第20話 黒岩菖蒲(5)
一課に戻った馬田に視線が集中した。拘留期限を三日後に控え、黒岩の口が割れたかどうか、気になって当然だろう。
「お疲れっす」
ありきたりな一言で、今日も進展がないことを悟り、各々落胆や焦りの表情を浮かべて自分達の仕事に戻る。周りが胃を痛めるような状況にありながら、取調官馬田譲はいたって健康そうに見える。ただの楽天家なのか、何か秘策でもあるのか、後者だと信じたいというのが同僚の思いだ。
馬田は自分のデスクに戻るなり、胸ポケットから手帳を引き抜いてボールペンを走らせた。今回の聴取で得た情報を自分用に書き記す。
黒岩は取り調べ中、努めて表情を消しているが、毎日顔を突き合わせている取調官だからこそ読み取れる、微妙な変化があった。既に馬田は、黒岩の咄嗟の感情が、瞼と眼球の動きに現れること、感情が大きく揺らいだ時には、肩や唇、呼吸にも変化が認められることを把握している。
今回の取り調べで黒岩が新たに見せた反応は、驚きと委縮。
塩野の写真を見せたとき、敢えて復顔の写真も見えるようにして、驚きの表情を引き出そうと試みた。狙い通り、黒岩の瞼が僅かに開いた。あれが彼女の驚きの表情なのだと記憶した。
父親が亡くなったと知った時は、目尻から緊張が解け、小さく息を吐いた。黒岩はそうやって安堵を示す。しかし、殺されたと知ると再び瞼を開き、肩を強張らせた。興味深いことに、遺体が隠蔽されていなかったと知ると、両側の肩を中央に寄せた。その様子は、委縮していると捉えるのが妥当に見えた。
穴守温泉の名前には比較的強い動揺を示した。瞬きが増え、瞳が幾度か動いた。最奥の少女の話題に触れた時は、唇を引き結んで頬を硬くした。これまでで一番大きな反応と言っていい。但し、三十年という数字に対しては正確な年月を確認する必要がありそうだ。数字を聞いたとき、瞳が右下に動いて、瞼を下ろした。その仕草は、数を勘定して冷静さを取り戻した、とも取れる反応だった。以降、幽霊がいるいないの話を聞く間、表情は変わらなかった。
最後に母親の話題。黒岩は、母親の話題になると素人でも分かるくらいに緊張を示す。過去の写真を一切持たず、必要以外の外出をせず、この世にいないかのように生活していた黒岩が、入院先の母親を見舞うことだけは欠かさなかった。黒岩にとって母親が特別な存在であることは間違いない。母親を庇っているのではと思えるような素振りも、これまでに何度か見せている。が、母親の殺人への関与を問うと、焦りや動揺ではなく不快感を示す。
まだ分からないことも残っているが、今回の聴取は、全体として馬田の個人的な推理を補強する結果となった。いい調子だと思い、手帳を閉じた瞬間、馬田の上から覆い被さるように立つ者の姿があった。
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