「あの子?」

「決心ですか?」

「お互い好き合ってるのにどうにも自信がなかったみたいでね。さっきはみんな誰かしらと住んでるって言ったけどその子はずっとひとりだったのよね。さそわれても一緒に暮らすことに自信がなかったみたいで。その後押しを明羽あはねちゃんと氷呂ひろちゃんがしてくれたの。気にすることないわ」

「それは……本当に大丈夫だったの?」

「大丈夫よ。もう一緒に暮らし始めて「もっと早く一緒に暮らしてれば良かった!」って本人が言ってるんだから」

「ああ。そうなんだ」

 明羽あはねは心の底からホッとする。夏芽なつめは村長の家が面する井戸のある広場を通らず、せまい路地を通っていく。村の中はとても静かだった。

「はい。着いたわよ」

 夏芽なつめが立ち止まったそこには小さな一軒家が建っていた。同じような土造りの四角い建物が密集して立ち並ぶうちの一件。夏芽なつめが木戸を開ける。中をのぞき込めば、天井近くにある明り取りの窓から光が差し込んで、部屋の中を浮かび上がらせていた。入ったところすぐが土間どまで、はしに大きなかめと火がける場所があり、食器類が入っている棚がそなえ付けられていた。土間どまから少し高くなったところが生活空間で、一番奥のさらに一段高くなった、ふたりが寝るには十分な広さの寝床ねどこにはカラフルな掛布かけふ幾枚いくまいも乗せられていた。その側には食器棚とは違い、空のチェストが置いてある。いわゆる1Kの物件だった。

「すごい」

「だね」

水瓶みずがめが空っぽね。夜にそなえて火種も貰ってこないとね」

 家の外で夏芽なつめが指を差す。

「村に井戸はひとつだけよ。この前見たわよね」

「はい」

 氷呂ひろが返事をする。

「ここを少し進むとね、少し広い道に出るの。その道に沿って歩くと井戸のある広場に着くわ。この村はあの井戸を中心に広がっていてね。外側に行く程、家が密集して路地になるんだけど、村の中をつらぬくように十字に広めの道が作ってあって、井戸に行くにはその道に出てから向かうのが早いから。慣れるまでは広場に出てから移動するといいわ。診療所しんりょうじょの場所も広場からなら分かるわよね」

「はい」

「何かあったらすぐに来るのよ」

「何から何までありがとうございます」

「いいのよ。これから長い付き合いになるわ。遠慮なんてしてられないわよ。それから、今食べ物は配給制でね。朝だけ……」

 諸々もろもろの説明が終わると、夏芽なつめ明羽あはね氷呂ひろ水汲みずくみに向かう。隣家の聖獣の間の子だという老夫婦から火を分けてもらい、三人は白湯さゆで一服した。

「後であの茶葉分けてあげる。ふたりは少し新しい家でゆっくりして。じゃ、また後でね」

 夏芽なつめ明羽あはね氷呂ひろの新居を後にする。

「これからはここが私達の帰ってくる場所になるんだね」

「そうだね」

 明羽あはね寝床ねどこに腰を下ろしている間、氷呂ひろはキッチンの点検に精を出す。

「私が診療所しんりょうじょで寝てる間、氷呂ひろはどこで寝泊まりしてたの?」

謝花じゃはなのところにお邪魔してたの」

「おお」

「ご両親と三人。本当に幸せそうだったよ」

「そっか」

 明羽あはねは少し目をせる。謝花じゃはなの本質は変わらない。謝花じゃはなは南の町にいた頃から明るく、太陽のように笑う女の子だった。けれど、南の町にいた頃は暗い顔でうつむいていることが多かったのだ。それが今はあの頃よりずっと明るく奔放ほんぽうに笑っている。

「そうか」

 明羽あはね微笑ほほえむ。微笑ほほえんでからふっとその笑みは引っ込んだ。

明羽あはね

「ん?」

「少し村の中を歩いてみない?」

 きっと氷呂ひろだって同じことに考えいたっていただろうに、気に掛けてくれたことに明羽あはねは立ち上がる。

「うん。行こう。あ、でも夏芽なつめさんがまた来てくれるんだっけ」

「まだ時間はあるよ。きっと。根拠はないけど。入れ違いになったらあやまろう」

 氷呂ひろの物言いに明羽あはねは笑う。明羽あはね氷呂ひろは家の外へ出た。

「それにしても配給かあ。食料不足なんだっけ。村長は歓迎かんげいしてくれるって言ったけど村的にはそんな中、人が増えるのはあんまりいい顔されないような気もするよね」

「実際、村の人に会ってみないことには分からないね」

「畑を作ってる人がいるって言ってたよね」

「言ってたね」

「ちょっと行ってみようよ。意味もなくぶらぶら歩くよりさ」

「そうだね。じゃあ、そうしようか。村の外れって夏芽なつめさん言ってたよね」

「村の外れ……って?」

「村の外れ」

 明羽あはねが復唱して氷呂ひろうなずいた。ふたりは当てどなく歩き出す。踏みしめられて固くなった砂の上を歩きながら明羽あはねは空を見上げる。そこに広がっているのは時々うねっては濃淡が変わるだけの茶色の空だった。

「初めて聞いた時はピンと来なかったけど、本当にこの村、基本的に嵐の中なんだね」

「みたいだね。明羽あはねと一緒に村長と話をした日以来ずっとこんな感じだから」

「でも、村の中あんまり風強くないよね。砂も殆んど飛んでないし」

「そうだね」

「なんでだろう?」

「不思議だね」

 明羽あはね氷呂ひろしばし黙る。

「分かんないことは考えても分かんないや。やめよう」

「そうだね」

「しっかし、ここはどこだろう……」

「どこだろうね……」

 ずっと同じような建物が並ぶ上に人っこひとりともすれ違わない。明羽あはね氷呂ひろは見事に道に迷っていた。

夏芽なつめさんは小さな村って言ってたけど……」

「見ず知らずの私達にとっては道二本も行けば未知の世界だったね」

「お、ダジャレ」

「ぐ、ぐうぜん……」

 氷呂ひろの赤面はめずしい。明羽あはねはこんな状況だが、少し得した気分になってしまった。

「と、とにかく夏芽なつめさんの助言通り、少し広い道を探しましょう。そして、広場に出て仕切り直そう」

「そだね」

「さ、行こう。明羽あはね

「あ、待ってよ。氷呂ひろ

 再び歩き出したふたりはすぐに立ち止まることとなる。行った先に人影があったのだ。ひとりのご婦人が道を歩いていた。

「すみません!」

 思わず大きな声になってしまって明羽あはね自身ビックリしてしまう。案の定ご婦人もビックリした顔でこちらを振り返っていた。

「す、すみません……。急に大きな声出しちゃって……」

「いいえ。確かにびっくりしたけど大丈夫よ」

 笑って許してくれたご婦人に明羽あはねはホッと胸をで下ろす。道を聞こうとして口を開き掛けた時、先にご婦人が口走っていた。

「ねえ。あなた達もしかして、明羽あはねちゃんと氷呂ひろちゃんじゃない?」

「え? はい。そうですが」

「知ってるの?」

「知ってるわよう! もちろんよ! 井戸の話! 氷呂ひろちゃんは村の救世主でしょ!」

 氷呂ひろが言葉もなく明羽あはねの影に一歩隠れるように後退こうたいした。

「で、どっちが氷呂ひろちゃん?」

 明羽あはね氷呂ひろを押し出した。

「この子です」

明羽あはね!?」

「私の自慢の友達です」

「あなたが!」

 ご婦人は氷呂ひろの手を両手で握るとブンブンと縦に振る。

「ありがとうね。ありがとうね。村に来てくれて本当にありがとう!」

 ご婦人の興奮が収まった頃を見計らって明羽あはねは畑の場所を聞いてみる。瞬間、ご婦人の顔が固まった。

「畑? 畑に行きたいの?」

「え? うん」

 ご婦人はとても言い辛そうに自分の手をんでから、ある方向を指差した。

「あっちよ。村のはしの一角になるわ。でも、本当に行くの? あんまりおススメしないわよ?」

 あまりの言いように明羽あはねは思わずつばを飲み込んでしまう。

「何かあるの?」

「あるというか、ないというか……。氷呂ひろちゃんのおかげで水不足が解消して、随分村の空気は軽くなったのよ。あの絶望感からの解放は正に希望の光。でもね、あそこはひどいものだわ。行くのは構わないけど、当てられないようにね」

 ご婦人にお礼と別れを告げて、目的地のハッキリした明羽あはね氷呂ひろは再び歩き出す。

「私はすっかりだったね。くふふ」

「笑い事じゃないよ」

「でも、そのお陰で厄介者あつかいされないで済みそうじゃん。良かった良かった」

明羽あはね。面白がってるでしょう……」

「あはは」

「もう」

 不機嫌になりながらも一緒に目的地に向かってくれる氷呂ひろと共に明羽あはねは歩く。そして、あのご婦人の言葉の意味を思い知ることになる。

 その光景を前に明羽あはねは黙り込んだ。

明羽あはね

「あ、うん」

 氷呂ひろひじ小突こづかれて、明羽あはね正気しょうきを取り戻す。

「そう言えば頓挫とんざしてるとか言ってたもんね。夏芽なつめさん」

「言ってたね」

 目の前に広がるの小さな畑だった。村のはしもうけられた一角。本当に小さな一角。そこには、うねがあるから畑だと辛うじて分かるような情景が広がっていた。緑はないに等しい、砂色ばかりが広がる一角だった。そして、その砂色の中央に立つひとりの男性。その男性は握るくわを支えに可視化する絶望を振りきながら辛うじて立っていた。

明羽あはね

「あ、はい」

 再び氷呂ひろ小突こづかれて、明羽あはね正気しょうきを取り戻す。

「あの絶望は危険だ。あの人の言った通り、当てられそうだ」

「もう、当てられてるよね」

「なんで氷呂ひろは平気なの」

「畑作りに精を出したことがないからかな」

「なるほど」

 明羽あはねはゆっくりと呼吸した。

「なんとかしたい……。なんとかせねば……。この畑はさすがに見てるの辛い」

 本当に軽い気持ちでちょっと見に来るだけのつもりだった明羽あはねは今や畑の縁にしゃがみ込んで砂の感じを確かめていた。畑の中央で絶望を吐き出していた男性がいつの間にやらそこにいる明羽あはね氷呂ひろに気付く。

「あー、君達……。勝手に畑に入らないで欲しいんだが……」

 明羽あはねは畑に植わってうねにへばり付くようにへたっていた苗に眉をひそめると、それをおもむろに引っこ抜いた。

「ちょ!? 何やってるのキミ!?」

「飾り棚」

「へ?」

「飾り棚が必要」

「カザリダナ?」

 明羽あはねは手に持った苗を男性に突き出して言う。

「これは吊るして育てる野菜です!」

 瞬間、男性は雷に打たれたような顔になった。


 ザワザワという声に夏芽なつめさそわれるようにそこに足を踏み入れた。

「何事?」

 つい最近まで、なんなら今日の朝まで閑散かんさんとしていた畑に人集ひとだかりができていた。

「ああ、夏芽なつめ! こっち! こっち来て! 見てごらんなさいな!」

 おばちゃん村人が夏芽なつめ人集ひとだかりの中へと引き込んでいく。

「なになに? なんなの?」

「いいから見てごらんなさいよ。驚くから!」

「これは……」

 閑散かんさんとして、茶色ばかりが目立っていた畑にわずかに、本当にわずかにだが緑が見えていた。

「どうゆう……」

 言いかけて夏芽なつめはそこに最近知り合ったばかりのふたりの少女の姿を見つける。

「あの子達。家にいないと思ったらこんなところに……」

「すごいのよ!」

「え、え? なに?」

 おばちゃんが夏芽なつめの腕をグイグイと引っ張る。

「あの子が言った通りにしたら見る見る畑の苗の様子が変わってね!」

 おばちゃんの話を要約すると、畑の発案者の男性が慌てた様子で村唯一ゆいいつ棟梁とうりょうの元に駆け込んで「畑の一角に小さくていいから飾り棚を作ってくれ」と言ったところから始まり、勢いにまれて棟梁とうりょうが貴重な木材をき集めて畑の一角に小さな飾り棚を作ると、見慣れない少女が飾り棚に苗をぶら下げ始めた。何事かと思いながら棟梁とうりょうが見ている間にぶら下げられた苗はわずかだがシャンとし、少女がみずから用意していたのかうつわに入った水を苗に振り掛けると、苗は見る見るシャキッとし始めた。何が起きたのかと棟梁とうりょうが目を見張っていると、少女が「まだ間に合う。もっと水が必要だ」と言い、畑の発案者の男性はバケツを持って井戸へと駆け出したという。発案者の行動に気付いた村人達が何事かと畑に向かうと、見慣れない少女がくわを持って畑をたがやし直している。何をやっているのだと眺めていると発案者が戻って来て、少女が苗を植え直したところに水を掛けたり掛けなかったり……すると、少女が手を加えたところから苗は見る見る様相ようそうを変えていき、話を聞き付けた村人達が集まり今にいたると。

「へえ」

 夏芽なつめ感嘆かんたんの声を上げた。

八百屋やおやの娘は畑作りにも精通せいつうしてたってこと?」

 しかし、その肝心の少女は今、畑のすみでぐったりと魂の抜けたような顔で座り込んでいた。

「畑仕事は病み上がりにはそりゃ無茶よね」

 なけなしの体力を使い切った明羽あはねに変わって、今くわを持って畑の中にいるのは氷呂ひろだ。その氷呂ひろ夏芽なつめに気付く。

夏芽なつめさん」

 そして、畑の修復に没頭ぼっとうして時間が経っていることに氷呂ひろ今更いまさらになって気付く。

「探したわよ~」

「すみません。ちょっと村の中を見て回ってすぐに戻るつもりだったんですけど」

「まあ、いいわ。明羽あはねちゃんはあんな様子だけど。氷呂ひろちゃんは大丈夫? 無理しちゃダメよ」

「私は全然大丈夫ですよ」

「まったく知らないところに来て、しかも日が浅い。しかも注目も浴びている。大変じゃない訳ないわ」

 氷呂ひろ夏芽なつめの優しさに嬉しそうに笑う。

「ありがとうございます。何かあったらすぐに夏芽なつめさんのところに行きますね」

「ええ。そうしてちょうだい。さて、明羽あはねちゃんを回収した方がいいわね」

「私なら大丈夫ですよ~……」

 いつの間にやらヨレヨレながらも明羽あはね氷呂ひろ夏芽なつめの側にまで来ていた。

「あら。明羽あはねちゃん。歩けるなら上等ね。そのままお帰んなさい。今日はもう大人しくしてること。お茶を飲んで休む! いいわね」

「はい」

「は~い……」

 茶筒ちゃづつを振って見せる夏芽なつめ明羽あはね氷呂ひろは笑った。

 夏芽なつめが集まっていた村人達に帰るようにうながし始め、明羽あはね氷呂ひろも歩き出そうとすると、声が掛けられる。

「待って、待ってくれ!」

「お兄さん」

 引き止める声に振り返れば畑の発案者の男性が駆け寄って来ていた。男性は明羽あはねの手を握るとボロボロと涙をこぼし始める。

「わっ! ちょ、ちょっと!? どうしたの?」

「ありがとう……。ありがとう! 本当にありがとう! 君の言った通りに続けてみるよ。また、見に来てくれると嬉しい!」

 涙を流し、鼻の頭を赤くしながら笑う男性に、明羽あはねは少し恥ずかしさを覚えながらもその手をしっかりと握り返す。

「うん。また来るよ。じゃんじゃんバンバン見に来るから!」

たのもしい!」

 男性に手を振って畑を後にした道すがら、氷呂ひろが鼻歌を歌う。

「嬉しそうだね。氷呂ひろ

「そうだよ。すごく嬉しいの。明羽あはねが認められたことがとても嬉しいの」

「そんなに?」

「そう!」

 今にも踊り出しそうな氷呂ひろ明羽あはねは苦笑する。空気がオレンジ色に染まり始めていた。ゆっくりと気温が落ちてくるのを肌ではっきりと感じられる時間。昼の灼熱しゃくねつの暑さに反比例はんぴれいするように、これから夜にかけて気温は下がり、真夜中には極寒ごっかんになる。

 冷たい風が吹いて明羽は肩を震わせた。

「冷えて来たね。明羽あはね

「だね。早く帰ろう」

 帰ろうと言って、少しの違和感を覚えたのを明羽あはねはグッと心の奥へ押し隠す。温かいものが頬に触れて、明羽あはねが顔を上げると、明羽あはねの頬に両手を伸ばしたまま氷呂ひろが微笑んだ。

 小さな家に着いて夏芽なつめからもらったお茶で一服する。

「疲れた」

 明羽あはね寝床ねどこの上に大の字に寝転ねころがり、その側に氷呂ひろが腰掛ける。

「少し歩くつもりが結構な運動量になったもんね」

 見慣れない天井を明羽あはねはジッと見つめる。

「すごく、不思議な気分だ」

「うん?」

「私達、少し前までここじゃないところにいた。あそこにいるのが当然だと思ってた。まだ、そんなに経ってない筈なのに、すごく昔のことのような気がする」

「この数日初めてのことばかりだったから」

「先生……。アサツキ先生に伝えたいよね。私達、今元気だよって。先生の言った通りだったよって。いい人だったよね。私達が人間じゃないって知っても黙っててくれた。先生のお陰で……」

 黙った明羽あはねの顔を氷呂ひろのぞき込む。

明羽あはね

氷呂ひろ。……おばちゃん達、大丈夫かな? 私達の所為せいひどい目に合ったりしてないかな?」

 氷呂ひろは瞳を閉じ、グッと眉間みけんに力を入れてから、ふっと力を抜く。

明羽あはね。変なこと考えないでね。飛び出して行ったりしないでね。おばさん達のことが心配なのは分かるけど」

氷呂ひろ

「おばさん達のことは私だってすごく気になる。でもね。明羽あはね明羽あはねに何かあったら……私はそっちの方が怖い」

 氷呂ひろに見つめられて、明羽あはねは目をせることしかできなかった。

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