第34話 最奥の少女(2)
身綺麗で一見大人しそうなタクシー運転手は、穴守温泉の事務所に入ると、黒い革製のソファーに身を沈め、自分の家のようにくつろいだ。
「藤吾さんから呼び出しなんて、珍しいじゃん。電話しても『折り返す』って言うばかりで全然かけて来ないのに。ちょうど客を乗せていない時でよかったよ」
「今日は聞きたいことがある。
藤吾は事務所の鍵を閉め、ソファーの兼松を振り返る。
「なんで? 俺んところに警察なんか来てねえし、俺はなーんもしゃべっちゃいねえよ。ああ、でもそういやこの前、客にちっと口が滑って」
「何を言った!?」
「そんなに焦るなって。客じゃなくても組合に出てたやつなら知ってる話だ。旅館の別館建設計画が、白骨死体のせいで駄目になって、藤吾さんが人殺しそうなくらいキレてたって話」
「余計なことを。『最奥の少女』については?」
「それは俺じゃないね」
「そうかよ」
藤吾は不安の入り混じった溜息を吐き、兼松の向かいに座った。ポケットから煙草を出して口にくわえ、苛立った仕草で火をつける。
「やめてたんじゃなかったのか」
「いいだろ別に」
「じゃあ俺にも一本」
兼松は、藤吾から煙草を箱ごと奪い、一本口にくわえて火を求める。藤吾は舌打ちをしながら不服そうにライターの火で煙草の先端を炙った。兼松がフィルターを通して息を吸い、煙と共に他人事のような言葉を吐き出す。
「今更『最奥の少女』なんて、警察は何を調べているんだろうね」
「知るか。お前が昔書いた記事のことは、絶対にしゃべるなよ?」
「あんなのもう時効じゃねえの? 今更だろ」
「だからってしゃべるな。お前にはあの時、そういう約束で金を積んだんだからな」
「そう言えばそうだったな。別館建設をキャンセルしなきゃならないくらい、たくさんもらった」
「それなのに、あんな記事を書くなんてな」
「ちゃんとオカルト記事になってただろ? 『黒髪を日本人形のように長く伸ばし、乱れた浴衣を着た少女で、憎悪と恨みで零れ落ちそうになった目玉から、血の涙を流していた。だが、少女に近付こうとすると、ふっと姿が消えてしまった』」
「最後にオカルト的な一文を足しただけで、それ以外見たままを書くやつがあるか」
「血の涙ってところも忘れるなよ。あんたが乱暴したせいで彩芽ちゃんが瞼を深く切っちまって、その血が目に入って流れて涙みたいに見えたんだ。それもちゃんとオカルトっぽく書いただろ? いい宣伝になったじゃない。夏の客足が増えたんだから文句を言ってもらってもね。ああでも、結果的に藤吾さんは色々やりにくくなったのか。それについては本当に悪かったよ」
今にも殴りかかりそうな藤吾に、兼松は両手を軽く上げて降参を示す。
「でもさ、今回はまずいんじゃないの? 人殺しはさすがに不味いよ」
「何の話だ」
「三田園って男を殺したの、藤吾さんじゃないのかなあって、俺はなんとなくそう思ってるんだけど」
「ふざけるなよ?」
「いやあ、だって。墓穴のある場所を知っている人間なんて、俺を含めて数えるきりしかいないだろ? 花咲ちゃんはあんなに小柄で華奢なのに、男が殺せるとは思えないし」
「女ってのは、その時になったら思いがけない力を出すもんなんだよ」
「知ったような言い方だ。彩芽ちゃんにやられた傷、まだ残ってるもんな。首んとこ」
兼松は自分の首の後ろを指す。
「うるせえよ。俺はな、知らない男を殺すくらいなら、お前を先に殺ってるよ」
「わ。それもそうだ。すごい説得力。じゃあなんで殺さないの?」
「お前は共犯だから。俺が捕まれば、お前も捕まる」
「それだけ?」
兼松は嘆息し、藤吾の隣に移動する。
「俺さ、藤吾さんからもらった金、まだほとんど手を付けてないんだよね。高跳びするなら言ってよ。力になれると思うからさ」
「俺に恩を売るつもりかどうか知らないが、元はと言えば俺の金だ。約束を履行しなかったお前にその金を使う資格なんかない」
「だから取ってあるって言ってるじゃん? いつだって返すよ。条件を一つ聞いてくれたらね」
「断る」
「変わんねえな、その返事。この先一生変わんねえの?」
「変わるかよ」
「あっそ。他に話すことなんかある? 俺この後三時に配車の予定があるんだ。もう行かなきゃなんねえの。また今度ゆっくり話そ」
「しばらく顔も見たくねえよ」
「じゃあ顔が見たくなったら呼んでよ、藤吾さん」
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