第一の鑑定  血の涙を流す少女の肖像 2-6

「頬のところに紅い色が垂れて流れた跡があるね。他は乾いているけど、この部分だけがまだほんのり湿っているから、最近こうなったんだ」

「目から頬の部分だけが湿っている……。先生、つまりそれって、やっぱりこの絵の中の子が、涙を流したということですか?」

「どうだろうね」

 雪緒の問いには答えず、中津川はあちこち子細に絵を眺めまわし、時々そっと触れ、首を傾げたりぶつぶつ何かを呟いたりした。

 ひとしきりそうしたあと、手袋を外して懐に仕舞う。

「ありがとうございます。一通り拝見させていただきました」

「中津川くん、どうだろうか? やはり、物の怪か何かが憑いているのか……?」

 英一がよろよろと中津川に近寄った。中津川はその英一を、傍にあった椅子に導く。

「まず、絵そのもののこと……つまり、この絵の芸術的価値についてお話しましょう。よし香さんも座ってください」

 部屋の中にあったもう一つの椅子に、よし香が腰掛けた。

 雪緒はそこでよし香の部屋全体を見回した。今まで絵に圧倒されていて気が付かなかったが、とても綺麗で女性らしい、素敵な部屋だ。

 広さは十畳以上はあるだろう。もちろん洋室で、床には茶色い絨毯が敷き詰められている。壁は凝った模様が入った壁紙クロスで覆われており、天井は花の模様が浮き彫りになった正方形の板が何枚も組み合わさってできていた。

 窓は一つだけだが、部屋の方角的に日当たりが良いせいだろう、さんさんと光が差し込んで、それが部屋の奥まで届いている。

 置いてある家具は、猫足の卓子と椅子に、寝台と西洋風の洋服箪笥だ。寝台にはレースがあしらわれた布が掛けてある。

 全体的にとても居心地が良さそうな部屋だった。……おどろおどろしい絵がなければ、の話だが。

「あの絵は百年ほど前、恐らく千七百年代後半から千八百年代前半にかけて、欧羅巴で描かれたものだと思います。影のつけ方や肌の滑らかな質感など、筆遣いにその頃欧羅巴で唱えられていた浪漫主義の要素が強く見られる。ただ、そこそこ素人離れはしていますが、この大きさの画布に人物が一人だけ、背景も単色で塗りつぶしてあるだけです。あまりいい構図ではない。有名な画家の作品ではないでしょう」

 ここまでの説明を、中津川はさらりと言ってのけた。

 中津川の頭の中には芸術に関するいろいろな知識が際限なく詰め込まれている。この程度は朝飯前だろう。

 やっぱり先生はすごい。雪緒は改めてそう思った。

 今まで何度か、師匠が美術品に関して意見を述べる場面に立ち会っているが、そのたびに感心してしまう。いつもぼさぼさ頭で堕落し切った姿を見ているだけに、余計。

「それで肝心の『曰く』の方はどうなんだ? 絵は一体、どうしてこんな風に……血の涙など……」

 英一は不安そうに尋ねた。

「それに対する結論は、残念ながらまだ出ません。拝見したとはいえ短い時間ですし、僕らは言ってみれば、紅い色の液体が流れた『跡』を見ただけですから」

「そ、そうか……」

 中津川の答えは曖昧を極めた。英一もよし香も期待外れだったらしく、揃って溜息を吐く。

「今お伝えできるのはここまでです。僕としては、もう少しじっくりとこの絵を楽しみ……いや、鑑定をしたいところですが、どうしますか?」

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