翼を負うもの

利糸(Yoriito)

第1章・緑色の瞳の少女と青色の瞳の少女(1・開幕)

 どこまでも続く平らな砂漠。視界のすみに消える地平線。天を染める青には一点の曇りもなく、太陽と月だけが浮かんでいた。

 視界をさえぎるもののない、だだ広い砂漠にその町は突如とつじょとして現れる。同じような四角形の建物が並ぶ平坦へいたんな低い町並みを囲むのは、不釣り合いな程に高い高い強固な壁。何もしなければ数時間で砂に埋もれてしまう、過酷かこくな環境から一日も欠かさず町を守る砂除けの壁の上で、明羽あはねはひとり、果ての見えない世界をながめていた。

 時刻は真昼。太陽が天頂で輝く灼熱しゃくねつの時間。普通の人間なら余程のことがない限り出歩くことのない時間。

 左耳の後ろで束ねた緑を帯びた黒髪が熱い風に吹かれて揺れる。

「今日も暑いなぁ」

 あざやかな緑色の瞳を細めて明羽あはねは笑う。

「やっぱりここにいた。明羽あはね

 呼ばれて明羽あはねは振り返る。そこにはとがめる瞳を明羽あはねに向けるひとりの少女が立っていた。

氷呂ひろ

 年の頃は明羽あはねと同じ十代半ば。早朝の澄んだ空を落とし込んだ青い瞳に腰まであるなめらかな青い髪。人目を引くその容姿のきわめ付けは、すれ違えば老若男女関係なく誰もが振り返る端正たんせいな顔。明羽あはね自慢の幼馴染がそこにいた。

「もう。こんな人のいない時間に出歩いて。誰かに見られたらどうするの?」

 氷呂ひろの不機嫌そうな顔はまた愛らしく、そこら辺の男なら有無うむを言わず謝ってしまいそうだったが明羽あはねは悪びれもせずに笑う。

「大丈夫だよ。ここまで誰にも見られなかった。門番のおっちゃんにも見られないように登って来たし。この時間帯に外を出歩いてるのなんて、働き者の仲買人なかがいにんさんぐらいだよ。その仲買人なかがいにんさんもこんなまぶしい真昼の空を見上げたりはしないし」

「はいはい。分かりました。分かったから、帰るよ」

 氷呂ひろはそう言うと、さっさときびすを返し、今上がって来たばかりの階段を下り始める。内壁面にってもうけられた階段には手すりも何もない。そのおざなりさから、使用する者がほとんどいないことをうかがわせていた。明羽あはねはというと、しばし考えてから立ち上がる。腰を下ろしていた外壁側から内壁側へと歩いて行く。と、すで明羽あはねの視界から消えた氷呂ひろの声が足元から聞こえてくる。

「ちゃんと階段から下りてね」

「う……」

 今まさに壁のふちを蹴ろうと考えていた明羽あはねは動きを止めた。

「相変わらず氷呂ひろは私のことを良く分かってる」

 そろりと壁の向こうを覗き込むと、階段をなかばまで下りた氷呂ひろがこちらを見上げていた。

明羽あはね。早く」

「はーい」

 氷呂ひろ催促さいそく明羽あはねは階段を駆け足で下り始める。手すりも何もない、人ひとり分の幅しかない階段を軽快に駆け下りる。

明羽あはね!」

 せまりくる明羽あはね氷呂ひろは息を呑んで制すが、明羽あはねは構わず階段を蹴っていた。次いで壁を蹴り、軽やかに前にいる氷呂ひろを飛び越えて先の階段に着地する。その勢いのまま明羽あはねは階段を駆け下りて行った。一番下まで駆け下りて、

「どうだ!」

 氷呂ひろがいるであろう階段の上を振りあおぐ。

「あ」

 明羽あはねがしまったと思ったのもつかの間。真っ青だった氷呂ひろの顔は次の瞬間には鬼の形相ぎょうそうに変わっていた。

明羽あはね!!」

「わっ! 氷呂ひろ。しーっ、しーっ! 倉庫街とはいえそんな大声出したら誰か来ちゃうかもしれないよ!」

「誰の所為せいでっ」

「ごめんごめんっ! ごめんなさい! もうしないから!」

「そう言って、もう何回、同じこと繰り返してる!?」

 駆け下りて来た氷呂ひろ明羽あはねは必死になだめる羽目はめになった。幸い誰もやってくることはなく、少し落ち着いてから氷呂ひろ明羽あはねの手をつかんで歩き出す。

「学校がお休みだからってこんな所に来て。おばさん達と目立つことはしないって約束したでしょう? 忘れちゃったの?」

 まだ怒ってる口調の氷呂ひろ明羽あはね項垂うなだれる。

「覚えてるよ……」

「私達が狩人かりゅうどに捕まったら、おばさん達も危ないんだから」

「うん。ごめん……」

 明羽あはねはふと足を止めた。そんな明羽あはねの手をつかんでいた氷呂ひろも立ち止まって振り返る。

明羽あはね?」

「前にも、こんな話をしたね」

「……謝花じゃはな

「そう。謝花じゃはなが出て行った日だ。……ちゃんと、着いたかな。噂の村に」

「人間以外の種族が住む村ね」

 明羽あはね氷呂ひろは少し前に別れを告げた友人を思い出す。家族と共に人知れず、この町から出て行った、人間が怖いと震えていた女の子。

「きっと大丈夫。今頃、家族三人で幸せに暮らしてる。きっと」

 氷呂ひろの言葉に明羽あはねはそれを確かなものにするようにうなずいた。


 明羽あはね氷呂ひろは歩く。

 ふたりが住むのは砂除けの壁に程近い、この辺りではそこそこ大きな商店街だった。その商店街のある大通りに出ると、人っ子一人いない大通りのはるか向こう、どこかの仲買人なかがいにんの車らしいトラックが一台、薄く砂埃すなぼこりを上げながら北へ走り去って行くのが見えた。氷呂ひろは見る。去って行った車には目もれず、開店前のきっちりと戸締とじまりのされた一店舗の前で腕を組み、仁王立におうだちする女がひとりいるのを。ふくよかな顔からはだくだくと滝のような汗が流れ落ちていた。氷呂ひろうしろからその姿に気付いた明羽あはねは思わず氷呂ひろの背に隠れる。氷呂ひろはそれを意にかいさず、大きく手を振った。

「オニャさーん。明羽あはね、見つけましたよー」

「わっ。氷呂ひろちょっと待って……」

 氷呂ひろの声に仁王立いおうだちしていた女がぐるり顔を明羽あはね氷呂ひろに向けた。

明羽あはね!」

 大きな声で呼ばれた明羽あはねはビクリと肩を震わせた。

「まったく! どこに行ってたんだい! 約束はちゃんと守りな!」

 氷呂ひろ明羽あはねをオニャの前まで連れて行く。

「ご、ごご、ごめんなさい。おばちゃん……。でも、その、今あんまり大きな声は出さない方が……」

「あんだって!? まごまごしゃべらない! 言いたいことはハッキリお言い!」

 明羽あはね項垂うなだれた。目立たないという約束を一番破っているのはオニャではないかと……。思ったけども口にはしなかった。

「まったく……。心配させるんじゃないよ……」

 怒鳴り声とは打って変わった心配のにじむ声にハッとして、明羽あはねは思わず顔を上げていた。しかし、そこにあるのは憤怒ふんぬの表情だけだった。

「さっさとうちにお入り!」

「わ、わわっ」

 オニャに首根っこをつかまれて、すべもなく明羽あはねは引っ張られて行く。オニャが背にしていた店に向かって。

 さわぎを聞いて、大通りに面した窓が数個開いていた。オニャと明羽あはねのやり取りを見ていた住人達は、額の汗をぬぐいながら、

「またやってるよ」

 と苦笑する。

「あ」

 オニャが思い出したように振り返った。

「ありがとうね。氷呂ひろ。いつも悪いね」

「いえ。明羽あはねのことは私のことでもありますから」

「私と氷呂ひろは一心同体だもんね」

「調子に乗るんじゃない!」

 まるで反省していない明羽あはねの言動に、オニャは明羽あはねを小脇にかかえ直すと、自身をじくにブンブンと振り回し始めた。

「わわわっ。やめてやめてっ」

 明羽あはねが目を回してぐったりするとオニャは満足そうにうなずき、再び氷呂ひろへと向き直る。

氷呂ひろ。日がかたむいてすずしくなってきたら店においで。うーんと安くしてあげっから」

「ありがとうございます」

「キナによろしく言っといておくれ」

 オニャはそう言うと戸の閉まる店の中へと姿を消した。それを見届けて、氷呂ひろはオニャの店に背を向ける。向かうのはオニャの店の真向かいにある店だ。


 オニャが店に入ると穏やかな雰囲気をまとった男がひとり、勘定台かんじょうだいのつり銭の確認をしていた。開店前の店の中は薄暗い。天井近くにある明かり取りの窓からわずかに差し込む光を頼りにオニャは店内を進む。薄暗い小さな店の中には売りに出す為に仕入れた野菜と自家製の野菜が所狭ところせましと置かれ、店頭に出す手筈の台の上には色とりどりの野菜が整然と並べられていた。

「悪いねぇ、あんた。全部まかせちまって」

 男は顔を上げてほっこりと笑う。

「構わないよ。おかえり、明羽あはね

「ただいま。おじちゃん」

 明羽あはねを小脇に抱えたまま、オニャは店の奥へと足を向ける。

「明日の分の育ち具合を見てくるよ」

「ああ。分かった。いってらっしゃい」

「さ、明羽あはね行くよ。いい加減自分で歩きな」

「はーい」

 オニャに解放された明羽あはねはオニャより先に駆け足で店の裏へと向かう。

小さなドアを抜けた向こうには、四方を壁に囲まれた小さな畑が広がっていた。太陽の光を日除けの布を張って調整したその場所は、薄暗い店の中とは打って変わってとても明るい。十分に世話の行き届いた緑をき分けながら明羽あはねはまっすぐ畑の奥へと向かって行く。そんな明羽あはねの後をオニャはゆっくり、手前から実りを確認しながら順繰じゅんぐりに回って行った。

「うん。順調だね。明日、仲買の商人から仕入れるのと合わせて……」

 頭の中に雑多に浮かんできた数字をオニャは端から整然と並べていく。

「うん。いつも通り」

 オニャは頷き、明羽あはねうずくまって見ている場所をのぞき込んだ。明羽あはねが少し緊張した面持おももちでオニャを見上げる。オニャはニッと笑った。

「よく育つようになったじゃないか」

 自分の育てた野菜をめられて、明羽あはねは心の底から嬉しそうに笑った。

「これでもう教えることは全部教えた。学校を卒業するまであと一年。卒業したらバリバリ働いてもらうからね」

 オニャを見上げたまま、明羽あはねはその時が来るのが待ち遠しいと、大きくうなずいた。


 時間はわずかにさかのぼる。開店前の薄暗いその店内はたくさんの布でくされていた。明かり取りの窓から入るわずかな光の中、店の奥でい物をしていた女は顔を上げてニコリと微笑ほほえんだ。

「おかえり、氷呂ひろ

「ただいま。キナおばさん」

 氷呂ひろの帰りに嬉しそうに笑うのは、そのほっそりとした声から連想する通りのほっそりとした女だった。

「また、オニャが明羽あはね怒鳴どなりつけてたみたいね」

「うん。でも明羽あはねが悪いんだよ。心配掛けるから。オニャさんに振り回されて目、回してた」

 その光景を想像したのかキナが軽く吹き出し、氷呂ひろも笑う。

「日が傾いたら、お野菜買いに行こうと思う。オニャさんが安くしてくれるって言ってたから」

「そう。じゃあ、早めに行かないとね。オニャの店は混むから」

「うん。それまでまだ少しあるから手伝うよ」

 針と糸を手に取って氷呂ひろはキナの隣に座った。


 土を固めて建てられた家は朝と夜の寒さを和らげ、昼の暑さに燃える外界から内を守るのに適していた。人間は太陽が地に沈んでいる間と天頂にある時は家にもり、日がかたむいている朝から昼、昼から夜のわずかな時間帯に行動する。


 日がかたむき、影が少し伸び始める頃。キナとその夫が開店準備をし始めるのに合わせて氷呂ひろはオニャの店へと足を向けた。見るとオニャがちょうど店の戸を開けている所だった。氷呂ひろけて行き、それに気付いたオニャが笑い掛ける。店の奥から氷呂ひろの来店に気付いた明羽あはねが手を振った。氷呂ひろが野菜で一杯になったかごを持って大通りを半分まで戻った時、ふと振り返るとオニャの店の前にはすでに小さな人だかりができていた。それは、いつもの光景。大通りはこれからさらに人の往来おうらいが増えていく。氷呂ひろは自分がお世話になっている店の開店を手伝う為、駆け足になった。


  +++


 それは、約十年前の事。南の町の南門の外に忽然こつぜんとふたりの幼子おさなごが現れた。視界のかない酷い砂嵐が吹いていた。けれど、それに気付いた門番は自分の目をうたがう事なく、あわてて門にそなえ付けられている、人ひとりが通れる小さな戸を開いた。お互いがお互いを支えるように歩いていたふたりの子供は戸をくぐり抜けると、あやつり人形の糸が切れたように倒れ込んだのだった。

 集まった付近に住む町の人々は不安そうに顔を見合わせる。

「こんな子供がどうしてふたりだけで」

「こんなにボロボロで」

「親はどうした?」

「気味が悪い」

 そんな中、門番は言う。

「砂嵐の所為せいで視界は良くなかったが。この子らは突然とつぜん現れたように見えた」

「そんなバカな」

 町の人々は言いながら頭をなやませる。

「この得体えたいの知れない子供達をどうしよう」

「やっぱり役所に……」

「私が引き取るよ。私に引き取らせておくれ!」

 声を上げたのは八百屋の女将おかみだった。

「かわいそうじゃないか。こんな小さな子供がふたりで。家族で旅をしている最中さなかに嵐に巻き込まれたのかもしれない。そんで親とはぐれたのかもしれない。盗賊におそわれたのかもしれないし。もしかしたら、狩人かりゅうどに亜種と間違われて命からがら逃げてきたのかもしれない。何にしても、この子達は生きてる。生きようとしてる。だからこそ、この町まで歩いて来れたと思うんだ」

「私もオニャと同じ意見です」

 追うように声を上げたのは八百屋の向かいに店を構える呉服屋ごふくや女将おかみだった。

「キナ」

 オニャは幼馴染おさななじみを振り返り、その手をお互いに握り合う。静まり返っていた町の人々は再び顔を見合わせた。

「しかしなあ……」

「何ごちゃごちゃ言ってんだい! いいのかい? 悪いのかい!?」

「お、オニャとキナがそう言うなら」

「まあ、いいか」

 オニャが押し切る形で町の人々から賛同をて、オニャとキナはそれぞれひとりずつを引き取った。

 それから約十年。死にかけていたふたりの子供はそれが嘘だったようにすくすくと育ち、子供のいなかったオニャとキナにとって唯一無二の存在となる。ただ、ふたりの子供達には秘密があり、その秘密を知ったオニャとキナはお互いにこれを命尽きるまで、他言たごんしないことを心に決めた。たとえ、ぬぐい切れない不安を一生かかえ続けることになったとしても。


   +++


 明羽あはねは夢を見ていた。青く、優しい光。いつも見守るように降り注ぐ、やわらかな光。

 明羽あはねは目を開く。見慣れた土色の天井を見ながら伸びをした。

明羽あはね! いつまで寝てるんだい? 氷呂ひろちゃんが来てくれてるよ!」

 階下から聞こえてきたオニャの声に明羽あはねは身体を起こす。ザワザワとにぎわう人の声が聞こえる木窓を開けると、部屋一杯に光があふれた。暗んだ目でまばたきを繰り返す。大通りに面する二階。そこが明羽あはねの部屋だった。窓から身を乗り出すと、店頭にもうけられた日除けの布が太陽の光を受けて真っ白に輝いているのしか見えなかったが、人の声と気配で今日も朝から店がにぎわっているのが分かる。

 時刻は太陽が天頂に届くまでにまだまだ時間が掛かりそうな朝の書き入れ時。学校へ行く子供達が家を出る時刻でもあった。

明羽あはね

 呼ばれて明羽あはねは大通りの中央へ顔を向ける。多くの人、時々車が行き交う中、氷呂ひろが日除けの布に隠れない位置からこちらを見上げていた。

「おはよう」

「おはよう、氷呂ひろ。ちょっと待ってて!」

 部屋の中に取って返して明羽あはねは急いで支度したくを整える。

明羽あはね

 今度は部屋の入り口から声を掛けられて明羽あはねは振り返る。

 壁に四角い穴が開いているだけの入り口には入り口とほぼ同じ大きさの目隠しの布が掛かっている。その布と地面の間に空いたわずかな隙間から明羽にとって見慣れた足が覗いていた。

「入ってもいいかい?」

 のんびりした声が問う。

「いいよ」

 明羽あはねが答えると布を上げて、ぼんを持った男が入ってきた。

「おはよう。明羽」

「おはよう、おじちゃん。朝ごはん持って来てくれなくても大丈夫なのに。ちゃんと下で食べるよ?」

「いやいや。こうでもしないと朝はいそがしくて、明羽あはねの顔が見れないからね」

「早く戻らないとおばちゃんに怒られるよ?」

 明羽あはねは苦笑しながら養父の持ってきてくれた朝食にかぶりつく。

いためられた野菜がたっぷり入ったそのパンは、片手で食べられて、ひとつで十分にお腹一杯のボリュームをほこる、いそがしい朝にピッタリな朝食として世界的に普及ふきゅうしている食べ物だった。オニャ特製の朝食に明羽あはね舌鼓したつづみを打っていると、階下からオニャの声が響いてくる。

「あんたー! 早く戻って来ておくれ!」

 その声には明らかなあせりの色が浮かんでいた。

「さすがにそろそろ戻らないと不味まずそうだなぁ。それじゃ。明羽あはね。気を付けて行っておいで」

「うん」

 養父は気持ち急いで部屋を出て行った。


 その頃、氷呂ひろ明羽あはねの消えた窓を見上げては、お客の対応におおわらわのオニャを見て、また二階の窓を見上げてをり返していた。オニャを見る度に手伝った方がいいだろうかとなやむ。

「また北の町で亜種が狩人に捕まったそうだよ」

 ふと聞こえた言葉に氷呂ひろの耳が吸い寄せられた。ガヤガヤ、ザワザワと大通りはさわがしいが氷呂ひろの耳ははっきりとその声を拾っていく。

「まったく野蛮やばんだねぇ。狩人って奴は。また、何もしていないのを捕まえたんだろうねえ」

「しいっ。狩人を非難するもんじゃないよ。王様が認めているのだから」

「北の町は王様のお膝下ひざもとだものね」

「私は王様に賛成だね。亜種なんて根絶やしにした方がいいに決まってる」

「亜種って言えば、俺達に持ちない力を持ってるそうじゃねぇか」

「恐ろしいねえ」

「そんなこと言って。亜種を見たことあるのか?」

「そういえば、こっから少し外れた所に住んでた家族が突然いなくなったって?」

 氷呂ひろの肩がぴくりと震えた。

「そうなのか?」

「家族三人、そろって消えたらしい。この町から逃げ出したって噂だ」

「どっから聞いた噂だい? あんたが言いふらしてるんじゃ」

「そんなこたねぇよ。父親、母親、娘と一夜いちやに消えたらしい。その家族全員亜種だったって」

 突然、空がかげった。氷呂ひろは驚いて顔を上げる。人の影がくっきりと青い空に浮かんでいた。

 ぽかんと口を開ける氷呂ひろの横に明羽あはねはふわりと着地する。

氷呂ひろ。行こ!」

 笑顔の明羽あはねに対し、氷呂ひろは言葉が咄嗟とっさに出てこない。氷呂ひろが言葉を取り戻すより先に、

「こらー! 明羽あはね! 二階から飛び降りるなって何度言ったら分かるんだい!」

 店の中、お客でできた人垣ひとがきの向こうからオニャの怒鳴どなり声が飛んでくる。

「ごめーん。おばちゃん」

 明羽あはね氷呂ひろの手を取るとオニャから逃げるように駆け出した。氷呂ひろは見る。明羽あはねの左耳の後ろで束ねられた髪が走るのに合わせて揺れるのを。明羽あはね氷呂ひろの小さくなっていく後ろ姿を見送って、その場に居合わせた人々は笑い出す。

明羽あはねはいつにも増して元気だねぇ」

「すばらしい運動神経だ」

「でも、もうちょっと落ち着きがあった方がいいわよね。女の子なんだから」

「あれじゃあ、嫁のもらい手もないんじゃないかい?」

「いやいやいや。元気が一番だろう」

「いっそのこと、明羽あはねが二階から飛び降りるのを名物にしたらどうだい? オニャ」

「笑い話じゃないよ! あんた達!」

 オニャの怒鳴り声が先程以上に大通りに響き渡る。明羽あはねについて語っていた町の人々は蜘蛛くもの子を散らすように去って行った。それを見ていた人々の間でまた、笑い声が上げる。

 オニャはため息をついた。

「まったく。あの子は」

 空を見上げると青い色が広がっている。のぼってきた太陽と、太陽に寄り添う月が見えた。これから昼に向かってゆるやかに気温は上昇していく。

「今日も、何事もなくあの子達が帰って来ますように」

 誰に祈る訳でも、何に祈る訳でもない。オニャの小さなつぶやきは高い高い空へと消えた。


 明羽あはね氷呂ひろは走る。道をいくつも曲がって、大通りと比べると空は狭くなり、建物が密集してくる路地ろじの先。その先に明羽あはね氷呂ひろの通う学校はある。明羽あはねはゆっくりと速度をゆるめていく。

「ふう」

 乱れた息を整えるように息を吐くと、その一息で呼吸は落ち着いてしまう。対して明羽あはねの歩に合わせて速度をゆるめた氷呂ひろは息をみだしてさえいなかった。

明羽あはね。外の話、聞こえてた?」

「まぁ、ね。あの手の話題にはどうしても敏感びんかんになっちゃう。謝花じゃはなの家族も話題にのぼってたし」

「私達、大丈夫かな?」

 氷呂ひろの不安そうな声に明羽あはねは笑う。

「だーいじょーぶだって。私達がこの町に来て何年になる? 今まで何にもなかったじゃない。これからもきっと、大丈夫だよ」

 小さな不安が胸を過ぎったのを勘付かんづかれないように明羽あはねは自ら気付かない振りをする。

「ほら、氷呂ひろ。もうすぐ学校始まるよ。行こう」

 明羽あはねのわざとらしい明るい声に、氷呂ひろは小さく笑ってうなずいた。

「そうだね。急ごう。でも、遅れそうなのは明羽あはね所為せいだからね。起きるのが遅いから」

「ええー。そりゃないよ」

 目の前に見えた小さな門をくぐり抜けると、始業を知らせる鐘がカランカランと鳴り響いた。


   +++


 世界には七つの種族が存在している。

 動物、聖獣、悪魔、精霊、魔獣、天使、そして人間の七種族である。

 かつて、世界は混沌こんとんとしていた。

 人間以外の六種族は長い長い、それは長い間、争い続けていた。人間が持たぬ力を持った六種族の争いはとても恐ろしく、破壊的なものだった。何の力も持たない人間は恐怖に震えながらも長い間身を隠し、何とか種を絶やすことなくひっそりと生きながらえる。そんなある時、ひとりの青年が立ち上がった。

「このままでいいはずがない。世界に平和と安寧あんねいを。僕らの未来に光を!」

 その青年は多くの人間を先導し、争い続ける六種族と戦い、満身創痍まんしんそういになりながらも勝利をおさめた。青年に敗れた六種族は自分勝手な争いのむくいを受けて数を減らし、方々へと姿を消す。青年は多くの人にわれ王となり、平和になったこの世界で、人間以外の六種族はまれにその姿を現すだけとなった。

 くして我々人間は、今に続く平和と安寧あんねい繁栄はんえいを手に入れたのである。


   +++


「この王となった青年が今の王様のご先祖様です。だから、今のこの平和があるのも王一族のおかげなんですね。とても偉大いだいな方々です」

 教壇に立ち、十人の視線を一身に浴びながら女教師は言った。

 明羽あはね氷呂ひろの通う学校はとても小さな学校だった。六歳以下の幼児をあずかる1のクラスがひとつと、六歳から十歳までの子供が集まる2のクラスがひとつ。そして、明羽あはね氷呂ひろが所属する、十一歳から十五歳までの子供が集まる3のクラスがひとつあるだけの小さな学校。しかも、六歳以上の子供よりも六歳以下の幼児を預かる人数の方があきらかに多く、学校と言うより保育所と言った方がしっくりくる場所だった。

 成長する程、他の学校へ子供達が流れる中、金銭的な理由や、みずからの意思で残った十一歳から十五歳までの子供達を前に女教師は歴史を語る。

「これは、遠い遠い昔にあった話です。伝承でんしょうとして親から子へと語りがれて来ました。お父さんやお母さんから聞いたことがある人も多いでしょう」

「学校でも毎日のように聞かされてまーす」

 教室の中に小さな笑い声が響く。ひとりの少女が手を上げた。

「先生。本当に亜種なんているんでしょうか?」

「待って。亜種と言うのはいけないわ。それは差別する言葉ですから」

 わずかに身を乗り出して言った女教師に少女はキョトンとする。

「でも、みんなそう言ってます」

「そ、そうだけど……」

 教師と生徒のやり取りを窓際まどぎわ、一番後ろの席で聞いていた明羽あはねはあくびをした。窓の外へ目を向けると太陽が天頂に達したことで限りなく小さくなった影の残骸ざんがいあずかに見て取れた。熱せられた空気に景色がユラユラと揺れている。ふと隣に座る氷呂に目を向けると、氷呂は教師の話そっちのけで机の下でチクチクとい物をしているのだった。

 教室の中に置かれた八つの長机は一脚四人掛けなのだが、今はひとつにふたりと広々と使われている。それでも余っている机はものの見事に生徒達の物置きと化していた。

 女教師が気を取り直すように咳払せきばらいをする。

「ええっと。人間以外の種族は今でも存在しています。先生もまだ会った事はありませんが人間以外の種族を捕まえることを生業なりわいとしている狩人もまだまだいますし、王様も人間以外の種族が絶滅したとは宣言されていません。まあ、確かに、人間以外の種族は見つけ次第しだい、役人に知らせるように言われていますが、私達のような一般市民が一生のうちに彼らに出会う確率はほんのわずかでしょう。それほどまでに彼らは数を減らしているのです」

「でもそれは、ばったり会う確立の話ですよね」

 十人の生徒の中、ふたりしかいない男子生徒のひとりが手も上げずに切り出した。

「え? ええ……」

 女教師は首をかしげる。

「じゃあ。見に行くのは?」

「……は?」

 少年の突拍子とっぴょうしもない言葉に女教師がポカンと口を半開きにした。

「王様のお膝下ひざもと。北の町には見世物みせもの小屋があって、そこでは亜種が見世物みせものになってるって聞きました。と言っても半分みたいだけど」

「亜種との間に子供作るとか、理解できないよなあ」

「なあ」

 十歳を過ぎたばかりの少年達ふたりはくすくすと笑い合う。女教師は目眩めまいがしたのか一瞬ふらりとよろめいた。

 明羽あはねはなるだけ平静でいようと、ぎゅっと机の下で手を握り合わせる。

「やめなさい」

 クラスの中で一番背の高い少女が少年達をいさめた。クラスの中で自然とリーダーのような立ち位置にいる少女だった。小さな物音がして生徒達が一斉いっせいに振り返る。と、ひとりの少女が青ざめていた。クラスの中で特に小柄こがらな少女だった。その少女が震える声を出す。

「そ、そんな、いいものじゃないよ。見世物みせもの小屋なんて……」

 それだけ言って、少女はうつむいてしまった。この少女は見たことがあるのだ、その光景を。

「亜種と言っても、言葉の通じる相手を見世物みせものにするなんて、間違ってる」

 リーダーの少女は少年達をにらむが、少年はそれを鼻で笑った。

「フンッ。言葉が通じるって。あんた会ったことあるんですか? 話したことあるのかよっ」

「な、ないけど」

「だったら黙ってろよ。腰抜け!」

「腰ぬ……はぁ!?」

「亜種はほろぼすべきだ! 俺は絶対この町を出て、狩人にな」

「やめて!」

 よく通る声に教室内はしんと静まり返った。

氷呂ひろ……」

 隣でりんと立ち、きびしい顔をする氷呂ひろ明羽あはねは見上げた。

「やめて」

 氷呂ひろは同じ言葉を今度は静かに繰り返す。

 少年は氷呂ひろの顔を不満そうに見つめてから、パッと顔をそむけた。

「こ、の、ように……。他の種族を見掛けることがなくなって、他の種族に対しての恐怖心は私達の中にはもうほとんどありません。しかし、反感だけは根強く残っています」

 女教師は少し青い顔をしながらもこぶしを握り締め、授業を立て直す。

 氷呂ひろが腰を下ろすのを明羽あはねは見つめていた。明羽あはねに見つめられていることに気付いた氷呂ひろが小さく微笑ほほえむ。明羽あはねもホッとしたように微笑ほほえんでいた。

「先ほどの、見世物みせもの小屋の話ですが。確かに見世物みせもの小屋は存在します。しかし、それは本来あってはならないものです。人間以外の種族は見つけ次第しだい役人に知らせ、引き渡すのが決まり。ですが、希少価値の高くなった他の種族が今、売り買いされているのは事実です。それを政府は見て見ぬ振りをしている。ここは南の町の中でも最も南。世界の最南端で、北から、世界の中心から、最も遠い場所。駐在所ちゅうざいしょはあれど役人ものんびりしたものですし。狩人もほとんど近付きません。はあ。先生はもう、他の種族をさばく必要はないと思っています。もう昔の話なのですから。もう他の種族は人間の脅威きょういではないのですから……。こんなことを言っていますが私だって人間以外の種族を怖いと思う気持ちがない訳ではありません。けれど、その気持ち以上に好奇心がまさっている。私は一度でいい、彼らに会ってみたいと思っているのです」

 女教師は語りながら次第に夢見がちな少女のような顔になった。我に返り、少し恥ずかしそうに小さく咳払せきばらいする。

「はい。先生」

 リーダーの少女がまっすぐに手を上げた。

「私も、会ってみたいです」

 明るい声に女教師は微笑ほほえんでいた。

 暗くなっていた教室内の空気がなごやかなものに変わり、他の少女が女教師へと問い掛ける。

「先生。先生はどの種族に会ってみたいですか?」

「そうですねえ。やはり天使でしょうか。今最も数を減らしているのは天使だそうですから。昔は片翼の天使なんていうのもいたそうですよ」

 教室中が見たことのない天使の姿を想像してため息をついた。

 ただ、リーダー格の少女と言い争っていた少年だけは不満そうに鼻を鳴らしていた。


 この小さなまなで、生徒達は基本的な物書き、計算、歴史を学ぶ。そして、女子は裁縫さいほうなど家事に関することを学び。女子が手のこまやかさをみがいている間、男子は校舎の隣に併設へいせつされた室内運動場で体をきたえる。

 室内運動場は校舎より一回り小さいが天井は高く、四方を囲む壁と天井近くに明かり取りの窓が沢山たくさんあるだけの広々とした空間だった。その空間に木刀ぼくとう木刀ぼくとうがぶつかり合う、小気味こぎみいい音が響く。男子生徒がふたり、木刀ぼくとうを手に向かい合っていた。ひとりはやつ当たり気味に乱暴に木刀ぼくとうを振り、ひとりはそれをただただ器用に受け流す。

 やつ当たり気味に木刀ぼくとうを振り下ろし続ける少年が決意を語る。

「俺は、必ず、狩人になるんだ!」

 相手をさせられている少年は疲れたため息をついた。

「もうやめようぜ。木の棒振り回すの俺疲れたよ」

「だああ! お前しかいないんだから相手になれや!」

「何イライラしてるんだよー」

 木刀ぼくとうを持ったふたりの少年の後ろを、ふたりよりも小さな子供達が歓声かんせいを上げながら駆け抜けて行った。

 今、この場には木刀ぼくとうを持った十一歳から十五歳までの3のクラスの男子生徒がふたりと、授業中とはいえ走り回って遊びにきょうじる六歳から十歳までの2のクラスの男子生徒達が集まっていた。が、その総人数はとても少なかった。広い運動場がさらに広く感じられる程に。

 温度差のある少年ふたりと他の子供達を、壁際に立ってながめる藍色あいいろの髪の青年がいた。

「子供は元気だ」

 なんて独り言をつぶやきながら。不意に運動場と校舎をつなぐ引き戸が開いて青年はそちらに目を向ける。

 入ってきたのは3のクラスの女子生徒達と2のクラスの女子生徒達。そして、1のクラスの中でも最低限歩くことができるようになった幼児達だった。

「あ。アサツキ先生だ」

 女子生徒のひとりに名を呼ばれ、壁際に立っていた青年、アサツキは手を上げることで返事をする。アサツキと目の合った少女ははにかんでうつむいた。

 最後に入ってきた明羽あはね氷呂ひろに気付いて、アサツキは声を掛ける。

明羽あはね氷呂ひろ。調子はどうだ?」

「元気に見える……?」

 何故か明羽あはねはぐったりとしていて、その隣で氷呂ひろが笑う。

「お裁縫さいほうの後に子供達の相手をさせられて疲れちゃったみたいです。明羽あはねはどちらも苦手ですから」

「なるほど」

 氷呂ひろに釣られて笑いそうになったアサツキはその笑いを噛み殺した。そこから少し離れたところ、したに言葉をわす氷呂ひろとアサツキの姿をジッと見ている少年がいた。

氷呂ひろは美人だからなあ。子供好きで面倒見もいいし」

 真横から発せられた声に木刀ぼくとうを握っていた少年はびくりと肩を震わせた。

「な、なに!? あんなののどこがかわいいいんだよ!?」

「俺はかわいいなんて言ってないぜ」

 3のクラスに男子生徒はふたりしかいない。

 言われた方の少年は顔を真っ赤にして口を開いたり閉じたりさせるが、何ひとつ反論の言葉は出てこなかった。

氷呂ひろー」

氷呂ひろちゃーん。あーそーぼー」

「はーい。じゃあ。先生」

「ん。行ってこい」

 クラスメイトと年少の子供達に呼ばれた氷呂ひろが駆け足で去って行った。去って行く氷呂ひろの後ろ姿を見ながらアサツキは隣に話し掛ける。

明羽あはねは行かないのか?」

 いつの間にかアサツキの隣には明羽あはねが腰を下ろしていた。

「ちっちゃい子はどうあつかっていいか分からなくて」

 笑いをこれえようとしてまるで堪こらえられていないアサツキを明羽は無視した。ひとしきり肩を震わせたアサツキが言う。

「……謝花じゃはなから何か連絡はあったか?」

「そんなのある訳ない」

「そうか……」

 アサツキがつぶやいた時、ひとりの少年がアサツキに近付いて来ていた。明羽あはねとアサツキは示し合わせた訳でもないのにお互いに口をつぐむ。

 少年はアサツキの手前で立ち止まり、持っていた木刀ぼくとうをアサツキの鼻先に突きつけた。

「俺は絶対にお前には負けないからな! 見てろよ!」

 それだけ言うと少年はきびすを返して去って行った。少年の後ろ姿を見送りながらアサツキはただただ微笑ほほえましいものを見るように笑っていた。

「アサツキ先生。大丈夫ですか?」

 少し離れたところから事の顛末てんまつを見ていた少女が声を掛ける。

「うん。大丈夫」

 アサツキが答えると集まっていた少女達は顔を見合わせ、はしゃぎだす。

「……先生、女子に人気あるよね」

「まぁ。悪い気はしないが……」

「男の先生ひとりしかいないもんね」

「この学校は男の比率が低すぎる……。教師も生徒も」

「私、あいつ嫌いなんだよね」

 急な主張にアサツキは明羽あはねを見下ろした。

随分ずいぶんはっきり言うんだな」

「いつも、氷呂ひろを見てるんだ」

「年頃の男子だ。人を好きにもなるさ。氷呂ひろはあの容姿だし」

「私は認めない」

 明羽は不満をかくさない。

氷呂ひろを好きになるのに明羽あはねの許可が必要なのか?」

「それはそうなんだけどさ……」

 言いよどんでも明羽あはね苦々にがにがしさをかくさない。


氷呂ひろ

 氷呂ひろが振り返ると、そこには教室でリーダーの少女と言い争い、先ほどアサツキに木刀ぼくとうを突きつけた少年が立っていた。

「なあに?」

 氷呂ひろやわらかに問う。自分よりまだわずかに背の低い少年に向かって。

 氷呂ひろの周りには氷呂ひろの腰ぐらいの背丈せたけしかない子供達が取り巻いていた。しかし、少年はそんなことお構いなしに勇気を振りしぼり、氷呂ひろの目をまっすぐに見る。氷呂ひろの綺麗な青い瞳がまっすぐに少年を見返した。頭上に広がる早朝の空のように澄み切った青色の瞳。少年は体温が上昇するのを感じずにはいられない。

「お、俺。狩人になるから。狩人になって氷呂ひろを守るから。亜種なんて一匹残らず捕まえて、氷呂ひろに危険なんて一切近付けさせないからな!」

 その言葉に氷呂ひろは静かに微笑ほほえむだけだった。

 ふっと、本当に一瞬だけ室内がかげる。気付いたアサツキは眉をひそめ、天井に程近いところにある明かり取りの窓を見上げる。明羽あはねもまた、急な違和感を覚えて立ち上がる。

「先生……。先生、今、何か……」

 突然、天井の一部が崩れ落ちた。悲鳴が響き渡る。崩壊ほうかいした天井は角の一角だった為、幸い瓦礫がれき下敷したじきになった者はいなかったが、そこにバサリと空気を打つ音が響く。天井に開いた穴に影が浮かび上がった。

「おお。よかったよかった。誰も下敷したじきになってねぇな。さすがに俺達も人間を殺したとあっちゃ罪に問われるからな」

 人間よりはるかに大きな鳥だった。その背にまたがっている男のその腰には大振りの拳銃が一丁と楕円形だえんけいの黒い鉄板がぶら下がっていた。その黒い鉄板にその場にいた全員の目が釘付けになる。実物は見たことがなくても世界中の誰もが知っている。それはある職業を表す標章ひょうしょうだった。

「狩人……。どうして狩人がこんな所に!」

 叫び声に小さな子供達が次々と大きな声で泣き始めた。校舎に繋がる引き戸からさわぎを聞きつけた教師達が駆け込んで来る。

何事ないごとですか!?」

 地面に降りて来ないまま場内を器用に旋回せんかいする狩人を見て、教師達は絶句する。中でも一番年配ねんぱいの、髪に白髪しらがの交ざり始めている女性が叫ぶ。

「な、何ですかあなたは!? 誰の許可を得てこのような!」

「まあまあ。そんなに興奮こうふんしなさんな。すぐに終わりますよって」

「俺達に許可なんていらねえんだよ!」

 天井の穴から新たに飛び込んでくる影。先に入って来た鳥よりも一回り小さな鳥に、先に入って来た男より若い男がまたがっていた。

「グリフの兄貴! さっさと始めようぜ!」

 獰猛どうもうに場内を飛び回るふたり目の狩人は、その背に大振りのボーガンを一振り背負う。

「血の気の多い奴だな。たく……ルイン! ちったあ落ち着け!」

「ふ、ふたりも……」

 白髪しらが交じりの女教師が真っ青な顔になった。

明羽あはね!」

 アサツキは小声で、しかしはっきりとした声で明羽あはねの名を呼んだ。呆然と突然現れた狩人を見上げていた明羽あはねは肩を強くつかまれて我に返る。

「え?」

明羽あはね、いいか。南東に向かえ。南門からひたすら南東に向かうんだ」

「え、なん……え?」

「今すぐ氷呂ひろを連れて逃げるんだ!」

 明羽あはねの脳内で赤い火花がはじける。狩人が目の前にいるということを、その意味を、明羽あはねはやっと理解した。

 明羽あはねは辺りを見回し、氷呂ひろの姿を探す。

「さて、と。政府の技術部から横流ししてもらったこの試作品を試させてもらうか」

 グリフと呼ばれた銃持ちの狩人、グリフィスが腕を持ち上げた。その手首には何やらゴテゴテとした黒い機械が巻かれており、その中央についていた丸いものが突然真っ白な光を放つ。

「うおっ! 何だ!?」

 まぶしさに驚いて、狩人は機械から逃れるように腕を伸ばした。教師達は子供達を光からかばう様に抱え込む。光はすぐに消え去った。

「うわあ。ビビった。何だったんだグリフの兄貴?」

 グリフィスは機械を恐る恐るのぞき込む。中央にある丸いところに青い炎が灯っていた。

「青だ」

「青? 青って聖獣じゃなかったっけ?」

「ああ。そう説明されたな」

「ええー。聖獣なんてつまんないよ。聖獣と人間の間の子なんて探せば見つかるじゃん」

 ルインという名の若く、ボウガン持ちの狩人は、鳥を器用にあやつってブンブンと不満そうに運動場内を飛び回った。起こる風圧に子供達のみならず教師達もうめき声を上げる。

「まぁ、いいじゃねぇか。このぐらいの年齢が一番高く売れる」

 ニヤリと笑ったグリフィスにわずかに、本当にわずかに氷呂ひろが身じろぎをした。その小さな動きをグリフィスは見逃さない。

「お前か」

 グリフィスと目が合って氷呂ひろは息をんだ。氷呂ひろは思わず背を向け走り出す。と、グリフィスは鳥をあやつり急降下した。

氷呂ひろ!」

明羽あはね!」

 駆け寄っていた明羽あはね氷呂ひろは手を伸ばす。けれど、お互いの手は届かなかった。明羽あはね氷呂ひろの手をつかむより早く、グリフィスが氷呂ひろの長い髪をつかんで上昇していた。髪をつかまれたまま宙ぶらりんになった氷呂ひろが痛みに顔をゆがめる。

「お前も仲間か?」

 明羽あはねを見下ろして、グリフィスが下卑げびた顔で笑った。

「兄貴……。見てみろよ」

「あん?」

 ルインが指差すのはあらわになった氷呂ひろうなじだ。グリフィスは目を丸くする。

「首の後ろに十字の飾り紋様……。コイツは、コイツはとんだお宝だ! まさか純血の聖獣がいるとは! こいつはツイてるぜ!」

 ルインが口端こうたんを吊り上げて小さくつぶやく。

「俺の見立てに間違いはなかった。やっぱり、人と持ってる運が違うぜ。アンタ」

 髪をぐいぐい引っ張られて氷呂ひろは苦しそうに身をよじる。明羽あはねは喉の奥に燃えるように熱い何かが競り上がってくるのを感じた。何も考えずに思い切り地面を蹴っていた。

「この、下衆野郎げすやろう!」

 明羽あはね垂直すいちょくに跳んだ。高く、高く跳んだ。あまりに高く跳んだので、

「うわ……。明羽あはね。どれだけ跳ぶんだ……」

 アサツキは場違いな感嘆かんたんの声を上げてしまった。

 明羽あはねはグリフィスの乗る鳥を真下から蹴り上げる。死角からの攻撃に驚いた鳥が甲高かんだかい鳴き声を上げると、バサリと翼を打った。揺られてバランスを崩したグリフィスは両手で手綱たづなを握る。グリフィスの手から解放された氷呂ひろがゆっくりと落下を始めた。

「しまった! くそっ!」

氷呂ひろ!」

明羽あはね!」

 明羽あはねよりも早く落下する氷呂ひろ明羽あはねの手は届かない。

「兄貴! 俺が拾いに行くよ!」

 グリフィスの横を一回り小さな影がかすめて行く。

「聖獣ちゃん、もーらい」

 目の前にせまった狩人の手に氷呂ひろの顔が恐怖に強張こわばった。ルインの手が氷呂ひろに届くというところで、その姿はまたたきのうちにルインの目の前から消えていた。

「は?」

 ルインはすぐに理解する事ができなかった。獲物えものが横からさらわれた事に。

 新たに羽ばたく音がする。真っ白な羽が数枚舞って、そこにいた誰もがその色に目を奪われた。

 アサツキはつぶやく。

明羽あはね。お前……」

 氷呂ひろ明羽あはねの腕の中で心配そうにその顔を見上げた。

 氷呂ひろを抱えて空中に静止する明羽あはねの背には、左側にのみ生える四枚の翼が広がっていた。

 グリフィスとルインの唇が震える。

「天使、天使だ……」

「片翼の天使……。だが、片方に四枚の翼だって? 聞いたことねえぞ……。とんだ、とんだお宝じゃねぇか! なるほど! 機械が最初に放った白い光はお前のか!」

「兄貴!」

「ああ!」

 グリフィスは興奮した顔で叫ぶ。

「二匹ともいただきだ!」

 向かってくるグリフィスとルインを見て明羽あはね氷呂ひろを抱え直し、開いた天井の穴から迷わず飛び出して行く。グリフィスとルインもまた迷うことなくその背を追って行き、それを見たアサツキもまた明羽あはね達を追って運動場から駆け出した。

 運動場に取り残される教師と生徒達。

「ああ。なんてこと……」

 3のクラスの生徒達に伝承を語って聞かせた女教師がその場にくずおれた。氷呂ひろに狩人になるのだと語った少年は、天井に開いた穴の向こうに見える青い空を呆然と見つめたまま立ち尽くしていた。


 明羽あはねは力一杯飛んでいく。南門へ向かって。グリフィスは焦燥しょうそうから唇をむ。

「何で、何でだ……。何で追いつけない!」

「むしろ少しずつ離されてる気がするよ……。兄貴」

「全速力で追っても追いつけないってえのかよ! くそ!!」

 翼を持っていても人間の中で生きてきた明羽あはねは飛んだことなど数える程しかない。それこそオニャの目を盗んで家の中でこっそり飛んだ数回だけだ。まして、こんな速さで飛んだことなどなく、翼の付け根が痛み始めていた。南門が見えてきて、明羽は今まで感じたことのない感覚におそわれる。

『嵐が来る』

 空は青く澄み渡り、太陽はわずかに傾いている。午前に次ぐ、午後の書き入れ時に差し掛かっていた。

明羽あはねっ」

 下方から名を呼ばれ、明羽あはねは速度を落として振り返る。オニャが驚きと困惑こんわくの顔で明羽あはねを見上げていた。

「おばちゃん……」

 明羽あはねの目の端に狩人の姿が映る。この隙をのがすまいというようにグリフィスとルインは全速力で近付いて来ていた。

 明羽あはねの目を追ったオニャも狩人の姿をその目にとらえ、何が起こったかをさとる。

明羽あはね! 行きな!」

 オニャは叫んでいた。その目に迷いはなく一点の曇りもない。

「飛べ! 明羽あはね! 振り返るんじゃないよ!」

 オニャの声に押され、明羽あはねは再び南門へ向かって飛び始める。氷呂ひろ明羽あはねの肩越しに、呉服屋ごふくやから人が出てくるのを見る。

「おばさん……」

 氷呂ひろを見るキナの不安そうな顔がどんどん小さくなっていった。その間際、キナの口が氷呂ひろの名をかたどるのを見て、氷呂ひろは目をつむる。

 明羽あはねは高度を上げ、南門を軽々と飛び越えた。

明羽あはね。どこへ向かってるの?」

「南東。アサツキ先生が南門から出て、ひたすら南東に向かえって言ってたから。何があるか分かんないけど」

「そう。アサツキ先生が。いい人だね。謝花じゃはなのことも、私達のことも、黙っててくれた」

「うん」

 町を出てしまえばひたすらに砂漠が続く。どこまで行っても平坦な砂漠は果てしなく、青い空に浮かぶ太陽と月だけを頼りに明羽は飛び続けた。


 一度は距離を縮めたグリフィスとルインだったが今、その距離は再び広がり始めていた。

「くそっ! 追いつけねえ! こうなったら打ち落としてやる!」

 グリフィスは腰に釣ってある拳銃とは別に、鳥にそなえ付けてあった散弾銃を手に取った。

「おっとグリフの兄貴。散弾はまずいよ。ここは俺に任せてくれよ。それに、兄貴より俺の方が命中率は高いだろ」

 並走へいそうするルインの言葉にグリフィスは舌打ちするが、

「……そうだな」

「デカいのをお見舞いしてやるぜ」

 ルインは鳥に取り付けてあるいくつもの筒の中で最も大きいもののふたを開けた。中には黒くにぶい光を放つ大きな矢が一本だけ入れられていて、その矢を手持ちのボーガンにセットする。

 ルインは足と腰だけでバランスを取り、ボーガンをかまえた。

「特注の猛毒を塗った矢だ。じっくり味わってくれよ」

「翼を狙え。四枚もあるんだ。一枚減るのはしいがそれでも高値が付くのは間違いねえ」

「分かってるって」

 ルインが引き金を引くとまっすぐに飛んだ矢は明羽あはねの翼をつらぬいた。

「……っ!」

明羽あはね!?」

 一度はバランスを崩した明羽あはねだが、荒く息を二度吐くと、気合いを入れ直すように歯を食いしばる。背中と肩甲骨けんこうこつ、そこから伸びる翼に力を込める。と、脳天を突き抜けるような痛みと左腕にしびれが走って、明羽あはねは逆に氷呂ひろを強く抱き締めた。

明羽あはね明羽あはねっ」

 明羽あはねの震える腕に抱き締められながら氷呂ひろは涙声で何度も明羽あはねの名を呼んだ。氷呂ひろの声を聞きながら、明羽あはねは再び歯を食いしばる。翼を広げ、強く強く空気を打つ。

「な……」

「なん……」

 グリフィスとルインは絶句した。見えるのはどんどん離れて行く明羽あはねの後ろ姿だ。

「速度を上げただと!?」

畜生ちくしょう! 逃げられる!」

 少しずつ風が強く吹き始めていた。風にあおられた砂がザワザワと音を立てて舞い上がり始める。明羽あはね氷呂ひろが進む先には舞い上がった砂が巨大な壁を形成し、空を真っ黒に染め上げていた。砂嵐はその規模を広げながら明羽あはね氷呂ひろ、グリフィスとルインへとせまる。明羽あはねは迷わずその砂嵐の中へ飛び込んだ。グリフィスとルインはせまりくる嵐に空中で制止する。

「くそ。こんなでかい嵐、巻き込まれたら生きて帰れねーぞ!」

「……」

 悪態あくたいをつくグリフィスの後ろで、ルインは砂嵐をにらみ付けながら小さく舌打ちした。ふたりは手綱たづなを引き、鳥に方向転換をさせる。

畜生ちくしょう! お宝が……。覚えてろよ!!」

 砂嵐からのがれながら、グリフィスはそう吐き捨てた。

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