第3話 彼女
「ど、どうぞ」
「お邪魔します」
阿部さんは履いていたローファーを脱ぐ。
その仕草でさえ、美しい。
フローリングの廊下をスタスタと歩き一直線に私の部屋に向かった。
「ここがゆうちゃんの部屋か〜」
阿部さんは私の部屋を目で一蹴する。
別にやましいものなんて置いてないがなんだか恥ずかしい。
「想像通りかも」
阿部さんはそんなことを言いながら上品に笑う。
私の部屋、お世辞にも女の子とは言い難い。
エンジェルジョークだろうか。
私は少し緊張が解けたように微笑んだ。
「どゆことよ」
そんなことを言いながら、私は自然に部屋のベッドに腰をかける。
すると、私に続いて何食わぬ顔で隣に腰をかける天使。
パーソナルスペースなんて概念をどこかに置いてきたのか。はたまた、天使にそんなものはないのか。
私の心臓は自然と鼓動が早まる。
そして二人だけの静かな部屋では、余計にその心臓の音が耳に響く。
そして、阿部さんは私の耳元で囁くように、優しくその静寂を破った。
「……ゆうちゃんなんかいい匂いするね」
私の耳に阿部さんの吐息が当たる。
声か吐息のどちらが原因か分からないが、凄くくすぐったく感じ、『阿部さんが耳元で囁いた』という事実を認識したと同時に、既に早い心臓の鼓動がより一層の早まった。
「匂いには結構気を使ってるから……」
阿部さんの小声に合わせて私も自然と小声になる。
私は人より匂いに敏感だ。
なんか鼻の構造が人と違うらしい。
「へぇ……可愛いね」
阿部さんは耳元から口を離したが、まだ小声で喋っている。
別に誰がいるという訳でもないので、小声で喋る必要ないのに。
「可愛い……かな。わかんないけど」
私は何が可愛いのか分からないが、否定するのは申し訳ないので若干肯定ということでこの場を収めようと試みたが、
「ううん……すごく可愛い」
失敗した。
「あ、ありがとう……?」
阿部さんは、私の『可愛い』に対しての肯定発言を聞くと、声は出さずにとても優しく微笑む。
そして彼女は、置き所を無くし膝の上に置いていた私の手の上に手を重ねた。
それに対し私は、自然と視線を彼女に向けてしまう。
私の耳元に持っていこうとしていた彼女の顔と、彼女の顔を見ようとした私の顔がとても近い距離で向き合う。
それに対し彼女は一瞬驚いたような表情を浮かべた。
私は顔を逸らそうとした。
しかし、それを阿部さんは手で制止した。
何も言葉が出ない。出るはずがない。
こんな状況、ありえない。
阿部さんは真剣に私の顔を見つめている。
私は必死に視線を逸らす。
阿部さんは一体何がしたいんだ。
なんのためにここに来た。
分からない。
何も分からない。
そして、怖い。
何も考えられなくなってきた。
この状況はおかしいはず。
会って、ほぼ初めて話すような人と、こんなに至近距離で見つめ合う。しかも、顔を手でおさえられて無理やり。
しかし、第三者がいなければ、その異様さを立証できない。
二人だけの空間。二人以外誰も危害を加えない空間。
つまり、この空間で起きることは全て普通のこと。
故にこの状況はおかしくないのかもしれない。
一瞬、阿部さんの顔を見ると、阿部さんは口を開いた。
「……こわい?」
『声』というトリガーで、現実に解き放たれたような感覚。
私は、その感覚とともに自分の目に涙が湧いていることに気づく。
その涙を、頭を抑えている彼女の手の親指が優しく拭う。
そして、そのまま優しく、私の頭を胸に持っていった。
とても柔らかく、全てを包み込むような感覚。
私の頭は彼女の腕の中にあり、安心感を覚える。
そして彼女は喋った。
「私も最近学校行ってないんだ」
彼女の言葉を、彼女の胸の振動で聞き取る。
少し安心している私は、制服を着ていることに疑問を抱く余裕すらあった。
「制服着てるのは親に学校行ってないのバレないようにするため」
私の考えていることが分かっているかのように言葉紡ぐ。
でもなんで。
彼女みたいなマドンナが不登校なんて。
「なんで休んでるかとかはゆうちゃんには言えないけど──」
彼女は、私の頭をポンポンと優しくすると、肩を押すように、体を立て直させる。
「今日はゆうちゃんに伝えたいことがあってきたの」
『──好きです』
そんな言葉が頭に浮かぶ。
1番浮かべたくないものを1番浮かべたくない場面で浮かべてしまう。
「あのね、私──」
あ。
こうなるのか。
「──ゆうちゃんのことが──」
思い出したくない。
「──好きです」
言葉が出ない。
彼女の目にはさっきの私のように涙が浮かんでいる。
自分がどんな顔をしているのか分からない。
でも答えは決まっている。
そんな瞬時に決められることではないが、何故か私には決めることが出来た。
『ごめんなさい』
この言葉を必死に紡ごうとした唇は、彼女の涙で濡れた唇に塞がれた。
まるで私の答えが分かっていたかのように。
唇の感触は彼女の感情を感じさせた。
唇の味は彼女の悲しみを感じさせた。
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