第2話 雨音(2)
生吹希は、法医学及び法人類学を修めた学者である。人骨を通して死者と語らうのが、彼女の仕事の一つだ。人骨とは生身を失った元人間であり、一般的に忌避される死体である。
この仕事をしていると、骸骨なんて気味が悪くないのかと聞かれることがある。研究室に一人でいるとき、寒気がすることはないのか、と。
生吹は聞かれる度に、それはないと否定した。彼女は残留思念を信じない。彼女が信じるものは科学だからだ。魂とは脳であり、脳細胞に電気の供給が止まれば、それが即ち死であると彼女は考える。電源を抜けば機械が止まるのと同じ。
しかし、人間は機械と違って面白い。骨に人生が刻まれる。身長、年齢、性別、人種。怪我や病気。極度の精神的ストレスを受ければ、骨にその痕跡が残る。人が人であった証。その人がその人であった証。人間と機械を分かつ不思議。その有機的なダイナミクスに惹かれて、生吹はこの道を選んだ。
だが、ここ数日、魂というものについて、生吹はそれまでの価値観を根本から見直す必要に迫られていた。長瀞視察以来、身の周りに人ではない何かを感じる。自分に無縁と思っていた寒気まで度々感じるようになってしまった。
この感覚は、宿で首を絞められる以前からのものだ。長瀞遺跡の第三十七号基。あそこを出た時から、体の調子が優れない。風呂上がりに体調が悪くなったのも、長湯や帯のせいだけではなかったように思う。
何かに取り憑かれてしまったような――
そんな非科学的な妄想を、妄想と笑えなくなってきている。
長瀞から帰って十日。宿で自分を襲った犯人が、ここまで来て尚、自分を狙っているとは思わない。犯人は人間であり、大抵の人間は、そんなに暇ではないからだ。それでも自宅に帰れずにいるのは、一人になるのが怖いから。誰かといないと、気が紛れない。背後に感じる人の気配や、誰かに見られているような感覚は、日に日に強くなる一方で、自宅に帰り、一人で怯えて過ごすより、誰かと一緒にいたい。
かといって、これ以上、部下に甘えていられないとも思う。
「犬でも飼おうかな」
夕食を終え、水の入ったグラスを置いて、生吹が言った。
「急にどうしたんですか? でもここ、ペット禁止なんですよ」
「いや、自分の家に帰ったらの話」
「生吹先生、帰っちゃうんですか?!」
「君ももう、あの時の犯人がまだ私を狙っているなんて、思っていないでしょう?」
「そうかもしれませんけど、でも」
二の句を継げずにいる蒼に、
「洗い物はやらせて」と生吹が言うと、蒼は少し悲しそうな顔をした。
「じゃあ、すみません。僕、先にお風呂いただきます」
生吹はテーブルの食器を重ねて運び、ステンレスのシンクに置いた。水栓レバーを上げて水を流す。ジャージャーと水が皿に落ち跳ね返る。
この水の音で掻き消そう。雨の音。
雨など降ってないのに、聞こえてやまない雨の音。
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