第1章(2)

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「だーから! 私ゃ知らなかったんだって。何度言やあ分かるんだい。お役人さん!」

 南の町、南門前の大通りに声が響き渡る。八百屋やおやの前に人集ひとだかりができていた。

 客ではなく野次馬やじうまでできた人集ひとだかりの中心にいるのはその八百屋やおや女将おかみと白い制服に身を包んだひとりの男だった。服とそろいの白い帽子にそろいの白鞘しろさや。この役人は明羽あはね氷呂ひろが南門を飛び越えてから程なくしてやって来た。

 役人はオニャを無感動な瞳で見下ろして言う。

「十年以上育ててきて、まったく気付かなかったってこと?」

「そう言ってるだろう! 今日の朝まで、私はあの子を人間として育ててきたんだ!」

 オニャは腕を組み、役人から顔をそむける。

「最初からそう言ってるのに。あんた耳付いてんのかい? 大体、かたむいて来たとはいえ、日のある内からそんな真っ白な服着て。まぶしくって迷惑ったらありゃしないよ!」

 怒鳴りつけても役人は微動だにしない。それどころか軽く肩をすくめる。

「それには僕も同意見だな。正義をした美しく荘厳そうごんな白とかうたってるけど。正直どうでもいい」

「……」

 投げりな役人の言葉はオニャにとって思わぬ言葉だった。役人とは、立場をかさに着た鼻もちならない連中だという認識だったからだ。自分達の立ち場をひと目で人々に知らしめる白い制服は役人にとってほこらしいものだと……。何を言われても強気で言い返すつもりだったオニャはハッとして気持ちを張り直す。

「だ、大体! 役人ってのは二人一組が基本なんじゃないのかい? ひとりで来るなんて規律違反きりついはんじゃないのかい!」

 オニャに言われて役人は今気付いたと言わんばかりにあたりを見回した。そして、思い出したと言わんばかりに帽子のつばを持ち上げる。

「ああ、そうだ。通報を受けたはいいけど『天使』とか言われてシロの奴、あわわてて所長に相談しに行ったんだった。待ってろって言われた気もするけど……。通りで静かな訳だ」

「……」

 ため息をつく役人にオニャはあきれてものが言えなくなる。つかみどころのない役人にオニャが何をどう言うべきかなやんでいると、つまらなそうに役人がつぶやく。

「結局。もうここに亜種はいないんだな」

 それは、まるで独り言のようだった。

「……いないよ」

 警戒しながら一応オニャは返事をした。すると役人は軽く息を吐き出して、オニャに向き直り言う。

「帰る」

「へ?」

 頓狂とんきょうな声を上げるオニャに目もれず、きびすを返そうとする役人を、オニャは思わず引き止めそうになって何とか思いとどまった。帰ってくれるならそれに越したことはない。人垣ひとがきが割れ、役人が歩き出そうとしたその矢先、

「テン~!!」

 町の中央側から駆け寄って来る人影が見えて、オニャに限らず人集ひとだかりの目がそちらに向いた。駆け寄って来た人物は役人の前で立ち止まると膝に手をついて息を整える。その男もまた白い制服に白い帽子、白鞘しろさやの刀を帯びていた。

「シロ」

「テン! てんめえっ!!」

 息はまだ完全に整ってはいなかったが後から来た役人、シロことスズシロは先に来ていた役人、テンの胸倉むなぐらつかみ上げる。と、テンが軽く爪先立ちになった。スズシロのその背は町人達より頭ひとつ分飛び抜けていた。突然現れた大男に町人達が目を白黒させる中、役人から役人への追求は止まらない。

「待ってろって言っただろうが!」

「待つって退屈だよね」

「ここで「そうですね」と俺が答えると思ったのか? 本気で思ったのか!? 退屈とか関係ねえから! お前の自由が許容されてるのはここが南の町だからだからな! 他んところでも通用すると思うなよ!」

「他のところでも平気な気がする」

「これだからボンボンは!! けど……その可能性を否定しきれない俺がいる!」

 頭を抱えて叫ぶ役人と、よれた服を無感動に直す役人の温度差は見るからに激しい。

「また、大きな人が来たね」

「あんた……」

 のんびりした声にオニャが振り返れば、最初からそこにいたのにオニャの気迫に存在を掻き消されていた夫、リトが立っていた。

 オニャとリトの視線に気付いたスズシロが背を伸ばす。

「失礼! みっともないところをお見せした」

 下手したてに出る役人に、これまたオニャは言葉をなくす。目の前のふたりの役人にオニャの役人へのイメージはすっかりくつがえされていた。少なくともこのふたりは「自分達は役人だから」とえらそうな態度は取らないし、鼻に掛けている様子もない。

「亜種はもういないってさ」

「そりゃそうだろう。そんなこと通報を受けた時点で分かってたことだ。俺達がやるのは事後処理、事実確認と報告だ」

「つまらない」

「まあ、俺も本当に天使だったら見て見たかったけどなー」

 スズシロは制服のポケットから携帯筆記具と手の平大に千切ちぎった紙のたばを取り出すと、少し背を丸めてオニャとリトに向き直った。一通り質問し終えてスズシロは背筋せすじを伸ばす。

「本当に天使だったのか」

「なんでぇ、お役人さん! 町民の言うことをうたがってたのか!?」

 野次馬から声が上がる。

「ああ、恐ろしい!」

「あんなのが近所にひそんでいたなんて」

「いなくなってくれて清々せいせいしたよ!」

「お役人さん! 金一封はいつ貰えるんだい!」

「馬鹿言うな! 通報したのはこの俺だ!」

「何をっ。私だよ!」

 口々にそんなことを言っているのはこの辺りではあまり見ない顔ばかりだった。反して口を閉じて困ったようにお互いの顔を見合っているのは朝に明羽あはね氷呂ひろを笑顔で見送った町人達だ。

「落ち着いて。落ち着いて!」

 野次を飛ばしてくる野次馬をなだめ、ため息をつきながらスズシロはメモ帳を仕舞しまう。その間ずっと黙っていたテンが不意に口を開いた。

「亜種をかくまうのは重罪だ」

「知らなかったんだ。亜種が上手うまく取り入ってたんだろう。かくまったうちには入らないさ」

「何も知らないくせにっむがむが……」

 我慢できなくなったオニャの口をリトがふさいでいた。実は先程も野次馬に突っかかって行きそうになるオニャをリトが引き止めていた。

一先ひとまずあなた方のことは今聞いた通りに上に報告する。重い罰にはならないとは思うが恐らく、しばらくは監視対象になるだろう。ご協力、感謝する。では、我々はこれで。さて、次は学校……いや、向かいの呉服屋ごふくやか」

 オニャは思わず息をんでいた。オニャのその様子に呉服屋ごふくやに向かい掛けていたスズシロが目ざとく気付く。

狩人かりゅうどに追い立てられた天使は何故なぜかひとりの少女をかかえて逃亡した。その少女がこの向かいにある呉服屋ごふくやの一人娘であることは確認が取れている。もしや、家族ぐるみで親しかった?」

「あ、あの子達はとても仲が良くて。それ以上言えることは何もないよ!」

「ふ~む……。もうちょっとくわしく」

 再びメモ帳を取り出して背中を丸めたスズシロにオニャはうっかり口をすべらせないように口をつぐんだ。

「もうちょっとくわしく」

 悪気わるぎなくせまって来るスズシロに、オニャに代わって窮地きゅうちを脱する何かを言えないかとリトが考えをめぐらせるが、如何いかんせん、のんびりした性格は脳みそからで、すぐには言葉が出てこない。

「俺からも話しましょう」

 あらぬ方からの思わぬ声にオニャとリト、スズシロが顔を上げる。人垣ひとがきを分けって現れたのはなめらかな藍色の髪に同色の瞳を持った青年だった。

「誰?」

 オニャの本気の疑問だった。アサツキはチラとオニャに目をれてから役人に向き直る。

「誰だ?」

「天使が正体をいつわって通っていた学校で教師をしています」

「学校の先生か」

「臨時ですが。こちらにも立ち寄るのでしょう。案内しますよ」

「あ、いや。その前に」

「この向かいの呉服屋ごふくやですか。確か、ご夫婦ふたりだけでしょう。こちらは学校。聞き込まねばならない人数が多いですよ。面倒な方から片付けた方がいいと思いませんか?」

「う~ん?」

「どっちでもいい。僕、先に帰っていい?」

「……ダメに決まってんだろ」

 静かにしていたと思ったらトンデモないことを口走った相棒に、スズシロはがっくりと項垂うなだれた。

「よし。学校が先だ。お前もちゃんと働け!」

「ええー」

「ええー。じゃない!」

 役人が役人を言いふくめるのを横目に、アサツキはこっそりオニャに近付く。それに気付いたオニャは警戒心けいかいしんを強めた。

一先ひとまず彼らは俺が連れて行きます。その間に氷呂ひろのご両親と口裏を合わせるなり相談し合うなりしてください。知らぬぞんぜぬを通す方向で。ん?」

 オニャがアサツキの瞳をこれでもかと覗き込んでいた。

「あ、あの? なにか?」

「……あんた、誰だい?」

「え? 明羽あはね氷呂ひろが通っていた学校で教師を」

「そうじゃなくて……。あの子達のことを知ってた?」

 アサツキは軽く目を見開いてからせる。

「ええ、まあ。少し前に。明羽あはねが天使だとは知りませんでしたが」

「そう。黙っててくれたんだね。ありがとうね」

「お礼を言われるようなことは何も。逃げる後押しをしてやることしかできませんでした」

「十分だよ!」

 存外ぞんがい大きな声になってしまってオニャはあわてて口を押さえる。

「ありがとうね。あの子達がどこかで生きていてくれるなら。それでいいさ。少しでも安寧あんねいに暮らせる場所に行きついていてくれれば、いいんだけどね」

「噂の村が実際にあることを祈るばかりです」

「噂の村?」

「聞いたことはありませんか? 人間以外の種族だけでできた村があると」

「その噂は聞いたことあるけどね。どこにあるかも分からないだろう?」

「当たりをつけました。これだけ噂は広まっているのに誰も知らない場所。人間が行きづらく、入りづらく、辿たどり着きがたい場所。ここから南東に嵐が非常に多く発生しやすい場所があるんです。恐らくそこにあるのではないかと。憶測おくそくでしかないのですが。そちらへ向かうよう俺が明羽あはねに言ったんです」

 アサツキの申し訳なさそうな顔にオニャはその背を思い切り張り飛ばしていた。

「いっ!?」

 アサツキはあまりのことにオニャの顔を凝視ぎょうししてしまう。派手はで打音だおんに周囲からの注目も集まってしまう。けれど、オニャはそれを気にせずアサツキの首に腕を掛け、引き寄せる。

「あたしらのことは心配しなくていい。あんたはあんたのことを考えな。お気を付けよ。明羽あはね氷呂ひろの恩人に何かあっちゃ私がやりきれないからね」

 耳元で聞こえた言葉にアサツキは思わず苦笑した。

「俺の方は大丈夫です。俺は今日をもって仕事を辞めるので。まだ、数日は町にいると思いますが、出て行くので」

「そりゃ、またどうして……」

「友人の探し物が見つかったので知らせてやろうかと」

「へえ。わざわざ知らせる為に仕事まで辞めるなんて。よっぽど大事な友達なんだね」

 解放された首に手をやりながらアサツキは苦虫をつぶしたような顔になる。

「ただのくさえんですよ」

「そうかい?」

め事か?」

 スズシロがオニャとアサツキに近付く。

つながりがあると思われると面倒ですね」

「うん? それなら」

 オニャはアサツキの太腿ふとももを思い切りり飛ばす。たたらをんだアサツキは何事だと振り返る。オニャはアサツキに向かって指を差していた。

「お役人さん。早くこいつ連れてっておくれよ!」

「え、いや。連れてってもらうのは俺達の方……。えーと、この短時間に何があった?」

「なんか気に入らなくてね! そう、なんかね!」

 あまりに雑な言い様にアサツキは太腿ふとももさすりながら何も言うことができない。

「何かって……」

 スズシロも困った顔をするがオニャはるがない。

「なんかはなんかだよ!」

「あー。あるよなー」

 つぶやいたのは野次馬だった。

「ウチの母ちゃんもなんか急に不機嫌になることあるよ」

「あれ、謎だよなー」

 うなずく男性陣にアサツキもスズシロも黙り込む。

「行くの? 行かないの?」

「あ、ああ……」

 テンにうながされて、スズシロはうなずいた。現状をうやむやにするチャンスにアサツキはすかさず行く先を示す。

「では、行きましょう」

 スズシロがオニャとリトに会釈えしゃくをして歩き出し、アサツキも軽く会釈えしゃくして歩き出す。オニャはしばらく、小さくなっていくふたりの後ろ姿を見つめていた。が、背中がふたつしかないことに違和感を覚えた時、目のはしに白がチラついて、オニャはあわてて一歩退しりぞいた。そこに立っていたテンはオニャに向けていた瞳を閉じて、小さく息を吐く。

「まあ、いいけどね」

「テン! コラあ! ちゃんと付いて来い!」

「はいはい。今行くよ」

 テンが付いて来ていないことに気付いたスズシロの呼び声に、テンは適当にも聞こえる返事をして歩き出した。

「お前。サボる気だったろう」

「そんなことないよ」

 のんびり追い付いたテンと長身の役人スズシロ、アサツキの後ろ姿が再び遠ざかり始めて、オニャはやっと胸をで下ろした。けれど、ホッとしたのもつかの間、南門から激しく鐘が打ち鳴らされる。

「嵐だ! 嵐が来るぞ! とんでもなくでかい嵐だ! 今のうちに食料とか買い溜めしとけ!」

 門番が砂避けの壁の上から叫んでいた。

「大変だ……」

 オニャがつぶやいた時、

「オニャっ」

 とても聞き慣れた声にオニャは振り返る。

「キナ! あんた大丈夫だったかい?」

 キナがオニャの元へ駆け寄っていた。見ると向かいの呉服屋ごふくやすでにキナの夫、ウェルが店仕舞みせじまいを始めている。

「なんでか私の方に役人は来なかったから」

 不安そうな親友の細い肩をオニャはつかむ。

「安心おし。それについては私から説明できるから。けど、今はまず!」

 自身の店を振り返る。

「持って行きな。キナ。保存食に手を付ける前にお食べ。門番のあの様子じゃ数日は確実に出歩けなくなりそうだ」

「ありがとう。オニャ」

「話は嵐が過ぎてからだね。さ、早くお帰り!」

「オニャもしっかりね」

 キナが走り去って行くのを見て、嵐到来とうらいの知らせにオロオロしていた野次馬達はお互いの顔を見合わせた。

八百屋やおや! 八百屋やおや!」

「おわっ! なんだい!?」

「俺達にも」

「私達にも」

「売っておくれ!」

 詰め寄って来た野次馬達の必死の目にオニャは八百屋やおや女将おかみの顔になる。

「よっしゃ! 一律いちりつ100ゝだ! 大盤おおばんいだよ! 持って行きやがれ!!」

 ワアッと歓声が上がると同時に店頭へ詰め掛ける野次馬達。

「押すんじゃない! 押すんじゃないよ! ひとり一籠ひとかごまでだ! みんなに行き渡らせるんだよ! コラァ! そこ! ひとり一籠ひとかごだっってんだろ! 気を付けてお帰り!」

 オニャの八百屋やおやでの買いめを皮切りに、それ以外の食料品店にも人が殺到さっとうするのを見て、アサツキとふたりの役人は立ち止まった。

「嵐だってさ」

「こんな時に……」

「どうしますか?」

「どうするもこうするも」

 スズシロは頭をむしる。

「町の人達の安全が最優先だ。すまない。先生。学校への聞き込みはまた、嵐が過ぎてから」

「ええ。校長達には俺から伝えておきましょう」

「先生も気を付けてくれ。ほら、テン! 見回りしながら詰め所に戻るぞ!」

「はーい」

「なんでお前はそうやる気のない!」

「お気を付けて」

 走り去るスズシロとテンをアサツキは見送った。

「さて、嵐が過ぎるまで足止めだな。その後に時間を取られるのは面倒だな。……バックレるか」

 アサツキは学校に向かって駆け出した。


   +++


 晴れ渡っていた筈の空は急激にかげり出し、壁の中でも乾いた風が乾いた砂を巻き上げ始めた。


   +++


 場所は変わる。町以外で人の住むことのできる場所。世界に点在するオアシスのひとつ、南の町の程近くにあるオアシスでも、その嵐は良く見えた。

「やべえ! 嵐! 嵐が来るぞ!!」

「嵐い? 砂嵐ひとつでさわいでんじゃねえよ。しょっちゅうあることじゃねえか」

「それがっ! 正直、俺は生まれてかたあんな馬鹿デカい嵐を見たのは初めてだ! わりぃがお先に失礼するぜ!!」

「なあにが生まれてかた……。若造わかぞうが」

「まったくだな。ハハハ」

 窓際でカードゲームにいそしんでいた男達は笑う。しかし、風が吹いてカードがめくれて、男達はそこでようやく窓の外をのぞき込んだ。

「こいつは……」

「やべえな……」

「この規模きぼは俺も初めてだわ……」

店仕舞みせじまいだ! お前ら全員今すぐ家に帰れ!!」

 小さなオアシスの唯一ゆいいつ娯楽場ごらくば。夜は飲み屋、昼間はみんなの溜まり場になっている小さな店からあわてたように、いくつも人影が飛び出していった。

「旅の人。あんたは泊まってくか? 数日足止め食らっちまうことになるが」

「ん」

 カウンターでひとりお茶を飲んでいた紫黒しこくの髪、闇色の瞳の青年はグラスを置いて立ち上がる。

「いや。俺は今すぐ出るよ」

「本気か? 今出たら確実に巻き込まれるぞ」

「こんな小さなオアシスじゃ自分達のたくわえで一杯一杯だろ。嵐が過ぎるまで何日掛かるか分からない以上、世話にはなれないからさ」

「しかしなあ……」

「俺は結構、強運の持ち主なんだぜ」

「けどなあ……」

「じゃあな。マスター。ごっそさん」

「あっ。……行っちまった」

 実際、たくわえは一杯一杯で、店主は本気で引き止めることができなかったのが事実だった。店主はため息をつき、店がこわれないよう、補強する為に動き出す。

 紫黒しこくの髪の青年は風が刻々こくこくと強くなる中、自前の屋根のない自動車に、ほろを張り終える。砂の入る隙間なく張れていることを再度確認して運転席に乗り込んだ。天を突く真っ黒な壁が眼前に迫って来ていた。

「これは、ヤバいな」

 と言いながらエンジンを掛けるとゆっくりと走り出す。

もろに村の方角だなあ」


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 明羽あはね容赦ようしゃなく口に入って来る砂に何度となくき込んでいた。目を開けていることさえ困難な中、それでも明羽は飛び続けていた。強い風にあおられてはバランスを崩し、そのたびに何とか持ち直す。

「ゲホッ! ゲホッ!」

明羽あはね! 明羽あはね! もういい! もう大丈夫。私をろして!」

 腕の中の氷呂ひろの言葉に明羽あはねはユラユラとらめきながら高度を落としていった。地面が見えて明羽あはね氷呂ひろを手放した。氷呂ひろはヒラリと着地する。明羽あはねはそのまま惰性だせいで下降し続け、倒れ込むように墜落ついらくした。

明羽あはね!」

 氷呂ひろが駆け寄るも明羽あはねに意識はすでになく、顔は汗と砂にまみれ、身体は小刻こきざみに震えていた。その背にある左側にのみ生える四枚の翼を見て、氷呂ひろは息をむ。つらぬかれた翼が傷口から真っ黒に変色していた。

「こんな……こんなひどい……」

 咄嗟とっさに辺りを見渡すが、風に巻き上げられた砂の吹きすさぶ中に助けの手などある筈もなかった。

「……明羽あはね。私、どうすればいい?」

 倒れる明羽あはねおおかぶさり、氷呂ひろしばらくしてから顔を上げる。

「……歩かなくちゃ」

 氷呂ひろ明羽あはねを背負い、立ち上がる。幸いなことに明羽あはねの身体は常人にくらべてはるかに軽い。不安定な砂地に足を取られながら氷呂ひろは歩き出す。どこに向かえばいいかなんて、分からなくとも。

 氷呂ひろはどれだけ歩いたか分からない。砂嵐は弱まるどころかその強さを増しているようだった。抜け出せる様子も一向いっこうになく。わずかに見える視界といちじるしく低下していない気温からまだ、日が沈んでないことだけは氷呂ひろにも分かった。思ったほど時間はっていないのかもしれない。それでも氷呂ひろが感じる疲労は相当なものになっていた。歩き慣れない砂地に友人を背負って当てどなく嵐の中を歩くという、ない経験に身も心も悲鳴を上げていた。

「はあ……ハア……はあ……」

 氷呂ひろは気付いていた。背負う友人から力が失われていっていることに。絶望が押し寄せてきて、氷呂ひろは唇をむ。

明羽あはね……。明羽あはね……」

 こぼれる涙に砂が張り付いては乾いていく。

明羽あはね……明羽あはね……。あっ!」

 氷呂ひろは足がもつれて倒れ込んだ。柔らかな砂地に痛みは感じない。足の感覚がなくなっていることに氷呂ひろは今になって気が付いた。もう歩くどころか立ち上がることもできなかった。

「……私、私……何の為に……」

「……氷呂ひろ

 耳元に聞こえた声に氷呂ひろはハッとする。背負ったまま倒れたので氷呂ひろの背に明羽あはねおおかぶさる形になっている。

明羽あはね

「大丈夫……。大丈夫だよ……」

 消え入りそうな声に氷呂ひろはまた泣き出しそうになる。

「何が、何が大丈夫だっていうの……」

 返事はなかった。

明羽あはね……。明羽あはね……。お願い、お願いだから……。また、大丈夫って言って……」

 氷呂ひろの意識はそこで途絶とだえた。


   +++


 紫黒しこくの髪、闇色の瞳の青年はこれでもかと慎重にハンドルを握っていた。

「これはまずい。マジでまずい」

 後部座席をおおほろに砂交じりの風が当たって車内にザーザーバタバタと音が響く。強い風が吹き、車があおられた。

「おおっと! ……突っ込むんじゃなくて回避する方を選択するべきだったか。でも、今日あたり帰らないと食りょ、ギャア!!」

 視界不良の中、突如とつじょ目の前に現れた影に青年は急ブレーキをんでいた。

「な、何だ!?」

 前照灯ぜんしょうとうに照らし出された影を良く見ようとして青年は目をすぼめ、眉間にしわを寄せる。

「翼?」

 青年は砂が吹き込んで来るのを構わずドアを押し開けた。

 車の目の前にはふたりの少女がなっかば砂に埋もれた状態で倒れていた。

 ひとりはすれ違えば老若男女ろうにゃくなんにょが振り返る美しい顔立ちに青く長い髪。そして、もうひとりは左側にのみ生える四枚の翼を背負っていた。


   +++


 集まった人々は陰鬱いんうつな声でささやき合う。

しなが食料の調達から帰って来たと思ったら」

「子供をふたり拾ったらしいな」

「あぁ。こんな時に村の人口を増やすなんて」

「そのふたりは本当に私達の仲間なの?」

「人間などまねき入れてみろ。大変なことになるぞ」

「もう村には水も食料もほとんど残っていないのに」

「あと何日、みなで生きながらえられるだろう」

 ため息をついた人影達には頭から角が生えていたり、三角形の耳が生えていたり、服のすそから尻尾が揺れていたりした。


   +++


 氷呂ひろは光を見ていた。いつも暖かく、まぶしいほどに輝いていた白い光が、今や消えそうな程に不安定に揺れていた。


 目蓋を震わせて氷呂ひろは目を開く。青い瞳に見慣れない天井を映し出す。首をひねれば見慣れない部屋に寝かされていた。構わず氷呂ひろは起き上がった。見慣れない部屋を出て、見慣れない家を出て、見慣れない道を行く。見るもの全てが見慣れない、見たことのない景色の中、氷呂ひろは迷うことなくまっすぐに歩く。向かう場所は決まっていた。


   +++


 集会が開かれていた。平屋だけの小さな集落の中。他よりも少しばかり大きく建てられた建物から集まった人々があふれ出している。

「やっぱりここを離れて、もっと大きな水脈のあるところへ移りましょう」

「もう、それしかないのか……」

「けど、ここと同じぐらい人間に見つかりにくい場所なんてあるのかしら?」

「だが、もう、この話し合いも何回目だ? 早く決めないと井戸の水がれてしまうぞ」

 人々はザワザワと言葉を交わす。

 誰かがため息をついた。人々の視線が集中する。室内の一番奥、他より一段高く作られたその場所には大の大人と変わらない体格の白い獣が座していた。

「村長」

 声を掛けたのは紫黒しこくの髪、闇色の瞳の青年だった。

「大丈夫ですか?」

「え? あ、ああ……」

 白い獣が瞳を揺らす。

「すまない……」

「村長が謝ることなんて何もありませんよ」

「しかし、私が決断できなかったものだから。その機をいっしてしまった」

「ここは村長が一から作った村なんですから。簡単に捨てられてもこっちも困ります。あなたにとって、その程度だったのかと」

「けれど、大事なのはこの地よりもここにいるみんなだよ。先のことが何も決まっていなくとも、ともかく行動すべきだったのかもしれない」

「人間に見つかるリスクをってでもですか? 村長の判断は間違っていませんよ」

 紫黒しこくの髪の青年の言葉にそこにいた人々がうなずいて見せる。

「みんな……」

「けど、さすがにそろそろな」

 ひとりの言葉に幾つものため息が零れた。

「そろそろ、しんどいよな……」

「……決断の時か」

 白い獣がそこにいる人々の顔を見渡して立ち上がろうとした時、人々を押し退けて部屋に駆け込んで来る影があった。

「村長!」

 それは集会が開かれている間、子供達の世話を任されたひとりだった。その男は子供をひとり腕に抱え、もうひとりの手を引いた状態で叫ぶ。

「井戸がっ!」

 男の言葉に室内にどよめきが走った。

「井戸!?」

「井戸がどうした?」

「とうとうれたのか!?」

あふれてるんですぅ!!」

「……。……。……?」

 黙り込んでしまった大人達に変わり、男が連れて来た子供達が言う。

「お水がね、ぶわーって」

「井戸からザバザバーって」

「ぶわーだよ」

「ザバーだよ」

 半泣きの男と対照的に冷静な子供達の言葉に大人達は顔を見合わせた。

「昨日まで涸れ掛けてた井戸がか?」

「今、謝花じゃはなちゃんが一生懸命お手てかざしてる」

 子供の言葉に半泣きだった男がハッとした。

「そ、そうだ。俺達の中じゃ謝花じゃはなちゃんが一番水に関して力が強いから。何とかしようとしてくれてるんですけど。全然止まる気配がなくて。それで、村長に……」

「すぐに行こう」

 人々の間をって白い獣はあっと言う間に集会所を後にした。


 村唯一ゆいいつの井戸があるのは村の中心。村人達のいこいの場となっている広場の中央。井戸の縁から滝のように、酷く透明な水が石畳いしだたみの上にあふれていた。

「これは……」

 白い獣が歩く度に足元で水が跳ねる。

謝花じゃはな

 水のあふれる井戸の側で手をかざしていた少女が振り返る。ふわふわの黄色い髪をふたつに結んだ少女は今にも泣き出しそうな顔と声で叫んだ。

「村長~! 助けてくださいぃ~!! 何がどうなってるのやらああああ!!!」

謝花じゃはな! とりあえず落ち着いて。僕が変わるからっ」

「うおおおおぉぉおぉぉぉ!! 村長ぅぅ!!」

「じゃ、謝花じゃはな……」

謝花じゃはな。落ち着け」

 少女は村長の後ろに現れた紫黒しこくの髪の青年を見て一瞬泣きんだかに思えたが、

「うおおおおぉぉおぉぉぉ!! しな兄様ぁぁ!!」

謝花じゃはな……」

 白い獣と紫黒しこくの髪の青年が少女をなだめていると、ふたりの後を追ってきた人々がその惨状さんじょうに呆然と立ちくす。

「な、なんだこれ?」

「……どうなってる?」

「水が……」

「と、止めないとっ」

「止めるって……どうやって?」

「どう……」

 人々がすべなく立ちくす中、そこにいた者達の目のはしに等しく、ひとりの少女が歩く姿が映り込む。青い髪、青い瞳のこの世のものとは思えない程美しい少女がひとり、ゆっくりと広場のすみを歩いていた。

 人々の視線を一身に集めた少女はふと顔を向ける。青い髪が動きに合わせて揺れた。水の流れる音が響く中、少女はどこかうつろな瞳で井戸を見て微笑んだ。

「綺麗な水」

 少女は人々には目もれずに再び歩き出した。

 あたりは静寂せいじゃくに包まれる。人々はハッとした。滔々とうとうと井戸からあふれ出していた水がピタリと止まっていた。

「村長」

 紫黒しこくの髪の青年が少女の歩き去った方を見つめながらつぶやく。

「村長は井戸の水を増やせたりって……」

「できる訳ないだろう……」

 白い獣もまた少女の消えた先を見つめたまま答える。

「操ることはできても無いところから出すなんて、できないよ」

「そうですよね。できたらやってますよね」

氷呂ひろ……」

 白い獣と紫黒しこくの髪の青年は振り返る。黄色い髪の少女もまた、すでに見えない青い髪の少女の後ろ姿を見つめていた。

謝花じゃはな。知り合いか?」

「はい。友達、です。南の町で一緒だった……。氷呂ひろ。どうして?」

「俺が三日前、帰ってくる際に倒れてるのを見つけて」

「倒れてた!?」

 少女は紫黒しこくの髪の青年を勢いよく振り返る。

「どうゆうこと? どうして? ふたりは私と違って人間のことを怖がってなかった」

「それはふたりに聞いてみないことには……。謝花じゃはな。落ち着いてくれ。つまり、お前はもうひとりとも知り合いなんだな」

しな兄様がふたり連れて来たってみんなが言ってたのはっ!」

「あー。そうだな。多分そうだな」

「こうしちゃいられない! しな兄様! 氷呂ひろが向かった先って」

「そうだな。何故かあの先には夏芽なつめの診療所がある。あの子は知らない筈なのに」


   +++


 診察台の上、少女がうつ伏せに寝かせられていた。その側では少女の左背にのみ生える四枚の翼をにらむむ女性がひとりいた。青灰あおはい色の髪に薄青うすあお色の瞳の色白の美しい女性は側にあった丸椅子をおもむろに蹴り上げた。床に転がって椅子がけたたましい音を立てるのとほぼ同時に女性は奇声きせいを上げる。

「キイイイイイィィィィ!! どんなに配合を変えても私の解毒薬げどくやくかないなんて! どんな未知の毒よ!! 腹立つうううううぅぅぅぅ!!! うぎゃあっ!」

 女性の隣にはいつの間にか青い髪の少女が立っていた。

 女性は思わず先程蹴り上げたばかりの丸椅子を胸の前に抱え上げる。後退あとずさった際にぶつかった薬品棚の中のびんがガチャガチャと鳴り、女性は慌てて棚を押さえる。

「あぶ、あぶ……」

 言葉は形にならなかったが冷静さを取り戻すことができた女性は見る。突然現れた青い髪の少女はうつせに寝かされたもうひとりの少女を見下みおろしていた。

明羽あはね

 青い髪の少女は緑を帯びた黒髪の少女の黒く変色した一翼に手を伸ばす。

「遅くなってごめんね」

 傷口に触れた少女の指先から青い光がほとばしった。青い光に引き寄せられるように少女の指先に黒い液体が集まる。目の前で引き起こされた光景に青灰あおはい色の髪の女性は目を見開かずにはいられない。少女の手の平に浮かぶ黒い小さな球体。女性はハッとして腰に下げていたポーチからからの小瓶を取り出す。

「ここ。ここに入れてちょうだい!」

 少女はうながされるまま黒い球体を小瓶の上へ持っていった。パタ、パタリと黒い液体がびんの中へ落とされる。純正の毒を手に入れて女性はこぶしを握った。

「よっしゃ! これでとことん解析できるわ!!」

 そんな女性の側で少女がふらりとよろめいた。青い髪の少女は診察台の側に倒れ込むとすやすやとすずしげな寝息を立て始める。診察台の上の少女は先程まで苦痛にえるように眉間にシワを寄せていたのに今ではおだやかな顔で眠っていた。

「良かった。痛み止めがくようになったみたいね」

 女性がホッと息をつく。毒の所為せいで痛み止めがく様子を見せず、傷口もまるでふさがる様子を見せなかったものだから、思わず物に当たってしまった。それが、見れば傷口からは血が流れ出してはいるものの、その血ももう黒くはなく、女性は止血帯しけつたいを手に取った。一通り処置を終え、後回しになっていた足元で寝てしまっている少女に掛布かけふを掛けると視界の端にハラリと落ちてくる白。女性が顔を上げると毒が抜けたからなのか、血が止まったからなのか、四枚の翼が霧散むさんし、き消えていた。いや、消えた訳ではない。人間が持たない特徴を持って生まれる種族は長い年月の中、いつしかその特徴を隠すすべを身に着けるようになっていた。一目で種族がバレないように。人間にまぎれることができるように。

「……」

 女性は丸椅子に腰を下ろす。本来これは診察に来た患者用の椅子で、自身がいつも座る椅子は壁際にそなえ付けられた机とついを成しているのだが、今は眠るふたりの少女の顔を静かに見つめる。

「私。何もできなかったわ」

「落ち込んでるのか?」

 見れば紫黒しこくの髪の青年が立っていた。女性は不敵に笑う。

「いいえ。今何もできなかったからって、出来ないままになんてしないわ。私を誰だと思ってるのかしら?」

「それでこそ夏芽なつめだな」

「で、何の用? しな。まさか私を笑いに来たなんて言わないわよね?」

「その瞬間に俺は死んでるな。違えよ。青い髪の子がこっちに向かってくのが見えたもんでな。もしかしたら、ここかと思って来たんだが……そのまさかだったみたいだな」

明羽あはね氷呂ひろ

 診察台の上で眠る少女と足元で静かな寝息を立てる少女を見て、ふわふわの黄色い髪の少女は唇を震わせる。

「知り合い?」

「間違いないか?」

「はい。しな兄様。夏芽なつめ姉様。私の友達です。また、会えるなんて……」

 謝花じゃはな明羽あはね氷呂ひろの顔を見ながらポロポロと大粒の涙をこぼした。

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