第31話 荒業(5)
「あの頃の私は、菖蒲が帰るのを一分一秒、待ち侘びるだけの生活を送っていたわ。雨の日は下校時刻に合わせて、菖蒲を迎えに行くのが常だった。そうせずにはいられなかったのよ。菖蒲がいなくなった日、もし私が学校に傘を届けに行っていたら、菖蒲は無事に帰れたのかもしれない。
だから雨の音を聞くと、傘を届けなくちゃ――、傘を届けなくちゃ――って、そればかり考えて、通学路を学校に向かって歩いたの。あの子の分の傘を持って。
穴守彩芽さんが私の前に現れた日もそう。横殴りの雨が降っていたわ。ざあざあ、ざあざあ。私は雨水が庭土をさらっていくのを眺めながら、家を出る時間になるのを待っていた。
三時十五分に出るとちょうどいいの。時間になって靴を履き、傘を持って玄関を出て――そこまではいつもと同じだった。でも、一つだけ違うことに気付いたの。普段ちゃんと閉じているはずの門の扉が、開いていた。変だとは思ったけれど、あまり気にせず家の鍵を閉めようとした時よ。玄関の脇に座り込んでいる女の子がいたの。
膝を抱えて、頭を膝小僧に置いて、長い黒髪が
菖蒲とは制服も違う。髪型も違う。それでも私は、菖蒲が帰って来たと思ったわ。肩に触れると、彼女は顔を上げて私を見た。憔悴しきった顔。目は落ち窪んで、まるで菖蒲とは似ていない。でも、知っている子だった。菖蒲の友達で、穴守温泉のお嬢さん。
菖蒲から彼女の話は聞いていた。漢字は違うけれど、名前が同じ『あやめ』だということや、彼女の家は墓守で、彼女には普通の人には見えないものが見えるという話。菖蒲から聞いたそんな話を思い出して、私は真実を悟ったの。
私が『お帰りなさい』と言ったら、
彼女は『ただいま』と言ったのよ。
菖蒲はもう、自分の体で家に帰ることが出来ないのね。あの子の魂が、彼女の体を借りて、やっと家に帰って来たんだと思ったわ。墓守の家のあの子なら、人の魂を体に宿すことができてもおかしくないでしょう? もしそうでないのなら、あの日と同じような雨の日に、うちの玄関の前に現れる理由が他にあるかしら。
急いで彼女を家に上げ、乾いたタオルと乾いた服を渡して温かいお風呂を沸かした。私は娘が帰って来た喜びに満ちていた。頬に血の気が戻るのがわかるくらいに。
お風呂が沸くのを待つ間、温かいお茶をいれて、居間で向かい合わせにお茶を飲んだの。次に言葉を発した時、彼女は穴守彩芽さんだった。
『家に、帰りたいと、頼まれて』
誰に頼まれたのか、頼まれてどうしたのか、そんなことは聞かなくてもよかった。私はお礼を言ったの。『送ってくれてありがとう』って。
それから、『おうちの人が心配するから連絡を入れるわね』ってその場を立とうとした。そしたら、彼女がこんなことを言うのよ。とても慎重に言葉を選んで、こんなことを。
『あやちゃんは、お母さんと一緒にいたいと望んでいます。あやちゃんは今、私の体から離れて存在することができません。私も、あの宿には戻りたくないんです。毎晩、生きたまま殺される。帰ったら、あやちゃんまで穢される』
私はその時、知ってしまったの。
あの宿にまつわる噂の真相を。
あの宿で聞こえる声は、幽霊なんかじゃなかった。
凌辱され、苦痛に耐える彼女の声だった。
『あやちゃんの魂は私が守ります。だからお願い。私を隠してくれませんか』
そう言った時、彼女の瞳は震えていたわ。もうこれで駄目なら、生きていけないみたいに。助けて――、助けて――って、そう叫んでいたのよ。
そんな子を前にして、誰が追い帰せるというの?」
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