第17話 黒岩菖蒲(6)

「馬田、ちょっといいか」


 誰が聞いても明らかに怒っていると分かる声に、周囲の空気が凍り付く。


 そろそろ肩を叩かれる頃だとは思っていた。むしろ、こんなにギリギリまで待ってくれるとは思っていなかった。随分信頼されているのだな、などと危機感のないことを思いながら立ち上がる。少し疲れているのかもしれなかった。


「なんでしょう、警部」


「お前、あと三日でカンオチを狙えるのか」

「申し訳ありません。黒岩菖蒲を三日でカンオチさせるのは無理です」

「お前……、自分が言っている意味を分かっているのか」

 怒りに震える声に、同じ班の部下が青ざめた。

 一方、馬田は飄々と言ってのける。

「黒岩菖蒲をカンオチさせるのは、俺でなくても無理ですよ」

「なに?」

「何故なら、黒岩菖蒲という人物は、二十五年前に姿を消したまま帰っていないからです。留置場にいる被疑者は、恐らく、黒岩菖蒲に背乗はいのりしている別人ですよ」


 警部は苦虫を潰したような顔で言った。


「馬田、お前、あの首切り犯と付き合ううちに、頭がおかしくなったのか? 背乗りっていうのはな、天涯孤独の人間が狙われるものなんだ。家族がいる人間にすり代わっても、すぐにバレる。当然のことだ」


 警部の指摘は正鵠を射ていた。一ノ瀬が『何かが何処かで捻じれている』と言うに留め、背乗りに言及しなかったのは、その前提が引っかかったからだろう。


「確かに普通ではあり得ません。自分の娘が別人とすり替わっていたら、どんな親だって分かります。でも、母親が、娘を失った喪失感を埋めるために、他人の娘を拉致したのだとしたら?」


「拉致――?」


「二十五年前、当時中学生だった黒岩菖蒲は失踪しました。半年後、娘が帰って来たという理由で、黒岩菖蒲の母親が捜索願を取り下げています。そして先日、父親が娘の安否は絶望的だと言ったんです。同じ娘に対して、母親は生存を確認し、父親は死亡を確信している。この場合、警部ならどちらを信じますか」


 言葉に窮する警部を待たずに馬田が続ける。


「俺には、母親が別人を自分の娘として育てたとしか思えません。そして、父親にはその事実を知らせなかった。今日の取り調べで、あの被疑者は塩野武男が亡くなったことを知り、安堵の表情を見せました。母親に対しては言及される度に不安を示し、母親が疑われると不快感を示します。もしかすると彼女は、拉致されたというよりかは、保護されたのかもしれません」


 いつの間にか形勢が入れ替わり、今はまるで、がたいのいいボクサーが二階級下の相手にコーナーを背負わされているかのようだ。警部が苦し紛れに怒りを混ぜて反論する。


「じゃあ、我々が拘留している黒岩菖蒲は一体誰だと言うんだ!? 誰が背乗りしている!? 当然、それも突き止めているんだろうな?」


「黒岩菖蒲の中の人ですか? それは現在捜査中です」

「ふざけるな!!」

「すいません。俺もちょっと疲れてて。言葉が不適切だったことは謝ります」


 警部が憤慨の息を吐く。


「捜査中といっても、まったく闇雲なわけではありませんよ。心当たりならあります。でも、まだ証拠不十分なので。急場しのぎにはなりますが、早急にあの被疑者が黒岩菖蒲ではないことを証明して、逮捕しましょう。それしか三日後の処分保留釈放を避けられそうにありません」


 それを聞いた取調補佐官が、やっと合点がいったというように口を開く。

「ああ、それで馬田さん、あと二週間くらいで落としたいとか言ってたんですね」

 補佐官の隣の新人が、釣られて疑問を口にした。

「あれ? 馬田さんが言うことが本当なら、あの被疑者は身分が分からないってことですよね? 氏名が分からなくても逮捕って出来るんですか?」


 こんな時にそんな質問をするなんて馬鹿だなあ、と哀れみの空気が流れ、周囲は警部の怒号に備えた。


「刑事訴訟法64条2項! 『被告人の氏名が明らかでないときは、人相、体格その他被告人を特定するに足りる事項で被告人を指示することができる』 奥山! お前も刑事だろ! ちゃんと勉強しておけ!!」


 恐怖に慄く新人を残して、警部は腹立たしそうに自分のデスクに戻った。馬田は嘆息して腰を下ろす。


「ごめんね、奥山君。とんだとばっちりだったな」

 馬田が両手を合わせ、補佐官が新人の背中を叩く。

「馬田さんの代わりに警部の怒りを買ってあげるなんてえらいぞ、奥山!」

「俺、そんなつもりじゃなかったんですけど」

 意気消沈する小柄な部下を、馬田も可哀そうに思う。

「悪いな。あとでしるこでも奢ってやる。お前、甘いの好きだろ」

「ありがとうございます」


 馬田の突飛な提案に対して、あの場面で警部がそれで行こうなどと口が裂けても言えるはずがない。そこに部下のしょうもない質問が飛んできた。警部はそれを思いきり打ち返すことで議論をすり替え、馬田の提案を暗黙に了承したのだ。


「それじゃあ、科捜研にDNA鑑定の要請を出してくれないか?」

「えっと、誰のですか?」

「黒岩菖蒲、黒岩しのぶ、塩野武男の三名だ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る