華
第1話 雨音(1)
「兄は今日も帰れないそうです」
馬田蒼は今日の分の仕事を終えて白衣を脱ぐと、譲からの未読メッセージを開いて言った。
「昨日のあれからぶっ通しで働き詰めなのか? あの調子じゃ、睡眠もろくに取れていなさそうだ。体を壊さなければいいけど」
「昔から仕事熱心な人なんですよ。僕の尊敬する兄です」
「そういう歯が浮くようなセリフを、弟に真顔で言わせるんだから、馬田さんは本当にすごいと思うよ」
生吹が揶揄うように言う。蒼は、兄ばかり褒められたり心配されたりするのが面白くなくて、八つ当たり気味に言い返す。
「生吹先生、その『馬田さん』『馬田君』っていうの、そろそろやめません? 紛らわしいですよ。どっちが呼ばれるのか、最後まで聞かないと分からないですし」
「最後って。馬田ってたったの二文字じゃないか。今時の若者はそれすら待てないのか?」
「それはもっと下の世代の人たちですよ。僕、チックタックとか観ませんし」
「名前が少し違うような気がするけど、気のせいかな」
「観ないからよく知りません」
「『馬田さん』『馬田君』じゃなければ、なんて呼べばいい? 『譲さん』『馬田君』?」
「それはなんだか、もっと嫌です」
「反対するなら代案を出してくれないと困るよ」
「じゃあ、たとえば……」
馬田さんと蒼くん――とは言えずに、口ごもる。
「やっぱり、今のままでいいです」
「その方が私も助かる」
生吹がパソコンを閉じて白衣を脱ぎ、ハンガーに掛けると、唐突に誰もいない後ろを振り向く。
「生吹先生、どうかしました?」
「いや、なんでもない。虫。虫だと思う」
研究室には馬田と生吹の二人しかいないが、長瀞から帰って以来、生吹は時々様子がおかしい。今のように背後を気にする姿もよく見かける。もしかすると、あの夜、首を絞められたことがトラウマになっているのかもしれない。
きっとそうに違いない。強がって見せているだけで、独りになるのが怖いのだろう。そうでもなければ、聡明で誇り高い先生が、部下の言うことを聞いて、部下とその家族の住むマンションに間借りするわけがなかった。
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