第18話 思い出したこと(1)
今の段階で出来ることはした。馬田譲は、充足感と疲労が綯い交ぜになった体で、数日ぶりに自宅を目指した。
普段から帰る日には弟に連絡を入れるようにしている。今日も警察署を出る時に電話をかけた。しかし、いつもなら三コール以内に電話に出る弟が、今日は二度電話しても出なかった。『夕食は外で済ませる』とメッセージを入れておいたが、最寄駅に着いた時に確認しても、既読になっていなかった。
自宅のドアを開ける前に、チャイムを鳴らす。
今日まったく連絡が付かない弟と、弟が大事にしている上司のことを考えると、いつものように「ただいま」といきなりドアを開けるのは憚られた。自分であれば、服を着るくらいの時間はほしい。
「馬田さん」
急にドアが開いて、生吹と譲は互いに目を丸くする。
「チャイムが鳴ったから、お客さんかと思いました。お仕事お疲れさまです」
「びっくりしました。こんなに早くドアが開くとは思わなくて」
「え?」
「いや、なんでもないです」
生吹は普段掛けない眼鏡を掛けて、ヘアバンドで前髪を上げている。ついさっきまでパソコンを使っていたのだろう。
「生吹先生もお疲れさまです。蒼は? 具合でも悪いんですか?」
玄関に入り、紺色のダウンジャケットを脱ぎながら聞く。
「体調は悪くないと思いますが、今日は色々あったので、部屋で先に休んでいると思います」
兄として、弟に起きた『色々』の部分を詳しく知りたい気もするが、今はそっとしておいた方がよさそうだ。
ダイニングテーブルの椅子を引き、鞄を置く。いつもなら夕食が用意されているテーブルの上には、新聞の夕刊が置いてあるだけだ。
「生吹先生、夕飯はなにか食べました?」
「いえ。これから何か買って来ようと思って」
「これから? もうこんな時間ですよ? 冷蔵庫に何かないかな」
譲はキッチンの冷蔵庫の扉を開けたり、引き出しを引いては戻し、落胆する。
「すみません。一応食材はあるんですけど、料理しないと食べられない物ばかりです。あ、ビールもないや」
「大丈夫ですよ。コンビニで適当に買いますから」
「じゃあ、俺も一緒に行きますよ。今日はひと山超えたので、ビールが飲みたい気分なんです」
「ついでに買ってきましょうか?」
「先生を一人で外出させたりしたら、明日、蒼に怒られます」
二人は路地を二本越えた大通りに出て、三百メートル先のコンビニまで歩く。この道は赤羽駅に通じるバス通りだが、今の時間帯は『乗車中』の赤い表示を灯したタクシーが往来する。吹きすさぶ寒風は、すぐそこに師走の気配を感じさせた。
「随分冷えますね」
「そうですね。もう十一月も下旬になりますから。ビールと一緒におでんでも買おうかな」
「おでん、いいですね」
「生吹先生」
「はい」
「今日の復顔、ありがとうございました」
「いいえ」
「今回も物凄く正確な復顔でしたね。警察も自信をもって塩野さんの身元を特定できました。感謝してもし尽くせません」
「御礼なら、弟さんに言ってあげてください。と言っても、今日じゃない方がいいかもしれませんが」
「それはどうして?」
交差点の赤信号で止まり、譲が生吹を見て尋ねた。
生吹の口許を綿あめのような白い吐息が覆う。
「あの復顔は、最初から最後まで弟さんの仕事です。私が手を出す必要なんてないくらいに見事な技術で、あれだけの復顔に仕上げてくれました」
「普段、あなたの仕事を見ているからでしょうね。弟を評価してくれてありがとうございます。あいつもやっと自分の腕を認めてくれる人に出会えて幸せですよ」
「でも、私は今回、取り返しのつかないことを。まさか、被害者の方が最近会ったばかりの人だとは思いませんでした」
兄として、弟のことはよく知っているつもりだ。自分と関わった人間が殺されただけでも心を痛めるだろう。見覚えのある人物の復顔なんて、確かにショックで寝込んでもおかしくない。
「先生のせいじゃないですよ。頭蓋骨を一見しただけで誰だか分かる人なんていないでしょ?」
生吹は後悔が抜けきらないまでも、譲の言葉を受けて僅かに微笑んだ。
「まあ、あいつは落ち込みやすいですけど、いつまでも引きずるタイプではないですし、明日になれば元気になりますよ」
「そう願います」
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