第19話 黒岩菖蒲(4)
馬田が取調室に入ると、黒岩は既に奥の席についていた。腰縄がパイプ椅子に繋がれ、手錠は一旦外されて、同じくパイプ椅子に繋がれている。若い女性の補佐官も入室済みで、隅の椅子に座っていた。
「黒岩さん、お待たせしました。午後もよろしくお願いします」
馬田はいつものように気さくな雰囲気で部屋に入り、ノートパソコンと資料のファイルをデスクに置いて、黒岩の前に座る。
一日に二度行われる事情聴取。
黒岩は午前中、髪を下ろしていたが、今は一本にまとめている。髪を結ぶと、右瞼に深く切った傷跡が見える。数回の取り調べを経て、その傷はどうしたのかと何気なく尋ねてみたが、答えを聞くことはなかった。
今、黒岩は、膝に置いた手を見つめている。
「もう聞き飽きたことだとは思うんですけど、お伝えします。黒岩菖蒲さん、あなたには黙秘権があります。取り調べでは、言いたくないことは言わなくて構いません。でも、言いたいことがあったら何でも言ってください。……と言っても、あなたはきっと何も話してくれないでしょうから、今回もまた、私の話を聞いていてください。途中で間違っていたり、気に障るようなことがあれば、遮ってくださって構いません」
まるで蛇口を捻れば水が出るかのように、馬田が口を開いて決まり文句を暗唱する。黒岩は聞いているのかいないのか、恐らくバケツの水を頭から浴びせても、同じ姿勢を崩さなかっただろう。これもいつもと同じ。この後、馬田が一人で話し、黒岩が黙秘を貫く。それもいつもと同じだろう。
「申し上げにくいのですが、あなたに悲しいお知らせがあります」
「あなたのお父さん、塩野武男さんが亡くなりました」
「一週間ほど前、寄居町にある古屋敷で身元不明の遺体が発見されました。あまり詳しくはお伝えするのを控えますが、何者かに殺されたのです。遺体は隠ぺいされることもなく、居間に倒れていました。詳細は控えますが、惨い死だったことだけお伝えしておきます。司法解剖のあと復顔が成され、先程、あなたの父親の塩野武男さんだと判明しました。心からお悔やみを申し上げます」
黙祷を捧げた後で、馬田がゆっくりと話を続ける。
「お父さんとの思い出、何かありますか?」
「と言っても、物覚えが付く前に繋がりが途絶えてしまったんですよね」
「でも、お金だけはちゃんと送ってくれていた。それも、取り決めた金額よりも多めに。先日、お母さんにお会いした時に伺いました。お父さんは離れていても、あなたのことを心配していたんですね」
「最後に撮られたお父さんの写真、ご覧になりますか?」
馬田はファイルから二枚の写真を取り出した。一枚は穴守温泉で撮った写真、もう一枚は復顔の写真。二枚のうち、最初の一枚を黒岩の前に差し出す。
「いい笑顔でしょう。随分話し好きの方だったようですね。実は亡くなる直前に、私の弟が偶然お父さんに会って、地元にまつわる話を色々聞かせてもらったそうです。ああ、嘘に聴こえると思いますけど、本当の話ですよ? この写真も、その時に撮ったものだそうです。黒岩さんのご家庭は、あまり写真を撮らないようですから、この写真が最近撮られたものだということだけでも、信じてもらえるといいんですが」
「場所は、穴守温泉です。黒岩さんは行ったことありますか? 地元では親しまれている温泉だそうですね。菖蒲湯が有名で、幽霊が出るという噂もあるとかで、普通なら客が減りそうなものを、怖いもの見たさというのでしょうか、逆に客を呼んでいるというような話も耳にしました。黒岩さんは聞いたことがありますか? 『最奥の少女』っていう幽霊話」
「こんな話だそうですよ。穴守温泉には客を泊めない部屋があり、そこに少女の幽霊が住みついている。少女の幽霊は、三十年前に姿を一度見せたきり、再び姿を見た人はいないそうです。でも、一度でも見てしまったら、祟られそうですね。当時目撃した人は大丈夫だったんでしょうか」
「あ。刑事はオカルト話を信じないって思ってます? テレビで探偵がよく言ってますからね。『俺は幽霊なんて信じない、いてたまるか』って。でも、実際はそんなことないですよ? 少なくとも私は苦手です。だって、人間と違って、手錠がかけられないし、警棒も効かなければ、銃だって役に立たないじゃないですか。それに、殺人事件を担当していると、それ以外に考えられないような現象にも遭遇することがあるんですよ。遺体の写真に変なものが映っていたり。黒岩さんは幽霊とか信じますか?」
「信じない……かな? すみませんね。興味のない話だったでしょうか」
「そうだ、最後に一つだけ」
「お母さんのしのぶさん、まだ入院されています。ご心配でしょう。あなたが防犯カメラに映るリスクを冒しても会いに行っていたくらいですから。しかし、心の病というのは、外からでは分からないものですね。お会いした時にはお元気そうで、気品がありながら柔らかい眼差しが印象的だと思いました。しのぶさんが倒れられたのは、あなたのアパートで見つかった被害者二名の死亡推定時刻よりも後のことだそうで」
「もしかして、しのぶさんは当時、現場に居合わせた、というようなことはありませんでしたか?」
「…………。ありがとうございました。今日はこれで取り調べを終わります。供述調書を仕上げるので少し待ってください」
馬田は、話しながらパソコンで入力していた箇条書きのメモを文章にして供述調書を作成し、プリントアウトしてサインを求めた。
調書の内容は、馬田のとりとめのない世間話と黒岩の黙秘。
これまでと変わらない供述調書だった。
「お疲れさまでした。また明日。ここの飯はうまくはないでしょうが、ちゃんと食べて、睡眠を取ってくださいね」
馬田が立ち上がったのを切っ掛けに、留置場の担当者が入室し、黒岩は手錠を両手首に戻された。腰縄がパイプ椅子から解かれて、担当者の手に握られる。黒岩が連れて行かれるのを見届けながら、馬田と補佐官が取調室のドアを閉めた。
そこで初めて、二人は口をきいた。
「馬田さんが幽霊を信じているなんて話、初めて知りました」
まだ二十代の補佐官は、ミディアムのストレートヘアを耳の後ろに掛けて拗ねたように言う。
はは、と馬田は小さく笑い、
「俺、幽霊は信じない派ですよ」と誤解を正す。
「でもさっき」
「あれは事情聴取。相手の反応を見るための作り話です」
補佐官は騙されたことに頬を膨らませて、八つ当たりするかのように言った。
「でも、また無反応でしたね、黒岩菖蒲。初回からずっと、何の手掛かりも得られていないように思うんですけど。やっぱり馬田さんでも、黒岩は落とせませんか」
「それはどうかな。見てませんでした? 彼女、今回はことのほか、多くを答えてくれましたよ。とても参考になりました。できれば、あと二週間くらいで落としたいです」
「え……?」
「それじゃ、俺は自分の班に戻りますね」
呆気に取られた補佐官を残して、馬田はその場を後にする。
「ちょっと、馬田さん!」
声を掛けるのが一歩遅かった。
「もう。同じ一課なんだから、一緒に戻ってくれたっていいのに」
補佐官は肩を落としてつぶやいた。
「っていうか、あと二週間って。それじゃ遅すぎます。黒岩の拘留期限は三日後なんですよ?」
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