追分との約束

 俺のバイト先、『三日月』は個人経営の小さな喫茶食堂だ。


 今の店主の曽根文吾ソネブンゴさんはまだ若く、20代後半である。初代店主の曽根彰ソネアキラさんは俺がここでバイトを始めてすぐに体調を崩し、病院で入院しているので、今は文吾さんが店を切り盛りしている。


 俺がバイトを始めたのは大学2年の頃、それまでは大手ファミリーレストランでホールスタッフとして働いていたのだが、他のスタッフとの人間関係が上手くいかずに、1ヶ月も経たない内に辞めてしまった。原付で30分ほどかかる今のバイト先を選んだ訳は、ここなら見知った人間が来ることもないだろうと思ったからだ。


 結果として、追分がバイト先に居たのだが、追分も似たような理由で来たみたいだ。


 小さな店だが朝の時間帯には、地元の常連客が割とやってくる。今日は午後からなので、朝に比べるとお客さんは少ないのだが、それでも従業員が少ないので忙しい。バイト店員は、俺と追分の二人だけで、仕事は主にホールスタッフで、文吾さんとその奥さんのハナさんが料理は作っている。


 俺が食堂に入ると、お客さんが数人来ており、華さんが料理を出していた。


「お疲れ様です」


「おっ、お疲れー。今日もよろしく」


「はい」


 俺は、文吾さんに挨拶をして、華さんの元へ向かった。


「お疲れ様です」


「あ、お疲れ様~。よろしくお願いします」


「はい」

俺は、華さんと交代して、食器の片付けに取りかかった。2年勤めているので、仕事には慣れたが、手は抜けない。


「10番テーブル、オーダー聞いてきて」


「はい」


「3番テーブル、料理お願い」


「はい」


「1番テーブル、食器下げてきて」


「はい」


俺は、今日は12時始まり20時終わりなので、結構忙しい。バイト代は、いつもは趣味の映画鑑賞に充てていたが、今月分は、衛藤と明さんの分に残しておかなければいけない。ゴールデンウィークは衛藤が来るので、元々シフトは空けさせて貰っていた。『三日月』の看板メニューのトンカツ定食、いつか、明さんと一緒に食べたい。


◇◇◇


 時間が午後3時を回った。


 今の時間帯は、コーヒーブレイクに来るお年寄りの常連のお客さんが主だ。


 昼間の時間帯ほどは忙しくないので、俺は休憩室で休憩している。


「一輝、ちょっといいか?」

文吾さんが俺を呼んだ。


「はい」

俺は、飲んでいたコーヒーの入ったコップを置いて、文吾さんの元へ向かった。


「5月のシフトなんだが、すまんが"5月5日"出れないか?」


 文吾さんが申し訳なさそうに言った。


 5月5日と言えば、大事な明さんとの約束が入っている。これは、断るしかない。


「すいません、5月5日は大事な予定が入っているんです」


「え、そうなの?」


 5月5日は、確か追分にシフトが入っていたはずだ。


「追分がシフトに入ってませんでした?」


「今日電話が掛かって来て、お婆さんの具合がどうも悪いらしい……。数人が『シフト、一輝に言ったら代わってくれるって約束なんで、言ってみてください』って言ってたんだが……」


 あのやろう、こういう時に限ってその約束を行使するのか……。


 こっちだって、外せない明さんとの約束があるのに。


「すいません、その日の俺の約束があって外せないんです」


「そうか、わかった! と、言いたい所だが、一輝、頼むよ! ゴールデンウィークは書き入れ時だ。5日は、華も病院へ出掛けて居ないんだ! もうお前にしか頼めない。お前は、どんな用事なんだ?」


 え、華さんも居ないんだ。ゴールデンウィークなんて、いつもより絶対人居るのに……。まさか、店閉めて下さいとも言えないし……。しかも、文吾さんのこの訊き方、超答えづらい。素直に答えても、こっちが恥ずかしくて、物凄く申し訳ない。


 あーもう。


「わかりました! 俺、シフト入ります。その代わり、バイト代、はずんで下さいよ!」


「ありがとう!! もちろん、バイト代ははずむよ! 助かったよ! 店を閉めなくてすんだ」


 これは仕方ないとはいえ、明さんとの約束が果たせなくなったよ……。


 どうしよう……。


◇◇◇


 バイトが終わって、俺は追分に電話を掛けた。


『追分、お疲れ様。シフト代わってやったぞ』

追分が電話に出ると、開口一番に俺はそう言った。


『おっ! 約束が果たされた訳だな。』

追分は俺の発言に応じるようにそう答えた。


『俺には、大事な約束があったんだぞ!』


『ははあ、それは悪かったな。でも、こっちもどうしようもなかったんだぞ。』


『それはよく分かるが……。お婆さんの状態、ヤバいのか?』


『ああ……。かなり良くない状態らしい……』


『そっか……。わかった。文句言って悪かったな。でも、言わずにはいられなかった。ごめんな』


『急だったからな。まあ、これでチャラだから』


『わかった。じゃあな』


『ああ』


 追分に言いたいことを言ったら、大分調子が落ち着いてきた。


 明さんに、不本意だけど断りの電話をしないと……。時計をみると、午後10時を過ぎていた。また遅い時間になってしまった。


 悪いとは思いつつも電話を掛けた。


 しかし、今日は繋がらなかった。


 仕事だったのかな?

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