第一の鑑定 血の涙を流す少女の肖像 2-1
件の絵を所有しているのは、
既に代替わりしているが、前当主は帝大の教授を務めていた人物であり、かなりの素封家だそうだ。
山本邸は、前当主の勤め先だった帝大の裏手にある。その前当主は二年ほど前に病で亡くなり、今では現在の当主とその娘が二人で暮らしているとのこと。
前当主の山本貞之進氏がもともと甲斐の顧客で、奇妙な絵があるという話を甲斐が聞きつけたのもその縁があってのことだった。
その辺の事情を説明すると、甲斐は例の『夜泣きする壺』を抱えて自分の会社へと帰っていった。
自らも山本家での鑑定に立ち会うつもりでいたが、どうしても外せない商談が立て込んでいるのだそうだ。やはり、社長ともなるといろいろ忙しいのだろう。
雪緒と中津川が暮らす長屋は、帝都のやや東寄り、神田区小川町にある。
一方、山本家がある帝大の一帯は本郷と呼ばれていて、上野の不忍池のほど近くだ。神田区小川町からは歩いていける距離で、訪問の約束は既に取り付けてあるとのことだったので、中津川と雪緒はすぐに山本家に赴くことにした。
「うわぁ、天気がいいですね、先生。ほら、ニコライ堂がくっきり綺麗に見えますよ」
長屋から外に出ると、空はすっきりと晴れ渡っていた。早朝の寒さもすっかり消えて、木綿の着物一枚でもぽかぽかと暖かい。心地良い風が時折吹き、そのたびにどこかからか桜の花びらが漂ってきて、まさに春爛漫という感じだ。
だが、雪緒の隣を歩く中津川は、酷くやつれた顔でぼさぼさ頭のまま下駄をだらだらと引きずるようにして足を進めていた。
「先生、ちゃんと歩いてください」
雪緒は見かねて、中津川の着物の袖を引っ張った。
「日差しが眩しすぎる……。眠くて溶けそうだ」
「先生は冬眠明けの山鼠ですか……」
「仕方ないだろう。僕、夕べは壺の相手をしてて寝てないんだよ」
「そんなの知りませんよ。ほら、さっさと歩く!」
雪緒は今度は中津川の後ろに回って、背中を押した。
その光景を、詰襟や書生姿の学生たちが横目で見ながら追い越していく。
神田から本郷にかけては大学や各種専門学校が多く、いわゆる学生街だ。帝大こと帝国大学はその中でも最高峰。選ばれた者だけが通うことを許されている名門の大学である。
「雪緒くぅーん、疲れた。もう駄目だ。人力車で行こうよ」
工房を出てからまだ一町も歩いてないというのに、泣き言が聞こえ始めた。
そもそも中津川は見た目からしてひ弱である。背丈がある割にひょろりと痩せており、夜更かしばかりするせいで顔色も良くない。基本的に身体を動かすのが嫌いなのだ。
今にも倒れそうな中津川に、雪緒はきっぱりと首を横に振って見せた。
「駄目です! そんな余分なお金、ないですよ!」
住み込みの弟子になって以来、雪緒は中津川工房の財布を管理している。
炊事洗濯を始め、画材の買い出しなど細々とした雑用を受け持っているためその方が都合がいいし、何より中津川は金の勘定に全くといっていいほど無頓着なのだ。
雪緒が来るまで、中津川工房の中は散らかり放題だった。土間に据えられたへっついは使われた形跡が殆どなく、食事はいつも適当に外で済ませていたらしい。
自分がいくら持っているのかなど考えたこともなかったというのだから呆れてしまった。以前の中津川が一体どんな暮らしをしていたのか……あえて想像しない方がいいだろう。
ともかく、財布を預かってみて分かったのは、お金になる仕事を積極的にこなさなければ『非常に不味い』ということだ。だから、雪緒はいつも中津川をせっついている。
しかし、当の中津川が気まぐれで、なかなか絵筆を握ろうとしない。
雪緒が近所を回って似顔絵や看板描きの仕事を見つけてきても、依頼された題材が気に入らなければ引き受けない。やっと仕事に取り掛かったと思っても、『曰くの真贋鑑定』の仕事が入るとそちらにかかりきりになってしまう。ゆえに、中津川工房の経済状況はいつも芳しくないのだ。
お金のことを抜きにしても、気分次第で仕事をするのではなく、もっと絵に対して積極的になってほしいと雪緒は思う。中津川がひとたび筆を握れば、誰もが惹き込まれてしまうほど素晴らしい絵が出来上がるのだ。
ぼく、先生の絵、もっと見たいんだけどな……。
そんなことを思いつつ、中津川を押したり引いたりしながら歩いていると、やがて目的の屋敷に到着した。
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