第2話

 カイロは一人でお風呂に入ることにきめた。小学2年生の秋のことだった。


 カイロのいえのお風呂は寒い。それに、ともだちのいえよりも古いみたいだった。というのは、シャワーをだすのに「レバーをがくんとたおす」と言って誰にもつたわらなかったから知った。

 ともだちのマンションのお風呂には窓がないらしい、というのもそのときに知った。それならきっとカイロのいえの風呂場のように寒くないだろうし、道を行くひとの話し声にどきどきしなくていいだろうから、少しうらやましいな、と思った。でも、シャワーのがくんがつたわらなかったところで、カイロは話に取り残されてしまったから、黙っていた。


 そんなことを思い出しながら、はじめて一人で風呂場に立った。先にあがったおかあさんと、弟のリクロの、シャンプーのにおいが残っていた。

 弟のリクロはまだ小さいから、おかあさんと入っている。おかあさんはおなかが大きいので、こども二人と入るのはしんどいと言う。だからカイロは昨日までおとうさんと入っていた。

 おとうさんはカイロをいつも脚の間にはさんで、泡で出るボディソープで髪の毛から体まで全部いっしょくたにして洗う。せっかくおかあさんが、はちみつの瓶のかたちをした素敵なシャンプーを買ってきてくれたのに。文句をいうと「ごめんごめん」というけれど、いつも忘れてボディソープであらう。


 カイロの髪の毛はきしきしになる。絡まるから、エルサみたいに長くするまえに切ることになる。

 髪の毛がきしきしになるのも、脚の間にはさまれて背中にふやふやしたちんちんが当たるのも、同じ線上にある気がした。それが、シャワーのがくんの件で全部いやになって、カイロは一人で入ると宣言した。

 おとうさんは「いよいよか」と笑って、おかあさんは「あ、動いた」とうれしそうに丸くふくらんだお腹をなでた。



 おとうさんはいつも、どうしていたっけ?


 風呂場に立ちつくしてカイロは考える。そうこうしているうちにも、濡れた床はカイロのあしうらから熱を奪っていった。床にまかれたときはお湯だったのが、すきま風に冷やされて、とうに水に変わっていた。

 はい上がってくる寒気にあらがうために、カイロは手桶を手にとって、浴槽からお湯をくみ出した。お湯はうす緑色をしていて、人工的な木の匂いがした。


 そうだ、最初にからだにお湯をかけて、それからお風呂に入るんだった。


 肩からかけた湯はカイロの腹をなで、ふとももを少し濡らしてから、つま先に落ちた。おとうさんはいつも頭からざんぶとかける。湯船につかったときに髪からしずくが落ちて、湯とまざるのがいやだった。水でかたまったまま髪の毛が冷えていくのもいやだった。

 湯につかったカイロの肌にちいさな泡がたくさんはりついているのが見える。手のひらでひざのところを撫でると、泡はカイロからはがれて、水面に浮かんだ。


 ――メダカの病気が流行っていた。クラスで飼っていたメダカだ。


 はじめに沈んでいるメダカに気づいたのはカイロだった。エサをあげていた子たちは、動いているメダカしか目に入らないようで、沈んだメダカは放っておかれていた。

 カイロは毎日底に沈んだメダカをすくって、雑巾の上に並べた。メダカは、先に置かれた端のほうからひからびていって、煮干しみたいになった。

 ある日、メダカの死骸でいっぱいになった雑巾を持って埋めに行こうとしていたカイロに先生が声をかけた。


「メダカが随分死んでいたのね」

 先生は女の人だった。


「病気でも流行っているのかな。一度水そうを掃除しないとダメかな」

 そう言って、そのまま行ってしまった。水そうはまだそのままで、メダカは毎日沈んでいた。


 カイロがすねをこすると、今度はすねの表面から泡がはがれて浮かんだ。「メダカって死ぬと沈むんだよ」と、風呂でおとうさんに話したことがあった。「魚は死んだら浮かぶだろ」と信じてもらえなかった。おとうさんのすね毛とそれにからむ泡が、水草みたいだった。



 浴槽から出て、椅子にすわる。ボディーソープのポンプを押して泡を出した。

 しわしわのタオルをおけに入れたお湯にひたして、もどすみたいにする。

 泡はタオルに吸い込まれるようにして消えてしまって、それはいつものことだった。でも今日は一人だから、泡の少ないタオルでごしごしと体をこすらなくてもいいのだ。

 ひらめいたカイロはポンプをなんども押して、手のひらいっぱいの泡にした。

 アニメでみた外国の女の子は、泡いっぱいのお風呂にぬいぐるみと一緒に入っていて、それがとても羨ましかった。

 まえに弟のリクロがねだって買ったバスボールから出てきた小さなカブトムシが、窓際に置かれていた。

 片手を伸ばしてそっととって、泡にのせるとカメムシくらいのおおきさのカブトムシはみるみる沈んでいった。


 泡になったお姫様の話を思い出す。

 ママはディズニーのリトル・マーメイドが好きで、カイロもDVDでずっと見ていた。だから人魚姫は幸せなお話しだと思っていた。でも図書館で借りた人魚姫のお話の最後は、泡になってお姫様が消えてしまった。

 泡になったお姫様は、ぷくぷくと浮かび上がって、広がって消えたのだろうけど、その鱗のかけらは、もしかして沈んだんじゃないかなとカイロは思った。


「体が重いよ。泡から出してよ」

 カブトムシが話しだした。

「でもきみはお風呂に浮かぶ体でしょう。なんで泡には沈んじゃうの」


「知らないし、お風呂だって嫌いだよ。なんでバスボールのおもちゃになんか生まれてきちゃったんだろう」


「お部屋に連れて行きたいけど、きみの体は香料がしみついてるからきっとおかあさんが嫌がるよ。おかあさんは今、においにビンカンなんだ」


「分かってるよ。だから僕をほら、窓のところに戻してよ。寒くってもあっちのほうがまだましだから」


「窓のところにじっといて、それからどうなるの」


「知らないよ。でも言うだろう『待てば海路の日和あり』って。きっと僕もそのうちに、本物の木や、土や、おひさまがあるところに行けるから」

 

 そんな日が来るとは思えなかったけれど、カイロはカブトムシを窓のところにもどしてやった。

 


 次にカイロは頭を洗うことにした。

 はちみつの瓶の形をしたシャンプーをやっと使えるのだと思うとカイロの心は弾む。ポンプを押すと、黄金色の液体が手のひらにもったりと落ちた。


 はちみつの甘い香りに花の香りが混じっていて、その主張の強さにひるんでカイロはなかばでポンプから手を離した。

 おひめさまの匂いってこんな感じだろうか。このくらい強い香りでないと、おうじさまはおひめさまに気付けないのかもしれない。手のひらに出した液体に、そっと鼻を近づけてみながらカイロは思った。


 こういうシャンプーを使うとき、おかあさんはどうしていたっけ、と考えて、カイロは自分の失敗に気づいた。おかあさんは先に髪の毛を濡らしてくれていた。どうしようかカイロはまよった。

 ひとまずお腹に避難させておこうと、お腹にぬりつける。おかあさんがお風呂上がりにお腹にクリームを塗っていたのを思い出す。赤ちゃんとママの絵がかかれたクリームをお腹にぬって、手に残った分を弟のリクロに塗ってやる。カイロも手招きされたが、赤ちゃんのクリームはお姉ちゃん向けではないと思ったので断った。


 シャワーのレバーをがくんとして、頭に勢いよくお湯を浴びる。痛い、と思った。

 反射的にシャワーを離して上に向けると、噴水のようにお湯が降り注ぎ、それが肌に当たったときにああ熱かったのだと分かる。そのあとにやっと、温度の調整が出来ていないと気づいた。


 人魚姫の足は、熱くて、痛かったんだと思う。


 シャワーを恐る恐る足に当てる。お腹から上がってくるはちみつと花の香りと、足に覚える痛みで、本当におひめさまになったような気がする。足は真っ赤になっていた。

 温度のつまみを「ぬるい」に回すと、やっとお湯とわかる温度になった。

 太くて絡まった髪の毛の内側までしっかりと濡らして、お腹からとった液をのばす。シャンプーの泡はいつものボディソープの泡よりもすかすかで、髪の毛にぬるりと絡まった。海の中で自由にゆれる、人魚姫の髪の毛みたいだと思った。

 足はずっと真っ赤だった。

 青いプラスチック製のすのこの隙間に、いつのか分からない髪の毛が絡まっていて、それは沈んでいく人魚姫の身体の名残のようだった。絡まった髪は気持ち悪くて、不潔で、そんなものが残ると知っていたなら、人魚姫は死を受け入れなかったんじゃないかと、カイロは思った。

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